歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 街道散歩(第三歩)

 2020年10月14日は、3か月振りに街道へ復帰。

南千住から竹の塚駅入り口まで歩いた。

はや1週間が過ぎ、カミさんの内職も手すきになった21日、

お天気はよさそうだから行ちゃおうかで、のんき夫婦はお散歩街道へ。

2020年10月21日(水) 街道散歩の第三歩。

前回と同じ時間のバス、電車を乗り継ぎ乗換駅の新越谷駅へ。

まずは駅中のカフェで朝のコーヒータイムを採り、東武線へ乗り換えて

AM10:20時竹ノ塚駅へ。

AM10:30 駅前で出立ショットを写して、街道へと向かいます。

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むかし55年ほど前に一度だけ来たことがあった竹ノ塚。

左右に都営住宅、旧公団住宅の5階建てアパート群が並ぶ通りを東へ進み、

「来た頃は大規模団地の走りっだった・・・」

「なんだか歩いてるのは我々と同じくらいの方が多いね~」

「団地はエレベーターがなさそうのが多い、年寄りはかえってか足腰が丈夫?」

なってキョロキョロおしゃべりして歩いてたら、あれ、国道4号へ出ちゃったぞ!

なんと400mも通り過ぎていたんだ・・・先が思いやられるね・・・

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ちょうど通りかかった自転車巡察中のおまわりさんにお聞きしたら、

次の交差点のすぐ先を斜め左へ行けばいいと教えてもらい、戻らずに先へ。

教えていただいた横道を行くと突き当たった道に左手に目的の神社があった。

ありがとうございました。

突き当たったこの道は保木間町で、街道書では日光街道から保木間小学校裏手側を

通り、千葉県流山市へ続いた、江戸の昔から流山道と呼ばれた古道だそうです。

先左手に保木間氷川神社があり、案内文は、

この神社は旧保木間村の鎮守で、淵江領を支配の千葉氏の陣屋跡。

守護神の天神社を祀り、祭神として、須佐之男命、豊受姫命菅原道真を祀る。

当社の創建は明らかではないが、中世この地は関東の豪族千葉氏の陣屋跡と伝えられ、

江戸時代、保木間・竹塚・伊興三村の鎮守は、もと伊興氷川社で、明治の初め当社も

そこに合祀されたが明治5年分離して、社名を氷川神社と改め保木間村の鎮守となった。
保木間の地名は、平安期末に西国の武士が木の柵を設け、田畑を起こしたことによる。

またこの地域では、古墳時代の土師器や鎌倉期以降の板碑などが多く出土している。
(平成元年1月 足立区教育委員会

 

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二の鳥居は大変古るそうでした。

造立年月日が彫られていたが風化して判別できず、〇徳年の文字がわずかに読み

取れました。

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拝殿、ご本殿。

本殿裏に祀られてる榛名神社富士塚ではないようです)

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ユニークな狛犬

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脇宮の疱瘡大神は天然痘に霊感あらたかという、と記されてます。

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脇宮の隣に天宇受売命 (あめのうずめのみこと)像が祀られてました。

天岩戸の前で踊りを踊った命ですね。

以来芸能 ・習い事及び水商売の神として広く信仰を集め、特に芸能関係や婦人病にも

御利益があるといわれ敬われていいるそうです。

像が建てられてるのは珍しいかな?

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神社前を通る細い道は「流山道」の説明版が立っていて、

「本説明版の前(保木間氷川神社前)を東西に走る小道は、江戸の昔から流山道と

 呼ばれた古道である。

 保木間日光道中からわかれ、南花畑、内匠橋、六木を経て流山に向かう。

 戦国時代の武士・千葉氏の陣屋があったと伝えられていることから、道の成立は

 戦国時代以前にさかのぼると考えられる。

 この道を東進すると花畑大鷲神社成田山と結んでおり、西に進むと

 西新井大師総持寺に通じる親交の道でもあり、ここから太子堂・成田道という

 別称もある。

 なお沿道には保木間の旧家の多くもこの道に沿って建っており、地域の歴史を

今に伝える。」(足立区教育委員会

と記されている。 

 神社を後に保木間小学校脇を通り約30分のロスをして、ようやく旧街道へ戻って

きました。

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街道の左手奥の正面に見えるお堂は十三仏堂で、街道書には

行基作と伝わる虚空蔵菩薩を安置している。

厨子内の飯綱権現像は、幕末-明治時代の仏師,彫刻家、高村東雲の

明治6年(1873年)の作、とある。

左手の小さなお堂については案内板にも記載なく不明。

お堂内が暗く仏像は全く見ることはできなかった。

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500mくらい先で一旦斜め右に入り弓なりに200mほどで都道に戻る。

すぐに、「法華寺」があり境内に「百度石」が置かれ、無縁塔が建ってる。

この寺院は、小塚原刑場の刑死者の菩提を弔っていた。

天保6年(1835)の起立。安政3年(1856)の暴風雨、大津波(?)で大破したが、

元治元年(1864)に中興15世玉真院日琢が小塚原法華庵として再建。

江戸時代に小塚原刑場の死刑囚の菩提を弔う寺であった。
 大正12年市電設置により赤羽岩淵に移転し、15年に陸軍砲兵工廠設立のため現在地に移転した。昭和22年に法華庵を現寺号に改称した。

(寺縁起より)

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本堂前に枝先の花黄色みを持った変わったモミジ(カエデ?)を見つけた。

まだ青々とした色合いだが紅葉、黄葉はするのかな?

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さらに進んで国道4号の高架下を過ぎたすぐ左手に、退治された蛇を祀ったという

水上宮があり、その先で国道4号から分岐してきた都道に合流し、

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左手すぐが毛長川で水上神橋が架かり、東京都から埼玉県へと入り県道49号となる。

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しばらく行くと東武鉄道谷塚駅入り口交差点で、富士(瀬崎)浅間神社があり、

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神社はこのあたり瀬崎村の総鎮守で天保13年(1842年)の再建である。

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本殿裏手に庭園と富士塚がった。

江戸時代に盛んになった霊山富士山に対する信仰の方便として、各地に造られたという富士塚が築かれている。

一般に地域における富士山信仰の集まりは「冨士講」と呼ばれるが、この辺りの

瀬崎村では「冨士行」といい、この富士塚は大正5年(1916年)竣工

と新しいものである。

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先隣りが真言宗・善福寺で山門前に元禄4年(1691年)と正徳3年(1713年)

建立という青面金剛庚申塔が建ち、

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境内には元禄4年(1691年)造立という大変古い六地蔵があり、

江戸時代やそれ以前と思われる年号が刻まれた、時代を感じさせる墓石などもあった。

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10分ばかり歩くと「火あぶり地蔵尊」がある。

奉公中の娘に母危篤の知らせが届き、主(あるじ)に暇を願い出たが許されなかった。娘は、家が火事になれば店が休みになり家に帰れると思い込み放火をしてしまう。

捕らえられた娘は、火あぶりの刑となった。哀れに思った村人たちは娘の供養のため

地蔵を祀ったとの言い伝えがある。

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 お堂脇の石塔は街道書では、弘化5年(1848年)建立の馬頭観音とある。 

f:id:hansui:20201022132358j:plain地蔵尊から10分ほど、「せんべい」の看板が増え始めた

写真左の草加煎餅のいけだ屋は、旧日光街道を挟んで反対側に 「おうめだんご」

という屋号で茶店を営み、煎餅屋としての創業は江戸末期の慶応元年(1865年)

からとのこと

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先に二股で、右手の角に「今様草加宿」の碑があり、街道は草加宿へと入った。

草加市では「住んでよく、来てみて楽しいまちづくり」をコンセプトとする

「今様・草加宿」事業推進計画を、平成17年度に策定し事業を進めたそうです。

 

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(ただ残念ながら日本橋からもですが、史跡、旧跡、名所への案内標識(矢印標識)

がほとんどないんですね。可能な限り詳しい街道書や現代IC機器などで確認が

必要です)

左手の埼玉屋旅館を過ぎて、草加市役所(工事中)があり入口に地蔵堂が祀られて

いる。  街道書によると、

市役所の広い敷地は幕末から明治にかけての豪商大和屋跡。主の浅古半兵衛は

江戸店をだし、全国二位の質屋を営んでいた。地蔵堂には大和屋敷地内にあった

もので、「子育て地蔵菩薩立像」を安置している、とある。

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古くて趣のある建物が残る通りを行き、右手に飯盛女の墓が有ると街道書にある、

元禄14年(1701年)創建の浄土宗・回光院を見ながら行くと

 

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先には、「草加神社社票」が立っている。

寄りませんでしたが、草加神社はここから西に進み東武スカイツリーラインを越えた

先にあり、旧称氷川神社

街道書には、

武蔵一の宮大宮氷川神社から分霊し南草加村の鎮守としたことに始まる。
1909年(明治42年草加の町にある11社を合祀したことに伴い草加神社と社号を

改称し、本殿は市指定文化財、だそうです。

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100mほど先の草加駅入り口の交差点角には、植え込みに隠されて、

正面に日光街道、側面に葛西道と刻れた道標があり、

 右手に入って左手小路奥に、火伏盗賊除け守護神という三峰神社が祀られていた。

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交差点向こう角には、大正8年に公布された道路法施行令で設置が義務づけられ、

埼玉県が設置したと思われる「草加町道路元票」「埼玉県」と刻まれた

「道路元票」が置かれている。

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日光街道・第2宿 草加宿中心街へ入る。

天保14年(1843年)日光道中宿村大概帳によ 

千住宿より二里八町、約8.8km 本陣1、脇本陣1、旅籠六十七軒、

宿内家数二千三百七十軒、宿内人口三千六百十九人

旅籠数からみても、にぎわった宿場町だったようです。

 

近世初頭、江戸と奥州各地とをつなぐ街道は、千住から越ヶ谷まで河川に沿って大きく迂回をしていましたが、交通量の増加によって幕府は千住・越ヶ谷間を最短で結ぶ新道を整備し、その中間に近隣の村々からなる新しい宿の設置を命じたのが草加宿の

はじまりです。また、このとき整備された街道が日光道中です。

一説には慶長11年(1606年)、宿篠葉村(しゅくしのはむら)の大川図書という

人物が刈り束ねた草を土につき固めて街道を造ったのが、日光道中草加宿の始まりともいわれてもいます。

寛永7年(1630年)、幕府の公認を受け正式に伝馬宿(てんましゅく)と認められた草加宿は、その後参勤交代(さんきんこうたい)や日光社参、さらには一般旅人の往来もあって大きな賑わいをみせるようになりました。
元禄2年(1689年)には松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅で草加宿に歩みを残したのをはじめ、伊能忠敬渡辺崋山など多くの文人らの通行によって、「街道文化」ともいえる独特な文化を創り出していきました。
また、綾瀬川・中川などの河川は、周辺の村々で生産された農産物を江戸に運ぶことにも活用され、荷積み・荷揚げに用いられた河岸(かし)もにぎわうようになっていきました。
その後宿場北端の街道沿いには松が植樹され、それはやがて街道を行き交う旅人に草加松原として知られるようになりました。

草加市HPより)

 

天明4年(1784年)と明治3年(1870年)の二度にわたる大火で宿場の

家並みは焼失してしまったため、往時の草加宿を偲ぶ建物などその面影は

残されていないです。

先に進むと右手に八幡神社がある。

草加宿下三町の鎮守え、獅子頭一対は市の有形文化財に指定されている。

この雌雄一対の獅子頭は、高さ83cm、幅80cm、奥行87cmもあり、

大型で重量もあり、獅子の胴衣をつける穴もなく、獅子頭として山車に乗せて曳き

神幸に供奉したといわれる(獅子頭フォットは借用です)

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大きな獅子頭といえば、何回か祭りに行った茨城県石岡市の荷車幌付き獅子頭

思いだしますね。これより大きな獅子頭も舞っていたな・・

(石岡の獅子頭

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八幡神社のすぐ隣に藤代家住宅がある。

草加宿の典型的な町屋景観を今に伝え、街道に面して木造二階建ての住宅店舗で、

建物は昭和初期の商家造りの建物で、1階を店舗とした2階建てで、間口は狭く、

奥行の深い町屋造りの面影を残している。奥には、土蔵造りの内蔵、

明治初期に建築された外蔵が残っていて、国登録の有形文化財に指定されている。 

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その先が問屋場跡で明治44年建立の道路元票が立っている(写真右)。

元票の表には「千住町へ貮里拾七町五三間三尺・越谷町へ壱里三拾三町三拾間三尺」、左側面には「距 浦和町元帳四里貮拾町拾三間三尺・距 栗橋官かつ境拾里拾三間五尺」、右側面には「谷塚村官かつ境貮拾四町貮間三尺」と彫られている。

道路を挟んだ向かいには「三丁目橋」と刻まれた石は、街道書によれば、

草加宿の日光街道には3つの橋が架かっていて、三丁目橋はその内の一つで、

その残ってる親柱石だそうな。

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先へ行くと、左手マンション前に「大川本陣跡」、右手に「清水本陣跡」の碑が

立っている。

説明板によると、

大川本陣は宝暦年間(1751-63)まで本陣を務め、

清水本陣がその後本陣職を譲り受け、明治初期まで本陣を務めた。

清水本陣には、会津藩の松平容頌、仙台藩伊達綱村盛岡藩の南部利視、

米沢藩の上杉治憲(鷹山)らが休泊した記録があります。
近くに脇本陣も置かれ、参勤交代の往復にその役割を発揮しました。
本陣は、門、玄関、上段の間がある所が一般の旅籠と異なり、昭和初期には

まだ塀の一部が残っていたと伝えられています。

当主は、名主や宿役人などを兼帯していました。

(「今様・草加宿」市民推進会議)とある。

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しばらく行くと道路の左奥に、慶長11年(1606年)草加宿の開祖・大川図書

の創建という、主祭神は素盞嗚尊の氷川神社がある。

旧南草加村渋沼の鎮守であったが、明治42年(1909)頃、小学校敷地の拡張に伴い

此の地に遷宮された由。

f:id:hansui:20201022162503j:plain右道路向かいに「おせん茶屋」と名付けられた公園があり、茶屋を模した東屋前に

日光街道碑が建っている。公園の名前は、草加せんべいの伝説上の創始者 「おせんさん」 に因むという。

おせんさんは、草加せんべいの生みの親で、茶屋を営むおせんさんが売れ残った

団子をつぶして天日に干し、焼くといいと教えたのが「草加せんべい」の由来だ

そうだ。 

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草加煎餅を知ったのは高学年なってからだったですね。

故郷北海道で煎餅と言えば小麦粉の「南部センベイ」だった。

お米を原料とした硬い系の煎餅は、しばらく馴染まなかったような気がする。

f:id:hansui:20201022162719j:plainおせん茶屋公園から4~5軒先左手に、元祖源兵衛せんべいがある。
明治3年(1870年)に初代の源兵衛氏が新潟から草加に移り住み、

日光街道を往来する旅人に茶店を開いて日用品を売り始め、副業として

せんべいを焼き始めたのが始まりという。

店先に鮮やかな色合いで咲いていた、黄色のハイビスカス。 

カミさんが、いい色あい、家にもほしい・・・

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左手50mほど奥に、慶長11年(1606年)、草加宿開祖大川図書の創建し、

墓のある東福寺を見送り、

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安政年間(1854~1860)の建築とされ、安政2年の江戸大地震や明治3年の

大火も免れ、草加宿内では古い形式を伝える町屋建築旧久野家。

現在は旧久野家の店舗を再利用した無料の「休憩所草加宿神明庵」。

 

f:id:hansui:20201022170105j:plainそして神明庵の先の道が右カーブしたところに、神明宮がある。

与左衛門新田の名主吉十郎の祖先が、元和元年(1615年)に、宅地内に

屋敷神として創建されたご神体を、正徳3年(1713年)に現在地へ遷され、

草加宿の総鎮守となったといい、現在の社殿は弘化4年(1847)に再建されたもの。

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その先の県道49号との合流交差点、左手の小公園はおせん公園で、

草加せんべい発祥の地」と刻まれた大きな石碑が立ち、おせん茶屋公園と同じく、

草加せんべいの伝説上の創始者 「おせんさん」 からきている。

おせんは草加宿で茶屋を営む女店主で、「売れ残った団子はつぶして天日に干して

焼くといい」と教えられ、焼き餅として売り出すと大評判となり、草加宿の名物に

なったという。

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  交差点右手には芭蕉の門人で

奥の細道随行し「曽良旅日記」の著者である河合曽良の像が建っている。

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 交差点を左折してすぐに伝右川に架かる橋を渡って右側は、綾瀬川沿いの

札場河岸公園で、草加松原遊歩道の入口でもある。

 札場河岸公園には、木造五画形の望楼が復元されている。
望楼の上に見張りを置いて、火事の発見に努めていたそうだ。

望楼のすぐ横に、奥の細道に旅立ち、同行の河合曽良を気遣って振り返るとの

説がある、芭蕉の像が立つ。

 

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奥の細道」は草加から日光、白河の関から松島、平泉、象潟、出雲崎、金沢、敦賀と東北・北陸の名所旧跡をめぐり、美濃大垣に至る600里(2400Km)、150日間の壮大なものでした。
その奥の細道によると、芭蕉は荷物の重さに苦しみながら草加宿にたどり着いたらしいです。

そこには「札場河岸跡」も復元されている。

札場屋・野口甚左衛門の個人所有の河岸で江戸との舟便が盛んであった

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公園は草加松原遊歩道の起点になっている。

綾瀬川に沿った遊歩道は江戸の昔は「千本松原」とも呼ばれ、

日光街道の名所だったそうで、 昭和40年代に200本まで減少したものを

市民の力で再生し、現在は綾瀬川沿いの約1.5Kmに600本の松が植えられ、遊歩道と

して整備されている。

 

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 日本の道百選・日光街道と彫られた大きな石碑も置かれている。

この碑は、埼玉県の県土を縮尺37,000分の1で形どり表現してる由。

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すぐ先には「矢立橋」とかかれた太鼓橋がある。これは「奥の細道」の一説

「-行く春や鳥啼き魚の目は泪―是を矢立の初めとして、行く道なをすすまず」に

因んで命名された。

矢立(やたて)とは江戸時代の筆記用具で、筆と墨壺を組み合わせているので、

旅行中でも即座に筆が使える携帯筆記用具。

子供の頃に家にはあった記憶がある。

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歩道に沿って流れる綾瀬川は大雨のたびに川筋を変える所から「あやし川」と呼ばれていたが伊能忠次によって堤が整備され川筋が安定した。

綾瀬川は、やがて隅田川に出会い江戸に通じる重要な水路であった。

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遊歩道の松並木は天和三年(1683)関東郡代・伊部半右衛門が植栽したもので当時は「千本松原」と呼ばれた名所であった。

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 綾瀬川を渡るハープ橋、

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過ぎてすぐに名勝碑が置かれている。

この碑は、「名勝 おくのほそ道の風景地 草加松原」 と刻まれており、草加市

ゆかりの深い日本文学研究者で文化勲章受章者のドナルド・キーン氏の揮毫による

もので、碑の手前には、おくのほそ道行程図が刻まれたプレートもある。

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その先、「百代橋」と名付けられた「矢立橋」と同じような太鼓橋がある。

その手前に「橋名由来・月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人也」と芭蕉奥の細道碑が置かれている。

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太鼓橋の上から西を望めば、東武スカイツリー線・獨協大学前駅

かっては草加松原駅と言っていた。

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 続いて「松尾芭蕉文学碑・ことし元禄二とせにや・・・・其日漸(その日ようよう早加(草加)と云う宿にたどり着きにけり」と奥の細道の一説の碑が置かれている。

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 子供も水遊び出来そうな浅い小川の流れがあり、先に綾瀬川を渡る

東京外環自動車道の高架が見えてくる。

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少し歩むと草加松原北端の標識が現れる。

つい最近新たに建て直されたようで、かっては草加宿入口に建っていたものと同じ

「今様草加宿碑」が建っていた由。

札場河岸から1.5kmの標識も立てられ、風情ある街道松並木を後にする。

f:id:hansui:20201023052958j:plain名残惜し気に振り返りの草加松原

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やがて東京外環道に突き当り外環道の下をくぐり、そのまま綾瀬川沿いに日光街道

直進する。

外環道手前左手の祠に、水神、青面金剛庚申塔、寛政7年(1795年)建立と

伝わる、馬頭観世音像(右)が安置されていた。

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そこで気が付いた。

草加松並木が終わって続いていたのは桜並木だった。

帰宅後調べると平成6年に植栽されたまだ若い桜並木でした。

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ガードを抜けると左手壁面に、「やっとの思いで草加宿にたどり着いた芭蕉

曽良の旅姿」というタイル絵が描かれていた。

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そのままかっては茶店などが立ち並んでいたといわれる」綾瀬川沿い茶屋通りを

槐土橋(さいかちどはし)を過ぎて日光街道は直進する。 

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 その先左手に「金明愛宕神社」があり、さらに先へ行くと江戸時代には土橋であった

綾瀬川に架かる蒲生大橋を渡る。 

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草加と蒲生との境橋

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 蒲生大橋の渡り詰め右手に「蒲生の一里塚跡」がある。
往時は街道の東西に一基づつ設けられていたと云われるが、現在は東側の一基だけが

残っている。

埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚であるという。

ここには文化年間(1804-18)幕府が編さんした 「五街道分間延絵図」 に記されていた愛宕社、六地蔵尊(地蔵は8体あったが)などがある。

木立の低地で一里塚の盛り上がったイメージではなく、表示がなければ・・・・

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橋を渡って道なりに交通量の多い道を少し進んだが、カミさんが

「街道書ではこの道ではなさそう、橋を渡ってすぐは川沿いに少し進むようだわ」

といいだし、確かに間違っていたようだ。

日光道中は方向指示や案内標識が全く無い、と多くの旅文にもあるが、

本当にないんですよね。

一里塚から先はこれということもなく綾瀬川に沿って進み、先のY字路で川沿いの

道を離れて直進していく。  

札場河岸公園から続いていた綾瀬川とお別れし、かつては日光街道を往来する旅人や、藤助河岸から船頭達が集まり賑わった茶屋が、軒を連ねる立場があった、

という蒲生茶屋通りをたんたんと歩きます。

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しばらく行くと享保十三年(1728)建立の不動明王が祀られている。

台座には「是よりさがミ道」と刻まれた大聖寺(大相模不動)への道標を兼ねている。

並んで正徳三年(1713)建立の笠付青面金剛庚申塔が祀られている。

ここから日光街道を右に分岐する道は、越谷市相模町にある大聖寺大相模不動尊)への道で、大聖寺は不動坊が天平勝宝2年(750)に開基したと云われる古刹という。

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次の角に自販機があり、水分補給で一休み。

過ぎて気が付いたが、街道書には先左手に覆屋に安置された「ぎょうだい様」がある

と記されてたが、通り過ぎてしまったようだ。
鳥のようなかっぱのような、なんとも不思議な形をしているという。

「砂利道供養」 と刻まれていて、宝暦7年(1757)に日光街道の大きな修理があり、

修理の完成を記念して蒲生の人びとが建てたものだという。

道中の安全を願って草鞋を供えて祈ったという。

不動明王道標から15分ばかり行くと立派な冠木門を持つ清蔵院がある。

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越谷市有形文化財に指定されている山門は屋根など一部は改修されているが、

案内板には、

寛永15年(1638年)に関西の工匠によって建てられたものである。

山門の欄間に掲げられた龍の彫刻は江戸時代初期のもので、一説には日光東照宮

眠り猫で有名な左甚五郎作との伝説があり、龍が夜な夜な山門を抜け出して周辺の畑を荒らしたことから、これを金網で囲んでしまった。とあり、

山門を見上げると、確かに龍の彫刻は今も金網で覆われている。

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 やがて街道の蒲生茶屋通りは県道49号(旧国道)に合流し、車の流れも多い通りを

北へ進みます・

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蒲生駅入り口交差点手前左手に、街道書に「明治天皇田植御覧處碑」とある一角があった。明治9年奥州巡行の折り田植えをご覧になったところだそうです。

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蒲生駅入り口を過ぎて、たんたんと歩くこと約1km、20分ほどで、

今朝、JR武蔵野線から東武スカイツリー線へ乗り換えた新越谷、南越谷駅入り口。

時刻も夕暮れ近しの4:20.

竹ノ塚から約11km約4里弱、今日の街道散歩は足止めとし、家路へ。

綺麗な三日月を見上げながらPM5:30帰宅。

今日もまずは元気に歩けたこと、ありがたし。

さあて、この後のお天気はどうかな・・・第3回終わります。

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