日光道中二十一次 第14歩 (一日目)

庭の花などを見ながら、一里塚から 1kmほど行った頃、カミさんが左足に

痛みを感じると言う。

以前にも同じ症状が出て通院したが、はっきりしたことはわからなかったことが

あった。

そうなれば暑さもあるし無理は禁物、調べるとすぐ先に弁天橋バス停がある。

一旦車道帯に降りて、釜川にかかる弁天橋を渡り、少し先の交差点で右てへ渡り、

バス停へ。

10月1日、まだ日も高く7kmほどの歩き旅だったが、

第13歩、今日の旅は終わりに。

日光街道旅も残すところ約30余km。
我々の旅の歩きでは、日帰りではあと3回の日程。

11,12月は諸々あって出かけられないので。10月中に街道旅を完歩しようと、

第14歩は1泊旅にして再び旅へ。

天気予報と睨めっこして、10月21日に早朝電車で宇都宮へ。

バスを乗り継ぎ、

10月21日 AM10:15、前回終了の弁天橋バス停から第14歩の旅を再開。

気温が上がり服装の調整をして、心地よい秋晴れの街道旅。

見上げるッ道端の柿の木、大きな柿だね~

 

500m程行くと左手に、多くの旅文に竜宮門と書かれてる鐘楼門がある。

徳川将軍が日光参詣時の休息所となったという「宝珠山玉塔院光明寺」の山門。

山門は唐風で、門を潜ると唸り声お経が自動的にテープから流れてきてビックリ。

鎌倉時代に建立された玉塔院が寺のはじまりとされ、寛文11年(1671)僧・早開が

現在地に移建し光明寺に改めたといわれる。
寺の前には立場があった、とのこと。

鐘楼門上には観音像が見守っていた。

ご本尊は大日如来、関東三十三観音霊場、関東八十八ヶ所霊場の番札所でもある。

本堂へ向かって左手にビルマの鐘が建てられていた。
太平洋戦争に宇都宮の部隊のビルマ戦での戦病没将兵慰霊の鐘で、

ビルマミャンマー)を訪れた宇都宮仏教会慰霊法要団が、シングッダヤの丘に建つ

壮大なパゴダ寺院から贈られた鐘、と説明文があった。

その左手に庭園が有り、「静桜」との案内板が立っ桜の若木が植えられていた。

街道書では静桜は街道(国道119)の右手奥の民家の敷地内に原木があると、

記されていて、光明寺にも子孫桜が植えられたようである。

源義経を慕い奥州下向の静御前が塚を築き、携えた桜の杖を挿して武運を祈り、
後にこの杖に根が生じ大木となり珍花を咲かせたといわれ、一重と八重との花が咲く

珍しい桜だそうで「日光道中図絵」にも描かれているそうです。

静桜は何か所かに子孫が植えられてるようで、一説のには12代目ともある。

桜の季節に眺めて見たいもんですね。

光明寺を後に街道をお城のような建屋や道端の花、おっ、ムクゲ?おや、紫陽花だ!

と足を進めると、

街道(国道119号)は最近植樹されたか、若木の杉並木となり、ここでも両側に

車道寄り高い歩道があり歩行者、自転車、一部地域住民の車道を兼ねていて、

車の心配なく歩けるのが有難いが、旧日光街道は逆に掘り下げて通されたのか?

あれ、パンダ??

トランクに結わえ付けられて、手作りかな、でもなんで???

光明寺から3、40分ほど歩くと、前方に東北自動車道宇都宮IC入口道への高架

が見える。

高架下を過ぎ10分程行くと桜、杉混在の並木になり、同じように両側に一段高い

歩道がついている。

この後も、国道より高くなった歩道帯は建屋があるところで一旦下る為、

上ったり下ったりの繰り返しが続くことになる。

並木にはいってすぐに、後ろから「コンチワ」と挨拶を残して旅人が足早に追い抜いて行った。

杉の根元にお地蔵さん。

街道書には印が無く、っ比較的に新しく祀られた地蔵尊のようだった。

交通安全見守りかな?

おっ、モミジモ少し染まりだしてるよ。

並木を20分ほど行くと、街道書には「高谷林一里塚」が記載。

この一里塚は、宇都宮城下と徳次郎宿の間に位置し、江戸日本橋から29里目。

東塚は昭和58年(1983年)補修され塚木は杉。

西側は原型をとどめ塚には桜とヒノキが生えている、と記載がある。

道路越に東塚。

50m程先で東北自動車道のガードをくぐる。右側が東北方面になる。

5分程先、右側のレンガ造り建屋は「第六接合井」と街道書にある。

これは大正4年建設で、今市浄水場から26km、標高差240mのある戸祭配水場まで送る際に送水管にかかる水圧を弱めるための施設、とある。

標高が約36m下がるごとに設けられ、全部で6ヵ所設けられたが、

昭和24年の今市地震で大半は倒壊、この第六号接合井だけが当時の姿を残こし、

六角形の赤レンガと大谷石造りの上屋(うわや)上屋は国登録有形文化財

指定されてるという。

100m程先、山王団地入口交差点を左手角の植え込みの中に隠れて、

街道書にある大谷道道標(おおやどうひょう)が埋もれるように立っていた。

道標には「大谷道下徳次郎」と刻まれて、大谷観音寺への道が有ったが廃道に

なっているそうな。
大谷寺本尊千手観音)は、平安時代(810年)弘法大師の作と伝えられ高さ4m。

大谷観音は、鎌倉時代に坂東19番の霊場となり、多くの人々から尊崇されたという。

大谷観音へは、10年ほど前に大谷石地下採掘場跡と併せて、

日光方面へドライブの折り、立ち寄ったことがあった。

更に並木道を10分ほど行くと富屋小学校前バス停で並木は終わり、この辺りが徳次郎宿の江戸口(南口)であったと街道書にはある。

日光街道江戸から第18宿:徳次郎宿。

天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、

本陣2軒、仮本陣1軒、脇本陣3軒、仮脇本陣1軒、旅籠72軒、人口653人。

宿場は、日光に近い方から、上徳次郎、中徳次郎、下徳次郎の3宿に独立していたものの、宿場としての業務はひと月に10日ずつの交代だったという。

(本陣は上徳次郎宿と中徳次郎宿に1軒ずつあった)

徳次郎 人名のような地名かつ難読。

徳次郎(とくじろう、と読むんじゃないんです、「とくじら」なんですね。

徳次郎(とくじら)の地名の由来は、日光に大きな勢力を持っていた久次郎(くじら)一族が、奈良時代末期に日光二荒山神社から御神体を「智賀津(ちかつ)神社」に勧請して、日光の宗家久次郎氏に対して外久次郎と称したことによるという。

フェンスにはこんな横断幕があった。

1954(昭和29)年に、この地が宇都宮市編入された際、

河内郡富屋村徳次郎(とくじら)から宇都宮市徳次郎町(とくじろうまち)に変更された経緯がありましたが、平成に入り、難読でも昔の呼び方に戻すと好判断。

一時は道路や標識や案内板に「とくじろう」「とくじらと」と混合されてつかわれていたようすです。

「見たまま読める地名」から難読でも由緒にある地名に戻す、自治体に拍手です。

すぐ先に新規店らしいドラッグストアが有り、トイレ借用で立ち寄ると、

綺麗な休憩コーナーがあり、食品類もある様子。

12時も過ぎてるしお腹も空いたと、場所をお借りして質素に昼中食に。

30分ほどの足休めをして再び街道へ。

道路拡張で新しい区分帯に逞しく昨ド根性花はその名も「悪なすび」かな?

いや、葉が違うようだが・・・

調べてみるとイヌホウズキらしい。

野の花でイヌがつくと役に立たないという意味があるそうで、全草に毒がありますが

薬草としても用いられるという。

5分ほど先左手に大谷石の門柱、脇に明王院の説明板が建っていた。

私塾明王院、江戸末期から大正10年まで開塾されていたらしい。

道路向う(右手)側にも同じような案内板と縦型の標識が見える。

デジカメを拡大してみると、下徳次郎宿の案内板と、向かいの家が徳次郎宿本陣の

一つ下徳次郎仮本陣跡。

50m程先左手に大谷石に屋根を載せた山門が建ち、街道書には下町薬師堂とある。

山門は宝暦元年(1751年)建立という。

山門を入るとお堂右手覆い屋に、六地蔵石憧、如意観音像十九夜塔、三面六臂馬頭観音
などが安置されている。

薬師堂の回りには、馬頭観世音像や道標などの石像が集められ、並べられていた。

街道へ戻り、まだ綺麗に咲いていたオオムラサキツユクサ

5分ッ程行くと先に徳次郎交差点が見えてくきて、街は中徳次郎に。

電柱の案内板に左2km、道の駅の案内板が有った。

この道の駅にも、先ほどの静桜の子孫樹があるという。

往時は徳次郎宿本陣や問屋場があった付近だが、今は全く面影はない。

徳次郎交差点手前にあり、「神社入り口道約五丁 田中道」と彫られた田中道道標が、

ひっそりとあった。500m程辿るとの神明宮は今は無いという。

少し先左手の大谷石造り塀の建屋があり、案内板が建っている。

店蔵壁や奥の蔵は、きめ細やかな今は希少な徳次郎石が使用されてるそうな。

徳次郎交差点から約600m、実りに実った紫式部の実を見ながら行き、歩道橋で

街道(国道119)の右手に渡ります。

前方にこんもりとした森が見えてきた。

100m程先の鳥居脇に大木が聳えるは智賀都神社(ちかつじんじゃ)。

鳥居左右、二本の欅は樹齢700年、高さ40mという巨木。

700年ということは、日光東照宮より300年以上も前から立っていて、

徳川歴代将軍の日光参拝を全て見てきたのでしょう。

智賀都神社は宝亀9(778)年に、日光三社の分霊を勧請したのが始まるといわれ、徳次郎六郷の鎮守である。

一対のあの欅は今までの出会ってきた中でも、流石に見ごたえのある大樹だった

神社を後に150m程行くと中央分離帯に木が植えられている。

街道書によれば「徳次郎六本杉」とあるが、実際には杉は二本しか残っていない。

往時の杉並木の再現と言われるようだが、ちょいと意味不明かな。

六本杉から10分ほど行くと再び並木になり「大網道」と彫られた大きな石道標が

立っていて、街道の右手奥を流れる田川の向こうに大網道という道があるようです。

右の奥の方には田川から二宮堰で分水して徳次郎、宝木地区を経て宇都宮市中心部を流れている宝木用水があるようだが寄り道は省略。

江戸時代の末期に二宮尊徳、弟子の吉良八郎と村々の手で完成した人工の川とのこと。

並木はなくなり、15分ほど行くと上徳次郎宿の案内板が立ち、

側に上町屋台庫があった。

上徳次郎宿は3宿の中でもっともはやく開け、本陣、脇本陣問屋場などが有り

旅籠も多かったようだが、いまは全くその面影は見られない。

20分ほど行くとバス停名も一里塚で、先に江戸から30番目、北塚を残して

石那田の一里塚があった。

塚は修復整備されたもので、塚には樹木はなく石の標柱だけが建っている。

六本木一里塚とも言われるようだ。


街道書では「国道を渡った道の左側の祠内に、如意輪観音像十九夜塔が安置され、

側に馬頭観音像等がある」と記されてるが、見渡しても祠などそれらしきものは

見当らない。

信号で左手に渡たり再び国道より一段高い歩行道へ上がると、

土手上に石仏らしき石があり、文字も彫られてるようだが判別は出来なかった。

左手は、収穫の終わった田んぼで、ひこばえ稲が勢い良く伸びている。

日光13kmの道路標識を見送り行くと、右手家並越しに大きく山が迫て来たのは、

奥日光中禅寺湖畔の男体山か。その隣に連なるは女峰山か、

更に5分ほどの左手に後ろ向きで石碑が有り、かろうじて「馬」の字が読めるが、

移設された馬頭観音だろうか、何故後ろ向きかな??

そのすぐ先左手に、これも後ろ向きで馬頭観音

建立は平成30年とあるが、建て替えられた馬頭観音の様子。

道を隔てた右手に「二宮尊徳先生遺跡石那田堰」と書かれた白い標識が

たっている。

標柱から右に坂を下ると二宮尊徳が設計した石那田堰がある、と街道書にあった。

尊徳さんか・・・あちこちでご活躍ですね・・

5分程先道路右手には煉瓦造りの第五接合井戸があった。

街道書には接合井の少し先に神道系の馬頭観音、馬力神が祀られtるとあるが、

うん?これかな? 茂った草木に埋もれるように石塔らしいものが見えてるが・・・

少し先で並木が途切れ歩道帯は一旦下り田川大橋を渡る。

右手に立派な門構えの家、塀は大谷石よし明るい感じだが、徳次郎石が使われてる

のかな。

田川を渡り100m程行いった左手に石那田八坂神社御仮屋が建っている。

八坂神社は本殿と仮殿の2か所あり、街道沿いの社殿はお旅所になるようです。

社伝によると、
「明暦元年(1655年)疫病退散のため山城国八坂神社より分霊を勧請して

創建された旧石那田村の鎮守である」とあり、

資料では、日光街道沿いにあるのは「仮殿」で,本殿は2,30分離れたところに

鎮座している。

享保7年1722年)に再び疫病の流行に際し、ご本殿石宮を造営し、

合わせて天王祭も厳重に執行するようになった。

天王祭は京都の八坂神社祇園祭の流れをくみ、夏の疫病退散を祈願して7月下旬に

1週間かけて行われます。

祭典は神社本殿から御神体を神輿に乗せて「お仮屋」(八坂神社仮殿、日光街道沿い)に移す「下遷宮」(げせんぐう)から始まります。

1週間、お仮屋でお守りをして最終日に御神体を本殿に帰還させる

「上遷宮」(じょうせんぐう)で締めくくりとなります。

付け祭りは、上遷宮がある最終日に行われます。町内の6台の屋台などが、

仮殿に向かい、その後、御神体を乗せた神輿と共に約1Km離れた八坂神社本殿に

向かいます。

八坂神社御仮屋を後にすると再び国道より一段高い歩道帯を行きます。

すぐ右手木の根元に、小ぶりの観音石仏が。

街道書にも記載はないが、移設された庚申様かな?

左手はりんご園の様子。

街道沿いには何軒かのりんご売り小屋があったが、今まで街道沿いでは

リンゴ園らしい畑はほとんど見かけなかったな。

早いな~サザンカがもう咲いている、秋も深まったか・・

八坂神社御仮屋から10分ほど、左手に三基の石塔が建っている。

中央は青面金剛庚申塔と街道書にあるが、左右の二基は文字不明だが馬頭観音かな?

左手に田んぼが広がってるが、稲穂が見えるいえる。ひこばえの実りかな?

だいぶ日も傾いてきた、並木道も薄暗い。

秋だね~、つわぶきが綺麗に咲き始めてる。

御仮屋から4,50分、左手お堂にお地蔵さん。

街道書によれば、享保15年(1730年)の造立で、

台座に3個の丸い石が置かれ、願をかけて内の1個を持ち上げて、

軽ければ願いが叶うというとこから、「占い地蔵」とも呼ばれるそうだ。

傍らには庚申供養塔なども並んでる。

お地蔵さんは大谷石造りらしい。

おや、くさぼけかな?

さらに10分ほど行くと道を隔てて右手に新渡神社(にわたりじんじゃ)。

街道書によれば石造不動尊で、参道口の御神燈は文化7年(1810年)の建立で、

境内には「二十六夜塔」や石の祠が数基建ち並ぶとある。

車道を横断しなければならないし、夕暮れも近いので立ち寄りは無し。

その先の左手に、南塚の痕跡を残す小さな塚「上小池の一里塚跡」がある筈だが

見渡しても見つけられななく足を進める。

すぐ先に街道書に民家の庭内に頭部の欠けた地蔵尊と、如意輪観音十九夜塔がある、

と記されてるのは、この石塔らしい。

すぐ先の民家の入り口に馬力神

国道をっ隔てては、宝永7年(1710年)建立の「六十六部廻国供養塔」で、

宝永7年(1710年)の建立。

「奉納大乗妙典日本六十六部」と刻まれている、と街道書にあった。

中世から江戸時代にかけて、僧侶、修験、行者などが
大乗妙典(妙法華経)を書き写し仏像と一緒に厨子に納めて背負い、
全国(六十六国)を回り一国一箇所(国分寺などの由緒ある霊場)に

奉納することを無事に終わらせて、記念に建てられた石塔という。

数は少ないが、東海道中山道でも見た記憶が有りましたね。

PM4:05、宇都宮市とお別れ、いよいよ日光市入り。

夕焼け小焼けの赤とんぼ

シルエットの山は男体山、女鋒山か、

PM4:20 夕暮れもまじかで、山口バス停にて丁度PM4:35の宇都宮駅行き

バスが有るので足止め。すぐ先左手にに日光市街(今市)10kmの標識が

見えていた。

街道旅はまた明日。