甲州街道四十四次 7

6回目の甲州街道から1週間余、

天気は薄曇りだが雨は大丈夫そう、とGW最終日の6日、再び街道歩きへ。

電車を3回乗り継いで、前回足止めの東京都国立市、JR南部線矢川駅へ降り立った。

駅から南へ歩き、おっ、地域コミニティーバスはマイクロバスだ。

路肩の花壇、いい色だねナデシコだね。

10分ほどで、旧甲州街道都道256・現甲州街道矢川駅入口交差点。

甲州街道国道20号は、国立で国道日野バイパス20号となり、

しばらくは都道256が、現甲州街道

交差点を渡ってすぐ左手の南養寺へ。

南養寺参道入り口には常夜燈が建ち、右手は千手観音供養塔。

常夜燈は秋葉山常夜燈で、寛政6年(1794)の建立。上谷保村にあったのが

移築されたという。

竿石には秋葉大権現、榛名大権現と刻まれている。

右側の千手観音供養塔は、寛政5(1793)年に圓成院の観音堂を南養寺に移築した際に、

本尊の十一面千手観音坐像を供養する塔として、享和3年(1803)に建立された、

と、そばに建てられた案内板があった。

南養寺は臨済宗建長寺派。 

開山は建長寺三十七世真照寺大定禅師物外可什大和尚で、

江戸期には寺領10石の御朱印状を拝領したという。

総門は安永9年に建てられ、本堂は文化元年(1804)、圓成院の観音堂を寛政5年(1793)に移築移築した

大悲殿、鐘楼は天明8年(1788)の建立、と案内板にあり、いずれも国立市指定史蹟・文化財とあった。

拝観しなかったが、本堂の北面には枯山水様式の庭園があるそうです。

 はやい!、境内にキスゲが咲いていた。

南養寺を出て交差点を北側へ渡り、すぐ右手の祠は、五知如来と街道書にある。

五智如来とは、仏教でいう五つの智を備えた仏のことで、大日如来の別名とも言われています…とのこと。

江戸時代に八王子から移住した人々が、それまで信仰していた五智如来を祀ったの始まりと伝えられている。

今でも10月には「おこもり」と呼ばれる、五智如来の供養が行われているともあった。

歩きを楽しみながら、

やあ、いい花付きだね~ニオイバンマツリ

ロゴかな?

五知如来より10分程、街道書では左手に旧青柳村、旧石田村の鎮守である

青柳稲荷神社の参道入口とあり、その左側には江戸時代前期造立の木造地蔵尊

安置されている青柳地蔵堂が建っている。

地蔵堂は中は見えませんでした。

右側には寛政11年(1799)建立の元青柳村の常夜燈が建ち、竿石には「秋葉大権現」「正一位稲荷大明神」「榛名大権現」と刻まれている。

傍らに嘉永2年(1849)建立という馬頭観世音があった。

地蔵堂の脇の参道を入っていくと青柳村の鎮守様、青柳稲荷神社。

5分ほど先の交差点の左手に下る坂道があり、万願寺渡し場跡口とで、

慶安年間(1648年~)30数年ほど、舟渡しがされたた、と街道書にある。

さらに5分ほど進むと国立市から立川市へ入り。

さらに10分、どちらへ進むのか?変則五差路の日野橋交差点。

正解は右手にスタンドのある一番狭い奥多摩道路と、街道書に。

甲州街道(都256)と別れ、ここから奥多摩街道を入り5分ほど、旧甲州街道

標識に沿って左に入り、桜並木になっている道を進む。

立川市の市の花、「こぶし」なんですね。

右手によく整備された広い敷地は市柴崎体育館

入口前建つ案内板の怪しいシルエットは?

体育館でトイレ拝借後、さらに下り交通量の多い都道29号線を横断すると、

突き当りの市の下水処理場前で右手に曲がる。

突き当り左側に、日野の渡し碑が建っていた。

街道書には、

「江戸初期の渡し場は下流の「万願寺の渡し」であった。低地のため度々の洪水に

見舞われ街道が分断されたことにより、街道は河岸段丘の上の現甲州街道に移され、

それと共に、貞享元年(1684)農耕作業などで使われていた日野の渡しが甲州街道

正式な渡しとして決められた。現在の立日橋(たっぴばし)の下流の位置にあたる。
 渡しは多摩川の冬期の渇水期には土橋が使われ、3月から10月までは船によって行われていた。江戸時代後期、文政7年(1824)からは通年船による渡しに改められている。
大正15年(1926)日野橋の架橋で、日野の渡しは江戸時代初期から続く270年あまりの歴史に幕を閉じた。」と記されている。

碑の向かい側一角に、大小の馬頭観がある。
小は年代物のようだが、大きい棒観音は大正13年(1924)建立と刻まれていた。

すぐ先を左折すると多摩川の土手に当たり、

土手上道を右折し、旧甲州街道として今は立川市と日野市を結ぶ

立日橋(たっぴばし)を渡ります。

多摩都市モノレール線の橋梁が一体となって供用され、この橋の上をモノレールも

通っています。

そしてこの辺りが、かつての多摩川の渡し。日野の渡し、日野渡船場などと呼ばれて

いた。

多摩川を渡ります。

久しぶりの大きな川渡り。

上流側

おおっ、富士山だ!

薄曇りだったので、富士の山を拝めるとは思てもいなかたので感激!

黒いからだに白いおでこと嘴、オオバンだね。

おや、カワウやシロサギ(ダイサギかな)もいた。

立日橋上で立川市から日野市へ入ります。

渡った先、立日橋南でモノレールと別れすぐ先は市民の森スポーツ公園交差点。

右手に市民の森スポーツ公園を見て歩き、現甲州街道(都256)に合流に

向かいます。

おっ、日野市のマンフォール、デザインはカワセミなんだ。

散歩公園や川沿いデカワセミん出会うことがあり、歩きにはデジカメ持参です。

しばらく出会ってないな~・・池のカワセミ

交差点の手前左手に、文化8年(1811)建立の馬頭観音があり、奥の祠に享和9年(1809)の造立という福地蔵ともいわれた東の地蔵が祀られていた。

街道書に、ここが日野宿の江戸(東)口とあり、いよいよ日野宿へ到着。

すぐ先が甲州街道都道256号線)で、右へ折れて日野宿の中心へ向かいます。

街道書には、

 日野宿は、 日本橋から数えて10番目の宿場。宿場町として整備されたのは

 慶長10年(1605)の ことで、八王子宿を整備した大久保長安の手によって

 開かれた。
 本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠20軒、問屋場一軒、総家数423軒、人口1556人
 宿は東の方より下宿、中宿、上宿と称し、中宿には名主、本陣、脇本陣を務めた

 2軒の佐藤家があった。とある。

洋館のように見えますが、実は蔵だそうで、元は有山家の蔵。

明治時代に建てられ、関東大震災後に改築されたという。

かつては日野銀行の店舗として使われていたが、現在は閉鎖中のようです。

隣にっは蔵も残されていた。

金網フェンスなった案内板説明には、

この通りには、有明家(屋号綿十)、中嶋家(嶋谷)、古谷家(油屋)土方家(土屋)

と、蔵の連なる街並みがあった、と記してあった。

おや、左手の駐車場看板には・・・屋号土屋の土方家跡かな。

おや、日野も5月は祭りなんだ。

2,3分先で川崎街道入口交差点。

向こう角に木に隠れて高幡不動道標が立っている。

街道書には、1884年(明治17)年に建てられた、とあった。

高幡不動新選組土方歳三菩提寺ともある。

すぐ先左手が、本陣としては東京都内で唯一遺された下佐藤家本陣跡(日野宿本陣跡)が現存し、公開されていた。

下佐藤家は隣の上佐藤家と交代で名主を勤め、正徳6年(1716)脇本陣と定められ、

幕末には本陣となった。。

  門脇に当主の佐藤彦五郎が開いた「天然理心流佐藤道場跡」の碑があった。

この道場で剣術を教えていたのがのちの新選組局長近藤勇である。近藤と土方歳三沖田総司井上源三郎山南敬助新選組主要メンバーはここで出会った、と街道書に。

本陣跡の屋敷内は街道歩きで、多く見学したので屋敷内へは上がらなかった。

 隣は下佐藤家と交代で本陣を務めた、上佐藤家跡で、正徳6年(1716)本陣と

 定められた。長屋門等は消失してしまったという。

本陣跡の向かいが問屋場・高札場跡で碑が立っている。

寄らなかったが次の信号を左折して行くと大昌寺、と街道書にある。 
墓地には、新撰組最大の支援者だったと言われる佐藤彦五郎と、その妻であり

土方歳三の姉であるノブが埋葬されており、新撰組にゆかりのある寺院。
 境内には日野宿の時の鐘がある。

と街道書にはあった。

おや、アジサイでは!もう咲き始めてるよ。

本陣跡から10分程、日野市役所入口交差点の先左手に八坂神社があった。

 日野八坂神社の創建年代は不詳だが、 慶安元年(1648)には徳川家光から

 社領免除と朱印地十四石を拝領した日野郷の総鎮守社。
 本殿は、寛政12年(1800)に完成したもので、本殿には、安政5年(1858)に

天然理心流近藤周助(勇の養父)の門人達により奉納された額があり、欅板に大小二本の木刀が架けられている、と街道書にあった。

神社の前の交差点を右手に渡り、街道は交差点先のY字路で右手に行くとある。

10mほど先で左折すると、元の道へ戻りすぐ先がJR日野駅だった。

 JR中央本線日野駅は旧官設鉄道日野駅で、駅舎は昭和12年竣工で民家風。

予定は八王子市に入り、3kmほど先のJR八高線北八王子駅までだったが、

残念ながら歩きに異変が出ため、歩きを見ていたカミさんのStopでここで足止め。

まあ、急ぐ旅じゃなし、ゆっくり行こう。

で、第7回はEND。

甲州街道四十四次 6

4月11日の甲州街道再開から半月余、

真夏日に近い28日(日)再び甲州街道へ。

電車バス、電車と乗り継いで前回足止めの京王線東府中駅へ。

前回は途中から江戸初期の街道、甲州古道を少し歩き東調布駅前へ来てました。

甲州古道は、品川街道と呼ばれ、江戸時代の初期には東府中までの道が、

甲州道中の一部として使われていたといわれてる。

東府中の駅で甲州街道都道229)と出合い合流します。

駅前は変則的な4差路状で旧甲州軌道(都道229)は、左手斜め方向へ進みます。

カラーのマンホールはヒバリの親子と梅の花

2,3分でJR南武線の踏切りを渡ると、八幡町へ入ります。

左手の線路は、東府中駅から1km弱の府中競馬場駅への線路。

通過した電車は結構混んでいたので、競馬開催かな?

そうでした、今日日曜日、ダービーとの関連があるのかも。

府中競馬場、思い出した、チョンガーだったころ1度だけ足を運んだことがあった。

おっ、トキワツユクウサでは、

踏切を渡り約10分ほどゆくと左手遊歩道に八幡宿碑があった。

碑には、

八幡宿は“宿”という字は付いてはいますが宿場ではなく、農業中心の集落で、

先に鎮座する大國魂神社社領に属していて、国府八幡宮の周辺に発達した村落で

八幡宿村と呼ばれていが、甲州街道が開設により街道筋に移転した。

とある。

すぐ先の左手に「武蔵国八幡宮」の石碑、鳥居が立ち参道が奥に続いてます。

鳥居の手前に、文化11年(18144年)に建造という常夜燈があった。

街道書では、台座には常夜燈、燈籠正面に秋葉大権現と刻まれている、とある。

参道を行くと、東府中駅からの京王電鉄競馬場線に分断されていた。

渡ると武蔵国八幡宮八幡神社が鎮座しています。

国府八幡宮は、聖武天皇(在位724年~749年)が一国一社の八幡宮として創建という

由緒ある神社で、大國魂神社の境外末社の1つで、八幡宿という地名が

この神社に由来しるそうです。

参道を戻りさらに10分ほど行くと、八幡宿交差点。

先は宮元町(旧新宿)へ入り、府中宿の内の「新宿」が始まり、

交差点向かいのビル脇に大きな幟が建ていた。

街道書にある「新宿標石」は幟建柱の根元にあるようです。

府中宿は府中三町「番場・本町・新宿(しんしゅく)」によって構成されていた

と言われるようなので、府中宿の江戸口にあたるのかな?

 街道書によれば、

「府中は、かつては武蔵国(現埼玉南部・東京・川崎・横浜)の国府が置かれた

政治・文化の中心地であった。

鎌倉幕府の崩壊で衰退し、江戸時代に入ると、日本橋から約7里半(約30km)に

位置する4番目(数え方によっては9番目とも)の宿場町で、鎌倉街道甲州街道が交わる交通の要衝でもあり、江戸を出立して最初の宿泊場所としては最適な距離で非常に

栄えた宿場でした。

宿並は新宿(現在の宮町)、番場宿(現在の宮西町)、本町の3町(府中三町)で構成され、

天保14年(1843年)の記録によると

本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠38軒、問屋場3軒、家数430軒、人口は2,762人 」

とある。

さらに300mほどで大国魂神社東交差点。

街道書には、

明治サウスビル脇に明治天皇行在所跡解説があり、田中三四郎家が務め、昔柏屋といい柏屋脇本陣のの碑が立つっている、とあった。

屋敷は府中郷土の森へ移築したそうで、前に行った郷土の森に古民家がありました。

直ぐ隣に近江屋中屋平兵衛脇本陣跡があたというが、示すものやその痕跡すら

何もなし。

100mほど先は、大国魂神社前交差点で、北側の京王線府中駅前から続く

ケヤキ並木は大国魂神社の参道であり「馬場大門の欅(けやき)並木」と言われ、

国の天然記念物に指定されている。

南側に大きな社標が建ち、参道は続き大国魂神社が鎮座してる。

ケヤキ並木は、

「1062年、源頼義、義家父子が、前九年の役の戦勝祈願御礼として、

けやきの苗千本を寄進したことに始まりといわれ、その後、徳川家康が関が原、

大坂両役の戦勝の御礼として馬場を献上し、けやきの苗を補植しました。

現在のけやき並木には、その江戸初期のものが数本残っているほか、

けやきが約110本、その他えのきなどの老樹を含め、合計で約120本の木が

植えられている。

大正13年、国の天然記念物に指定されました。

けやきの並木道が指定されているのは日本でここだけです。」

とあり、幕末までは馬市も開催されていた、という。

現在もケヤキ並木保存のため、市内の学校行事として植樹が行われてるという。

大きな大国魂神社社標石の建つ前の交差点に、2本のケヤキ古木。

年代を重ねた重厚な風情ですが、右の樹齢を重ねたケヤキは3mくらいから上部は

伐採されてるが、幹から太い枝が伸び葉を茂らせている。

よくみると、何と伐採された太い幹は空洞化していて、新たな若木が中で育ち

枝を広げていたのでした。

下部と上部には四角く小窓が開けられ、内部が見られるようになっていた。

古木の幹はところどころ穴が開き、若木の枝が外へ伸ばしていた。

こんな再生のしかた、驚きですね。

街道歩きをして宇ると、けっこう古木大木に出会うことがおおいですね。

中山道では、桜にモミジが芽生えていたことがあった。

大国魂神社について、府中観光協会の資料によると、

大国魂神社は葉景行天皇41年(111)の創祀と伝えられ、

御祭神は 大國魂大神 で出雲の 大国主命 と同一の神とされる都内屈指の古社。

武蔵国の一之宮から六之宮までを合わせて祀るため、「六所宮」とも呼ばれ、

武蔵国の総社にあたる。

境内地がかつての武蔵国国府跡にあたり、境内の東側に跡も「武蔵国衙跡地区」として国の史跡に指定されています」

とある。  

大鳥居を潜りケヤキに囲まれた参道を進む随神門、中雀門と進むと、重心の低い拝殿があり重厚な本殿に到着。

例大祭は「くらやみ祭」と呼ばれ、東京都指定無形民俗文化財に指定されており、

関東三大奇祭の一つに数えられています。

参道では5月初のくらやみ祭りの準備が進められていた。

随神門

隨神門は平成23年に「御鎮座壱千九百年事業」として改築という。

門は高さ8.5m幅25m、扉は畳5畳分程。国産の檜で、屋根は銅板葺き、

木造の門として大きく大変美しい立派な門です。

重厚な本殿

この本殿は寛文7年(1667)に4代将軍綱吉によって再建されたもの。

本殿裏に樹齢およそ1000年と伝えられる銀杏の大木があるというので、回ります。

この大銀杏の根元には、蜷貝が生息していて、産婦の乳がでないときに、この蜷貝をせんじて飲むと乳の出が良くなると言われました。近年は、手を合わせると産後の肥立ちがよくなるという、謂れがあるという。

街道へもどり、交差点の大ケヤキ

(右が、若木が空洞から茂ったケヤキ、赤い木囲いがしてある)

大国魂神社前交差点から先は宮西町となり旧番場宿に入ります。

ここから府中街道との交差点まで、200m程がかっての府中宿の中で、

旅宿なども立ち並ぶ最も賑わった所で、その番場宿内の「神戸」と呼ばれる場所で

あったという石碑が建っていた。

番場宿は名主の茂右衛門にとって開設され、茂右衛門宿とも呼ばれたそうです。

 まもなく甲州街道と北上する川越街道、南下する相州街道(現在の府中街道)の

府中市役所前交差点になり、昔は札の辻と呼ばれ南側に府中高札場が当時のまま

残されている。

板塀に囲まれ、りっぱな門を持つ高札場の奥は、大國魂神社の御旅所で、5月の例大祭(くらやみ祭り)の際に、8基の神輿がここに渡御するという。

交差点向かい側右手のマンションなどが建つ付近は元本陣があったとか。

そして北側の蔵造りの酒屋は、創業万延元年(1860年)創業という、

「中久本店」。

隣接して今は跡形もないが、問屋場があったと街道書にある。

(酒屋さんの店内壁に、問屋場があた、との案内板があるという)

中久本店のすぐ先に小さな公園と番場会館があり、会館前に番場宿碑が建てられて

いた。

付近には江戸時代に近江屋、信州屋といった旅籠があったそうです

おっ、番場屋、割烹料亭のようだ。

賑わった宿場の雰囲気がありますね。

街道書にも付近は脇本陣や旅籠などがあったというが、示すものは何もなかった。

すぐ先で左右に伸びた緑地帯のある緩い坂には鹿島坂碑が建っている。

碑には、

甲州街道と交わる鹿島坂は、大國魂神社例大祭に関係する鹿島田家からその名がとられたそうです。かつては鹿島田坂と呼ばれていたのが、いつからか鹿島坂になった、

とあった。

片町に入ってすぐ右手に片町碑があり、片町の名前は、南側に広い境内の高安寺が

あるため、北側にしか町並みが無かった為と云われる、と記されていた。

そして左(南)側は大きな寺標が建つ曹洞宗・高安寺境内です。

そして高安寺。

街道書によれば、

「ここは平将門を討伐した藤原秀郷の館跡と伝わっています。

後に見性寺というお寺が建てられ、、戦乱により荒廃しいたのを、

室町幕府の将軍足利尊氏が再興し、龍門山高安護国禅寺と号したのが
はじまりとされています。

高安寺の「高」は尊氏の旧名・高氏からとったのだそうです」とある。

総門を入って右に折れると、明治5年建立という大きな山門が現れます。

山門の正面では仁王像ですが、

山門を入った裏側の右手は、山門には珍しい「地獄の脱衣婆」の像が鎮座する、

境内の奥までは入らなかったが、奥には秀郷稲荷という祠や、さらにその奥に

平家滅亡後に鎌倉入りを許されなかった源義経武蔵坊弁慶がこの井戸の水を使って

大般若経を書き写したという伝説がある「弁慶の硯井といわれる井戸があるという。

 

街道の戻り,右手に「弁慶坂」碑がある。

この坂は高安寺に伝わる弁慶の伝説に由来、などとあった。

先ゆるい坂になってるが、この坂のことかな?

緩い坂を下ったところで、京王線の5号踏み切を渡ります。

渡ってしばらくして、なにげなく街路樹をいて気が付いた、ネグンドカエデ!

枝の伸びが多く、樹形を整えるのに手間がかかる、と聞いていた。

街路樹としては珍しのでは?

美好町三丁目交差点から先は本宿町に入り、左手に大きな冠木門を構えた家が、

かって旧本宿村の名主を務めた内藤家、と街道書にある。

この門は幕末期の府中宿の本陣であった、番場宿の矢島家の門を移したもの、

ともあります。

5分ほど先で本宿町交差点で、国領町で別れた国道20号(現甲州街道)と合流。

先はしばらく20号を歩くようです。

(本宿交差点付近が府中宿西口との説もあるようです)

5分ほど先、本宿交番前交差点の西側角に常夜燈が立っている。

秋葉大権現の常夜燈で寛政4年(1792)本宿村講中が立てたもの、

と案内板がもあった。

   
交差点から200m程先の交差点手前、右手に本宿村の鎮守である熊野神社が、

鎮座し、鳥居左手には「国史跡、武蔵府中熊野神社古墳」の看板が立っていてます。

本殿奥には、飛鳥時代の上円下方墳といわれ、最近保存整備工事があったような感じで葺き石で覆われた古墳の姿があった。

ここで古墳に出会うとは思ってなかったな~

(拝借写真)

神社参道右手には、山車蔵があり手前に本宿碑が建っていた。
本宿は甲州道中が開設される以前は宿場であった、とある。

神社より南武線の上を通る「西府橋」を通り10分ほどで、国立市に入ります。 

100mほどで「国立インター入口」交差点。

国道20号はバイパスとなり日野バイパスと呼ばれ、先っはしばらく都道256.

越えてすぐ右手に獅子宿碑。

宿と云っても、宿場のことでは無くて、街道書によてば、

谷保天満宮で奉納される獅子舞の獅子頭を昭和44年まで、佐藤家が保存していた

ので、その獅子頭の保存場所と云う意味で、佐藤家は獅子舞の稽古をする

家、「獅子宿」と呼ばれていた、とある。 

(ということは碑の付近は佐藤家の屋敷跡かな)

その先右手の大きな薬医門を備える家は江戸時代名主を務めた「本田家」という。

さらに幕府の馬医者を勤め、門は乗馬のまま通れる造りになっているという。
薬医門は閉じていても、横の木戸から患者が出入りできるようにしてある
奥の屋敷も含めて国の登録文化財だそうです。

本田家から100m程先に1863年(文久3)年に建てらた旧下谷保村の

秋葉山常夜燈があった。

先の歩道橋で南側へ渡ります。

歩道橋を降りたところ家塀に、「関家かなどこ跡」案内板があった。

「かなどこ」とは鋳物のことで、江戸三名鐘の新宿天龍寺梵鐘は関家の鋳造とある。

すぐ先が谷保天満宮交差点。

左手に大きな寺標が建ち、広大な森は谷保天満宮です。

街道書によれば、

東日本最古の天満宮であり、亀戸天神社湯島天満宮と合わせて「関東三大天神」と

呼ばれています。

903年・・・菅原道真の三男・道武が、道真の死後父の像を彫りこれを祀ったのが

天満宮の始まりという。

しかしながらこの像の出来が良くない所から「野暮天」「野暮」の語源になった。

とある。

「やほてんまんぐう」ではなく「やぼてんまんぐう」が正しいのかな。

鳥居をくぐり参道を進み、

石段を下ります。

当初、甲州街道は今よりも南側の低い場所を通っていて、谷保天満宮は街道に面して南向きに造られていました。それが江戸時代中期、街道が北寄り、従来よりも高い台地上に付け替えられたため、石段を下るようになったそうです。

そして拝殿。

立ち寄りしませんでしたが、拝殿を裏手にまわると、江戸名所図会にも記載されている
「常盤の清水」が数百年も昔から涌いていて、枯れた事が無いと言われ、
昔は近所の人々の井戸として使用されていたそうです。

えっちら、階段を上り街道へ。

5分ほど行った左手に、古そうな地蔵尊が4体あたが、街道書には記載はなかった。

かって街道沿いあたのを集めたのかな?

先の交差点で北側(右手)に渡り、街道の右側を歩きます。

5分程の右手の住宅入口脇のところに、潤澤学舎跡と記された案内板が建っていた。

街道書には、

「明治五年、各村に学校の設置が義務付けられると、翌年、青柳村で私塾を開いていた

吉左衛門氏を校長とし、校舎はこちらの杉田氏の私邸内にある蚕室を借り受け、

仮校舎にし開校されました。当初の生徒は30人だった」とある。

案内板の建つお宅が、旧杉田綴邸で子孫の方がお住まいかな?

すぐ先の住宅門脇には、新しそうな「馬頭観世音」の石碑があった。

かっては馬頭観世石像があった、ということでしょうか、謂れは不明。

5分程ゆくと右手に大きな寺標石は、臨済宗永福寺

街道書では、寛文年間(1661年~)の創建。

脇仏の木造「阿弥陀如来座像」は鎌倉時代作の古仏、とある。

本堂前へ来たがお堂内は開館できず、案内板もなかったです。

街道に戻って先に進むと、街道左手に旧上谷保村の常夜燈がある。

街道書によれば、

寛政6年(1791年)建立、街道の右側にあったもので、道路の拡張に伴って

こちら側に移された。

そばに建つ塔は、千手観音供養塔で、享和2年(1802年)建立である、とあった。

先隣に奥に山門を構えたお寺、臨済宗南養寺があったが、すぐ先にJR南武線矢川駅

入り口交差点なので、南養寺は次回の旅にとし、今日の旅はここで足止めに。

東府中駅から約7km。

見短い散歩旅でしたが、汗ばむような天気に恵まれ青空の下の街道歩き。

さ、次回は多摩川渡りだ、いつの日かに。

電車を4回乗り継いで家路へ。

甲州街道 6 END。

 

 

 

 

 

甲州街道四十四次 5

街道旅

令和5年12月9日(日) 4回目の甲州街道旅は下高井戸宿を後にし

次の国領j宿手前で終り、さあ、次は・・・・ 

 

天候不順の令和6年。

遅れた桜もピークを過ぎ、ようやく天気も安定しそう。

令和6年4月11日(木)

昨年12月で途絶えていた甲州街道の旅を再開に。

どんどん足の進みがのろくなり、長く歩くのに不安を覚えるが、

ゆくりでいいんじゃない!とカミさんに押され、よし、やてみるか!と、

電車、バスを乗り継ぎ、前回足止めの京王線柴崎駅へ降り立った。

 

駅から北へ数分行くと国道20号(現甲州街道柴崎駅入口交差点。

AM10:30 歩き旅の再開でどこまで歩けるかな?

朝はまだ冷え込みがあったが、暖かくなった名残り桜の青空の下、

うん、今日もいい旅日和(散歩日和かな)になりそう。

少し歩いた左手路地には、持参の街道図に金剛夜叉明王とある。

おっ、あれだな。

路地を入った左手に祠に金剛夜叉明王像が祀られてます。

夜叉明王は不浄や煩悩を吹き払うという。

案内板もなく、調べても安置年代はわからなかった。

その先が馬橋で流れる川は野川。

かって手前左側に立場があり、野川で馬を洗うなど人馬とも一息入れた所と

云われるそうです。

橋を渡ると街道書には、布田五ヶ宿と呼ばれる内の「国領宿」の江戸口(東口)と

あったが、示すものは何もなし。

国領から上石原までは布田五宿。

街道書によれば、

[現在の京王線調布駅前後(国領駅から西調布駅)の約3キロほどの区間に、

 数百メートル間隔で5つの小さな宿場があり、複数の宿場がひとつの宿場として

 機能する「合宿」として、5宿が数日ずつ宿場の役を果たしていました。

江戸・日本橋から五里三十二町(約23.5km)と近く、4番目~8番目の

5つの宿場はまとめて、布田五宿/布田五ケ宿と呼ばれていた。

本陣や脇本陣はなく、中規以下の旅籠が5宿合わせて9軒という小さな宿場で、

史料によっては全部合わせてひとつの宿場として数えているものもあります。]

1843年(天保14)年では、

国領宿 

人口:308人 家数:61 本陣:0軒 脇本陣:0軒 旅籠数:1軒

下布田宿
宿場データ    人口:429人 家数:95 本陣:0軒 脇本陣:0軒 旅籠数:3軒
上布田宿
宿場データ    人口:314人 家数:68 本陣:0軒 脇本陣:0軒 旅籠数:1軒
下石原宿
宿場データ    人口:448人 家数:91 本陣:0軒 脇本陣:0軒 旅籠数:0軒
上石原宿
宿場データ    人口:411人 家数:73軒 本陣:1軒 脇本陣:0軒 旅籠数:4軒
宿場データは「東海道宿村大概帳」より、

現在の調布市はこの5宿が中心となっている。

なぜ、こんな短い区間の宿場を幕府道中奉行の宿場として認めていたのでしょう。

 野川を渡り5分ほど行くと、その名も「旧甲州街道入口交差点」で二叉となり、

国道から左手に別れ都道119号、次の宿場の布田五宿の内の一つ「国領宿」へ

入ります。

国領町へ入って行きますが、国領宿の長さは約900m。

上宿と下宿に別れ、現在の国領町がすべて含まれる。

宿場の雰囲気は勿論無くなっていて、サッカーFC東京のフラッグが沢山風に

なびいていた。

国領の地名は、かつてこのあたり一帯の土地が武蔵国国府が管轄する国衙領

あったことに由来し、江戸時代は天領であった。

甲州街道へ入りゆっくり10分程行くと国領駅入り口交差点で、

左手駅方向を見ると稲荷神社が見えた。

昇福稲荷大明神と街道書にあり、大正14年勧請されたとあった。

地域の地主神として信仰されたという。

駅前歩道のマンッホール蓋は、昭和49年制定 市の花 百日紅(サルスベリ)。

街路樹に満開の桜は黄緑色のウコン桜。

先で道は右へ屈折し、左手から合流してくる狛江通りのすぐ先に祠があり、

寛政10年(1798)建立という青面金剛像の庚申塔

近くには、街道書に少し先右手に、かっては名主だった谷戸家に祀られていたという

谷戸稲荷神社と記されいるが、探せどもそれらしきは見つけらずパス。

帰宅後調べてみると、石材店(ありました)の裏手にあったようだ。

右手にちょと目についた赤と黒の蔵をもつ住宅。

国領駅入口から約500mほで京王線布田駅入口の道。

右手に浄土真宗・圓福寺。

円福寺の創建年代は不詳だが、鎌倉時代鎌倉に開山し、その後多摩川沿いに移転。

寛永元年1624年)に当地へ移転したという。
 街道書に、境内に天明5年(1785)造立の地蔵尊、とある。

六地蔵尊右の大きな地蔵尊かな)

入口を見逃しパスしてまったが、すぐ先右手に国領神社が街道書にあります。

元は多摩川のほとり杉森の地にあり、度重なる洪水の為この地へ移転してきた。

境内のご神木の藤の木は千年の藤と呼ばれ、樹齢500年といい、延命、商売繁盛の

神木として名高いという。 

 

すぐ先、布田駅前交差点の右角の黒い大きな門柱、街道書には常性寺とある。

鎌倉時代の創建と言われ、元は多摩川沿いにあったが、慶長年間(1596~1615)に

現在地に移転した。その後、江戸時代に祐仙法印が上総国成田山新勝寺より

成田不動尊を勧請中興し、「調布不動尊」とも称されえいる、という。

門を入ると、正面に不動堂、右手奥に薬師堂(本堂)で、ご本尊、薬師如来像は

鎌倉時代に造立されたというが、拝観することはできなかった。

境内右手に地蔵堂があり、手前祠に安置されてるのは「小橋の馬頭観音」。

この馬頭観音塔は文政7年(1824)の建立で、甲州街道の小橋(現馬橋の西50m)の馬の捨て場に布田五宿をはじめ、八王子などの馬持ちが供養のために建てたもので、

中に「八王子馬買」の字があり、のちに移設してきたという。

(j地蔵堂堂内)

「小橋の馬頭観音

馬頭観音を見つけると、旅してるんだな~・・

街道に戻ると先の西側で旧下布田宿に入ります。

約400mほど10分の左手に寺標石柱が建ち、奥に日蓮宗蓮慶寺

本堂は参道正面にあり、その左手前には、御朱印寺を表わす朱塗りの山門が

残されている。

蓮慶寺は、戦国時代に布田郷を領していた中将出羽守が、当地に古くからあった

真言宗閻魔寺を、天文元年(1532)に日蓮宗に改めて開基。

慶安3年(1649)徳川三代将軍家光から御朱印を拝領し御朱印寺として、朱塗りの

山門(赤門)を許され、住職は乗籠が許されていた、と街道書にある。
 山門

おっ、牡丹が咲き始めてる!

街道へ戻ると寺の西隣で下布田宿が終わり、布田五宿の中心であった上布田宿に

入ります。

蓮慶寺の先5分ほどで「調布駅北口」交差点。

街道書には交差点手前北側に、国道20号越えて続く参道の先に、

布田五ヶ宿の総鎮守布多天神社と記されてるが、我々の足では往復に

小1時間かかりそうで寄らづに進みます。

別資料には、

「創建年代は不明。社伝ではおよそ1940年前の垂仁天皇の御代の創建とされ、

 平安時代初頭の延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳武蔵国多磨郡に記述が

 ある式内古社である。
 元の社殿は現在の布田5丁目にあったが、文明年間(1469~87)に

 文明9年(1477)に現在地に遷座し、室町時代天正18年(1590)年4月に

 豊臣秀吉が小田原の北条を攻略する際、人々を安堵させるために出した「

 太閤の制札」が神社所蔵として残る。
 また往古広福長者という人が、当社に七日七夜参籠して神のお告げをうけ、

 布を多摩川にさらし調えて朝廷に献った。

 これが木綿織のはじめといい、帝はこの布を調布と名づけられ、以来このあたりを

 調布の里とよぶようになったといわれる。」

 

進んで小島町1丁目交差点。

手前右手に日本橋から6番目、小島一里塚の碑があるそうだが見逃しってしまった。

すぐ先の下石原1丁目交差点を越すと旧下石原宿へ入る。

街道書には旧下石原宿へ入200m程先を北側へ真っ直ぐ進み国道を越えたところに

下石原宿の鎮守八幡神社が記されてるが寄らずに進みます。

進んだ先左手に常演寺がある。

門前右手に地蔵祠と嘉永3年(1850年)建立の常夜燈などが並んでいる。

常演寺を過ぎ5分ほど、左手に人が通い抜けられる程度の小路があり、

塀に金山彦神社の案内板があった。

小路を入ると、周辺の刀鍛冶により創建されたといわれ、金属加工業などの方々から

の信仰が厚いといわれる金山彦神社があった。

そのまま小路を行くと通りへ抜け、右手に源生寺裏門入口の石柱があり境内へ。

臨済宗建長寺派源正寺と街道書にある。

開山は天文24年(1555年)開基は太田対馬守盛久。
大田道灌の弟の子孫が石原に住んで、大田対島守盛久を名乗っていたという。
参道口に小屋掛けした六地蔵があり、

隣に天明3年(1783年)建立という日本廻国供養塔が建っている。

寺の前で道はわずかに右にカーブし、国道から分岐した都道229が合流し、

甲州街道都道119から229号となります。

合流するあたりから布田五宿最後の上石原宿に入ります。

 4,5分ほど行くと中央高速道ガードで、

手前左手に西光寺は、街道書によれば、

創建は応永年間(1394~)で家光から14石2斗の寺領を受けた朱印寺。

寛文年間(1661-1672)には天台宗に改めたという。
 明治12年(1879)の火災により、弘化4年(1847)造立の山門、享保年間(1716~36)造立の仁王門などを除いて多くが焼失しているそうな。
 
 

仁王門は、市内に残る唯一の仁王門で、年代も十八世紀初頭と特定できる貴重な建物である。正面両脇間に仁王像を安置し、また楼上に銅鐘を釣るので、仁王門でもあり鐘楼門ともいう。

門脇には、弘化3年(1846)建立の常夜燈が立っている。「秋葉大権現」「榛名大権現」「鎮守両社宮」、台座には「宿内安全」など刻まれている。

その隣に新撰組局長近藤勇座像がある。近藤勇天保5年(1834)多摩群上石原村で

生まれた。

街中にもいたるところに「近藤勇生誕の地」の幟が立ていた。

近藤勇首塚や供養塔など、東海道中山道でみてますね。

西光寺を出るとすぐに中央自動車道の下をくぐり、右手に黑塀の旧家を見ながら暫く

進むと

300m程で飛田給に入り、布田五宿は終わります。
さらに5分ほど飛田給駅入口を過ぎ、

すぐ先左手に飛田給薬師堂があります。

街道書によると、

仙台藩典医であった松前意仙が、諸国遍歴の末にこの地に住み着き、

医業のかたわら、深く仏道に志した。

貞享3年(1686)石像瑠璃光薬師如来立像を彫り上げた後、

自ら墓穴を掘り、自ら入定し成仏した。

薬師堂にはこの像が安置されている。
 境内にある行人塚は、松前意仙の墓で自身よって作られた。

村人たちの薬師如来に対する信仰は深く、現在も毎月12日に、薬師講の人たちによってお勤めが行なわれています。

石像瑠璃光薬師如来立像は飛田給薬師堂の本尊で、

石像瑠璃光薬師如来立像は、はじめは野外に置かれていましたが、

弘化4年(1847年)に仏堂が建てられ、堂内に安置されるようになりました。

 行人塚

お堂内は小窓もなく堂内を拝見することはできませんでした。

お勤めがあった時くらいしか拝観できないんでしょうね。

薬師堂の左脇から入れる道があり、その道は江戸初期1684~88年)以前の

甲州古道(品川街道)と街道書にはあったが、入らず旧甲州街道都道229)の

方を歩きます。

少し先で府中市白糸台に入る。

右手の古びた常夜燈は、街道書によれば嘉永5年(1852年)建立。

台石に「諏訪大明神」「秋葉山大権現」などと刻まれている、とある。

またその先、かっては立場茶屋があったといわれている所で、今はその面影は

残されていない。 

おや?家にも咲いてる雲南黄梅のようだが、枝ぶりや葉が違うような。

石塀を覆いかぶさるように茂る樹、はてなんだろう??

(帰宅後教えていただきました。

茂ってる植物は、匍匐性常緑小低木、「ワイヤープランツ
咲いてる花はウンナンオウバイで埋もれてる)

さらに10分程行くと、車返団地交差点の右手に観音院がありました。

街道書には、 観音院は、神明山金剛寺と号し、創建年代等は不詳。

 山門脇に、宝永7年(1710)造立の地蔵尊享保3年(1718)建立の庚申塔

 文政4年(1821)建立の馬頭観音などがある。

 観音院の裏手に神明社がある。

この神社は古代に多摩川で麻布を染めた染殿にゆかりのある神社といわれ、

参道口に下染屋についての説明版がある。

地名の起こりは、調布(てづくりぬの)の布を染めたところで、鎌倉時代には染殿があった所といわれている。もともとは染屋村であったが、その後、上下2村に分かれたが、その時期は不明とのこと。寛永12年(1635)の検地帳には、下染屋となっていると、細か文字で彫られている。

 下染屋神明社の創建年代等は不詳ながら、往古日本武尊の御衣を染め、入れた瓶を埋めた地に明神を勧請したとも伝えられ、また弘長年間(1261-1264)の創建とも伝えられる。稲荷社を文永年間(1264-1247)に合わせ祀ったといい、明治4年村社に列格したという。

なお、染屋の地名は、南北朝時代の資料にも載っているという記述もあった。

 参道口に嘉永6年(1853)建立の秋葉山常夜燈がある。
 

西武多摩川線を渡ります。

越えて5分ほど、不動尊前交差点左手に染谷不動堂がありました。

江戸時代は、玉蔵院といい、染谷八幡神社別当寺であった。

この境内には国の重要文化財である銅造阿弥陀如来像安置する小堂(宝物殿)があり、
 解説石版が建てられていた。

それによると、銅造阿弥陀如来像は、鎌倉時代の弘長元年(1261)、上野国八幡庄にて造立された善光寺式の阿弥陀像である。

鎌倉時代末の元弘3年(1333)、南朝の忠臣・新田義貞公が鎌倉攻めに際して

陣中守護のため奉戴したと伝わる。

以来南朝守護の神像として奉安され続けたが、承応2年(1653)に玉川洪水のため

染屋(現在の白糸台周辺)に移される。

街道書では国重要文化財とあたが、解説版には国宝と彫られてた。

、お堂内は見ることはできない。

 

 境内にはには上染屋についての説明碑があり、それによると

「上染屋の集落はもともと多摩川のほとりにあったが、度重なる洪水を避けてこの地に

 移ったようである。地名の起こりは俗説として調布(てづくりぬの)を染めたとこ

 ろであったとかろであったとか、鎌倉時代に染殿のあったところなどといわれて

 いる。古くは一つの村落であったが、いつのころからか上染屋と下染屋に分かれた」

不動尊を後に300mほど行くと白糸台1丁交差点で、先は旧常久村に入ります。

さらに10分程、右手に常久八幡神社

常久村の鎮守社。例に漏れず多摩川の洪水により移転鎮座している。

神社入り口手前の交差点から左手入る道があり、旧甲州街道から甲州古道へと

向かい、300mほど先で古道・品川街道に入りすぐに、常久一里塚跡の碑が

立っている。 
道は江戸初期の甲州街道にあたり、日本橋から7番目の一里塚という。

甲州街道へは戻らず、そのまま西へ足を進めると15分ほどで、街道(都道229)

へ合流し、左手は京王線東府中駅

時刻も午後の4時で、進んだのは約7km。

当初の予定は約2km先の府中駅だったが、今日の旅はここで足止めに。

電車、バス、電車と乗り継ぎ、夕6時帰宅。

よたよた歩きでも、歩けば進む。

付き合ってくれてありがとう、カミさん、でした。

梅雨入り前には,都を抜けたいな・・・・

甲州街道四十四次 4

2022年(令和5年)春に、5年がかりの中山道69次の街道旅を終え、

11月には3年掛りで日光街道を完歩。

9年前の2月に、街道歩き旅、東海道53次へ一歩踏み出してから9年がかりで、

江戸幕府道中奉行管轄の5街道のうち、3街道、計293里・1178kmを

歩き終えました。

2023年、

年と共に足腰の衰えは如何ともしがたいが、

「足さえ前に出せば、よたよたでも旅は続けられる。」「旅立ってしまえば、

気持ちも動く」と、世は仕事始めの令和5年1月4日(水)

4街道目の甲州街道へと老々旅始め,、と始まった甲州街道の歩き旅。

3回目に冷え込みのきつい2月も最後の28日、内藤新宿を抜けて江戸を離れ、

下高井戸宿が近づいてきましたが、丁度京王線高井戸駅入り口があり、

またいつの日かに旅へと、足を止めてました。

 

日本橋旅立ち

歩き旅を終ての後に控えていた、肝臓癌治療後8年目の経過観察検査。

思いがけない癌再発・・・

再び手術かと悩んだが、最近注目されてる新しい放射線の一種、重粒子線放射で

治療を受けることになり、5月には無事終了し経過も良好。

12月初の半年検査では、癌は痕跡だけで消滅と嬉しい結果。

さっそくカミさんから「そろそろ街道へは」と誘われ、

この12月9日(日)10ヵ月ぶりに歩き旅の再開へ。

すっかり衰え気味の足腰。

異常に長がかった猛暑の日々には、早朝散歩は続けてきたが果たしてどこまで

歩けるか??

12月9日(日)、早めに家事を済ませて電車を乗り継ぎ、前回足止め駅の

京王線高井戸駅到着し、北へ10分ほど歩き国道20号(甲州街道)へ。

10時20分嬉しい甲州街道4回目の旅立ち。

甲州街道

江戸幕府によって整備された五街道の1つで5番目に完成した街道。

江戸日本橋から内藤新宿、八王子、甲府を経て信濃国下諏訪宿中山道と合流する

約53里209kmの街道。

44次の宿場が置かれ、江戸から甲府までの37宿を表街道、甲府から下諏訪までの

7宿を裏街道と呼んだ。

 

歩道橋で甲府に向かって国道の右側に渡ります。

渡った右側の国道北側(右側)には玉川上水が暗渠化され緑地や公園になっていて、

しばらくは玉川上水園地を歩きました。

何して遊ぼうか!

ぼくちゃんたちも仲間に入れてよ~

15分ほど緑地帯を歩き、再び国道20号、甲州街道へ戻ります。

戻た国道この付近には、明治40年創業竹細工の竹清堂が街道書には記されてるが、

見当たりません。

2階の竹で編んだ象がシンボルの、甲州街道を歩いた人たちの旅紀でたびたび登場していた竹細工店でしたが、調べてみると、2021年に当地での営業を止め、

八ヶ岳山麓へ移店したとあった。

すぐ先が京王線桜上水駅北の交差点。

この辺りが江戸を離れて最初の、下高井戸宿江戸方(東の入り口)と街道書にはある。 先ほど降りた駅・下高井戸駅があるが、宿場町は桜上水駅のほうが近いという。

(それらしき標識雰囲気など示すものはなく、高速高架下に街並みが続くのみ)

高井戸宿は日本橋から4里のところにあり、下高井戸宿と、次の上高井戸宿の2つの

宿場の合宿で高井戸宿。

当時は京都が日本の首都でしたから、京都に近いほうが“上”で、江戸に近いほうが“下”でした。

当初は、甲州街道の起点である江戸の日本橋から数えて一番目の宿場で、

旅籠も24軒存在していたというが、後に内藤新宿が設置され2番目の宿場となると、

内藤新宿との距離がさほどないこともあり、次第に素通りする旅人が多くなり

寂れた宿場町になったようです。

一宿で継ぎ立てを勤められず、月初から15日までを下高井戸宿、16日から月末までを

上高井戸宿が勤める合宿とし、通行大名が少なく脇本陣は置かれていませんでした。

1843(天保14)年の「甲州道中宿村大概帳」によると、

【下高井戸宿】
・本陣…1軒 ・脇本陣…なし ・旅籠屋…3軒 家数…183軒 ・人口…890人
【上高井戸宿】
・本陣…1軒 ・脇本陣…なし ・旅籠屋…2軒 ・家数…168軒 ・人口…787人

 

5分ほど行った左手に、亀井堂本家の看板を掲げる和菓子屋さん。

亀井堂は、たしか神戸の瓦煎餅で知られる和菓子店なので支店なのかな。

すぐ先左手に街道書にある覚蔵寺。
創建年代は不明、もともとは真言宗の寺院で、慶長年間に日蓮宗に改宗。

山号「清月山」の扁額がかかる山門を入ると正面が本堂。
覚蔵寺は、日蓮上人が自ら彫ったとされる鬼子母神像が有名と街道書にはあり

「江戸名所図会」にも由来が紹介されていたという。

門前の案内板概略、

「 創建年代は不詳だが、慶長年間(1596-1614)に実成院日相が、真言宗寺院を

 日蓮宗寺院に改めて中興したと伝えられる。
 日蓮聖人直刻の鬼子母神があるので知られる。文永8年(1271)、日蓮が鎌倉の

 滝ノ口で危うく処刑されかかったときに、ゴマの餅をくれた老女に感謝し、

 鬼子母神像をこの老女に与えた。その後、覚蔵寺の13世日曜が、この老女から

 譲り受け、ここに祀ったものといわれている。」
鬼子母神像は本堂の中なのかな?内部は覗けなかったが・・・

覚蔵寺を後に5分ほど行くと、バス停が有り停留所名は宗源寺で右手に山門が見えた。

叡昌山(えいしょうざん)宗源寺 

寺伝によれば、

当寺開山光伯院日善の祖先は畠山重忠の一族で、創建は慶長年間(1596年~1615年)の初めで、十界諸尊(じっかいしょそん)を本尊とする日蓮の寺院。

境内の不動堂は、近くにあった明治5年(1872)に廃寺となった修験道本覚院の

不動堂を当寺境内に移設している。
 この不動堂はかつて高台にあったため、高井堂と呼ばれ、それが高井戸という地名の起源になったとする説もある。

「高井堂(たかいどう)」~「高井戸(たかいど)」というわけね。

不動堂(後世の改築お堂)

本堂前のコウヤマキは、樹齢推定400年と言われ、江戸初期の創建時に

植えられたと想定され、杉並区の天然記念物と札が建っていた。

街道書によれば、下高井戸宿の本陣は覚蔵寺の側にあったようで、

冨吉屋(吉田姓)が務め、本陣の前には高札場があり。向かいに篠崎家が勤めた

問屋場があったそうだが、面影や標識など示すものは何もなし。

おや、歩道路肩の植え込みに可愛らし小さなっ花と小さな黒い実がいっぱい。

イヌホウズキだね。

店先に並んでた七福神(石屋さん)

下高井戸宿江戸口から約800ほど、鎌倉街道入口付近が下高井戸宿甲州口(西口)

だった様です。

鎌倉街道は、坂東各地より鎌倉に至る道路の総称)

鎌倉街道入口の信号のところで甲州街道(国道20号線)を左手に渡ります。

すぐ先前方で高速道の高架が右手に別れて行きますが、手前に建っていたのは、

日本橋から4里(四番目16km )の下高井戸一里塚跡(上北沢の一里塚)

の案内板でした。

「高井戸一里塚跡」説明板と、その裏に隠れるように立っている「日本橋から16km」のキロポスト

甲州街道(国道20号)は今まで空を塞いでしまっていた頭上を覆う

中央高速道高架が取れ、青空が広りました。

頭上の圧迫感から解放され、真っ青な空の下、やっぱり、いいね~。

青空の下歩きになって12,3分、一里塚跡から約800mに上北沢4丁交差点(京王八幡山駅入口)で、街道書には、上高井戸宿江戸口(東口)とあった。

この上高井戸宿も往時を偲ばせるものはほとんど何も残っていません。

上北沢4丁目交差点で、国道左手の交差する路地を南へ行くと京王八幡山駅

上高井戸宿は、ここから隣の芦花公園駅入り口あたりまで続いていたともある。

【上高井戸宿】
・本陣…1軒 ・脇本陣…なし ・旅籠屋…2軒 ・家数…168軒 ・人口…787人

東口から5分ほど先には、上高井戸交差点で幹線道路環八道が高架で交差しており、

交差点北東角に付近に、並木家が務めた上高井戸宿本陣武蔵屋があり、

細縁家が務めた問屋場があった、と街道書にはあるが示すものは何もなし。

甲州街道環八通りを通り抜けてすぐ先で国道20号線から左手に分岐し、

甲州街道(東京都道229号府中調布線)に入ります。

旧街道に入ってすぐ右手に入る道脇に石柱が建ち、街道書には「井の頭弁財天道道標」

とあり、道標には「是より一里半」と刻まれていた。

街道書には、井の頭公園(都立公園)の池畔に祀られる弁財天は延歴8年(789年)

伝教大師作と記されてる。

弁財天の宮社は鎌倉時代に焼失してしまったが、江戸時代になり、三代将軍徳川家光が、宮社を再建した。

井の頭と言う地名も、この池の水が江戸の飲料水の源(上水の頭)であることから、

「井の頭」と命名されたという。

元々は家康の時代の整備に伴い、この井の頭池が水源として選ばれました。

家康自身も何度かこの地を訪れているとのことです。

公園の湧水池は、フォークソングで知られる「神田川」、江戸の上水道(神田上水)、の源水です。

甲州街道に入り300mほど、左手に宗洞宗長泉寺の石柱が建ってます。

街道書によれば、

開創は慶安元年(1648年)で2年後に火災に遭い、明暦元年(1655年)に

この地に移った、

観音堂には「板絵着色西国巡礼図」という狩野派の絵師、中田小左衛門が描いた

杉並区有形民俗文化財があり、上高井戸宿の本陣を勤めた並木家の墓もこの長泉寺に

あるという。

観音堂は覗くことが出きませんでした。

山道両脇には、街道改修などで集められたと思われる道祖神や石仏などなど。

本堂

観音堂

長泉寺を過ぎたあたりが上高井戸宿の甲州方(西口)でした。

左手の道を入ると京王線芦花公園駅があり、交差点から先は世田谷区、

かっての鳥山村域に入って行きます。

国道20号(現甲州街道)とは違い、旧甲州街道のこの道には歩道がなく、

細い歩道帯が両側にあるのみ。

今日は日曜なので車両の通行は少ないので、よたよた歩きでも歩けるが、

日ごろは車両通行が激しく、かなり要注意と多くの街道記に書かれてます。

5,6分先き左手に大橋場跡というのがあり、金属製の親柱と石仏が数基立っている。

街道書には「武州千歳村大橋跡」、烏山用水に掛けられていた橋の親柱と記され、

奥隣の青面金剛石像は元禄13年(1700年)建立、その奥の地蔵尊は、

地頭名主を務めた下山家が建立の「下山地蔵-身代わり地蔵」とあった。

 

200m程の右手に「南烏山りんれい広場」という公園があり、

道場に「せたがや百景」の標石が建ち、奥には案内板もあった。

「せったがや百景」は世田谷区の広報によれば、

区民に世田谷の風景に関心を持ってもらうことを目的に、昭和59年に選ばれました。

選定に当たっては、好ましい風景として、区民からの推薦投票で選ばれた約400景の中から、選定委員会が200景の候補に絞ったものを、区民投票を実施し、票の多い順で100景が選ばれました。

とあり、百景に選定された場所には紹介する案内板が設置されています、ともあった。

ここの案内板には、

「旧甲州街道の道筋」「昔の街道筋を偲ばせるっ風景は残っていないが、この道筋

そのものが街道だったことを忘れるわけにはいきません」と記されていた。

 

標石

街道の路肩プランターに、おや、何の花かな?

ピンクはオキザリスだが、紫と色は??オキザリスの園芸種?

百景から10分ほどの左手路地脇に地蔵尊や上の欠けてしまった石仏などが並べられている。道路整備などの際、集められた様子。

側に有ったコンビニでトイレをお借りしようと思ったら、

「不心得な使い方された方がおり、貸出しは当面いたしません」とあっった。

なにがあたのかなあ~・・・

10分ほど先へ進むと、給田の交差点を過ぎた右手の民家の庭先に「新一里塚跡の碑」と刻まれた石柱が建ってた。

街道書には「明治3年に内藤新宿を起点として甲州街道に建てられた新しい一里塚で、

正面には「内藤新宿より三里 品川県」とあり、 六カ所設置して現存する物は

これのみ、と記されていおり、説明板も建てられていた。

説明板によると、起点はに日本橋ではなく、内藤新宿を起点にした理程標という。

なぜ設置されたのでしょう?

街道書には5分ほど行った左手の道を入ると右手に給田観音堂が記されてる。

徳川家所縁の尼寺跡だそうで、堂内には、昭和32年観音堂の近くの土中で発見された釈迦如来坐像と、千手観音とが安置されている。

境内には観音堂脇に宝永4年(1707年)建立の宝篋印陀羅尼経之塔がある。

かつて甲州街道沿いにあったが、ここを通る徳川関係の者は、必ず下馬しなければ

ならなかったので、後になってそのわずらわしさを取り除くためここに移されたと

いう。

街道に戻りすぐ先で仙川にかかる大川橋を渡った先は仙川三叉路交差点で、

国道20号に合流で、再び車の騒音に包まれ地域は仙川町。

合流地点の信号で国道の右手に渡ってすぐに、天台宗昌翁寺の大きな山門が見える。

街道書によれば、この一帯は駿府戦国大名今川義元の武将で、後に徳川家康

旗本になった飯高主水貞政が菩提寺として建立。

正保2年(1645年)建立ので宝篋印塔、宝永3年(1706年)建立の五輪塔

とも記されてるが、境内には見当たらなかった。裏の墓地のほうだったのか・・・
門前には、元禄時代庚申塔2基と、挟まれて宝暦年間尾のと廻国供養塔がある。
廻国供養塔とは、諸国零場詣の途中に病などのため不帰の人となった行者を供養する

ために建てられたものだという。 

本堂

庚申塔と廻国供養塔

参道前が日本橋から20km、

おや、向い側のマンション、白漆喰の蔵を取り込んでるよ。

内藤新宿で江戸を離れて、初めての蔵ですね。

マンションはオーナーの屋敷跡だったのかな。

すぐ先の仙川駅入口交差点の右側の店先に、「市旧跡・仙川一里塚跡」の石碑が

ありました。

碑には、日本橋から5里目(20km)の一里塚で、塚木は何が植えられてたかは

記されてない。
かつては、ここが甲州道中と三鷹街道の交差点であった、とも記されている。

一里塚跡から約400m7,8分に仙川二丁目交差点。

交差点を過ぎると右に分岐する坂道があり、右側の住宅川口家の門前の植木に

埋もれて石碑が半分見えていた。

街道書によれば、「瀧坂旧道標石」とあり、横には「馬宿 川口屋」と刻まれ、

ここが円弧状に残る「瀧坂道」といわれる坂道で、この辺りでは唯一残る

甲州街道とある。
川口家は、戦前まで馬方や行商人を相手に旅籠を営んでいたそうです。

 下って行く旧街道の瀧坂は、かってはかなりの急坂で、昔は雨が滝のように

流れ落ち、かなりの難所の一つから滝坂と呼ばれていたという。

現在はなだらかな坂になってしまってる。

瀧坂へはいるとすぐ左手の石像は、首の欠けた地蔵菩薩立像と薬師如来像と

街道書にあった。

滝坂を下ると250m程で再び国道に合流します。

「滝坂」の名前は滝坂小学校や滝坂下交差点など今でも残っているという。

合流した国道を5分ほど行くと、右手奥にイチョウンの大木のが見え、

右下に小さな稲荷神社があった。

イチョウ寛延元年(1748年)に、山岡平兵衛(屋号鹿島屋)が京都伏見稲を

勧請した折り、イチョウもこの時に植えたと伝わり、樹齢250年という。

この辺りは旧金子村で「金子のイチョウ」と名付けた」という説明板が建ってました。

柵があり、近づけなかったです。

その先は21km標識。

1,2分ほど先右手の路地は参道で奥に赤い山門が見えたのは、曹洞宗大雲山金龍寺。

街道書によると、

「建永元年(1206年)中国宋より茶の種子を持ち帰り、京都宇治の里に広めた

栄西禅師により開基された」とある。

慶安2年(1649年)、三代将軍徳川家光より寺領と朱印状を拝領し、

朱塗り門が許された。

境内には大閻魔像、瑠璃光薬師如来像や甲州街道に掲げられていた

高札場(移設)、貞享元年(1684年)建立の青面金剛像(庚申塔)や徳川家の位牌が保存されているという。

移設復元高札

青面金剛像(右)

金龍寺を後に、2,3分行くと、右手には路地があり、「鎮守厳島神社参道」の

石碑がありました。奥に厳島神社があるようですが、街道書には記載なく寄らずに

先へ進みます。

更に300ほど、右手に地蔵尊があり街道書には「妙円地蔵」。

街道書や建てられていた案内板の妙円地蔵の謂れは、

妙円は金子村の新助に嫁ぎましたが、両目を失明してしまい、その後、尼となり

「寿量妙円」と号しました。

妙円は村の人々に念仏を唱え、その浄財で地蔵菩薩を建立し、妙円は自分の死ぬ日を

予告していましたが、1日遅れて1817年(文化14)に亡くなる。

そのことを瀧澤馬琴が著した「玄同放言」に紹介したため江戸近郊まで知られ。

この話を聞いた渡辺崋山は、この地を訪ね「金子村妙円常念仏遺趾真景」と題した

挿絵を描いていている。

妙円の墓所深大寺にあるという。

地蔵は長い間頭部が欠損していましたが、昭和62年地元の有志によって修復された。

優しいお顔のお地蔵さんね~、カミさんが呟いていた。

 この先10分ほど、柴崎駅入口交差点の脇に、相当朽ちた地蔵菩薩像があったが、

街道書には謂れ記載はありません。 

時刻はPM3:00 

先ほどから足指に違和感があり、痛みも出ていていた。

最近はすっかり足腰が弱り、毎日散歩を欠かして無いが、よたよた歩きが強くなって

おり、足の甲や足指に変な負担をかけた歩きになってるようで、長いj時間の歩き時は

支障が起きることも多く、後ろから見ていたカミさんも右に傾いて歩いてる、という。

足止め予定は2km先の京王調布駅入り口でしたが、丁度京王柴崎駅の入り口。

歩き始めの下高井戸駅入り口からはわずか7kmだが無理することはなしで、

残念ながら旅はここで足止めに。

柴崎駅より電車で先の調布駅へ出、バスを乗り継ぎJR中央線、吉祥寺駅へ。

駅近くの井の頭公園をバスが通った折り、西陽を受けてモミジが晩秋の美。

さらに電車を2本乗り継いで、日暮れた我が街へ帰りつき、短い旅路ではあったが、

4回目の甲州街道旅は終り。

さあ、次は・・・・ 

令和5年12月9日(日) 終

 

 

ツアーの旅 種子島・屋久島 (屋久島編)

令和5年7月27日(木) PM5:40 種子島西乃表港 出航

「時代と近代の歴史に出会う種子島」という島を終えて、高速船で島を後にし、

PM6:30 屋久島・安房港へ入港。

港で待ってた中型バスに乗り込み、夕暮れの屋久島を走り2連泊するホテルへ。

ホテルは温泉のあるリゾートホテルで、下着などだけ着替えをして、レストランへ。

(レストランは浴衣、スリッパは✖)

食事は洋風コース料理にすこし和が有りましたね。

こちらも島内で使える支援金を、飲酒代などに使用させていただいた。

夕食後、大浴場で汗を流し、さっぱりとして寝酒を軽くで爆睡。

7月28日(金)、

ふと目覚めたAM5:20 カーテンを開くと目に飛び込んできた朝。

正面に夜明けのシルエット、モッチョム岳(940m)の岩峰。

物音で目覚めたカミさんも起き出して、しばし夜明けののショータイムが開幕。

山裾に広がる東シナ海

左手に連なる屋久島の峰々。

 

朝のモッチョム岳の岩峰。

大勢のクライマーがこの岩壁に挑むようです。

上越境の谷川岳・一の倉沢の岩壁を思い出す)

和洋ビッフェ方式の朝食を済ませ、中型バスに運転所さん、ガイドさんを含め

7人が乗り、時計回りで島内観光へと向かいます。

(島案内パンフによると)

九州本土最南端の佐多岬から、南へ約60kmの海上に浮かぶ屋久島は鹿児島県に属し、

豊かな自然に恵まれ「神々が宿る」と言われ、島の90%が森林。

サンゴ礁の海には熱帯魚、砂浜にはウミガメがやってきて、そして有名なのが屋久杉。

1993年に日本で初めて世界自然遺産に登録されている。

屋久島は,やや5角形がかったほぼ円形に近い島で、日本の離島で5番目の大きさの、

花崗岩で形成された一周するのに車で約3時間かかりるという周囲約130kmの島。九州最高峰の宮之浦岳(1,935m)や永田岳,黒味岳など1,000mを超える峰々が40以上連座し,洋上アルプスとも呼ばれ,すばらしい山岳景観を呈しています。

山頂に巨岩をいただくものや岩峰が多く,特に島の南西部にはモッチョム岳や耳岳,

七五岳といった巨大岩峰群があり,海岸線からも見ることができます。
この島は雨が多いことでも有名で,数多くの沢を流れる清らかな水は,日本の名水百選にも選ばれています。
また,冬でも温暖な海岸部に対して,標高2,000mに近い奥岳は北日本の気候に相当しており,多い年で3~6mの積雪があるという。

ホテルはモッチョム岳を望む山裾に面してました。

(赤☆印 ホテル)

今日も快晴、気温も高い(32℃になる様子)

20分ほどバスに揺られ、南西部にある中間(なかま)集落へバスを降りて歩い

て向かいます。

屋久島の生垣には赤や黄色、白、ピンク、オレンジ色など原色の鮮やかなハイビスカスが見られ、種子島でもそうでしたが、野生化したハイビスカスがを沢山見かけました。
ガイドさんの話では、実はハイビスカスは中国南部原産の常緑低木樹で、

芙蓉の花を品種改良した園芸種で、原種ハイビスカスと呼ばれるという。

ハイビスカスの原種は250種ほどもあるそうで、さらに品種改良されたハイビスカスの園芸品種は1万種近くあるんだそうです。

種子島もそうでしたが、野生化したかのように、ハイビスカスやテッポウユリなどが

島中に咲いてました。

走行中の眺めの為、花のいいショットが無いのが残念。
(花びらにギザギザがあるのが原種系だそうですが、この花はどっちかな?)

このハイビスカスは園芸品種系ですかね。

マンゴーの花と実

バスを降りて5分ほど行くと、中間(なかま)集落の中間川の下流域に自生する

巨大なガジュマルの木が見えてきました。

一本の幹から無数の根が伸び、網目状の壁やアーチを作り上げ、下を舗装された道を

車が通るほどのに広がっていた。

このトンネル状になった道は、記念撮影の人気スポットなんだそうです。

島内に数あるガジュマルのなかでも有数の大きさで、樹齢は300年超ともいわれているそうです。

(島内図 紫▲)

ガジュマルを後にバスが向かったのは大川の滝。

(島周辺道路からは見えることは無いが、山並みの奥には

   日本百名山宮之浦岳・1936m 九州最高峰が あるという)

バス駐車場から緩やかな下り坂を5分ほど、豪快な滝の音が近づいてきます。

「おおかわのたき」ではなく「おおこのたき」と読み、落差88mの滝です。

滝壺の真下まで歩いていける豪快に流れ落ちる見事な流れは、日本の滝百選に選定されているという。

(急坂の下り登りがあるので、行きませんでしたが、滝壺まで近づけるという)。

落差88メートルの断崖を大量の水が数筋の滝となって流れ落ちるさまは壮観。

滝巡りなどもしてきた私たちには、豪快な中にも優しさを見せる素敵な滝でした。

(滝巡りで訪れた落差日本一は、富山立山裾の称名の滝、350mだった)

大川の滝を楽しんでバスは海沿いを山へと上って行きます。

屋久島の西側、県道77号線、先が通称、西部林道です。

全長約20km、所要時間約70分にわたって人家のない道が続き、

その内の約15kmは、世界自然遺産地域に含まれているという。

海岸沿いから標高1000m近くの山沿いまで含まれる細い急峻な道で、

道路沿いはほとんどが照葉樹林で「緑のトンネル」と呼ばれ、まさにジャングル。

屋久島固有の野生動物、ヤクシマザルやヤクシカなどの貴重な住処となっていて、

さっそくバス前に姿を現してました。

ヤクザルは、かって屋久島では害獣として駆除された時期もあったというが、

現在は共存ができているという。

ヤクシカ屋久島と口永良部島のみに生息する固有種で、日本鹿より体が小さめ。

昔は狩猟の対象にしていた時期もあり、生息数が激減してしまったため、

保護政策を実施。その結果、生息域は拡大し、個体数も増加してるそうです。

近年では生態系保全、人とヤクシカとの共生という観点から、一定数の捕獲を

実施し、農業被害を防ぐための防鹿柵なども設置しているという。

「エサを与えたり手を出したりはしないでください」との注意書きも目にします。

車両すれ違いも困難な極く狭い林道ですが、車は相互通行でしたね。

林道は夜間は通行禁止となるという。

バスはごくゆっくりと走り、前方に動物たちが現れると動物たちが道の端へ寄るのを

待って通行します。

屋久島はニホンザルの南限の生息地で、屋久猿は群れに分かれ、島の海岸近くから1

800メートルの高山まで生息してるという。

猿も鹿も餌やりなどはしていなく、銃などでも駆除も行っていないので、

人を恐れたり近寄って威嚇したりは無いそうです。

(それでも観光客の増加と共に、餌やり等が見られ、危惧されてるという)

本土の日本猿より、一回り小さいですね。

前方には、仲良くくつろぐ屋久猿と屋久鹿の群れ。

屋久鹿はヤギくらいの大きさかな。

この先からはバスを降りて、しばらくの世界遺産林道歩きをしました。

歩き中にも猿や鹿に頻繁に出会いましたね。

猿は正面からは目を合わせたり、ジーっと見つめないよう、ガイドさんから注意が

有りました。

15分ほどの林道歩きを楽しんでバスに戻り山道を走ります、

眼下に屋久灯台が見下ろして、その先で西部林道は終り。

バスは島西北部の永田いなか浜へ。

海沿いの多くを急な崖が占める屋久島にで、貴重な砂浜といえるのが北西部に位置する永田いなか浜。

砕けた花崗岩が混じった白い砂浜と、青い東シナ海コントラストが美しい海岸です。

沖合に火山島で知られる口永良部島が浮かんでる。

はるか沖に浮かぶ島影、カミさんは伊豆下田から眺めた伊豆七島を思い出していた。

永田いなか浜は、絶滅の危機に瀕したアカウミガメの産卵地で、屋久島では

毎年数千頭が上陸すると言われ、中でも永田いなか浜は日本でも屈指のウミガメの

産卵地として、ラムサール条約にも登録されているという。

産卵は夜間で産卵時期には大勢の観光客が訪れ、誤って踏みつぶしてしまうことが

有り、現在は保護監視員が終夜見守り、産卵が終わるとすぐに産卵保護地域砂浜へ

移し埋め戻すそうです。

移した産卵保護地域砂浜は立入厳禁で、こちらも終日監視員が見守り続けるとい。

(棒がたって綱が張ってるのが産卵保護地域砂浜)

永田いなか浜を後に30分ほどバスは走り、屋久島観光センターで昼食、休憩。
昼食後再びバスに乗車して、お待ちかねの屋久杉ランドと紀元杉へ。

バスの右手の山並み、今回はコースではないが、宮之浦川奥の山間には屋久島自然休養林白谷雲水峡がり、高低差のある遊歩道での標高1000mを越える太鼓岩往復コース(4時間)は、特に春の季節に、太鼓岩から見渡す山桜と新緑、そして九州最高峰・

宮之浦岳のパノラマの眺望は、いまや人気のスポットだそうです。

(TV放映などでよく見たコースで、屋久島へ行くならせめてこのコースへも

 行きたい!と思いはしたが、 調べてみるとけっこう急峻な登山道のりでもあり、

 残念ながら諦めた)

昨日上陸した安房港の先からバスは島の中央部、山岳帯へのぼって行き、

ぐんぐん高度を上げてヤクスギランド 紀元スギへと向かいます。

屋久島の山は地元の人にとって、神のいるところなので普段は登らないとのことです。

屋久島第一発電所発電所は3っあるという。)

日本は、東京電力九州電力など全国の10の電力会社が地域独占をして、発電から家庭に届ける配電までまかなっています。

しかし、屋久島は九州電力のエリアにあるのに、屋久島電工という民間企業が電気を

送っているそうです。

屋久島電工は、ディーゼル車の排ガスフィルターや研磨剤の材料となる炭化ケイ素の

製品を、宮之浦町にある工場で製造している日本で唯一会社という。

その工場の電力をまかなうための水力発電所ですが、水力発電で得た電力は、

島内の全世帯をもまかなう量を生み出しているので、住民への電力供給義務は無いが

住民に送っているということでした。

 発電した電力を家庭に届けているのは、屋久島電工ではなく、

一部のエリアだけは九州電力が担当していますが、エリアは地域ごとに4っの配電組合ができて、それぞれ独自の運営を行ってい、送電と小売りを担当すしているという。

右に左に大きくうねる山道を揺られて30分ほど、安房市街地から16kmほどの

標高1,000~1,300mに位置する「ヤクスギランド」入口へ到着。

(キャッチフレーズ)

[屋久杉と言うと、縄文杉が有名ですが、往復10時間歩かなくとも屋久杉が見られるのが、「ヤクスギランド」の魅力です。

ルートは、荒川の沢沿いをたどり、屋久島らしい渓谷美が見られ、苔の広がる森を楽しめます。スギ、ツガ、モミといった針葉樹の森を抜けて、巨木、渓谷美、苔ワールドを一度に楽しめます」

このキャチフレーズで、躊躇していた屋久島行きを決めたようなもんです。

(写真はブレブレでパンフ拝借)

屋久島で屋久杉や山を本格的に楽しみたいと思ったら、登山用具や服装、山岳ガイドが必要だったりとか、本格的なトレッキング準備が必要でが、ここ標高1000~1300mに

広がる自然休養林でなら、時間や体力に応じたコースの元、屋久杉や美しい苔が

気軽に観賞できるという。

4つの見学コースが設定されており、私たちは、お手軽に楽しめる整備された歩道を

散策感覚で歩ける歩行30分の「ふれあいの森コース」

屋久杉と呼ばれるのは屋久島の標高500m以上・樹齢1000年超の杉の総称だそうで、

それ以外の杉は樹齢900年でも小杉と称するそうです。

一般に、杉の樹齢は長くても500年程度だが、栄養の少ない花崗岩の島に生える

屋久杉は成長が遅く木目(年輪)が詰まっており、降雨が多く湿度が高いため、

抗菌作用のある樹脂分が多く腐りにくい特徴を持ち、そのため樹木の寿命が長いと

いわれ、樹齢2000年以上の大木が多いという。

倒木に芽生えた屋久杉の若木。20cmくらいだが10年掛っての大きさとか。

(バスガイドさんが、何度来ても大きくなてない、と言っていた)

幹を覆う苔は水滴がきらめいている。

原生林、倒木も苔むしてます。

屋久杉は1560年には神宮造営などで伐採された記録があるそうで、

京都方広寺の建築材にも使われたと記録が残るそうです。

江戸j時代ころは島津家により山岳部奥地の本格的な伐採が始まり、多くの屋久杉は、

現地で平木と呼ばれる屋根材に加工され、出荷されたという。

江戸時代の伐採跡、切株には小杉が芽生え現在に受けつがれています。

おや?

奥のつるっとした木肌はヒメシャラの樹だそうで、こんな大木は初めの出会いでした。

遠くの山に直立の岩峰が、

山奥にはこんな岩峰がごろごろ見られるそうな、

おや、珍しい、キセルガイ

 

散策感覚で歩ける「ふれあいの森コース」とのことですが、整備されてるといえ山道。

木道や梯子段の上り下り、木橋や吊り橋で谷を渡ったりの、けっこうハードな

 トレキングコース(と言ったのは自分だけ)でした。

再びバスに15分ほど揺られ紀元杉へ。

屋久島に数多く残る巨木のなかでも、手軽に鑑賞できるのが紀元杉。

樹齢3000年を迎え、上部は白骨化しかけているものの、その根本近くには成長の

証であるコブが所々に生じるほど強い生命力を維持しています。

樹高約19.5m、胸高周囲約8.1mの紀元杉には特に着生樹が多く、10種類以上が着生していうといい、春にはヤクシマシャクナゲの花、秋にはナナカマドの紅葉を樹上に見つけることができ、四季を通じて楽しむことができるという。

大きすぎて収まらない!

林保護の機運が高まったことも影響し、1993年に世界自然遺産として登録。

現在も屋久杉の商品は販売されてはいるが、それは江戸時代の頃に伐採して

搬出できず山中に残ったままの屋久杉の倒木、土埋木がほとんどという。

僅かに伐採もあったが2019年禁止され、土埋木の搬出も禁止された今、屋久杉を

山から搬出する事は一切なくなり、今後の流通は、各社が在庫している屋久杉だけが

全てということだそうです。

 

楽しんだヤクスギランドを後に山を下り、一路ホテルへ早めに到着。

さっそく温泉大浴場でゆくり足を伸ばし、夕食まで部屋でまったりと。

窓からの山々。

ヤクスギランドは写真左手奥の山にあるようだった。

ホテルの部屋から眺める後庭(滝は人口滝だそうです)

早めの到着だったので、夕食も6時からと早めになり、懐石コース料理メインに、

洋風もあり、節制中のお酒も今日は少し解禁(カミさんから)、

いい旅、いい酒、いい気分。
島で使用の支援金も2人、2日分なので使いかってが有りましたね。
(なぜか、食事はデジカメでもスマホで写してなかったですね)

 

7月29日(土)

いい目覚めの朝、カーテンを開くと屋久島の夜明け。

(これがまた、旅の楽しみの一つです)

海上に沸き立つカナトコ雲

AM5:50 日の出



旅も今日が最終日、ホテルをでて滝を愛で昼頃には島を後にします。

AM8:30、ホテルを後にバスは15分ほど走り下車。

石を敷き詰めた小道を山奥の方へ20分ほど向かいます。

軽く滝音が聞こえ始め、パット開けた眼前に広々としたV字谷が広がる高台が展望台。

そこから気軽に眺められるが「千尋の滝」。

島の中央部から南東方向へと流れる鯛之川にかかり、落差約60m、

滝から少し離れるため「水の迫力」という点では多少見劣りするというが、

一枚岩や奥の山々などの雄大な景色が広がり素晴らしい景観でした。

一尋とは、人が一人両手を広げた程度の長さを表す昔の単位ですが、

滝の左側にある岩盤が、千人が手を結んだくらいの大きさということで「千尋の滝」と名づけられたという。

滝を楽しみ、3日間の島旅観光は無事に終わりを告げました。

再びバスに揺られて、屋久島空港へ。

AM11:45 屋久島空港を飛び立ち、35分のフライトで、鹿児島空港へ。

霧島連峰を望む鹿児島空港を、すこし慌ただしくPM12:40飛び立ち、

PM2:25羽田へ。

羽田からのリムジンバスの乗継ぎもスムーズに、猛暑の街、我が家へ無事帰宅。
「ひと月に35日雨が降る」と言われる島だったが、乗車中、昼食中や夜間などに
降られたくらいで、散策中は天気には恵まれた、いい旅でした。
楽しかったわね~、いい旅だった、やっぱり旅、山、海は良かったな~。

で、お終いです。さて、次はあるかな?      終

 

 

 

 








 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ツアー旅 種子島 屋久島 (種子島編)

山歩きをしなくなって(というより足腰が衰えてだね)、TVなどで、

魅惑の島・屋久島の旅番組を見るたび、行きたい気持ちは満々だけど、

  登れないもんな~・・

なんて躊躇してたが、カミさんが見ていた旅行案内に、

縄文杉だけが屋久島ではない、登らなくても楽しめる旅~・・・」。

                      思い切って行ってみない、の誘い。

 

屋久島は月に35日は雨が降る』とよく言われるのが屋久島の雨降り。

調べてみると、夏は比較的雨降りは少なく気候も安定ともあった。

「宇宙に一番近い島・種子島世界遺産屋久島4日間」

「よ~し、行かないで残念がるより、まずは行ってみよう!!」

ツアー利用の旅はスイスへ行って以来、12年振り。

旅の足はマイカー、宿泊はビジネスホテルか車中泊が基本だったか。

(旧街道歩き旅を始めてから、普通の旅行へゆくのは久しぶり)

と、ツアー予約を入れると、後日全国旅行支援適用との連絡が有った。

平成5年7月26日、

早朝、次男に最寄り駅の空港行きリムジンバス乗り場まで車で送ってもらい、

羽田より鹿児島空港へ。

(昨今は早朝のタクシー予約が、はなはだ難しく成ってるんです)

AM8:30 羽田第二ターミナル集合、なんと、ツアー参加は2組夫婦の4人。

(ツアー催行の参加人数は夫婦4組8人となっていたが、

 再開された全国旅行支援事業適用もあって、催行実施となったとか)

AM9:20 羽田発(ANA 鬼滅の刃

コロナ規制は解除されたが機内ではほとんどの乗客は、マスクは使用していた。

(乗務員は半々)

AM11:05 鹿児島空港

大型バスに7人(乗務員、ガイドさん、添乗員さん含み)が乗車して、

新婚旅行以来53年振りの鹿児島市内を通り、種子島へ向かう鹿児島港へ。

53年振りに眺めた桜島

鹿児島から水中翼高速船・トッピー・ロケットで種ケ島・西乃表港へ。

(入港してきた高速船、乗船は別の高速船)

PM1:00 出航

右手に、懐かしい開聞岳、そして左手に大隅半島突端の佐多岬灯台

巨大なコンテナ船は鹿児島港へ。

この灯台も岬から眺めたのを思い出していた。

海上南へ110km・1時間35分の船旅。

(旅で船に乗ったのは、マイカー時代フェリーで北海度へ渡って以来9年振り)

種子島西之表港

「本土最南端の佐多岬より南東約40㎞、平坦で南北に細長い地形。
ポルトガルから鉄砲が伝えられた「鉄砲伝来の地」。

現在は日本最大のロケット発射場のある種子島

歴史と近未来の種子島、北たから西之表市 中種子町 南種子町

人口 約28000人 周囲170km。」

(パンフ案内文より)

西之表港西之表市)より、こちらも大型バスに乗務員、ガイドさんを含め7人が

乗車、西海岸を南下し、中種子町で島を東海岸側へ横断。

幾つかあるマングローム園の内、阿嶽川河口のマングローブ林へ。

海水と淡水が入り混じる沿岸域にマングローブが分布しています。

初めて知ったのが、マングローブという植物は無い、ということ。

マングローブとは、熱帯および亜熱帯地域の河口汽水域の塩性湿地にて、特異な形態の根系,胎生種子などの特徴を持ち、植物群落や森林を形成する常緑の高木や低木の総称ということでした。

日本国内で、マングローブとして限定される種は、ヒルギ科・メヒルギ、オヒルギ、

ヤエヤマヒルなど5種あるという。

アジア地域における自然分布の北限は種子島といわれ、種子島では低温耐性の強い

背の低めのメヒルギのみが生育する。

阿嶽川もメヒルギが群落を成し、国指定天然記念物という。マングローブの高さは河川の中央部に近い部分では低く1~1.5m程度、,辺縁部は4m前後あった。

生育面積も比較的広く,良好な生育環境が残されているという。

(よくパンフなどで見る、四方に根の張ったマングローブを見上げる林とは違った

 景観だった)

川沿いの木道の敷かれたマングローブ林(メヒルギ)群落。

潮が引ていて小さなカニ(シオマネキ)やトビハゼなどが、ちょこちょこ動き回って

いた。

河をカヌーで楽しめるそうです。

初めて目にしたマングローブ(メヒルギ)の花。

マングローブ林から東海岸を南下すると、風光明媚な美しい砂浜の浜田海浜へでる。

海岸の砂浜を右手へ100m程行くと、太平洋の荒波が作り出した海蝕洞窟があた。
洞窟内は千人も座れほど広いと言われ、千座の岩屋(ちくらのいわや)い呼ばれる。

洞窟内へは干潮時には海岸沿いに岩伝いか、満ちていれば岩山の裏手の出入り口から

入れるという。

潮は引いてはいたが、海沿いの伝いは足元が危ういということで、裏手から洞窟内へ。

洞窟の大雑把な構造は北東側~南西側に貫通している洞窟が2本並んでいて、

その2本を、かなり腰を低くして通り抜ける洞窟がつないでいた。

かなり腰を低くして隣の洞窟へ。

洞窟内では、岩や海を背景におしゃれなシルエット写真が撮影できる、と若い方々の

人気スポットであるようです

帰りの砂浜で見つけたのは、根を張り芽生えたマングローブ、とガイドさんが

教えてくれた。

海岸沿い、いたるところに自生し咲いているハマユウ

ハマユウは海岸付近に自生し、夏の夕暮れとともに花が開花し、真夜中に満開に。

本土よりは気温も低く、涼しいという種子島だったが、今年の夏は暑いんだそうです。

スポットを足早に巡り、冷房の効いたバスへ駆け戻りホット一息。

今日の島めぐりを終えてバスはさらに南下し、島の南に建つ青い海と白い砂浜の

全室オーシャンビューのリゾートホテルへPM5:00、到着。

宇宙ロケット施設がすぐ近く、ロケット発射がホテルから見られるという。

ただし、ロケットの発射日が決定すると予約が殺到するので早いもの勝ちです、

と、ガイドさん。

(部屋の窓から)

左手の岬は象の頭のように見え、その名も「エレファントヘッド」と呼ばれるそうな。

洗面、バス、トイレは独立型なのがいいですね。

バスタブは広々としており、ゆっくりと汗を流し、服装も着替えてて夕食へ。

食事はレストランで、部屋着、スリッパは御法度。

和洋のコース料理、ビールが美味い!! むろん焼酎も。

島内で使える旅行支援金は二人で4千円。

夕食の飲酒代と土産代の一部に有効に使わせてもらった。

夕食後前庭で見上げた南国の月。

早朝からの乗物続きに、心地よい酔い。早めの就寝爆睡。

さすがに疲れもあって遅めの目覚め、すでに日は昇ていた。

海岸はサーフィンのメッカだそうで、大会も開催されるビーチという。

朝から波間を漂うサーファーの姿が見られた。

7月27日

和食と洋食のビュッフェ朝食を済ませ、再び大型バスに7人が乗り込んでホテルを

後にし、バスはさらに南下し種子島最南端の門倉岬へ。

門倉岬は天文12年(1543)、鉄砲を伝えたポルトガル人の乗った異国船が漂着した岬。一帯は公園になっていて、展望台や鉄砲伝来紀功碑、神社などがある。

銃といえば西部劇のライフル銃を思い出しますが、鉄砲といえばやはりポルトガル人によって種子島に伝えられた鉄砲、種ケ島銃かな。

信長の三段銃戦、歴史教科書にも載っていたような。

下車し岬へ向かう途中に、種子島を北限とするクワ科の常緑喬木で幹や枝から多くの

気根を生じた「ガジュマル」が数本植えられていた。

種子島のガジュマルは、防風、防潮、護岸のため、沖縄より移植したと

伝えられているそうです。

ガジュマル

門倉岬神社

門倉岬から望む、岬の岩礁と、東側に続く美しい前之浜海岸。

天文12年(1543)8月25日、種子島の南端門倉岬に明国船が漂着。

この船にはポルトガル人が乗っており、我が国初めての西欧人との出会いであった。

さらに遠くに見える島の先端には、種子島宇宙センター(ロケット基地)があり、

ロケット打上げ時には、岬からもきれいに見えるという。

鉄砲伝来の碑

海上まじかに山頂を雲が覆う屋久島が見えていた。

クマゼミかな?

門倉岬を後に戦国時代から現代へ戻り、バスは岬から遠望していた最先端宇宙時代へ

と向かいます。

種子島には、報道などで目にするJAXA宇宙航空研究開発機構)の実用衛星打ち上げ

基地、「種子島宇宙センター」と、人工衛星を監視する「増田宇宙通信所」があり

ます。

(パンフ案内文)

鹿児島の南、種子島東南端の海岸線に面しており、総面積約970万平方メートルにも

およぶ日本最大のロケット発射場で、世界一美しいロケット発射場といわれています。
当センター内には、「大型ロケット発射場」、「衛星組立棟」、「衛星フェアリング組立棟」などの設備があります。これらの設備で、人工衛星の最終チェックからロケットへの搭載、ロケットの組み立て・整備・点検・打ち上げ、打ち上げ後のロケットの追跡まで一連の作業を行っており、日本の宇宙開発において人工衛星打ち上げの中心的な役割を果たしています。

バスをおりて、まずは宇宙科学技術館へ。

技術館前に聳えたつロケト、H-Ⅱロケットは、1990年代に現在のJAXAの前身であるNASDA宇宙開発事業団)が開発した2段式衛星打ち上げ用ロケットです。

それまでのアメリカの技術を導入してライセンス生産していたものとは違い、

重要な主要技術の全てを日本国内で開発した初めてのロケットで、のちのH-ⅡAや

H-3ロケットに繋がる、純国産ロケットでもあります。(パンフ案内文)

ロケットといえば、当時は高校生だったかな、ペンシルロケトを思い出す。

たしか火薬式ロケットで、初発射実験は水平発射とニュースなどでの記憶が蘇った。

種子島宇宙センター内にある「宇宙科学技術館」は、昭和54年(1974年)

JAXA 種子島宇宙センター内に、わが国初めての本格的な宇宙開発の展示館として

オープン。

ロケットを中心に、人工衛星国際宇宙ステーション、月・惑星探査などについて

展示・紹介されていて、宇宙開発に関する様々な分野について実物大モデルなどを

使って楽しく学べる施設です。

シアターホールでの、ロケット発射場から3キロ地点での発射時の音響を、

大映像と共に体験した。

注意に「大変大きな音が出るため、妊娠中の方、心臓の弱い方、補聴器つけてる方

などにはご遠慮下さい」とあったが、まさにの大迫力大音響。

歴代ロケット(モデル)

人口衛星 

歴代日本宇宙飛行士の手形。

宇宙科学技術館を後にし、再びバスに乗車して、山(丘かな)を駆け上り、

実際にロケットを打ち上げる発射場を眺める展望所、ロケットの丘へ向かいます。

野外展示 H-ⅡAロケット(車窓から)

記念写真撮影スポットでもあるそうです。

車窓右手奥には、ロケット打ち上げ時に報道機関の取材場所となる建物のある

「竹崎展望台」

ロケットの丘から遠望する発射場。

大型ロケット発射場 右第一射点、左第二射点(場ではなく点というそうです)

射ち上がるロケット、なんどかTV映像などで見てますね。

大型ロケット組立場、ここから打ち上げ射点まで台車でゆっくり移動。

周辺には関連するいろんな施設棟が点在していた。

実際のロケットの発射には危険と爆音を伴います。

そのため打ち上げ当日は、種子島宇宙センター全域と射点から3km以内が立ち入り

禁止になってしまうそうです。

来る8月26日には、H2Aロケット47号機打ち上げが予定されおり、

島も大賑わいになるでしょう、とガイドさん。

失敗の後、成功してほしいですね。

宇宙センターを後にし、島中央部の高台に広がるゴルフリゾートのクラブハウス
にて、煌めく紺碧の太平洋を眺めながらの昼食。

その間に小雨雷名があったりしたが、出発時には青空が広がっていた。

(なぜは写真を写し忘れていた)

丘のような山を下り西海岸へ。

沖遠くに三角垂の島は、鹿児島県に属する多くの火山島の中でも、本土に最も近い

薩摩硫黄島とガイドがあった。

海岸線を北上、左手に現れるは中種子町にある、「雄龍雌龍(おたつめたつ)の岩」。

波打ち際に、しめ縄と鳥居が設置され寄り添うように立つ2つの巨岩伝説は、

「ある嵐の夜、達五郎と達江という仲の良い夫婦が崖崩れに巻き込まれました。

 2人は夫婦岩として生まれ変わり、海に向かって右側が雄龍岩、左側が雌龍岩と

 呼ばれるようになった」という。

 水平線に日が沈む光景も美しく、サンセットを楽しむビュースポットで

 もあるそうです。

西海岸線を北上。

道端など、いたるところに咲いてる、ハイビスカス。

原種系ハイビスカスなんだそうだ。

種ケ島北部、上陸した西之表港近くにあるのが、月窓亭。

江戸中期 1793年、島主種子島家の家老職を務めた羽生道潔が 建造し、

羽生家が島を離れたことに伴い、明治19年(1886)、旧島主・種子島守時公の

住居となり、平成12年まで島主種子島家住宅として使用されたという。

現在は市の所有となり、平成22年から一般公開されています。

月窓亭

月窓亭を後に坂を下ると、種子島開発総合センター(鉄砲館)が建ち、その真向かいに榕城中学校があり、この地は、第14代島主・種子島時尭公が建設した内城跡地で、

鉄砲伝来当時の第14代島主種子島時尭公の像が建てられています。

種子島時尭公は鉄砲伝来のときは若干16歳で、資料によれば2丁の鉄砲を2千両で

買ったといわれているという。

ポルトガル人から譲り受けた鉄砲は、片時も離さずに持っていて、

日本人で初めて鉄砲を試射した人物という。

種子島開発総合センター(鉄砲館)

鉄砲の伝来は、戦の方法が激変した大事件でした。

天文12年(1543)8月25日、種子島の南端門倉岬に明国船が漂着。

この船にはポルトガル人が乗っており、我が国初めての西欧人との出会いであった。

時の島主第14代種子島時堯は、ポルトガル人が携える鉄砲を見て、優れた兵器と考え、2丁の鉄砲を求めて家宝とした。

その後、一挺は紀州津田監物へ贈るが後焼失。

残る一挺も明治10年西南の役の際、鹿児島の種子島屋敷において焼失した。

展示写真の銃は、初伝の銃は失われたが、幸い西村家に秘伝されていた

ポルトガル伝来銃が種子島家に 献上され、保存されてきたものである。

 銃は銃身がポルトガル伝来のものであり、銃床部分は後に製作され装着された

 ものである。(案内文)

初めて我が国へ伝えられた火縄銃の模作を当時の14代島主時尭から命じられた

八板金兵衛清定は、苦心の末、その翌年国産銃の製作に成功しました。

 この銃は、種子島家に古来八板金兵衛作と伝えられてきた火縄銃です。

(案内文)

砲のような手持ち銃

おや、と目を引いたのがこの骨格標本

ウシウマは体高約1メートル、体長約150センチメートル。

形はほとんど馬と同じだが、尻尾と毛が牛に似ている。

慶長2(1597)年の「慶長の役」で、島津公が朝鮮から数頭を持ち帰り、種子島

島主に飼育を命じた。島では西之表安城に牧場を設け、一時は約60頭に増えた。
しかし、明治の初め、牧場が廃止されて減少。戦後に絶滅し「幻の動物」と

言われている。 と案内文にあった。

う~ん、重たい!(わしゃ戦えんな~・・)

PM5:40 

種子島巡りを終えて再び高速船にて種ケ島を離れ、屋久島へ。

PM6:30 夕暮れ迫る屋久安房港入。


7月28日 屋久島編へ続きます。



 











 

 

 

 

甲州街道四十四次 3 

令和5年1月19日、大きく寄り道2か所をしながら甲州街道の江戸方(東方)の

入り口四谷大木戸を過ぎ、江戸から1番目の宿場、内藤新宿にはいり、

甲州街道、青梅街道との追分、新宿三丁目交差点で足止めをしていた街道旅。

冷え込みのきつい2月も最後の28日、4月下旬並みの暖かさの天気予報に、

重かった腰を上げて再び街道旅へ。

ゆくり家を出て、AM10:00、内藤新宿江戸の出口、甲州街道と青梅街道との

追分(現新宿3丁目交差点)。

少し手前にあるのが内藤新宿名物「追分だんご本舗」前から3回目の旅立ち。

江戸築城の太田道灌が好んだという、高井戸宿の柳茶屋・団子屋が、新た設けられた

内藤新宿の追分に移転し「追分だんご」として大いに繁盛したという。

すぐ先が追分・新宿3丁目交差点で歩道に「追分モニュメント」。

(ちょとわかりづらいが、真ん中左上の赤いポッチが追分)

交差点を左へ曲がって甲州街道、真っすぐ行くのは青梅街道。

青梅街道は脇街道で、当時は「成木街道(なりきかいどう)」と呼ばれていました。

途中には中野宿、田無宿、小川宿、箱根ヶ崎宿、青梅宿、氷川宿、丹波宿、塩山宿、

小原宿の9つの宿場が設けられ、大菩薩峠を経由し、甲府の東にある酒折村(現:甲府市酒折)で甲州街道と再び合流します。

距離で甲州街道より2里ほど短く、途中に関所が無いため、庶民の旅にも多く

利用されていたという。

この新宿の追分付近に日本橋を出てから2里目の一里塚があったといわれてるが、

その痕跡はどこにもありません。

追分(新宿三丁目交差点)を左折して100m程で新宿4丁目の交差点で、

以前四谷四丁目交差点で分岐した国道20号線(現在の甲州街道)に合流しますが、

 ここは少し真っ直ぐ進み左手に見える道を行へ入ります。

交差点を過ぎ100mほど左手に立派な門を構えてるのが、曹洞宗 護本山 天龍寺

扉には大きな徳川葵のご紋で、江戸城裏鬼門鎮護の役割を帯びてた寺です。
江戸城鬼門鎮護は皆さんご存じ上野寛永寺

こちらには内藤新宿に時刻を告げた「時の鐘」があります。
内藤新宿で夜通し遊興する人々を追い出す合図として通常より早く鐘を鳴らしたことから「追出しの鐘」と呼ばれたそうです。

 新宿4丁目交差点に戻ってこんどは国道20号(甲州街道)を右手に渡り、

JR山手線や中央線、小田急線等の複数の線路の上を超えへ、新宿駅南口に架かる

陸橋を渡って西へ向かいます。

新宿4丁目交差点あたりが内藤新宿の諏訪方(西方)の入り口だったところで、

昔は木戸が設置されていました。ここまでが内藤新宿でした。

江戸時代に江戸と呼ばれていたのは四谷までで、内藤新宿豊多摩郡で江戸の外側、

3回目の歩きで、ようやく江戸区域を出て一路甲街道を下諏訪宿へ目指します。

陸橋を上ると左手駅上には、昔は新宿界隈でバラバラだった発着所が一カ所に集約され、一日発着1500便以上、300都市を結ぶ高速バスターミナル(バスタ新宿)が整備されていまや景観は一変。

(かってはバスタ下には、新宿場外馬券売り場があったとおもうが・・・)  

陸橋を渡り終えてすぐに右手に折れて行くと新宿西口広場。

35年ほど前からの4年ほど、通勤で利用していたので懐かしく思いちょい寄り道。

周辺は高層ビルが林立し、かろうじて奥に新宿新都心開発で最初に立ち上がった

新宿住友の三角ビルが見えていた。

一帯は淀橋浄水場の後の再開発で、後に都庁が移転し新都心と呼ばれ、あっという間に高層ビルが立ち並んだエリア。

遠い昔し新宿駅から淀橋浄水場が見えていたな・・・・

甲州街道(国道20号)へもどる少し手前左手に飲食店が立ち並ぶ国際通りが、

短い距離ですが旧甲州街道

200m程で左折して甲州街道(国道20号)へ戻ってきました。

新宿新都心超高層ビル群を右手に見ながら、新宿の喧騒を背に甲州街道(国道20号線)を西に進みます。

現国道20号が今も昔も甲州街道

街道もすっかり拡幅され昔の面影は望むべくもない。

左手に高層建築が立ち並ぶ文化学園大学が見えてきます。

大学の建物の西側のビルの端に大きな銀杏に木のがあり、下に小さな社が祀られ、

社は旧角筈村、代々木村の村境に祀られた天満宮

脇の大銀杏の木は樹齢300年余と伝えられる大銀杏で、その形状から箒銀杏と

呼ばれていると案内板が立ってました。

その先へ進むと首都高速が右手から合流してきて、空を覆い、うっとうしくなってくる。 

 左手に寺院が二つ並んでいて、手前が境内に高層マンションを持つ真宗大谷派

寺院で、山号を聖徳山。

万治元年(1658年)に四谷に創建し、享保年間に新宿の初台近くに移転したという。

この諦聴寺には、渋谷区指定有形文化財の「木像聖徳太子立像」がある、と街道書に

記されてるがお堂は覗けない。

その先が浄土真宗東本願寺派正春寺。

慶長19年(1614年)創建といわれ、二代目将軍秀忠の乳母「初台の局」の

菩提寺で、付近の地名初台の由来となった、と街道書にはあるが、それらしき案内板もなく、普通ならす~と通り過ぎてしまいそう。

正春寺側の参道口交差点で国道右手に渡り、約10分ほどの初台交差点手前右手が

NTT東日本本社があり、交差点を渡った先右手は巨大な東京オペラシティ

新国立劇場などの建物群。

すぐ先を右手の小路へ入り、街道書にある八幡太郎義家縁の「旗洗池跡碑」を探したが、見つけられず街道へ戻ります。

国道20号に戻りさらに10分ほど行き、街道書では国道左手に記されてる子育地蔵尊

幡谷歩道橋で渡って向かいます。

歩道橋を降りたすぐ側にペンシルお堂があり、「貞享3年(1686年)造立の

子育地蔵尊が祀られている」と街道書にあった。

子育地蔵を後にし薄暗い高架下の街道を西へ進みます。

おっ、日本橋から11km、なんと三日目で・・・・

先はゆるい坂道になり、数分ほど行くと窪地の笹塚交差点。

交差点手前の左手ビル間に、数mほどの参道があって、その奥にモダンなデザインの

地蔵堂があり参道には案内板も立っている。

地域の方々が大事に管理されてる様子で、清掃も行き届き整理整頓がされてます。

この地はかて極悪人の刑場で、牛を使って最も残酷な牛裂きの刑がおこなわれ、

地形が窪地だったことから牛窪と呼ばれ、お堂に祀られているのは牛窪地蔵尊

 参道脇に庚申塔やら道供養碑などが並んでいる。

道供養とは道路自体を供養して報恩感謝の念を捧げることにより、交通安全を祈る

とする全国でも珍しい供養碑といわれ説明板も建ってます。

 笹塚交差点で甲州街道を右へ渡ってそのまま北へ200m程ゆくと右手に

浄土宗法界山清岸寺。

案内板によると、寛永17年(1640年)の開山。

参宮橋南側にあったが、当所が代々木練兵場の開設で、荒廃していた現在地に有った

法界寺と合併し、 参宮橋から当地へ移転し、 法界寺と清岸寺が合併したことから

法界山清岸寺と改称されたとある。

境内に宝永5年(1708年)造立という、酒にまつわる命を落としした男の

願いで立てられたという「酒呑地蔵尊」が祀られてます。

かつては、他所に祀られていたが、近年幡ヶ谷の清岸寺境内に遷されました。

境内の木の根を利用したベンチ、アリ喰いかな?

笹塚交差点に戻り、西へ300m程進んだ右手交番隣に、笹塚跡という看板が立ち、

「街道の両側には直径1mほどの笹に覆われた塚があり、「笹塚」という地名の由来になったという。また、この塚に一里塚の印を記している古図もある」と記されてます。

ようやく12km

その先、笹塚郵便局手前の右に路地に入ってすぐ右側にお堂が建ち、

庚申塔青面金剛像が安置されています。元々は街道に面してあったという。

ここも綺麗に大事に守られてる様子です。

国道20号の戻って国道をの左手に渡り、10分ほど行くと環状7号線(通称環7)と交わる大原交差点。

すこし手前付近が豊島郡(渋谷区)多摩郡(杉並区)荏原郡(世田谷区)の三郡境で、

渋谷区が終わり、先は国道20号の右手が杉並区、左手が世田谷区になる。

かっては川が流れていて橋が架かり三郡橋と呼ばれていた、と街道書にあったが、

示すものは何もありません。

(大原交差点)

大原交差点から5分ほど行くと、左手に暗渠から流れ出てる川が有りますが、

ここは国道20号を玉川上水が斜めに貫き、代田橋という石橋が架けられていたと

いう。今はもちろん橋は無いが、京王線代田橋という駅名に残るのみ。


代田橋跡のすぐ先の小路を左手に行くと京王線代田橋橋駅で、手前線路沿いを右手に

行くと大原稲荷神社へ着きます。

街道書には、この地の鎮守で、境内で世田谷で唯一「酉の市」が開かれる。

参道入り口に祀られてるのは北向子育地蔵尊、ともあった。

だけど、お稲荷さんとあるが、らしくない・・・・

と思ったら、何故か境内の脇の方にお稲荷さんがこじんまりと祀られてましたね。

これで大原稲荷神社なのかな・・

大原稲荷から小路を斜めにたどり5分ほど行き国道20号(甲州街道)へ戻り

松原交差点手前で歩道橋で右手へ渡ります。

松原交差点を過ぎてすぐ右手の小路を入り、突き当りの祠に青面金剛、邪鬼、三猿の

図柄の庚申塔

街道書によれば 下部に「當村願主 鈴木久右衛門他の7名の願主銘がある」とあった。

当村というのは和泉村であったようだ。

国道に戻りすぐ先が京王井の頭線で、越えると右手は明治大学和泉キャンパス。

街道書を見ると「その先隣に築地本願寺和田堀廟所があり、これらの広大な敷地は

江戸幕府焔硝蔵の跡で、大正の末期に廃止となった」とある。
後に旧陸軍省火薬庫となり、空襲で一帯は焦土と化した、ともあった。

明大門塀に掲示された解説板

京王線明大前駅の名は開業時は「火薬庫前」で、松原駅と改称され、

昭和10年(1935年)に今の明大前駅に改称した。)

明大のキャンパスを過ぎるとこちらも広大な築地本願寺和田堀廟所。

街道書には「樋口一葉墓所」とあり立ち寄ってみましたが、海音寺潮五郎服部良一古賀政男横綱吉葉山、などなど有名著名人のお墓が多くあるそうです。

そうそう、今年秋の朝ドラ、ブギの女王笠置シズ子さんのお墓もありました。

和田堀廟所沿いに5分ほど行き、松原二丁目から右の小路に入ると、

街道書では明暦の大火、関東大震災、などなど何らかの理由で移って来た寺院が

8寺院ならんでる、と記されて小路へ入ります。

浄土真宗・真教寺。親鸞自作の座像は本堂に安置、とあるが門は閉じたまま。

真宗大谷派、託法寺、寛永11年(1634年)創建も扉は閉じている。

浄土真宗本願寺派、善照寺

浄土真宗本願寺派、浄見寺

浄土真宗本願寺派、法照寺。

初代市川団蔵の墓があるそうです。

浄土宗、栖岸院。老中阿部対馬守重信の開基。

住職が将軍に拝謁できる「独礼の寺格」を有した、と街道書にある。

河津桜が満開

曹洞宗永昌寺。門前に江戸期に造立された4基の庚申塔等があった。

曹洞宗龍泉寺

境内の「北向き地蔵尊」は子供の熱封じにご利益がある、と街道書に有った。

龍泉寺を後に国道20号(甲州街道)へ戻り、信号を左手に渡ると、京王線高井戸駅入り口への小路へ入れます。

やっと下高井戸宿が近づいてきましたが、時刻も午後3時半。

今日の街道歩きも短い距離ですが、我々の旅はここで、左手小路へ入りました。

江戸から2番目の宿場まちはへはまたいつの日かの旅へ。

(咲き始めるか寒緋桜)