歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 街道散歩(第四歩 後編)

 200mほど先で新方川を戸井橋で渡り、越谷市から春日部市に入ります。
 新方川は元の千間堀です、流末は中川に落合います。

続きへ入ります。 

橋で越谷市から春日部市へ入り、マンホールデザインも春日部市の花、「藤」に。 

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市の花、フジと言えば春日部牛島の藤が昔から全国的に知られてます。

同じ県内でも、我が家とは西と東の端同士もあって、訪れる機会が無かったが、

10年ほど前に今が見ごろと花便りをいただき、車を走られたことがあった。

 

牛島のフジは紫フジの巨木で、伝承によると弘法大師御手植えと伝えられ、

樹齢は1,000年とも1,200年とも言われてる。

当所は寺の境内だったそうですが廃寺となり、現在は小島家による藤花園により

管理公開されている。

1928年(昭和3年)に国指定の天然記念物となり、1955年(昭和30年)には

特別天然記念物に格上げされている。(説明文より抜粋)

そのほかに樹齢300年の藤も咲いてました。

そうそう、今は春日部駅の西側のにも1kmと言われる藤棚があって、

見ごたえがありました。

(10年前撮影の牛島の藤)

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常陸の国の町名が出てきました。

大枝地区になり、

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300mほど先左手奥に、大きな看板を掲げた真言宗豊山派歓喜院があり、武里観音

として広く知られているそうです。

(塀の向う側、大きな本堂が建ってます)

歓喜院の手前に平屋で、歓喜院の寺鎮守として、また大枝村の鎮守五穀豊穣の神と

して建てられた、大枝香取神社(手前の平屋)がこじんまりと鎮座してました。

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すぐ先の武里駅入口交差点で左折すると、右手に浄土宗大畠山西光寺があります。

参道口に地蔵尊天保六年(1835)建立の庚申塔がありました。

境内に入れば宝暦四年(1754)建立の普門品供養塔もあるそうです。

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武里駅入り口から約30mほどで川を渡ると、地域は大畑から備後に入ります。

弘法大師が備後國から観音像を移す際に行方不明となったが、この辺りで見つかった

ので当地を備後と命名しました、との由緒の地名だそうです。

600mほど行き、正善小入口交差点を過ぎると右手奥に

御雷(たけみかづち)神社が鎮座しています。

元は雷電社と称していたが明治初年に現在の社号に改め、境内に富士浅間宮大権現を

祀る富士塚があります。

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さらに300mほど先、備後交差点手前の右手奥に浄土宗称名寺があります。
 

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境内に享保六年(1721)造立の三界萬霊地蔵尊(写真左上)や、

生信忍譽と刻まれ、子宝に恵まれない婦人がこの石に腰掛けると授かるとう金精様と

呼ばれる男石があります。(写真左下)

境内の墓石も古いようでした。

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街道書にある地蔵祠はどこかな?と行くと、300mほど先左手に、二体の地蔵立像

が安置された祠がありました。

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地蔵像からしばらく行った備後(北)交差点の右手に、江戸日本橋より8番目の

史跡備後一里塚跡碑がありました。

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先すぐ右手に、境内に親鸞聖人旅姿像がある浄土真宗本願寺派善巧寺があります。

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街道書によると、藤塚橋交差点の右手に入ると藤塚橋があり大落古利根川が流れて

るようです。

立ち寄りませんでしたが、大落(おおおとし)とは農業排水を落とす(流す)の意で、利根川の本流でしたが、江戸時代初期の東遷事業により江戸湾から鹿島灘に注ぐ河川に付け替えられあそうです。

藤塚橋の位置には三蔵渡しと呼ばれる渡船場があり、昭和八年(1933)には

有料の木橋が架けられ、賃とり橋と呼ばれた橋だったそうです。

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藤塚橋からタンタンと30分ほど行くと、東武野田線ガードをくぐります。

野田線で一つ東側に「藤の牛島駅」と今は改名された駅があるんです。

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300mほど粕壁東を進むと左手に東町大下稲荷神社が鎮座し、境内には庚申塔等が

あるようです。

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さらに300mほどの一宮歩道橋右手に、八坂神社が鎮座しています。

粕壁宿の市神として信仰され、江戸時代には牛頭天王社と呼ばれました。
 境内には文政二年(1819)建立の猿田彦大神塔等があります。

 明和7年(1770年)の火災で社殿が焼失のため、勧請の由来等は不詳です。

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八坂神社前の一宮交差点で国道と分かれ街道は左手へ行き、再び旧道を歩く

ことになり、神社前辺りが粕壁宿の江戸口になるようです。

枡形と言われる曲がり道かな?

信号が青になり、三叉路をいったん直進してから国道を左手に横断。

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粕壁宿、

江戸日本橋から9里2町(約36km)、4番目の宿場町です。

古利根川の舟運により江戸と結ばれ、諸物資の集散地として栄え、毎月4と9の

付く日に六斎市が立ち大いに賑わいました。

天保14年(1843年)の日光道中宿村大概帳によると、

宿内家数は773軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠45軒、宿内人口は3701人。

 

一宮交差点で国道を左手にわたるとすぐ先にの右手に曹洞宗医王山東陽寺の東門が

あり、、右手国道越の路地奥に鳥居が見え神社がありました。

街道書によると、神社は粕壁宿の鎮守で新田義貞の鎌倉攻めに功があった春日部時賢が鎌倉鶴岡八幡宮を勧請した東八幡神社で、樹齢600年の大欅などが有るようです。

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左手の国道4号から入れる東陽寺の門がありそのまま境内へ。

曹洞宗寺院東陽寺、寺説によれば創建年代等は不詳ながら、文明年間(1469-1487)に春日部八幡神社の東隣に創建したと伝えられ、寛永元年(1624)に焼失、寛文2年(1662)当地に再建し中興開山したと伝えられます。

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本堂の階段の右手には、松尾芭蕉と同行の曽良旅日記の一節

「廿七日夜カスカベニ泊ル江戸ヨリ九里余」と芭蕉曾良の絵が刻まれた碑が

あります。平成元年に奥の細道紀行300年を記念して建立されたそうです。

芭蕉は1日目の宿泊地は、奥の細道

「其日漸(そのひようよう)早加と云宿にたどり着にけり。」と書いているので

2説あるようですね。

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正門(山門)から出ると粕壁宿の街並み道です。 

宿場内の通りの長さは24町35間(約3km)あったとそうです。

宿並左手の金子歯科医院の前に脇本陣(本陣)跡標柱がありました。
 中宿(仲町)の蓮沼庄兵衛が脇本陣を勤めた後、天保元年(1830年)現在地で

旅籠を営んでいた高砂屋竹内家が脇本陣を引継ぎ、嘉永2年(1849年)から

幕末までは五番目の本陣を勤めた。

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 (標柱は比較的新しく、ナンバーが振って有り、脇に簡単な説明書きがありました。

  後で調べると、宿入り口の八坂神社を①として順位設置されてるようです)

資料によると先の文化会館交差点の付近には、かつて水路があり、板石三枚の橋が

 架けられていたところから、この辺りは三枚橋と呼ばれていた。

 この交差点を左折(写真では右折)すると春日部市郷土資料館があります。

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200弱先へ進んだ群馬銀行付近が街道書では、文化六年(1809)から

嘉永二年(1849)まで小沢家が務めた本陣跡と、記されてます。

小沢家は四番目の本陣を勤めたそうです。

粕壁宿の本陣は、古くは関根次郎兵衛家が務め、その後火災などもあり、

関根助右衛門家、見川家、小沢家、竹内家の順で合わせて5度移転したそうです。

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春日部大通り(旧日光街道)は電線類の地下化し、道も大幅に拡幅され、

すっきりとした街並みに変貌しているため、往時の面影はあまり感じられない。

(右手の匠大塚はあの親子喧嘩の? その前は西武だったと思うが)

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向かいのげんき薬局前に本陣跡標柱(写真真ん中)があります。

街道書では、二番目に本陣を務めた関根助右衛門本陣跡で、宝暦四年(1754年)

まで勤めました。

粕壁宿の本陣は五回変遷していると前にありました。

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粕壁東一丁目交差点を過ぎると左手に春日部仲町郵便局があります、この辺りが

粕壁宿開設当初の一番目の、関根次郎兵衛本陣跡ともいわれるようですが、

示すものは何も残されてなく不確実と言われます。

先に進むと右手に大木の松の木、蔵造りの店舗、横や後ろに豪壮な蔵や家屋を持つ

旧商家・東屋田村本店があり、店前に天保五年(1834)建立の道標には、

「西南いハつき(岩槻) 北日光東江戸 右之方陸羽みち」と、

 あるそうです。

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すぐ先の公園橋(西)交差点手前の右手に田村荒物店(分家)があります。

側面に回るとわかるようですが、街道書では「敷地は大落古利根川まで続き、

豪壮な家屋と蔵を残している」そうです。

中宿(仲町)と呼ばれたこの辺りには間口が狭く奥行きの長い敷地の米問屋など

蔵造りの商家や旅籠屋などが軒を連ねていたそうです。
 公園橋(西)交差点を左へ行くと東武スカイツリーライン東武野田線

春日部駅で、今日は足止めです。

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東武線、JR武蔵野線、バスと乗り継いでPM6:10帰宅

(帰りの電車の中で思いだしたのは、春日部と言えばTVアニメや映画などで人気の「クレヨンしんちゃん」が住民登録をしてる町だった。

 ところどころにキャラクター絵があったようだが・・・)

第4歩、終わります。