甲州街道四十四次 6

4月11日の甲州街道再開から半月余、

真夏日に近い28日(日)再び甲州街道へ。

電車バス、電車と乗り継いで前回足止めの京王線東府中駅へ。

前回は途中から江戸初期の街道、甲州古道を少し歩き東調布駅前へ来てました。

甲州古道は、品川街道と呼ばれ、江戸時代の初期には東府中までの道が、

甲州道中の一部として使われていたといわれてる。

東府中の駅で甲州街道都道229)と出合い合流します。

駅前は変則的な4差路状で旧甲州軌道(都道229)は、左手斜め方向へ進みます。

カラーのマンホールはヒバリの親子と梅の花

2,3分でJR南武線の踏切りを渡ると、八幡町へ入ります。

左手の線路は、東府中駅から1km弱の府中競馬場駅への線路。

通過した電車は結構混んでいたので、競馬開催かな?

そうでした、今日日曜日、ダービーとの関連があるのかも。

府中競馬場、思い出した、チョンガーだったころ1度だけ足を運んだことがあった。

おっ、トキワツユクウサでは、

踏切を渡り約10分ほどゆくと左手遊歩道に八幡宿碑があった。

碑には、

八幡宿は“宿”という字は付いてはいますが宿場ではなく、農業中心の集落で、

先に鎮座する大國魂神社社領に属していて、国府八幡宮の周辺に発達した村落で

八幡宿村と呼ばれていが、甲州街道が開設により街道筋に移転した。

とある。

すぐ先の左手に「武蔵国八幡宮」の石碑、鳥居が立ち参道が奥に続いてます。

鳥居の手前に、文化11年(18144年)に建造という常夜燈があった。

街道書では、台座には常夜燈、燈籠正面に秋葉大権現と刻まれている、とある。

参道を行くと、東府中駅からの京王電鉄競馬場線に分断されていた。

渡ると武蔵国八幡宮八幡神社が鎮座しています。

国府八幡宮は、聖武天皇(在位724年~749年)が一国一社の八幡宮として創建という

由緒ある神社で、大國魂神社の境外末社の1つで、八幡宿という地名が

この神社に由来しるそうです。

参道を戻りさらに10分ほど行くと、八幡宿交差点。

先は宮元町(旧新宿)へ入り、府中宿の内の「新宿」が始まり、

交差点向かいのビル脇に大きな幟が建ていた。

街道書にある「新宿標石」は幟建柱の根元にあるようです。

府中宿は府中三町「番場・本町・新宿(しんしゅく)」によって構成されていた

と言われるようなので、府中宿の江戸口にあたるのかな?

 街道書によれば、

「府中は、かつては武蔵国(現埼玉南部・東京・川崎・横浜)の国府が置かれた

政治・文化の中心地であった。

鎌倉幕府の崩壊で衰退し、江戸時代に入ると、日本橋から約7里半(約30km)に

位置する4番目(数え方によっては9番目とも)の宿場町で、鎌倉街道甲州街道が交わる交通の要衝でもあり、江戸を出立して最初の宿泊場所としては最適な距離で非常に

栄えた宿場でした。

宿並は新宿(現在の宮町)、番場宿(現在の宮西町)、本町の3町(府中三町)で構成され、

天保14年(1843年)の記録によると

本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠38軒、問屋場3軒、家数430軒、人口は2,762人 」

とある。

さらに300mほどで大国魂神社東交差点。

街道書には、

明治サウスビル脇に明治天皇行在所跡解説があり、田中三四郎家が務め、昔柏屋といい柏屋脇本陣のの碑が立つっている、とあった。

屋敷は府中郷土の森へ移築したそうで、前に行った郷土の森に古民家がありました。

直ぐ隣に近江屋中屋平兵衛脇本陣跡があたというが、示すものやその痕跡すら

何もなし。

100mほど先は、大国魂神社前交差点で、北側の京王線府中駅前から続く

ケヤキ並木は大国魂神社の参道であり「馬場大門の欅(けやき)並木」と言われ、

国の天然記念物に指定されている。

南側に大きな社標が建ち、参道は続き大国魂神社が鎮座してる。

ケヤキ並木は、

「1062年、源頼義、義家父子が、前九年の役の戦勝祈願御礼として、

けやきの苗千本を寄進したことに始まりといわれ、その後、徳川家康が関が原、

大坂両役の戦勝の御礼として馬場を献上し、けやきの苗を補植しました。

現在のけやき並木には、その江戸初期のものが数本残っているほか、

けやきが約110本、その他えのきなどの老樹を含め、合計で約120本の木が

植えられている。

大正13年、国の天然記念物に指定されました。

けやきの並木道が指定されているのは日本でここだけです。」

とあり、幕末までは馬市も開催されていた、という。

現在もケヤキ並木保存のため、市内の学校行事として植樹が行われてるという。

大きな大国魂神社社標石の建つ前の交差点に、2本のケヤキ古木。

年代を重ねた重厚な風情ですが、右の樹齢を重ねたケヤキは3mくらいから上部は

伐採されてるが、幹から太い枝が伸び葉を茂らせている。

よくみると、何と伐採された太い幹は空洞化していて、新たな若木が中で育ち

枝を広げていたのでした。

下部と上部には四角く小窓が開けられ、内部が見られるようになっていた。

古木の幹はところどころ穴が開き、若木の枝が外へ伸ばしていた。

こんな再生のしかた、驚きですね。

街道歩きをして宇ると、けっこう古木大木に出会うことがおおいですね。

中山道では、桜にモミジが芽生えていたことがあった。

大国魂神社について、府中観光協会の資料によると、

大国魂神社は葉景行天皇41年(111)の創祀と伝えられ、

御祭神は 大國魂大神 で出雲の 大国主命 と同一の神とされる都内屈指の古社。

武蔵国の一之宮から六之宮までを合わせて祀るため、「六所宮」とも呼ばれ、

武蔵国の総社にあたる。

境内地がかつての武蔵国国府跡にあたり、境内の東側に跡も「武蔵国衙跡地区」として国の史跡に指定されています」

とある。  

大鳥居を潜りケヤキに囲まれた参道を進む随神門、中雀門と進むと、重心の低い拝殿があり重厚な本殿に到着。

例大祭は「くらやみ祭」と呼ばれ、東京都指定無形民俗文化財に指定されており、

関東三大奇祭の一つに数えられています。

参道では5月初のくらやみ祭りの準備が進められていた。

随神門

隨神門は平成23年に「御鎮座壱千九百年事業」として改築という。

門は高さ8.5m幅25m、扉は畳5畳分程。国産の檜で、屋根は銅板葺き、

木造の門として大きく大変美しい立派な門です。

重厚な本殿

この本殿は寛文7年(1667)に4代将軍綱吉によって再建されたもの。

本殿裏に樹齢およそ1000年と伝えられる銀杏の大木があるというので、回ります。

この大銀杏の根元には、蜷貝が生息していて、産婦の乳がでないときに、この蜷貝をせんじて飲むと乳の出が良くなると言われました。近年は、手を合わせると産後の肥立ちがよくなるという、謂れがあるという。

街道へもどり、交差点の大ケヤキ

(右が、若木が空洞から茂ったケヤキ、赤い木囲いがしてある)

大国魂神社前交差点から先は宮西町となり旧番場宿に入ります。

ここから府中街道との交差点まで、200m程がかっての府中宿の中で、

旅宿なども立ち並ぶ最も賑わった所で、その番場宿内の「神戸」と呼ばれる場所で

あったという石碑が建っていた。

番場宿は名主の茂右衛門にとって開設され、茂右衛門宿とも呼ばれたそうです。

 まもなく甲州街道と北上する川越街道、南下する相州街道(現在の府中街道)の

府中市役所前交差点になり、昔は札の辻と呼ばれ南側に府中高札場が当時のまま

残されている。

板塀に囲まれ、りっぱな門を持つ高札場の奥は、大國魂神社の御旅所で、5月の例大祭(くらやみ祭り)の際に、8基の神輿がここに渡御するという。

交差点向かい側右手のマンションなどが建つ付近は元本陣があったとか。

そして北側の蔵造りの酒屋は、創業万延元年(1860年)創業という、

「中久本店」。

隣接して今は跡形もないが、問屋場があったと街道書にある。

(酒屋さんの店内壁に、問屋場があた、との案内板があるという)

中久本店のすぐ先に小さな公園と番場会館があり、会館前に番場宿碑が建てられて

いた。

付近には江戸時代に近江屋、信州屋といった旅籠があったそうです

おっ、番場屋、割烹料亭のようだ。

賑わった宿場の雰囲気がありますね。

街道書にも付近は脇本陣や旅籠などがあったというが、示すものは何もなかった。

すぐ先で左右に伸びた緑地帯のある緩い坂には鹿島坂碑が建っている。

碑には、

甲州街道と交わる鹿島坂は、大國魂神社例大祭に関係する鹿島田家からその名がとられたそうです。かつては鹿島田坂と呼ばれていたのが、いつからか鹿島坂になった、

とあった。

片町に入ってすぐ右手に片町碑があり、片町の名前は、南側に広い境内の高安寺が

あるため、北側にしか町並みが無かった為と云われる、と記されていた。

そして左(南)側は大きな寺標が建つ曹洞宗・高安寺境内です。

そして高安寺。

街道書によれば、

「ここは平将門を討伐した藤原秀郷の館跡と伝わっています。

後に見性寺というお寺が建てられ、、戦乱により荒廃しいたのを、

室町幕府の将軍足利尊氏が再興し、龍門山高安護国禅寺と号したのが
はじまりとされています。

高安寺の「高」は尊氏の旧名・高氏からとったのだそうです」とある。

総門を入って右に折れると、明治5年建立という大きな山門が現れます。

山門の正面では仁王像ですが、

山門を入った裏側の右手は、山門には珍しい「地獄の脱衣婆」の像が鎮座する、

境内の奥までは入らなかったが、奥には秀郷稲荷という祠や、さらにその奥に

平家滅亡後に鎌倉入りを許されなかった源義経武蔵坊弁慶がこの井戸の水を使って

大般若経を書き写したという伝説がある「弁慶の硯井といわれる井戸があるという。

 

街道の戻り,右手に「弁慶坂」碑がある。

この坂は高安寺に伝わる弁慶の伝説に由来、などとあった。

先ゆるい坂になってるが、この坂のことかな?

緩い坂を下ったところで、京王線の5号踏み切を渡ります。

渡ってしばらくして、なにげなく街路樹をいて気が付いた、ネグンドカエデ!

枝の伸びが多く、樹形を整えるのに手間がかかる、と聞いていた。

街路樹としては珍しのでは?

美好町三丁目交差点から先は本宿町に入り、左手に大きな冠木門を構えた家が、

かって旧本宿村の名主を務めた内藤家、と街道書にある。

この門は幕末期の府中宿の本陣であった、番場宿の矢島家の門を移したもの、

ともあります。

5分ほど先で本宿町交差点で、国領町で別れた国道20号(現甲州街道)と合流。

先はしばらく20号を歩くようです。

(本宿交差点付近が府中宿西口との説もあるようです)

5分ほど先、本宿交番前交差点の西側角に常夜燈が立っている。

秋葉大権現の常夜燈で寛政4年(1792)本宿村講中が立てたもの、

と案内板がもあった。

   
交差点から200m程先の交差点手前、右手に本宿村の鎮守である熊野神社が、

鎮座し、鳥居左手には「国史跡、武蔵府中熊野神社古墳」の看板が立っていてます。

本殿奥には、飛鳥時代の上円下方墳といわれ、最近保存整備工事があったような感じで葺き石で覆われた古墳の姿があった。

ここで古墳に出会うとは思ってなかったな~

(拝借写真)

神社参道右手には、山車蔵があり手前に本宿碑が建っていた。
本宿は甲州道中が開設される以前は宿場であった、とある。

神社より南武線の上を通る「西府橋」を通り10分ほどで、国立市に入ります。 

100mほどで「国立インター入口」交差点。

国道20号はバイパスとなり日野バイパスと呼ばれ、先っはしばらく都道256.

越えてすぐ右手に獅子宿碑。

宿と云っても、宿場のことでは無くて、街道書によてば、

谷保天満宮で奉納される獅子舞の獅子頭を昭和44年まで、佐藤家が保存していた

ので、その獅子頭の保存場所と云う意味で、佐藤家は獅子舞の稽古をする

家、「獅子宿」と呼ばれていた、とある。 

(ということは碑の付近は佐藤家の屋敷跡かな)

その先右手の大きな薬医門を備える家は江戸時代名主を務めた「本田家」という。

さらに幕府の馬医者を勤め、門は乗馬のまま通れる造りになっているという。
薬医門は閉じていても、横の木戸から患者が出入りできるようにしてある
奥の屋敷も含めて国の登録文化財だそうです。

本田家から100m程先に1863年(文久3)年に建てらた旧下谷保村の

秋葉山常夜燈があった。

先の歩道橋で南側へ渡ります。

歩道橋を降りたところ家塀に、「関家かなどこ跡」案内板があった。

「かなどこ」とは鋳物のことで、江戸三名鐘の新宿天龍寺梵鐘は関家の鋳造とある。

すぐ先が谷保天満宮交差点。

左手に大きな寺標が建ち、広大な森は谷保天満宮です。

街道書によれば、

東日本最古の天満宮であり、亀戸天神社湯島天満宮と合わせて「関東三大天神」と

呼ばれています。

903年・・・菅原道真の三男・道武が、道真の死後父の像を彫りこれを祀ったのが

天満宮の始まりという。

しかしながらこの像の出来が良くない所から「野暮天」「野暮」の語源になった。

とある。

「やほてんまんぐう」ではなく「やぼてんまんぐう」が正しいのかな。

鳥居をくぐり参道を進み、

石段を下ります。

当初、甲州街道は今よりも南側の低い場所を通っていて、谷保天満宮は街道に面して南向きに造られていました。それが江戸時代中期、街道が北寄り、従来よりも高い台地上に付け替えられたため、石段を下るようになったそうです。

そして拝殿。

立ち寄りしませんでしたが、拝殿を裏手にまわると、江戸名所図会にも記載されている
「常盤の清水」が数百年も昔から涌いていて、枯れた事が無いと言われ、
昔は近所の人々の井戸として使用されていたそうです。

えっちら、階段を上り街道へ。

5分ほど行った左手に、古そうな地蔵尊が4体あたが、街道書には記載はなかった。

かって街道沿いあたのを集めたのかな?

先の交差点で北側(右手)に渡り、街道の右側を歩きます。

5分程の右手の住宅入口脇のところに、潤澤学舎跡と記された案内板が建っていた。

街道書には、

「明治五年、各村に学校の設置が義務付けられると、翌年、青柳村で私塾を開いていた

吉左衛門氏を校長とし、校舎はこちらの杉田氏の私邸内にある蚕室を借り受け、

仮校舎にし開校されました。当初の生徒は30人だった」とある。

案内板の建つお宅が、旧杉田綴邸で子孫の方がお住まいかな?

すぐ先の住宅門脇には、新しそうな「馬頭観世音」の石碑があった。

かっては馬頭観世石像があった、ということでしょうか、謂れは不明。

5分程ゆくと右手に大きな寺標石は、臨済宗永福寺

街道書では、寛文年間(1661年~)の創建。

脇仏の木造「阿弥陀如来座像」は鎌倉時代作の古仏、とある。

本堂前へ来たがお堂内は開館できず、案内板もなかったです。

街道に戻って先に進むと、街道左手に旧上谷保村の常夜燈がある。

街道書によれば、

寛政6年(1791年)建立、街道の右側にあったもので、道路の拡張に伴って

こちら側に移された。

そばに建つ塔は、千手観音供養塔で、享和2年(1802年)建立である、とあった。

先隣に奥に山門を構えたお寺、臨済宗南養寺があったが、すぐ先にJR南武線矢川駅

入り口交差点なので、南養寺は次回の旅にとし、今日の旅はここで足止めに。

東府中駅から約7km。

見短い散歩旅でしたが、汗ばむような天気に恵まれ青空の下の街道歩き。

さ、次回は多摩川渡りだ、いつの日かに。

電車を4回乗り継いで家路へ。

甲州街道 6 END。