歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第32回 大湫宿~御嵩宿 (二)

弁財天の池で暫し小魚を探したりしながら足休めをし、丘陵上の県道65を

進みます。

街道書に、この先に「ハナノキ自生地」がある、と記されています。

9月の中津川~大井(恵那)の旅路に、マンホール蓋にハナノキを見つけ

中津川山中に国指定天然記念物になっている「坂本ハナノキ自生地」というのが

あるのを知りました。

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その時に「ハナノキは楓の一種」と教えていただきましたが、今回の街道筋に

自生地が有ることを街道書に見つけ、楽しみにしてました。

細久手、2.2kmの中山道道標を見送り、

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10分ほど進むと左手道端に、瑞浪市天然記念物「南垣外ハナノキ自生地」と

刻まれた石柱が立ってます。

おっ、ここだ、どの樹かな??

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瑞浪市の資料によれば、
「ハナノキはカエデ科の落葉高木で4月頃に赤い花を咲かせる日本の固有種で
国指定史跡名勝天然記念物で,主として湿地などに自生する落葉樹です。
春先(4月の初め頃)に紅色を咲かせることから「花の木」の意味でこの名が付けられ
ました。また、秋の紅葉が美しく、一段と鮮やかなことからハナカエデとも呼ばれ
ています。

長野県・岐阜県・愛知県の県境付近に分布し、希少種のひとつとして
「絶滅危惧2類」に指定されています。
瑞浪市では釜戸町、日吉町、稲津町、陶町で自生が確認されており、釜戸町
神徳地区の山林、標高約450m付近に大きな自生地が見られます。
現在約1600平方メートルの区域が国の天然記念物に指定されており、区域内には
高さ約15~20mの7本のハナノキが自生し、その保護が図られています」

とあります。

愛知の県の木でもあるんですね。

秋の紅葉が美しい、とありますが・・・・う~ん、紅葉にはまだ早いのか!!

あたりを見回しても紅葉してる樹が見当たらないね~・・・

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しばらく眺めてましたが、特定はできませんでした。

瑞浪市の資料では、こんな紅葉が見られ、春には赤い花が咲くそうです)

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自生地を過ぎて、道は下りとなり、左手に一本の根から二本の松が生え、

夫婦円満・子授けなどご利益の珍木で中山道の名物だったという「女男松の跡」

の標柱。下の溝状に「陽松女陰神」の石碑がありました。

松は残念ながら昭和初年に枯れてしまった由。

石碑が置かれていた道下が旧街道の風情があった・・

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その先はかるい上りとなり、ゆっくりと進んでゆくと

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県道の両側に、高さ4メートル、直径12メートルの両塚がしっかりと残された

江戸から92番目の「奥之田一里塚が」ありました。

瑞浪の一里塚」とも呼ばれるそうです。

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三基の電波塔の立つ秋の山道、

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7,8分行をくと右手に「三国見晴台と馬頭観音像」と書かれた標柱が立って

いて、元治元年(1864年)建立の馬頭観音が祀られています。

後ろ斜面の高台は「切山辻の見晴らし台」の跡だそうで、今は木々が覆い隠して

しまってますが、信濃、美濃、三河かな?尾張も近江もあるが?三国を

見渡せた景勝地だったようです。

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このあたりから細久手宿地域になってくるのか、街道沿いの旧跡には
「細久手長寿クラブ」の手による案内板が設置されていていました。
「~The Goddes of Mercy build in 1864 元治元甲子6月建立 小田井宰兵衛」と
英語交じりで記されてまね。(観音像の下の方に名が読み取れます)

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道は左にカーブし、細久手バス停脇に大きな中山道の案内板があり、

細久手宿はすぐ先」と記されています。

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その先左折して坂道を下ると、十字路手前右手にすっかりペンキがはがれてし

まってほとんど読み取れない「細久手長寿クラブ」作成の案内板と山の風景があり

案内板の「霊」の文字と風景画の山から、街道書に江戸時代の絶景地で茶屋があっ

たと記されている「霊峰御嶽拝観地」茶屋ヶ根と推測。

この付近から遠く、御嶽山が見えるんだそうですが、・・・

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先は十字路に突き当たり、右から道路が合流して細久手宿へ向かいます。

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広重画の細久手宿は、ここの東の高い所から宿場入口を望んで描かれたようです。

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細久手宿に入ると左側に「日吉第二小学校跡」の大きな石碑がある。
子供たちは瑞浪市の方へ山を下っての通学かな。
隣の赤い社は「天王様」で、長寿クラブ案内板には、京都八坂神社の牛頭天王信仰

に始まるもので、細久手宿では7月16日が御霊会(お祭り)であった、

と記されてます。

今は開催されてないのかな?

瑞浪市の資料では、今年は台風で中止になったが、細久手津島神社灯籠祭が

開催されるようです。

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細久手には桝形が設けられて無く、緩い弓形の坂道になってます。

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坂道を5.6分行くと右手に道標や「長寿クラブ」の手による細久手宿の案内板が

建ち、おっ!「処刑場」があったらしい。

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道標の左手は庚申堂への参道で、脇に「細久手高札場跡」を示す標柱が建ち、

細久手宿の江戸口(東口)になるようです。

AM11:20、江戸から48番目、細久手宿到着です。
右手の街道より一段と高い場所に細久手の庚申堂があり、もともと小堂宇だった

ものが、寛政10年(1798年)の宿中大火のあと、宿の鬼門除けとして

享和2年(1802年)に再建されたもので、境内には江戸時代の石仏石塔が並んでます。
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いや~、懐かしいタバコ売り場ですね。昔、町のタバコ屋さんにありましたね。

右側の家にレトロのタバコ売り場と、現代のタバコ自販機が並んでました。

「TABACCO」の文字が彫り残された飾り窓、「たばこ」のホーロー看板。

細久手で1軒だけの商店かな。

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タバコ売り場の軒下に、これぞ「生え抜き」

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同じ種類だよね?? と見たら花札がありました。

左はモミジバゼラニュウム、右はモミジバゼラニュウム「サクラサクラ」

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隣の空き地に顔出し記念写真パネルがあり、そばにある「長寿クラブ」の案内板に

よると、儒学者、佐藤梅波が1830年に開塾した「細久手塾」跡地だそうです。

f:id:hansui:20181114211438j:plain向かい、左手の広場は細久手公民館で宿の中心街になりますね。

「星あかり夢街道」のリーフレットに皇女和宮の江戸降嫁の行列と星空が描かれて

ます。

もうすぐお昼です。少し早いですが家から持参し、朝ホテルでセットしたパンで、

ランチタイムにし足休め。

(後でわかりましたが、公民館の場所は、郷蔵二棟があったところだったようです)

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瑞浪市細久手宿解説文によれば、

細久手宿は標高420m、江戸から48番目の宿で、江戸へ92里、京都へ

 42里の位置にあり、東隣りの大湫宿と西隣りの御嶽宿の両宿間は4里半

 (約18km)も離れており、両宿で人馬が難渋したため、元々は7軒屋と

 呼ばれる小さな仮宿であったものを、慶長15年(1610年)に尾張藩

 よって新しい宿場として整備されたという。

 家々の地割は、5間から10間と統一されていませんが、家々の境は石積みで

 区画整地されており、いまも新宿設置のころの施工の様子がうかがわれます。

 宿内の町並みは東高西低で、東の茶屋ヶ根から西の日吉・愛宕神社入口迄が

 上町・中町・下町に三分され、宿長は3町45間(410m)ありました。
 枡形はつくられず弓なりに緩くカーブし、上町と下町に弓形が施され、

 高札場は上町入り口の庚申堂前に、本陣・問屋場は中町に、脇本陣は下町に

 あり、往還に沿って東西に細長い町並みでした。

 家数 65軒 (うち、本陣1、脇本陣1、旅籠24)人口 256人 

 中山道の宿場で2番目に少なく、規模の小さな宿場でした。
 3回にわたって大火に見舞われ、宿場の建物を焼失してしいましたが、

  大湫宿の場合と同様主要交通路や鉄道が南の土岐川沿いに移ったため、
 主要地方道65号恵那御嵩線のみとなり、宿は過疎化の中でわずかに往時の姿を
 とどめています。」とあります。 

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12:00、旅人にも開放してる公民館脇のトイレをお借りし(志し寄付制)

街道へ戻ります。

公民館の向かい側に、卯建(うだつ)を上げた旅籠「大黒屋」、があります。

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細久手宿大火のため安政6年(1859年)に再建され、昔の古い建物のままで今も

大井御嵩間で唯一の旅館として営業し、現代の街道旅人に重宝されています。

市資料によれば、

安政の大火の翌年に再建された建物で、切妻屋根の両端に本卯建を上げ、2階が

1階に比べてかなり低い構造となって、江戸時代の面影を色濃く伝えています。

尾張藩が手狭になった宿の本陣、脇本陣での宿泊を嫌い、問屋役酒井吉右衛門宅を

尾州家本陣」として定めたのが、『尾州家定本陣大黒屋』のはじまり」

 と記されてます。

 宿場・観光案内所も兼ねており、近年は海外のガイド本にも紹介されてる

 そうで、美濃路木曽路を歩き旅をする海外ハイカーにも人気の宿になって

 いるそうです。 

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 先の琵琶峠で出会った外国のウォーカーも、一夜を過ごしたんだね。

私たちは、残念ながら日程が合わずに写真収めるだけにしました。

代々小栗八郎左衛門が務めた本陣は、大黒屋から少し先の右側にその跡を示す

石柱だけが建っていて、例の案内板もありました。

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持参街道書では本陣跡の向かいのバス停裏手の空地が、代々小栗八左衛門が勤めた

細久手宿脇本陣跡と記されてますが、標識も遺構もなく、たぶんこの空き地?

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 おや、左手の家の軒下に下がってるのは?

デジカメをアップで覗くと、なにやら動物の骨のようです。

「大般若祈祷・・」の札が下がってるので、行者の祈祷所のようでした。

謎のままに通り過ぎ・・

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右手向かい側の大きなお屋敷裏に和宮使用の井戸があるようです。

和宮細久手宿で昼食を摂っていますが、その際に使った井戸と言われています。

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お屋敷の塀に文化10年(1813年)頃の宿場内の家並みを表した細久手宿絵図

が張ってありました。

緑星印が当家輪島屋与衛門(本田屋)でパネルに黄矢印がつけてありました。

右端下の赤枠が郷蔵で、休息をした公民館、向いが「尾州家本陣 問屋場 

大黒屋吉右エ門」の表示がありました。

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 宿場の道は下り坂となり、先で左手へ下ってゆきます。

細久手宿絵図のところで追いついてきた方が、とっとと去って行きました。

この方は、なんと今朝早めに大井宿(恵那)を立ち、十三峠、大湫宿、琵琶峠を

越えて来て、「御嵩宿の先は、どこまで行けるか、歩くだけ歩いてみる」と

とおっしゃる猛者旅人でした。う~ん、これぞ街道を歩く江戸時代の旅人!!

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右手石積土手の上に、長寿クラブのほぼ擦れてしまった案内板。

街道書に記されてる、南蔵院跡の案内のようです。

不動明王を祀り、加持祈祷を行った」とあります。

ということは、先ほどの骨を飾った家(祈祷所)と関係ありそうですね。

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その先に分岐があり、道標の立つ山側へ行く右手奥に、細久手宿産土神

日吉・愛宕神社がありました。

天正年間(1573~92年)に細久手村を開いた国枝重円が文禄四年(1595年)に

創建した神社で、宿の守護神して多くの人々に崇敬を受け、旅人も道中の安全を

祈願したと、案内書にあります。

鳥居の右手の灯篭は、嘉永年間(1848~54)の山灯篭だそうです。

ここが細久手宿の西の出入り口(京方)に当たり、

PM12:10、

次の宿場は約12km先、江戸から49番目の御嵩宿。

空は青空、さあ、がんばんべ~・・・

(神社には立ち寄らづに足を進めました)

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街道書には、道標の右手斜面に「大塚由来」と記してあり、「皇女和宮の用便を

埋葬し「おくそ塚」として敬拝した等を地名由来としている」とだけ記され

てます。

他の案内書では、長寿クラブの案内板も立ってる由ですが、見当たりません。

それにしても変な地名由来ですね。

 (写真を整理していたら、この場所に建てられていた、顔出し写真パネルの

 後ろに倒れてるのが、長寿クラブの案内板だったようです。

調べた細久手資料に、

「宿並の少し先に大塚という地名があります。昔、高貴な方が旅の途中で亡くなりここに埋葬されたことから王塚と呼ばれ、後に、大塚になりました。和宮降嫁の際細久手宿で休憩し、用便を重箱に入れてここに埋めたことで「おくそ塚」とも呼ばれています」

とありました。

やっぱり、変な塚史跡ではありますね。

不動明王パネルは右手道を挟んだ南蔵院のところに有ってしかるべし、とお思いましたが、こっちの方が傾斜が緩やかだから?案内板が倒してあるのは??

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細久手宿を抜けると、中山道は広い舗装道路の下り坂道になります。

さよなら、細久手宿。今一度振り返り。

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続きます。

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第32回 大湫宿~御嵩宿 (一)

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

10月19、20日の街道旅、

旅の最後に思いがけない激しい雷雨。
アンハッピーの〆になるところでしたが、温かな人情に触れ合った、
なんとも心がほわ~とした、いい旅路の終わりになりました。
重ね重ね、ありがとうございました、嬉しかったです!!
また、いつの日か旅の続きは大湫から、訪れるのが楽しみです”

と、第31回の旅が終わっています。

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11月に入ってすぐに、9日(金)の午後から11日(日)にかけて都合がつき、

天気もよさそう。

うまい具合に金、土の宿も空きを見つけ予約も入れたが、なんとその後

歩く10日に雨マークが・・・・

様子見と宿はキャンセルしないでいたら、田舎の高校同級生二人の訃報。

「元気なうちに、歩けるうちにでしょう、小雨くらいだったら行きましょう」

とカミさんが宣い、予定とおり雨でも今回は行くぞ~と大決心?・・

  ”旅立ち決定!!”

 日がたつにつれて、10日は嬉しいことに雨マークがなくなり、

曇りから晴れ、降水確率0%に。 

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 9日(金)、カミさんの午前のパート仕事を終えて、時折の小雨降る中央高速で

一路岐阜県土岐市のホテルへ走り投宿。

開けて10日、ホテルの窓からみえる周辺の山並みは濃霧の中。

地元TV天気予報は終日の快晴、気温は高くなりそう。

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 ホテルの朝食をしっかりいただき、土岐駅から釜戸駅へ。

釜戸駅には、事前に配車頼み済のタクシーがすでに待機していて、

山道を上り、突然の大雷雨に襲われ、慌ただしかった前回足止めの、

杉の緑と銀杏の黄に彩られた大湫・神明神社前到着。

 

 11月10日(土)AM8:37、32回 中山道歩き旅立ち。 

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あらためて参拝し旅の無事をお願いして、芳名録にも記入させていただきました。

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樹齢1300年といわれる県指定天然記念物「大湫神明神社の大杉」の神々しい

までの姿を、あらためてじっくりと見上げます。

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こちらの案内では、幹回り約10m、直径約3.2mとある。推定60mだった樹高は

3度の雷にあい40mとなり、落雷の傷跡が残ったような柱の梢の姿となってます。
「杉」が大きすぎてカメラにゃ収まらない!

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鳥居の横に「文化四年(1807)」の文字が見える灯篭があり、
大杉の根本には、水不足の際に掘って水が湧き出たという二つの泉があります。

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神社隣の、前回の旅の終わりに大変親切にしていただいた方の家に向かって、
ありがとうございました、と心のあいさつをして足を進めます。

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神社の向い左手に、屋根に覆いをかけてたのが旧森川善章家住宅(通称:新森)で、

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向かい右手、が西森川家(通称:西森)で、 前回立ち寄った大湫宿の観光案内所、

お休み処のとして活用している、「旧森川訓行家住宅(通称:丸森)」と新森との

本家になるそうです。

 

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前回立ち寄った、通称:丸森 大湫宿の観光案内所

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西森川家(通称:西森)についての大湫宿資料によれば、

「森川家は、江戸時代の天保年間には名字帯刀を許された家柄で、幕末からは大湫

 宿領主のひとつである千村家の御用商人として酒造りや販売を行うほか、塩の

 専売も行って発展した。現在、母屋は取り壊されていますが、離れや複数の土蔵

 が残されており、これらの建物は、幕末から明治、大正時代までに建てられたも

 のとみられ、旧大湫宿の歴史的な景観を伝えています。
 今はひっそりしたこの街道と、この大湫に活気を取り戻そうと、地元では
 いろいろな取り組みが始められている。
 その一環として、「丸森」の整備を行い、今はこの西森川家住宅(通称:西森)

 と 旧小木曽家住宅(通称:米屋)の活用方法などの活用事業を始めてる。
 また、特産物づくり、女性による企業グループの育成、高齢者による土産物づく

 り、都市生活者とのふれあい等々も始まっている。」とあります。

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神明神社から約20m歩くと、左側に山車蔵が建っていました。

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大湫から今日の足止め予定地「御嵩宿」までは約18kmと長距離のうえ、
中間に適当な鉄道接続駅がなく、この時期の日の短さもあって、日のある内に

たどりつけるかで、我ら亀足旅人にとっては難所の一つなんですが、今日の旅は

秋雨後の快晴の空の下、いい旅のなりそうです。f:id:hansui:20181112100416j:plain

真っ赤な紅葉の 右手に上がる石段があり、台上に大湫観音堂がありました。

街道書には、道中安全、病気全快ご利益などと信仰され「大湫に過ぎたるもの

二つあり、神明社の大杉と観音層と謳われた」とあります。

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古記録には、

「かつては東方に所在する神明神社の境内に観音堂が建てられていたこと、

享保6年(1721年)に現在地へ移されたこと、文政7年(1824年)の大火で焼失した

こと、弘化4年(1847年)に再建されたことなど」が記されているそうです。

案内板には、

「弘化4年の観音堂が再建された際に、恵那郡付知村(現・中津川市)出身の画人

 で、美濃・飛騨をはじめ尾張三河信濃など広範囲にわたって活躍した

 三尾暁峰が絵を描いた」とありますが、外が明るすぎるため光がガラスに

 反射し、 薄暗い天井の絵柄はよく見えません。

 お盆の時期には、人数限定だそうですが、扉が開かれ見ることできるようです。

 (パンフから拝借では、こんな絵だそうです)

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境内にはたくさんの石仏石塔が立ち並び、芭蕉句碑も文字は風化して読めませんが、

   「花ざかり 山は日ごろのあさぼらけ」とあるそうです。

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観音堂のすぐ先右側には、平成10年に歴史の道整備事業の一環として往時の姿が

再現された高札場が建ち、大湫宿の出入り西口(京方)になります。

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(尚、現存する10枚の本物の札は宿内の市役所大湫連絡所に掲げてあるそうです)

 AM8:56、美濃国中最高所の宿場でもある大湫宿を離れ、次の宿場町

 「細久手宿」1里18町(6.5km) へ足を進めます。

 

 高札場の先でY字路分岐になり「琵琶峠・1.4km」と記された東海道標が建ち、

街道は右方向に向かい、左手は前回タクシー利用で山を下って向かった釜戸駅

続きます。

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分岐から少し進んだ左側に、「嘉永7年(1854)に土橋から石橋に架替えられた」

と記された標柱と、道の両側に石の欄干のみの「紅葉洞の石橋」が一部が残されて

いました。

なんの由来かと思ったら、皇女和宮もここから紅葉を愛でたという、

紅葉の綺麗いな所だったうですが・・紅葉はいずこ?

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 紅葉洞の石橋から約10m先の左側に、二つの大石の上それぞれに

「小坂の馬頭様」が祀られてます。

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先で道は県道を少しだけそれて右手に入ると、

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先には四阿のある休憩所があり、「中山道大湫宿 大洞・小坂」と刻まれた碑、

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右手は木々の奥に「大洞の馬頭様」が祀られてます。

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中山道大湫宿 大洞・小坂」の碑には、

安藤広重画木曽街道六十九次の大湫宿の絵はここから東方を描いたものである」

 と刻まれている。 

浮世絵の左手に描かれているのは、「大湫の二つ岩」でこの休息広場の少し先に

あります。

(昔は大久手と書いたのでしょうか。「湫」、「久手」とは低湿地の意味の

 ようです)

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その先に大湫の二つ岩があります。

安藤広重の絵にも描かれた、手前が母衣岩(ほろいわ)、先にあるのが烏帽子岩

(えぼしいわ)の順で並び、間に太田南畝「壬戌紀行」描写の石碑が建ってます。

資料によると、

「道の左にたてる大きなる石二つあり 一つを烏帽子石といふ 高さ二丈ばかり幅は三丈にあまれり また母衣石といふは高さはひとしけれど幅はこれに倍せり いづれもその名の形に似て 石のしましまに松その外の草生ひたり まことに目を驚す見もの也 大田南畝 壬戊紀行」と記されてるそうです。
 また岩の形から「夫婦岩(陰陽岩)」とも呼ばれ、中山道で有名だったそうな。

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 「大湫の二つ岩」を過ぎると左手が大湫病院で、右手の使用されてないような

建屋の前に、うん??福沢諭吉・・

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右手の雑木林の岩石は、スッパと切り取ったような巨大な一枚岩のように

見えました。

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ゆるい坂道を行くと、

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この先ので、新しそうな「琵琶峠」パネルや道標が建つ石畳の上り道が

右に分岐し、これが中山道「琵琶峠」の東上り口です。

(ウォーキングイベントが催されるのか、赤い道表示パネルやパラソルの下に

 数字のスタンプが置かれ、その後も何か所かで見かけましたが、それらしき方に

 は 会いませんでしたね。 終わった?明日かな? )

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「琵琶峠は標高558m、全長約1km、高低差は西側83m、東側53mで、

中山道の難所の一つに数えられていました。
峠からの眺望は良く、太田南畝(おおたなんぽ)の「壬戌紀行」や他の多くの

文献にも書かれています」と街道書にあります。

 石畳に入ると、琵琶峠石碑があり、石碑を挟んで文化11年(1814年)に

建立された「馬頭観音」「-身代わり観音」が祀られています。

瑞浪市資料には、「身代わり観音は、大垣の大店の娘が、琵琶峠を通った時、

山賊に襲われそのとき身代わりに なって斬られ娘を救ってくれた。 その話を

聞いた娘の父が、もう一体寄進し、斬られた観音は傷跡を補修して 二体ならんで

祀られている」とあります。

昔は山賊の出るような峠だったんですね。

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手前に琵琶峠の解説パネルもたてられてます。

「約730メートル続く石畳は日本一長いといわれており、往時の面影を残す

 道標・石仏・一里塚も現存しています。

昭和45年には江戸時代の石畳が約500メートルにわたり確認され、

平成9年度~12年度に「八瀬沢一里塚」などとともに整備が行われ、江戸時代

の姿に復元されています」など記されてます。

「琵琶峠」の名前は、昔、京都へ琵琶の修業に出ていた法師が、
修業がままならず、失意のうちに帰国する際、この峠に吹いて
いた松風の音で奥義を悟った事に由来するとか。

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石畳は平たく実に歩きやすいが、登り坂、雨後でもあり滑らぬように一歩一歩、

足を進めると、すぐに汗ばむくらいになり上着を外します。

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 しばらく登ると、ベンチが置かれた休息所がありました。

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もうしばらく足を進めると、石畳道は右手に切通しを抜けて行き、峠の頂に

差し掛かったようです。

左手に道標を兼ねた標柱が建ち、琵琶峠見晴らし台へを示してます。

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 街道を離れ見晴らし台へ上がる途中右手に文学石碑があり、資料によると碑は
中山道琵琶嶺 千戌紀行 木曽路名所図会 秋 里離島 著
中山道琵琶峠 新撰美濃志 岡田文園 著 1830~1860年
中山道琵琶坂 打出浜記 烏丸光栄 卿 1746年
の三基だそうです。f:id:hansui:20181112203659j:plain

 琵琶峠の見晴らし台は、樹木が茂り遠くは霞がかかっていて望遠は利きません。

周りをさっと見渡して、文学碑を右手に回り込んで別道で琵琶峠へ下ります。

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峠頂上へ下ると、ちょうど細久手・大黒屋へ宿泊したという、欧米系ハイカーに

出会い、峠には宝暦13年(1763年)に建立された馬頭観音像と、
皇女和宮の歌碑、
「 住みなれし都路出でてけふいくひ いそぐもつらさ東路のたび」

    があり道はここから下り坂の石畳道となってゆきます。

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下り坂の前方に見えていた丸い小山は、瑞浪市の史跡に指定されている

江戸へ91里、京都へ43里の「八瀬沢一里塚」、「琵琶峠の一里塚」とも

呼ばれ、両塚を残しています。

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一里塚のあるこの琵琶峠は、けわしい反面景色にも恵まれ、江戸時代の旅日記にも

峠からのことが多く書かれて中山道の名所の一つにも数えられていました。

瑞浪市には、八瀬沢一里塚のほか、通ってきた権現山一里塚、この先にある
奥之田一里塚、鴨ノ巣一里塚と連続して4つの一里塚が往時の姿で残っている。

(歴史の道案内板記載)

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石畳を下っていくと、右手から岩清水が石の小さな水受けに流れ落ちてます。

水場?動物の水場かな・・

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すぐ先で左手にトイレが設置された舗装道路と交差し、石畳が埋め込まれた道を

横断します。

脇の苔むした石に「中山道案内図」「解説文」や「木曽路名所図会」の琵琶峠を

写した金属板が貼り付けられてます。

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 下りると大きな石の石畳はざれ道に替わり、さらに下ると前方が明るく民家が

見えてきます。

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立場であった旧やせ沢村(八瀬沢集落)に入り、民家の庭先を通り過ぎると

道標が建ち、その先車道への合流地に石碑が建ち「中山道・琵琶峠西上り口」と

あり、碑には琵琶峠に関係したらしい三首の句が刻まれていました。

* 琵琶峠 足の調子は あわれなり

* ゆく春の うしろ姿や 琵琶峠

* 雲の峯 加えつ 四っの 糸にしき

 (街道資料より)

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中山道の美濃・近江両国のうちで一番高い峠は終わり、道路両側の田圃の緑が

美しい県道65号に合流して、緩いアップダウンはあるもののほぼ平坦な道となる。

おや、ソバの花、違うかな?

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 八瀬沢集落を抜けて行くと、遠くの林の方から「あれ、鶏の鳴き声!」

だんだん県道65号は山道へ入って行くと、けたたましい大合唱。養鶏場が右手に

ありました。

時の声?腹減った?・・カミさんは、「腹減った!」に・・

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 少し先で変則四差路があり左手に道標、右手に北野坂の廻国記念塔と記された

標柱が建ち、木々の奥に日本全国66カ国を巡礼し、1国1カ所の霊場法華経

1部ずつ納める行脚僧、廻国行者「六十六部」の安永6年(1777年)建立の

記念塔がありました。 八瀬沢集落に行者が住んでいたのでしょうか?

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変則四差路は道標に従って左手に道を取り進むと、開けた両側にログハウス風の

「国際警察犬訓練所」というのがあり、ドスの利いた何匹もの大型犬の吠え声が

 鳴り響いてます。

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 枝垂れサクラの立つ北野バス停を過ぎ、道標を見ながら登ると、

右手に一っ家茶屋跡の標識だけが建ってました。一軒だけ茶屋があったそうな。

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さらに5分ほど明るい道を行くと天神前バス停があり、木造のバスの待合所脇に

享保13年(1728年)建立の「天神辻の地蔵尊」がありました。

街道書にによると「浄信妙清信女」と刻まれているそうです。

戒名を持ったお地蔵さん?

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気持ちのいい焼坂と呼ばれる街道を、しばらく淡々と進みます。

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坂を登り切った右手に、三面六臂の「焼坂の馬頭観音像」が祀られていました。

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ほぼ平坦な雑木林の明るい街道を、木々の秋を楽しみながら足取り軽く進みます。

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右手からの東海自然道を合わせ、その先左手に天神坂標柱標柱を見送り、

ゆるゆる坂を下ります。

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坂を下りきると大きく開けて、右手街道脇に池が現れます。

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案内板には「弁財天の池」とあり、

「山丘でありながら、いつも水をたたえているこの池は、古くから旅人にも

 愛されていました。

 蜀山人も「左の方に小さき池あり、杜若生い茂れり、池の中に 弁財天の宮あり」

 とその旅日記に書いています。」とあり、丘陵にありながら

 いつも水をたたえ、カキツバタジュンサイの自生地でもあるようです。

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池には小島へ石橋が架かり、天保7年(1836年)に再建されたという石祠内に

天文5年(1536年)建立の弁財天像が安置されています。

通常は琵琶を持った弁財天だが、なんと、祀られtるのは

「一面八臂(はっぴ)の弁財天」でした。

一面八臂(はっぴ)の弁財天は、東京上野の不忍池にお祀りされてるのが、

よく知られてますね。

年に一度しかご開帳がなく、なかなか拝顔できないそうですが。

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池傍の紅葉のしたで、水分補給で小休憩。 

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続きへ、

センブリの花に会いに、東京都薬用植物園へ

先日の中山道街道旅で出会った小さな花、それは「センブリ」の花でした。

咲いていたのは一か所だけでしたね。

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旅の写真を整理していて、「 センブリには紫もあったはず」と思い出し、

近場では、ここなら栽培してるだろうと調べたのが、

時々訪れる「東京都の薬用植物園」。

今咲いていると確認でき、近くの大型ホームセンターへも用があったので

27日に寄り道をしてきました。

植物園には春、夏はよく来たのですが秋は初めてでした。

 

園に入ってすぐに目に入ったのは、「ヤマジノギク・キク科」とありました。

野菊と総称されてるには「ヨメナ」や「ヤマシロギク」「ノコンギク」など

知られてますが、ここに咲いてるのは綺麗な色合いの野菊でした。

解説資料には、

「今、ここで咲いているヤマジノギクは。東海地方以西に分布する野生の

ヤマジノギクを、大分県農林水産研究指導センターの花き研究所にて、

50年以上の年月をかけて品種改良し、園芸化した花です。
10月から12月にかけての切花として関東・関西を中心に全国へ出荷されています。
公益社団法人東京生薬協会が平成27年より大分県杵築市において生薬栽培指導を

行っている関係で、昨年に引続き、展示用として特別に同センターと譲渡契約を

結んで植栽しております」

と記されていました。
原種分布は本州(中部以西)、四国、九州、朝鮮半島、中国大陸東北部で、

原種は都道府県によっては、絶滅危惧種に指定されてるそうです。

京都府などで指定されてるそうです) 

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白花のフサフジウツギ(フジウツギ科)

有毒植物、誤って食べると胃痛やけいれんを起こす。魚毒成分を含む。

よく見るのは房状の紫色の花です。明治中期に観賞用として中国より渡来し、

一部野生化しているのがみられる。

園芸品種に白花や赤花があるそうです。
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お目当てのセンブリ、紫花は鉢植えで咲いてました。

ムラサキセンブリ、(紫千振 リンドウ科 センブリ属 )準絶滅危惧種

野生のムラサキセンブリは自生地の開発などにより減少し、準絶滅危惧種に指定されています。
花はセンブリよりも大きく、イブニングスターの流通名で、切花などの観賞用花卉としても栽培されています。

近年は薬用には使用されていないようです。

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センブリは日本のほか、朝鮮半島から中国にかけて自生する二年草で、

古くから健胃剤などの民間薬として利用されています。

名前は「湯の中で千回振り出してもまだ苦みが残る」ことに由来し、

一説に「千回身震いするほど苦い」ともいわれます。

山野に生育する2年草で、生育2年目の秋に開花します。
植物全体に残留性の苦味をもち、わが国では室町時代から健胃、腹痛などの薬用にされてきました。
消化不良、食欲不振に苦味健胃薬、整腸薬として熱湯中に浸して振り出し、または煎剤として服用される。

センブリは地植えと

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鉢植えで栽培されてました。

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 チコリ キク科 別名 キクニガナ

ヨーロッパでは利尿薬などの民間薬として利用。

根は炒るとコーヒーの代用になる。 f:id:hansui:20181030193433j:plain

セキヤノアキチョウジ(シソ科)

セキヤ(関屋)とは関所の建物のことです。ここでは箱根の関を意味しているとされ、本種が関東・中部地方の山地に分布することと関連があると考えられます。
西日本には類似種のアキチョウジが分布します。花はとてもよく似ていますが、

アキチョウジは花柄が短く、やや太いという違いがあります。

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スズムシバナ(キツネノマゴ科)

近畿地方以西の、林の下などに生育する多年草です。
草木図説(嘉永年間)ではスズムシソウの名で図解されていますが、ラン科の植物にもスズムシソウがあって名前が重複していたため、本種の標準和名はスズムシバナになりました。

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ヘビウリ ウリ科 インド地方原産

明治時代に渡来。

秋にできる、にょろにょろの ヘビみたいな実がなる。

実はスープ、炒め物など食用になる。

花はカラスウリの花に そっくり。

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ノゲイトウ ヒユ科 インド原産

中国では、まれに漢方処方に配剤されます。

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サラシナショウマキンポウゲ科

低山、山地や高原の落葉樹林や草原に生育する多年草です。
山地や高原では8月から咲き始める。
サラシナとは晒菜の意味で、若葉をゆでて水にさらして食用としたことによる

といわれます。

漢方処方用薬:発汗作用、解熱作用(升麻葛根湯、辛夷清肺湯ほか)

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リンドウ(リンドウ科)

朝夕の冷える季節、リンドウが咲くと、本格的な秋の深まりを感じます。
花は、晴れた日の日中にのみ開き、夕方や曇天の日は閉じています。

漢方処方用薬:尿路疾患(竜胆瀉肝湯ほか) 
    粉末は苦味健胃薬として配合剤の原料

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ミセバヤ(ベンケイソウ科)

絶滅危惧IB類
和名は「見せばや」で「見せたい」という意味の古語にちなみ、花の美しさを表しているといわれます。
自生個体は、小豆島と奈良県の限られた川沿いにのみ分布し、もともとの個体数が少ないことに加え、護岸工事や園芸目的の盗掘によって絶滅の危機に瀕しています。

分布、本州(奈良県)および四国(小豆島)

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ノゴマ(食用(ピクルス) ツノゴマ
原産地、北米南部〜メキシコ
果実は鉤状に湾曲。内果皮が木質化し、熟すと二股に裂け、種子を散布する。 

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サフラン(アヤメ科)

柱頭(めしべの先端部)を薬用とするほか、料理の色味と香味付けにも用いられます。
観賞用のクロッカスは同属、ただしそちらは薬用にはなりません。

欧州では鎮静、通経薬、日本では冷え性など
原産地、地中海沿岸からインド

名前の似ているイヌサフランは、有毒植物です。

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リュウノウギク(キク科)

里山にみられるキク属の植物です。乾いた斜面を好み、10月から11月に開花します。
「野菊」と俗称されるキク科植物の中では開花期が遅い方で、この花が咲くと秋の深まりを感じさせます。
和名は、匂いが竜脳(樹木由来の薫香料)に似ているということに由来し、両者は共通する精油成分を含んでいます。

民間療法で冷え性、神経痛、凍傷、浅い切り傷などの治療に浴料とする。
分布、福島県以西

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リョウリギク(キク科)金唐松

キクの園芸品種から、味や香り、歯触りのよいものを選別した栽培品種です。
食用(酢の物、和え物など)
原産地、中国

山形県の特産品に赤い花の「もってのほか」の名がありますね。

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ラッキョウユリ科

中国原産で、日本へは平安時代頃にもたらされたと考えられています。
他の野菜の育ちにくい土壌でも生育でき、海岸砂丘などで栽培されています。
新しい分類体系であるAPG III体系では、この仲間(ネギ属)はヒガンバナ科

分類されています。

去痰作用の目的で漢方処方に配剤されることがある
原産地、中国

四国の高知を訪れた折、海岸線に一面の紫絨毯模様で咲いてるのを

見たことがありますね。

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フジバカマ(キク科)

秋の七草のひとつに数えられます。奈良時代のころ中国より渡来したと考えられています。
生花店などに流通する濃いピンクの「フジバカマ」は、同属のサワヒヨドリとの雑種と考えられます。
自生のフジバカマは川の土手などに生育しますが、河川の護岸工事などにより個体数が減少し、準絶滅危惧種となっています。
生薬名をランソウ(蘭草)といいます。葉が半乾きのとき「桜もち」に似た芳香を放ちます。
薬用以外では、衣類の消臭、香り付けなどに用いられました。
「蘭」は、古くは芳香のある植物を意味し、その後、特にラン科植物を指すようになったといわれます。

民間療法として、皮膚のかゆみに浴用剤として用いる。

また軽度のむくみ解消に煎用
原産地、中国原産とされる。日本には関東以西に分布

2000kmにもなる渡りをする「蝶・アサギマダラ」の食草です。

フジバカマの蜜に含まれている成分が、アサギマダラにとって大事な成分に

なっているようです。

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昨年9月に、目当てで訪れた赤城山自然園でのアサギマダラ

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お目当てのムラサキセンブリも咲いていて、いい花巡りで

学習もさせていただきました。

 

 

10月27日(土)

東京都小平市

東京薬用植物園

花の解説は、付けてあった花札、パンフレットから引用です。

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第31回 大井宿~大湫宿 後編

そして道標のところは市境、恵那市から瑞浪市へと入りました。
 PM1:40

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後編です。

道は舗装されたゆるい坂道となり、道なりに上り、数分先の分かれ道は

右手の坂を上る。

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右手の坂を上り切ると、大久後(おおくご)の立場の有ったところです。

左側に白い木柱の「大久後の向茶屋跡」標柱があり、付近を「茶屋が原」と

呼ばれたようで、左手木々の奥に少し草地や畑地が見えました。

向茶屋とは原の向こうにの意味かな?向かい合う2軒の茶屋があったのかな?

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しばらく進むと左手が開け

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先の道標などの建つY字を左側へ回り込み、街道は観音坂と呼ばれる急坂を

山の中へと登って行きます。右手に白い観音坂標柱がたってます。

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Y字の右手への舗装された坂道は、観音坂の急坂を避けるため、
 江戸時代後半に「新道坂」が造られたそうで、こちらも白い標柱がたってます。

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カミさんが小さな可愛い花がいっぱい咲いてるわよ、と呼ぶので駆け上がって

左手を見ると、「おっ、ウメバチソウ?、いやセンブリかも」

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バシャバシャ写しましたが、小さい花でちゃんと写っていたのは2枚だけ。

大湫のお休み所で「センブリ」と教えてもらいました。

咲いていたのは、この付近だけでしたね。

さらに砂利道を上ると、左手に大きな「大久後観音坂」石柱がありました。

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その先の草道を行くと、大きな「歴史の道・観音坂と馬頭様」解説板があり、
右手林の中の大岩上に、一見お地蔵さんとも見える馬頭様(馬頭観音像)

が安置されていました。観音坂は馬頭観音からなんでしょうね。

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馬頭観音から約50m歩くと、木立の中に東屋風の観音坂休憩所があり、

右手の段上に天保2年(1831)建立の観音坂の霊場巡拝碑がありました。

街道書に、霊場巡拝は、奉納 西国、四国、秩父、坂東供養塔と記して
 ありますが、すべての霊場を巡礼したということでしょうか。

われわれも、各霊場のうちの何か所かずつは街道旅の合間に訪れてますね。

秩父は身近なので、何回かに分けて全札所巡りをしましたね。

それが街道旅を続けているきっかけの、一つにもなりました。

先で坂を下って観音坂は、先ほど分岐していた新道坂に突き当たります。

 

f:id:hansui:20181028100911j:plain 新道坂と合流し左手の東海自然歩道道標、青色歴史の道道標を見送り進むと

大久後の集落入って行きます。

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下り坂を進むと街道書に「灰くべ餅の出茶屋跡」という標柱が建ち、

灰に直接くべて焼いた餅が名物と有りましたが、通過してしまったようです。

さらに右手に「大久後立場跡」も記されていましたが、こちらは何も示すものは

ありませんでしたね。
坂を下ると大久後村に入り東海自然歩道道標を見送り進むと、集落外れで、

右手の石段上に祠がありました。

街道書には観音堂があり、弘法石造座像も安置されている、と記されてます。

弘法像は屋根部分を新しくしたような祠に座してますが、観音堂が判りません。

(跡で調べたら、石段を上がって弘法大師像の右手にすこし離れて建っていた、

 新しそうな小さな普通の小屋に見えたのが、観音堂だったようです)

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ここから急な上りの権現坂で、一歩一歩ゆっくり足を進めます。

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坂は鞍骨坂と呼び名が変わり、右手に標柱を見ながら上ります。

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鞍骨坂を上り詰めると、右手に刈安神社への参道階段口があります。
社殿は石階段を300m以上上った、権現山の頂上に鎮座しているそうです。

東濃十八砦の権現山城跡で、戦国初期に小牧からこの地に移り住み、刈安城とも

萩之島城とも呼ばれる城の城主となった西尾式部道永を祀っている。

城主が合戦に敗れ自刃すると、明暦3年(1657)里人が城主を刈安権現と称し

創祀した、と資料に有りました。

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「参道奥の脇に大きな石碑が二つ見える」てカミさんが指さした方に、

確かに石碑が二基有りました。

アップで映してみると「秀覚霊神 」「松覚霊神 」と刻まれ、一つには

出雲大社教 」と読み取れます。

調べると、出雲大社教という団体があるようですが、刈安神社との謂れは

わかりませんでした。

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カミさんが足止めして見ているのは、地面に這うように一輪咲いている、

ホホトギスの花。そして右手石垣の上にミセバヤが咲いてました。

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その先に中山道解説板があり、炭焼き立場跡と記されてます。

眺望が良く、十三峠の中では特に旅人に親しまれた立場だったそうで、

蜀山人が享和2年(1802)に記した紀行文に「俗に炭焼きの五郎坂というを

くだれば、炭焼きの立場あり・・・」とあるそうです。

(遠くからも見えていた左手の樹が奇妙な伸び方をしてます。

 4mくらいうえで5本ほどに枝分かれをして、真っすぐに伸びてます。 

 切ったところから、再び新梢が伸びたんでしょうね)

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 炭焼立場の西外れ、季節はづれのユリの花を見つけて進むと土道になり、

林の中の上り坂へと入って行きます。

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東海自然遊歩道の標識の有る坂は、

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吾郎坂とよばれる標柱があり、やがて左手が開け畑地に出てきました。

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その先で再び山に分け入るように森の中へと道は続きます。

野アザミが一輪ぽっと咲いてます。

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丸太の車止めの置かれた山道は樫ノ木坂と呼ばれ、やがて石畳の道になりました。

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樫ノ木坂石畳道の上り坂は、「中仙道ゴルフ倶楽部」の敷地内を通り抜けるようで、
進むと道の両側にこんもりとした小山が見えてきます。

江戸日本橋より九十里目、権現山の一里塚の両塚が現存していました。

慶長八~九年(1603~4)十三峠の新道敷設にともなって築かれ、

樫ノ木坂の一里塚とも呼ばれてるそうです。(瑞浪市史跡資料にて)。

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さらに続く急坂道は「巡礼水の坂」と呼ばれるそうで、中仙道ゴルフ倶楽部の

カート道(舗装路)を横断し、両側のゴルフコースに挟まれた道を進みます。

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カート道を過ぎて少し上った右手に、歴史の道案内板が建ってます。

ここは「十三峠の助け清水」として旅人たちから大切にされてきた「巡礼水」

 と呼ばれる水場がありました。

 昔、旅の巡礼が丁度八月一日にこの地を通りかかりました。そして具合が悪く

 なり倒れてしまいました。病気になった巡礼の母娘が

 念仏を唱えると目の前の大岩から清水が湧き出し、その水を飲むと病が癒された、

 というお助け水で、、八月一日には必ず湧き出たといいます。
 段上には宝暦7年(1757)建立の馬頭観音像が祀られています。
 巡礼水の傍らに自然石の中山道順礼水碑があります。
 碑面には太田南畝の壬戌紀行「坂を下りゆくに 左の方の石より水流れ出るを

 巡礼水という 常にはさのみ水も出ねど八月一日には必ず出するという むかし

 巡礼の者此の日此所にてなやみ伏しけるが この水を飲みて命助かりしより 今も

 かかることありといえり」が刻まれているそうです。

(赤丸 馬頭観音 黄枠 お助け水場)

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石畳の一部残す巡礼水の坂を進み、2っ目のカート道を横断し自然道、歴史道、

びやいと坂の標柱を見送って坂は下りになます。

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ゴルフ場内を縦断する街道ですから、ボールが所々に見られ、時々バッサ、

コンコンと飛弾の音が聞こえるので、音に注意しながら進みます。

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「びやいと坂」と呼ばれる坂道をを下ると、自然石の中山道曽根松坂碑があります。

太田南畝の壬戌紀行

「少し下りて また芝生の松原を登りゆくこと四五町

 あやしき石所々にそば立ちて赤土多し 曽根松の坂という」

 が刻まれていたそうですが、写真写りが悪く割合いします。

ゴルフコースの間の曽根松の坂を注意しながら下ると、車止めの杭が立ち、

少し開けた一角に出て、「中山道十三峠阿波屋の茶屋跡碑」があります。

おつる婆さんが営んだ茶屋跡だそうで、先の木々の間にベンチなどが

置かれてます。

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右手奥に、天保11年(1840)に建立された「三十三所観音石窟」があります。
 石窟内には道中安全を祈る、三十三体の馬頭観音が安置されています。

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これらの観音は十三峠を往来する大湫宿の馬持ち連中と助郷に関わる近隣の

村々から寄進されたものです。
石窟前の石碑には定飛脚嶋屋、京屋、甲州屋を始め奥州、越後の飛脚才領、

松本や伊那の中馬(ちゅうま)連中が、出資者として名を連ねています。

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坂道は地蔵坂と名が変わり、少し砂利道を下ると左手に十三峠尻冷やし地蔵の

案内板と、太田南畝の壬戌紀行「地蔵坂という坂を上れば右に大きな杉の木あり

地蔵菩薩たたえ給う」が刻まれた自然石の中山道尻冷やしの地蔵尊碑があり

ます。

案内板は擦れて読みずらいですが、街道書によれば、
「宝永八年(1711)伊勢の豪商熊野屋の夫人が十三峠で急病になった時

 この湧き水で助かり、それに感謝して地蔵を建立しました。

 以来お助け清水と呼ばれ、旅人はもちろん、参勤大名も愛飲したといいます。
 お地蔵さんの後ろから清水が湧き、まるで尻を冷やしているように見える

 ところから、尻冷やし地蔵と呼ばれました」と有ります。
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地蔵坂を下り切った所で車道を横断し、向いの旧道に入ります。

この横断点には東海自然歩道道標や青色歴史の道道標がありました。

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荒れた舗装の坂を上ると砂利道になり、

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左手に自然石の太田南畝の壬戌紀行

「曲りまがりて登り下り 猶(なお)三四町も下る坂名を問えばしゃれこ坂という

 右の方に 南無観世音菩薩という石を建つ 向こうに遠く見ゆる山はかの

 横長岳(恵那山)なり」が刻まれた、中山道しゃれこ坂(八町坂)碑があります。

ここから恵那山が見えるんですね。
 碑の横に「十三峠八丁坂の観音碑」の石柱があり、後方に南無観世音菩薩が

 建っていました。

しゃれこ、てなんでしょうね?しゃれこうべ、という説もあるようですが・・

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鬱蒼とした木立の中を進むうち、明るく開けた道になり、左手の斜面には茶畑が

広がります。
再び木立の中に入り坂を上ると、ここが山之神坂です。

往時は右手の段上に、里に実りをもたらす山之神の小祠があったそうですが、

現在は自然石碑が建ってます。

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山之神坂碑の先から赤土の坂を進むと、右手に自然石の中山道十三峠童子ケ坂碑が

あり、十三峠最後の上り坂童子ケ根坂の暗い林の中を行くと、東海自然歩道道標があり、標高は約540mで十三峠の中で最も高い地点に到着です。

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しばらく前から、かなり遠くの様ですが雷鳴が聞こえ、周りは薄暗くなってき、

青空は見えていましたが、ぽつんぽっつんと雫雨が降り出してきました。

ここからは下りになり、大湫の宗昌寺にちなむ「寺坂」で、この寺坂から

西行坂までが十三峠になりました。
私達も十三峠をクリアーして、大湫宿の宿場の手前に辿り着いたようです。

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 急な寺坂を下ると大湫の宿並が望め、右手の段上に馬頭観音像や

南無阿弥陀佛名号碑が並んでいます。

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石仏石塔の急坂を下った左手に「大湫宿碑」が建ってます。

正面「中山道大湫宿 右 京へ四十三里半 左 江戸へ九十里半」、

左面「西方 細久手宿へ一里半 宿中安全 東方 大井宿へ三里半」、

右面「是より東 十三峠 道中安全」と刻まれています。

十三峠におまけが七つといわれた美濃路の難所もここ迄です、

PM3:30、大湫宿に到着です!。

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右手には太田南畝の壬戌紀行「十三峠碑」が有ったのですが、

なぜか写してませんでした・・・・。

 左手枝垂れ桜の下に、中山道大湫宿碑があります。

碑面には新撰美濃誌の「中山道の宿駅にて京の方細久手宿より一里半余江戸の方

大井宿より三里半の馬継ぎなり 尾州御領 名古屋まで十六里あり 十三嶺は宿の

東方大井宿との間 琵琶坂は細久手に至る大道の坂を云う 西に伊吹山も見えて

好景なり」が刻まれているそうです。

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江戸から47番目、91里9町(358.3Km)大井から3里18町(13.7Km)

大湫宿は慶長九年(1604)十三峠に新道が開設された際に、海抜510mの

高地に新設された宿場です。

東に十三峠、西に琵琶峠を控え大いに賑わいました。
天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によれば、大湫宿の宿内家数は

66軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠30軒、宿内人口は338人で尾張藩

でした。

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だいぶく雲が広がって薄暗くなりく、雷鳴も大きく聞こえるようになってきました。

時折、お天気雨が降りそそぎ、雨具を身に付けます。

左手に臨済宗妙心寺派金城山宗昌寺(そうしょうじ)があります。

本尊は釈迦如来で美濃瑞浪三十三霊場第五番札所です。
天正年間(1573~91)に大湫村を開村した保々宗昌が慶長五年(1600)

に開基した寺で、本陣、脇本陣に次ぐ控え本陣でした。

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寺坂を下り切り、左折(白色矢印)すると大湫の宿並に入る枡形です。

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この枡形を直進し先を右折すると、街道書では尾州藩大湫白木番所跡の標石があり

と記されてますが、寄らないことにし桝形を左折。

左手に宿場の雰囲気に溶け込んだ「大湫簡易郵便局」で「陶都信用農業協同組合

 釜戸支店大湫営業所」で「岐阜県収納代理金融機関」であり、

「 こどもみまもり隊JA110番」でもある家屋が建ってます。

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その先隣は、国登録有形文化財の指定を受けている旧旅籠三浦屋跡があり、

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連なって、江戸末期の建築で国登録有形文化財で問屋丸森跡(森川訓行家住宅)

案内資料によると

「旅屋の他に尾州藩の許可を得て塩の専売も行い、繁盛を極めたとされています。
建物は江戸時代末期の建築と推察され、江戸の町屋形式をそのまま有し、

当時の旅籠商家の雰囲気をよく残しています
昭和20年代まで住居として使用され、一部は現代様に改修されているものの、

建物は建具類を含めてよく保存されています。
平成18年には国登録有形文化財に登録されました。平成26年に所有者から寄贈を

受けたことから、大湫宿の観光の拠点となる施設へ整備しました」とあり、

つい最近 に中山道観光案内所「丸森」となり無料休憩所ともなったんですね。

通りかかると声を掛けていただき、おいしい昆布茶を頂きながら、

いろいろと大湫の話や街道の話をお聞きしました。

天気の急変もようなので短い時間の滞在でしたが、お世話になりました。

ありがとうございました。

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天気予報が当初より急激に変わってきて、雷雨の予報になって来たそうです。

まだ青空も有り日差しが注いだりしてますが、遠く頻繁に雷鳴が聞こえ

時折天気雨がある状況になってきました。

予定では大湫宿の西外れ高札場まで行き、そこで足止めとして約4kmの山道を

下って中央線の釜戸駅へ向い電車で恵那へ戻る予定でしたが、

くだり途中で降られる可能性大の為、タクシー利用で下ることして高札場まで

とりあえず足を進める事に。

向いには注連縄をさげた大湫公民館があり、公民館横から裏手に回ると

廃校にった大湫小学校校庭後が保々本陣跡だそうで、案内板によれば、

大湫の開村に尽力した保々家は慶長九年(1604)に開宿されると本陣を勤め

庄屋、問屋を兼ねました、代々保々市左衛門を襲名し、明治まで続きました。

 本陣は間口二十二間(約40m)、奥行十五間(約27m)、部屋数二十三、

 畳数二百十二畳、別棟添屋六という広大な規模だったようです。

跡地までは行くかずに足を進めます。

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駐車場奥の本陣石垣の上に皇女和宮(中央)の陶製人形が飾られています。

(さきほどからデジカメの調子が悪く、不鮮明が多くなってしまいました

    写真はパンフレットからのスキャンです)

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大湫の「くて」とは低湿地を意味し、良質な飲料水の確保に難渋しました。皇女和宮の大通行に際しては、今にも残る筧水が掘られました、 皇女和宮の大通行は二十七日からの四日間で大湫宿の継立ては人足延べ二万八千人、馬延べ八百十九疋であったといいます。 水戸天狗勢一行は大井宿を出立し、十三峠を越して大湫宿で昼食を摂りました。

(大湫資料)

振り返った街並み。左手公民館、右手休憩所

雷鳴が絶え間なく聞こえるようになり、すこしずつ近くで鳴り響くようになって

きました。雨がパラパラ降ったり止んだりです。

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次いで右手の丘上に白山神社が鎮座しています、大湫宿産土神です。

参道の左手が宿役人が毎日詰め、宿の業務全般についての指図や業務を行っていた
問屋場跡で、案内板があります。

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すぐ先右手の板塀を回した立派なお屋敷は、「面高屋(おも だかや)」。

閉まってましたが現在も無料休憩所として旅人に開放されていそうです。

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先の右手奥、階段をあがると、本陣の分家の保々脇本陣跡があり、

門が見えてます。
 部屋数十九、畳数百五十三畳、別棟六という広大な建物でした、今は半分程度の

規模になっています、母屋は江戸中期の建築で国登録有形文化財です。

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雷鳴大きくなってきたので 先を急ぎます。

進む右手に、慶長十三年(1608)の再建で、白山神社と共に大湫宿産土神

神明神社」が鎮座し、県指定天然記念物「大湫神明神社の大杉」が聳えてます。

案内板によれば、
「御神木の大杉は樹齢千三百年で、樹高60m、幹回り11m、直径3.2mの

大樹で岐阜県天然記念物指定です。

3度の雷にあい推定60mの樹高は40mとなったそうで、平成24年度に本格的な

維持保存工事をして いるそうです。

太田南畝は壬戌紀行に

「駅の中なる左の方に大きい杉の木あり、木の元に神明の宮たつ」と著し、
 大杉の前に神明元泉と呼ばれる清水が湧き出ています、貴重な飲料水でした。
 道中安全、病気全快の観音として知られ、宿内、近郷はもとより旅人からも

 篤く信仰されました」f:id:hansui:20181029065202j:plain

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一瞬明るさが見えたが・・f:id:hansui:20181029065425j:plain

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大杉に感嘆してるうちに、突然に猛烈な雷鳴がとどろき渡り、周りは闇に包まれ

滝の様な豪雨になってきました。

この先少し下ると、大湫宿西方(京方)の宿高札場ですが、神社を足止め地とし

タクシー会社へ連絡。

神社前の道路をへだてたところに、屋根付きの駐車スペースがあり、お借りして

雨宿り。

激しい雷雨の中、タクシー待ちをしていると、道を隔てた神社隣の駐車場持ち主

らしい家から、ご婦人が傘をさして出てこられ、声を掛けてきました。

「この後はどうなされるんですか、駅へ行かれるんでしたら車を出してあげますよ」

窓からでも私達を見られたんですね。

この激しい雷、雨の中、わざわざ家から出てこられて、声を掛けてくれたのです。

「有難うございます」、駅までのタクシー呼んだ話をし、車庫の軒下を

 お借りしたい旨お願いすると、「傘はお持ちですか、ここにある傘、

 お使いになっていいですよ」とまでいっていただきました。

 折り畳み傘を持参しことをお話すると、ご婦人は一旦家へ戻られました。

なんともご親切で温かい思いやりを頂き、「嬉しいね、有りがたいわね」と

感謝いっぱいでタクシー待ちをさせていただいてました。

ところが、しばらくするとご婦人が再び傘をさし、お盆の上に茶碗を載せて

車庫へきてくれたのです。

「雨で冷えてきましたね、熱いお茶を一杯飲んでください。

 家に来てもらうとタクシーが来た時にわかりませんからね」

いや~、本当に驚きました。

一瞬、眼がしらが熱くなるほどの感動でした。

 

ご婦人は話しながらタクシーがくるまで付き合ってくださり、

手を振って見送っていただき、大湫を後にしました。

 

旅の最後に思いがけない激しい雷雨。

アンハッピーの〆になるところでしたが、温かな人情に触れ合った、

なんとも心がほわ~とした、いい旅路の終わりになりました。

重ね重ね、ありがとうございました、嬉しかったです!!

第31回、歩いて再び京の都へ・・

アンハッピーがベストハッピーで終わりました。

また、いつの日か旅の続きは大湫から、訪れるのが楽しみです。

 

おわります。

 

秋ばらの咲く狭山都市緑化植物園へ

前に教えていただいていた、隣り街、狭山市の県立公園に併設の

智光山公園都市緑化植物園。

園内にある「ばら園」にて、まだ秋ばらが綺麗とのことで、10月26日に

近くの園芸店へ行ったので寄り道をしてきました。

バラ園は大きくは有りませんが、まだまだ見ごろに秋ばらが咲いていて、

けっこう多くの方が散策を楽しんでました。

フジバカマが咲いている。

渡りの蝶、アサアギマダラも立ち寄るかな。

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 園に入ってすぐ右手に、よく手入れされているばら園が有りました。 

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アロマテラピー

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ミラマーレ・ハイブリットッティー系

色は薄いピンクから濃い赤に、また黄からローズ赤に変化するときもあるそうです。

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ウラワレッドダイアモンズ サッカー「浦和レッズ」のバラ。

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アブラカダブラ 花色はクリーム~ローズピンク

開花につれて花色が変化し、淡い香りが有ります。

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八重の酔芙蓉

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なんと、ミヤマキリシマが咲いている!

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一輪咲いていたハイビスカス

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温室に咲いていた、サンパチェンス、ツリフネソウ科

初めて見る花です。インパチェンスの仲間でしょうか?

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開催されていた山野草盆栽展、ヤマラッキョウ

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ヤマギリンドウ

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ヒラトジマイトラッキョウ

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ヒラトジハマギク

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左上 ミントッブシュ 右上 八重桔梗

左下 オイランソウ  右下 チコリ

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そして最後はクレマチス シルホサ・ジングルベル

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1時間30分の散策。

園のほんの一部を回った、花の一部のアップ・ブログでした。

春の季節に、また訪れたい植物園でしたね。

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アップしたフォットを10月のBGMにのせて、デジブックアルバムに。

無料ですが、登録が必要になります。

www.digibook.net

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第31回 大井宿~大湫宿 中編

10月19日(金)中山道旅の続きに入ります

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PM12:30、四ツ谷集会所にてのお昼タイムを終えて、再び街道へ。

蘖(ひこばえ)が秋の田植えをしたように、瑞々しい緑の棚田を眺め、

道端の秋の花を楽しみながら、長閑な旧竹折村四ツ谷集落の

お継原坂(うつ木原坂)を上ります。

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あら、らっきょうの花? 草むらの中に一茎だけ赤紫の花。

ラッキョウかも?

「庭のは咲くまでもう少しかかりそうね」

庭にカミさんがラッキョウを漬けたとき、二粒植えたのがいま蕾をつけてるんです。

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 東海自然歩道道標を見送って少し先の左手に竹折村高札場跡(標柱)があります。 

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うつ木原坂を更に上ると、左側に殿様街道跡の標識が建っていました。
街道は民家と民家の間の細い路地になってますが、南に約20km近くの

岩村藩が参勤交代で利用した道で殿様街道と呼ばれたそうです。

ここで中山道に合流し、中山道を江戸に向かったのですね。

わざわざ山登り道の遠回りのような道を利用したのは、幕府の参勤交代の道筋が

指定されていたんでしょうか。

岩村は終わった朝ドラ、半分青いの架空の街モデルで、ロケが行われたことでも

全国に知られてます。先々の旅の時、帰りの寄り道をしました)

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殿様街道跡のすぐ右手が、四ツ谷立場跡と街道書に記されていましたが、

示すものは見当たりませんでした。

この付近がそうだったのかな?

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さらに200mくらいで集落の外れでY字路分岐となり、

中山道石柱、東海自然歩道道標、青色歴史の道道標があります。

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ここからしばらくは、山に分け入る森の中の街道が続き、右手に

かくれ神坂標柱が建ってました。

十三峠道へ入る手前で渡った踏切傍の「歴史の道、中山道」案内図と街道書を
見比べでた折り、案内図の方は「塞の神坂」と記されてました。

次いで右手に妻(さい)の神標柱があり、奥に小さな祠が祀られてます。

街道書では 道祖神の一種で妻は塞(サエ)で、ここは久須見村と竹折村の境で

悪霊のが入り込むのを防いでいる、と記されてます。 

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「サエノカミ」については以前に調べたことがあり、

「塞神・幸神・障神・妻神・才神・性神など、用いられている漢字の違いがあり、

 漢字の表記によって、その性格も少しづつ違うのだが、どれも「サエノカミ」

 ということになり、道祖神の一種となる。

 塞神、障神と表記された「サエノカミ」は、村や地域の境界、道の辻にあり、

 文字通り、禍の侵入を防ぐ神である。
 幸神・妻神・性神と表記された「サエノカミ」は、性病治癒、夫婦和合、

 子宝の神とされている。また、歳神、才神となると、年々の収穫を祈念する

 神である」との資料が有りましたね。


なんて、うんちくを傾けながら、かくれ神坂を少し下り、さらに上り返すと、

明るい雑木林の道となって、「中山道宿場めぐりのみち」丸太道標や

平六坂標柱があり、さらに先に進み左手からの路と合流地点に東海自然歩道道標が

建ってます。

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坂道は平六坂になり、自然歩道道標からすぐ先左手に自然石の平六坂碑があり、

4,50mほど先に平六茶屋跡(標柱)が建ってました。

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茶屋跡の先は一軒の建屋があり、田畑が広がる明るい台地が大きく開け、

右手に動物駆除でしょうか、低い位置に電線が張り巡らせていました。

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下に見えた棚は自然薯の様です。

2,300mも行くと街道は再び木々の中へ続いてゆきます。

左手の風景に気をとられ、右手に有ったらしい「びやいと茶屋跡」標柱は通り

過ぎてしまったようです。

びやいとは「枇杷湯糖」ということで、枇杷の葉に薬草を加えて煎じたもので

名物であったようです。

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しばらく足を進めると、林の中への入口に「紅坂の一里塚」の両塚(岐阜県史跡)

が丸い原型をとどめて現存しています。

江戸日本橋より数えて89番目で、往時は両塚にはエノキが植えられていたそうです。

(街道書では一里塚手前に夫婦岩跡と記されてますが、見つけられなかった)

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一里塚からは、「紅坂」とか「でん坂」と呼ばれる石畳の道になり、

270mほど続く、と街道書には記されてます。

カミさんが、井戸があるけど水場があった?と言いますが、

街道書には有りませんね。

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100mほど行くとカミさんが、「うばケ出茶屋跡」があるけど街道書には

ないわ、「うばが茶屋跡」が載ってるけど、て。

確かに「うばヶ出」になってますね。 ???

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この先から石畳道は急下りになってきます。
50mほど下ると右手に案内板が立ち、石畳の中に「ぼたん岩」があります。

花崗岩が牡丹の花びら状になっていて、

学術的にはオニオンクラック(玉葱状剥離)と呼ばれるそうです。

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石畳の急坂をさらに下ると、右手に自然石の中山道紅坂碑があります。

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紅坂を下ると右手に東海自然歩道道標があり、並びに「うばが茶屋跡」標杭、
紅坂橋を渡って藤の集落へ入って行きます。

紅坂の石畳はここ迄で、うばヶ出、うばが、二つの茶屋があったということ

なんでしょうね。

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左手の民家前に馬茶屋跡標柱があり、右手民家脇に中山道ふじ道碑があります。

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集落を抜けてアップダウン道を進むと、右手に黒すくも坂標柱と自然石の

中山道黒すくも坂碑があります。

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黒すくも坂下ると人家が現れ、

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右手に嘉永7年(1854)、深萱立場茶屋本陣当主の加納三右衛門が奉納した

といわれる、三社燈籠が建っています。

カミさんが、「三社というと浅草の三社祭りが有名だけど、ここの三社は

どこを指すのかしら」、そうだね・・・

燈篭を見ると、三文字が彫られていて、金、秋、そして?が確認できます。

(調べてみると、武並町の散策マップが見つかり、

伊勢の大神宮、遠州秋葉山神社、讃岐の金毘羅宮を指すとありました。

さらにマップには、写真左上に見えてる山は、権現山というらしく、

麓に寛永4年(1782年)建立の金毘羅大権現や、文政2年(1819年)建立

秋葉神社が祀られてるようで、峠道に伊勢神宮遥拝所も有ったので、

そこへの道筋ということ、独断)

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三社燈籠を右手に100m入って行くと神明神社があり、鳥居脇に

芭蕉句碑「山路来てなにやらゆかしすみれ草」などがある、と街道書に記載されて

ますが、寄らずに先へ足を進めます。

三社灯籠向いの左手高台に、佐倉宗五郎大明神と二十二夜塔、稲荷神社があります。

元禄年間、岩村藩竹折村の庄屋田中氏は、将軍に直訴して農民たちを救ったが、

首を刎ねられてしまった。

村では庄屋田中氏をそのまま祀ると咎めを 受ける恐れから、同じような運命を

になった下総(現千葉県)で、義民として祀られた佐倉惣五郎の名を使って

祀ったといわれてるそうです。

遠く離れた下総(現千葉県)の伝説などは、芝居に取り入れられたり、

読み本や旅人によって広く各地に伝わっているんですね。

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すぐ右手に謎の名の「よごれ茶屋」標杭が建ってます。

不潔そうな茶屋?薄汚れた感じのジジババ茶屋?なんて、言い合いながら

東海自然歩道道標と青色歴史の道道標が建つ藤川沿いに先へ進み、突当り丁字路を

右折して藤大橋を渡ると国道418号線へでるようです。

私達にはあまり馴染みがない国道418号は、はる か福井県大野市から、いくつもの

峠を越えて長野県飯田市に至る国道なんだそうです。

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国道418号線を左折し進むと、右手に、当時の大きさで尾張藩用のものを

書写復元した藤村高札場と、傍らには庚申塔等の石塔が並んでいます。

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70mくらい先、右手に深萱(ふかがや)立場解説碑があります。

立場には、あの三社燈篭を献納した茶屋本陣(加納家)や茶屋、馬茶屋など

十余軒の人家があったそうです。
馬茶屋は馬を休ませる茶屋で、軒を深くして、雨や陽射しが当たらないような

工夫がされていたとか。

 街道は深萱立場解説碑先をすぐに右折して続きます。

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右折すると右手に東海自然歩道道標があります。

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 街道書には右手に山形屋跡(渡邊家)の碑がある、と記されてるが、

お花に注意が行ってて通り過ぎたようです。

山形屋て、何をしていた家なのかな? 調べても??です。

写真、右の花はハクチョウゲだと思いますが、今咲いてるのって狂い咲き??

(花が大きく写っていますが、小さな花です)

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右手に「ここは中山道の深萱立場」と記された、東海自然歩道の大きな案内板が

ありました。

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左手にまるで畑に栽培してるかのように、セイタカアワダチソウが群生してます。

ここまでもいまが盛りに黄色い絨毯状に方々で咲いてましたね。

そういえば家周りでも、一時少なくなったセイタカアワダチソウが、

復活し始めた様な気がしてました。

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東海自然道標の先で、Y字分岐を右手に進むときつい上り坂となり、

右手の土手上に自然石の中山道・西坂碑が有りました。

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街道書には付近にチンチン石標識があり、左に入ると墓地があり、奥の墓石の前に

叩くと鳴る石の「ちんちん石」があると記されてますが、周りはヤブ状態で

標識や道筋が判りませんでした。

カミさんが「叩くと鳴る石は、前に有ったわね」といってましたが、

すぐには思い出せず、帰ってから当ブログをめくってみると、

上野の国(群馬県)の坂本宿へ向かってる峠道に「茶釜石」というのが有り、

カミさんが小石で叩くと確かに金属音の音がした、と記してました。

急勾配の西坂を上ると左手に、中山道道標と側に小さな馬茶屋跡の棒杭が有りました。

ここで細久手から来たという今日初めての単独行旅人と出会いましたね。

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道は砂利道になり、急坂を行くと、台風の影響か、杉が根こそぎ倒れ掛かってます。

なんらかの理由で根の張りが浅かったんですね。

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さらに砂利道を上ると、右手に西坂の標杭があり、標識から約10m先の左側に、

石組みの上に竹組の蓋になっている水源があり、水の流れる音が聞こえてました。

昔は峠越えの為の水場があったのかな?

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少し先から草道みたいですが、石畳道の茶屋坂となり、

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その先で東海自然歩道の道標の建つ石段を上り、さらに車道を横断して

また石段を上ります。

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さらに石段を上り針葉樹林に入ると「みちじろ坂」の標杭、そして傾斜がきつい

上り坂となってきました。

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急坂をふいふい上ると、平らな場所は峠の頂のようで、右手に

みちじろ(三城)峠標柱があり向いに、ばばが茶屋跡標柱と自然石の

中山道茶屋坂碑があります。

みちじろ(三城)峠は、昔、藤、権現、奥の三城が眺められたので名付けられた、

と街道書に有りますが、木々が生い茂り周囲の展望はまったくありません。

峠の高所はもう少し上にあるようですね。

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石垣が積まれた茶屋坂の急坂を下ると、車道に突き当たります。

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右手には、ここにも下座切場跡(標杭)、中山道石柱、青色歴史の道道標。
向いに中山道歴史の道解説板があります。

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 そして車道の右手に、京方面に向いて中山道碑があります。

 是より藤と刻まれています。

 そして道標のところは市境、恵那市から瑞浪市へと入りました。

 PM1:40

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後編へ続きます。





 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第31回 大井宿~大湫宿 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

9月23日

PM4:30 江戸より46番目、87里27町(約345Km)大井宿。
なんとも遠くへ来~たもんだ~・・・
「歩いて再び京の都へ」第30回目の旅は足止めとしました。

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10月に入り秋も本番なれど天候不順やお義母さんの入院などで、

街道旅を日延べしてきたが、お義母さんも退院出来て状況が良くなり、

天気を確認すると岐阜県は一日中お日様マーク。

宿も調べると、いつも利用するホテルに空きが一部屋見つけた!

さあ、それでは行くか~、と相変わらずの突発出立つ。

 

美濃路、大井宿(恵那市)からは、約30km先のの御嵩宿までは、鉄道との

接続が無く、一気に足を進める事は亀足のジジババ旅人には無理だ~・・で、

今回は江戸から47番目、大湫宿までの約13km。

大湫宿から鉄道接続駅までは時間的余裕が有れば1時間の山下り歩。

無理そうなら初めてタクシーを利用することに。

(実際にタクシー利用になりましたが、この際に大変温かい親切を頂き、

 なんとも嬉しいお終いでした)

 

19日(金)カミさんもAM3:00におきだして、今日の昼食準備。

それ、と飛び出しいつもの様にマイカーを走らせ、

AM9:00、岐阜県恵那市のホテル着。

ホテルに駐車させてもらい、前回足止めの恵那中央通り1丁目交差点へ。 

恵那市の市章と周囲に合併前の旧恵那市の花・ベニドウダンを配したデザインした

マンホール蓋。

現在の市の花は、 ササユリだそうです。

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AM9:15、「第31回中山道夫婦歩き旅」の旅立ち、

冷え込みはあるが、青空がひろがり日差しは暖かい。

歩き旅にが絶好旅日和。

右手に行くと恵那の駅で、中山道は横断して一方通行を直進し、さあ大湫宿へ。

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老舗の和菓子店や呉服屋などが点在し、昔からの道であることを感じさせる

座商店街(旧中野村)へ進みます。 

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  交差点を渡った左手に、大正時代創業の銘菓栗きんとんの老舗菊水堂。

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過ぎて

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そしてこんなポスターが、

「11月3日から23日まで開催されます。
歴史と文化の豊なまち 恵那。
江戸日本橋から四十六番目、日本一の「枡形」を残す中山道大井宿。
今年も素晴らしい300点以上の「のれん」で中山道が彩られます。
市内外から、そして学校関連のお子様の力作も多く寄せられています」

11月に再び旅へ出れたら、寄り道しようかな。

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左右にうねる街道をしばらく行くと、

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昭和レトロの酒屋さん

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その先左手に蔵造りの中野村庄屋の家があります。

屋号を本酒屋といいました。

黒漆喰塗の虫籠窓や千本格子に犬矢来をしつらえた重厚な建物です。

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案内文によると、開き戸、庭園、十畳二間続きの奥座敷のある立派な旧家で、

岩村藩姫君が芝居見物のときに利用し、明治天皇行幸の際の非常立退所にも

指定されたそうです。
和宮降嫁の際の「熊崎新三郎事件」の舞台になった家だそうで、

「熊崎新三郎事件」とは、

「皇女和宮通行に際し、大湫宿助郷村であった野井村が、岩村藩代官より

強制的に賄役(まかないやく)を命ぜられました。のことを不満に思った

野井村百姓代表熊崎新三郎は、和宮通行が終わったあと、中野村庄屋宅に滞在して

いた岩村藩代官吉田泰蔵に斬りつけました。

野井村は岩村藩に代官の強要を訴え出たところ、代官は罷免され、野井村に

金二十五両が下付されました」 

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犬矢来

(竹が並べて、丸く曲げて ある・・「駒寄せ・犬矢来」と呼ばれます。

元来は、馬が家の塀を蹴ったり、犬のオシッコで汚れるのを防ぐ、

という 目的があったようです。木で格子を組んだ型・丸竹を数本並べた

型・割竹を並べた型など、様々な様式があります。また、竹が曲げてある型では、

その上には登 れにくくなるため、泥棒の侵入を防ぐ、という効果もあったようです)

 

 建物脇にある大きな溝が刻まれた石柱がありました。

先を流れる田違川は江戸時代によく氾濫したため、道の両側に石柱を建て、

洪水の際に溝に板をはめて浸水を防いだという。
かつて、近くを流れる永田川に直角に田違川が合流していたため、

田違川の流れが永田川をせき止め浸水したという。
(長島町はこの水害防止のため、昭和10年、田違川を中央線沿いに付け替えた) 

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そのすぐ先の永田川を渡る長島橋(おさしまはし)手前を、左に回り込むと

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入母屋造り回り縁の中野観音堂があり、堂の前に寛政八年(1796)建立、

高さ3.7mの秋葉常夜燈と脇には中野村高札場跡標柱があります。

中野観音堂阿弥陀如来立像を本尊とし、江戸時代から灯明が消えたことがないと

いわれてるそうで、弘法大師像、三十三観音像等も安置されています。
観音堂前に「橋場の茶屋」があって賑わっていたそうです。 

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街道にもどり、長島(おさしま)橋を渡って100mほど進むとJR恵那駅からの

本通りへ合流の交差点になり、

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左に150m程行くと「野井みちの分かれ」という、坂の上交差点の五差路に出、

中野歩道橋を渡り、国道19号線多治見方面の標識に従って進みます。

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歩道橋から景色、左上の写真中は、今までたどってきた駅からの道。
遠く恵那山や中央アルプスが見えるそうだが、今日は霞の中。

右下の写真の道は、国道19号・多治見方面への道で、これから進んでゆきます。
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 歩道橋を渡った左手に急石段の参道が丘上に伸び、かなり階段を上った先に

豊玉稲荷大明神が祀られているそうですが、足を伸ばしませんでした。

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参道脇に大量の銀杏が水につけてあります。

上の境内に樹が沢山あるのかな。

商売用でしょうね、まったく臭いはなかったです。

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多治見方面に少し右にゆるやかに上りを進むと、

カミさんが、あら、Caféだわ、

江戸屋と読めました。

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 左手に上町観音堂標石があり、路地を進むと正面に観音堂がありますが、

案内板が無く由緒は不明。

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観音堂から中山道燈籠モニュメントを見送って100m程行くと、

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左側に西行硯水公園の案内板が建ってます。

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西行北面の武士でしたが、壇ノ浦で平家が滅亡した翌年の

 文治2年(1186年)に、平重衡によって焼かれた東大寺再建の沙金勧進

 ために奥州への旅をし、奥州平泉に行脚し、信州善光寺に詣でた後、木曽路

 経て美濃に入り、この地に竹林庵を結び三年間居住し、歌人でもある西行

 ここの泉水を汲んで墨をすったと伝えられている」

  と解説文が建てます。

池は古くから所在が知られてるそうで、昭和61年に公園として整備された

そうですが、石組みの中の手入れのされてない濁った池が、硯の水を汲んだ

泉なのかな?

園内には西行歌碑

「道の辺に 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ち留りつれ」

や美濃の俳人の句碑などがあるようですが・・石碑はあるが判読は??

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 公園のすぐ先左手に神明神社の鳥居と常夜燈があり、奥の丘上に社殿が鎮座して

います。

寛保四年(1744)の創建のこの地の産土神で、境内には夫婦杉の大樹あり、

と街道書に記されていたのでちょっと立ち寄り。f:id:hansui:20181022161728j:plain

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街道へ戻り、中山道燈籠モニュメント建つ道を行くと、斜め右の上り坂に入る

分岐点が有り、西行塚西三丁と刻まれた大きな道標が建ってます。  

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 坂を上ると右手に立派な御影石製の中山道大井宿解説、歴史の道中山道図が

 あります。 

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JR中央本線を仲仙道踏切で横断し、中山道道標に従って左に進みます。

ここからは一気に長閑な田畑の中の道になり、山に向かって伸びてゆきます。

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 道なりに進み田違川を西行橋で渡り、中北道標を見て中央自動車道をくぐり、

道なりに左に進みます。

西行橋からの道筋は中央自動車道の敷設により消滅した旧道の迂回路です。

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  上り坂を進むと消滅した旧道が復活し、美濃路の難所「是より十三峠」碑が立ち

 石畳が始まります。

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ここから大湫宿までの約三里(13km)の峰づたいの道。
「十三峠におまけが七ツ」といわれる起伏に富んだアップダウンの続く二十余の

山坂道があり、中山道の難所の1つであったそうな。

AM10:20 

十三峠は西行坂の石畳道から始まり、右手に寛政十年(1798)建立という

馬頭観音像と石仏が有りました。

カミさんが「ゆっくりね」て・・・ははは、ありがとさん。

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すぐ左側の「伝西行塚」案内板が立つ石段を上った周りは、

西行苑と名付けた公園で、上りつめたところに、西行を供養するために

つくられたという五輪塔の立つ小いさな伝西行塚があります。

西行は諸国行脚の途中、この地に竹林庵を結び暮らしました。 

自分の死期を悟ると村人を呼び「私はこの夜半、土に還る、遺体は

中野坂(現西行坂)に葬ってほしい」と頼み、その夜西に向って合掌し、

立ったままで入寂しました。
長国寺にて葬儀を行い、丁重に中野坂の頂に埋葬されました、塚に立つ五輪塔

高さ1.44mで県文化財です。

との案内板が建ってます。

「伝」となに?

また、西行は建久元年(1190年)に河内・広川寺で円寂したというのが定説の

様ですが、この西行塚のことは、江戸時代初期からその存在が伝えられている。

『太田南圃蜀山人紀行』、『木曽川名所図会』『濃陽徇行記』等にも見られ、

この塚は大井町長国寺縁起の記載等を根拠として西行の墓と信じられているが、

五輪塔の年代から、西行の墓とは考えられない。

室町末から江戸時代初期の頃に、西行を慕う人々によって建立されたと考えられる。

従って「伝」の一文字を加えて指定された。

とも解説文が記載された板もありました。

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次いで西行五輪塔から街道への側に西行歌碑、芭蕉句碑があります。

西行歌碑「待たれつる 入相のかねの 音す也 あすもやあらば きかむとす覧」
芭蕉句碑「西行の わらじもかかれ 松の露」

と刻まれてるそうです。

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街道へ下ると西行苑解説があり、トイレが設置されています。

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トイレは水洗でとても綺麗に清掃がされてましたね。

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  石畳から砂利道に変わった西行坂をグングン上ると右手に

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工場を建設のために取得した土地の未使用地を、50年近くの生産活動でこの地から

恩恵を受けてきた感謝と、これからも共存していく思いを込めて、林保全活動を

スタートしました、との趣旨のパネルが建ってます。

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しばらく行くと石畳が砂利道に変わったところに、槙ケ根の一里塚があります。

「木の榎は消滅していますが、両塚とも存在し、江戸日本橋より数えて

八十八里目になり、近年の土地開発が進む中で、この附近の中山道は開発から

免れており、この槙ケ根一里塚のほかに西行塚や西行坂なども原形をとどめ

往時の中山道を偲ぶことができる。」(恵那市教育委員会説明版)

 

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一里塚の並びには東屋(休憩小屋)やトイレがあり、先の左手に桜百選の園碑が

あります。

この辺りは西行の森と呼ばれ桜の名所で、ここからは恵那山、そして恵那市市街が

一望できるようですが、今日は霞の中。

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気持ちのいい明るい尾根道も森の中へと吸い込まれてゆきます。

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 峠道には中北道標、中山道石柱、青色歴史の道道標等が建てられています。

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先で車道に出会い中北道標に従って横断し上ると、突当りのT字路を左し

槙ケ根坂旧道に入ります、

この分岐点には青色歴史の道道標「←中山道→」があります。

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茶屋水戸屋敷跡の小さな棒杭標識があったが、またその先の空き地脇にも

茶屋水戸屋敷跡の標識がある、なぜ?て、カミさん。わかりませ~ん・・

(そういえば、峠へはいる手前にCafé・水戸屋が有ったわよ、てカミさんが
 思い出してました。茶屋風情の名付けかな)

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少し先、左手に伝西行塚や長距離自然遊歩道の案内板(長距離と付いた案内板は

初めてかな)があり、槙ケ根設石仏群の棒杭標識が立ってるが、どこなんだろう?

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ここは中部北陸自然歩道(中山道)と東海自然歩道との交差分岐地点の様で、

中山道は南から上って来て西に向かう東海自然歩道内となり、

中北(中部北陸自然歩道)道標とはお別れとなるようです。

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長距離自然歩道とは?
 四季を通じて手軽に、楽しく、安全に自らの足で歩くことを通じて、豊かな自然や歴史・文化とふれあい、心身ともにリフレッシュし、自然保護に対する理解を深めることを目的とした歩道です。環境省が計画し、国及び各都道府県で整備を進めています。 昭和45年(1970年)の東海自然歩道の整備に始まり、九州・中国・四国・首都圏・東北・中部北陸・近畿と8つの自然歩道がこれまでに整備され、現在、北海道自然歩道と東北太平洋岸自然歩道の整備が進められています。整備が完了すれば、全国の自然歩道の総延長は約27,000kmとなります。
 家族向けのコースから本格的な健脚コースまで、各地の見どころを楽しく歩けるようになっています。

環境省自然環境局国立公園課)

左手の2車線道は上って来た東海自然道で、右手の工場門脇の道標に従って、

南へ向かう東海自然道(中山道)の山道へ進みます。

樹林帯に入ってすぐに茶屋松本屋跡の杭標識。

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中山道道標が建つ槙ケ根坂を進むと、

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江戸時代末期になると、この辺りの旧道沿いに点々と、槙本屋、水戸屋、東国屋、

松本屋、中野屋、伊勢屋など9軒の茶屋があったようで、槇ケ根立場跡を示す

説明板が立っている。

明治時代になり鉄道が開通すると、これらの茶屋は山麓の町や村に移っていったと

いわれ、現在は木々が生い茂り、痕跡も見られないですね。

 

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往時は中山道の旅人に加えて、木曽や尾張方面の商人荷、それに善光寺

伊勢神宮等の参拝者が行き交い大いに賑わいました。

 立場の並びに伊勢神宮遥拝所があり、注連縄を張った小社が鎮座していました。

伊勢神宮参拝の人はここで中山道と別れて下街道を西へ向いましたが、

一般の旅人はここで手を合わせ遠く伊勢神宮を遥拝しました。

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 先に進むと左手に明治八年(1875)建立の下街道追分道標があります。

道標の上部に伊勢神宮の鳥居が彫られ、その下に

「右西京大坂 左伊勢名古屋 道」と刻まれています。

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道標の先に下街道追分があります。

「左の下り坂が下街道です、これに対して中山道は上街道と呼ばれました。

下街道は、竹折、釜戸から高山(現土岐市)、池田(現多治見市)を経て

名古屋へ至ります、この道は途中に内津(うつつ)峠の山道がありますが、

土岐川沿いの平坦地を進み、付近には人家も多く、そのうえ名古屋までの距離は

上街道より四里半(約十八キロ)も、近かっため下街道は一般旅行者に加えて

商人や伊勢神宮の参拝者で大変賑わいました。

しかし幕府は中山道の宿場保護のため下街道の商人の通行を禁止し、尾張藩

厳しく取り締まったが徹底することができず、幾度も訴訟裁定を繰り返しました」

とパネルに記されてます。  

ロープが張られていますが、左手へ下って行く草道が見えてます。

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槙ケ根坂を進むと
中山道(東海自然遊歩道)道標に従って足を進めます。

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右手斜面に馬頭観音像が祀られていました。

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次いで右手の木製階段を上ると姫御殿跡があります。

ここは祝峠と呼ばれ、近くに松の大木があり、松かさ(松の子)が多くつき、

子持松といい、この子持松の枝越しに馬籠(孫目)が見えるため、子と孫が続いて

縁起が良い場所といわれましたそうで、皇女和宮通行の際、岩村藩の御用蔵から

運んだ無節のヒノキの柱や板と白綾の畳を敷いた御殿を建て休憩所としました。 

と街道書に記されてる所でした。

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先に進むと、あれ?下座切場跡(標柱)が・・持参街道書では坂の途中と

記してあるが??

最近標識を移したようですね。

村役人が裃を着用して土下座し、幕府や藩の役人を出迎えた所だそうです。

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左手の階段を上ると首なし地蔵が祠内に安置されています。

「この地蔵は宝暦六年(1756)地元(武並町美濃)の人達が、旅人の道中安全

 を祈って造立したものです。

 昔、二人の中間(ちゅうげん)が、ここを通りかかり、夏のことで汗だくでした、「少し休もうか」と松の木陰で休んでいるうちにいつの間にか二人は眠ってしまった、  しばらくして一人が目覚めてみると、もう一人は首を切られて死んでいました。

びっくりして辺りを見回したがそれらしき犯人は見あたらなかった。

怒った中間は「黙って見ているとはなにごとだ!」と腰の刀で地蔵の首を

切り落としてしまった。

それ以来何人かの人が、首をつけようとしたが、どうしてもつかなかったと

いいます」

と案内パネルに記されてました。

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首なし地蔵からは急な下り坂になり、右手にかすかに読み取れる自然石の

乱れ坂碑があります。

乱れ坂は急坂で、大名行列が乱れ、旅人の息が乱れ、女の人の裾も乱れる程の

急坂であったところに由来しているようですが・・

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左右に曲がる乱れ坂を下ると、右手に中山道石柱と青色歴史の道道標があり、

ここから石畳道になります。

昔はもっと傾斜が強かったのかな??京方面からの登りは強つそうですが・・

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乱れ坂を下り、乱れ川を乱れ橋で渡ります。

乱れ川(現四ツ谷川)は石も流れるほどの急流であったといいます。

乱れ橋は飛脚達が出資して宝暦年間(1751~63)に架橋しました。

橋は土橋で長さ7.2m、幅2.2mでした、荷を積んだ馬(荷駄)一頭につき

二文ずつを徴収する有料橋の時もあったそうです。f:id:hansui:20181023050719j:plain

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 みだれ橋を渡ると旧道は右からの舗装路に合さり、分岐点には中山道石柱と

東海自然歩道道標があり、緩やかな上り坂を進むと民家が現れます、

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「四つ谷立場」が有ったといわれる田園風景のうつ木原坂を上って行きます。

十字路手前の右手に東海道自然歩道道標と石州さま標柱があります。 

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うつ木原坂標識の先に旧竹折村の四ツ谷集会所が見えてきた

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 AM11:50、片隅をお借りして昼食に。

恵那市内を離れると、食事処や自販機さえもまったくないんですね。

今回はいつもの健康補助食品とカミさんがちょいと手作りしたパンを持参です。 

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けっこう汗ばむくらいの陽気。
中山道を終えたら、長距離自然道も面白そう」なんて、

カミさんは歩き旅にはまったようです。

昔歩いた、長野県白馬山麓の塩の道街道の思い出話も飛び出して、

ひと時の寛ぎ。

今旅人にとっても、こういうもてなしは有りがたいですね。

爽やかな秋空の下、ゆっくり足休めをし、トイレもお借りしました。

ありがとうございました。

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思いがけない激変お天気と、温かいご親切を頂き旅を終える後半へ・・・

 

旅は続きます。