2020年10月21日
今朝、JR武蔵野線から東武スカイツリー線へ乗り換えた新越谷、南越谷駅入り口。
時刻も夕暮れ近しの4:20.
竹ノ塚から約11km約4里弱、今日の街道散歩は足止めとし、家路へ。
綺麗な三日月を見上げながらPM5:30帰宅。
今日もまずは元気に歩けたこと、ありがたし。
さあて、この後のお天気はどうかな・・・第3回終わりました
歩けるときに歩けるうちに、はい、お天気良しと街道散歩へ。
2020年10月25日 日光道中二十一次 街道散歩 第4回へ。
AM7:30家を出バス、電車を乗り継いでJR武蔵野線・南越谷駅へ。
駅前Caféでお茶タイムを取り、出立ショット撮影。
県道49(日光街道)の交差点より北へむけAM9:10、出立。
JR武蔵野線のガードをくぐって進むと、紀州藩の鷹狩り場があったという
瓦曽根(かわらぞね)に入ります。
右手の照蓮院駐車場の奥に窮民救済の碑があります。
瓦曽根村の名主中村彦左衛門は飢饉に備え、金子を幕府御貸付所に預け入れ、
天明年間(1781~89)の凶作の際に元利金を払い下げて窮民に分け与えました。
との解説でした。
隣に真言宗慈氏山照蓮寺があり、創建年代は不詳ですが、天正19年(1591)に
徳川家康より寺領五石の御朱印状を拝領した古刹ということです。
街道書には戦国武将・武田勝頼の遺児・千徳丸の供養塔がある、と記されてます。
越谷市の資料によると、
瓦曽根秋山家の祖は、甲斐國武田氏の家臣秋山信藤(しんどう)で、その子長藤は
天正10年(1582年)武田氏滅亡の際、武田勝頼の遺児幼君千徳丸をともなって
瓦曽根村に潜居しました、千徳丸は間もなく早世しましたが、それを悲しんだ長藤は
照蓮院の住職となってその菩提を弔ったと伝わっています。
秋山家の墓所に寛永14年(1637年)建立の御湯殿山千徳丸と刻まれた
小さな五輪塔(供養塔)がありました。
(ただし境内内には案内的ものは無く、事前に知らなければ見過ごしてしまいますね)
照蓮院向いはY字路三叉路(瓦曽根ロータリー交差点)で街道は県道49から
左手へ行き、角に里程標があると街道書にあるが、見渡してもわからなかった。
(後で確認すると渡ったところの手前の、三角地の先端にあったようだ)
瓦曽根ロータリーのY字路を左の街道に入り、少し先で町名が瓦曽根から越谷になり、
越谷宿へと入ったようで、歩道帯の無い狭いけど交通量の多い道を越谷駅入口の
交差点をまで来ました。
(交差点で左側へ渡ります。まっすぐ行くと越谷駅)
越谷宿は江戸(日本橋)からの約28km(約7里)。
日光街道および奥州街道の3番面の宿駅(宿場町)であり、武蔵国埼玉郡にあった。
宿内家数は1500軒、本陣 1 脇本陣 4、旅籠52軒 4603人。
宿並は明治期の2度の大火でほとんど焼失したという。
宿場は現在の越谷市中心部から、元荒川の北側にある北越谷近辺まであり、
当時は北越谷周辺の方が栄えていたそうで、越ケ谷宿は2と7の付く日に六斎市が
立ち、近郷商圏の中心地だったという。
駅入り口の少し先 の路地奥に鳥居が見へ、街道書では文和2年(1353)の
創建で越ケ谷宿新町の鎮守、新町八幡神社とあった。
車の行き交う狭い道の軒下を縫うように歩きます。
越谷2丁目交差点の付近に江戸日本橋より六里目の越谷一里塚があったようだが、
影も形も案内も無し。
右手塀際に見つけた案内標識江戸時代末期に建てられた蔵で、平成29年に寄贈され、現在は改修したコミュニティ施設として公開したようです。
街道へ戻る際、街道書にある樹齢400年以上というタブノキは何処かな、と
回り道しながら街道へ戻ったが、それらしい樹は見つけられなかったが、
写していた黒塀の屋敷内にあったようだ。
宿並に戻る手前で奥に神社が見え、街道書のある浅間神社で中町の鎮守です。
鳥居手前のケヤキは、樹齢六百年で越谷市指定天然記念物だそうです。
神社は越谷有形文化財工芸品で応永32年(1425年)銘の富士山と大日如来を
型取った懸仏(かなえぼとけ)というのが有り、室町時代の創建ではということです。
信号交差点に戻ると右手が問屋場跡です、会田五郎兵衛が勤めましたが遺構は残されていません。
左手の国登録有形文化財 木下半助商店は脇本陣四ツ目屋跡で、浜野家が勤めました。
明治時代後期から大正時代にかけて建築された道具店で、表通りに面する店舗のほか、土蔵、石蔵、主屋、稲荷社が現存しています。
次いで右手に蔵造りの塗師屋があります、 東講商人鑑には太物荒物店 塗師(ぬし)屋右衛門と言われた小泉市右衛門宅。漆を扱っていた店で屋号を塗師屋。
古くは漆を扱い、後に太物(綿、麻織物)を商っていたそうです。
並びが明治三十三年(1900)築、蔵造りの鍛冶忠です。
前の職業は鍛冶屋だったそうで、屋号もそれにちなんだ店名です。明治になり、今の荒物屋に変わり、藁工品(筵、こも、荒縄)などを取り扱い現在に至っております。
(右端が塗師屋)
昭和レトロの雰囲気も残された街並みですね。
宿並を進むと右手に市神社が鎮座しています、本町の鎮守で二と七の付く日に六斎市が立ちました。
奥に長く、後ろに重厚な蔵を持つ、典型的な街道筋の商家
はかり屋、の暖簾が掲げられていた。
今日は、休店日だが「荒物屋」と呼ぶにふさわしい金田金物店店は現役。
荒川の本流であった元荒川を大沢橋で渡ります、明暦元年(1655)関東代官伊奈半左衛門によって高欄付の板橋が架橋され、境板橋と称しました。
立ち寄りしませんでしたが、右手に元荒川に沿って進むと、先の右手に越ケ谷御殿跡があるそうです。
徳川家康、秀忠の鷹狩りの休泊所でした、明暦三年(1657)の振袖火事で江戸城が全焼すると、急遽越ケ谷御殿を解体し、江戸城の復興にあてたといいます。
元荒川(明暦年間は荒川の本流であった。)に架かる大橋(大沢橋)を渡ると
大沢と呼ばれた集落(現大沢町)へ入ります。
かっては越谷宿の中心部で越谷宿本陣などががあったようだが、現在は案内板も
何もなく、今はその雰囲気は見られなかったですね。
街道書に記された場所を探しながらの、憶測宿場散策です。
「きどころ」の看板が掛かっているパン屋のビルがある。
ここが本陣大松屋福井権右衛門跡のようです。
当初、越ケ谷町の会田八右衛門が本陣を勤めましたが、没落したため大沢町の福井家が本陣を勤め問屋名主を兼ねました。
宿並を進むと右手の深野造園が玉屋脇本陣跡です、深野彦右衛門が勤めました。
次いで左手の生そば三枡屋が虎屋脇本陣跡です、山崎次兵衛が勤めました。
敷地奥に鬼瓦等を残しているそうです。
信号交差点を越すと左手に、真言宗智山派梅華山照光院があります、
墓地に本陣(パン屋のところ)を勤めた福井家代々の墓があり、
梵鐘は安永八年(1779)の鋳造で、明治十年(1877)大沢小学校が開校され
たという。
先を右に進むと左手に香取神社が鎮座しています.。
応永年間(1394~1427)に下総國一の宮香取神宮の分霊を勧請し、
大沢村の鎮守としました。
今日は日曜なので、七五三、宮参りの沢山のファミリィーで大賑わい。
子供の成長に合わせた祝い行事は、今や定番の家族イベントで艶やかに定着ですね。
香取神社という名前の神社は、「香取」を社名に持ち経津主神を祭神とする神社。
関東地方を中心として全国に約400社あり、千葉県香取市の香取神宮を総本社とする。多くは香取神宮から勧請して創建され、神宮と同じ経津主神を祀っている。
主に利根川・江戸川沿いを中心に分布する。
慶応2年(1866年)建立の本堂。
裏手の奥殿の四面には、見事な彫刻が施されている。
香取神社の先左手の東武スカイツリーラインの北越谷駅を越すと、
大沢から北越谷に入ります、この境が越ケ谷宿の北口で、この先は東武線の敷設に
よって消滅し、東武線高架に沿って右カーブで250mほど行き高架の下をくぐり、
旧道へ復帰で、向こう角は土手になっており古奥州道道標など三塔が建ち
右の青面金剛庚申塔は道標を兼ねて「右じおんじ のじま道」と刻まれている。
300mほど行くと左側に、砂利の敷き詰めた道の奥に大きな門があり 、
こんもりとした森がある。
手持ち資料には御殿場とあるが、鴨の飛来が少なくなった東京浜離宮の代替として
明治37年(1904年)皇室用の遊猟場として建設された、宮内庁埼玉鴨場でした。
約11万7000㎡の敷地の中に約1万2000㎡の鴨池があり、今でも皇室の方や
大使館の方が鴨狩りにくるそうです。
付近から地名は大林に替わった。
鴨場の森が途切れた左手奥に、享保5年(1740年)創建の曹洞宗大林寺があった。
街道書によれば、門前の大乗妙典一千部供養塔は元文5年(1740年)の建立で、
境内のお堂に祀られた出世大黒天は、嘉永元年(1848年)の造立とある。
大黒天は厨子のような中で、扉が閉まって見られなかった。
先からは歩道帯が再びなくなり、頻繁に車の行き交う道端しを窮屈に歩きます。
しばらく行くと左奥に大林の鎮守様香取神社がある。
境内に青面金剛像庚申塔、猿田彦大神庚申塔、など数基の塔があるが、説明板などは
無く、先ほどの香取神社の賑わいと雲での差はなんでだろう??
東武鉄道の踏切が見え、手前の祠にも宝永七年(1710)建立の青面金剛像庚申塔が
置かれている。
踏切を越えてすぐの木立の下に隠されたように、馬頭観音や地蔵尊と思われる、
石仏石塔群が集められていた。
周辺の道路など整備の際に集められたかな。
街道沿いの住宅の合い間などに小さな墓地が結構残されていて、墓地の隅に多数の
庚申塔等が建っていた。
国道4号バイパス高架をくぐり大袋駅入り口交差点を過ぎ、歩道なき道をゆくと
下間久里地区に入りました。
ずいぶん小さな墓地が多くなり、同姓の墓石が多く地域集落一族の墓らしい。
地蔵堂や阿弥陀堂が祀られ、敷地内に地蔵尊像や多数の石仏石塔等が並んでいる。
下間久里には江戸日本橋より数えて七里目の下間久里の一里塚があったそうですが、
今は存在位置共に不明だそうです。
越谷伝統工芸の松崎ダルマ産業の向いを右に入ると、カラフルな秋の花々が咲いて
いて、奥に下間久里村の総鎮守、下間久里香取神社が鎮座していますです。
例大祭に奉納される獅子舞は、太夫獅子、中獅子、女獅子の三頭一組で舞う獅子舞で
祈祷獅子の形態を保っている(埼玉県指定無形民俗文化財)と街道書に記されてる。
相変わらず歩道帯の無い街道を進むと、左手に松が聳える家があり、
街道書では秋田屋(上原家)秋田炉跡とあります。
この辺りは越ケ谷宿と粕壁宿の中間に当たり、八軒の茶屋が軒を連ね元荒川で獲れた
鰻の蒲焼が名物だった間久里の立場でした。
中でも秋田屋には参勤の秋田藩佐竹侯が必ず立ち寄り、藩主専用の座敷秋田炉(しゅうでんろ)があったという。
街道は陸橋入口交差点にて国道4号線に合流し、ようやく歩道帯が復活です。
せんげん台交差点手前の国道4号標識。
春日部5km?(春日部のどこまででなんだろう?)
200mほど先で新方川を戸井橋で渡り、越谷市から春日部市に入ります。
新方川は元の千間堀です、流末は中川に落合います。
後半へ続きます。