日光道中二十一次 第14歩 (二日目)

明けて10月22日、朝食を済ませ駅前8:25のバスに乗り小一時間。

昨日足止めの山口バス停に降り立ち、AM9:20二日目の旅立ち。

いまは空は白い雲に覆われてるが、わりと暖かい朝。

予報では日中は陽が出て、昨日より気温は上がりそうで服装を改めてパチリ。

(三脚がないので路面から、露出を誤まったね)

路肩に綺麗な黄色いオシロイバナがまだ咲いていて、おや、紫陽花も返り咲きかな。

左手垣根越しに立派な蔵が見えている。

大谷石より色合いが薄い感で、この蔵も徳次郎石造りかな?

バス停から10分ほど進むと、道の左手は路肩歩きになるため、街道書では右手の

草道を行くとあるので、車の行き来を見計らって右手へ渡り、車道より一段高い

畑脇の草道を歩きます。

サザンカ?椿?

おや、アケビでは。

杉の花芽だね、花粉の時期は日光街道は要注意だ。

この実はヤマユリではないかな・・・、

そろそろ弥勒堂跡で地蔵尊など石仏や石灯籠と街道書にあるが、それらしきは

見当たらない。

歩道帯は一段高い所だったので見えなかったかな。

バス停より1km強ほど歩き、車道へ下ると先の道は二股になり、

右手が旧日光街道(国道119号)、左手に向うは国道119号バイパスとなる。。

ここから本格的に日光杉並木街道が始まり、全国で唯一国の特別史跡

特別天然記念物指定されてます。

日光街道に入り、100m程行った左手に建つのは「杉並木寄進碑」。

碑は日光杉並木の完成を記念して慶安元年(1648年)に立てられ、植栽された当時は

2万4000本ほどあったようだが、年間100本ほどが寿命で失われているという。

今は日光街道(大沢〜日光/16.52km)、例幣使街道(小倉〜 今市/13.17km)、

会津西街道(大桑〜今市/5.72km)の総延長35.41kmの間に、1万2500本もの杉並木が現存するという。

日光杉並木はこの3街道の並木の総称ということです。

寄進碑は、他に日光の神橋・例幣使街道小倉・会津西街道大桑の計4ヶ所に

建てられているそうな。

街道書によると、

東照宮に通ずる街道の杉並木を徳川家康、秀忠、家光の三代に仕えた

武州川越藩主・松平正綱が、寛永2年(1625年)から約20年の歳月をかけ杉を

植栽し、家康23回忌に東照宮へ寄進。

碑は日光神領との境にある所から『境石」と呼ばれた、とある。

日光杉並木街道は、「世界一長い並木道」として1992年にギネスブックにも登録。

バイパスによってクルマの通行もほとんどないが、車は通行止めではないので、

観光らしい車がたまに走ってくる程度で、静かな杉並木は実にいい雰囲気。

杉並木も現状により、普通地域と特別保護地域に区分されている

幹回りが7m以上高さ30~40mもの巨大な杉が続く様は圧巻で、延々続く並木道に、

街道時代を偲ぶ風景を見ることができます。

松でなく、杉を植えた理由は!?
なぜ松並木でなく杉並木なのかは、比較的温暖な東海道と異なり、冷涼で杉の生育が適していることだそうです。
東海道でも、山越えの箱根・芦ノ湖湖畔部分は杉並木となっている。

江戸時代、並木は日光奉行が厳しく管理し、枯れた際には速やかに補植されていました。
明治政府は財政再建のために杉並木の全伐を計画しましたが、日光を愛した

イギリス公使バークスの進言で断念という歴史があるそうです。

碑から10分強程で杉並木を抜け、150m先の大沢交差点でバイパスと合流し、

大沢宿へ到着。

大沢宿は江戸から19番目の宿場町で、日光街道歩きも残す宿場は2宿となりました。

元和3年(1617年)の規模は人口278人、総戸数43軒(本陣1軒、脇本陣1軒、

旅籠19軒)。

地名の由来は、鎌倉時代源頼朝がこの地を訪れ、家来に開墾居住させた。

頼朝の御恩を地名にし「御恩沢村」としたが「恩沢村」から「大沢村」となった,由。 

大沢交差点を渡ると右手の民家前えはお花畑。

コスモスなどが色鮮やかに咲いていて少し立ち止まり。

シュウメイギクとダリアの白花

白花キキョウ、ほうづきは網掛けに、

花談義をしていて、右手にある王子神社へ寄るのを度忘れで足を進めてしまった。

王子神社は大沢宿の鎮守で、創建は正治2年(1200年)。

推定樹齢250年の大銀杏が良く知られてる、と街道書にはあった。

少し先で歩道橋で左手に渡ると、歩道橋上から左手奥に、大沢小学校のグランドの

一部が見え、運動会が開催されていた。

大沢小学校は元竜造寺跡で、寛文3年以降歴代将軍日光社参の際、休憩所となった、

と街道書にある。

その先150mほど行くと再び道は二股となり、左手が杉並木街道(国道119号)で大沢宿の北口、右手は国道119号線バイパスとなる。

再び鬱蒼と聳える杉の大木。

ほとんどの車はバイパスへ流れるので、安心して足を進められます。

すぐ左手に石塔があり、小さな池がある。

その後ろの大杉は、杉並木造成いぜんからあった杉と街道書にはあった。

ここに大沢の木戸があり維新戦役で大沢の斎藤縫蔵らが幕府の間諜をを働いたと、

官軍より斬首され、この木戸に首級がさらされた、ともある。

すぐ先、右手杉並木の中に小さなお社は八坂神社。

手前の切り株は二本の杉の根元が癒着した二股杉の切り株、お堂の右手の御神燈は

文政5年(1822年)建立と街道書にある。

2,3分程先左手の地蔵さんは「交通安全地蔵尊

まだバイパスが出来る前、見守ってたんでしょうね。

さらに10分ほど歩むと右手に、六ケ所残ってる接合井の第三接合井が建ってます。

唯一機能してると、街道書にはあるが今も機能してるか?

5分ほど進むと街道書に両塚を残してると記された「水無の一里塚(東塚)」が

あり、江戸日本橋から32番目の一里塚。

塚木柱には御成街道の記されてるが、御成街道は江戸・本郷追分で日光街道と分かれ、武州幸手宿にてに日光街道と合流している将軍通る街道です。

西塚は多分これらしい。

一里塚は「特別史跡特別天然記念物」指定とある。

杉木立の少し薄暗い日光街道では路肩に、赤く染めた実のマムシ草、

まだ花盛りの様に、サラシナショウマの穂咲きの白い花が、あちこちに咲いてました。

一里塚から15分程、並木を抜けたところ左手に建つお堂は延命地蔵尊と街道書に

ある。堂内暗く地蔵尊は拝めない。

境内に享保15年(1730年)建立の念仏供養塔や六地蔵燈籠、十九夜塔、

庚申塔等があった。(レンズが汚れて見苦しいですが)

ここは右手から国道119バイパスから左手方面へ並木道を横断して通ているため、

杉並木道へも車が入り込んでくる。

ほとんど歩道帯を確保してない並木道は、我々老々には危なかしっくて歩けない。

さいわい並木道と平行して一般道が続いてるので、しばらくは利用することに。

並木で見れなかった空は大きく広がり開放感がいっぱい。

路には秋らしさもいっぱいで、路肩には馬頭観音や石仏もあった。

15分のほど行き、再び杉並木に戻るとすぐ先から杉並木は車の乗り入れ禁止道に。

すぐ右手にあった墓地は街道書にある「山伏千手院跡」の様子。

山伏は日光山の「里山伏」として、東照宮渡御祭り行列の供をした。

跡地には如意輪観音像十九夜塔や男女双体道祖神が残されている。と街道書にはあり、

墓石枠の手前に小さく石仏が見えていた。

さらに5分ほど先き119号バイパスから国道119号が分岐して杉並木を横断し、

杉並木に並行して続いています。

左手に大正4年(1915年)建立という馬頭観音があった。

更に10分ほど杉並木道を歩み、

再び平行する国道119号へでて解放感を味わいます。

しばらく行くと右手杉並木の向こう側の茂みの中に、第二接合井がみえた。

すぐ先で杉並木は途切れ、左手からの国道119と合流し、

振り返ってパチリ。

森友交差点をわたります。

50m程先、右手に永正14年(1517年)創建という浄土宗「來迎寺」
わが家の宗派なのでお参りへ。

参道には如意輪観音十九夜塔が四基ならんでいた。

初めて出会った観音像でした。

来迎寺から200mほど右手の整備された植え込みの中に常夜燈が建っている。

常夜燈は寛政9年(1797年)建立で、旧漢字体で「男体山」と刻まれている。

300m程行くと会津街道と呼ばれた道との森友交差点。
渡ると再び杉並木に入るが、右手へ会津街道を国道119号バイパス方面へ足を

向けます。

300m程先のコンビでのトイレ拝借。
はや1時近くでイートインが有ったので、いつものサンドイッチとコーヒーランチ。
(老々にコンビニトイレは大変ありがたいです)

コンビニ前から日光方面への車両交通の激しい道は、令和3年に開通された整備された、国道119号水無バイパスでした。

車両の多くはバイパスを通り日光方面へ向かうようです。

街道へ戻る途中すぐの左手空き地に庚申塔など数基の石塔がのこされていて、

歩いてる路が会津街道だったことが分かります。

50m程先左手に瀧尾神社。

建長4年(1252年)大己貴命(大国主命等を祀ったされる神社を、

1916年に現在地に遷座したという。

社殿には縁結び子宝の大きな注連縄が掛けられていた。

再び杉並木街道へ戻てきました。

此処から先は、水無バイパスと旧道(日光杉並木街道)を結ぶ連絡道(往復した道)

が整備され、これにより、沿道アクセスに影響のない森友交差点から先、800m区間について 、地域の安全・安心の確保のほか、杉並木の生育環境の改善等が図られた

車両通行止め区間です。

一般国道119号は左手に分離して、旧街道杉並木とほぼ並行して通ています。

杉並木はここから先は車両通行の無しの一方通行となり、歩きやすい街道です。

入って200m程先の標識には、10km余の車両通行止めと記されてました。

通行止めはこの部分のほか何か所かあるようです。

杉並木の杉には、植栽以前からの古木もあると街道書には記されていたが、
大木も多く、判別は難しいですね。

なかには杉の切り株から山桜の木が生えている珍しい「さくらすぎ」がある、

と街道書にあるが、見つけられなかった、

通行止めから約15分、右手に根元が空洞がある老杉のところは江戸から33番目

「七本桜の一里塚」の北塚と街道書にあり、空洞には大人4人程度ならば入れるとか。両塚を残してるとあるが東塚は判別がつかなかった。

その先5分ほど行くと七本桜交差点で、一旦車両通行止めは解除になり、

杉並木は日光方面からの一方通行道になり、道幅も狭く車両も多く入り込んでくるようで並木歩きは止めて、平行する国道119号へ。

5分ほど行くと東武日光線のガードをくぐると今市(日光市)は近いようです。

ガードを潜って7,800m程先の交差点から、車両は入り込むようでなので、

交差点で国道を右手に横断し、再び杉並木道を歩きます。

杉並木を300mほど行くと、変則五差路の小倉交差点手前で、日光街道と左からの

例幣使街道が合流した追分になり、今市宿に入っていく。

振り返って、左杉林の下が日光街道、中、国道119号、一番右手が日光例幣使街道

例幣使街道は、旧中山道歩きで通った倉賀野宿に追分が有り、中山道から別れ、

太田、栃木、鹿沼を経て、ここで日光街道と合流している

両街道合流地点、街道に挟まれて高さ2m90cm、北関東でも一、二を競う大きさの追分地蔵尊が見守ってます。

一説には、江戸期の頃には地蔵尊の裏手で高麗人参の栽培が行われ、今市宿の名物に

成ったという。 

追分地蔵尊には多くの伝説が残されており、日光市文化財に指定されています。

立ててある説明文によれば、                
「 江戸時代初期に石工が、大谷川(だいやがわ)の川原の砂に埋まっていた石を
割ろうとしてノミを打ち込んだところ、真っ赤な血がにじみ出てきて、 驚いた石工が

掘り起こしてみると、この大きなお地蔵様でした。

左肩から背中にかけて、石割りクサビ用のノミ跡が幾つも、今もくっきりと残る石

地蔵です。  

それを村人達が運んで行くと、現在地で動かなくなったので、 ここに安置したが
後に如来寺という由緒あるお寺に移したところ、お地蔵様の泣き声が聞こえる様に

なった為、  村人達は「このお地蔵様は日光の大谷川含満ヶ渕の親地蔵で、

洪水で流されて来たのだろう」と、日光の見える元のここ追分に戻して、

日光に向けてここに安置したという。

ふつうは地蔵の手印は錫杖と宝珠であるが、この地蔵尊胎蔵界大日如来
法界定印という手印を結んでいるそうです。

制作年代は明らかではないが、享保13年(1728)徳川8代将軍吉宗の日光社参の時に、すでに現在地にあったと記録が残されているそうで、地蔵尊はその以前から

この地に安置されていたとみられている。
日光含満ヶ渕には並び地蔵があるが、明治35年(1902)の大洪水でも、親地蔵と

他の地蔵の幾つかが流された、との記録が残っているそうです。
            

ノミで傷ついた跡という。

追分のすぐ先は小倉交差点で渡ると江戸から20番目の今市宿へ入り。

日光街道も最後の21宿目鉢石j宿まで残すとところ約8・5km(2里余)で、

時刻もまだ早いですが、私たちの旅第14歩はここで足止めで、

交差点を左折してJR今市駅へむかいました。

電車を乗り継ぎ早めの帰宅。
日光街道夫婦二人旅 第14歩はおわります。 完