歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第36回    1日目・中編 高宮宿 ~彦根堺

近江鉄道・踏切を渡り、高宮宿へ入ります。

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続きです。

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高宮宿は江戸より第64番目。119里7町 468Km
京へ16里6町(約64km)、鳥居本宿から約6キロメートル。

 高宮宿は多賀大社門前町として、また近江上布(麻布)の集散地として

 大変栄えた宿場で、

天保14年(1843)の宿村大概帳によると、

 戸数835、本陣 1、脇本陣 2、旅籠 23、人口3560人余

 宿長 7町16間(約800m)。

 とあり、中山道では本庄宿に次ぐ大きな宿場であった。

 

 高宮宿は、高宮布(麻織物)と多賀大社の鳥居ということで、

 多賀=高、大社=宮で、 門前町であった高宮の名の由来になった。

 

近江鉄道踏切を渡り200m位進むと高宮町大北交差点で、渡った右角に、

木之本分身地蔵堂大北地蔵堂)が有り、

「北国街道木之本宿の浄信寺にある、眼病に御利益のある地蔵菩薩の分身で、

 めずらしい木彫りのお地蔵様」との、解説パネルが側に立ってます。

(木彫りとは珍しい、と覗かせて頂きましが、薄暗く見えませんでした)

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地蔵堂から先の街中は、また急に道幅が狭くなり、車のすれ違いもぎりぎりの

幅になってきます。まあ、街道らしい道幅と言えるんですが・・・

お~い、後ろから車だよ~・・右側、歩いた方がいいよ~。

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緩く右に左に曲がりならの街並みが続きます。

地蔵堂から約300mほど、左手は近江鉄道高宮駅への道があり、高宮駅からは

多賀大社への鉄道線が分岐しています。

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駅入り口を過ぎて、相変わらず交通量の多い、歩道帯無しの道が続き、

家軒下ぎりぎりを歩くことが多くなってきました。

車がすれ違うたびに通行が停滞して、お互い譲り合いのタイミングが難しそうで、

怒号が飛び交う場面もありました。

150mほど行くと、右手は高宮神社の参道が伸び鳥居が建っています。

高宮宿の氏神様で、正徳3年(1713)と思われる古い石燈籠があり、鎌倉末期の

創祀とされ、本殿は嘉永3年(1850年)の建立と、街道書に記されてます。

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鳥居をくぐり参道を行くと大きな山門、嘉永二年(1849)建立といわれる随身門を

入ると、境内はけっこう広く、

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ゆっくりご本殿も拝観。

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参拝も済ませて、随身門脇の芭蕉の句碑を見て、参道を戻ると、

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左手に、門にしめ縄を掛けた建屋が有り、塀には大祭のパネルが

何枚も飾られてる。神社関連の建屋なのか?

パネルの様子から、見てみたい祭りとは思いましたが・・う~ん、無いだろうな~、

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そして右手南側には、大きな蔵を持ち複雑な屋根組の旧家らしい建屋は、

高宮村の庄屋を務めるなど村の有力者で、地域を代表する近江商人であった馬場家で、江戸後期の天保4年頃の建築と推定される建物は、彦根市文化財に指定、との説明板が建ってます。

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参道を戻り鳥居正面の「宿駅 座・楽庵蔵」の大きな看板を掲げてるのは、

築200年を越え、かっては倉が7棟もあったという高宮布の問屋の布惣跡でした。

現在は喫茶店「おとくら」とギャラリーになっている。
高宮布は室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重され、江戸時代になってからも高宮は麻布の集散地として栄えた。
この主屋は三つの蔵とともに、国登録有形文化財に登録されている。

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左側の高宮郵便局の前に、祭り提灯などが飾れた、なにか懐かしい提灯店があり、

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馬場提灯店の先隣りに昔ながらの酒店がありました。

時代を感じる荒壁の建屋など、いい味を醸している町家が続きます。 

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酒店の直ぐ先は高宮鳥居前交差点で、左側に高さ11メートル、滋賀県指定有形文化財

多賀神社の大きな鳥居が建っています。

その右傍らには、「是より多賀みち」の道しるべと、多賀みちを照らしていた

高さ6mという大きな常夜燈が並んで立っています。

これより約4キロメートルの先には、延命長寿と縁結びの神として崇められる

多賀大社があります。

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多賀大社は、現滋賀県犬上郡多賀町多賀に所在し、
 お 伊勢七たび熊野へ三度 お多賀さまへは月まいり j、と唄われ、
 伊勢神宮の祭神天照大御神親神様を祭る神社として古くから信仰 を集めてきた。
 特に江戸時代以降、庶民が容易に神社 仏閣を巡る旅に出られるようになると
 伊勢神宮や讃岐 の金毘羅宮、西富三十三所観音霊場などと共に全国か ら参詣者が
 訪れるようになった。」(滋賀文化財資料より)

 

多賀大社へは、今回の旅の帰りに寄り道参拝しました。)
 ブログ・多賀大社

hansui.hatenadiary.jp


右手に芭蕉が泊まった小林家があり、ここが芭蕉紙子塚で、石碑と解説パネルが

有ります。

「貞享元年(1684年)冬、円照寺の住職の紹介で町家に世話になった芭蕉が、

 寒さに耐えて横になる自分の姿を、『たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子』と

 詠み住職に送ります。(紙子とは紙で作った衣服のことです)

「単なる客人」だと思っていた町家の主人が、その客人が芭蕉だったと知ると、

 非礼への償いとして新しい紙子羽織を贈り、古い紙子は庭に埋めて「紙子塚」

 とし、代々敬った」(解説パネル)

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芭蕉紙子塚から約90m歩くと、右側に塩谷家が勤め問屋を兼ねた脇本陣跡があり、

格子に解説パネルが掲げられていました。

こちらは高宮宿に2軒あった脇本陣のうちの1軒で、慶長13年(1608年)から

問屋場も兼ねたそうです。また、門前には高札場が設けられていた、と街道書に

有ります。

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玄関前に綺麗に咲く秋の花々を楽しみながら、

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脇本陣から約40m歩くと、左側に小林家が勤めた本陣跡があり、

往時は、間口約15間、建坪123坪の広さとされ、現在は表門が残されています。 f:id:hansui:20191204044231j:plain

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本陣跡の斜め右手は円照寺があり、パネルには「元和元(1615)年大阪夏の陣に向う

徳川家康が腰掛けた家康腰掛石があり、明治天皇所縁の松がある」と記されてます。

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円照寺から約180m歩くと、

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高宮宿も家並みが途切れ、高宮川の無賃橋北詰交差点付近が江戸時代の高宮宿

西の京口で、交差点の右側に、「無賃橋碑」と「むちん橋地蔵尊」が安置されて

いました。

現在の橋は昭和7年(1932年)にコンクリート製の橋に架け替えられたもので、

昭和52年、むちん橋の改修工事の際、橋脚の下から2体の地蔵尊が発掘され、

天保三年(1832)の最初に架橋された礎の地蔵尊であろうとお堂を建てて祀った由。

無賃橋の由来は、彦根藩近江商人藤野四郎兵衛に命じて募金により架橋した橋で、

渡り料を無賃にしたことで付けられたようです。 

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綺麗な秋空に、犬上川の源流の鈴鹿山系の山並みが望めました。

犬上川の流末は琵琶湖へ注ぎます。

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広重画 高宮宿 (画解説文より)

高宮川は、宿場の西口(南)にあって、犬上川とも言われます。当作品は、川の南岸から高宮を見通す視点で、北岸に常夜燈、宿場、背景の山並を遠近法的に紹介する形式です。川中に橋桁を設置し増水時に板を渡して渡っていた。平時は渡渉であった。同スケッチ帖から判断して、広重は、水位が低くなって橋脚だけが残された景色に興味を持ったのかもしれません。これに歩行で川をジグザクに渡る旅人達を加えたのみならず、麻あるいは苧殻(おがら)を背負う2人の農婦を前景に描いたのは、宿中で織られた高宮布(上布)と関連付け、高宮宿の名産を紹介するためです。

両側に描かれた松は、多賀大社の鳥居に見立てたという説がある。

(増水時の渡り賃が無料だったのかな?)

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高宮橋(無賃橋)を渡ると、旧法士(ほうぜ)村に入り、約250m歩くと、

四の井川に架かる新安田橋があり、渡った処の十字路先の左側に日本橋から

120番目の「法士(ほうぜ)の一里塚塚跡」標石が建っていたはずですが、

標石は無残にも壊れていました。

1年前に旅をされた方も「壊れていた」とあり、残念ながら放置されたままでしたね。

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多賀道道標、八幡神社を過ぎると葛籠村となり、少しだけ松並木が残されてます。

旧つづら村は藤細工、葛籠、行李、団扇な名物の立場であった、と街道書に

記されてます。

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しばらく足を進めると、右手に真言宗豊山派の寺院である月通寺があります。

本堂には行基彫造と伝えられる、蔵菩薩が安置され、別名「柏原地蔵」とも

呼ばれてるそうです
山門前に「不許酒肉五幸入門内」と刻まれた石標があるが、禅宗であった頃の名残を

伝え、山門は、左右に本柱と控柱をそれぞれ一組ずつ配し、屋根は切妻破風造りと

なって、医薬門の一種、と街道書に記されてます。

「許酒肉五辛入門内」とは、酒・肉・五辛など臭いの強いものを、

門内に持ち込むことは許されません、ということだそうで、

ここで言う五辛(ごじん)とは、にんにく・にら・ラッキョウ・ねぎ・

ひる(野蒜の異名)を指すそうです。

(全部、好物ばかり・・)

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時刻も午後の1時、そういえばお腹も空いてきた、と境内のベンチをお借りして

持参の昼食一休み。

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月通寺から100mくらい右手に、足利利尊氏の子義詮に纏わる事柄がある

産の宮井戸跡があり、「足利氏降誕の霊地」と彫られた手水鉢と井戸跡、

奥に進むと「産の宮」が祀られているそうですが、宮までは入りませんでした。
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すぐ先左手に真宗大谷派甑谷山(そうやざん)還相寺があり、

向いには大正元年(1912)の開基の浄土宗摂取山了法寺があります。

次いで右手の高崎医院の並びに、堂の川地蔵尊が祀られています。

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先の左小路に入ると鹿嶋神社が鎮座しています。

甕槌神(たけみかづち)を祭神とする神社で、武神であるところから武家の崇敬を

篤く受けた、と街道書に有ります。

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 葛籠の街並みが途切れると、街道は松並木になり田園風景が広がります。

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左手に彦根市モニュメントがあり、三本の石柱の上に

「麻を背負った婦人、菅笠を被った旅人、そして近江商人」の像が乗っています。

彦根市から出る側には「またおいでやす」、入る側には「「おいでやす」彦根市

刻まれています。

彦根市の東、鳥居本宿へ入るところにも、像は違いますがモニュメントが有りました。

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 旅は続いてゆきます。

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第36回    1日目・前編 鳥居本宿~ 高宮宿 

中山道、夫婦歩き旅も11月初の旅でついに近江の国へ入り。

残すところも70kmを切り大詰めが近づいてきた。

年内にできるだけ京へ近づきましょう、のカミさんの意向あって、

11月22日(金)~25日(月)に再び旅の空へ。

天気は小雨模様も予報されていたため、雨具などを用意してそれなりの準備で

11月22日(金)カミさんの仕事終わりを待って職場から拾い直接旅立ちへ。

PM7:30 近江八幡のホテル着。

 

11月23日(土)

前日までは薄曇り小雨可能性有り、の予報だったが、有難たや!快晴の夜明。

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ホテルで朝食をとり、JR近江八幡駅から乗車し、JR彦根駅近江鉄道に乗り換え

前回足止めの鳥居本へ。

地図を見ると、中山道はJR線とは離れてしまうが、有難いことに近江鉄道が、

中山道とつかず離れず走っているので、わりと足の心配はしなくて済み、

大助かりです。

(缶コーヒーの看板を写したのではありません。新幹線を写したら頭が隠れちゃた)

そうそう、鳥居本駅にはトイレがありましたが、現在は閉鎖されてます。

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晩秋の旅の空は日暮れも早い。
今回の予定、今日23日(土)は、
63番、鳥居本~64番高宮 1里18町 5.9Km 日本橋より 119里7町 468.0Km
64、番高宮~65番愛知川 2里0町  7.9Km   〃    121里7町   475.9Km
                   (13.8km)
24日(日)は、
65、番愛知川~66番武佐 2里18町 9.8Km 〃 123里25町 485.7Km
 2日間で23.6km

 今の老老旅ではこんなもんですね。

 

 前回の旅、11月4日に足止めした江戸から64番目・鳥居本宿脇本陣前で

旅立ちショットをとり、

11月23日(土)AM9:20、無風快晴の空の下第36回目の夫婦歩き旅の再開。

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前回歩いてきた鳥居本宿内には、枡形は残っているものの、本陣や脇本陣などの

遺構は残念ながら残っておりませんが、町並みに連なる切妻屋根の中二階建て、

漆喰塗籠めの虫籠窓、卯建、格子、出格子などをしつらえた伝統的な町家など、

宿場町の面影を伝えるべくの維持活動がなされていることが良くわかります。

鳥居本のあたりは、古今和歌集」や「百人一首」の編集で知られる藤原定家一族の

荘園だったようです

鳥居本駅入口からすぐに高橋家が勤めた脇本陣があり、問屋場も兼ねていたそうです。

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街道書には、脇本陣の向かい側で鳥居本駅入口の右角に高札場、と記されてますが、

標板など何も表示されていませんでした。

虫篭窓の旧商店らしき建物軒下にはこんな札が下がってますが?

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高札場跡から約90m歩くと、文政8(1825)年に創業した合羽所松屋跡があり、

軒先に行燈看板が掲げられていました。

合羽所「松屋」での案内板によると

「 江戸時代より雨具として重宝された渋紙や合羽も戦後のビニールやナイロンの

 出現ですっかりその座を明け渡すこととなり、鳥居本での合羽の製造は

 1970年代に終焉し、今では看板のみが産地の歴史を伝えています。

 昔そのまま屋根の上に看板を掲げる松屋松本宇之輔店は、丸田屋から分家し、

 戦後は合羽の製造から縄づくりに転業しています。

 2001年には、かつて 家屋の構造を生かしながら改修されました。」

 とあります

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現在の行燈看板には「商号松宇 包紙紐荷造材料」と書いてあり、

扱い苞品は変わってきてるようですが、まだ現役の商店のようです。

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合羽所松屋から約60m歩くと、十字路分岐があり、分岐の右角に礎石の上に唐破風の桧皮葺き屋根の常夜燈が建っています。

格子の扉が嵌められ、擬宝珠まで乗っている立派なお堂のような常夜燈です。

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f:id:hansui:20191203035338j:plain常夜燈のすぐ先右手に「鳥居本宿交流館・さんあか」があり、

駅にトイレが有りませんので、ここでトイレを拝借します。

街道歩き人にとっては、ゆっくり足休めもできる本当にありがたい施設です。

名産の、すいかの赤 合羽の赤 薬の赤玉の赤で「さんあか」なんだそうな。

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常夜燈から歩くと、左右に白壁造虫籠窓の家、ベンガラ塗の家などが並び宿場時代を

彷彿とさせてくれる、歩いて楽しい街並みが続きます。

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右側に聖徳太子開祖と伝わる専宗寺があり、山門右手の境内に聖徳太子廊が

ありました。

さすが近江の国、聖徳太子が出てきましたね~。

 かつては、佐和山城下町本町筋にあり、泉山泉寺と号していましたが、

寛永17年(1640年)に洞泉山専宗寺と改め移ってきました。

本堂などの建立年代は18世紀後半のものといわれており、山門の右隣の二階建の

太鼓門の天井は佐和山城の遺構とのことです。

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さあて、この屋号は、カミさんは(しひやく、ひゃくし)

 なんて読むのかな??

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(駐車案内板に「どどもも」とフリガナされていた。

 帰宅後調べてみると、百百(どど)家という旧家で、2010年に登録有形文化財

 に指定された建屋での蕎麦店でした。もも、は名なのかな)

 

専宗寺から約200m、鳥居本宿の南のはずれに近い四つ角に、

文政10年(1827)に建立された「右 彦根道 左 中山道 京いせ道」と

刻まれた古い道しるべが建っている。

右折した道が彦根に通じる彦根道であり、朝鮮人街道とも呼ばれるそうです。

朝鮮人街道(彦根路)は中山道彦根城下を結ぶ脇街道的な存在で彦根藩2代藩主

井伊直孝が整備した、との説明板が有ります。 

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ここから彦根城下までは約一里だった。

彦根道は、徳川家康関ヶ原合戦後の上洛に使用した道であるが、朝鮮通信使が通ったことから、 朝鮮人街道 とも呼ばれている。
朝鮮人街道とは、先に雨森芳洲の章で触れた朝鮮通信使が朝鮮と江戸との往復の際に通った道で、鳥居本宿から分岐して中山道よりも北側の琵琶湖沿いの道を通り守山宿の手前の行畑で元の中山道に戻る全長40㎞あまりの道のことである。
 比較的まっすぐな道として整備されている中山道とは異なり、道が複雑に右折左折を繰り返す道をわざわざ朝鮮通信使一行に歩かせた幕府の意図はよくわからない。
 この道は関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が京に上る際に通った吉例の道とされている。その後も将軍上洛の際に使用された道であるが、大名の参勤交代には通行を許されなかった特別な道でもある。
 朝鮮通信使はここで進路を右に取り、彦根城下の宗安寺で宿泊するのが通例となっていた。朝鮮通信使徳川時代を通じて12回しか派遣されなかったのにこの道が朝鮮人街道と呼ばれるようになったのは、沿線の住民たちにとって朝鮮通信使の一行がいかに印象強いものであったかを物語っている。(彦根市解説文)

道標から約230m歩くと、左側に鳥居本宿標柱が建っていました。

ここが鳥居本宿の京口(西口)でしょうか。

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鳥居本宿標柱をあとに。街道は東西を200~300mの山に挟まれた幅200mほどの

谷間に、東側を名神高速が走り、西側を東海道新幹線が通り都内のラッシュ時の様に

次から次と行き交っています。

左手に「古宿」の標識があり、さらに進むと左手小野川用水沿い彦根市小野町の標識があり、小野小町の出生地と云われる旧小野村へ入って行きます。

街並みの入ると左側に小野こまち会館が建っていました。

江戸以前はこの集落が宿場であったことを「古宿」の標識が物語ってます。

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右手に地蔵堂、左手にも地蔵堂、といくつかの祀られた地蔵堂を見ながら、

静かな佇まいの小野町集落を歩き、

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間もなく集落を抜けると高速道(写真右アーチ)、新幹線(写真左下)が

ますます近よってきて、挟まれた中を街道は通じてゆきます。 

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先ほど新幹線が通過したこの建造物は何でしょう??

新幹線の右方向に有ったセメント工場と、左手方向に有った石灰岩採掘場とを結び、

原料を運搬していた索道(ロープウェイ)が通っていた、との説がありました。

工場は1996年(平成8年)に閉鎖され、索道も取り外されたということですか。

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すぐ先右側に八幡神社参道入口の社標と常夜燈が建ち、新幹線高架越に鳥居が

見えていて、社殿は奥の森の中に鎮座している様子です。

設置された案内説明板には、創立年代は不詳だが社殿は天保8年(1837)の改築、

とありました。

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参道入口から約240m歩くと、左側に「聖谷」の看板が立ち、

聖徳太子が合戦の折、一時隠れた陣地」と記されてますが説明板もなく

詳細は不明です。

その先には小さな建屋の中に六地蔵が祀られ、そのさき約30mほど左手に、

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小さなお堂があり、絶世の美女と讃えられた六歌仙の一人・小野小町は、

ここ小野村が出生の地とされ小町地蔵堂が祀られていました。

出羽郡司小野美実(好美)は奥州に下る時、小野宿に泊まり、ここで生後間もない

女児を養女に貰い受け、出羽国へ連れ帰りました。この女児が小野小町と云われて

います。(案内板)

小野小町」の生まれた場所や墓は全国各地に見られるそうですが、ここで生れた

 という説はかなり有力といわれているだそうです。

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「小野地蔵は自然石を利用して、阿弥陀如来座像が浮彫りにされている。

 正面だけでなく、両側面にも彫り込まれており、類例が少なく貴重なものである。

 太鼓を抱えた猿と兎が描かれた鳥獣戯画風の石板は、「郷土芸能「小野町太鼓踊り」

 を表し、「小野小町にはたおりさせば あややにしきの姫ばたを」

  と記されてる。 (説明版より)

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小町地蔵堂の隣に中山道標柱があり、小町前茶屋跡の標識が建っていました。

小野前茶屋は明治の中期まで茶屋があり、お多賀さん(多賀大社)参りの人で

賑わったそうです。

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小町前茶屋跡から約75m歩くと、東海道新幹線の高架橋があり、

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高架橋を潜り謎の大狸を見つけながら行くと、やがて左手に用水が流れている

「原」の集落に入ってきます。

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約350m歩くと、 左側に原八幡神社地蔵尊入口の標柱が建っており、新幹線下を潜った先に地蔵尊が祀られていました。

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原の集落

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右側に聖徳太子を祀る原八幡神社の鳥居が建っており、鳥居の脇に、

芭蕉 昼寝塚/祇川 白髪塚」の石碑があり、右折して神社に立ち寄りました。

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神社の境内に入ると、白髪塚、芭蕉ひるね塚があり、解説標板が建っていました。

解説文によると、

「昼寝塚」に彫られている方は芭蕉の句は「ひるかほに 昼寝せうもの 床の山 」

 というもので、この句はこの付近で詠まれたものだという。

「白髪塚」の方は「恥じながら  残す白髪や 秋の風」というもので、聖徳太子

守屋との戦い等、幾多の戦いの将士達をあわれみ、蕉風四世・祇川居士(陸奥の人で、芭蕉の門人)が師の芭蕉の夏の句に対し、 秋を詠んだ句ではと言われている。」

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街道に戻り、約80m歩くと右側に、中山道・原町の道標が立ち、

右奥植え込みの中に天保15(1844)年に建立された「五百らかん」への

道標石碑があり、道標の先は名神高速道路彦根ICの高架道路が2つ続いてiいます。

五百羅漢を祀る天寧寺は、井伊直弼の父である直中公が、自分の過失で手打ちにした

腰元と初孫の菩提を弔うため建立したそうで、後に桜田門外の変で暗殺された

井伊直弼の墓もある、と街道書に記されてます。

(往復で3,40分ほどかかるようなので寄らづに先へ進みました)

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2本目の高架道路を潜った所から約150m歩くと、正法寺前交差点の手前左側に

慶応3年(1867年)建立の多賀大社常夜燈が建ち、周りには、

道標「是より多賀みち」、安産観世音是より四丁慶光院、

慶応2年(1866年)建立の金比羅大権現石碑などが建っている。

常夜灯は多賀大社の東参道への近道を知らせるために建てられたそうで、途中も

お参りするところがあることを示してるそうです。

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多賀大社常夜燈の先の正法寺前交差点を横断し、森に沿って急に狭くなった道を

約350m歩くと、右側に春日神社の参道入口があり鳥居が建ってます。

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春日神社を後に先へ進むと、食品スパーが有り、トイレとイートインコーナーで

足休めCaféタイム。

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スーパーを後に歩道帯の無くなった道を車に注意しながら約200mほど行くと、

右手に浄土真宗勝満寺があり、鐘楼堂前に、矢除地蔵堂が祀られていました。

聖徳太子ゆかりの史跡。中には聖徳太子像と地蔵。

この地に隠れていた聖徳太子が守屋の軍勢に発見され、矢を射かけられたが、

突如金色の地蔵菩薩が立たれた。後になって松の根方に小さな地蔵尊が右肩に矢を射込まれて血が流れていたという伝説があるそうで、このあたりには聖徳太子伝説が

多いそうです。(解説文概要)

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矢除地蔵堂から、結構交通量の多い歩道帯のない道を約500mほど行くと、

鈴鹿山脈に源を発し琵琶湖へそそぐ芹川が流れ、大堀橋で渡ります。

芹川は不知哉川「いさや川」と呼ばれ、万葉集の歌枕になったそうで、橋を渡る手前、

左手に橋下へ下ると万葉歌碑があるそうです。

(道の右手を歩いていたので立ち寄りはしませんでした)

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大堀橋を渡ると大堀町交差点があり、右側に「床の山碑」が建っていました。

標柱に「ひるがおに 昼寝せうもの 床の山」と刻まれている。

街道書には、川の手前左手の山、大堀山は鳥籠山(床の山)といわれ、

歌枕になり、672年の壬申の乱の古戦場でもあった、と記されてます。

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床の山碑の後ろは綺麗な紅葉にいろどられた旭森公園があり、公園の外れ斜面には

地蔵堂があり、脇にはたくさんの石仏が置かれてます。

地蔵堂の道を隔てた向こう角に多賀道道標が有り、道標の右手岩清水神社駐車場は

お休み処「かどや」跡で、お休み井戸を残していて案内板が立ってます。 

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 地蔵堂の隣は亀甲山と呼ばれる小山で、石清水神社の参道入口の石段があり、

能楽家元が彦根藩を訪れたとき、記念に面と扇を置いて行き、当地の弟子たちが

記念の「扇塚」「面塚」を建てたといわれ、現在は「扇塚」が残されてます。

境内のモミジが素敵な彩を添えてますね。

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大堀町の解説によると、古く飛鳥時代からこの地にお祀りしている神社だそうで、

武勲守護の神、また安産の神として参拝、祈願する人が絶えなかったそうです。
本殿(写真右)の建築時代は不詳、拝殿は明治9年5月改築さたとも記されてます。

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石清水神社から先は次第に住宅が立て込み始め、道幅もかなり狭くなってきますが、

歩道帯は区分されてはいません。

車の往来はかなり多く、お互い待ち合わせをしながらの行き交いになり、歩く方も

暫し足止めをしながら進む街道になってきました。

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 歩道帯のない道は、車と対面する右手を歩くようにしています。左手を歩くと

後ろから来る車に対応ができないからです。

右手に堂々たる山門、鐘楼堂をもった、天台宗から改宗した浄土真宗本願寺派

鳥籠山(ちょうろうさん)唯称寺を見送り

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唯称寺から10分ほど行くと、右側に大堀家地蔵堂が祀られていました。

建久元(1190)年、源頼朝はここで体調を崩し、地蔵菩薩に平癒を祈願したという

いわれがある地蔵堂、と街道書に有ります。

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 地蔵堂から約350m歩くと、近江鉄道の踏切があり、手前右側に大きな常夜燈が

建ち、高宮宿碑が建てられているのですが、写ってない!

街道書では、ここが高宮宿の見附跡で江戸(東)口だった、と記されてます。

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江戸より第64番目。119里7町 468Km
京へ16里6町(約64km)、鳥居本宿から約6キロメートル。

 高宮宿場街へ入ります。 続く。

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅 第36回 寄り道編 多賀大社

11月23、24日の中山道歩き旅の2日間を無事に歩き、帰りの寄り道は

湖東三山の内の2院、金剛輪寺西明寺

素晴らしい錦秋の2寺を後に、お天気も持ちそうなのでもうひつ寄り道へ。

国道307を北へ走り、途中の道の駅「かがやきの里こうら」で早めの昼食。

さらに10分ほど走ると国道わきに観光協会の駐車場があり、

車を停めて「近道」の案内板に従って5分

行くとポンと近江鉄道多賀大社駅から通じる門前商店街に出ました。 

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寄り道は近江の国、多賀大社です。

正面にどしりとした大鳥居、両脇には威厳をもった大狛犬が控えてます。

社伝によると、

多賀大社は「古事記」に記された記述があり、創建は古事記成立より以前だとされて

いるようです。

日本最古の書物「古事記」によると、国造りの神である伊邪那岐命(イザナギ)・

伊邪那美命(イザナミ)の二柱をご祭神として祀っており、八百万の神々を生み出した

ことから、古くより延命長寿の神として信仰を集め「お多賀さん」の名で親しまれて

いました。
伊勢神宮の祭神である天照大神はその子であることから、
「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」

「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」と

俗謡に詠われ親しまれ、年間約170万人の参拝者を 迎えているそうです。

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神社を清流が囲み、石の反り橋を渡ります。

豊臣秀吉が母の延命を祈願し寄進したことから、寛永15年〈1638年〉造営の

太鼓橋は「太閤橋」の雅名でも呼ばれる。

渡れるようでしたが、かなりの反りですのでカミさんSTOPで、脇の石橋を渡って

境内へ入ります。

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天災や火災による喪失が何度か繰り返され、その度に彦根藩や幕府からの手厚い保護を受けて再建されて今日に至っています。

太閤橋を渡ると正面に築地塀を広げた表門が建ち、入ると奥は玉砂利を敷いた

ご神域となります。

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正面に社殿群から突出した形で拝殿(切妻造妻入り・桧皮葺)
すぐ後に神楽殿(入母屋造・桧皮葺)が建ち、その左右に廻廊が延びる。
その後ろには幣殿、祝詞舎と続き、一番奥に一段と大きな屋根はご本殿が祀られてる
ようです。

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 厳かな雰囲気が漂う境内には、右に能舞殿、

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左に絵馬殿が立っています。

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社殿の造営案内の概略、
 「江戸時代には、寛永の大造営(1633--38)がおこなわれたが、

  安永2年(1773)の大火災によって諸堂社のすべてが焼失。

  文化5年(1801)には三間社流造の本格的な本殿が造られ再建された。
 (この本殿は、昭和の造営に際して豊郷町白山神社に移築され現存している由)。
  明治に入ると神仏分離令を経て、大正8年(1919)から再建がなされ、

  社殿は昭和7年(1932)に再建され、昭和の大造営事業として昭和8年(1933)

  に完成した。 

  さらに、平成19年に20億円を投じ,「平成の大造営」がなされました」

 (境内図)

 

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拝殿、奥の屋根は神楽殿

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堂々とした風格を持つ本殿が建つご神域。

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一段と大きく高い屋根のご本殿。

ご本殿のこの大きさは少ないのではないでしょうか。

 

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東廻廊の横に石碑が建ち、61歳の重源(ちょうげん)が東大寺を再建するために

延命を祈願し、無事願いが叶ったたことを記念した延命石が石囲いの中に置かれ、

祈願の際は、授与所にて祈願の白石を授かり、住所・氏名を書き、寿命石の上に

置いて願うそうです。

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(写真はピンボケだったため拝借したものです)

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境内の右手奥には、金咲稲荷神社が祀られてます。

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 拝殿前へもどり参拝。

史跡・名勝、多賀神社奥書院庭園には、残念ながら時間が無く拝観しないで帰途へ。

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再び太鼓橋の左手に回りながら戻ります。

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境内の紅葉が鮮やかなアクセントを添えていました。

伊勢神宮へは東海道の歩き旅で、三重県内を通ったっ折に参拝してましたので、

これで両参りを済ませることができました。

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国道側駐車場から入るゲート。

(近道を来たので通てはいません)

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道沿いに見つけた「ミセバヤ」が面白い色合いでした。

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雨の予報でしたが晴れ間の中山道歩き旅、4日間を終えて帰途へ。

湖東三山、金剛輪寺西明寺の紅葉はデジブックアルバムです。
(無料ですが登録は必要になります)


金剛輪寺デジブックアルバム

 

西明寺デジブックアルバム

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第35回    2日目・ 柏原宿~醒井宿~鳥居本宿 後編

11月4日(月振替休)AM11:30、

醒井宿を後にし、南へ向かいます。

六軒茶屋跡。

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続きです、

六軒茶屋跡から100mほどで国道21号に合流。

右手を見ると伊吹山が大きく顔を覗かせてます。

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道路を横切って進行右側に移動し約50m歩くと、右側に一類狐魂等衆碑と地蔵尊

祀られていました。

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薄れて読み難いですが「一類狐魂等衆」のいわれが記されてます。f:id:hansui:20191118070345j:plain

一類狐魂等衆碑から約50m歩くと十字路で、先に丹生川があり、

橋の手前川沿い道左側に、後ろ向きで新しそうな地蔵堂が祀られ、

川沿い右側は壬申の乱横河の古戦場跡があり、解説標板が建っていました。

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丹生川を渡り、国道を200mほど行くと街道は右手に分岐し、

中山道河南標識があり、河南の集落へ入ります。

タンポポが咲いている!

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約300m歩くと、右側に屋根付き囲いに地蔵堂が祀られ、その先を左に曲がった

道すぐに風格ある徳法寺、過ぎて400mほど先左手には作業中らしき鉄骨枠組の中に、地蔵堂が有りました。

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地蔵堂から約210m歩くと、国道21と交差点し横断して進んだ左手は畳屋さんで、中山道木看板下げられ、街道は樋口地区の家並みへ入って行きます。

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樋口交差点から約190m歩くと、左側に地蔵堂が祀られていました。

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地蔵堂から約100mほど、浄信寺入口を見送り城造り塀の屋敷の先で和佐川を

渡ります。

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和佐川橋を渡り約50m進むと、右側に旧家らしい吉田八十郎商店。

真向かいに、立派な長屋門のこれも旧家らしい屋敷がありました。

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長屋門から約250m歩き、右手に敬永寺を見て、
T字路分岐に突き当たり左折し、北陸自動車道の高架下を抜けると先は

Ý路分岐になり、

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分岐点に、日本橋から117番目の一里塚「久禮(くれ)の一里塚」跡があり、

跡地に解説標板と中山道碑が建っていました。

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一里塚分岐を右手にとり久禮(くれ)の集落へと足を進めます。

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すぐに家並みがとぎれ左手は田圃や畑、その向う側は高速道のフェンスが続く

里山道を約300mほどゆくと再び集落の家並みへ入り、

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右側民家の道端に問屋場跡石碑、中山道番場の木札や、家に挟まれた地蔵堂を見て

行くと、

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県道240との十字路になり、十字路手前右側の古民家前にも中山道番場宿・問屋場跡の石碑が建っていました。 

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街道は県道と交差して先へ続きますが、交差する県道240号の右方向は、

琵琶湖の米原湊に通じている米原道で、渡る手前の十字路右角に番場宿碑が建ち、

渡った角には石道標があり、「ここは番場宿です」と記された木製箱型の案内標識が

立ってます。ここが番場宿の東見附(江戸口)のようです。

(案内標識は県道を往来する車用のようです) 

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石道標には

米原 汽車汽船 道」とあり、鉄道・琵琶湖線が開通した明治22年(1889年)

以後にたてられたと、街道書にはありました。

番場宿は古く東山道の頃からの宿駅で、その名は全国的に知られていたようです。

東山道時代は宿場は西番場にあったのだが、慶長年間になって米原へ出る道が開かれると、宿場機能は現在の東番場に移った。米原は番場宿から一理ほどで江戸時代は琵琶湖湖岸にあったことから物資輸送の基地として栄えた。(米原市案内文)

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番場宿、江戸から62番目 116里24町 458.1km

天保14年(1843)中山道宿村大概帳」

本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒、家屋178軒。

米原市 番場宿概要文抜粋」

「宿場の規模は下町、仲町、上町の3町合計で1町10間(約127m:中山道の宿場町の中では最短で旅籠の数も比較的少ない事から宿泊などの利用に不向きだったと思われます。しかし、慶長16年(1611)に彦根藩の命により北村源十郎が米原湊を開削されると、番場宿と北陸道米原宿との間に切通しが設けられ、琵琶湖を利用した舟運の物資が番場宿を経由して中山道に運ばれる物流の拠点として重要視されるようになり、小さい宿場町ながら問屋6軒を擁しました。

町屋にはあまり古い建物が少なく歴史的町並みも失われつつあります。」 

 

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広重 画 番場宿

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すでに問屋場跡を二か所見てきましたが、東番場地域へと進んでゆきます。

東見附からすぐ先右手は脇本陣跡で高尾家が勤め、高尾家は問屋場も兼ねており、

敷地の道路際に標石が建っていました。

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先隣りには北村家が勤めた本陣跡で石碑がたち、こちらも問屋場を兼ね、隣の跡地に

標石と、おおきな、明治天皇小休所跡 の碑も立ってます。

敷地面積は156坪。中には表門や式台付の玄関を有し格式の高い建物であった。

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本陣跡から約50m先の右側に、問屋場跡標石が建っていました。

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斜め向かいには東番場消防団の器具小屋が有り、右隣りの宮は地蔵堂のようでした。

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 東馬場地区には本陣・脇本陣の碑あったけど、遺構らしきものも残されてなく、

 静かな町並みが続いてました。

50mほど先左手に、「南北朝の古戦場跡 蓮華寺 」「 瞼の母 番場忠太郎地蔵尊」 と記された標柱があり、続いて「史跡・蓮華寺」の標柱が立っている。

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長谷川伸の戯曲『瞼の母』で一躍脚光を浴びた中山道の宿場町。

「番場の忠太郎」の故郷として、蓮華寺の境内に忠太郎地蔵尊が立てられています。

門前通りを真っすぐ約150m歩くと名神高速道路で分断され、高架下を潜って

進むと正面に蓮華寺があり、立派な山門が立ってます。

推古天皇の勅願により聖徳太子が創建したといわれる古刹・蓮華寺

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右側に「北条仲時墓所」の解説標板が建っています。

足利尊氏に攻められた六波羅探題北条仲時は番場宿まで逃げたが佐々木道誉に行く手を阻まれ、ついに蓮華寺で仲時以下430余名が自刃。寺に残された過去帳に自刃した

武士の法名が残されているそうです。

(解説抜粋)

墓所は山の上の方とのことなので、寄りませんでした。

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左側に土肥三郎元頼墓所があり、

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本堂裏手に結構大きな番場忠太郎地蔵尊が祀られています。

番場忠太郎は長谷川伸の戯曲「瞼の母」の主人公で、 番場宿は忠太郎の故郷と

いうことで日本版、母を訪ねて・・かな、

昭和6年の初演以来,舞台や映画,テレビなどで数多く上演され、歌も結構あるよう

です。

長谷川伸の作品には、上州沓掛宿の沓掛時次郎もありましたね。

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街道に戻り蓮華寺を出た宿場の道路は緩く上ってゆき、右手奥に法雲寺を見送り、

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その先右手に、寛永二年1625年)創建の彦根藩二代目藩主井伊直孝を祀る。

直孝神社の参道前を過ぎて、

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蓮華寺から約200m進むと左側に、地蔵堂が祀られ奥には大日如来堂が祀られて

いました。

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大日如来堂から約170m歩くと菜種川が流れており、この川が東番場と

鎌倉時代に宿駅だった西番場の境です。

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菜種川はここから街道に沿って左側を流れ、約20m歩くと地蔵が祀られた一角が有り、その先左側に鎌刃城案内標識が建っていました。

※鎌刃城は土肥三郎元頼が築城した山城ですが、織田信長の前に廃城となりました。

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緩やかな坂を上り西番場の街並みへ入ると、右側に寛平6年(894年)年に

創建され、菅原道真を勧請し祀っている北野神社があります。

注連縄の色合いが独特で、西日を受けて一段と目をひきつけます。

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北野神社の先隣は地蔵堂があり、その向かいにの民家前に

中山道西番場 古代東山道 馬場宿」と彫られた石碑が置かれてます。

西番場は元番場とも呼ばれ、中世東山道の宿駅で、あの源義経も宿泊した、と

街道書にはあります。

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ゆるい上り道を行き、寛永12年(1635年)に天台宗から真宗大谷派

改宗した称揚寺、同じく文明年間(1479年前後)に改宗した本授寺を見送って

15分600mほど、集落の途切れ左側に「中山道番場碑」が建ち番場宿を

後にします。

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西番場を後にすると、街道の直ぐ左側は名神高速道路。

振り返ると伊吹山が大きく眺められ暫し足止め。

こうしてみると花の伊吹山百名山伊吹山の西端は砕石場だったんですね。

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のこり少なくなった峠の一つ、の小摺針峠(こすりはりとうげ)へ向かって

緩やかな道を、時々振り返り伊吹山を確認しながらゆっくりと登って行きます。

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勾配がきつくなり、伊吹山の見納めをして、さらに上ると高速道トンネル上になり、

街道書に記されてる、米原市彦根市の市境、小摺針峠頂上へ着きました。

(示す標識などはありません)

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街道は下り坂となり、トンネルを抜けた高速道の轟音を耳にしながら行くと

右側に旅の安全を見守った地蔵堂があり、側に喉を潤した泰平水と呼ばれる水場が

有りました。

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泰平水水・地蔵堂から約500m歩くと、三差路分岐となり、左側に中山道道標が建っていて、分岐を右方向に進み旧ました。

(市境はこの変なのかな?)

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三差路から約300m歩くと、右側に日本橋から118番目の摺針(すりはり)一里塚跡があり、

旧摺針村の集落へと入っていきます。

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一里塚跡から集落のきつい坂道をゆっくりゆっくり上り、100mほど右手に

本尊が阿弥陀如来浄土真宗本願寺派平野山・称名寺があります。

ここも真宗ですね。

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過ぎて約70m先が上りのピークで、街道は左側に残された細い道を鳥居の立つ

方向へ上がってゆきます。

さあ、見えるかな?見えるかな?

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約40mほどの道を上ると左側に鳥居が建ち、神明宮が祀られており、

ここが摺針峠(すりはりとうげ))頂上に当たるようです。

さらに鳥居前から石段を上ると、

創祀年代不詳、永禄二年(1559)再興とされ,祭神は天照大神とされる神明宮が、

 日陰薄暗い木立の中に祀られています。

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 そしてそして、今回の旅の一番の楽しみは、見えるか!!  見えたぞ!!

ついに西方に琵琶湖が見えている!!

デジカメをズームしてカミさんと交互にレンズを覗きます。

日本橋を出立してから4年3か月、歩いて再び、琵琶湖を目にすることが出来た、

感動でしたね。

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広重の江戸から63番目「鳥居本宿」画は、ここ摺針峠を描いているそうです。
すばらしい琵琶湖が見られる名所として知られていました。

左に描かれているのは「するはり餅」を供していた、峠の大きな茶屋「望湖堂」。

目の下に琵琶湖が見えますが、昔の干拓前の琵琶湖は、ずいぶん近くに

あったんでしょうね。

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案内文、

中山道は、かっての東山道で、ほとんどが山道です。近江路に入っても、伊吹山麓の柏原宿、醒井宿をたどり、山間の番場宿にいたります。そして、この番場宿の山坂を登り、頂きの「摺針峠(すりはりとうげ)」に着くと、一気に視野は180度となり、西方に湖東平野とその先に琵琶湖が雄大な広がりを見せます。その峠の傍らには、昔の旅人が一息つき、琵琶湖を眺めていたという「望湖堂」という茶屋がありました。

残念なことに、この建物は平成三年の火事で焼失しました。焼失した「望湖堂」跡に建てられたものです。
当時は前方まで入り江が見えました。焼失した「望湖堂」跡に建てられたものです。
当時は前方まで入り江が見えました。

石段の下り鳥居前の左手に往時峠の茶屋だった望湖堂跡があり、解説標板が建って

いました。

望湖堂
峠の傍らにたたずむ望湖堂からは、往時は琵琶湖が一望できたようで、中山道随一の名勝と言われていました。かって、この茶屋の名物は、弘法大師が供えた栃餅が受けつがれ、旅人たちにもてはやされていました。また江戸時代後期には「皇女和宮」が休憩されたというエピソードも残っています。

神明宮を後にくっだて振り返ると、望湖堂がお城の様に見えましたね。

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 望湖堂から坂を約30m下って街道に合流し、約50mほど行くと、左に下る分岐が

あり、「西国古道」の標識があて左手に下る階段道が有りました。

西国と有ったので旧中山道ではないと思って入りませんでしたが、階段を下るのが

中山道だったようです。

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車道を一曲がりの付近で、野猿の群れに出会いました。

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一曲がり下ると、左手木々の中を下て来た階段道、西国道(旧中山道)が道を

横切って、再び木々の中の草道へ下って行きます。

小さな中山道と記された標識があったので、こんどは草道を下ります。

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谷間の山道はほぼ真っすぐに下ってゆき、一部では踏み跡程度の薄暗い細い草道に

なりますが、しだいに明るさが戻り杉林の中をゆくと、10分ほどで前方がひらけ

山道を抜けました。

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山道の中山道は抜けてすぐに車道と合流し、国道8号と合流する手前で車道を

横断して、左手の下矢倉旧道へ曲がります。(写真右、車の前に見える建物の間)

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下矢倉旧道へ入り半円を回り込むように進むと矢倉川に当たり、川沿いを左手からくる道に合流し右折。その先で国道に合流し、矢倉橋を渡りなす。

矢倉川出会い角に中山道石碑と「摺針峠望湖堂」と書かれた大きな石碑が立っている。 

峠を越えて下ると琵琶湖湖畔の平地。

さすがに秋も深まった季節、時折強く吹く北西の風は冷気が肌を刺すようです。

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一級河川の矢倉川に架かる矢倉橋を渡り、すぐ20mほどに中山道道標が立ち、

街道は国道から分岐し矢倉川沿へ進みます。

道標には「右 中山道」「左 北国街道 米原 きの本」と書かれています。

北国街道は、この先、国道8号を米原に向かっていました。

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道標から約20m歩くと、左側に彦根市のモニュメントが建っていました。

モニュメントは三本の石柱の上に、近江商人、旅人、虚無僧の像が乗っていました。

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蛇行する街道をゆくと、右側に中山道鳥居本町標石が立ち、ここが鳥居本宿の

江戸口のようです。

鳥居本宿、江戸より69次の63番目 

天保14年(1843)編纂「中山道宿村大概帳」によると

本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒、家屋293軒、人口1448人
日本橋より117.25町 462.1km、醒井宿より1里1町 約4km

京の都三条大橋までは69.2km約18里 残り70kを切りましたね。

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多賀大社の鳥居がここにあったことからその名がついたと伝えます。
また、中山道と、彦根道(朝鮮人街道)〜北国街道が分岐する交通の要衝として

賑わいました。

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江戸口を過ぎて、鳥居本宿の街並みへ足を進めると、街道筋の情緒を漂わせた

家並へと入ります。

(写真下の中は、彦根市のマンホール蓋です。中央には、金亀山の亀甲をかたどった

 彦根市章を配し、市の木「たちばな」が添えられているそうです)

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左側に白い漆喰で塗られ、うだつを上げた、虫籠窓の名残が残る格子造りの商家。

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茅葺きの屋根を残したの民家

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その先は桝形路で、曲がり手前右角の広い敷地に建つ大邸宅。

ここが「さんあか」の一つ「赤玉神教丸」の製造販売元、有川家です。

「隣の宿場である高宮宿の多賀大社の神教によって製造されています。

万治元(1658)年の創業。腹痛、食あたり、下痢止めに効能がある、5ミリぐらいの

赤い粒の薬で、20粒入りを一服として、創業から350年を経た現在も、

昔ながらの製法で製造販売されています。」 (案内文より)

 

写真上が有川家の本屋で、建物は宝暦(1751~1763)年間の建築です。

有川家はもと郷士(ごうし)で、鵜川を名乗っていたようです。

250年たった今もどっしりとした大店風情があります。

その後、この地に居を構え有栖川宮家に出入りを許されるようになったのが縁で、

有川を名乗るようになったそうです

休日のためか、楽しみにしていた「赤玉神教丸」屋号を染め抜いた「暖簾」は

見ることができませんでした。

旧門前に明治天皇が小休所標石が建っています(写真下右端)

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旧街道からそれて、有川家の並びのお宅の前を進みます。10mぐらいで国道8号に

出ます。国道の向こう側にあったのが上品寺(じょうぼんじ)です。

このお寺も、天台宗の寺でしたが、明暦2(1656)年から浄土真宗改宗してますね。

西美濃へ入ってから、天台宗から改宗した浄土真宗のお寺が多くなりました。

江戸初期に幕府による宗派統制の影響なのかな?

ここの7代住職了海(法海坊)が江戸で托鉢し、吉原の遊女たちの寄進などもあって

つくられた釣鐘が残っています。

f:id:hansui:20191120172205j:plain有川家まえの枡形にもどり左折して、虫篭窓の建屋やうだつの上がる旧家などの街並みをゆっくりと進みます。

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右側に「旧鳥集会所」の看板がある建物があります。

こちらの妻入りの町家は、江戸時代には「米屋」の屋号をもつ旅籠でした。

この家の治平(後に、岩根治右衛門)は中島安康(井伊直弼の絵の師匠)から学び、

湖東焼きの絵付師として活躍し、藩窯として隆盛を極め写実的な画風の優れた作品を

生み出し、直弼から「自然斎(じねんさい)」の号を授けられました。

建物の内部は旅籠時代の面影を残しています。 (案内板)

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旧旅籠米屋から約80m進むと、左側に虫籠窓家屋「デイサービス鈴の音」があり

ました。

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白い漆喰の家は岩根家住宅で、右側に板塀に解説標板が掲げられていました。

「合羽」の製造・販売をしていた「木綿屋」です。

創業は天保3(1832)年で、看板「本家合羽所木綿屋嘉右衛門」を掲げています。
鳥居本宿には、寛政(1782~1800)年間には10軒、文化文政(1804~1830)年間には15軒の合羽屋があったといわれています。

鳥居本の名産の合羽は享保5(1720)年、馬場弥五郎の創業といわれていて、

楮(こうぞ)からつくった和紙に柿渋を塗って、保湿性と防水性を高めた良質の

合羽をつくり、雨の多い木曽路に向かう旅人には必需品になっていて名声を高めた

といわれています。

柿渋を塗る時に弁柄(紅殻)を加えたために、赤い色の合羽になったようです。

ちなみに、合羽は、ポルトガル語の”CAPA”(カパ)が語源のようです。

(案内文)

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木綿屋の看板です。「本家合羽所 嘉右衛門」と書かれています。木綿屋は江戸、伊勢方面に販路をもっており、大名、寺院、商家が得意先で、大八車にかぶせるシート状の合羽を主に製造していたそうです。「本家 合羽所 木綿屋 嘉右衛門」と書かれた当時の看板が今も家の前に吊り下げられている。

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合羽所木綿屋跡の斜め向かいに本陣跡があり、跡地に解説標板が建っていました。
本陣は寺村家が勤め、本陣門が倉庫の扉になっているとのことす。

昭和10年頃、洋館に建て替えられたため、現在、遺構は残っていません。

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本陣跡から約20m歩くと、右折出来る分岐があり、右方向の奥に近江鉄道鳥居本駅があり、少し先左手は脇本陣でした。

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 垂井宿を旅立って27.1km。次に高宮宿までは約6km。

時刻は午後の3時40分、秋の日暮れは早く気温も下がり始め、

日陰はかなり冷え込んできました。

まだ鳥居本宿は抜けていませんが、2019年11月4日、第35回目の旅は、

ここで足止め。

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脇本陣から少し戻りT字路を右折して、近江鉄道鳥居本駅へ向かい、

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 PM4:01分の電車で米原へ。
JR東海道線に乗り換えて宿の大垣へ向かいました。

JRの車窓から、今日も夕暮れの伊吹山を眺めながら・・

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旅は終わりました。

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第35回    2日目・ 柏原宿~醒井宿~鳥居本宿 中編

宿場時代雰囲気を残した工夫保存をされ、街道宿場町の風情を維持する柏原でした。
 江戸から60番目、柏原宿を後に、西へ西へと足を進めてゆきます。

広重画 柏原宿

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続きに入ります。

 江戸から武州、上州、信州、木曽路美濃路とたどってきた中山道は、関ヶ原から

今須、柏原宿(米原市)に入り、ここから近江路となります。滋賀県中山道宿場は、東海道と交わる草津宿まで九宿があり、今も往古の名残を町並みや道しるべに見ることができます。
そして彦根には2つの中山道宿場街「鳥居本宿」「高宮宿」があり

西見附跡から約30m歩くと、右側の段上に六地蔵が祀られていました。

f:id:hansui:20191114203654j:plain六地蔵から約20m歩くと、左側に東山道と九里半街道の解説標板が建っていました。
〈九里半街道〉説明文
「 中山道関ヶ原宿と番場宿の間は、九里半街道とも呼ばれた。
 木曽・長良・揖斐三川の水運荷物は、牧田川養老三湊に陸揚げされ、関ヶ原から

 中山道に入り番場宿で、船積みの米原湊道へ進む。
 牧田から米原湊までの行程は九里半あった。関が原・今須・柏原・醒ヶ井・番場の

 五宿は。この積荷で六、七軒と問屋が多かった」

右側に、ここから400mほど山の中に入った所に国史跡・北畠具行卿墓の墓が

あるそうで看板が建ってましたが寄りませんでした。

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東山道と九里半街道碑から約40m歩くとY字路があり、右方向に進み、200m位
歩くと、右側に鶯が原の解説標板が建っていました。

太田道灌が一句詠んだと記されてます。

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鶯が原標板から約300m歩くと、 貴人の通行に備えて整備清掃する区間

定めたのを「掃除丁場」の説明板があります。

あわせて「並び松」との解説の説明文も記されてます。
「街道並び松 中山道宿駅制定400年記念植樹平成十四年十二月柏原学区史跡保存会」の標柱が立ち、2002年に植栽された若い松が右側に植生されていました。

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奥手川に架かる橋を渡り旧長沢村集落へ入ると、左手への分岐があり角に柏原宿外れ

にもあった「従是明星山薬師道」の道標が建ってます。

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道標の右手向かいに、応永13年(1406年)創建といわれる白山神社への

参道があり、鳥居が建っていました。

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白山神社参道入口から5分ほど行くと二股が有り、真ん中に小川関跡の標石、解説板、

後左手に菖蒲ケ池跡の標石と解説板が建っていました。

手前には「歴史街道・加沢原宿枝郷 長沢 左←、中山道 右→、旧中山道」の

案内板も有ります。

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小川の関は不破関以前に開設された関だそうです。

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分岐から草道を入ってみましたが、約80m歩くと獣害防止金網フェンスが設置されており鍵を開けて中に入るようで、踏み跡程度の道は草に埋もれていたため、

戻って左手の道を進みました。
街道書によると、十善寺跡の標石、小黒谷遺跡の標石などがあるそうです。

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森の中の旧中山道と並行したように進むと旧中山道は右手から合流し、

角に「歴史街道・江戸後期・旗本西郷氏領 梓河内村 東地先」石柱が建っていて、

旧梓河内村へ入るようです。合併して柏原村、そして現在は米原市内地区となってる。

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近畿地方で最初の縄文時代中期末(約4000年前)の竪穴式住居跡と多数の土器・

石器などが発見されたという、番の面集落跡碑が建っていました。

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合流地から2分ほどの右側に、沢山の地蔵尊が並んだ地蔵堂が祀られていました。

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地蔵堂から1分ほど歩くき、国道21と並行した左側に、墓跡黒谷遺跡標石と

中仙道自然石道標が建っていました。

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墓跡黒谷遺跡標石から約10m歩くと分岐の手前左角に、

歴史街道中山道碑が建ち、

石碑には(← 東山道横河駅跡 梓 柏原宿 江戸後期大和郡山領 →)刻まれ、

左手の石板には、「街道並び松 梓12本 柏原6本」と彫られています。

松並木のことをこの地方では「並び松」と呼ぶそうです。

松は・・・?

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中山道碑から約40m歩くと、名神高速道と並行した国道21に合流する梓河内交差点があり、国道の向こう側、高速道脇に石碑が2基あり、一基には河内とあるので、

旧梓河内村入口の道標と思われますが、街道書に記載がなく不明。

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街道は合流せず高速道、国道と並行して、古代東山道の宿駅といわれる旧梓河内村内をそのまま真っ直ぐに進み、真宗大谷派慈圓寺、八王子神社を見送り、

鈴鹿山脈の北端を源流とする梓川を渡って700mほど行くと街道は左手へ

分岐します。先への道は松並木になってました。

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左折すると高速道と並行する、関ヶ原不破の関を出て以来の国道に21合流し、

右手を行くが歩道帯がなくなり、交通の隙間を縫って、エイと左手渡って進みます。

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国道に合してして、大きな中山道碑をみて約15分ほど行くと、国道から斜め左手へに分かれ高速道脇の道へ進みます。

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R21の分岐から約300m、5分ほど歩くと、右側に八幡神社が祀られています。

拝殿左側には珍しいですね、三猿の石像がありました。

樹齢五百余年と街道書に有る大杉は無かった様子、見落としたかな?

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八幡神社から、街道らしい旧一色集落の道を150mほど行くと、

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左側に日本橋から116番目の一色一里塚跡があり、高速道で失われたため、

跡地に標石が建てられていました。

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さらに50mほどの右手に、横穴式石室の等倫寺古墳のあるお寺、等倫寺。

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その先100mほど左側に、墓守かな?の地蔵堂が祀られていました。

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振り返り東を見ると、伊吹山が右手後ろに見えていた。

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地蔵堂から約50m進むと、右側に「佛心水は旅人の喉を潤し、御仏の慈悲のもとで道中の安全を祈願した」といわれる佛心水(井戸)が、建屋に囲まれてありました。

もう一度振り返り、伊吹山

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左手にすっかり風化した沢山の地蔵を安置した地蔵堂を見送り進むと、

桝形手前網フェンスに鶯ヶ端跡のパネルが取り付けられてます。

街道書には「西に京の空を望める名所」とありますが、展望は・・・

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先は右に曲がり左手へ行く枡形道で、ここが江戸から61番目、醒井宿(さめがい)の

東の江戸口に当たる東見附跡で、フェンスに説明パネルが有ります。

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右に曲がった枡形道は約25mで十字路となり、左折するのですが、

その手前の左側に醒ヶ井宿碑、宿場図が建っていました。 

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お江戸から、61番・醒井宿 115里24町 454.2Km

天保14年(1843年)中山道宿村大概帳によると、

宿内家数138軒 本陣1軒 脇本陣1軒 問屋7軒 旅籠11軒 人口539人

大和郡山藩領

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桝形の十字路から宿内へ足を入れる前にこの看板!

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うん、現代アート六地蔵?この家は何を商ってるのかな??

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ベンガラ塗の家、街道風情の街並み、振り返ると伊吹山

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宿独特の右に左に曲がり街並み

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東見附跡から街道街並みを味わいながら5分ほど歩むと、左手の綺麗な流れを石橋で

渡った先に鳥居が現れ、石段石垣も高くに祀られてるのは加茂神社です。

このへんまで来ると、急に散策されてる方を目にするようになります。

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加茂神社参道階段の先隣りに石燈籠が建っており、この辺りが醒ヶ井宿三名水の一つである「居醒(いさめ)の清水」で、岩間から滾々と湧き出る清水は、

街中を西へ流れる地蔵川の源流となり、地図を見るとこの先で天野川の合し流れは

琵琶湖へとそそぎます。

けっこう若いグループやカップルの方も多く、清流を覗き込んで、清らかな流れに

感嘆しています。

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鳥居をくぐり、石段を登ると、狛犬に守られた神楽殿

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鳥居の左手から西方向を務渡すと、醒井の街並みが見えてます。

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後ろは、さらに一段高く神域で拝殿とご神殿。

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石段を下ると流れのふちに日本武尊の像が有ります。

伊吹山の大蛇を退治したが、猛毒で発熱し、この清水で体を冷やすと回復したと

伝えられ、「居醒(いさめ)の清水」と呼ばれたようです。。

つわぶきの花があちこちに咲いてます。

ヤマトタケル伊吹山の神の逸話は、醒井宿に入る手前にもあったね)

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道路側からは石橋が架けられ、遊歩道があり、石垣沿いに進むと沢山の古石仏が

祀った一角が有ります。

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街道の左側に「居醒の清水」が源の澄んだ水の地蔵川が流れており、

清流には梅花藻(バイカモ)が群生し、緑が清流の中で優雅に踊り、

小さな白い花が流れに揺れてる姿はなんとも美しい。

バイカモは、キンポウゲ科の水生多年草で、水温14度前後の清流に群生し、

梅に似た花を咲かせることからその名が付いた。

5月下旬~秋にかけて1センチほど可憐な花を咲かせ、夏の花の印象でしたが

11月の今も咲いてるとは珍しのでは。

街道旅では東海道五十三次の旅で、、三島宿を流れる富士の湧水が有名で、

源兵衛川に咲く花は「ミシマバイカモ」とよばれてましたね。

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低温の清流にしか棲まないハリヨが生息している。ハリヨはトゲウオ目・トゲウオ科に属している淡水魚で、自然分布は滋賀県北東部、岐阜県の南西部

環境省レッドリスト絶滅危惧種・IA類として指定され、保護活動が行われている。

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「居醒の清水」から約20m歩くと、左側に延命地蔵堂があり、堂の右脇に、

醒井のパワースポット」と案内板に記された「石地蔵菩薩」が祀られています。

地蔵は総高270cmの半跏像(はんかぞう)で、大形の丸彫り地蔵尊

全国的にも珍しく、鎌倉時代後半の作と云われます。

当初は水中に安置されていたことから「尻冷し地蔵」とも称されるていそうです。

(半跏像とは片方の足をもういっぽの足の太もも上にのせるように足組をした姿で

  お堂を覗かせてもらいましたが、上半身しか拝見はできませんでした)

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ごみ収集場所にありました。「

旧街道に沿って、たくさんの呼びかけが並んでいます。

観光地として、米原市でも色々と手を打ってるのが良くわかりますね。

柏原もいい街でした。足を伸ばしてもらいたいな、と思いましたね。

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ハリヨ生息地標。

後ろは醒井彫刻美術館です。

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地蔵川に沿って少し進むと、本陣 樋口山という料理店があり、屋号板、本陣と

書かれた暖簾が下げられています。

江龍家が勤めた本陣跡で、今も当時の関札が残っているそうである。

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本陣跡から約20m歩くと、左側に堂々たる和風三階建ての民家(大林家)が

違和感なくありました。

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川沿いに立つパネル

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左側に川口家が勤めた問屋場跡があり、江戸時代前期築木造平屋建で、

現在は遺構が米原市醒井宿資料館になっていました。

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問屋場跡から約25m歩くと、右側に明治39(1906)年に創業したヤマキ醤油店が

あり、店前に大きなたらいのバイカモを咲いてました。

水は毎日変えてるのでしょうか?
 「しょうゆソフトクリーム」に「しょうゆプリン」、ソフトは食べたことがあった。

人気があるようで、けっこう大勢の方が来ていました。

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ヤマキ醤油店から約60m歩くと、右側に旧旅籠の多々美屋があり、現在は料理旅館を営んでいました。

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旧旅籠多々美屋跡から約30m進むと、右側に問屋や庄屋を勤めた江龍家の立派な

門があり、門脇に明治天皇駐輦所碑が建っていました。

江龍家は本陣並みの規模があったそうです。

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江龍家の塀に沿って北側へ入ると、彦根城の城門から移築されたという山門の法善寺

がありのました。彦根城のどこの門だったのかな?

f:id:hansui:20191117154843j:plain法善寺から街道に戻り約90m歩くと、右側に了徳寺参道入口があり、境内に国の天然記念物で葉の上に実を付ける御葉附銀杏が生育されており、了徳寺参道入口に標石が建っていました。

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了徳寺から街道へ戻り約40m歩くとY字路となり、地蔵川の醒ヶ井大橋の手前

左側に、醒ヶ井三名水の一つである十王水があり、地蔵川に石燈籠、川沿いに

解説標板が建っていました。

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先で地蔵川を醒ヶ井大橋で渡りその先分岐は、街道は左手へ行きます。

お~い、街道はそっちじゃないよ・・

カミさんが渡ろうとした居醒橋で、もう一度地蔵川を渡り行くと、大正時代に

建てられた、木造2階建ての擬洋風建築館があり、現在は醒井宿資料館があり、

現在は国重要文化財になってるそうです。昭和48年までは醒井郵便局として

使われていたとか。

その先にはJR醒ヶ井駅もあり、街道書を見ていたカミさんが、

「駅名だけヶを付けた醒ヶ井駅なのは何故?」

いや~実は調べたんだけどはっきりした理由はわからなかったんです。

駅を誘致し駅名をつけたときに「地名・醒井(さめがい)」を見た目でも

さめい、ではなくさめがい、と読み易いようにした、というのが有力でしたね。

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分岐を左手へ行き約70mほど歩くと、右側は祭りのときに演じられる

子供狂言上演場跡があり、解説標板が建っていました。

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さき5,60m左手には西行水、泡子塚がありました。

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岩の上のくぼみに前垂れを掛けた五輪塔が見えましたが、これが泡子塚だそうで、

説明板が建ってました。

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水琴窟があったのでカミさんが水をかけてみたら、やわらかな琴音が聞こえましたね。

f:id:hansui:20191117180520j:plain西行水から2,3分の右側に醒ヶ井宿標石が建っており、番場宿へ1里と刻まれおり、ここが醒ヶ井宿の京口だった西見附跡でした。

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醒井宿を後に、番場宿、鳥居本宿へとむかいます。

京口から約150m、県道17号線と交差する十字路の先すぐ右側が、

亨保9年(1724年)に大和郡山藩領の境に建てられた六軒茶屋跡で、

赤い屋根の家が、往時六軒あった茶屋の内、唯一現存する一軒だそうで、

広重画 醒井宿はこの六軒茶屋を描いてるそうです。

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旅は続きます・・




  

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第35回    2日目・ 柏原宿~醒井宿~鳥居本宿 前編

11月4日(月・振替休日)

いいお天気の夜明を迎えました。

ホテルの窓から、東、遠くに見える山の小さな突起は、あの岐阜城でした。

デジカメのズームを最大にしてパチリ。

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今日の予定は約15km。朝ドラは見ないで少し早めに昨日の足止め地、
柏原へむかい、AM8:15、柏原駅前をスタートとして中山道へ向かい、

朝の光に包まれた、昨日歩いたまだ目覚めぬかのような、柏原の宿場町を

再び通ってゆきます。

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昨日足止め常夜燈・高札場前で旅立ちショット、市場川に架かる市場橋(初恋橋)を

渡って旅の始まり。

「初恋橋」の呼び名、は映画監督 吉村公三郎の若き日の「思い出の橋」なのだとか。

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橋を渡った左手は番所跡と街道書に有るが、示すものはなにも有りません。

広い空き地があり、石垣目前に屋号札があり「お茶処 亀屋〇〇〇」と記されてますが

建屋は無く売り物件の看板が立ってます。

 

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隣のでんと構えた大きな家屋は、寛文元(1661)年に創業した「伊吹もぐさ」を

商う「伊吹堂亀屋」です。

旅といえば、てくてく歩くしかなかった江戸時代には、疲労回復にもぐさは

必需品だったでしょう。

旅人は故郷の土産に、軽くて荷物にならず手土産にはもってこいの亀屋の艾を

買った。

案内板には、
 「古来よりこのあたり滋賀県伊吹山」ふもと一帯は、もぐさ業の中心として栄え、

 この地で作られ日本全国へ出荷されたほど「伊吹もぐさ」として有名なところ

 だった」とあります。 

街道書では、亀屋の六代目松浦七兵衛は江戸に出て「伊吹もぐさ」の唄を遊女に

毎晩宴席で歌わせ、その名を広めた。と記されています。

開店前で中は見れませんでしたが、天井につかえるほどの巨大な「福助人形」が

座った姿で”いらっしゃいませ”をしているそうです。 
 「福助」はもともとこの「亀屋もぐさ店」の番頭で、その働きぶりによって商売が

 繁盛した。ご利益があるということでその福助人形が全国に広まったといわれ、

 ここが福助人形の本家本元と伝わってる。との説もあります。

かっては10軒ほどのもぐさ店があったそうですが、「伊吹堂亀屋」は今でも

唯一「伊吹もぐさ」の専門店として暖簾を維持しているそうです。

広重も柏原宿の画では、ここを描いている。

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広重画 柏原宿 

(画の解説文より)

「 駕籠が二挺とまっている。これはどうやら荷物を運んでいるとみえる。

 担ぎ棒に荷札を掲げている。
 左から、
 「酒さかな」の看板の向こうに結構な庭がある。屋根越しに築山の緑もみえる。

 それを眺めながら一服しているのは、かなりの上客ではないか。
 上がりかまちにわらじのまま休んでいる人の右に据えてあるのは、伊吹山の模型で

 ある。それに商品の艾(モグサ)の袋を並べてある。柱の陰になっている男は、ここの

 手代であろう。お客にお灸のすえ方なんかを教えているのだろうか。
 菅笠をもち、道中の振り分け荷を肩にかけている男は、買い物をすませて出立し

 ようとしている。衝立看板をはさんでその男を見送っているのは番頭であろうか。

 金看板には「薬艾」とある。
 その右が、この家の大看板である福助の人形である。」

( 福助は、いまもその現物が残っているそうです。)

 

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そういえば、カミさんの実家にもお灸道具があって、カミさんの嫁入り道具の中にも

入っていた。腰の調子が悪かった時に、二度ほどすえたことがあった、

なんて、遠い昔を思い出しおしゃべりしながら歩きます。

 

伊吹堂の真向かいに、造り酒屋巌佐九兵衛跡があり、家屋横に解説標板が建っており、醸造樽が残っていました。
 店には慶長年間に酒造りした記録が残されており、江戸期に醤油醸造に転業しましたが、明治初頭に酒造りに戻ったそうです。

宿内には造り酒屋が4軒あったそうです。

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造り酒屋巌佐九兵衛跡の先隣りは造り酒屋山根庄太郎跡があり、家屋の左側に屋号の

看板が掲げられていました。

酒造りは宿内合わせて百五十石許されていたそうです。

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向いに、うん、信長本陣?

昔は「たばこ屋」だった様子の造りで、看板が新しそうだから現在営業の茶房ですね。

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造り酒屋・山根庄太郎跡の先隣りは旧柏原村役場があった所で、

入口左脇に柏原宿石柱、右手に表札、探訪マップなどが掲げられていました。

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隣は、左軒下壁に「隅照燈」の木札が掛かり、低い石灯篭が有ります。

玄関右手には「仁右衛門〇」の横書き木札が有りますが、なんの家か??

 

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村役場跡の先隣りが平成10年に開館した「柏原歴史館」

大正6年に建てられた 旧松浦久一郎邸を改築した主屋は、国 登録有形文化財
中山道向けて三つの入母屋造妻飾りを重ねる重層な表構えに特徴があるとされる。

まだ朝の8時半、開いてませんが、中に喫茶「柏」があり食事処で名物は

「やいとうどん」。

やいと?、そうですね、 もぐさに火をつけて、アツツ、アツツ…と我慢する

昔懐かしの健康療法お灸「やいと」をイメージしたうどんとか。

パンフにあったフォット、まさに熱そう!「やいと」だけど、

美味しそうですね。

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向いに建つユニークな建物は柏原生涯学習センターでした。

表通り面は和式建築ですが、後ろは鉄筋コンクリート2階建て。

お面を被った建物ですね。街の風情に合わせた建て工法です。

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柏原歴史館の隣は、創祀年代は不詳ですが元暦元年(1185年)創建と伝えられる

日枝神社の参道入口。

御由緒は不明だそうですが、大山咋神を祀る山 王信仰の神社で、ここも明治維新まで

は「山王社」と呼ばれていたらしい。

拝殿は茅葺でしたが、後で奥のご神殿も茅葺屋根と知り、鳥居前で参拝し通り

過ぎてしまったのは残念。

その向かいはレーク伊吹農協柏原支点があり、敷地の左角に柏原小学校跡の解説標板

が建っていました。

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ベンガラ塗の家々を眺めながら日枝神社から約80m歩くと、左側にやっと商店らしい

ショッピングセンターが現れ、向かいの「日用品のさわや河村店」は、家屋の二階が

虫籠窓になっていました。
※虫籠窓(むしこまど)は、京町家特有の低い二階(厨子二階)にある塗り壁の窓のことで、その姿形が「むしかご」のようだからとされるようです。二階の通風や採光のために設けられたもので、古いものほど小さい場合が多いそうですが、街道筋でも

良く見かけました。

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漆喰の鏝絵デザイン虫篭窓です。

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少し先左手の板塀空き地は、かっては造り酒屋だったようで、

屋号札がっかってました。

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先隣りは新しそうな袖暖簾を掛けた建屋ですが、何を商ってるのかな?

庭の楓が朝日を受けて綺麗です。

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左側に柏原福祉交流センター入口の標柱があり、標柱の右側に問屋場跡で、

東西2ヶ所あった内の西荷蔵跡があり、解説標板が建っていました。

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 西荷蔵跡の直ぐ隣りは白壁の虫籠窓の柏原銀行跡で、現在は柏原福祉交流センターと

なっており、正面玄関には「東部デイサービスセンターはびろ」の看板がかかる。

建物の脇に解説標板が建っていました。
さらに先隣りも白壁の虫籠窓の建物になっていました。

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交流センターからすぐ先左側に、薬師道道標、説明板が建っていました。

この道標は享保二年(1717)と古く、正面が漢文、横に面が平仮名・変体仮名

使った二つの和文体で刻まれている、と記されてます。

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道標の斜め向かいは、問屋役(山根家)跡があり、板塀に標板が掲げられていました。

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左隣は旅籠屋 麻屋 林左衛門で、その先は十字路になり、醒井宿・5.8km

と書かれた案内道標が有ります。十字路を左手へすぐに「火の見櫓モニュメント」

があったのですが、写ってなかった。

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十字路を右折して約10m進んだところに、 駐車場を備えた緑地公園があり、

ここはお茶屋御殿跡でだそうで、標石と解説標板が建っていました。

茶屋御殿跡は年代は定かではないが、 天正16年(1588年)徳川家康が柏原村の西村家で

休息したことを契機として、中山道通過の際には柏原村で休息をとることが慣例化した。元和9年(1623年)徳川秀忠は御殿を新築して以後御殿番を置いて守備したというが、徳川幕府の権威が安泰になるにつれ上洛する機会も減少し、元禄2年(1689年)廃止となった。「お茶屋御殿説明板」 

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 一角に「柏原地区街なみ環境整備事業」と書かれた大きなパネルが立っていた。

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米原市の広報「柏原地区街なみ環境整備事業」に、感じていた街並みについて記された

一文がありました。

「柏原地区の歴史的な街なみ保存に関する取組み」
柏原地区は、江戸時代の中山道六十七宿の六十番目の宿場で、近江中山道筋では規模が大きく、中山道の重要な宿場であった歴史を持ちます。道路には、江戸時代から昭和30年代までに建築された建築物(切妻造瓦葺入町家、入母屋造草葺入民家)等が軒を連ね、全体として調和の取れた街なみを形成しています。
柏原地区のまちづくりは、地域の資源を大切にする暮らしの中でその歴史と文化を感じ、引き継いでいくことであり、単にまちの形を保存するだけでなく、地域住民がまちに対する愛着を持ち、まちでの住み方、まちの守り方を探っていくことが街なみ保存にとって大切なことです。それを長年に渡り実践してきたのが柏原地区であり、この街なみ全体を博物館として捉え、柏原地区を象徴する旧家を活用したまちづくりを進め、現在においても歴史的な街なみを見ることが出来ます。
街なみ環境整備事業着手までの経過
柏原地区は、平成14年4月1日に制定された、山東町美しいまちづくり条例により「歴史的・文化的景観または、自然景観の形成のための整備等が必要な地区」として指定を受け、その具体的な整備等の検討については、柏原地区住民により柏原地区街づくり協議会が組織され、平成15年10月17日の第1回街づくり協議会が開催され、その後定期的に地区内の現地調査、まちづくりに関する有識者の指導を受けながらワークショップ等を実施しながら整備方針の作成を進め、平成16年3月31日に国土交通大臣の承認を受けました。
街なみ環境整備事業の承認を受けた平成16年度からは、具体的な事業を実施するための事業計画の策定作業に着手し、世代を超えて街道の歴史的な街なみを保存するため、柏原らしい町家の基準を定め、これを「街づくり協定」として地区住民と締結しました。この協定に強制力はありませんが、この基準に沿って家屋を改修する場合には、助成を行うこととしています。
また、地区内の住環境向上のため、基盤整備についてもさまざまな検討がなされ、旧中山道を中心に排水路、舗装、公園、集会施設等の整備が計画に盛り込まれました。中でも地域の拠点として位置付けられていた旧柏原銀行の保存・改修・利活用については、街づくりアドバイザーを交え、街づくり協議会で何度となく利活用の方針について協議を行いました。事業計画は平成17年2月4日に国土交通大臣から同意を受け、平成17年2月14日に旧坂田郡3町が合併した米原市が誕生し、米原市となって平成17年4月1日から具体的な事業を実施することになりました。」

街道風情ある街並みだった柏原、改めて納得ででした。


お茶屋御殿跡から十字路に戻ると左手に「郷宿跡」という札を掲げた豪壮なお屋敷が

あります。

郷宿とは脇本陣と旅龍屋の中間規模の宿で、身分の高い武士や公用で旅する庄屋などが利用したという。

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郷宿跡から100mほどの、昭和6年架けられた中井川橋を渡ります。

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しばらく歩くと、右側に金毘羅山常夜燈が建ち、その先で再び中井川を丸山橋で

渡って進むと、 

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左側の川沿に橋が架かり渡った右手に、日本橋から115番目の、復元された

柏原一里塚がありました。
 

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一里塚跡から再び橋を渡って街道に戻った向いは、山中腹にある愛宕神社参道の

石段があり、入り口付近にかっては東一里塚があったと、街道書にありました。

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愛宕神社参道入口から5分ほど、左側に柏原宿西の入口だった西見附跡があました。 

道の両側に喰い違いの土手(土塁)がある、と説明板に記されてますが形跡は

無かった。

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解説板に、ここは海抜175mと書かれていて、柏原宿は高原の宿場町だったん

ですね。

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「いい街だったわね~」のカミさんの言葉通り、江戸時代の家屋ではありませんが、

 宿場時代雰囲気を残した工夫保存をされ、街道宿場町の風情を維持する柏原でした。

 江戸から60番目、柏原宿を後に、西へ西へと足を進めてゆきます。

 

続きます。

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第35回    1日目・ 垂井宿~関ヶ原宿~今須宿~柏原宿 後編

11月3日(日)PM2:15 江戸から番目今須宿へ入ります。

江戸から59番目、日本橋より112里24町 442.55Km 

美濃16宿 最後の宿場町。

人口1784人、家数464軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠13軒

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今須橋から100mほど行くと、左側の生活改善センターの前に今須宿石柱、

本陣跡・脇本陣跡の解説標板が建っていました。

「~215坪の本陣が一軒で、現在の小学校・支所付近一帯に位置していました。

又、脇本陣は美濃16宿の中でも当宿のみ2軒あり、各々現在の小学校駐車場付近

あたりに有ったのです~」と記され、関ヶ原合戦に勝利した家康は本陣(伊藤家)で

休息し、腰掛た石は青坂神社に置かれている、とも記されています。

(小学校はこの先左手に見えるようです)

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本陣跡の斜め向かいは妙応寺参道入口で、国道21号とJRのガードと二重の城壁

に守られたかのように妙応寺があります。

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関が原町の説明によれば、
妙応寺は正平15年(1360年)に、今須領主長江重景が母妙応の菩提のため

曹洞宗の大徳峨山禅師(道元の弟子)を開山として創建し菩提寺にした、

県下で最も古い曹洞宗寺院です。

薬草の枸杞(クコ)を用いた精進料理でも知られ枸杞寺ともいうそうです。

(一説には、妙応は年貢の取り立てを大枡、米の貸付を小枡と、異枡(います)を

用いたことが「今須」の地名由来になっている、とありましたね) 

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わらないのは家康腰掛石の所在で、先の本陣、脇本陣の説明板では、青坂神社へ移した

と記されてますが、ここの説明では当寺に移設と記されてます。どっち?

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妙応寺参道入口から約30m歩くと、左側に小中学校が一緒の今須小中学校があり、

小学校と中学校それぞれの校門が建っていました。

(写真は中学の校門)

この付近に本陣伊藤家や脇本陣の1軒が有ったということです。

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少し先の右手にJAにしみ支所が有りますが、街道書では河内脇本陣跡となってます。

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交番も街並み合わせて木造だね、と学校から150mくらい歩くと交番(写真左下)の

向い右手に見えるのは、

 

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文政3(1820)年築の建物といわれ、山崎家が勤めた問屋場跡があり、

家屋の前に解説標板が建っていました。

「美濃十六宿のうち、当時のまま現存し、その威容を今に伝えるのは

 ここ山崎家のみです」と案内板には記されてます。

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問屋場跡から約50m進んだ左側に、ベンガラ塗りの家があり、この先数多くのベンガラ塗りの家が建っていました。
ベンガラ塗は西日本全域に分布してるようですが、この先、滋賀県に入ると湖北地方に多く見られ、次の宿場、柏原から県境の長久寺までが圧倒的に多いとあり、

楽しみのしています。

ベンガラは土から取れる成分で紅殻、弁柄とも呼ばれ
語源はインドのベンガル地方より伝来したことからそう呼ばれるそうです。
防虫、防腐の機能性から、木造建築の柱など木造部分を朱色に塗る顔料として使われ、陶器や漆器、としても使用されてきました。
洞窟壁画にもみられ旧石器時代から使われた最古の顔料であり古代色です。
経年変化に強く、日光による褪色がないことも特徴で昨今では無害であることから

天然素材として見直され繊維製品への染色、オーガニック製品にも使用されるように

なりました。
ベンガラと聞くと「赤」や「朱色」をイメージする人が多いと思いますが。
燃焼温度と調合により黄、黒、緑、 紫といった色合いをつくりだし、24色の染料が

現在出来上がっています。(ベンガラ解説文より)

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ベンガラ塗りの家の先隣りに金毘羅大権現永代常夜燈が建ち、常夜燈のいわれ

を記したパネルが有りました。

「京都の問屋河内屋が建立したもの。大名の荷物が行方不明になったとき金毘羅様に

願かけしたところ発見されたので、そのお礼に建立した」

正面には「金毘羅大権現永代常夜灯」と刻まれてます。

「当時は灯篭を寄付することは、それにかかる毎日の油代も併せて寄付することを

意味し、一般的には使用する菜種油が必要な量だけ採れる畑を寄付しました。

並々ならぬ感謝の表れであったことがうかがえます」

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常夜燈からすこし歩くと、右側に愛宕神社の参道口があり、参道の途中に年代物の

山燈籠が建てられていました。

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ベンガラの家や地蔵堂?、立派な鐘撞堂の寺は真宗大谷派真宗寺。

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今日は文化の日、祝日だった。何軒かの家で日の丸の旗を掲げていたが、

交番やJAでは掲げてなかった。

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旅人一人、コンチワと声をかけてスタスタ足早に去って行った。

真宗寺から300mほどの右手に、こちらのお寺も真宗大谷派の法善寺。

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法善寺から50mほどの左側に、村の鎮守・今須八幡神社の鳥居が建っていました。

車は鳥居の下を通らづに道がつけられ、鳥居奥には大きな山灯篭が置かれてます。

神社は南へ約300m、名神高速ガードを潜った先に鎮座してるようです。

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鳥居から約100mほど歩くと十字路があり、その手前の左側に山燈籠が建って

いました。

そのすぐ先の十字路が、印はありませんが今須宿の西口(京方)と言われてる

ようで、今須宿とはお別れです。

(PM2:45)

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西口から緩やかな上り坂を約160m歩くと、今須交差点手前の左手に土道の

「車返しの坂」と呼ばれる旧道痕跡の上り草道坂があり、坂を上ると正面に

車返地蔵が祀られているそうです。(下から眺めただけ)

案内プレートには、

南北朝の頃(1336~92)摂政の二条良基が「荒れ果てた不破関屋の板庇から、

漏れる月の光が面白いと聞き」わざわざ都から牛車に乗ってやって来ました。

ところが不破の関では高貴な方が来ると聞き、見苦しい所は見せられないと急遽屋根を修理してしまった、良基はこの坂の途中でこの話を聞いて嘆き「葺きかえて 月こそもらぬ 板庇 とく住みあらせ 不破の関守」と詠み、車を引き返したところからこの坂を車返しの坂と呼ぶようになりました。」

せっかく「ソンタク」だけど失敗ね、とカミさんが言ったので大笑い。 

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地蔵尊入口をすぎて下り坂を進むと、R21の今須交差点となり、斜めに横断して

進み、その先でJR東海道本線の車返踏切、電車の通過を待って越え、緩く坂を上り

長久寺集落へ入って行きます。

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坂道の右側石柱や石碑。

右手に「おくのほそ道 芭蕉道」という標柱と「奥の細道」の一文を彫った碑が

建ち、左手には、松尾芭蕉の「野ざらし紀行」石柱、野ざらし紀行に一文の碑、

そして芭蕉が、貞享元年十二月、芭蕉が郷里越年のため熱田からの帰り

ここで詠んだ句碑が建っていました。
    「正月や 美濃と近江や 閏月」

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さらにすぐ先は・・・・

「寝物語・美濃国不破郡今須村」の碑が立っていて、その横には50cmほどの

細い水路があり、来ました着きました!!、ここが「岐阜県」と「滋賀県」の県境。

水路の隣に美濃国近江国の「国境碑」が立っていて、ここで美濃路に別れを告げ、

近江路へと入っていくことになる。

2018年9月、江戸期旧中山道美濃16宿の落合宿入りし、平成最後の年4月の

手術も有りましたが、なんとか14か月目の近江の国入り。

TVの旅番組をまねて、手をつないでピヨンと飛び越えて国境を一っ跳び。

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国境からすぐの右手に、「寝物語の里」の自然石碑と由来石碑があります。

「近江と美濃の国境は、この碑の東十メートル余にある細い溝でした。この溝を挟んで両国の番所や旅篭があり、壁越しに「寝ながら他国の人と話し合えた」ので寝物語の名が生まれたと言われています。また、平治の乱(1159)後、源義朝を追って来た常盤御前が「夜ふけに隣り宿の話声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とも、「源義経を追って来た静御前が江田源蔵と巡り会った」所とも伝えられています。
寝物語は中山道の古跡として名高く、古歌等にもこの名が出ていますし、

広重の浮世絵にもここが描かれています。
- ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語も しのぶばかりに - 太田道潅

平成四年一月 滋賀県米原市

おや、太田道灌もここを通ったんだ。

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広重画 今須宿 (国境木柱が描かれてます)

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ここは「寝物語の里」旧長久寺集落。

村名は昔この辺りにあった両国山長久寺に由来しているそうです。

街道書には、

「美濃側5軒、近江側25軒の集落で、美濃側は美濃なまりで金が流通し、近江側は

近江なまりで銀が流通した」と記されてます。

緩い坂道が続いています。車もしっかり「滋賀」ナンバーですね。

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 長久寺集会所先の右手水路沿い奥に春日神社があります。

祭神は天児屋根命で、応永十三年(1406)の創祀だそうです。

汚水マンホール蓋に「さんとう」とあるので地図を調べたら、山東町というのが有って、2005年に米原町伊吹町と合併して米原市(まいばらし)となっていました。

「寝物語の里」も現在は米原市でしたね。

 

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ベンガラ塗りの家々を眺めながら集落を進みます。

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集落がまばらになり緩やかな上り坂の野瀬坂です。

右側の斜面に弘法大師御佗水碑が建っています。

師御陀仏(おだぶつ)とは阿弥陀仏を唱えて往生する意だそうです。

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弘法大師碑から山の縁に沿って進むと楓の木が多くなってきました。

かっては松並木だったそうですが、枯れてしまい楓を明治期に植栽したそうです。

山添道を行くと立派な石碑が現れ、

歴史街道中山道 ←江戸後期大和郡山領 柏原宿  寝物語の里 長久寺→」と

あり柏原地区に入ります。

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石碑の左手は長比城跡への登り口で、道に沿って左上に明神社の鳥居と参道口が

有りました。

(この参道が本来の登り口で、神社を越えた美濃との国境の山頂に城があった)

長比城跡(たけくらべ)は浅井方の築城した城でしたが、姉川合戦の時に織田信長

調略によって、長比城を守備していた堀秀村、樋口直房が内応しては戦わずに

落城した城だそうです。

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神明神社」の横に「旧東山道」の道標が立っていて入ってみましたが、

先は閉鎖されており進めませんでした。道が僅かに残っているようですが雑草の

中に消えてしまってます。

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長比城跡登り口分岐から2分ほど先に右手に方向道標が有り、分岐を左折して

JR東海道本線の野瀬踏切を渡り、渡った直ぐに右折し線路に沿って進みました。

方向道標には踏切を渡らず道なりの進む方向に「白清水200m」とありますが、

岐阜県との県境に近い野瀬山の麓に湧き出ている湧水で、古事記に記されている

事によると、ヤマトタケルノミコト伊吹山の神に惑わされたが、この水で正気を

取り戻したと伝わる清水である。

また、中世の仏教説話には相模国の古代豪族「横山将監」の娘である照手姫の

白粉により泉が白く濁ったので、白清水と呼ばれるようになりました」

米原市地域情報観光案内文)

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踏切を渡り線路沿いに約80m歩くと、

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柏原宿の時代順略史、柏原東部分間絵図がありました。

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このような箇条書きの掲示は少なく、宿の概要が分かりやすいですね。

 

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柏原宿碑から約100mほど右側に、照手姫笠掛地蔵が祀られていました。

左の大きな地蔵が照手姫地蔵。

(右の二地蔵は、昭和十年廃寺となったお寺の地蔵を預かったものだそうです)

 現在はここに祀られているが、元はこれより東の野瀬坂、神明神社鳥居東側に

在った蘇生寺の本尊だったそうで、「蘇生寺笠地蔵」ともいようです。

中世の仏教説話「小栗判官・照手姫」にまつわる伝承で、「小栗判官」と銘打って

浄瑠璃、説教節などで広まったようです。

先ほどの白清水、ここに祀られた笠掛地蔵。照手姫の遠く相模の国から近江、美濃へ

の逃避行の伝説がつながってるんですね。

歩いてきた美濃国青墓村には照手姫にまつわる古井戸が残され、旧街道路傍には

五輪塔姫の墓として伝承されている。

(関東では神奈川県の藤沢市遊行寺境内に、小栗判官・照手姫の墓があり

 東海道五十三次旅で立ち寄りました)

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江戸からくる近江側最初の宿場である「柏原宿」、(現在は滋賀県米原市)に入った。

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照手姫笠掛地蔵から約300m歩くと、柏原宿の江戸(東)口の東見附跡があり、

右側に解説標板が建っていました。

柏原は東西の今須宿・醒ヶ井宿までの距離が1里程度と近いにもかかわらず、

長さ1400m(も13町)にも及ぶ比較的大きな宿場だそうで、 
天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」によると、
宿駅の町並み 家数344軒、人口1468人、旅篭22軒、
本陣1軒 脇本陣1軒、人馬継立問屋場5ヶ所(脇本陣兼で6か所)あった。

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「 柏原宿は江戸から近江路へ入って最初の宿場で、江戸より約百十四里、京までは約二十一里のところにある。 江戸時代には艾(もぐさ) の産地として有名で「伊吹もぐさ」の老舗、伊吹堂の建物は今でもそのまま残っている。
江戸時代、吉原の遊女に「江州柏原伊吹山の麓の亀屋佐京の切りもぐさ」という唄を教えこんで毎夜宴席でうたわせ、伊吹もぐさの名を広めた亀屋の七兵衛。 
宿場の規模は大きく、宿場の長さ十三丁(1420メートル)、戸数人口もこの辺りでは東の加納(岐阜市)、西の高宮(彦根市)に次ぐものである。 旅籠屋は、隣宿との距離が近かったにもかかわらず二十二軒もあった。 本陣、脇本陣は、それぞれ一軒、問屋は、六軒、問屋を補佐する年寄(村役人)は八軒あり、造り酒屋も一時は四軒もあった。
木曾路名所図会には、「柏原宿・今須まで一里。駅は伊吹山の麓にして、名産には伊吹艾(もぐさ)の店多し。」と紹介されている。
織田信長豊臣秀吉等そして徳川家康もこの柏原宿に泊まり、二代将軍秀忠によって御茶屋御殿(柏原御殿)が建てられました。
しかし、徳川幕府の政権安定につれて将軍上洛は減少、元禄2年(1689)ついに御茶屋御殿は廃止されます」 (柏原宿解説文より)

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宿場情緒を感じさせる数件の古い家屋が当時のまま残っている。  

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東見附跡から約80m歩くと、右側に竜宝院跡があり、標石が建っていました。

秘仏安置との石柱もあるが?

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竜宝院跡から約30m歩くと、右側に八幡神社が祀られてます。

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ご神殿は覆屋に収められてます。

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八幡神社境内から伊吹山が良く見える、と残念ながら後で知った)

境内の松の木の手前に、芭蕉句碑が建っていました。

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詳しく距離など書かれた案内標柱が所々にあり、歩き易い町並みです。

右側に旅籠の看板が立ててあり、隣が街道書では東薬師とありますが、案内板は

ありません。

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八幡神社から先は古い町並みで昔の面影を残している。

建物は建て替えられていると思いますが、家々には屋号書いた看板が掲げられ、

旧街道宿場町の面影、雰囲気を今も感じ取ることができます。

 東薬師の先、右手奥のJR柏原駅を見送り、ベンガラ家々を見ながら手入れされた

街並みを歩きます。

写真右の家は、「旅籠屋 大和郡山坂田郡内取締大工 惣左衛門」の看板を

掲げていて、柏原宿は、江戸時代初期は天領でしたが、享保9(1724)年に

大和郡山藩領になっていたことがわかります。

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左手奥のJR柏原駅入り口を過ぎると、市場町で柏原宿中心部へ入ります。

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しばらく「旅籠屋 井筒」(写真上中)「煮売屋 源藤」(写真下中)、

「蝋燭屋 助三郎」(写真下右)などの看板を掲げた家、ベンガラ塗の家などを

楽しみながら歩きます。

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柏原駅入口から約90m歩くと、左側に問屋場跡がありました。
柏原宿には6軒の問屋場があり、東西3軒ずつに分かれ、10日交代で勤めていた

ようです。

問屋場跡の隣が、当日中に処理できない荷を蔵に保管した東の荷蔵があったそうで

、パネルが立ってます。

荷蔵は、藩の年貢米集荷の郷蔵でもありました。

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道を挟んだ向かいには柏原宿脇本陣跡で、南部本陣の別家、南部源右衛門が本陣同様

江戸時代を通して務めた。
間口は、この家と隣の郵便局を合わせた広さで、屋敷は228坪、建坪は73坪あり、

問屋も兼ねていたと案内板に記されてます。

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脇本陣の左先は、問屋場と庄屋を兼ねた吉村家で、映画監督の吉村公三郎の実家が

ありました。祖父は柏原宿の最後の庄屋であったそうです。

問屋場跡の門前脇に、柏原宿解説文と宿場絵図の大きな掲示板が建てられています。

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柏原宿解説文(長いが引用)

「 ここ柏原宿は,お江戸日本橋より中山道六十九宿(草津東海道と合流)の内

 六十一番目になり,約百十二里(一里は約3.9キロメートル),京までは

 約二十一里のところにある.
 江戸示談は,随分栄えたもので,宿場としての業務も,かなり苦労が多かった様で

 ある.
 幕末広重画く柏原宿の看板は,何と言っても「伊吹もぐさ」の老舗伊吹堂で,

 現在の建物そのままである.当時「伊吹もぐさ」を商う店は十指に余り,

 中山道有数の宿場名物となっていた.現在は一軒だけとなっている.
 柏原宿は,規模が大きく,六十九宿中宿高で四番目,宿場の長さ十三丁

(一四二〇 ートル)は十番目,戸数人口もこの辺りでは東の加納(岐阜市),

 西の高宮(彦根市)に次ぐ宿場である.
 しかも旅籠屋(旅人たちの宿場)は,隣宿との距離が近かったにもかかわらず

 二十二軒もあった.
 現在,一軒も残っていないのは残念である.
 本陣,脇本陣は,それそれ一軒,問屋(人馬,荷物の継ぎ立て一切を行う)は,

 当宿には六軒(開宿当時は二十軒を数え,幕末になると,普通各宿多くて三軒まで

 なのに,関ヶ原から番場までの五宿は,それぞれ六,七軒であった),その問屋を

 補佐する年寄り(村役人)は八軒あり,造り酒屋も一時は四軒もある盛況であった.
 この宿は,古くより東町・市場町・今川町(箕浦と言ったこともある)及び西町の

 四町からなり,宿場機能の中枢は,市場町でした.一つの宿場に四社も氏神がある

 のはそのためである.
 柏原の総社は,野瀬の神明神社である.
 又お寺の多いことでも有名で,ひと頃は三十ヶ寺を越え,現在も十五寺と三堂が

 ある.
 中世京極道誉の随臣,箕浦氏が四百年柏原を守った館跡(柏原箕浦城趾),

 近世徳川家光により創建された柏原御茶席御殿跡(地名として残る)等がある.
 宿場から外れるが,織田信長が宿泊した成菩提院は,天台談林三箇随一と言われた

 名刹で,盛時は,六十坊を数えたという.国指定重要文化財等豊富である.
 また,宿場の東約十三丁の地に江濃国境があり,有名な寝物語の里(長久寺)が

 ある.
 _このような柏原宿であるが,しだいに昔の面影が消え,今にも忘れ去られようと

  している。 せめてもの思いに,下図の様な復元図(山東町史付図)を掲げた」

 

 *今にも忘れ去られようとしている。 せめてもの思いに,下図の様な復元図

 (山東町史付図)を掲げた*・・・・・

う~ん、いい街なれど、町興し、観光客誘致にはなかなか難しいんでしょうね。

 (文冒頭、61番目とありますが、江戸を1番としたからかな?)

向いには「旅籠屋 京丸屋五兵衛」掲げた風格ある家屋、

宿場内の職業内訳などが記されたパネルが立っています。

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吉村家問屋場の隣は、南部辰右衛門が勤めた本陣跡があり、標石と解説標板が

建っています。

柏原宿は江戸時代を通し南部家が本陣を務め、間口はこの家の両隣りを合わせた

広さで、屋敷は526坪、建坪は138坪あった。

建物は皇女和宮宿泊の時、新築されたとも云われる。
明治になり、柏原小学校前身の開文学校はここに創設された。

その後、建物は明治中期に岐阜県垂井の南宮神社宮司宅へ移築された。

宮司宅には今も残されてるのでしょうか?)

和宮の夫の第14代将軍家茂も第二次長州征伐の途上、当本陣に宿泊した、

とのパネルが掛けてあります。

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向いは「医師 年寄 堤 覚之丞」の邸宅跡、現在も医療に携わる醫院でした。

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その斜め向かい、2階の格子戸に「渋谷酒店」と書いた看板を掲げ、右軒下には

袖看板が取り付けられていて、今様で 1階には自動販売機が並んでいる。

 自販機隣に掲げられた板には 「南部家風雅の道」とあり、句が何編か書かれて

 いる。 この酒屋も南部家一族で句会などが催されたのかな。

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本陣の先の路地の角に、戎の宮市場寺跡の標板が掲げられ、
市場寺跡から約15m進むと市場橋の手前右角に秋葉山常夜燈が建っており、

常夜燈の右脇に高札場跡の解説標板が建っていました。

高札場は、道沿いの長さ4.86m、高さ0.91mの石垣を築き、その上に高さ3.33mの

高札懸けの建物があった由。 

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時刻はPM4:00、秋の日暮れは足早にやってきます。

宿のある大垣への電車時刻もちょうどよく、第35回の旅、一日目は足止めとします。

電車の車窓からは夕暮れ迫る伊吹山が大きく姿を見せていました。

いい歩き旅の一日でした。さあ、明日も・・・

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