歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第36回    2日目・ 柏原宿~醒井宿~鳥居本宿 後編

11月4日(月振替休)AM11:30、

醒井宿を後にし、南へ向かいます。

六軒茶屋跡。

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続きです、

六軒茶屋跡から100mほどで国道21号に合流。

右手を見ると伊吹山が大きく顔を覗かせてます。

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道路を横切って進行右側に移動し約50m歩くと、右側に一類狐魂等衆碑と地蔵尊

祀られていました。

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薄れて読み難いですが「一類狐魂等衆」のいわれが記されてます。f:id:hansui:20191118070345j:plain

一類狐魂等衆碑から約50m歩くと十字路で、先に丹生川があり、

橋の手前川沿い道左側に、後ろ向きで新しそうな地蔵堂が祀られ、

川沿い右側は壬申の乱横河の古戦場跡があり、解説標板が建っていました。

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丹生川を渡り、国道を200mほど行くと街道は右手に分岐し、

中山道河南標識があり、河南の集落へ入ります。

タンポポが咲いている!

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約300m歩くと、右側に屋根付き囲いに地蔵堂が祀られ、その先を左に曲がった

道すぐに風格ある徳法寺、過ぎて400mほど先左手には作業中らしき鉄骨枠組の中に、地蔵堂が有りました。

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地蔵堂から約210m歩くと、国道21と交差点し横断して進んだ左手は畳屋さんで、中山道木看板下げられ、街道は樋口地区の家並みへ入って行きます。

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樋口交差点から約190m歩くと、左側に地蔵堂が祀られていました。

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地蔵堂から約100mほど、浄信寺入口を見送り城造り塀の屋敷の先で和佐川を

渡ります。

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和佐川橋を渡り約50m進むと、右側に旧家らしい吉田八十郎商店。

真向かいに、立派な長屋門のこれも旧家らしい屋敷がありました。

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長屋門から約250m歩き、右手に敬永寺を見て、
T字路分岐に突き当たり左折し、北陸自動車道の高架下を抜けると先は

Ý路分岐になり、

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分岐点に、日本橋から117番目の一里塚「久禮(くれ)の一里塚」跡があり、

跡地に解説標板と中山道碑が建っていました。

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一里塚分岐を右手にとり久禮(くれ)の集落へと足を進めます。

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すぐに家並みがとぎれ左手は田圃や畑、その向う側は高速道のフェンスが続く

里山道を約300mほどゆくと再び集落の家並みへ入り、

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右側民家の道端に問屋場跡石碑、中山道番場の木札や、家に挟まれた地蔵堂を見て

行くと、

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県道240との十字路になり、十字路手前右側の古民家前にも中山道番場宿・問屋場跡の石碑が建っていました。 

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街道は県道と交差して先へ続きますが、交差する県道240号の右方向は、

琵琶湖の米原湊に通じている米原道で、渡る手前の十字路右角に番場宿碑が建ち、

渡った角には石道標があり、「ここは番場宿です」と記された木製箱型の案内標識が

立ってます。ここが番場宿の東見附(江戸口)のようです。

(案内標識は県道を往来する車用のようです) 

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石道標には

米原 汽車汽船 道」とあり、鉄道・琵琶湖線が開通した明治22年(1889年)

以後にたてられたと、街道書にはありました。

番場宿は古く東山道の頃からの宿駅で、その名は全国的に知られていたようです。

東山道時代は宿場は西番場にあったのだが、慶長年間になって米原へ出る道が開かれると、宿場機能は現在の東番場に移った。米原は番場宿から一理ほどで江戸時代は琵琶湖湖岸にあったことから物資輸送の基地として栄えた。(米原市案内文)

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番場宿、江戸から62番目 116里24町 458.1km

天保14年(1843)中山道宿村大概帳」

本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒、家屋178軒。

米原市 番場宿概要文抜粋」

「宿場の規模は下町、仲町、上町の3町合計で1町10間(約127m:中山道の宿場町の中では最短で旅籠の数も比較的少ない事から宿泊などの利用に不向きだったと思われます。しかし、慶長16年(1611)に彦根藩の命により北村源十郎が米原湊を開削されると、番場宿と北陸道米原宿との間に切通しが設けられ、琵琶湖を利用した舟運の物資が番場宿を経由して中山道に運ばれる物流の拠点として重要視されるようになり、小さい宿場町ながら問屋6軒を擁しました。

町屋にはあまり古い建物が少なく歴史的町並みも失われつつあります。」 

 

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広重 画 番場宿

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すでに問屋場跡を二か所見てきましたが、東番場地域へと進んでゆきます。

東見附からすぐ先右手は脇本陣跡で高尾家が勤め、高尾家は問屋場も兼ねており、

敷地の道路際に標石が建っていました。

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先隣りには北村家が勤めた本陣跡で石碑がたち、こちらも問屋場を兼ね、隣の跡地に

標石と、おおきな、明治天皇小休所跡 の碑も立ってます。

敷地面積は156坪。中には表門や式台付の玄関を有し格式の高い建物であった。

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本陣跡から約50m先の右側に、問屋場跡標石が建っていました。

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斜め向かいには東番場消防団の器具小屋が有り、右隣りの宮は地蔵堂のようでした。

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 東馬場地区には本陣・脇本陣の碑あったけど、遺構らしきものも残されてなく、

 静かな町並みが続いてました。

50mほど先左手に、「南北朝の古戦場跡 蓮華寺 」「 瞼の母 番場忠太郎地蔵尊」 と記された標柱があり、続いて「史跡・蓮華寺」の標柱が立っている。

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長谷川伸の戯曲『瞼の母』で一躍脚光を浴びた中山道の宿場町。

「番場の忠太郎」の故郷として、蓮華寺の境内に忠太郎地蔵尊が立てられています。

門前通りを真っすぐ約150m歩くと名神高速道路で分断され、高架下を潜って

進むと正面に蓮華寺があり、立派な山門が立ってます。

推古天皇の勅願により聖徳太子が創建したといわれる古刹・蓮華寺

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右側に「北条仲時墓所」の解説標板が建っています。

足利尊氏に攻められた六波羅探題北条仲時は番場宿まで逃げたが佐々木道誉に行く手を阻まれ、ついに蓮華寺で仲時以下430余名が自刃。寺に残された過去帳に自刃した

武士の法名が残されているそうです。

(解説抜粋)

墓所は山の上の方とのことなので、寄りませんでした。

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左側に土肥三郎元頼墓所があり、

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本堂裏手に結構大きな番場忠太郎地蔵尊が祀られています。

番場忠太郎は長谷川伸の戯曲「瞼の母」の主人公で、 番場宿は忠太郎の故郷と

いうことで日本版、母を訪ねて・・かな、

昭和6年の初演以来,舞台や映画,テレビなどで数多く上演され、歌も結構あるよう

です。

長谷川伸の作品には、上州沓掛宿の沓掛時次郎もありましたね。

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街道に戻り蓮華寺を出た宿場の道路は緩く上ってゆき、右手奥に法雲寺を見送り、

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その先右手に、寛永二年1625年)創建の彦根藩二代目藩主井伊直孝を祀る。

直孝神社の参道前を過ぎて、

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蓮華寺から約200m進むと左側に、地蔵堂が祀られ奥には大日如来堂が祀られて

いました。

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大日如来堂から約170m歩くと菜種川が流れており、この川が東番場と

鎌倉時代に宿駅だった西番場の境です。

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菜種川はここから街道に沿って左側を流れ、約20m歩くと地蔵が祀られた一角が有り、その先左側に鎌刃城案内標識が建っていました。

※鎌刃城は土肥三郎元頼が築城した山城ですが、織田信長の前に廃城となりました。

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緩やかな坂を上り西番場の街並みへ入ると、右側に寛平6年(894年)年に

創建され、菅原道真を勧請し祀っている北野神社があります。

注連縄の色合いが独特で、西日を受けて一段と目をひきつけます。

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北野神社の先隣は地蔵堂があり、その向かいにの民家前に

中山道西番場 古代東山道 馬場宿」と彫られた石碑が置かれてます。

西番場は元番場とも呼ばれ、中世東山道の宿駅で、あの源義経も宿泊した、と

街道書にはあります。

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ゆるい上り道を行き、寛永12年(1635年)に天台宗から真宗大谷派

改宗した称揚寺、同じく文明年間(1479年前後)に改宗した本授寺を見送って

15分600mほど、集落の途切れ左側に「中山道番場碑」が建ち番場宿を

後にします。

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西番場を後にすると、街道の直ぐ左側は名神高速道路。

振り返ると伊吹山が大きく眺められ暫し足止め。

こうしてみると花の伊吹山百名山伊吹山の西端は砕石場だったんですね。

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のこり少なくなった峠の一つ、の小摺針峠(こすりはりとうげ)へ向かって

緩やかな道を、時々振り返り伊吹山を確認しながらゆっくりと登って行きます。

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勾配がきつくなり、伊吹山の見納めをして、さらに上ると高速道トンネル上になり、

街道書に記されてる、米原市彦根市の市境、小摺針峠頂上へ着きました。

(示す標識などはありません)

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街道は下り坂となり、トンネルを抜けた高速道の轟音を耳にしながら行くと

右側に旅の安全を見守った地蔵堂があり、側に喉を潤した泰平水と呼ばれる水場が

有りました。

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泰平水水・地蔵堂から約500m歩くと、三差路分岐となり、左側に中山道道標が建っていて、分岐を右方向に進み旧ました。

(市境はこの変なのかな?)

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三差路から約300m歩くと、右側に日本橋から118番目の摺針(すりはり)一里塚跡があり、

旧摺針村の集落へと入っていきます。

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一里塚跡から集落のきつい坂道をゆっくりゆっくり上り、100mほど右手に

本尊が阿弥陀如来浄土真宗本願寺派平野山・称名寺があります。

ここも真宗ですね。

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過ぎて約70m先が上りのピークで、街道は左側に残された細い道を鳥居の立つ

方向へ上がってゆきます。

さあ、見えるかな?見えるかな?

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約40mほどの道を上ると左側に鳥居が建ち、神明宮が祀られており、

ここが摺針峠(すりはりとうげ))頂上に当たるようです。

さらに鳥居前から石段を上ると、

創祀年代不詳、永禄二年(1559)再興とされ,祭神は天照大神とされる神明宮が、

 日陰薄暗い木立の中に祀られています。

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 そしてそして、今回の旅の一番の楽しみは、見えるか!!  見えたぞ!!

ついに西方に琵琶湖が見えている!!

デジカメをズームしてカミさんと交互にレンズを覗きます。

日本橋を出立してから4年3か月、歩いて再び、琵琶湖を目にすることが出来た、

感動でしたね。

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広重の江戸から63番目「鳥居本宿」画は、ここ摺針峠を描いているそうです。
すばらしい琵琶湖が見られる名所として知られていました。

左に描かれているのは「するはり餅」を供していた、峠の大きな茶屋「望湖堂」。

目の下に琵琶湖が見えますが、昔の干拓前の琵琶湖は、ずいぶん近くに

あったんでしょうね。

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案内文、

中山道は、かっての東山道で、ほとんどが山道です。近江路に入っても、伊吹山麓の柏原宿、醒井宿をたどり、山間の番場宿にいたります。そして、この番場宿の山坂を登り、頂きの「摺針峠(すりはりとうげ)」に着くと、一気に視野は180度となり、西方に湖東平野とその先に琵琶湖が雄大な広がりを見せます。その峠の傍らには、昔の旅人が一息つき、琵琶湖を眺めていたという「望湖堂」という茶屋がありました。

残念なことに、この建物は平成三年の火事で焼失しました。焼失した「望湖堂」跡に建てられたものです。
当時は前方まで入り江が見えました。焼失した「望湖堂」跡に建てられたものです。
当時は前方まで入り江が見えました。

石段の下り鳥居前の左手に往時峠の茶屋だった望湖堂跡があり、解説標板が建って

いました。

望湖堂
峠の傍らにたたずむ望湖堂からは、往時は琵琶湖が一望できたようで、中山道随一の名勝と言われていました。かって、この茶屋の名物は、弘法大師が供えた栃餅が受けつがれ、旅人たちにもてはやされていました。また江戸時代後期には「皇女和宮」が休憩されたというエピソードも残っています。

神明宮を後にくっだて振り返ると、望湖堂がお城の様に見えましたね。

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 望湖堂から坂を約30m下って街道に合流し、約50mほど行くと、左に下る分岐が

あり、「西国古道」の標識があて左手に下る階段道が有りました。

西国と有ったので旧中山道ではないと思って入りませんでしたが、階段を下るのが

中山道だったようです。

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車道を一曲がりの付近で、野猿の群れに出会いました。

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一曲がり下ると、左手木々の中を下て来た階段道、西国道(旧中山道)が道を

横切って、再び木々の中の草道へ下って行きます。

小さな中山道と記された標識があったので、こんどは草道を下ります。

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谷間の山道はほぼ真っすぐに下ってゆき、一部では踏み跡程度の薄暗い細い草道に

なりますが、しだいに明るさが戻り杉林の中をゆくと、10分ほどで前方がひらけ

山道を抜けました。

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山道の中山道は抜けてすぐに車道と合流し、国道8号と合流する手前で車道を

横断して、左手の下矢倉旧道へ曲がります。(写真右、車の前に見える建物の間)

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下矢倉旧道へ入り半円を回り込むように進むと矢倉川に当たり、川沿いを左手からくる道に合流し右折。その先で国道に合流し、矢倉橋を渡りなす。

矢倉川出会い角に中山道石碑と「摺針峠望湖堂」と書かれた大きな石碑が立っている。 

峠を越えて下ると琵琶湖湖畔の平地。

さすがに秋も深まった季節、時折強く吹く北西の風は冷気が肌を刺すようです。

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一級河川の矢倉川に架かる矢倉橋を渡り、すぐ20mほどに中山道道標が立ち、

街道は国道から分岐し矢倉川沿へ進みます。

道標には「右 中山道」「左 北国街道 米原 きの本」と書かれています。

北国街道は、この先、国道8号を米原に向かっていました。

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道標から約20m歩くと、左側に彦根市のモニュメントが建っていました。

モニュメントは三本の石柱の上に、近江商人、旅人、虚無僧の像が乗っていました。

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蛇行する街道をゆくと、右側に中山道鳥居本町標石が立ち、ここが鳥居本宿の

江戸口のようです。

鳥居本宿、江戸より69次の63番目 

天保14年(1843)編纂「中山道宿村大概帳」によると

本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒、家屋293軒、人口1448人
日本橋より117.25町 462.1km、醒井宿より1里1町 約4km

京の都三条大橋までは69.2km約18里 残り70kを切りましたね。

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多賀大社の鳥居がここにあったことからその名がついたと伝えます。
また、中山道と、彦根道(朝鮮人街道)〜北国街道が分岐する交通の要衝として

賑わいました。

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江戸口を過ぎて、鳥居本宿の街並みへ足を進めると、街道筋の情緒を漂わせた

家並へと入ります。

(写真下の中は、彦根市のマンホール蓋です。中央には、金亀山の亀甲をかたどった

 彦根市章を配し、市の木「たちばな」が添えられているそうです)

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左側に白い漆喰で塗られ、うだつを上げた、虫籠窓の名残が残る格子造りの商家。

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茅葺きの屋根を残したの民家

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その先は桝形路で、曲がり手前右角の広い敷地に建つ大邸宅。

ここが「さんあか」の一つ「赤玉神教丸」の製造販売元、有川家です。

「隣の宿場である高宮宿の多賀大社の神教によって製造されています。

万治元(1658)年の創業。腹痛、食あたり、下痢止めに効能がある、5ミリぐらいの

赤い粒の薬で、20粒入りを一服として、創業から350年を経た現在も、

昔ながらの製法で製造販売されています。」 (案内文より)

 

写真上が有川家の本屋で、建物は宝暦(1751~1763)年間の建築です。

有川家はもと郷士(ごうし)で、鵜川を名乗っていたようです。

250年たった今もどっしりとした大店風情があります。

その後、この地に居を構え有栖川宮家に出入りを許されるようになったのが縁で、

有川を名乗るようになったそうです

休日のためか、楽しみにしていた「赤玉神教丸」屋号を染め抜いた「暖簾」は

見ることができませんでした。

旧門前に明治天皇が小休所標石が建っています(写真下右端)

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旧街道からそれて、有川家の並びのお宅の前を進みます。10mぐらいで国道8号に

出ます。国道の向こう側にあったのが上品寺(じょうぼんじ)です。

このお寺も、天台宗の寺でしたが、明暦2(1656)年から浄土真宗改宗してますね。

西美濃へ入ってから、天台宗から改宗した浄土真宗のお寺が多くなりました。

江戸初期に幕府による宗派統制の影響なのかな?

ここの7代住職了海(法海坊)が江戸で托鉢し、吉原の遊女たちの寄進などもあって

つくられた釣鐘が残っています。

f:id:hansui:20191120172205j:plain有川家まえの枡形にもどり左折して、虫篭窓の建屋やうだつの上がる旧家などの街並みをゆっくりと進みます。

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右側に「旧鳥集会所」の看板がある建物があります。

こちらの妻入りの町家は、江戸時代には「米屋」の屋号をもつ旅籠でした。

この家の治平(後に、岩根治右衛門)は中島安康(井伊直弼の絵の師匠)から学び、

湖東焼きの絵付師として活躍し、藩窯として隆盛を極め写実的な画風の優れた作品を

生み出し、直弼から「自然斎(じねんさい)」の号を授けられました。

建物の内部は旅籠時代の面影を残しています。 (案内板)

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旧旅籠米屋から約80m進むと、左側に虫籠窓家屋「デイサービス鈴の音」があり

ました。

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白い漆喰の家は岩根家住宅で、右側に板塀に解説標板が掲げられていました。

「合羽」の製造・販売をしていた「木綿屋」です。

創業は天保3(1832)年で、看板「本家合羽所木綿屋嘉右衛門」を掲げています。
鳥居本宿には、寛政(1782~1800)年間には10軒、文化文政(1804~1830)年間には15軒の合羽屋があったといわれています。

鳥居本の名産の合羽は享保5(1720)年、馬場弥五郎の創業といわれていて、

楮(こうぞ)からつくった和紙に柿渋を塗って、保湿性と防水性を高めた良質の

合羽をつくり、雨の多い木曽路に向かう旅人には必需品になっていて名声を高めた

といわれています。

柿渋を塗る時に弁柄(紅殻)を加えたために、赤い色の合羽になったようです。

ちなみに、合羽は、ポルトガル語の”CAPA”(カパ)が語源のようです。

(案内文)

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木綿屋の看板です。「本家合羽所 嘉右衛門」と書かれています。木綿屋は江戸、伊勢方面に販路をもっており、大名、寺院、商家が得意先で、大八車にかぶせるシート状の合羽を主に製造していたそうです。「本家 合羽所 木綿屋 嘉右衛門」と書かれた当時の看板が今も家の前に吊り下げられている。

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合羽所木綿屋跡の斜め向かいに本陣跡があり、跡地に解説標板が建っていました。
本陣は寺村家が勤め、本陣門が倉庫の扉になっているとのことす。

昭和10年頃、洋館に建て替えられたため、現在、遺構は残っていません。

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本陣跡から約20m歩くと、右折出来る分岐があり、右方向の奥に近江鉄道鳥居本駅があり、少し先左手は脇本陣でした。

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 垂井宿を旅立って27.1km。次に高宮宿までは約6km。

時刻は午後の3時40分、秋の日暮れは早く気温も下がり始め、

日陰はかなり冷え込んできました。

まだ鳥居本宿は抜けていませんが、2019年11月4日、第36回目の旅は、

ここで足止め。

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脇本陣から少し戻りT字路を右折して、近江鉄道鳥居本駅へ向かい、

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 PM4:01分の電車で米原へ。
JR東海道線に乗り換えて宿の大垣へ向かいました。

JRの車窓から、今日も夕暮れの伊吹山を眺めながら・・

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旅は終わりました。