冬の花、蝋梅(ロウバイ)

はやくも蝋梅が咲いているの花だよりがあって、蝋梅園のある公園へ足を運んでみましたが、葉が生い茂りまだ蕾が見えるくらい。

いつも行く近くの多門院もわりと早くの開花があったのを思い出し、足を延ばしてみた。

多門院の蝋梅は若木が多く、他の木々でも見られるが若い木ほど開花が早い。

黄葉の葉陰をのぞいてみると、2,3の樹がぽつりぽつり咲きはじめてました。

昨年のアルバムを見ると、10日に撮影の花があったので、早いと思ったが

開花は昨年並みだったわけですね。

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ロウバイ科・ロウバイ

中国原産、落葉樹

江戸時代初期に日本へ渡来。

花名の由来は、蝋(ろう)のような花びらからや、臘月(ろうげつ、旧暦12月)に

花を咲かせることに由来するといわれます。

初冬から咲く香りのよい花が愛され、生け花や茶花、として利用されてきた。

ただ、放置すれば3~4m近くに育ち、樹形は乱れがちで整えにくく、

花のない時季は魅力に乏しため、あまり庭木としては見かけること少なかった

ように思います。

近年は花の少ない寂 しい冬の時季に、香りとともに冬空に 映える明るい花は、

厳寒を過ごせば春来るの気持ちを持たせてくれると、蝋梅園なども増えて、

冬の花として人気がありますね。

 ロウバイの花 言葉は「先導「」先見「」慈愛「」やさしい 心」とか。

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例年ならば、黄葉の中に蕾を付け、葉を落としての咲き始めですが、

暖冬を示すような、まだ青々とした葉の中に咲きだしてます。

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花に似合わずの武骨な実もまだ残ってます。

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暫し初冬を楽しみながらそぞろ歩き。

鳥たちへの最後の贈り物かな、

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ハンカチの木の実もまだ少し残ってます。

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「雪椿」と「茶」の自然交配によって生まれたという「炉開き「」と

花札がありました。

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毘沙門堂と守りは狛寅

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ジョウビタキの女の子ですね。

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12月8日、あの日、でしたね。
マスコミはほとんど取り上げなかったような。











 

 

メタセコイアの風景

十年以上も前に行った群馬県・鬼石(現藤岡市)冬桜。

途中で見かけたゴルフ場のコース縁取りに、見事な円錐形の茶褐色に煌めく

並木を見て気をひかれ、帰り道に立ち寄ってみると「メタセコイア」と樹札

がありました。

そういえば散歩公園の池周りにもあったと気が付き、

別名「曙杉」ともいわれる美しい紅葉時期や、柔らかな春の芽吹き、

公園散歩には必ず立ち寄る、カミさんともどもお気に入りの樹です。

公園のメタセコイア(12月5日撮影)

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メタセコイア」 

 学名  Metasequoia glyptostroboides
科   ヒノキ科(スギ科)

属名  メタセコイア属(アケボノスギ属)
英名  Dawn Redwood
原産地 中国
開花期 2~3月
花の色 白、黄
別名  イチイヒノキ
    ヌマスギモドキ
    水杉(スイサ)
    曙杉(アケボノスギ)

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12月4日、メタセコイアのある風景を求めて、初めて訪れたところは、

なんとも桁違いの圧倒される大きさ広さの、日本最大級のスポーツ施設

「大宮けんぽグラウンド」でした。

秩父に発し埼玉、東京を流れる荒川の、さいたま市の北西部付近岸河川敷に

造成された主に業種別健康保険組合、民間企業が共同で運営する、

野球場 52面 テニスコート 102面 サッカー場 6面 

ラグビー場 1面トラック 2面 フットサル 6面

広さ約23万坪を有する、昭和48年(1973年)に開場した総合運動場。

 

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広大な敷地は碁盤の目のように道路で仕切られ、道の片側に施設の区分けを

しているのが、植樹されてるメタセコイアです。 

開場の時期から植栽されたとすれば、樹齢は40年を超えていますね。

スポーツ施設ですが、規則性のあるフランス式庭園の雰囲気があります。

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メタセコイアに関する資料より、

 

「気候が温暖だった暁新世(6600万年前~5600万年前)から始新世(5600万年前~3400万年前)かけて、メタセコイアはシベリアやカナダなどの北極圏を中心に、北半球の広い地域に分布していました。しかし、地球の急激な寒冷化が進んだことで、北極圏付近のものは絶滅し、分布域が日本や中央アジアまで南下し、その後絶滅したと考えられていました。
1941年に、メタセコイアの化石が、生物学者三木 茂博士によって発見されたことで、その存在が明らかになったヒノキ科の落葉針葉樹である。

三木博士は,それま でヌマスギ属(Taxodium)やセコイア属(Sequoia)と されていた化石の中に,それらとは異なる未知の植物を 見出し,メタセコイア属と命名した。

メタセコイア(ア ケボノスギ,イチイヒノキ)の和名で呼ばれている.

 

その後、1945年に中国の四川省湖北省で自生種が発見され、「生きていた化石」として有名になり、アメリカで植栽され世界に広まっていった。

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 1949年に日本と皇室がそれぞれメタセコイアの挿し木と種子を譲り受け、

その後公園、並木道、校庭などに植えられて全国各地に広まっていったそうです。

滋賀県にある、「メタセコイア並木」は、近年はツアー立ち寄りにもなる

人気スポットでもありますね。

右へ歩き、左へ歩み、振り返えったり、後ろ向きに遠ざかったり、

日差しをいろんな角度から受け入れて回ります。

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 メタセコイアの実、

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さいたま新都心が霞んでます。

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残念ながら霞空ですが、富士山の見えるスポットでもあるようです。

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荒川本流は遠くに見える堰堤の向こうに流れています。

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運動場の南に続く河川敷の畑地。

朝な夕なに眺めてみたい!! 富士を眺めに又の日再訪を・・・・。

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庭の花、今咲きだしてます「オキザリス

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 おわり























 

 

夕暮れ近くに二重の虹が現れた。

昨日は曇り空で気温も低く寒かったが、

今日3日も雲の多い一日、なれど気温は高めの予報。

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午前中には日も差し込み青空も広がりを見せるか、・・

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と期待したが

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昼ちかくから再び雲が広がり日差しは途絶え、ぱらぱら雨の雫も。

そんな日中を過ごし、午後の4時過ぎ、ふっと北の窓から外を見ると、

  おっ、虹だ!!

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しかも幸運を呼ぶといわれる、「ダブルレインボー」!!

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さっそく虹について紐解いてみると、

虹色が7色というのは万有引力の法則などで有名な科学者・ニュートンの説がもとになっているそうです。

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昔は色彩の基本として、赤、黄、緑、青、菫の5色がありましたが、
ニュートンは赤と黄の間に果物のオレンジの色から「橙」、青と菫の間に

植物染料の色の藍を加えて、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の7色が虹の配色とした

といわれます。

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上(外側)から赤橙黄緑青藍紫の配色順番といいますが、赤が一番目につきますね。

日本では学校教育に7色が取り入れられて広まったそうですが、

日本人は色彩認識力が高く、細かな色の違いも判断できるため7色と色数の多い

虹色を受け入れることができている、との解説もありますね。

ただし、世界の中がみな7色で、とは限らないようです。

国や地域、あるいは時代によってさまざまな虹色の数の考え方があるそうです。

おおざっぱな特徴として赤道に近い国は色数が少なく、離れていくと増えていく

傾向があるという説もあります。
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暗い雨の日もカラフルに!気分が明るくなるレインボーカラー

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青空も見えましたが、雲がどんどん張り出してきて、

PM4:30虹のショータイムもす~っと幕が引かれ、

夕焼けもなく時間的にも早めの夕暮れになりました。

幸運を呼ぶといわれる「二重の虹」、いい年の瀬になりますように。

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平成30年(2018年)も最後の師走いり、

平成30年12月1日、師走。ということは平成最後の年の暮れということ。

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中仙道街道旅も来春までは足どまり(の予定)。

旅の記録をブログで残してきましたが、ついついブログに疎遠に。

脳トレを兼ねて、日々徒然をアルバム替わりに、記すことに。

まずは、師走入り12月1日、夕暮れ散策へ。

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かろうじて、ビルの隙間に富士のお山が顔を出します。

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晩秋の夕暮れ空、いろんな表情を見せてくれますね。

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う~ん、いいな~・・自己自賛!

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残照、

一か所だけ窓に夕日の映り込み、

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そして、はや明日へと移り行き・・

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第32回 大湫宿~御嵩宿 (四)

PM2:20、皇女和宮通行の際、御殿が造られたという物見峠の御殿場展望台

で、暫しの足休め。

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展望台には子供や、法要姿の方が数人いました。

あれ?どうしてこんな峠に礼服を着た方がいるんでしょう??

10分ほど足休めをして、街道へ戻ります。

トイレ脇で休息をしていた単独行の男性が、お先にと坂を下って行きました。

なんとこの方は、今朝大井宿(恵那)を立ち、これから御嵩、さらに足が動けば

その先伏見宿まで行くそうです。

えっ、35km!か、江戸時代の旅人も30~40kmくらい歩いたそうだけど、

なんともすごい健脚ですね。

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展望台に礼服の方がいた理由はすぐにわかりました。

すぐ先向かいは森のケーキ香房「ラ・プロヴァンス」だったのです。
朝早くから行列のできる人気のケーキ屋だそうで、駐車場にはたくさんの車が

停まってました。時間の余裕があったら寄りたいとチェックしていたのを忘れて

たんです。

目的地、御嵩まではまだ5,6kmあります。

カミさんに聞いたら、日のある内に目的地へ着きたい、というので、

横目に見ながら物見峠を下りました。

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坂を下ると街道は舗装路と交差し、道標に導かれて斜めに横切り「謡坂」に

進みます。f:id:hansui:20181117202824j:plain

5分ほど進むと、今は涸れているが昔は絶えることなく清水が湧き出したと

いわれる、唄清水と刻まれた石碑と句碑が建ち側には解説パネルが建って

いました。

石に囲まれた清水のそばには句碑があり、解説パネルによると、

「旧謡坂村が尾張藩千村氏の知行地で、千村平右衛門源征重(五歩)が
  「馬子唄の響きに波たつ清水かな」と
 唄ったことから「唄清水」と名付けられた」とあるそうです。 

今は残念ながら 「この水は生では飲まないでください」との注意看板が

建ってます。

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斜め向いには大正2(1913)年に建立された「禁裡御所巡拝記念碑」が建って

いましたが、巡拝したのは?いつ?なぜここなのか?

(今も調べ中)

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両側が竹林の謡坂行くと、カミさんが右手に石碑があるといいます。

街道書には記載のない石碑で、あとで調べましたが由来はわかりません。

竹林が先が明るくなり、唄清水から2,3分行くと建屋が見えてきます。

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街道書に記された「旧善知鳥(うとう)」村に入ったようで数軒の民家があり、

続いたあの竹林納得の、竹炭を扱う竹炭工房がありました。

「お休みどころ」との札も下がってました。

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*「善知鳥(うとう)」て鳥の名?とどんな鳥かなと調べてみると、

「チドリ目ウミスズメ科の海鳥。ハトほどの大きさで背面は黒褐色、くちばしは

 橙色。繁殖期にはくちばしの上部に角のような突起を生じ、砂地に穴を掘って

 産卵する。北海道・本州北部の離島に群生。アイヌ語起源の名、とする説もある 」

 を見つけました。海鳥のようですが、この山奥の村の名になったのはなぜ??

 また「能」に猟師を題材にした「善知鳥(うとう)」曲目があるようで、

 猟師の多かった村からか、なんて勝手に推測楽しんだ*

竹工房の先をひと下りすると、左手に「東海道標」「歴史の道道標」があり、

右手からの車道に合流し、左折します。

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舗装道路に合流したところに、屋根覆いされた「一呑み(ひとのみ)清水」跡が

あり、清水碑と地蔵尊が祀られてます。

側の解説版には、

皇女和宮はこの水を賞味し大変気に入り、後に和宮が江戸から京へ上る際、

多治見の永保寺で休息した時に、この清水を取り寄せ点茶をされた、とあります。

先ほどの唄清水もそうでしたが、昔は旅人にたいそう喜ばれ、岐阜県名水50選

にもなっていた両清水は、今ではそのままは飲めません。

「生のままは飲まないでください」の注意書き付きになってます。

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清水のところで道は二股になっていて、左手の道が街道らしい雰囲気でしたが、

石柱道標に示す「中山道石畳み」の右手車道へ進みます。

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うっかり、左手にあるとされる「馬頭観音」を見過ごし、西に少し傾いた陽を

受けた街道を下ると右手に「十本木立場跡」を示す石柱と解説パネルがあり

「宝暦五年(1756)刊の岐蘇路安見絵図(やすみえず)にも記載されており、

 元々は人夫が荷運びの途中に休憩を取っていた場所に、次第に茶屋が建ち旅人

 の休憩地となった。

 古老の話しでは、参勤交代の諸大名が通行する際にはここに警護の武士が駐屯

 し、一般の通行人の行動に注意が払われた」とありました。

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すぐ先に道標があり街道は左に分岐し、またすぐ二つの道標が現れ右に曲がって、

西日に綺麗な紅葉を見ながら足を進めると、

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分岐から2,3分の左手に、石置き屋根を乗せた井戸があり、脇に地蔵が安置され

ている、「地蔵の清水」がありました。

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地蔵の清水から約50m歩くと、右手に一里塚跡があり、塚が復元され解説パネル

が建っていました。
江戸から94番目の「謡坂(うとうざか)十本木一里塚」です。

瑞浪市にあった4つの一里塚は往時の姿のまま現存しているが、

この塚は明治になり不要となって2円50銭で払い下げられ、取り壊されていた

ものを、昭和48年(1963年)に地元有志によって復元されたもの」と記され

てます。
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一里塚跡から約40m先き右側に、ほとんど読み取れない標板が建っていましたが、

街道書にある立場の共同洗い場、「十本木洗場」跡のようです。

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右手一角は広めの草原になっていて、中山道歴史の道パネルがあり、
「広重が描いた木曽街道六十九次の「御嵩宿の木賃宿の様子」はこの建物が

 モデルになっている。絵の中に、野菜でも洗っているような人物が描かれてい

 ますが、ここが洗い場だったことからも推察できる」

 と記され、浮世絵が貼ってあります。

パネル向かいに家屋があり、家前に「十本木茶屋跡」の案内がありました。

十本木は、10本の松の木があった由来の由。

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広重画・御嵩宿、画の解説には、

「広重は御嶽として謡坂村の十本木立場の夕景を描いています。

そして宿場の外れにあるのが常であった、木賃宿(きちんやど)を描いています。

木賃宿は薪代を支払って宿泊し、自炊が原則でした。

前の小川では老婆が米を砥いでいます。

軒下の柱行燈には御嶽山御神燈が描かれいます、尾張は御嶽講が盛んで、多くの

講中がここに泊り、登拝に向いました。画面左は謡坂の下り坂です。」

とあります。

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茶屋跡から5,60m行くと分岐があり、石畳みの敷かれた左手の急な下り道へ

入ります。

そこには謡坂石畳と刻まれた石柱が立ち、ベンチがありました。

ここで下る旅人は足元の見直し、登ってきた旅人は一息つく、だね。

謡坂の石畳は平成9(1997)年から12(2000)年にかけて修復整備

されたそうです。 

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木立が生い茂り、西に傾いた日差しがさえぎられる石畳みを下ると、

右手に歴史の道中山道のパネルが建っています。

説明板によると、

「西からの旅人は謡坂の急な上り坂の苦しさを紛らわすために、歌を唄いながら上ってきたことから「謡坂(うたうさか)」と呼ばれるようになり、更に転じて「うとうざか」になった」という。

そういえば街道書には謡坂の付近は、善知鳥村(うとうむら)と記してあったのですが、謡坂の読み方と関係はないのであろうか??

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パネル左手に林の中へ続く細道があり、聖母マリアの案内板がありました。
細道に入り300m程道なりに行くと、キリシタン信仰の弾圧から逃れるために、

仏教の墓地を利用したキリシタン遺跡見つかり、後に聖母マリア像が建立された

そうです。

道を急ぐため、立ち寄りはしませんでした。

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午後の日差しに映える紅葉を眺めながら、5分ほど石畳の下り坂を行くと、

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道標や謡坂石畳の石柱があって謡坂石畳みは終わり、突き当りの舗装道路を左

に曲がり、とどめき橋を渡ってり広めの車道へと出て、旧斎藤村へ入ります。

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左手に道標があり、街道であることを確認しながら車道を200m下ると、

右手に石段があり、段上に耳の病にご利益があり、平癒したら錐(キリ)を奉納

する耳神社があり、入口に標石と解説パネルが建っていました。

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我が年齢からお参りと思いましたが、かなりの狭い急石段、あたりは暗さがある

ので石段下でお参り。縦型解説パネルには英文でも詳しく書かれてましたね。

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そういえば、昨年の11月に塩尻過ぎ木曽路へ向かう途中に「耳塚」があったのを

思い出しました。形の似た椀がたくさん奉納されてました。

「耳塚」

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時刻はPM3:20、

事前調べでは、向かう御嵩の到着駅まで約4km強。

4時を過ぎていたら懐中電灯明かりでも歩ける歩道のある国道へ、道なりに

約1.2kmを直接下る計画でしたが、何とか明るさが残るうちにたどり着け

そう。

少しゆっくり歩きになって足を進めます。

神社付近の崖が崩れそうな下に馬頭観音像があり、少し進んだところに

御嵩宿まで4100m、細久手7700mの道標があり、道路は右に曲がります。

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曲がった先は道標が立つ分岐となり、街道は右手へ行き、先で再び道標に導か

れて、さらに右手の登坂に入って行きます。

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坂道の上り口左手に、大きな百八十八ケ所順拝納経塚碑が建っていました。

西国、四国、坂東、秩父霊場巡拝記念だそうですが、どなたの記念碑なのかは

読み取れず不明。

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記念碑を過ぎ竹囲いの付近から、道は西洞坂(さいとさか)と呼ばれる土道の

急坂が続きます、

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急坂を3分ほど登ると、右て斜面石積みの祠の中に、三面六臂のの馬頭観音

安置されている石室があり、街道書には明和二年(1765年)の建立の

「寒念仏供養塔」と記されてますが、周りには標識らしきものがなく、

急坂を俯いて登ったら気が付かないかもしれません。

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供養塔を過ぎると、牛の鼻が地面にこすれ、欠けてしまうくらいな急坂なので、

「牛の鼻欠け坂」と呼ばれている、と記された歴史の道中山道の案内があり、

 「つづら折れの道となり、下り終えると京までは比較的平坦地になる」、

とも 記されてました。確かに懐中電灯では不安を覚える坂道です。

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パネルのまえで、御嵩のボランティアガイドさんに出会いました。

来週、11月17日に行われる「中山道ぎふ17宿踏破ウォーキング」の一部、

御嵩から御殿場(物見峠)へ解説案内人としてグループ20人ほどの道案内を務

めるそうで、道筋状況確認をしていたそうです。

道の曲がりなどに書かれた矢印は、そのイベントや、別の企画スタンプラリー

のためだったんです。

(イベントのことは、大湫や細久手への接続交通手だてを調べて知りましたが、

 日が合わず利用しませんでした。尚参加には有料で予約が必要でした)

 急坂も5分ほどで下り終え、道標や石碑を右手に見てY字分岐を右手に進み、

旧西洞村へ入って行きます。

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あら、トンボよ!のカミさんのひっそり声、そ~と脇を通り抜けます。

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坂を下ると、田園風景が広がります。

まっすぐ進み突き当り(車が見える)を右手に曲がって、さらに車道に出た

突き当りを路面に矢印に従って左手へ曲がります。

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越えて来た山方面を振り返り、

先ほどのパネルにありましたが、この先京へはわりと平坦な道のりとなるようです。

この牛の鼻欠け坂辺りを境にして、江戸へと向かう東は山間地域になります、

京へと続く西は比較的平坦地になり、ちょうどこのあたりが中部山岳地帯と平坦地

の境界線になっていようです。 幕府は要害の地として西洞村を天領とした、と

別資料にありました。

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道標を右手に見て5分ほど進むと、右手の小高い丘の上には、摩利支天の石塔や、

六字名号が置かれている、と街道書にあります。

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さらに5分ほど行くと、田園地帯が大きく開け道標の先で二車線道に合流し井尻の

集落へと入ります。

ここにも大井宿から十三峠へ向かうところに建てられていた、飲食関連の

注意看板がありました。

(でも、いずれも注意看板の付近は、準備しようにも何も無し、ちっと手遅れ気味)

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4,50m先の道標や路面の矢印にしたがって右折し、

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右に左にと道標を確認しながら何度か曲がり、10分ほど進むと、

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PM4:06、ようやく国道21号に出てきました。

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国道に出で右折しすぐの民家の裏手に回ると、古代の東山道をたどる途中の御嶽で

病気になり鬼岩温泉で湯治したものの、寛仁3年(1019年)にこの地で没した

と伝わる、平安時代を代表する女流作家和泉式部廟所があり、石碑が建てられ

解説碑があります。

和泉式部の墓と言われるものは他県にもあるそうですが、
廟所に立てられた石碑は

「天文五年(1563年)に建立されたと言われ、式部の歌
「ひとりさえ 渡れば沈む浮橋に あとなる人は しばしとどまる」の歌のほかに
「いずみ式部廟所 寛仁三巳未天」と記されているそうです。

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国道に戻った直ぐ脇に中山道ではなく「右・中街道」と刻まれた大きな道標

があり、大井・御嵩ともあります。

古街道の解説の中に、

「江戸時代に中山道として道が整備される以前は、「東山道」という名称でした。

この大井~御嵩間も、東山道時代は十三峠とは別のルートでした。

中街道と呼ばれているその道は、大井から下街道で土岐郡釜戸へ南下し、

日吉村の宿・本郷へ入り、可児郡上之郷村のうち次月・美佐野・宿・中切をへて

御嵩宿へ達していた・・・これらによって、東山道のこのあたりが平安時代

「木曾街道」と呼ばれ、江戸幕府によって中山道が整備されたときに「中街道」

という名前で残った。

中山道は、慶長七年(1602)大久保長安によって大井~大湫~細久手~

御嶽間の道筋が新たに開削されましたが、これは江戸防衛上の観点から難路を

選択した結果といえます」と記されてました。

ということは、この国道21が平安時代の古街道ということですか!?

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低くなった西日を受けて、右手に大きな八幡神社の社標石柱が立ってます。

500mほど奥に鎮座しれてるそうですので、立ち寄らずに御嵩宿へ進みます。

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左手に丸山稲荷神社の鳥居と小山を見送り5分ほど進むと、国道は井尻交差点で

左手に大きく曲がり可児御嵩バイパスとなって去り、街道は直進して

栢森(かやもり)地区に入り御嵩へむかいます。

街道書には、分岐する付近に日本橋から95番目の「栢森一里塚「」があったが、

位置不明と記され、確かにそれらしき遺構の姿は全くありません。

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分岐の井尻交差点から100mほど先の長岡交差点の道標に、横断して左手へ渡る

表示と路面の矢印があり、信号で左手にわたって右手に進みます。

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渡て7,8分ほど行くと、左手に道標、右御嵩、左細久手があり桝形道なって、

街道は左に分岐し、

11月10日、PM4:30、江戸から49番目、御嵩宿に入ります。

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御嶽宿は江戸から95里27町(376.Km)、美濃国になりますが、

宿は大湫宿細久手宿と同じく尾張藩領です。

  家数66軒 (うち、本陣1、脇本陣1、旅籠28)
  人口600人 (うち 男323人、女277人)
 弘仁6年(815年)に伝教大師によって創建された、願興寺の門前町として

 古くから栄えたといわれます。

中津川宿から続く5宿は山間の宿場ということで、宿場の規模が小さいにもかか

わらず、旅籠数は平均的な軒数(28軒)を有している。

宿長は4町56間(約540メートル)あり、と案内文などに記されています。

 先ほど横断した道の右手に鳥居があり、山側段上に津島神社が祀られてました。

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御嵩の地名は御嵩町に平行して流れている、可児(かに)川の対岸にある
金峰神社からきているそうで、御嶽と呼ばれた吉野の蔵王権現を勧請したため
この地を、御嶽、御嵩と呼ぶようになった、との資料がありました。

右手に弘法堂があったはずですが、なぜか左手を見ていて見過ごしてしっまた。

御嵩宿の石柱から300mほどで右手に曲がり、左手に「正一位秋葉神社上町組」

の石柱が立つ井戸があり、上屋にはしめ縄があり水神が祀られ宿場の防火の目的

もあり「用心井戸」と呼ばれたそうです。

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夕暮れ迫る御嵩宿を進みます。

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街道書には、用心井戸から約300mほど先の御嵩郵便局角に、高札場跡が

あった、と記されてますが、標識やそれしき遺構は何もなく、これが

「高札場跡」と勝手に決めてパチリ。

マンホール蓋、「郵」の字は、専用マンホール?

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と思いましたが、御嵩宿街並み絵図によると、高札場はこちらの家の角の

ようでした。

小さな犬矢来のある家には「御嵩、可児、散策切符」などの暖簾がさがり、

スタンプラリーのポスターが貼られてます。

スタンプラリーは岐阜17宿に、長短三種類のコースが設定され、参加コース内で

のすべてのスタンプを取得で賞品がもらえるそうです。

岐阜17宿内に二つのイベントが企画されてるんですね。

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陽が傾き街並みはそろそろ夕闇が迫ってきてます。

街道書では、元旅籠の吉野家

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立派な家屋ですが非公開、

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先となりは、御嵩町指定有形文化財に指定されている、犬矢来のある豪商「竹屋」

本陣野呂家から分家し、材木や木綿、絹織物などを手広く商っていた商家です。
主屋は大火後の明治10年再建され、約130年を経た建物です。

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現竹屋資料館となって公開、隣に駐車スペース、塀に御嵩街並み絵図があります。

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その隣は代々野呂家本家が勤めた本陣跡で、建坪は181坪、前棟、奥棟合わせて

室数24、畳数172畳あった。

非常の場合は北側の藪を抜けて5町離れた「宝積寺」へ避難できたという。

母屋は明治10年頃建替えられたが、本陣門は往時のものと、資料に記されてます。

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隣は「脇本陣跡」で、現在は町立の図書館と郷土館の複合施設の

中山道みたけ館」で、御嶽宿伏見宿に関する資料が豊富で、宿場の模型を

通してみる御嶽宿の様子、大名食の復元。皇女和宮通行の折の下賜品など紹介して

いるそうです。閉館時間まじかなので、次回に立ち寄ることにして先へ進みます。

町では「みたまち 中山道御嶽宿復興プロジェクト委員会」を立ち上げ活動してる

そうです。

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中山道みたけ館から約50m歩くと、唐沢川の唐沢橋をわたります。

みぎて前方に足場を組んだ大きな建物が見えました。

あっ、あれは国の重要文化財に指定されている「願興寺」では!

なんと本堂修復工事が始まってるようです。

立ち寄りは次回ゆっくりすることにして、先へ進みます。

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左手に無料の観光休憩施設で軽食もとれる「御嶽宿わいわい館」がありますが、

今日は閉館です。

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願興寺前が桝形となって街道は続きますが、正面が名鉄広見線御嵩駅。

11月10日、PM4:55 第32回の旅はここで足止めとしました。

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名鉄広見線、JR太多線、中央線と小一時間乗り継ぎ土岐市のホテルへ

PM6:20戻りました。

空にはきれいな眉月が・・

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  大湫宿から御嵩宿、約18kmの旅、歩けたね~・・乾杯の旨味倍増!!

昨年11月江戸から30番目塩尻宿から木曽路へ入り、木曽川沿いに、木曽谷の

山道、いくつもの峠を越えて東美濃へ。

宿場間には現代の水場(自販機)や食事処も少なく、水、食料携帯は必需品。

そして中山道最後の山中に続く街道を歩き、江戸から49番目御嵩宿へ。

中部山岳地帯の中山道を、塩尻宿から約149km(約38里)、

1年かけて乗り切りれました。

歩いたのね~、歩けたんだ~・・さらに美酒乾~杯い!!

 

またいつの日か西美濃をへて京への旅を・・

 

「第32回、旅の完」

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第32回 大湫宿~御嵩宿 (三)

細久手宿を後に、御嵩宿へと足を進めます。

右手の土手の上には、石窟に祀られた「西坂辻の穴観音」があります。
寛政13年(1801年)に建立された馬頭観音が安置されてます。
長寿クラブの案内板に「九万九千日観音この観音様の縁日に線香をお供えして
お参りすると、九万九千日分の功徳がいただける」と記され、下に都都逸風の唄が
書かれてました。

”九万九千の観音に 人目忍んで祈ります

    赤い襷のおさげ髪  あゝ細久手宿場街”

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すぐ先には小さなの西坂辻の津島神社があります。

そういえば、細久手宿の祭りに津島神社の「巻藁船提灯祭」があり、今年は台風で

中止になったと瑞浪市の資料にありました。

公民館広場の「星あかり夢街道」のリーフレットのもう一面は「巻藁船提灯祭」

でした。祭りはこちらの小さな津島神社の祭りだったのかな?

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 (公民館広場のリーフレット

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(ただ津島神社のお堂は、庚申堂の境内にあったのを、明治8年お堂を日吉愛宕

 神社に移し祭を再興した、と記した資料があるので別の津島神社かもしれません)

神社を過ぎて、左手に田畑の広がる県65・恵那・御嵩線を行くと大きな道標が

建ち、道はY字路となり県道352が左手に分岐してゆきます。

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右手は小さい棚田になっているゆるく坂を上ると、小沢平集落が見えてきて、

右手に「中山道くじ場跡」石碑が建ってます。

街道書によると、

駕籠かきたちが、大湫や御嵩への荷の順番を決めるためたむろしていた場所で、

次第に駕籠かきだけでなく宿場の人足たちが、休んだり博打を打ったりした所に

なったという場所、だそうです。

 

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2,3分ほど先、右手斜面に馬頭観音、さらに5分ほどの竹藪下にも馬頭観音

祀られていました。

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 敵中横断三百里、か・・たしか中学くらいのころに映画を観た記憶がかすかに

あるな~・・

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道は下りとなり二車線の道路に合流し、平岩の集落へ入ります。

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すぐ先で平岩橋を渡ると県道366との「平岩辻」と呼ばれる交差点で、

交差点の右手に道標やら、交通安全やらの碑が林立しています。

西は中山道のつはし・みたけ道。南は景勝地で温泉宿もある、まつのこ・おに岩道。

高い標柱には県道366を北へ1kmほどにある古刹、土岐家菩提寺の開元寺への

道標でした。

(まつのこ、はダム湖の松野湖だと思われるので、道標は割と新しいようす)

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中山道は交差点を直進し少し急な坂を上ってゆきます。

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5分ほど登ると左手にある中山道道標と、中山道影の碑から山の中に入って行きます。

右手にある石碑には「左仲仙道西の坂」と読めました。

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左手に立つ「瑞浪市内旧中仙道の影」碑

之より先千三百米一里塚迠瑞浪市日吉町平岩地内旧幕当時に開いた仲山道は昔其侭の姿を今尚残して居り此間に次の様な地趾が残って居る一里塚より先は可児町に通じて居る

一.道が東西南北に向て居る珍しい所

一.石室の中に観音像三体祭る

一.旧鎌倉街道へ行く分岐点日吉辻
一.切られヶ洞
一.一里塚京へ四十一里、江戸へ九十三里
    路上及び一里塚附近よりの眺め
一、東に笠置山恵那山駒ケ岳
一、西に、伊吹山鈴鹿連峰
一、北に、木曽の御嶽山加賀の白山
一、南に、遠く濃尾平野尾張富士又快晴の日には尾張熱田の海を見る事ができる

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これより先、楽しみな街道歩きになるね。

上ってすぐの右手に、石柱が二基ありましたが、判読できませんでした。

一基には「東 施主平岩小沢〇〇・・」 もう一基は「〇〇すぐ先を・・」

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西の坂を上りきる少し手前、右手石積みの台地に三つ石窟が並び、

「秋葉坂の三尊石窟」と題した説明版が立っている。

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3つある石積みの石窟には、右に明和5年(1768年)建立の三面六臂(さんめんろっぴ、顔が3つで腕が6本)の馬頭観音立像、真ん中に明和7年建立の

一面六臂の千手観音座像、そして左に風化が進んだ石仏がそれぞれ安置されている。

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解説板には石窟の後ろに秋葉様が祀られてるので、秋葉坂と呼ばれる、

とありますが、後ろに祀られてるのは写真を拡大してみた限りでは、

馬頭観音像に見えます。秋葉様は見逃してるのかな?

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すぐその先には「鴨之巣道の馬頭文字碑」標柱があり、林の中に碑がありました。

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ほぼ平坦な道が10分ほど続くと、道標などの立つ三叉路でます。

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鴨之巣辻の道祖神標柱があり、左手奥に道祖神石碑があり、間の標石には

「右旧鎌倉街道迄約一里余」と刻まれ、ここが「鴨之巣辻」になるそうです。

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ついに出た~! はい、しっかり二人とも熊鈴鳴らして歩いてますよ。

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街道書を見ると、右側は花の木ゴルフクラブの敷地になったようす。

街道は下りとなり5分ほど行くと右手に「切られが洞」なる石柱が建ってます。

何も説明物はありませんが、街道書によれば「昔、牛を追ってきた村人が盗賊に

切られた処」なのだそうです。

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前に通ってきたところにも山賊に襲われるうんぬん、がありましたね。

熊は鳴り物で避けられますが、盗賊は恐ろしい!

砂利道ですが落ち葉をカサカサ踏み鳴らしながら、道標を見送りしばらく行くと、

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両塚をしっかり残している、江戸から93番目の「鴨之巣一里塚」です。

解説版には

「江戸へ93里、京へ41里という道標の中山道鴨ノ巣一里塚です。一里塚は道の

 両側に一対づつ築かれましたが、ここの場合地形上北側の塚が16m東方に

 ずらされているのが特徴です。ここからは鈴鹿、伊吹や北アルプスの山々が

 一望できました」と記されてます。

 地形の関係によるらしく、16mほどずれて築かれているそうです。

北塚に対して南塚は京都寄りに築かれている。

先ほど西の坂(秋葉坂)の上り口の「瑞浪市内旧中仙道の影」碑にも

眺めの記述がありましたが残念ながら展望はなかったね。

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f:id:hansui:20181116200722j:plain 一里塚から下りになり、すぐ先に青色の「歴史の道道標」と東下りの旅人への

「ようこそ瑞浪市へ」の看板があり、瑞浪市から御嵩町へと入ります。

私たちには、「さよなら瑞浪」です。

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落ち葉を踏みしめながら進むと、歴史の道道標(青)と東海自然道道標が建ち、

左手に、鬼岩、松原湖方面への分岐があり、すぐ先に津橋1.2km30分の道標が

建ってます。

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下る坂はくじあげ坂と呼ばれるそうで、徐々に傾斜がきつくなってゆき、あまり

手入れにされていない竹林の急坂を下ってゆきます。

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30分ほど下ると、前方の空が広がり、津橋の集落が見えてきます。

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石垣に囲まれた石窟内に、馬頭観音があったようですが見過ごしてしまい、

さらに急坂を下ると、江戸時代には酒造業を営んでいたという山内嘉助屋敷跡で、

雑草や木に覆われているが、屋敷の石垣が今も残っている。

中山道を通行する諸大名の休憩所として、旅する人々には一夜の宿として使われた

ようです。

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坂を下り切ると分岐があり中山道道標が左を指して、製材所に入るような

砂利道を示し、ちょと迷いましたが足を進めて案内板に従って、

製材所の前を通らせて

もらいます。

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砂利道は製材所の前だけですぐに舗装道に替わり、津橋の集落内を左手に下って

ゆきます。

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道はかってはつばせ村と呼ばれる間の宿であったそうで、右手に天満宮常夜燈が建ち

台石には「當村氏子中」と刻まれてます。

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天満宮常夜燈から、コスモス咲く道を少し進むと、十字路となり、道に張り付けた

道案内と書かれt白い矢印に従って横断して、家の間の細い道へと進みます。

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さらに約60m進むと、右側手前に中山道道標の建つ県道65号に突き当たり、

左折しました。

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 県道65号に合流し、津橋を渡る手前から左手を見ると、立ち寄りしませんが

お堂は「津橋薬師堂」で、街道書によれば天井絵や堂の右手には宝篋印塔・

五輪塔・名号碑など11基が 並ぶほか、何代目かの山内嘉助が 勧進したものと

伝えられる宝暦3年(1753)と刻まれた石灯籠があるそうです。

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 津橋から4、5分ほど行く集落のはずれは五差路になり、県道65号から斜め

右に分岐して細い上り坂が現れ中山道石柱と「中山道 至御殿場」の道標が

坂の入り口に立ってます。

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お城のような巨岩の石積脇を通り、急勾配の坂の右手は山肌がえぐれて、

庇状になり、今にも山が崩れそう!足早に通過します。

坂道は諸の木坂と呼ばれるそうです。

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すぐ先右手に六字名号塔や二十三夜塔、四国百番供養塔が建ち、石段が木立の中へ

続いてゆき、奥には観音堂が祀られてるそうですが、参道入口にには、鳥獣駆除

の電線が張られていて入れませんでした。

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参道入口の約50mほど先の右手に立つ判読し難い碑を見送り、細めの道を進みます。

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しばらく山間の里道を上がって、観音堂入口から10分ほど登ると、

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急坂は竹林の中を進むようになり抜けると、右手石窟内に街道書には記載のない

馬頭観音が祀られてました。そのそばには・・

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緊急の時、場所を伝えるための看板ですね。御嵩に入ってからこの先でも

何か所かで見かけます。ありがたいですね。

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さらに7,8分、諸の木坂の急勾配を上ると廃業した工場のような建物の左手の

山道を行くようになります。工場の右手は荒れた草地が広がってますが

何だったのだろう?

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東海自然道標御嵩・0・7kmを見送り、琵琶峠より厳い諸の木坂を息を切らせて

上がってゆくと、峠の頂が近づいたようです。

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PM2:20、

建物やパネルなどの建つ、街道の両側に5軒の茶屋があったという

物見峠(諸の木峠)につきました。

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峠には「馬の水飲み場」の案内板と、それらしい水たまりがあり、中山道解説板

には和宮降嫁時に休憩用の御殿が作られたことから、「御殿場」と呼ばれている

由が記され御殿場の石柱も建ってます。

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案内板隣には真新しいトイレも設置されてました。

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石柱脇の階段を20段ほど上ると明るい広場で、そこがが御殿場跡で、四阿風の

休憩所が設けられ、東に恵那山、北に御嶽山を眺望できる場所と案内板には
記載されている。
江戸へ下る皇女和宮一行はここで休憩し、大湫宿で宿泊したという。

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霞がかかり望遠はありませんが、紅葉を眺めながらひと時の休憩。

 

旅は(四)へ続きます。

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第32回 大湫宿~御嵩宿 (二)

弁財天の池で暫し小魚を探したりしながら足休めをし、丘陵上の県道65を

進みます。

街道書に、この先に「ハナノキ自生地」がある、と記されています。

9月の中津川~大井(恵那)の旅路に、マンホール蓋にハナノキを見つけ

中津川山中に国指定天然記念物になっている「坂本ハナノキ自生地」というのが

あるのを知りました。

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その時に「ハナノキは楓の一種」と教えていただきましたが、今回の街道筋に

自生地が有ることを街道書に見つけ、楽しみにしてました。

細久手、2.2kmの中山道道標を見送り、

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10分ほど進むと左手道端に、瑞浪市天然記念物「南垣外ハナノキ自生地」と

刻まれた石柱が立ってます。

おっ、ここだ、どの樹かな??

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瑞浪市の資料によれば、
「ハナノキはカエデ科の落葉高木で4月頃に赤い花を咲かせる日本の固有種で
国指定史跡名勝天然記念物で,主として湿地などに自生する落葉樹です。
春先(4月の初め頃)に紅色を咲かせることから「花の木」の意味でこの名が付けられ
ました。また、秋の紅葉が美しく、一段と鮮やかなことからハナカエデとも呼ばれ
ています。

長野県・岐阜県・愛知県の県境付近に分布し、希少種のひとつとして
「絶滅危惧2類」に指定されています。
瑞浪市では釜戸町、日吉町、稲津町、陶町で自生が確認されており、釜戸町
神徳地区の山林、標高約450m付近に大きな自生地が見られます。
現在約1600平方メートルの区域が国の天然記念物に指定されており、区域内には
高さ約15~20mの7本のハナノキが自生し、その保護が図られています」

とあります。

愛知の県の木でもあるんですね。

秋の紅葉が美しい、とありますが・・・・う~ん、紅葉にはまだ早いのか!!

あたりを見回しても紅葉してる樹が見当たらないね~・・・

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しばらく眺めてましたが、特定はできませんでした。

瑞浪市の資料では、こんな紅葉が見られ、春には赤い花が咲くそうです)

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自生地を過ぎて、道は下りとなり、左手に一本の根から二本の松が生え、

夫婦円満・子授けなどご利益の珍木で中山道の名物だったという「女男松の跡」

の標柱。下の溝状に「陽松女陰神」の石碑がありました。

松は残念ながら昭和初年に枯れてしまった由。

石碑が置かれていた道下が旧街道の風情があった・・

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その先はかるい上りとなり、ゆっくりと進んでゆくと

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県道の両側に、高さ4メートル、直径12メートルの両塚がしっかりと残された

江戸から92番目の「奥之田一里塚が」ありました。

瑞浪の一里塚」とも呼ばれるそうです。

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三基の電波塔の立つ秋の山道、

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7,8分行をくと右手に「三国見晴台と馬頭観音像」と書かれた標柱が立って

いて、元治元年(1864年)建立の馬頭観音が祀られています。

後ろ斜面の高台は「切山辻の見晴らし台」の跡だそうで、今は木々が覆い隠して

しまってますが、信濃、美濃、三河かな?尾張も近江もあるが?三国を

見渡せた景勝地だったようです。

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このあたりから細久手宿地域になってくるのか、街道沿いの旧跡には
「細久手長寿クラブ」の手による案内板が設置されていていました。
「~The Goddes of Mercy build in 1864 元治元甲子6月建立 小田井宰兵衛」と
英語交じりで記されてまね。(観音像の下の方に名が読み取れます)

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道は左にカーブし、細久手バス停脇に大きな中山道の案内板があり、

細久手宿はすぐ先」と記されています。

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その先左折して坂道を下ると、十字路手前右手にすっかりペンキがはがれてし

まってほとんど読み取れない「細久手長寿クラブ」作成の案内板と山の風景があり

案内板の「霊」の文字と風景画の山から、街道書に江戸時代の絶景地で茶屋があっ

たと記されている「霊峰御嶽拝観地」茶屋ヶ根と推測。

この付近から遠く、御嶽山が見えるんだそうですが、・・・

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先は十字路に突き当たり、右から道路が合流して細久手宿へ向かいます。

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広重画の細久手宿は、ここの東の高い所から宿場入口を望んで描かれたようです。

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細久手宿に入ると左側に「日吉第二小学校跡」の大きな石碑がある。
子供たちは瑞浪市の方へ山を下っての通学かな。
隣の赤い社は「天王様」で、長寿クラブ案内板には、京都八坂神社の牛頭天王信仰

に始まるもので、細久手宿では7月16日が御霊会(お祭り)であった、

と記されてます。

今は開催されてないのかな?

瑞浪市の資料では、今年は台風で中止になったが、細久手津島神社灯籠祭が

開催されるようです。

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細久手には桝形が設けられて無く、緩い弓形の坂道になってます。

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坂道を5.6分行くと右手に道標や「長寿クラブ」の手による細久手宿の案内板が

建ち、おっ!「処刑場」があったらしい。

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道標の左手は庚申堂への参道で、脇に「細久手高札場跡」を示す標柱が建ち、

細久手宿の江戸口(東口)になるようです。

AM11:20、江戸から48番目、細久手宿到着です。
右手の街道より一段と高い場所に細久手の庚申堂があり、もともと小堂宇だった

ものが、寛政10年(1798年)の宿中大火のあと、宿の鬼門除けとして

享和2年(1802年)に再建されたもので、境内には江戸時代の石仏石塔が並んでます。
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いや~、懐かしいタバコ売り場ですね。昔、町のタバコ屋さんにありましたね。

右側の家にレトロのタバコ売り場と、現代のタバコ自販機が並んでました。

「TABACCO」の文字が彫り残された飾り窓、「たばこ」のホーロー看板。

細久手で1軒だけの商店かな。

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タバコ売り場の軒下に、これぞ「生え抜き」

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同じ種類だよね?? と見たら花札がありました。

左はモミジバゼラニュウム、右はモミジバゼラニュウム「サクラサクラ」

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隣の空き地に顔出し記念写真パネルがあり、そばにある「長寿クラブ」の案内板に

よると、儒学者、佐藤梅波が1830年に開塾した「細久手塾」跡地だそうです。

f:id:hansui:20181114211438j:plain向かい、左手の広場は細久手公民館で宿の中心街になりますね。

「星あかり夢街道」のリーフレットに皇女和宮の江戸降嫁の行列と星空が描かれて

ます。

もうすぐお昼です。少し早いですが家から持参し、朝ホテルでセットしたパンで、

ランチタイムにし足休め。

(後でわかりましたが、公民館の場所は、郷蔵二棟があったところだったようです)

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瑞浪市細久手宿解説文によれば、

細久手宿は標高420m、江戸から48番目の宿で、江戸へ92里、京都へ

 42里の位置にあり、東隣りの大湫宿と西隣りの御嶽宿の両宿間は4里半

 (約18km)も離れており、両宿で人馬が難渋したため、元々は7軒屋と

 呼ばれる小さな仮宿であったものを、慶長15年(1610年)に尾張藩

 よって新しい宿場として整備されたという。

 家々の地割は、5間から10間と統一されていませんが、家々の境は石積みで

 区画整地されており、いまも新宿設置のころの施工の様子がうかがわれます。

 宿内の町並みは東高西低で、東の茶屋ヶ根から西の日吉・愛宕神社入口迄が

 上町・中町・下町に三分され、宿長は3町45間(410m)ありました。
 枡形はつくられず弓なりに緩くカーブし、上町と下町に弓形が施され、

 高札場は上町入り口の庚申堂前に、本陣・問屋場は中町に、脇本陣は下町に

 あり、往還に沿って東西に細長い町並みでした。

 家数 65軒 (うち、本陣1、脇本陣1、旅籠24)人口 256人 

 中山道の宿場で2番目に少なく、規模の小さな宿場でした。
 3回にわたって大火に見舞われ、宿場の建物を焼失してしいましたが、

  大湫宿の場合と同様主要交通路や鉄道が南の土岐川沿いに移ったため、
 主要地方道65号恵那御嵩線のみとなり、宿は過疎化の中でわずかに往時の姿を
 とどめています。」とあります。 

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12:00、旅人にも開放してる公民館脇のトイレをお借りし(志し寄付制)

街道へ戻ります。

公民館の向かい側に、卯建(うだつ)を上げた旅籠「大黒屋」、があります。

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細久手宿大火のため安政6年(1859年)に再建され、昔の古い建物のままで今も

大井御嵩間で唯一の旅館として営業し、現代の街道旅人に重宝されています。

市資料によれば、

安政の大火の翌年に再建された建物で、切妻屋根の両端に本卯建を上げ、2階が

1階に比べてかなり低い構造となって、江戸時代の面影を色濃く伝えています。

尾張藩が手狭になった宿の本陣、脇本陣での宿泊を嫌い、問屋役酒井吉右衛門宅を

尾州家本陣」として定めたのが、『尾州家定本陣大黒屋』のはじまり」

 と記されてます。

 宿場・観光案内所も兼ねており、近年は海外のガイド本にも紹介されてる

 そうで、美濃路木曽路を歩き旅をする海外ハイカーにも人気の宿になって

 いるそうです。 

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 先の琵琶峠で出会った外国のウォーカーも、一夜を過ごしたんだね。

私たちは、残念ながら日程が合わずに写真収めるだけにしました。

代々小栗八郎左衛門が務めた本陣は、大黒屋から少し先の右側にその跡を示す

石柱だけが建っていて、例の案内板もありました。

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持参街道書では本陣跡の向かいのバス停裏手の空地が、代々小栗八左衛門が勤めた

細久手宿脇本陣跡と記されてますが、標識も遺構もなく、たぶんこの空き地?

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 おや、左手の家の軒下に下がってるのは?

デジカメをアップで覗くと、なにやら動物の骨のようです。

「大般若祈祷・・」の札が下がってるので、行者の祈祷所のようでした。

謎のままに通り過ぎ・・

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右手向かい側の大きなお屋敷裏に和宮使用の井戸があるようです。

和宮細久手宿で昼食を摂っていますが、その際に使った井戸と言われています。

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お屋敷の塀に文化10年(1813年)頃の宿場内の家並みを表した細久手宿絵図

が張ってありました。

緑星印が当家輪島屋与衛門(本田屋)でパネルに黄矢印がつけてありました。

右端下の赤枠が郷蔵で、休息をした公民館、向いが「尾州家本陣 問屋場 

大黒屋吉右エ門」の表示がありました。

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 宿場の道は下り坂となり、先で左手へ下ってゆきます。

絵図のところで追いついて来た日本人の旅人としては、今日、3人目の行き交った

方がとっとと去って行きました。

 

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右手石積土手の上に、長寿クラブのほぼ擦れてしまった案内板。

街道書に記されてる、南蔵院跡の案内のようです。

不動明王を祀り、加持祈祷を行った」とあります。

ということは、先ほどの骨を飾った家(祈祷所)と関係ありそうですね。

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その先に分岐があり、道標の立つ山側へ行く右手奥に、細久手宿産土神

日吉・愛宕神社がありました。

天正年間(1573~92年)に細久手村を開いた国枝重円が文禄四年(1595年)に

創建した神社で、宿の守護神して多くの人々に崇敬を受け、旅人も道中の安全を

祈願したと、案内書にあります。

鳥居の右手の灯篭は、嘉永年間(1848~54)の山灯篭だそうです。

ここが細久手宿の西の出入り口(京方)に当たり、

PM12:10、

次の宿場は約12km先、江戸から49番目の御嵩宿。

空は青空、さあ、がんばんべ~・・・

(神社には立ち寄らづに足を進めました)

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街道書には、道標の右手斜面に「大塚由来」と記してあり、「皇女和宮の用便を

埋葬し「おくそ塚」として敬拝した等を地名由来としている」とだけ記され

てます。

他の案内書では、長寿クラブの案内板も立ってる由ですが、見当たりません。

それにしても変な地名由来ですね。

 (写真を整理していたら、この場所に建てられていた、顔出し写真パネルの

 後ろに倒れてるのが、長寿クラブの案内板だったようです。

調べた細久手資料に、

「宿並の少し先に大塚という地名があります。昔、高貴な方が旅の途中で亡くなりここに埋葬されたことから王塚と呼ばれ、後に、大塚になりました。和宮降嫁の際細久手宿で休憩し、用便を重箱に入れてここに埋めたことで「おくそ塚」とも呼ばれています」

とありました。

やっぱり、変な塚史跡ではありますね。

不動明王パネルは右手道を挟んだ南蔵院のところに有ってしかるべし、とお思いましたが、こっちの方が傾斜が緩やかだから?案内板が倒してあるのは??

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細久手宿を抜けると、中山道は広い舗装道路の下り坂道になります。

さよなら、細久手宿。今一度振り返り。

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続きます。