歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第17回)  望月宿~長久保宿 中編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*

10月17日(火)長雨の隙間、次第に晴れる予報を頼りに、

 簡易雨コート着て、AM8:30、第17回の旅立ち。

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ここから坂を下り、しばらく歩くと芦田川が流れていて、その芦田川を橋で渡ると長野県道40号諏訪白樺湖小諸線に出るのですが、その交差点を渡ったあたりが芦田宿の入り口になります。

続きです。

 

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交差点は中居の交差点。

宿の入り口には「中山道芦田宿」と書かれた案内標識と、常夜灯が立っています。

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中居の交差点を渡り、芦田宿へと入って行きます。

芦田宿は、日本橋から26番目、46里8町(181.5Km)、
       京へ89里26町 (352.4Km)
天保14年(1843年)の中山道宿村大概帳によれば、

人口326名、総家数80軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋6軒。

宿長は約700メートルあったようです。

現在の長野県北佐久郡立科町芦田で、すぐ手前の望月宿よりもさらに規模の小さな

宿場町でしたが、難所であった笠取峠の東の入り口にあることから、

ここで休憩をとる旅人が多かったと言われています。

皇女和宮も降嫁の際にこの芦田宿の本陣で休憩をとっています。

芦田宿は、芦田村の浪人・岩間忠助と茂田井村の土屋右京左衛門重郷が、

神官の今井曽五郎とともに、慶長2年(1597年)に蓼科神社に納めた文書(願文)により、

新駅の設立を願い出たことが伺え,江戸幕府による街道整備事業(慶長6年)

よりも早い時期に設置され,北佐久周辺では最も古いといわれている宿場です。

 (広重画 望月宿  笠取峠ですが、松ではなく杉では、と言われてます)

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緩い坂を上り古町バス停の側に、道祖神が有りました。

バス停をお借りして、お茶タイム。

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道は緩い下り坂となり、芦田宿の中心へと入って行きます。

途中の民家に芦田宿の行灯。垣根下には道祖神もたってます。

f:id:hansui:20171019182623j:plain「芦田宿」と書かれたパネルが掲げられた街灯の並ぶ道筋は、

芦田宿に入ったことを示している。

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次の立科町役場入口交差点を過ぎたところで、道は東方桝形となり左に曲がります。

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まがって右手が「ふるさと交流館 芦田宿」です。

立ち寄りしませんでしたが、この施設では中山道の歴史や町の偉人、近隣の豊かな自然など、芦田の町の文化・自然・歴史をパネルや映像、ジオラマ等を用いて様々な角度から紹介しています。

また、平成29年4月に移住サポートセンターも併設され、地域の方々や旅人、

移住者等多くの方々の交流が生まれる場所として利用されてるそうです。

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隣りが町区コミュニティセンター

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あら、「町」?町名が「町」なら、ここは立科町・町町??て首を傾げたカミさん、

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隣りの立派な門構えのお屋敷が 芦田宿の「土屋家本陣跡」です。

当時の本陣は問屋も兼ねていたそうです。

本陣は宿場開設に尽力を尽くした土屋右京左衛門家が代々勤め、

往時は客殿、主屋、問屋場、荷蔵、酒造蔵、長屋など多くの建物があったそうで、

幕末の文久元年(1861年)には、皇女和宮が昼食を摂るために立ち寄っています。 

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現在も寛政12年(1800年)に改築された、唐破風(からはふ)の玄関、
京風の造りの本陣御殿が残っており、江戸末期の本陣建物の姿、間取りを伝えている。

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土屋家資料によると、

「この芦田宿本陣の初代当主となった土屋右京左衛門重郷は、あの甲斐武田家の

二十四将の1人、土屋昌続の長男で武田信玄の死後、信玄の跡を継いだ

武田勝頼が天目山の戦いで自害し、甲斐武田氏が滅亡したため、

芦田城主・依田信蕃を頼って落ちのび住まいし、その後は芦田宿の開設に尽力し、

芦田宿で本陣を勤める土屋家の初代当主となりました。」

「かつては「ふるさと交流館 芦田宿」までをも含む広大な
敷地があり、このあたりは“町(まち)”と呼ばれる集落だったそうです。」

これで、先ほどの「町」の謎が解けました。

土屋家には歴史を物語る数々の貴重な資料、道具などが残されているそうです。

本陣の見学は事前の予約が必要だそうで、個人では無理かもしれませんね。

 

本陣の対面には、芦田宿開設の中心人物のひとり、岩間忠助の分家である

山浦家の脇本陣跡でしたが、昭和52年(1977年)の火災で主家が焼失して

しまい、今は駐車場の隅に脇本陣跡を示す小さな「芦田宿脇本陣」と記された

標柱が立っているだけです。f:id:hansui:20171019205345j:plainそのすぐ先、芦田中央交差点の左向こう側に7枚の街道絵図を掲示してる建物角に、

脇本陣跡」と刻まれた案内標柱が立って、その右隣の空き地までが、

これも問屋を勤め、庄屋を兼ねた山浦家が務めていた もう1軒の「脇本陣跡」です。

江戸初期の建築様式が残っていた建物は、老朽化により取り壊され、

跡地の奥に土蔵が残っているのみです。

この山浦家にも多くの古文書が所蔵されているのだそうです。

 

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道の向かいには、古い造りの木造2階建ての建物があり、

味噌・醤油の蔵元、酢屋茂(すやも)がある。

昔は酢を醸造・販売していたが、明治の半ば頃から味噌・醤油の醸造・販売を

はじめたそうだ。。

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酢屋茂の斜め向かいに、現在も金丸土屋旅館として営業している、

旧旅籠の「津ちや」がある。

文政元年(1804)頃よりの旅籠屋で、軒下の庵看板には東側に“土屋”と書かれているが

西側は“津ちや”と書かれている。

江戸に向かう上方の旅人には“津ちや”のほうが馴染むのでしょうか。

建物は往時のもので、「津ちや」の、出梁(だしばり)造り、腕木(うでぎ)に施された

雲形の彫刻、煙出しを持つ大屋根など、奥行きが深い町屋家屋で、間口も広く

客室を襖で仕切る、昔ながらの旅籠の間取りを残しているそうです。

 

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さらに街並みを進み、

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芦田の信号を過ぎて、左手に“枝垂桜”や“紫雲の松”で知られる「正明寺」がある。

天和8年(1622年)開山、楠木一本彫の阿弥陀如来立像を本尊とする

真言宗智山派「正明寺」。
庫裡などの建物が無く、今は無住職のお寺のようですが、地元の方々が境内を
綺麗に整備されていているようです。

本堂の大屋根、素晴らしいですね。

トタンを除いたら、素晴らしい絵になりそう!

(かやぶき屋根をトタンで覆ってるようです。)

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 正明寺の桜は左右二本あり、樹齢が300年くらいかと思われる見事な枝垂れ桜です。

春の季節は素晴らしい光景が出現するんでしょうね。

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よく手入れされ、美しい枝ぶりの紫雲の松。

由緒などは説明板もなく、判りません。

根元を見ると根が繋がっています、根元で枝分かれ?

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正明寺境内には古墳もあったようですが、確認できませんでしたね。

街道へ戻る参道の垣根に蔓を巻き付け、そばの電柱にまで蔓を伸ばして、

紫いろの小さな花が咲いてます。葛?アケビ?ムベ?

 

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道は左手に曲がって行きます。

こらのあたりが芦田宿の京方の枡形だったようで、芦田宿西の出入口です。

付近には双体道祖神が旅人の安全を見守っていたようです。

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先は結構急な上り坂で、笠取峠へ向かって高度を上げてゆきます。

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上り切ると「芦田宿入口」碑があって国道に突き当たるところが石打場公園で、

「芦田宿」の案内標識や道路標柱など立っています。

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 「石打」は「石内」が本字で、「石内」とは「境界」や「災害除け」の意味が有って、       旧芦田村と横鳥村の境にあたる場所だったそうです 。

国道を横切り、「笠取峠松並木」の標識と「新しい常夜灯」との間の道へ向かいます。

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(そういえば、ここは春に通ったわね、とカミさんが思い出してました。

 そうです、花桃の季節に武石へ来た帰りに峠越えて帰ってたんです)

街道はすぐに旧道は登り坂の道となり、「笠取峠のマツ並木」と書かれた石柱が立つ

石畳の道となります。

ここから笠取峠を越えとなってゆきます。

松並木の入り口付近には、大日如来石仏や菅笠を持った旅装姿の「母娘の道祖神

も立っています。

ここからが、歩くのを楽しみにしていた、長野県天然記念物に指定された

「笠取峠の松並木」です。

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立科町公報によれば、

「長野県指定天然記念物。

笠取峠のマツ並木は、近世五街道の一つ中山道芦田宿の西方1キロメートル地点から

笠取峠にかけて約2キロメートルにわたっている。

言い伝えでは慶長七年頃、公儀より赤松苗753本を小諸藩に下付され、

近隣の村むらへ人足が割り当てられ小苗を植え付けたとされ、幕末まで

手入れ・補植等管理されていた。

現在総本数68本の松は、いずれも樹齢が150~300年以上経たもので、

その景観は往時の中山道をしのばせてくれるみごとなものである。
立科町では平成五年に、「松並木公園」として整備し松の保護に努めています。」

 笠取峠は標高は約900mで、長野県北佐久郡立科町(芦田宿)と長野県小県郡

長和町長久保宿)との境にある、旧中山道(及び国道142号線)の峠です。
笠取峠の名称由来には、

 

「余りにも勾配が急な坂だったことから、旅人が夏の暑い時など大量の汗をかき、

頂上付近になるとついつい頭に被っていた笠を取って汗を拭いたから」とか、

「峠の辺りは強い風が吹いて、旅人の笠を吹き飛ばすことがあったことから」

とかのイソップ物語風から

「旅人が峠通った途中、頭の笠を取って浅間山の絶景を眺めたから」とか

いろいろで、みんなそれらしいから面白い。
現在は国道142号線を迂回させ、この貴重な松並木を保護しています。
途中に道祖神や歌碑が幾つも並んでいます。

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途中に国道142号(現中山道)と交わると手前に、東屋、トイレなど設置された

松並木公園が有ります。

昔、ここにはちょっとした出茶屋が置かれていたそうです。

お昼も近いので、東屋で昼食を兼ねて一休み。

お昼は相変わらずの機能食品です。

この休憩所には「和宮東下の行列」や「笠取峠の茶屋風景」などのレリーフ

さらには「松並木説明板」や「歌碑」などがあります。

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しばしの休憩、足も休まったところで、峠へ向けて出発です。

すぐ先で国道142号線のバイパスに当たり、街道は横断して先へと延びてゆきます。

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の国道に当たった中山道左右には、文化3年(1809年)小諸藩が建た、

小県領(上田藩)と佐久領(小諸藩)との境界を示す「従是東小諸領」の領界碑や

道祖神、常夜灯が復元されてます。

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 国道142号線の笠取バイパスは、和田峠を越えて長野県の軽井沢町下諏訪町を結ぶ

主要道路で、北関東と東海・関西を結ぶ最短経路として大型トラックの通行が多い

国道です。

中山道はここを横断しますが、信号機はおろか横断歩道すらありません!

今日は平日なので、ビュンビュン大型車両が行き交います。

(右を見て、左を見て右を見て、それっ、渡れ~・・ああ、渡れたね)

 

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再び松並木が続きます。

この松並木は江戸初期に753本植えられ、調査では大正13年(1924年)に

229本、昭和46年(1971年)には129本が確認され、

最近平成22年(2010年)の調査では70本の古木が現存しているのを確認してます。激減してしまった松並木ですが、街道にはやっぱり松並木、いいですね~。 

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300mほど進むと国道142と合流し松並木は消滅してしまい、大型車などが

轟音をあげて行き交う国道の歩道を峠頂上へと上って行きます。

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 国道142号線の登り坂の勾配は、緩るそうで結構きつく足が進みません。

いつものように周りの風景を楽しみながら、ゆっくりゆっくり進みます。

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「あら、排水の管が上向きなのに水が流れ出てうわよ」てカミさんが指さす方を

見ると、確かに排水管は上向き方向、でも水は流れ出てる。

目の錯覚じゃないね~

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左奥の方に民家が木々に隠れて在ります。

道路沿いのお墓や田んぼは、あの家のでしょうか?

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なんて亀の子足でも進んでゆくと、勾配がゆる峠に近い傾斜地に、江戸のから47番目の一里塚「笠取峠一里塚」の北塚のみが残っています。

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登り坂で続いていた車の登板車線の終わり表示が見え、峠頂上が近いことがわかり、

先で長和町の標識が見え、笠取峠の頂上へ来たようです。

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北佐久郡立科町から小県郡長和町に入りました。

 

後編へ続きます、

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第17回)  望月宿~長久保宿 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*

 

秋の長雨とはよく言ったもんです。

3日ほど前から降り続く秋雨。

何気なく天気予報を見たら、あれ、長野の佐久、立科地方は明日は晴れるぞ。

すかさずカミさんが、「明日は仕事が休み、行ける時にいきましょうか」

で、急きょ17日(火)中山道夫婦歩き旅の第17回目へ旅立ちへ。

旅は日帰り継ぎ足し旅なので、街道への行き帰りまではマイカー利用。

駐車場、電車、バスの時刻を確認し、

今回の旅は16回足止めの、望月宿を出発地にし

望月宿~芦田宿(現立科町)  5.6km

芦田宿~長久保宿        5.7km

   計          11.3km

場合によっては芦田宿で足止めし、寄り道するかも。

雨の高速道を走り、AM7:10、前回も駐車した長野県・佐久平駅前駐車場着。

そろそろ雨が揚がる予報だったが、まだまだ雨脚が強い。

ここから千曲バスを利用して、足止めした望月宿へ向かい、望月資料館前から

旅立ち予定。
 バスはAM7:51発、次がAM9:01発。

しばらく様子をみるか、望月へ着くころには上がっていることを期待して、

予定通りバスに乗って向かうか・・・・

「雨は上がるの予報なんだから、最初は傘さしでもいいんじゃない」

とのカミさんの言葉で予定通りのバスへ。

バスが出る頃には雨脚はかなり弱まり、望月へ着いた頃には嬉しいことに

止んでます。

念のため傘を持参してましたが出番はなさそうでした。

 

 

【望月宿】 日本橋から25番目45里(176.7Km)、京へ90里34町 (357.2Km)
 天保14年(1843)で人口360名、総家数82軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋9軒。

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簡易雨コート着て、AM8:30、第17回の旅立ち。

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前回少し歩いた街並みを抜けると、望月宿のはずれに建つ大伴神社。

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階段を登ると境内には江戸後期の道祖神が沢山集められている。 

延喜式内社 景行天皇四十年(古墳時代)の鎮座と伝えられ、現在の本殿は

延宝5年(1677年)に建てられたものですが、今は覆屋に収められて見ることが

できません。

この辺りを支配した望月氏の庇護を受けた神社である。

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 街道書によれば、

祭神である天忍日命(あめのおしひのみこと)は、望月の御牧を管理していた大伴氏の

祖神で、大伴武日命(おおともたけひのみこと)とも呼ばれています。

祭神が馬に乗ってこの地へ来られ鎮座したとされており、乗って来た馬を種馬として

駒の改良繁殖をはかリ、この地は多数の馬を産する地となって、望月の駒が

有名になったことから、大伴氏は朝廷より「望月」姓を賜り、

信濃国最大の望月牧へと発展したといわれます。

毎年8月15日に奉納される例祭「榊祭り」(佐久市指定無形民俗文化財)は

信州の奇祭とも称される特殊神事で、松明山から松明を揚げて望月橋まで一気に

駆け下り、その松明を橋から鹿曲川へと投げ込み五穀豊穣や無病息災を祈願します。

 

*鹿曲川(カクマガワ)は蓼科山に源を発し、上流部には紅葉で知られる春日渓谷が

ありますね。流末は信濃川と落ち合います。

 

神社から少し進むと、ここが望月宿の京方のはずれ.。

望月宿を出ると旧中山道は、青木坂と呼ばれる鹿曲川の河岸段丘を登る

坂へ向かいます。

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御桐谷(おとや)西交差点を渡り、50mほど進んで、

左り大きくカーブ(奥の左斜めのガードレース)して分岐の急坂を登ります。

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坂を登り曲がり角に小さく馬頭観音

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さらにだらだら坂を上って行くと右手に「中山道→」の案内表示があり、

細い急坂道に入っていきます。

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けっこう急勾配の坂道です。

カミさんは後ろ向きで、景色を眺めながら上って行きました。

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振り返りの田園風景

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 途中に延享年間(1744~1748年)に建てられたと伝えられる、寒念仏供養塔が

立っています。でも、なんでここに??カミさん。f:id:hansui:20171018170249j:plain

坂を上り切り、国道142号線のガード下を左手に潜り、

右折してしばらく国道142号線と並行して進みます。

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曲がりくねる道を行くと交差点となり、左手に廃校となった小学校土地に、

「売地」の看板が立ってます。過疎少子化の波ですね。

旧道は望月宿西入口交差点から長野県道148号牛鹿望月線と合流すると、

道路右手に「御巡見道標」石標が有りました。

巡見使は江戸時代、幕府が諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した

上使のことで、天領及び旗本の知行所を監察する御料巡見使と、諸藩の大名を

監察する諸国巡見使があり、ここから中山道と別れ上田・松代・長野方面の監察に

向かったものと思われます。 

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右手に割と大きな開発造成住宅地を見ながら、しばらく坂道を上って行くと

峠の頂上に着いたようで、

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その先は県道から右に分岐した下り口に、「中山道茂田井入口」の説明板が

ありました。

下り道は、望月宿と西の芦田宿の間に設けられた間の宿・茂田井宿に入って

行くようです。

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道端に咲く草花を見ながら、道を下っていきます。

前方に“間の宿”茂田井宿が見えてきました。

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坂を下り茂田井宿の集落へと入って行きます。

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右手の山きわ斜面に小振りの神社が見え、街道書には神明社とありました。

10数段ほどの石段を登ったところに本殿があります。
案内板によると,

神明社の祭神は天照大神,雨乞いの霊験として崇拝されている。

宝永6年(1709年),茂田井村初代名主となった大沢茂右衛門が願主となり

建立された。
本殿はこの地方では珍しい神明造りとなっているため、神明社と呼ばれている」

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神明社を過ぎると、縫うように下る坂道の家並に、ハッと足が停まります。

街道書に書かれた
「道の両側に用水が流れ、漆喰壁の白さが町並みを美しく際立たせ、
民家、造り酒屋の建物が連なる坂道に、江戸時代の面影を色濃く残す
茂田井の街並みが続きます」

 

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間の宿は本宿の機能保護のために、旅籠をもつことを禁じられ休憩するだけでした。 寛保二年の大洪水で、望月新町が道ごと流されたり大きな被害を受けたため、

茂田井村を望月宿の加宿にしようと、江戸幕府に願い出たが却下された経緯がある。

 

茂田井地域は良質の米の産地として名を馳せていて、小諸藩主やその家臣達は

茂田井産の米のみを、わざわざ毎年江戸まで輸送させたほどだったといわれています。

今も豊かな水が音を立てて勢いよく道端の側溝を流れています。

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蓼科山の伏流水と地元の良質な米。

茂田井宿には造り酒屋が2軒あるんですね。

右手に重厚なたたずまいの門構えの建物が「武重本家酒造(叶屋)」です。

江戸時代末期の慶応元年(1865年)に建てられた住宅と

明治初期に建てられた酒造施設など、30棟もあるという現役の建造物が、

歴史的景観を伝える貴重な建造物であるとして、国の登録有形文化財に指定されて

います。

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杉玉(すぎたま)

スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物です。

酒林(さかばやし)とも呼ばれています。

日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを

知らせる役割を果たします。

「搾りを始めました」という意味でもあります。

吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としていますが、やがて枯れて茶色がかって

きます。

この色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を物語ります。

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その武重家の道を隔てて用水路傍の蔵の敷地に、若山牧水の3首の歌碑が

立っています。

一句に、

「人の世に たのしみ多し 然(しか)れども 酒なしにして なにのたのしみ」

資料によれば、

「明治、大正から昭和初期にかけて歌人として親しまれた若山牧水は、

旅と自然とともに酒をこよなく愛した漂泊の歌人として知られています。

その酒量たるや1日に1升以上を飲む大酒豪だったのだそうです。

しかしながら、酒と歌で人生の悲哀を昇華しながらの生涯は、43歳で肝硬変により

幕を下ろすことになりました。

若山牧水が生涯に残した約七千首に及ぶ和歌のうち、酒を詠ったものが二百首に

及ぶと言われています。

若山牧水は望月に歌友が多く、吟客としてこの茂田井の“間の宿”に長期間逗留したと

言われています」

岩村田にも歌碑が建てられてましたね。

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おや、凄い紅葉した樹、モミジでは?

歌碑の左側小路奥左手に、燃え立つように紅葉した樹が見えます。

近寄ってみると、見事に紅葉してる「モミジ」でした。

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すごいね、鮮やかに紅葉してる!!早すぎる!

なんて言いながら街道へ戻りかけると、

歌碑の側に植えられてる梅の古木を見上げてカミさんが、

「赤い葉、モミジじゃないかしら?」

なんと、確かに紅葉してる「モミジ」

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いや~ビックリです!

梅の古木の幹から紅葉が生えてるんです。

少し上の方にはまだ緑のモミジも葉を茂らせて生えてるんです。

何らかの理由で、空洞や幹の腐れなどのところに、風に乗って飛ばされてきた
種が発芽したのでしょうね。
それとも誰かが、モミジの種を空洞に植えた??

珍発見!!かな??それとも・・・

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少し歩いたところで、地元の方にお会いしました。

”酒蔵奥の真っ赤なモミジ見たかな。

あのモミジは何かの映画の撮影の造りもんだよ。

先日、撮影があって古井戸やモミジのセットを作ったのがまだ残ってるんだ”

いや~、見事に真っ赤な紅葉は造り物だって・・・

そうか、赤が鮮やか過ぎたもんな~・・・

ただ地元の方でも、梅ノ木のモミジは気づいてなかったね。

謎のモミジです。

 

左手に急流の流れ落ちる用水、右手に武重家の白塀。

けっこうな急坂を曲がりながら進みます。

この美しい景観から茂田井の地には2002年に、時代小説家藤沢周平さんの

短編小説を原作として作成された、山田洋次監督、真田広之さん主演の映画

たそがれ清兵衛』のオープンセットが「武重本家酒造(叶屋)」の裏手の敷地に

作られて撮影された、と武重本家酒造の資料にありましたね。

この茂田井の美しい景観も、映像の中に残されてるんですね。

藤沢周平さんの作品の文庫本は、ほぼ全巻読んだけど映画は見てないな~)

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 その先を左にカーブしたところに、元禄2年(1689年)に酒造りを始めた

「蔦屋・大澤酒造」が建っている。

重厚な長屋門には大きな杉玉がぶら下がり、敷地内には酒造りや街道文化に関連する

資料等を展示する民俗資料館、名主の館、書道館、美術館が設けられている。

(平日、朝も早いため資料館などは見ることができ来ませんでしたが、

敷地内に少しだけ入らせていただきました))

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大澤家は名主を勤めていて、元冶元年、幕末に京都に上る水戸天狗党を追ってきた

小諸藩兵士の本陣となり、400名の兵士の宿となったという。

間の宿で旅籠はなかったけれど、400名もの兵士を宿泊させるだけの建物と

経済力があったことを示してます。

(左手白壁の連なる大澤酒造(蔦屋)。まだまだ上手に続いてます)

 

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今回は見学できませんでしたが、大澤酒造の民俗資料館に展示されている品々は、

全て大澤酒造の蔵の中に眠っていたものだそうで、代々伝わっている鎧兜など、

貴重な品々が多くあり、街道旅人の間では是非見学を、とお薦めです。

いつの日かの寄り道をして、立ち寄りたいと思ってます。

(あの謎のモミジも様子をみたいですね)

 

茂田井宿は戸数が多かったので、高札場は二か所あって、名主の大澤家の

土塀前に下組高札場が有り、西寄りの坂の途中に茂田井村上組の高札場が

設けられていた。

(大澤家前の高札場跡)

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 坂道の小さな公園には、清掃の行き届いた「雪隠(トイレ)」も設置されてます。

 

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白い漆喰壁の建物が建ち並ぶ登り坂の道の家並みを、堪能しながら歩いて行きます。

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なんどもなんども登っては振り返り、登っては振り返り繰り返しながら

心に残る街並みをカメラに収めて坂道の街道を進みます。

 

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今も大きな門構えの屋敷や土蔵造りの町並み。

時計の針を戻したかのような、昔の雰囲気を感じながら足を進めています。 

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木造では少ない、三階建てですね。

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ちいさなちいさな秋、こぼれ種から生まれたかな?

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薪がが摘まれた、懐かしい風景です。

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左手に高さが2メートル以上もある、大きな馬頭観音がありました。

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この付近の坂は勾配もきつく大きな石が有ったため、その大石を割って中山道

通したと言われます。それで坂の名は「石割坂」

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坂の途中に上組の高札場が有った、と案内板が建ってます。

f:id:hansui:20171019060742j:plain「石割坂」と呼ばれている急坂道も少し勾配が緩くなってきました。

 

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さらにもうひと登りして曲がると、

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江戸から46番目の「茂田井の一里塚跡」がありました。

現在は南塚跡が公園になり、小さな祠が建っています。

きれいに整備され、塚は残っていないが説明板も立てられており、

茂田井宿の保存に尽力していることがわかりますね。f:id:hansui:20171019060933j:plain

 

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左に茂田井の田園。右手山の斜面に祀られてる水神や庚申塔を見て、

さらに緩い坂を上ると、 

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茂田井上の変則十字路で、「中山道茂田井間の宿入口」の標識と案内表示板が

立っています。ここが茂田井間の宿の京方のようです。

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道標に従って緩い坂を少し上ると、パット視界が開け田園地帯が眼に飛び込ん

できて、一帯は少し高台の高原になるでしょうか。
あいにくの曇り空で、景観は望めませんが、晴れていれば北の方角(写真左上)には

浅間山山魂が連なり、その山裾あたりが戦国時代末期、真田昌幸が築城した

上田城の有った上田市になるのかな。

 

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ゆるく坂をくだって芦田川を渡り、上り返して旧中山道は、次の宿場へと

繋がって行きます。

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 周囲の山々が低くなってきたように感じるのは、

今日のこの先の峠越え、笠取峠か近づいてるから?

 

続きます・・・

 

 

 

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第16回)  岩村田宿~望月宿 後編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*
 
10月9日、岩村田宿を立ち、第16回目の旅が始まりました。
 岩村田宿塩名田宿 1里11町 5.1Km
塩名田宿~八幡宿  0里27町 2.9Km
八幡宿~望月宿   0里32町 3.5Km
岩村田宿~望月宿 2里32町 11.5km

 

*すぐに道は突き当たってしまい、旧中山道は藪の中に消えてしまう。

ここは右に曲り、国道142号を横断して・・

 後編

PM2:20、国道142号を横断し、望月宿へ通じる瓜生坂入り口へ到着。

中山道は消滅してるため、しばらく迂回路になる*中部北陸自然歩道を

進みます。

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*中部北陸自然歩道

「多くの人々が、自分の足でゆっくり歩きながら、中部北陸地域のすぐれた風景地を歩くことにより、沿線の豊かな自然環境や自然景観、さらには歴史や文化に触れ、親しむためのみちで、中部北陸地域の各県(群馬県新潟県富山県・石川県・福井県・長野県・岐阜県及び滋賀県の8県)を結んで整備された長距離自然歩道です」

長野県内の旧中山道は、県内に6本設定されている「中部北陸自然歩道」の

一つ道で、街道書などの道標とし記載されてるのも「中部北陸自然歩道道標」に

なるようです。

所々で旧中山道が消滅してしまってるところが有りますが、そのとき歩いてるのは

中部北陸自然歩道なんですね、

だらだらと坂道をのぼり、二股を左へ曲がり小さな道祖神を見送って、

みぎへ曲がると、・・・

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前方、切通しのようなところに、

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藪に消えた旧中山道に合流した気配もなく、江戸の日本橋を出てから45番目

「瓜生坂の一里塚」の碑と案内板があります。

こちらは南塚で、北塚は道路の造成で半分削られてしまったようです。

それでも左右両塚とも現存のは、貴重な一里塚と言えますが、

草木が生い茂っていて、小さな標柱では気づかなかったでしょうね。

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 カミさんが

「一里塚が有ったと言うことは、消滅していた旧中山道に合流してると言うことね」

中山道はゆるく曲がっていて上って行き左に曲がると・・

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瓜生坂の峠のようで、曲がったところに「瓜生坂百万遍念仏塔」「中山道瓜生坂」と

刻まれた石碑が立っています。

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昔は望月宿に通じるこの瓜生坂は大変に急だったため、往来が困難であったと
伝えられています。
安藤広重が浮世絵で描いた望月宿の絵はこの瓜生坂の光景を描いたもので、
名馬の産地として有名だった望月を意識して、馬と満月が描かれています。

木々はは赤松と言われてます。

(えっ、赤松並木・・・信州信濃は松茸の名産地、旅人も賞味で来たかな?)

でも赤松並木は朽ちてしまったのでしょうか。松の木は全く見当たらなかったな~

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百万遍念仏塔、中山道瓜生坂碑を見ながら、少し進んだ先に

「茂田井宿 4.1km 塩名田 5.4km」と中部北陸自然歩道標柱があります。

「道はここから土手を斜めにくだっていた」と説明があり、左に長坂旧道と

呼ばれる段丘崖の急坂道を下っていきます。

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土道は舗装路に再び合流し、逆S字に急坂を下ると分岐点に

道標「茂田井宿 3.3km 笠取峠 9.1km 塩名田 6.2km」があり、

斜め右の長坂旧道(写真右)に入ります。

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枡形状に曲がった坂道を下ると、石尊大権現や道祖神御岳神社百万遍供養塔、

馬頭観音など多くの石仏石塔群がまとめられていて、これらは「長坂の道祖神」と

呼ばれています。

坂の途中に「大応院」があったが、明治5年に廃寺となった名残だそうです。

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長坂を枡形状に進み、千曲川の支流である鹿曲川まで下ってきました。

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中山道長坂分岐点案内板によると

江戸時代前期の中山道は、鹿曲川で右折し、望月新町があった鹿曲川右岸を下流に進み西(左手)に折れて中之条橋を渡って、望月宿に通じていた。

寛保2年(1742年)に大洪水が発生し、望月新町が道もろとも流され壊滅したため、

新町は左岸にある現在地に移転した。

そのため中山道は鹿曲川の左側の長坂橋を渡り、現在のようなコの字形に

宿内へと通じるようになった。

ここは初期中山道と変更後の中山道の分岐の場所ですね。

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長坂橋で鹿曲川を渡ります。ここのあたりが望月宿の江戸方入り口になります。

長坂橋を渡ったら道なりに小さな道祖神を見ながら坂道を上ります。

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突き当たったら右に曲り、旅館島田屋の先「望月宿入口」交差点を右折すると

望月宿に入ります。

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望月宿は、現在の長野県佐久市望月にあたります。

中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて25番目の宿場です。

天保14年(1843年)の中山道宿村大概帳によると、

望月宿の宿内家数は82軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠9軒で

宿内人口は360人でした。

手前の八幡宿との間の宿間距離も約30町(約3.3km)と、中山道で2番目の短さです。

特に大きな宿場ではなかったのですが、馬を売買する人でたいそう賑わったのだ

そうです。

平安時代からこの地を収めていた豪族・望月氏や、馬の産地として名高い

「望月の牧」から、「望月」の名が付いたと言われています。

 

宿内は古民家も多く、街道街の風情を残しています。

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 大正5年(1916年)木造三階建の旧旅籠井出野屋旅館があります。

横溝正史原作で石坂浩二さん主演の映画・金田一耕助シリーズの

第1作『犬神家の一族』(1976年公開)』の中で、主人公・金田一耕助が投宿する

那須ホテル」は、この「井出野屋旅館」で撮影されたのだそうです。。

 

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旅館「山城屋」です。

江戸時代に旅籠として創業し、今でも現役の旅館として営業しています。

外観は昔のままですが、内部は近代的で、設備もいいそうです。

今街道旅人にも人気の宿のようですね。

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望月宿の本陣跡です。

宿場中心部の立派な門がある望月歴史民族資料館の敷地は、本陣跡の一部で、

玄関脇に“御本陣”の看板が掛けられている、隣の小児科医院が本陣を務めた

大森家。

両方合わせた広大な敷地が本陣だったのです。

 

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 脇本陣兼問屋を務めていた鷹野屋です。切妻造りですが、2階がせり出した

出梁(だしばり)造りと呼ばれる建築様式。

脇本陣の看板は、現在、歴史民俗資料館に展示されています。 

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本陣跡の斜め向かいは、真山家住宅、旅籠・大和屋と問屋を兼ねていました。

当時を偲ばせる「出桁造り」。

くぐり戸の脇、軒下が板の間になっていて、

問屋として荷が置かれた造りがよく分かります。
幕末には庄屋も務めた。

明和三年(1766)に建てられたもので、望月宿最古の建物であり、

国の重要文化財に指定されている。

(国重要文化財としての案内板は、なかったような?)

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向かいの家は昔は下駄屋の香美屋跡。

下駄型看板が軒下に吊っている。

あら、屋号は井桁屋かしら? てカミさん。

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少し戻って区切りとして、佐久市立望月民俗資料館前で第16回の旅の足止めです。

向かいの商工会館前バス停より、千曲バスにて佐久平駅へ戻ります。

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PM3:20 すこし時間が有るので、

バス時刻まで、佐久市立望月民俗資料館を見学へ。

「ご案内」

中山道望月宿の本陣跡に位置している望月民俗資料館は、平成3年8月1日に

開館しました。歴史的景観を損なわぬよう配慮された外観と内部には、江戸時代の解体民家の梁を使うなど、趣のある造りとなっています。

  ・・・・      ~~      ・・・・

当地に残るさまざまな歴史資料をもとに、

「郷土の歴史と文化」「中山道・望月宿」「人々の暮らしと伝統」の

3っのテーマに分けてわかりやすく展示しています。

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岩村田宿~望月宿 2里32町 11.5km

日本橋から45里(176.7Km)、 京へ90里34町 (357.2Km)

PM4:10 定時にバスに乗り、第16回の旅は無事、おわり。

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また、いつの日か旅に・・・・・

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歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第16回)  岩村田宿~望月宿 中編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*

 

10月9日、岩村田宿を立ち、第16回目の旅が始まりました。

 岩村田宿塩名田宿 1里11町 5.1Km
塩名田宿~八幡宿  0里27町 2.9Km
八幡宿~望月宿   0里32町 3.5Km

岩村田宿~望月宿 2里32町 11.5km

中編

岩村田宿から塩名田宿を過ぎて、千曲川を渡り旅が続きます。

f:id:hansui:20171011084612j:plain千曲川旅情の歌 」   島崎藤村

(一)

小諸なる古城のほとり          雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず          若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ) 日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど          野に満つる香(かをり)も知らず
浅くのみ春は霞みて           麦の色わづかに青し
旅人の群はいくつか           畠中の道を急ぎぬ

暮行けば浅間も見えず          歌哀し佐久の草笛(歌哀し)
千曲川いざよふ波の           岸近き宿にのぼりつ
濁(にご)り酒濁れる飲みて       草枕しばし慰む

 

千曲川は、

甲州山梨県武州・埼玉県、信州・長野県の3国境の奥秩父山塊の主脈の中央に

位置する日本百名山甲武信ヶ岳(2475m)、その麓を源流とし、

なぜか、上流である信濃国域(長野)では「千曲川」。
そして下流越後国域(新潟)では信濃川と呼称が変わる

長野県と新潟県を流れて日本海に注ぐ、全長367kmで日本で一番長い川です。

 「信濃川」の名称のほうが全国的には知られてるかな。

わしも「千曲川旅情の歌 」を知った高校生のころは、千曲川信濃川は別々の

川だと思ってましたね。

 万葉集の歌や島崎藤村の「千曲川旅情の歌」、五木ひろしの「千曲川」など、

 風情のある緩やかな流れの川のように思われがちですが、

実際には、幾重にも曲がりくねったの「千曲川」の名前の通りの急流でした。

江戸時代には川幅は120メートルほどもあったそうで、

ひとたび大雨が降って水嵩が増すと難所に一変し、旅人を苦しめました。

様々な方法でこの千曲川の急流を渡っていたのですが、明治6年1873年)、

9艘の舟を浮かべ、それらを繋いだうえで舟の上に板を敷いて橋とし、

人馬を渡す「舟橋」方式が採られるようになりました。

その際、舟を繋ぐために使われたのが「舟つなぎ石」で、舟橋は明治26年1893年

まで使われた。(案内板より)

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川に沿って左に曲り、橋下を抜けて左へ坂を上って県道へに出て、

歩行、自転車専用の中津橋を渡ります。

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 千曲川を渡り、坂を上ると御馬寄(みまよせ)集落に入リます。

馬を寄せ集める場所であり、その馬は朝廷に献上するものであったことから、

「御馬寄」という地名で呼ばれるようになったと言われます。

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 緩やかな坂が続く道の両側に、古い家並みが残る。

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集落を抜けて、御馬寄小学校入口の歩道橋下で右へ分岐する短いのぼりの旧道に

入ります。

視界が開け、千曲川西岸段丘の上にで様です。

元の道との合流点手前で街道から少し高くなった場所に、

白い頭巾と白い前掛けをしている、明和8年(1771年)建立と言われる、

大日如来の石像が立ち、「大日塚」と地元では呼ばれているようです。

大日如来像の後方に雄大な浅間山が望め、像の横に松尾芭蕉の句碑が立っています。

「涼しさや 直(すぐ)に野松の 枝の形(なり)」 松尾芭蕉

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街道筋と合流し、その先左手に「御馬寄一里塚跡」の標柱がありました。

江戸の日本橋を出てから44番目の一里塚です。

(後ろの石碑は関係なさそう)

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緩い登り坂の一本道を先に進みます。

しばらく歩くと下原と呼ばれる集落に入ります。

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御井大神(みいのおおかみ)と刻まれた石碑です。

御井大神は万物の生育に欠かせない水を司る水神、水霊であり、

古くは井戸の神様としても祀られました。

このあたりにも浅間の美味しい湧水が出ていたのでしょうか。

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さすがに美味しい米を産出する集落、立派な門構えの民家が幾つもあります。

f:id:hansui:20171011113035j:plain下原の集落を通り過ぎて緩い下り坂。

文政5年(1808年)建立の小さな石仏、観世音菩薩が見られます。(右)

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さらに坂を下ると、

なぜか街道に背を向けて(街道が付け替えられた?)、ここにも

井戸の守護神・生井大神と馬頭観音の石碑が立っています。

馬頭観音は文政12年(1828年)の建立だそうです。

 

f:id:hansui:20171011114324j:plain坂道を下ると、前方に次の八幡宿の集落が見えてきました。

(左の標柱は?)

f:id:hansui:20171011120456j:plain真っ赤になったコキア。

左隣りに神社の社殿のような形をした千曲バスの「八幡神社前」のバス停。

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そしてその横に「中山道八幡宿」と書かれた標柱が立っています。

このあたりが八幡宿の江戸方の入り口です。

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 吾妻鏡鎌倉時代)にも記述がある、宿場の名前の由来になった八幡神社です。

創建年代は、定かではないが貞観元年(859年)、御牧の管理をしていた

滋野貞秀によるものと言われています。

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境内には国の重要文化財である高良社のほか、本殿、拝殿、端垣門、随神門があり、

なかなか歴史を感じさせる趣きを放っています。

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天保14年(1843年)、小諸藩主・牧遠江守康哉 により造営され、

精巧な彫刻が彫られた、ずっしりとした風情の随神門。

f:id:hansui:20171011135058j:plain進むと随神門よりも130年前、宝永5年(1709年)に建てられた、端垣門からが

神域です。 

f:id:hansui:20171011135752j:plain本殿(左上)と拝殿です。

 本殿は天明3年(1783年)、拝殿は天明4年(1784年)に再建されたと言われます。

当初は、極彩色を施していたと思われる彫刻は経年劣化して、

かなり剥がれだしていますが、それが古い歴史を感じさせますね。

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 国の重要文化財に指定されている旧本殿の「高良社」です。

三間社流造りで、屋根はこけら葺、室町時代の神社建築の特徴を

伝えているそうです。

八幡神社の境内にある棟札の墨書名から、延徳3年(1491年)に
滋野遠江守光重によって建立されたものだそうです。

浅間山が大噴火を起こした、天明3年(1783年)に現在の本殿が建てられた時、

旧本殿を高良社として移築したものです

高良社は元々は高麗社と呼ばれていて、高良玉垂命を祀っているのですが、

朝鮮半島から渡来して、望月の牧を指導した高麗人を祀っているのだとも

言われています。 

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 (我が県にも秩父地方に、先般天皇、皇后両陛下が参拝された高麗神社が有ります)

 

神社を後にし八幡宿の宿内に入っていきます。

 

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八幡宿は、現在の地名は長野県佐久市八幡。

江戸・日本橋から24番目の宿場です。

千曲川の西岸にあたり、対岸の塩名田宿との距離は1里も離れておらず(約3km)、

宿間距離は中山道一短い距離です。

天保14年(1843年)の記録によれば、八幡宿の宿内家数は719軒、うち本陣1軒、

脇本陣4軒、旅籠3軒で宿内人口は719人、総家数は143軒でした。

f:id:hansui:20171011145021j:plainこの八幡宿は小さな宿場であったにも関わらず、脇本陣が4軒もあった。

荒ぶる千曲川や、この間の道が名うての悪路だったため宿泊・休憩する大名が

多かったと言われます。

八幡宿の本陣だった「小松五右衛門家」の跡です。

小松五右衛門家は八幡宿の本陣・問屋を代々務めた家です。

皇女和宮の宿泊地となったところです。

今は表門のみが残されていて、この表門は馬に騎乗のまま通過することが

できるように、かなりの高さがあります。

この門は中山道の宿場本陣の門のうち、現存する最古の門と言われています。

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(本陣跡門塀は、資料写真などの古色感と違い、最近リホームされたかな??)

f:id:hansui:20171011145557j:plain本陣門の向かいには、脇本陣・問屋の「依田太郎兵衛家」のようです。

依田太郎兵衛家は脇本陣と問屋のほか、八幡村の名主も務めていました。

(案内板は有りませんが、街道書に写真記載あり)

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右手の民家も脇本陣「半三郎家」が有った所、と記載されてますが

案内板もなく不明です。

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 脇本陣はそのほかに2軒置かれていたのですが、残念ながら不明でしたね。

「南御牧村道路元標」が立っています。道路元標が立っているところは各村々の中心と言うことです。

f:id:hansui:20171011160404j:plain古い町並みが続きます。

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宿場町の中心部を抜けて、八幡入口バス停の先から旧中山道は右下へ入り、

約200メートルほど進みます。

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三基の馬頭観音

f:id:hansui:20171011161546j:plain古い小さな小さな地蔵尊さん。

ちゃんとお供え物も置かれていて、地元の人達に大事にされているようです。

f:id:hansui:20171011161758j:plain地蔵尊の先に「中山道八幡宿」と書かれた案内標識が立っています。そこで再び県道と合流し、ここが八幡宿京口(西方)。f:id:hansui:20171011162134j:plain

 歩いてきた県道は信号で国道142号線と合流します。

ここからはしばらく国道142号線の歩道を歩きます。

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国道142号に合流した辺りから右手を見ると、広大な「御牧原(みまきがはら)」

が見渡せる。

この辺りは奈良時代から平安時代にかけては御料牧場で、旧暦8月満月の日に

朝廷へ馬を献上していたことから「望月の牧」と呼ばれ、

多くの歌人が望月を題材にした歌を残している。

この「望月の牧」を指導したのが渡来の高麗人だったのでしょうか。

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しばらく国道142号を進みます。左手に持参街道書に記載の食事処が有りました。

調べると、昼はPM2:00までの営業のようです。

 

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実はこの食事処は、街道では大変貴重なお店なんです。
今朝、岩村田宿を離れると、ここまでは食事処が街道筋には全くありません。
食品を売っていそうなお店も、コンビニないんです。
通ってきた塩名田宿千曲川沿いに、川魚料理の看板を掲げた家が何軒かあり、
ちょうど昼時ででしたが、なぜか暖簾が掛かった家は無かったですね。
街道案内などで、有ると記載が有っても、よもすれば現在は閉店とゆうことも
多く見受けます。
うっかりすると、昼食抜きの歩き旅になってしまうので、要注意区間ですね。

そんなときのために私たちは、健康機能食品と言われるものを常に持参してます。

かさばらず、軽いのでウエストバッグに入り、消費期限も長いので重宝してますね。
たまたまここは国道で、交通量も多く、ガソリンスタンドなどもあった地域でした。

 

 緩くしばらく下って行くと布施川に架かる百沢橋を渡ります。

 

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安藤広重が描いた「木曽海道六拾九次」の中の「八幡宿」は布施川に架かる

百沢橋のあたりから見たこの風景を描いたものではないか…との説が有ります。

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すぐの百沢橋交差点で、道路の右下に下るこの細い道が旧中山道です。

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ここから旧中山道の雰囲気を感じながら、百沢と呼ばれている集落の緩い登り坂を

登っていきます。

国道から離れているため今も昔の風情が色濃く残り、落ち着いた家並みが

続いています。(ただ、まったく人影を見ません)

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「百沢の双体道祖神」です。

珍しい衣冠束帯(いかんそくたい)と十二単(じゅうにひとえ)という宮廷貴族風の

衣装をまとった男女が祝言を挙げ、酒を酌み交わす様子を表現の双体道祖神です。

地元では「祝言道祖神」とも呼ばれています。

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布施温泉入口交差点で国道142号線を渡り、そこから把握長野県道150号百沢臼田線を

ほんの少し歩きます。

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少しゆくと「仲仙道(中山道)牧布施道標」です。

この道標は元禄10年(1697年)に建てられた古い道標です。

擦れていて判別しがたいですが、石には“中山道”のことを“仲仙道”と表記して

彫られています。

中山道”、“中仙道”、“仲山道”、“仲仙道”…と同じ“なかせんどう”でもバラバラの

漢字表記だったこの街道の名称を、“中山道”に統一したのは

正徳6年(1716年)で、この道標はその19年前に立てられていたんです。

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右の旧中山道は民家の裏手山で「金山坂」に入ってゆき、

瓜生坂入口へ上って行きます。

(やぶ蚊苦手のカミさんは、走るように上って行きます)

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すぐに道は舗装道に突き当り、本来はまっすく道を横断して、その先の藪の方に

続いてるはずですが消滅してしまってるようで、道角にはこんな標識が立ってます。f:id:hansui:20171014085533j:plain

右に曲がるとすぐ国道142号線と出会い、中山道はそこを突っ切って先に進みますが、

横断歩道帯は有りますが信号が有りません。

車両通行も多く、車の流れを見計らって手を挙げて停車してもらい

なんとか渡れましたね。

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ここから先は「瓜生坂・うりゅうざか」と呼ばれ、

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瓜生坂の頂上を越えて坂を下り、25番目の宿場である望月宿へと入っていく。 

続きます・・・

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第16回)  岩村田~望月 前編

 *ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*

 

早いもんでもう10月です。

前々から行ってみたいと思っていた、東北奥羽山脈栗駒山

9月29日~10月1日で、思い切って車を走らせた。

素晴らしい紅葉に出会えて、来て良かった!の旅でしたね。

デジブックアルバム

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山頂へは登らなかったけど、登山はできた。

これで中山道旅で、歩き残してる軽井沢への碓氷峠越えもやっと自信が出てきた。

11月初旬、雪の降る前に歩く計画です。

 

と前置きが長くなりましたが、9月19日(火)第15回で沓掛宿から歩きだし、

岩村田宿で足止めでした旧中山道夫婦歩き旅。

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10月9日(体育の日)

中山道夫婦歩き旅、第16回へ進みます。

岩村田宿塩名田宿 1里11町 5.1Km
塩名田宿~八幡宿  0里27町 2.9Km
八幡宿~望月宿   0里32町 3.5Km

岩村田宿~望月宿 2里32町 11.5km

 

時間的に可能ならば、さらに足を伸ばして

芦田宿(望月から1里8町、5.1km)までたどり着けるかな。

と、早めに家を立ち関越高速で走ります。

横川SAで朝食休憩時、エンジントラブルでJAFのロードサービスの手を

煩わしたが、小一時間遅れでAM9:00、長野県、佐久平駅前駐車場着。

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トイレを済ませて佐久平駅より1kmほど南へ行くと、前回足止めした

岩村田交差点で旧中山道へ復帰。

途中に大きな自然石の「若山牧水歌碑」
「 白珠の歯にしみとほる秋の夜の 酒はしずかに飲むべかりけり」

が有るようですが、見落としたようでした。

 

AM9:30、第16回の夫婦歩き旅の再開で、岩村田宿の中心街へ

足を進めます。

(わぁ、肥満体だ!デジカメ置いたのが低すぎたね)

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岩村田宿は江戸から22番目の宿です。
岩村田藩内藤家1万5千石の城下町であり、商業の町でした。
城下町であったので、堅苦しい城下町の雰囲気が嫌われ、大名や公家は泊まらず、
旅人もあまり寄りつかなかったと言われています。
本陣、脇本陣はなく、旅籠も最盛期で8軒のみと小規模の宿場でした。
本陣、脇本陣の代わりとして龍雲寺、西念寺、法華堂などがが利用されたようです。

岩村田、古の旧中山道は、江戸時代に一度、大火に見舞われて復興時に、

今はアーケード街となっている、現在の旧中山道に付け替えられているそうです。

綺麗なアーケード街ですが、佐久平駅周辺や、佐久ICへの整備された道路周辺の
大型店やショッピングモールの出現で、御多分に漏れづ商店街の活気が

失われてしまったのか人の姿が・・・ないんですね。

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ところで、渓斎英泉が描いた岩村田宿浮世絵は、なんとも変わった絵ですね。

犬が吠え、座頭同士の喧嘩?

 街道画では珍しい描き方、なぜ岩村田宿がかな??

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中山道の画は版元の要請で、途中で安藤広重との共作になったようですが、

そのいきさつ(売れ行きが芳しくなかった)ことで、栄泉のプライドを刺激し

反骨精神の現れを描いたともいわれてるようです。

(左の高みの見物人は広重だとか)

右手の大きな数珠の下がった道へ入ると、前回お参りだけで寄った

浄土宗西念寺が有ります。

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武田信玄ゆかりの寺院で、昔は広大な敷地を持っていたといわれています。

戦国武将で織田信長豊臣秀吉徳川家康に仕た小諸城初代藩主の仙石秀久

岩村田藩主の内藤家の菩提寺です。

仙谷秀久は、鴻巣で死去し、この西念寺で火葬されたといわれています。

 

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山門や鐘楼も堂々としており、12本の柱の上に立った楼門の天井を見上げると、

笛や琵琶を奏でる天女の絵が描かれている。

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f:id:hansui:20171010112449j:plain街道へ戻り、商店街の中ほどに「日本一小さい酒蔵」と染め抜かれた暖簾の

酒店がある

銘酒寒竹の蔵元「造り酒屋の戸塚酒造店」

承応二年(1653)創業、文政四年(1821)に現在地で再興したそうです。 

300年の歴史があり、今は15代目が暖簾を守っている。

「少量でも品質の良い酒造り」 を目指した結果、

日本一小さな酒蔵になってしまったのだそうだ。

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昭和歴代の総理大臣の揮毫が厳重なショーウィンドウに飾られている。

古くは芦田。最近では、鳩山、管、野田、そして安部

 

 

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歩道に、招き狐プレート??

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旅籠も少ない小さな岩村田宿は、 相生町交差点で右折し塩名田宿へと向かいます。

交差点を直進する道は「佐久甲州街道」で、百名山八ヶ岳南麓の野辺山を経て

甲州街道に繋がる道です。

この交差点も追分です

武田信玄はこの道を通って甲斐国甲府から信濃佐久平一帯まで来ていたのです。

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相生町交差点を右に曲がり、塩名田宿目指して歩き始める。

すぐ右手に小さな西宮神社があり、過ぎて道祖神馬頭観音が祀られ

街道を示しています。

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右手奥に、プラネタリュームが有る「佐久市こども未来館」という

ドームを見ながら進むと、小海線の先踏切を渡ります。

小海線は小諸と中央本線の小渕沢を結ぶ路線で、八ヶ岳の麓を通っています。

八ヶ岳高原線」の愛称が付けられ、若い方に人気の清里リゾートや

JRで日本最高地点にある鉄道駅・野辺山駅がよく知られています。

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小海線中山道踏切を渡ったところに若宮八幡大神社標、

すぐ先に御嶽神社が有り、御嶽講の人達が長年かかって建ててきたものだろう

石塔が並でます。

f:id:hansui:20171010123747j:plain御嶽神社の突当りY字路を右に、県道154号塩名田佐久線を進み、

浅間総合病院の紅葉の綺麗な門前を左に回り込んだ突当りに、

相生の松があります。

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 赤松と黒松が一つの根から生えた松で、縁結びの象徴とされているそうだ。
皇女和宮がここで野点をして小休止している。

 初代は樹齢200年以上の赤松と黒松だったそうだが、現在の松は3代目。

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国道141号線の浅間病院西交差点を横断した街道は、

秋の実りの豊かな佐久平田園風景が広がる、のどかな道を進みます。

右手後方に浅間山、そして佐久平駅周辺の街並み。

浅間降ろしの風でしょうか、多くの田んぼの稲が倒れています。

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左手前方には、日本百名山蓼科山(2530m)、左に広がる山並みは

北八ヶ岳の山魂。

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佐久平は、北は浅間火山群、東は関東山地、西は蓼科山に囲まれた盆地です。

佐久平の標高は650~800メートルと日本の盆地としては高く、北部は浅間山の火山噴出物が堆積した台地で、南側は千曲川の沖積地となっています。

街道の左右は水田だけではなく、リンゴ畑も増えてきます。

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 ところどころに、石仏や石塔が建ち旧中山道らしい風景の中を歩むと、

田んぼの先に荘山(かがりやま)稲荷神社が見える。

近くへは行きませんでしたが、ここに「芭蕉句碑」(左)があるそうです。
 野を横に 馬引きむけよ 郭公(ほととぎす)   芭蕉

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中部横断自動車道ガードをくぐります。

この辺りに日本橋から四十三里目の「平塚の一里塚」があったそうですが、

まったく痕跡もありません。

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中部横断自動車道は、静岡市の新清水JCTから山梨韮崎を通り、

長野県小諸市の佐久小諸JCTに至る総延長約132kmの高速道路で、

現在は一部開通しし無料開放されてます。

平塚の集落を進みます。

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道の左手に百万遍供養塔が立ち、その先の石垣上に石仏石塔群があります。 
百万遍(ひゃくまんべん)とは、集落の人々が講を作り、人々が円陣を組んで座り、

大きな数珠を送りながら南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と念仏を百万遍唱えて

疫病退散などを祈り、全員の念仏が合わせて百万回に達したのを記念して建てられた

ものです。

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実りの秋

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平塚、塚原の集落を通って下塚原まで来ると、道が二手に分かれます。

このうちの左に入る細い道のほうが「旧中山道」です

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塚原に入ります。諏訪神社参道口に二体の男女双体道祖神

境内奥にも多くの石塔がたってます。

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佐久市塚原根々井塚原という集落の中を進んでいきます。 

如意輪大士碑(左下)が建ってます。

如意輪大士とは如意輪観音の別名ですが、旧中山道沿いには馬頭観音が多く

如意輪観音は珍しですね。

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その先のY字路を右に進み、溶岩上に庚申塔があります。

集落を抜けると雄大な佐久平の風景が広がっています。

後ろには雄大な浅間山

f:id:hansui:20171010175424j:plain前方には蓼科山、左手には八ヶ岳連峰の山々が見えます。

次の難所、五街道最高地点(標高1,600メートル)の和田峠はあのあたりかな?

空気の澄んだ季節には、正面に北アルプスが見えるとか。f:id:hansui:20171010174326j:plain

街道沿いの大きな石(浅間山の溶岩と言われる)の上に、3つの石塔が立つ。

庚申塔かな?文字擦れて判読できない。

(ある方の道中記では御嶽講碑とありました)

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方々で見かけましたね、休日は関係なし。

コンバインが収穫の時期は大活躍。

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 下塚原の集落に入ると、左手に名覚山妙楽寺の石門が立っています。

妙楽寺はここから続く参道の奥にあるのですが、門前で参拝して先へ進みます。

妙楽寺は、貞観8年(866年)の創建で「信濃の国に五ヶ寺を定額に列する」と

日本国史に明記された、信濃五山の1,000年以上続く名刹なのだそうです。

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秋ですね~

面白い作り方、ミニトマト。ブドウ棚作りかな。

カミさんが、来年はこの方式で育てたい、て。

カキも色付き、アケビも収穫頃かな。

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集落を過ぎると右手に、こんもりとした森があります。

橋を渡り参道を登ると、丘の上には文明18年(1486)の再建と云われている

駒形神社」が鎮座しています。

 

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石段を上って左手にひっそりと見られるのが社殿で、そのの中にある本殿(右)は
国の重要文化財に指定されています。

中には騎乗の男女二神像が祀られていて、この先の「望月の牧の守り神」と

伝えられています。

源頼朝が当社前を騎乗のまま素通りしたところ落馬したと言い伝えられてるそうです。

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 街道資料によると、「望月の牧」とは奈良時代から平安時代にかけて、

天皇へ献上する馬を飼育していた牧場のことです。

 カミさんがお腹が空いたと言うので、神社裏手の集会所?の庭先木陰で、

持参の健康サプリメントで早めの昼食と、しばしの休憩。

中山道沿いは岩村田を出ると、全くお店が見当たりません。

少し離れた国道へ出るとあるようですが。

 

駒形神社を出ると、道は舗装道路の駒形坂を下ってますが、

街道図ではこの先で、ガードレールが切れるところを右崖下に下るのが

中山道になってます。

坂を下り終わったところで今度は坂を登って、200mほどで舗装された道路に

戻ります。

下には廃屋のような家、夏草ぼうぼうで、踏み跡も見分けつかない状態。

やぶ蚊が苦手のカミさんが「ダメ!」のクレームで舗装道路を下ります。

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坂を下りきると 右手に製材所が見えてきて、民家が増えてきます。

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しばらく歩くと、桝形の大きな五差路になった塩名田交差点になり、

「笠取峠 15.3km 追分 15.3km」、「中山道塩名田宿標柱」や道祖神が建ってます。
 

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PM12:05、岩村田宿から1里11町 5.1Km、2時間30分もかかって到着です。

塩名田宿は、江戸から数えて23番目の宿場です。

街道資料によると、現在の長野県佐久市塩名田にあたり、

天保14年(1843年)の記録によれば、宿内家数は116軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、

旅籠7軒で宿内人口は574人だったそうです。

(街道絵 塩名田宿は広重画に替わります)

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平成17年(2005年)に佐久市に合併される前までは北佐久郡浅科村でした。

(浅科とは浅間山蓼科山の間に位置していることから、それぞれ一字ずつとって

浅科という名前になった)

そうか、ちかくに「道の駅ホットパーク浅科」が有るんだな・・・

真っすぐ伸びる宿場の道を歩みます。

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 宿は千曲川の東岸にあり、旅籠が10軒以下の小さな宿場にも拘らず、

川止めに備えて2軒の本陣と1軒の脇本陣が用意されていた。

その1軒は、現在は食料品店となっている大井屋の場所にあった、

「丸山善兵衛本陣」で、延宝年間(1673年~)から本陣を勤めたそうです。

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丸山本陣跡の斜め先の切妻・大屋根の建物も「本陣・問屋跡」で、

こちらは丸山新左衛門家。

新左衛門家本陣の建物は宝暦6年(1756)に再建されたもので、

改装されながら、現在も住居として使われている。

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ちなみに脇本陣は丸山文左衛門家と、丸山一族が本陣・脇本陣を務めていた。

隣が「高札場跡」で、一部が復元され今は掲示板として使われている。

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 高札場跡の斜め先にある 「佐藤家住宅」 は、

塩名田宿で最も古式の町屋の様式を伝える建物。

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“うだつ”を備えた白壁・土蔵造りの建物は最近のものかな?

看板は昔の屋号が書かれた酒屋の「大和屋」です。

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さらにその先の「えび屋豆腐店」の建物は、江戸時代末期に建てられたもの。

半分土蔵造りになっていますね。

天然のにがりで豆腐を作っているそうで、その味は極上。

午前中には売り切れてしまうのだとか。

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塩名田宿の宿内の建物には昔の屋号の看板が掲げられていて、味があります。

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 えび屋豆腐店から数十メートル先で県道と別れ、旧中山道は右側を下って

「河原宿へと向かって行く」。

f:id:hansui:20171010213350j:plain 坂を下った左側に東屋があるが、ここは「瀧大明神社跡」。

かつて、傍らのケヤキの大木(今は枯れている)の根本から、

大量の清水が湧き出ており、旅人の喉を潤していたそうだ。

この場所には十九夜塔や道祖神も建てられている。

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 東屋の隣は「角屋」と呼ばれた休み茶屋跡で、建築年代は不明だが

木造の3階建てである。

ここには木造3階建ての建物が沢山有る。
道路(県道)より低い位置に有るので、3階建てにして道路と高さを合わせのかな。

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 この辺りを「お滝通り」と呼んでいるが、この先を右に曲ると、

川魚料理の看板を掛けた旅籠風の建物が何軒かあり、かつての宿場の面影が

残っている

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 突き当たりが旅人泣かせの千曲川。江戸時代から明治にかけてはここから川を渡っていたのだが、今もその痕跡がある。

 橋を架けては流されを繰り返した千曲川。明治6年(1873)、6艘の舟をつないだ舟橋を架けたのだが、その際、舟をつなぐために使われたのが「舟つなぎ石」(左)。明治26年(1893)まで使われたそうだ。

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今はこの先には橋が無いので川に沿って左に曲り、県道に出て「中津橋」を

渡って街道は続いてゆきます。

それにしても快晴、気温もぐんぐん上がっている様子。

川風が気持ちがいい~・・

 

続きます・・・

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅  (第15回)  沓掛~岩村田 後編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*
 
9月19日(火)再び街道旅へ。
沓掛宿(中軽井沢)を旅立ちました・・

追分宿の「分去れ」より、旧中山道は国道を横断し左に入り、
「笑坂」と呼ばれる長い坂を下っていきます。 笑う坂?  続きます・・

 

後編 f:id:hansui:20170927200513j:plain

分去れから300mほど国道18号の右側を歩き、横断歩道の有る信号交差点で

左に渡り分岐する道に入る(写真左上)とすぐに、

左手からの旧中山道(写真左下)に復帰し、右手にゆるく曲がりながら街道は

長~い長~い下り坂へ(写真右)と進みます。

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そうです、ここからが「笑坂」。

追分宿から次の小田井宿まで、約1.3里(約5km)標高差220m

さらに岩村田までも下り坂で、10km近い坂が続いてます。

京から江戸へ向かう旅人は、大変なダラダラ上りとなる。

街道を登ってきた旅人が追分宿の燈火を見て、

笑みをこぼしたので「笑坂(わらいさか)」と呼ばれたという。

(今旅人は下りましたが、それでも笑い坂、実感です)

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現在、このあたりは西軽井沢と呼ばれ、追分笑坂上の別荘地として開発されています。

浅間山を背に、前方に見え隠れする蓼科、美ヶ原を眺めながらゆるい坂が続きます。

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およそ1kmほど歩いた軽井沢町追分と御代田(みよた)町との境目に,

左手に細長い貯水池様の水路が見える。

浅間神社前なども流れがみられた御影用水路で、
水源である千ケ滝から、40kmも離れた御影新田に至っても水温が低いため,
川幅を広げた水路を作り水温を温めようとする施設「千ヶ滝湯川用水温水路」です。

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街道書によれば、
「慶安3年(1650年)に柏木小石衛門なる人物が開削した、長さ約16里にも及ぶ
農業用の水路です。
現在のものは戦後、約21kmにわたって改修し、軽井沢町の千ヶ滝と湯川を
水源とし、御影用水路、岩村田用水路に分かれ、約21kmに及ぶ用水路により
導水しています。
浅間山の中腹を水源とした河川で、雪解け水や湧水が中心なので水温が低く、
稲の生育には不向きな水だったのですが、この冷水を温めるため、
延長約934メートル、幅約20メートル、水深約20cm、勾配2,000分の1の水路(人工の池)が作られました。この水路は日当たりの良い場所に傾斜が小さく作られていて、太陽光によって水温を上げようというものです。
 この温水路で水温は1.5度上昇すると言われます。」
稲作には、1.5度でも大きな影響が有るんですね。
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しばらく下ると、木々の陰に観音像が立っています。

なぜ観音像?

側に石碑が有りますが判読できなかったです。

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追分から入った街道には、所々に中部北陸自然歩道の木道標が建ってます。

この三叉路には標識板があり

「小田井 3.4km,塩名田宿 13.5km,追分 1.8km」

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街道歩きでは道端の野草や木々、沿線のお宅の庭に咲く花々が楽しみの一つで、

旅の疲れを癒してくれます。

珍しいかな、白と赤のゲンノショウコが同じ場所に咲いている。

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秋桜が方々で咲き誇ってます。

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過保護!!

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右手に大山神社です。古い木の鳥居が印象的です。

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民家角の入口標柱を目印に、街道から少し右に入と、

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江戸日本橋から41里目の一里塚、「御代田一里塚」がほぼ原型を留めたまま

残されています。(40里目の一里塚「荒町一里塚」は位置が不明の由)

寛永12年(1635年)に中山道の改修工事が行われたのですが、

そのとき中山道のコースが一里塚の外側に変わってしまったのだそうです。

その後も道路工事等に遭わず昔のままに残ったという一里塚です。

こちらは直径13メートル、高さ5メートルの西側(進行方向右側)の塚で、

東側の塚(うかつにも確認しませんでした)も同様の規模だそうです。

この一里塚には立派な枝垂桜の木が植えられていて、桜の季節には満開の枝垂桜の

向こうに浅間山の姿が見えるという、思わづパチリと写したくなる風景でしょうね。。

 

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浅間を背景に西塚

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御代田一里塚跡を出てすこし下ると、“しなの鉄道”の線路で分断されます。

ここには地下道があり、旧中山道はこの地下道を潜って行きます。

右に行くと御代田駅があります。

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地下道で鉄道を越えると東西への道に出、右の栄町信号のT字路を

左へ曲がって行くのが街道ですが、電車や路線バスの時刻などを確認のため

そのまま300mほど先の御代田駅南口へ向かいます。

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駅近くの街路樹、ナナカマドの実が日に当たり真っ赤に輝いてます。

故郷北海道では普通に街路樹として植えられてますが、本州では珍しいですね。

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駅へ着き時刻表などを調べ、ちょうど昼近いので食事ができるところ・・なし!

連休後の火曜日だから?お店はみんなシャッターが閉まってます。

こんな時は、バス停ベンチをお借りして、いつも持参の栄養補助食品とバナナで

代替え昼食。

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長い下りで負担がかかったのか、足指に軽い痛みを感じ、

念のためテーピングで応急処置。

今日の予定はあと約6kmの岩村田宿入口まで、さらに下り坂。

ここで足止めなら、しなの鉄道で中軽井沢へ二駅。

「テーピングで痛みは大丈夫そう。

  時間は早いからゆっくり歩きで、先へ進もう」

カミさんはちょっと心配そうだったが、

最悪、タクシー利用してもいいわ、と駅前のタクシー会社の電話番号をメモ。

30分ほどの足休めで、栄町のT字路から街道へ復帰、南下します。

(右手が駅への道)

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  <栄町>から中山道の標識に従って南下する。
 くっきりと青空に聳える浅間山を背景に下る道は、前方にはいつの日にか越える

和田峠の美が原の山並み。

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左側に、長い階段状板塀、敷地内にはマンションもある大きな屋敷があります。

むかし、このあたり一帯の名主を務めていた?

f:id:hansui:20170928155931j:plain追分宿の標高が約1,000メートルで、このあたりの標高は約790メートル。

だいぶ下ってきました。

振り返って浅間山

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長野県道137号にぶつかる、小田井上宿交差点。

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手前に右手に御嶽山、八海山やらの石碑が

沢山並んでいます。

f:id:hansui:20170928163225j:plain交差点を渡った先が、小田井宿の江戸方の下木戸の跡で先が桝形になってます。

ここから小田井宿に入ります。

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桝形の左手に小田井宿案内板と小田井宿地図板があります。 

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小田井宿とは、中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて21番目の宿場です。

天保14年(1843年)の記録によれば、町並みは8町40間。

小田井宿の宿内家数は107軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒で

宿内人口は319人の規模の小さな宿場です。

参勤交代などで、大名が北国街道との分岐点でもあった追分宿で宿をとる際,

小田井宿は,盛り場もほとんど無く、女性が安心して利用でき、

姫君や側女たちの宿にあてられることが多く「姫の宿」とも呼ばれた。

皇女和宮もここで昼食休憩していそうでする。

「姫の宿」と呼ばれるように、昔も女性達から人気の静かな佇まいの

宿場だったそうで、その面影が今も色濃く残っています。 

宝永元年(1704)から岩村田藩内藤氏の領地でした。

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小田井宿の街並みは非常に良く保存されていて、現在でも街並みの半分は

江戸時代からのものだそうです。

本陣跡、上・下問屋跡、旅籠などのほか用水も当時のものが残されており、

案内板も設置されています。

現在用水路は道の片側に移されているが豊かな水が流れていた。

昔、このあたりの住民達は鉄道(信越本線)の通過に反対したそうで、

そのため発展から取り残されてしまったのですが、

そのため往時の宿場の面影は残っているとのことのようです。

小田井宿は東西に桝形,道路中央に用水路,東から上・中・下の宿

(どういうわけか順番が普通と異なる)。

 

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左手にお地蔵さんが祀られてます。

「おはる地蔵」です。

江戸時代の話ではありませんが、説明板によると

“おはる”とは“安川はる”さんという実在の人物のことで、明治36年(1903年)、

小田井に生まれ、当初は小学校教員をしていました。

高価な肥料が買えない農民に安い肥料を提供するため、ゴミと人糞から燻炭肥料を

作る「安川式肥料燻炭炉」を発明した方なのだそうです。

「安川式肥料燻炭炉」は副産物として高価な7種類の薬品が摂れることから

経済的に大変優れた発明として期待されたのですが、安川はるさんが難病にかかり

計画を中断。

戦後は小学校の全教室へテレビを寄付するなど地域に大変貢献しました。

生涯独身で人々のために献身的な活動をして、

平成3年(1991年)、89歳で永眠なさいました。

このように地域に様々な貢献をしたということで、地元の方々が

安川はるさんの功績を称えて「おはる地蔵」を建てたということのようです。

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左手に「宝珠院」の案内板があり、寄り道へ。

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宝珠院は本尊は聖観世音菩薩。

正徳年間(1711~15)に本堂が建築された。
風情あるかやぶき屋根の鐘楼。

そして樹齢300年とも言われる枝垂れ桜と手入れの行き届いた

二本が寄り添った赤松。

どちらも御代田町の天然記念物に指定されています。

手入れの行き届いた、素敵なお寺でしたね。

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街道に戻ると向かい右手側に、小田井宿の本陣跡(現安川家住宅)です。

本陣の客室は1756年に建てられた当時のままだそうで、

 安川庄右衛門が勤め,建坪195坪,屋根は元来茅葺置き。宝暦6年(1756)に大規模な改修が行われている。客室は切妻造りで式台・広間・三の間・二の間・上段の間・入側などが原形を留めているという。現在,非公開で見学はできない。

宮家や公家等の姫君が泊まることが多かったため、姫の宿(姫宿、ひめじゅく)とも

いわれていたそうです。 

文久2年(1862)、和宮がここで休憩している。

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小田井の町では毎年8月16日に「小田井宿まつり」が開催されています。

中山道と言えば、皇女和宮の降嫁の行列です。

文久元年(1861年)、皇女和宮が第14代将軍の徳川家茂に降嫁する際の一行は、

お供や警護の者を含めると総計でおよそ8万人にも及ぶ空前絶後の規模でした。

この佐久地域では八幡宿と沓掛宿に泊まり、小田井宿では昼食を摂りました。

その際、給仕をした少年の安川時太郎に御所人形が贈られました。

これにちなみこの「小田井宿まつり」では、皇女和宮から拝領した高さ8cmの

ふっくらとした姿の唐笠を被った童子の人形を籠に乗せ、

当時の行列が再現されます。(街道資料より)

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小田井宿の問屋(といや)跡です。

小田井宿には問屋が2ヶ所あり、これはその1つで、本陣と同じく安川家のものです。

江戸時代後期(享保・文化年間)に建てられたもので切妻造りで、

屋根は板葺(現在は防火のために鉄板葺に改修)。荷置場・帳場・客室部・廐・

土間などがよく保存されているそうです。

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脇本陣「すわまや」の跡です。建物は現存してなくて、民家の庭先に案内柱だけが立っています。

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旅人もう1つの問屋は尾台家のものです。明和9年(1772年)の大火以降に建てられたもので、こちらは白壁で綺麗に保存されています。

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宿内のバス停待合室、良いですね~・・

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小田井宿 は観光地化せずに、街道風情を持つ古い家並みがは2町(約220メートル)に

わたり街並みが続いていました。

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宿もはずれに来ると、枡形に曲がって終わりとなります。

ここが小田井宿の京方の入り口、上木戸があったところで木標識が建ってます。

(左)

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小田井宿を出ると右手には旅籠のような、古い家も残っています。

1階の庇屋根が落ちないよう、2階から吊って補強しているのかな?

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京方の入り口、中山道小田井宿の看板の少し先で、御代田小田井から佐久市小田井

になります。

小田井宿御代田町なんですね。

小田井宿を出て、次の岩村田宿を目指して歩きます。

小田井宿岩村田宿 1里7町 4.7Km

小田井下町の信号を越えた先には「馬頭観音」や「道祖神」などが1ヶ所にまとめられて立っています。

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小田井の宿からおよそ600m,<小田井南>で県道9号線に合流。

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 急に交通量も多いが、歩道がきちんとあるので、安心して歩けますね。

県道と合流してを進むと、右手に皎月原と呼ばれる草地が広がり、

石仏等が沢山残されていて、近くには咬月古墳もあると街道資料にありましたが、

お喋りをしていて通り過ぎたようです。

この写真奥がそうだったようですね。

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 さらに進んで<横根入口バス停>の左手に木の茂った小高い丘が見えてくる

「鵜縄沢端(うなわざわばた)一里塚」でした。

江戸から42番目,中山道開設当初に設置された一里塚である。

寛永12年(1635)に中山道の大改修が行われたため,

街道の東に置き去られた形となった。東塚のみ現存。

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一里塚を過ぎると左手はリンゴ畑が広がり、何種類かのリンゴが

実りの季節を迎えてました。

無造作に枝が歩道まで張り出し、ひょいと手を出せば・・・

くぐるように通過します。

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岩村田橋で上信越自動車道の上を通り振り返ると、浅間山が大きく姿を見せてます。

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この辺りは佐久インターができたので、左新しいスーパーや大型店などが続いて

ます。

洋菓子ショップの大きなアイスクリーム看板を見て、ちょいと魅かれて足休めに。

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佐久IC東交差点を越えると左手に千手観音石碑などの石仏があり、

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 その先に「住吉神社」が有りました。

このあたりが岩村田宿の江戸方の入り口でした。

境内には、溶岩で出来た常夜灯と、落雷のため中に大きな空洞が出来てる、

樹齢400年と言われる大きな欅(けやき)の木があり、

また天明年間(1781~1788)に祀られた、男女二体像の道祖神など多くの

仏塔があります。

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小田井宿岩村田宿 1里7町 約4.7Km

沓掛~ 岩村田 3里20町 約14km
岩村田宿は江戸から22番目の宿です。

岩村田藩内藤家1万5千石の城下町であり、商業の町でした。

城下町であったので、堅苦しい城下町の雰囲気が嫌われ、大名や公家は泊まらず、

旅人もあまり寄りつかなかったと言われています。

本陣、脇本陣はなく、旅籠も最盛期で8軒のみと小規模の宿場でした。

本陣、脇本陣の代わりとして龍雲寺、西念寺、法華堂などがが利用されたようです。

 

住吉神社の少し先道路の右向こう側角に「従是善光寺道」道標だ建ってます。

これは平成8年に復元建立したもので、江戸時代の道標は交通事故で破損したため、

修理されて住吉神社に移設してあるそうです。

住吉神社境内に入って、溶岩の常夜燈の側に立ってましたね)

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風情ある屋敷も左手に見ながら、 道は緩やかに左にカーブして

岩村田宿に入って行きます。

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立派なお屋敷ですね。左倉造りは会社名のプレートが架けられてました。

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その先、左側に龍雲寺、武田信玄公御墓所と彫られた大きな石柱があります。 

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参道を行くと、正面に総門が建ち、正門は総門右手奥(住宅側)になります。
総門には正親町天皇の勅額「東山法窟」(東山道第一の道場)が掲げられている。

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 街道資料より、

龍雲寺は曹洞宗の寺院で山号は太田山。

当初は正和元年(1312年)に鎌倉時代からこのあたりを支配していた豪族・大井氏が

開いた曹洞宗の寺です。

かつての大井庄で、その中心がここ岩村田でした。

現在の寺院は、戦国期後期に武田信玄が佐久に進軍し大井氏を破った後に

再建されたものです。

武田信玄の帰依が熱く、信濃路に出兵する際は必ず詣で戦勝祈願をした。

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堂々たる山門ですね。

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本堂

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武田信玄が京を目指して上洛の途上、病気が悪化して死去した際、

その死を秘匿するために遺骨を生前信玄と親しかったこの龍雲寺に運び、

ここに葬られたとされています。

昭和6年(1931年)、ここで発見された骨壷から骨と短刀、袈裟環が出てきて、

これが武田信玄の遺骨であると確認されたとされ、境内奥のその骨壺が発見された

場所には「武田信玄霊廟」と「五輪塔」が建てられています。

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 (とありますが、信玄没にまつわる多々の説があり、異議があったようで

この龍雲寺の「武田信玄霊廟」は正式には国の史跡に指定されておりません)

信玄は「甲斐の国」ということでしょうかね?

龍雲寺を後にし、街道へもどります。

150mほど進むと、岩村田の交差点へ来ました。

交差点の先はアーケード商店街が続き岩村田宿の中心となりますが、

今日の旅はここまで、岩村田交差点で足止め します。

PM2:40  沓掛宿をAM8:00出立、

3里20町 約14kmをゆったり、のんびり6時間40分をかけて歩いてきました。

 

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栄泉・岩村田宿画、なんか変な宿画ですね?

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信号を右に折れる左手に大きな伽藍が見えてます。

浄土宗西念寺で、宗派なのでお参りに立ち寄り。

山門を入るとすぐに、12本の柱に支えられた立派な楼門が建ち、
正面が本堂です。

創建は弘治元年(1555)、武田信玄が開基となり岌往上人(出生不詳の甲州の名僧、京都知恩院二十一世)が開山したのが始まりと伝えられています

街旧岩村田領主仙石秀久、内藤正国の菩提寺。苔むした五輪塔が400余年の歴史を

偲ばせ、本尊阿弥陀如来座像が県宝に指定されている由。

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電車の時間が有るのでお参りだけ済ませ、境内の散策は次回によることにして

お寺を後にしました。

交差点を右にお折れて約500mほど行くと、JR小梅線の岩村田駅です。

小海線(こうみせん)は、山梨県北杜市小淵沢駅から、長野県小諸市

小諸駅までを結ぶJR東日本鉄道路線

八ヶ岳高原線」の愛称が付けら、日本百名山八ヶ岳南麓の高原を走ります。

途中に日本最高所の駅、野辺山駅や若い方々に人気のリゾート地、清里もありますね。

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終点小諸駅で、しなの鉄道へ乗り換え、中軽井沢駅へ。

中山道夫婦歩き旅、第15回 おわり。

 

 

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅  (第15回)   沓掛~岩村田 中編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*

 

9月19日(火)再び街道旅へ。

沓掛宿(中軽井沢)を旅立ちました・・

(中編)

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国道18号の最高地点(1003m)の標識を過ぎ、右へ分岐する道に入ると

 北国街道との分岐点(分去れ)追分宿

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追分宿は、中山道六十九次、江戸・日本橋から20番目の宿場。

信州・善光寺を経て直江津北陸道に合流する、北国街道との分岐点(追分)で、

追分宿」の名はこれに由来する。

(追分けという地名は全国に見られますが、最初にこの地名が生まれたのは

信濃追分という説があるそうです)

追分宿中山道と北国街道の分岐点であり、下仁田街道(姫街道)をはじめ、

入山道、大笹道、日影新道などの中馬道があつまる交通の要衝として、

この地域の宿場町の中ではもっとも賑わいました。

天保14年(1843)の中山道宿村大慨帳によれば、

町並み東西5町42間、家数103・人数712(内男263・女449)、

本陣1、脇本陣3、旅籠屋35・問屋1とある。

実に103戸の家数のうち35軒が旅籠屋で、しかも200人の飯盛女を

抱えていたそうで、圧倒的に女性の多い宿場だったそうです。

また、追分節の発祥の地でもあるんですね。

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国道18号からの分岐を入ると、すぐに追分郷土館や浅間神社がある。

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18号から少し入ると左手に広い追分宿駐車場が有り、

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右手の木立の道を上ると追分郷土資料館が有ります。

ここは、追分節発祥地であり、江差追分”や“越後追分”もこの付近で唄われていた

歌詞や節を変えて伝わったものだそうです。

正調追分節が聞けるそうですが休館日でした、残ね~ん。

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郷土資料館左手には浅間神社が祀られてます。
江戸時代には「すは大明神」と呼ばれていました。
本殿は室町時代に建てられたもので、木造建築としては軽井沢町内で最古のもの
とのことですが、社殿の中に収められているため、見ることはできません。

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普通、「浅間神社」と書くと「せんげんじんじゃ」と読み、

木花開耶姫命を御祭神とした、富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)を総本社と

していますが、この「浅間神社」は「あさまじんじゃ」と読み、大山祇神と磐長姫神を御祭神としています。

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書によれば「あさま」は火山を示す古語とされ、富士山の神を祀る神社が

「浅間(センゲン)神社」と呼ばれるのも、同様の理由のようです。
浅間神社の後ろには浅間山地震や噴煙を観測し、火山活動情報を全国に発信している気象庁軽井沢測候所があるんだそうです。

境内には 追分節の発祥地の石碑が立っています。
浅間山さん なぜ焼けしゃんす 裾に三宿 もちながら」
「追分ます形の茶屋で ほろと泣いたが忘らりょか」

解説によると、

追分節はもともとは碓氷峠の馬子唄でした。

この馬子唄が飯盛女の弾く三味線の音色と相まって洗練され、座敷歌となって

北国街道を北上して各地に広まり、越後に入り越後追分として船頭歌になり、

さらに酒田追分、新庄追分を経て蝦夷地に渡り、江差追分になった

とされています」

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江差追分は故郷の民謡ですが、子供のころはのど自慢の民謡と言えば「江差追分」で

ラジオからよく流れていたのを思い出します。

不思議なもんですね、初老になってからかな、

なんとも言えない江差追分の良さを、ちょっぴり感じるようになりましたね。

カミさんの父親が民謡の名取で、江差追分を得意としていたので、

「ほろ酔い上機嫌の時によく聞かされたね~・・」て、二人で思い出話・・

芭蕉句碑もあります。
「吹き飛ばす 石も浅間の 野分(のわけ)哉」

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浅間神社を出てすぐのところに常夜灯が立っていて、その先で昇進川に架かる

昇進橋を渡った先が追分宿の中心部になります。

中山道は西へ向かいます。石畳の道に整備されていて歩きやすく、

趣きもある道になっています。

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バス停のところに本の入った、こんな箱が有ります。
「夢の箱」
どうも本を保管して待ち時間に読めるようにしているようです。
なるほど、バスは日に何本もないからね。

3か所ほどにありましたね。

 

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橋を渡って少し行くと左手に大きな門が有りました。
この門は堀辰雄文学記念館の入り口の門です。
この門は以前は追分宿本陣の裏門で移築されてます。
追分宿は文士の別荘地として人気があったところで、

堀辰雄も、大正末期から昭和の中期までの約30年間ここに住み着き、

美しい村、風立ちぬ、などの作品を書いたそうです。

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記念館のちょうど向かいに、元脇本陣で旅籠 油屋だった

文化施設信濃追分文化磁場 油や」があります。

旅籠 油屋は道の向かい側にあったのですが、昭和12年(1932年)の

火事で現在の場所に移動したものです。

明治の文豪 川端康成や堀辰夫らが愛した宿として知られている。
最近まで高級旅館として営業されていましたが、

現在は文化施設信濃追分文化磁場 油や」として再生しています。

寄りませんでしたが、2階の一室に堀辰雄資料室が設置されているそうです。

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この先に「明治天皇追分行在所碑」が建っています。ここが「追分宿土屋本陣」があったところです。門柱だけが残っていて、表札に「中山道追分宿 旧本陣」という文字が刻まれています。

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その先に、昭和58年に当時の古文書などから復元された、追分宿の高札場跡が

再現されています。

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追分宿には、石畳の道や往時の旅籠の雰囲気を漂わせる出桁造りの建物が

幾つか残っていて、旧街道の面影を残す工夫がされてます。

*「出桁造り(だしけたづくり」

梁または腕木を側柱筋より外に突出して、その先端に桁を出した構造で、

江戸時代以来一般的だった町家は、軒を深く前面に張り出した「出桁造」による

立派な軒が商店の格を示していた。

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路地を右に入った奥に、小林一茶の句碑がある諏訪神社があり、
有明や 浅間の霧が 膳をはふ」 

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その先に今から約410年前の、慶長3年(1598年)

上州常林寺の第5世・心庵宗祥禅師によっ開創と言われる、浅間山泉洞寺洞禅寺

という寺院があります。
心庵宗祥禅師は三河国の人で元は武士で、天正3年(1575年)、長篠の戦いに遭遇、

数多くの戦死者を目のあたりにして無常心をいだき、出家したといわれています。

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裏の墓地入り口に、堀辰雄がこよなく愛したという石仏があります。

物思いにふけっている半伽思惟像で、その名も「歯痛地蔵」。

左の奥歯が痛いのか、手で押さえている格好になっているから

「歯痛地蔵」と名付けられたとか。

f:id:hansui:20170927180742j:plainそのほか境内内には、長野オリンピックにちなんだ地蔵尊など、

何やらかなり変わったお地蔵様が建てられてます。

これは氷環慈石地蔵尊カーリング地蔵)

カーリング軽井沢で競技が行われた?)

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のんびり歩いて、40分ほど。

出桁造りの町家が街道筋に何軒か点在し、

別荘地 軽井沢の観光地響きイメージのように、綺麗に整備された近代風宿場町かな。

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 先に追分宿の京方の出入り口、上木戸の跡で、街道は国道18号と合流。

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かつてはここに枡形道があり、「枡形の茶屋」と呼ばれた茶屋が数軒あったのだ

そうで、 右手に往時の面影が色濃く残したその1軒「つがるや」が有ります。

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その「つがるや」の前で旧中山道国道18号線と一時合流します。

写真は振り返って、右、国道18号、左追分宿街道。

(中央に立つ櫓は、モニュメント)

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国道18号線と合流したすぐ先に「分去れ(わかされ)」の碑が建っています。

「分去れ」とは道路の分岐点、すなわち“追分”のことです。

ここで京都・三条大橋へ向かう中山道と、善光寺を経て直江津北陸道に合流する

北国街道が分かれます。

分去れ(わかされ)、なんとも味のある表現ですね。

現在は3つの道路の分岐点。

旧北国街道と旧中山道の間に、現在の北国街道である国道18号線が通ってます。

(右、旧北国街道 左国道18号(現北国街道)、国道の先に小さく見える標識のところから左側に旧中山道が分かれてゆきます)

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追分には高さ4メートルもある大きな常夜灯が立っています。

この常夜灯は寛政元年(1789年)に建立されたもので、側面には、
「さらしなは右、みよしのは左にて、月と花とを追分の宿」
という歌が刻まれています。また、常夜灯の台座には「是より左伊勢」という

文字が刻まれています。

江戸から来た場合,右は北国街道の更科や越後方面。

左は伊勢・京都・吉野など関西へ向かう分岐点ということかな。

道祖神・歌碑・道標・道しるべ石・常夜灯・子抱き石地蔵坐像,

その奥には観音像など、多数の石造群が立っている。 

写真 右、「分去れ(わかされ)」の碑

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中山道はこの追分のところから、斜めに国道18号線を横切るように延び、

「←旧中山道」という案内標識が出ているものの、

横断歩道も設けられていないので、ここで直接進むことが出来ません。

この追分のところから旧中山道に行くには、国道18号線を少し先まで歩き、

青い道路標識のところにある横断歩道を左側に渡り、

逆に「←旧中山道」の道路標識のところまで戻って来ないといけません。

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すこし戻る国道18号左側には歩道がないようで、

無理をしないで、先の青い標識の信号を渡って左へ入る道を行くことに。

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国道を横断し、左手からくる旧街道に復帰。

左角に中山道のすべてが判ると進められていた、「中山道69次資料館」という
民間施設が有ります。

中山道69次を歩く」という本を執筆した岸本豊氏が館長で、

庭にはミニ中山道六十九次が作られてます。

寄ってみましたが残念ながら火曜日は休館日でした

近くを通る機会があったら、ぜひ寄りたいですね。

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追分宿の「分去れ」より、旧中山道は国道を横断し左に入り、

「笑坂」と呼ばれる長い坂を下っていきます。

笑う坂?  続きます・・