早春花

ようやく庭の雪割草が花をひらいた。

今年も年明け早々には蕾が膨らみだしていたが、今年は暖冬の影響のようで、

なかなか花開かなかったが、白く膨らみも20日ころからようやく開き始め、

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29日には一輪だけ花開いた。

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庭の雪割草の開花を受けて、小春日和の29日、所用で出かけた際の帰り道に

ちょっと足を伸ばして、都の薬用植物園と都瑞穂町の社会教育施設、耕心館庭園へ、
寄り道をしてみました。

お目当ては早春の花、特にセツブンソウとフクジュソウですね。

 

薬用植物園の黄梅

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 ザゼンソウ(座禅草)

薬用植物園、鉢植え

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 咲き始めたばかりの様子の福寿草

薬用植物園

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 スノードロップ

薬用植物園

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 セツブンソウ、

薬用植物園、耕心館庭園 

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 バイカオウレン

耕心館庭園

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ミスミソウ(雪割草)も遅れ気味ながら咲きだしていた。

薬用植物園

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 早春花の代名詞の梅の花も、関東は遅れ気味のようですね。 

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 はや1月も終わり。

2月へ入ると冬へ戻る予報のようですが、咲きだした早春花をみて

春遠からじ・・

なんかほんわか気持ちが温かくなったような。

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第37回    2日目・後編 五個荘村~武佐宿

地下道を抜けると直ぐの左側に道標が建ち、安土町東老蘇へ入ります。 

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続きです。


道標から約400m歩くと、安土町東老蘇集落で、奥石神社(おいそ)の大きな社標、鳥居が建ち、右前方に鬱蒼とした「老蘇の森」へ東参道が続いてますが、

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 表参道から入ることにし、5分ほど集落を進むと、奥石神社の大きな社標石、

大鳥居、そして後ろ神社を取り囲む大森林は「老蘇の森(おいそのもり)」と

呼ばれ、万葉の昔から歌に詠まれてきた名高い森で国の史跡に指定されている。
「今から約2300年前 孝霊天皇の御世に石辺大連(いしべのおおむらじ)という人が

神の助けを得て松、杉、檜などの苗木を植え祈願したところ、たちまち生い茂り

大森林になったと伝えられている。 
後にこの石辺大連は100数拾才迄生きながられたので人呼んで「老蘇」(老が蘇る)

と云い、この森を「老蘇の森」と呼ぶようになった。」 (老蘇の森 説明板)

  

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森の中には、藤原氏の祖である天津児室根命(あまつこやねのみこと)を祭神として

祀る奥石神社((式内 奥石神社 鎌宮)があります。

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大連翁が社壇を築いたといわれ、繖山を御神体とする延喜式内社の古社で、

安産の神ともいわれて、広く信仰されているそうです。

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本殿は天正9年織田信長が家臣柴田家久(勝家の一族)に命じて造営せしめたもので

三間社流造で、桧皮葺の豪華の中に優美な落ち着きを持った建造物で、

本殿は国の重要文化財に指定されています。

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参拝を済ませ街道を行くと、左側に「根来小路」の標石が建っており、

真向かいの小路を入り進むと、突き当りに根来陣屋跡で、標石と解説板が

建っていました。陣屋跡後方は老蘇の森です。

根来寺の僧だった根来家始祖・盛重は、鉄砲の根来衆で知られ、秀吉の根来寺焼き

討ち後に家康家臣となり、多くの戦功から大和・近江・関東に領地(知行地)を拝領。

大旗本として寛永10年(1633)当地が根来家知行所となり、元禄11年(1698)領地替えの際、ここに陣屋が設置され代官所が置かれました。」

(解説板)

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(さすが都に近い近江の国、戦国話がぞくそく出てきますね)

街道へ戻り少し行くと、右手に土壁も綺麗なお屋敷があり、覗かせて頂き、

向い左手板塀に、福生寺。轟地蔵の表示板をみて150mほど行くと、

 

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轟川に架かる轟橋があり、手前右側に轟地蔵跡碑と解説板はあります。

かつてここに、五個荘に伝わる小幡人形の千体仏地蔵があったそうで、

「轟地蔵は明治になってから福生寺境内に移設された」と書かれてます。

轟橋を渡った左側には、金毘羅大権現常夜燈が建っていました。

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街道書に、福生寺の本堂が根来陣屋の書院を移築した、と書かれており、

道を少し戻って路地に入り福生寺へ寄ってみました。

(なぜか地蔵堂は写してなかった、なぜかな??)

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街道へ戻り轟橋を渡った左手に杉原医院があり、勝本宗益(通称鈍穴)が江戸末期に

作庭した名勝の緑苔園、と案内板が立てます。入口から覗いてみましたが、

人気が無く、少しは見えるかと路地へ入ってみましたが、手入れさてた木々が

塀越しに見えただけでしたね。

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杉原医院から約200m行くと、信号のある十字路へ出で、用水手前に小祠があり、

用水を渡った脇に「右・観音正寺、左十三仏」などと彫られ中山道道標が立てます。

交差点を渡ると西老蘇地区になり、左側は老蘇コミニュティーセンターで、

元は老蘇の農協や郵便局があった跡との標石が立ち、その先には奥石神社御旅所が

あり、標石が建っていました。 

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御旅所から先右側に、鎌若宮神社があり、祭神は大己貴命(オオナムチノミコト)で、

創建は不詳で、老蘇村が東西に分裂したときに「奥石神社 鎌若」の若宮として

勧進したともいわれてるそうです。

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神社を出て街道を歩くと、ベンガラ塗の豪壮な建屋や長屋門を備えたお屋敷、

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右手に浄土宗の東光寺があり、門前に寺標石碑と、歌舞伎「菅原伝授手習鑑」の

モデルになった豊臣秀吉の祐筆、「建部伝内遺跡」の石碑、伝内堂が有ります。

もと五個荘清水鼻にあった佐々木六角氏ゆかりの寺院で、滅亡後「寺号」と

平安時代後期の作「木造阿弥陀如来立像」(安土町文化財)を譲り受けたと

伝わっている由。

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東光寺から街並みを眺めながら10分ほど行くと、亀川の交差点に出て、

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交差点を真っすぐ渡り50mほど行くと田園が大きく広がり、右手花壇に花が咲き、

中山道 西生来 どうぞごゆっくり」の木製板を吊り下げた小公園があり足休め。

青い機械は田園の用水ポンプでしょうね。

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すぐに西生来の集落に入り、水路のような川の端に「泡子延命地蔵尊御遺」跡の碑と

解説標板が掲げられている。地蔵尊は移設されてます。

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近江八幡市、マンホール蓋。

中央に八幡山を描き、八幡堀、白壁の蔵、近江商人のそろばんの玉柄ののれん、

市の木サクラが描かれるそうです。

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右側に西福寺があり、山門右側に移設された泡子地蔵堂が祀られていて、道を隔てた

向かいに不動明王道標が建っていて「これより二丁半」と彫られてます。

泡子地蔵は、茶店の娘が客の僧に恋をし、僧の飲み残しの茶を飲むと懐妊した。
三年して再び僧が現れ、子に息を吹きかけると泡となって消えたという、板があり、
はて、どこかで聞いたような、醒井宿だったかな。

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不動明王道標から約5分強歩くと右側街灯下に日本橋から124番目の一里塚跡の

標石が建っていました。(写真右)

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一里塚跡から、側溝が整備された街並みの家々を眺めながら足を進めます。

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おや、これは??

双体道祖神では。

壁に立てかけてるだけですが、ちゃんとお花を供されている。

木曽路までは多くの道祖神馬頭観音庚申塔を道端に見かけたが、美濃路、近江路

 入ると、ほどん目にすることが少なくなてる。

 なかんずく庚申塔は全く見かけなかった。 何故かな??)

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左手の家並みが途切れて、田園が大きく広がり、先に橋が見えてきます。

一里塚から約250m、5分ほど歩くと、蛇沢(いざ)川に架かる西生来大橋を

渡って進むといよいよ武佐地区へ入ります。

蛇沢(いざ)川は「どんどん川」とのプレートがつけられてましたが、いわれは?

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西生来橋を渡って50mほどの十字路先に泡子地蔵・200mの標識があり、

下のガードレールに隠れて、数個の石仏が祀られ、ここにもちゃんと花が供えられ

てました。中には道祖神の様に見える石仏もあったが、判然としませんでした。

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十字路先の空き地の道端に、ここでは武佐学区まちづくり協議会が建てた

「武佐宿 大門跡」の木札が立ち、街道書にはここは武佐宿東の見附で江戸口(東口)と記されてます。

 

(まちづくり協議会が、ここでもか活動してるんですね。案内板の作成は武佐小学  

 卒業記念だそうです)

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武佐宿は江戸から66番目の宿場で、

愛知川より、2里18町 9.8Km
江戸日本橋より、123里25町 485.7Km

街道書によれば、

武佐宿は近くに近江商人の町である近江八幡があり、物資の往来が盛んに行われ、

伊勢に通じる八風街道の追分を控え、塩や海産物の往来で賑わいました。

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、

宿内家数 183軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠23軒 宿内人537人。

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大門跡から約30m歩くと、右側に牟佐神社の鳥居が建っていました。

創立年代不詳で,火災や兵火にあうが、元禄五年に社殿、明和四年に拝殿が造営される。

ご祭神は都美波八重事代主命

武佐宿の氏神様で、元々「市神大明神」とも呼ばれ、境内では古くから盛大な市が

立った。

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ご本殿は覆屋の中に鎮座してます、

真ん中に市神神社でご祭神は都美波八重事代主命(つみはやえことしろぬし)。

境内社金毘羅宮と稲荷神社、とである。

(ご本殿の後ろに社務所が有りましたが、珍しいのでは)

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参道を戻ると右手にど~んと大木が立ってます。

御神木かな?注連縄のかけられた、ケヤキの巨木。

幹周囲4.46m,樹高30m,樹齢は300年以上経ているそうです。

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神社を出て鳥居の直ぐ先の右側、ごみ集積所箱前に高札場跡があり、

標板が建っていました。 

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 向かい側の鉄筋コンクリート建てに瓦屋根を載せた、瀟洒な建物は「武佐小学校」。

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神社を後に秋の花々を愛でながら行くと、

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左側に明治天皇聖蹟碑が建っていて、右手には広済寺で、推古天皇2(597)年

聖徳太子が創建したと記されたとの案内看板が有りました。

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約40m歩くと、右側に大きな冠木門の木戸風黒い門構えは、

かって奥村家が勤めた脇本陣跡で、後に武佐村役場となり、今は「武佐町会館」で、。

建屋左手には、これも大きな馬頭観音碑(文字塔)が見えました。

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脇本陣跡すぐ先、左側に明治19年(1886年)に建築され国登録有形文化財

指定されている旧八幡警察署武佐分署庁舎が有ります。

現在は、隣接する明治初期創業の古い料理屋・魚友楼の洋館という扱いになっている。

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庁舎跡から約80m歩くと国道421号、と交差する、武佐町交差点で、

渡る手前右側はポケットパークで常夜燈モチーフの武佐宿碑と、将軍吉宗に献上された象が一泊した時の様子が描かれている絵図が建っていました。

常夜燈モチーフには「右はちまん約4km、右京都約48km、右いせ約120km、

右東京約460km」と書かれてました。

国道421は、中山道・武佐から鈴鹿山脈をトンネルで越え、東海道・桑名を

結んでいるそうです。

・・旧東海道接触が近いことを伺がわせてるな・・

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国道421を武佐町交差点を渡ると、右側に虫篭窓を今風に残し、可愛い暖簾を提げた

民家があり、左側に「いっぷく処」の袖看板を付けた虫篭窓の家がありました。
「いっぷく処」は店名のごとく武佐宿の交流館的な場所で、かつての和菓子屋だったとか。

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いっぷく処から空き地をはさんで左側に、補修したばかりのような真っ白い漆喰壁、

虫篭窓の建屋が有ります。
標識が建っていませんでしたが、大橋家役人宅跡と思われます。

街道書には、400年以上の歴史を持つと云う宿内最古の建物で、十五代目、金左衛門は伝馬所取締役を務めた、とあります。

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役人宅のすぐ先右側に、かつて駄馬・人足を常置した「伝馬所」だった跡の、

宿場風情に合わせた現武佐郵便局があり、古い黒「書状集箱」を模した

現役の郵便ポストが置かれてました。

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隣は、白漆喰も綺麗な代々下川七左衛門が勤め建坪262坪だった本陣跡があり、

本陣門と土蔵が残っていました。

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本陣跡の斜め向かいに空き地が有り、宿内で良く見かけた武佐小学校の卒業記念制作の

標識がフェンスに掲げられ、旧旅籠・中村屋跡がありました。

現代まで営業していたそうですが、残念ながら平成23年に火災が起き全焼した由。

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約20m歩くと十字路があり、左角に八風街道道標があり、

石碑には「いせ ミな口ひの八日市道」「文政四年七月・・・)」とあります。
八風街道東海道を経て鈴鹿山系の八風峠を越えて八日市至る道で、
近江商人もよく利用していた中山道東海道を結ぶ通商路であった。
十字路を渡った右角にも道標が建っていて、安土浄厳道道標と読めました。

(帰宅後調べてみると、「浄厳院は、天正5年(1577)信長により建立された寺院で、佐々木六角氏頼が建立した慈恩寺跡地にあり、同7年(1579)、信長の命で浄土宗と

日蓮宗の僧による仏教論争が行われたことで知られている」とありました)

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道標の真向かい建屋の窓格子に「武蔵川越藩松平家の陣屋跡」との標識があります。

なんと武佐は、はるか関東の武蔵の国川越藩の飛び地、2万石だったんです。

(川越は家から車で30分くらいの藏造り街並み小江戸と呼ばれる城下町で、

 国指定有形文化財の絢爛豪華な山車が行く祭りなど、関東有数のの観光地です。

 柳沢吉保が城主の時代も有りました)

陣屋跡の先隣の左側に愛宕山常夜燈が建っていました。

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陣屋後の先隣りの家前に、5段の鉢棚が有り鉢植が沢山おかれてます。

窓格子に「近江八幡の花、武佐りんどう」のプレートが有りました。

そういえば、武佐交差点のポケットパークにも「武佐りんどう」の説明板が

ありましたね。
むしゃりんどう(武佐竜胆)

武佐竜胆(武者竜胆)はシソ科 ムシャリンドウ属で、リンドウというより
タツナミソウに似た花で、武佐町で発見されたことから名付けられたといいます。

6月から7月にかけて茎の上部に淡い青紫・白・桃色の花を咲かせ、

近江八幡市の夏の花に認定されてるそうです。

現在では、北海道に少々自生している程度で、環境省レッドリスト

(絶滅の危険が増大している種)の絶滅危惧Ⅱ類(VU)に登録され、

中仙道・武佐宿の地域ぐるみで、武佐では街を上げて「むしゃりんどうを守る」の

取り組み活動を行ってる由。
 

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(帰宅後調べるとこんな花でした)

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足を進めると、左手に向かう小路があり、白塗りの「←長光寺」と記された案内板が

立ち、向こう角には「従是三丁」と読める道標があります。

街道書には、徳太子が建立した49院の1つである元武佐寺(現、長光寺)に至る

道標と書かれてます。

立ち寄りませんでしたが、

長光寺は,中世の紀行文にも登場する昔から近江の名刹であった。
 寺の縁起によれば推古天皇の時代に聖徳太子が武川綱に命じて建立した寺で

「武佐寺」と呼ばれたと云う。本尊は聖徳太子の持念仏と云われる「千手観音」。

 また境内には聖徳太子が当寺建立の証として植えたと伝えられる樹齢5~600年と 推定されている「ハナノキ」があり、参道の左手に「千体地蔵」がある」

近江八幡資料にありました。

ここにも聖徳太子手植えハナノキがあるんですね。

きっと見事な紅葉になてるでしょう。

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道標から約100m、右側に愛宕常夜燈と、その隣には注連縄を掛けた石碑が有り、

石碑は木の蓋がしてあるように見えるのが、火防の神「愛宕大神」だそうです。

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常夜燈先の小路を越えて右側に、卒業記念で制作された「高札場跡」標識があり、
街道書では、武佐宿の西目付(京口)、とありました。

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高札場跡から2,3分歩く、と街道は桝形の様に右手に曲がり、

近江鉄道八日市線武佐駅です。

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2019年11月24日(日) PM3:30 

鳥居本から武佐宿へ、約24km。

歩いていて再び京の都へ、第37回、2日間の旅の足止めです。

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駅は無人駅でホームで待つと、懐かしさを覚える塗装の電車が入線してきました。
懐かしいはずです、昭和の終わりくらいまでは利用していた、西武鉄道カラーでした。

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近江八幡駅コンコースからの夕景

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翌日 11月25日(月)は前日の予報では雨天で、少しくらいの雨なら寄り道、

と決めてたが、嬉しいことに青空も見える薄曇り。

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寄り道は紅葉で知られる湖東山の二院、金剛輪寺西明寺多賀大社

錦秋の古刹を堪能し、いい旅の締めくくりでした。

写真は、愛知郡愛荘町金剛輪寺駐車場で写したマンホール。

「中央に町の鳥『きじ』を配置し,下方に町の花『つつじ』と町の木『うばめがし』,上方は稲と麦を配置して豊かな郷土を象徴し,バック全面に町章を置き,

町の限りない発展を表現したものです」との解説文が有りました。

 (秦荘合いは愛荘町と合併)

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紅葉模様はデジブックアルバム

 

金剛輪寺

 

西明寺

 

 街道旅は初春までお休みです。

おわり。


歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第37回    2日目・中編 五個荘村~武佐宿

愛知川を渡り五個荘へ入りました。

(街にはこの案内板が要所要所に建てられてました)

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2日目続き、

五個荘へ入ると左手に秋葉山常夜燈、さらに行くと左側に愛宕神社が祀られていました。

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愛宕神社から約70m歩くと、臨済宗中興の祖と云われた東嶺禅師御誕生地碑が建っていました。

東嶺禅師碑から約140m歩くと、小畑地区へ入り、代々細居家が伝承してきた

「小幡でこ」と呼ばれる土人形の窯元の家がありました。

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「小幡でこ」(案内板拡大)

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東嶺禅師は享保6年(1721)近江小幡駅出町(滋賀県東近江市五個荘小幡町) に薬屋を営んでいた中村善左衛門の嫡子として生まれ、享保14年(1792)9歳のとき近江能登川大徳寺の亮山恵林につき出家した。その後、近世臨済禅中興の祖と言われる白隠慧鶴(1686-1769)の高足の一人となる。

 (街造り協議会解説板)

小幡人形の家を過ぎ、電気店お茶屋さん?で、約80m歩くと近江鉄道

小幡踏切があり、茅葺被せ屋根の家の前で渡って進みました。

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踏切を渡ると道標が立ち、左手は近江鉄道五箇荘駅中山道はそのまま進み、

約210m歩くと、右側参道口に「聖徳太子御旧跡・法皇山善住寺」の石柱が建ち

奥に山門が見えました。

五個荘中山道の街道沿い集落で宿場や立場ではないそうですが、

綺麗な用水の流れに風情ある板塀、いい街道街情緒ですね。

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 左手に、2階屋根に屋根を乗っけた変った造りの中沢酒造(創業は昭和23年)、

左手に木幡神社祭礼で神輿が休息する御旅所(写真下右)があり、

奥に山王神社が祀られてます。

(中澤酒店前を右折して国道8号線を越え、1km弱行くと、五個荘近江商人屋敷群

 がるそうで、時間が許せば是非のお勧め、と地元の方に教わりました)

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善住寺から約60m歩くと追分道標が建あり、道標の左手を入り斜め右に進むのが

御代参街道と呼ばれ、道標には 「右京みち 左いせ ひの 八日市みち」と刻まれ、

八日市、日野、笹尾峠を経て東海道の土山宿まで続いている、との解説板が有ります。

正式名称は、「東海道脇街道・北国越安土道」と呼ばれ、寛永17年(1640年)

春日局伊勢神宮から多賀大社参拝の折に整備され、江戸中期頃、京の公卿たちが

年3回伊勢神宮と多賀社へ代参の名代を派遣する習慣があり、この道を利用したことから御代参街道と呼ばれるようになったそうです。

まっ直ぐ行くと五個荘駅に出る由。

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道標から約140m歩くとY字路となり、中央に旧中山道ポケットパークがあり、

街道は右に進んで行く。
ここには明治5年(1872)の大神宮常夜燈と東屋がある。

ポケットパークの向かい側の参道を入って行くと臨済宗の慈光山正眼寺がある。
正眼寺には、慶長17年(1612)に角倉了以の子である角倉貞順が安南(現在のベトナム)貿易に際して、安南に送った文書とそれに対する安南よりの修好文書とが所蔵されている、と街道書に有ります。

角倉 了以(すみのくら りょうい)戦国時代から江戸時代初期にかけての京都の豪商。
安南国貿易や諸国の河川開発事業にも活躍した人物です。

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ポケットパークから100m位、大同川に架かる橋を渡ると道標があり左折、

左手の川向う岸は最近移設した東近江市支所、道の右手に五個荘郵便局。

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進むと、大同川の向こう岸は、紅葉もいい感じの五個荘中央公園が広がり、

右手は東近江市五個荘支所跡で、支所移転後の昨年平成30に建てられた、

神崎郡役所跡・五個荘役場跡の石碑が立ち、その先には名残りの松が植生されて

いました。

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どっしりと根を下ろした古木をみて、住宅街に入ると道は再び狭くなてきます。

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ベンガラ塗んり塀の重厚な造りの旧家らいきお屋敷を見送くると。

右側に最近修復したような茅葺き屋根の家がありました。

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茅葺き屋根の家から約60m歩くと、右側に地蔵堂が祀られていました。
地蔵堂から約20m進むと、左側にポケットパークがあり公園内には大きな五箇荘宿場図が設置されていました。

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ポケットパークから約50m歩くと左側に、大きな鐘をデンと据えた、

西沢梵鍾鋳造所がありました。
西沢家は9代300年に渡り、代々梵鐘鋳造を家業としてきたとのことです。

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西沢梵鐘鋳造所から茅葺屋根にかぶせ屋根の旧家や、廃屋らしい崩れかかった土塀。

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左側の若宮神社を通り過ぎるなど約300m歩くと、左側に天保15年(1844年)に

建立されたといわれ、道標の役割もしていた常夜燈が建っていました。

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常夜燈から五個荘北町屋町の街並みへ入り、被せ工法の家を見ながら、

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約250m歩くと、左側の公園に隣接して明治天皇が休憩した跡碑が建っていて、
休所碑から斜め向かいに市田家があり、庭内に明治天皇聖蹟碑が建っていました。

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先には、右側に市田庄兵衛家本宅が保存されていました。

庄兵衛家は江戸時代より呉服・繊維商として京都や大阪で活躍した近江商人

そうです。 
家の板塀に「わがまち一番 京町屋風商家の保存」と記された看板が掲げられています

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市田庄兵衛家本宅からの先には、右側に北町屋の鎮守・大郡神社(おおこうり)が

あります。 

社殿は鳥居の奥、国道8号線を越えた5分ほど先に鎮座しているようです。

神社を中心とした東西南北400m程は、奈良平安時代に近江國に置かれた神崎郡役所(郡衙 ぐんが)の大郡遺跡と街道書に有ります。

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参道口の先は県道209号に突き当たり、県道を横切った右側に茅葺屋根の民家があり、あれ、瓦葺屋根の上に茅葺屋根??

角にに天保8(1837)年に建立された常夜燈が残されていました。

側の五個荘まちづくり委員会の解説板には金毘羅大権現常夜燈とありました。

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常夜燈の100mほど先にも、茅葺屋根の古民家があり、こちらは

片山家が勤め「ういろう」が名物だった茶屋本陣跡で、ここにも

五個荘まちづくり委員会の案内板が立ち、瓦葺屋根に茅葺屋根の混在造りになって

ます。

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先は五個荘石塚に入り、右側に小祠のある路地の角に鳥居はありませんが、灯篭が立ち若宮神社が祀られ、約10m先の右側路地角に観音正寺道標が建ち、上の祠には

観音像が祀られてっていました。
観音正寺は西国32番札所で、聖徳太子が建立したと伝わる古刹で万事吉祥縁結びの道場で、この路地を進んだ蒲生郡安土町の繖山(標高433m)の山頂近くに

鎮座しているそうです。

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道標から5分ほどのアパートの前に、最近整備されたと思われる石標と鋼板製の

案内プレートがあり、日本橋から123番目の「石塚一里塚」跡有りました。

(街道書では標石なし、になってました)

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一里塚跡の先には、元は松並木だったのでしょうか、数本の松が残されていている

右手にあった食事処で生パスタの昼食を済ませ、さらに行くと、

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国道8号に合流角に「てんびんの里」碑があり、道中合羽を着て天秤棒を担ぐ

近江商人像が乗っています。

五個荘近江商人の発祥といわれ、てんびん棒一本から豪商にまで立身出世した

立志伝がたくさん残されているようです。

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左方向へ150mほどの交差点で右手に渡り、騒音の国道から右手に分岐した

静かな里道へに進みます。山裾に大きな伽藍が見えてましたが・・

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左折して行くと五個荘清水鼻集落で、右側に湖東3名水の一つと云われた清水鼻の名水があり、石碑が建っていました。他の二つは醒井宿の居醒の清水、そして彦根

王水だどうです。

脇の石段を上ると日枝権現を祀る日枝神社と、街道書に記され、清水鼻村は立場で、「焼米はぜ(爆米)」が名物でした、ともあります。

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山裾の紅葉を眺め、天文5年(1536年)の開基で、本尊は阿弥陀如来の浄慶寺の

寺標、山門を見送り進むと市境。

東近江市から近江八幡市へ入り、安土町石寺です。

信長の安土城は琵琶湖の側と思いますが、この付近も安土なんですね。

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市境の先で近江八幡に通じている八風街道と呼ばれる八幡道が右手に分岐し、

先には大神宮と彫られた大きな常夜燈が建ち、左手の細くなった里道を進みます。

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5分ほど先で、歩道帯が右側だけの国道8号に合流し、国道左手の新幹線高架と

並行して5分ほどゆくと、国道は新幹線の高架下を潜り抜けて続きます。

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信長の街旧安土町のマンホールが有りました。

永楽通宝が三つ並んでいて、織田信長が刀に付けて愛用した「まけずの鍔(つば)」のデザインのもの。「sewerage」は英語の下水設備、「ANZUCCI」は安土のポルトガル語表記なんだそうです。

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こんどは右手に新幹線と並行に行くと、左手に大きな教林寺の紅葉案内板が立ち、

看板に右→があり、400m歩くと十字路の右手から、観光バスが2台出て来たので、

右手の新幹線の向こう側にお寺があるようです。

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中山道は、次の十字路を左手へ曲がるようになってますが、交通量の多い国道を

渡る信号が有りません。

一旦、十字路を右へ曲がり、新幹線の高架下をくぐってその先から、戻るように

地下横断で国道を渡ってゆきます。
国道左側を歩いてくるとそのまま左折できますが、左側には歩道帯が無いため

止む得ませんね。

高架をくぐりぬけると、

 

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左手に五個荘石塚にもあった「観音正寺」道標が立ち、道の先には

国道に合流してから右手に見えていた、山頂近くに観音正寺のある

繖山(きぬがさやま)があり、山頂近くに幟のようなものが見えてます。

デジカメズームしてみると「観音寺城・・」と文字が見え、観音正寺ではなさそう??

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(帰宅後調べると、繖山(きぬがさやま)は別名観音寺山で、幟のあった付近は

 室町幕府の近江守護職 佐々木六角定頼の居城で、後に織田信長上洛の際に

 落城した観音寺城跡でした。 観音正寺も側に有るようです)

 

地下道を抜けると直ぐの左側に「中山道東老蘇 武佐宿へ一里」の道標が建ち、

安土町東老蘇へ入ります。

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続きます。


歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第37回    2日目・前編 愛知川 ~五個荘入口

11月24日(日) AM6:30 有難いことに青空も見える薄曇りの天気。

歩き旅にはちょうどくらいの気温予報で、遠くの山並みが紅葉してますね。

(ホテルの窓からアップで)

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AM6:30からのホテルの朝食を済ませ、ゆっくり準備をして近江八幡駅へ。

今朝はJRではなく。近江鉄道を利用して昨日足止めの近江鉄道愛知川駅

向かいました。

JRの東側にこじんまりとした近江鉄道の始発ホーム。

乗り込んだのははカラフルなデザイン電車。

塗装ではなく印刷フイルムを貼ってる、ラッピング電車です。

前回の旅から利用している近江鉄道は、我が町に本社があった西武グループ

鉄道会社でした。

創業者の堤康次郎は、滋賀県愛知( えち )郡下八木村(現・愛荘町)の出身だ

そうです。

どうりで何か懐かしい黄色の色合いの電車が、走っていたんです。

乗ったのは「鉄道むすめ」の一人、近 江鉄道株式会社豊郷/駅務掛 

「豊郷あかね」ちゃんのデザインだそうで、

鉄道模型で古くから人気の、トミーッテクの鉄道に関する職場で働く女性を

モチーフに、トミーテックが中心となって展開している「日本鉄道キャラクター

コンテンツ」なんだそうで、全国で鉄道会社約30社が参加してるんだとか。

我が町西武鉄道は「井草しいな」ちゃんで、何度か見たことが有りました。

(井草 しいな は、新宿線池袋線の駅名です)

 

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昨日乗ったこのワィン電車もラッピング電車でした。

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AM8:40 愛知川(えちがわ)駅をでて、中山道へ向かいます。

おや、ハトの夫婦?と思ったら、ほんものそっくりに置かれた、置物でした。

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11月24日(日)AM8:50 第37回2日目の旅立です。

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、

愛知川宿の宿内家数は199軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠28軒で

宿内人口は929人であった。(現滋賀県愛知郡愛荘町愛知川)

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愛知川宿ゲートを潜って約20m進むと、宿口の守り地蔵堂が祀られてます。

見かけた黄色い花は「アンデスの乙女」だそうで、

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地蔵堂から約50m歩くと、左側に黒板塀を回した屋敷は、江戸期は田中新左エ門宅

だった処で、明治期に「田源」の屋号で麻織物商を営んだ田中家の別邸跡があります。
明治25年建築の南土蔵のほか、大正8年ごろに建築された主屋ども含めて

登録有形文化財となっているそうです。

現在は近江商人亭という日本料理店です。

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昨日もみたマンホール蓋。

調べた解説では、

愛知川町を流れる愛知川、不飲川、宇曽川、宇曽川支流の安壺川と新愛知川の

5本の川と、夏の風物詩愛知川の「花火」が描かれているそうです。

上部に町章、下部に「えちがわ」の文字、とありました。

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近江商人亭から大きな家並みの道を約150m歩くと川が横切り、

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郡分延命地蔵堂と呼ばれる地蔵堂があり、堂前に愛知川宿北入口碑が建ってます。

地蔵堂脇を流れる中の橋川は、中宿と愛知川宿の境、神崎郡と愛知郡との境」と

街道書には記され、郡境であることから郡分と呼ばれるようです。

愛知川宿の江戸口(東口)で、地蔵堂脇には沢山の地蔵が置かれてました。

 

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地蔵堂の隣りに菓子店舗があり、創業慶応元年(1865年)和菓子・しろ平老舗、

と看板を揚げています。

ふっと見上げて気が付いた、愛知川宿の街灯。

行燈をつるすアーチの上には、侍、商人、牛飼いなど、街道を行く大勢の人の姿が

描かれています。

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少し先で境町から泉町に代わる交差点に出、渡った左手は小公園、ポケットパーク。

広重の愛知川宿の絵や道標が置かれ、その隣には、明治4年(1971)の郵便創業当時と同じ型の「書状集箱」には、「他のポストと同様に取り集めを行います」と書かれ、

現役のポストのようです。

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小公園から大きなお屋敷街並みを眺めながらゆくりと100mほど進むと、

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右手に愛荘町街道絵地図、「親鸞聖人御舊跡」の石柱があり、「寶満寺」の案内板が

建てます。

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 建歴2年(1212年)、親鸞流罪の地、越後から京都へ帰る道すがら、
愛知川が氾濫して川を渡ることが出来なかった時に、ここに宿を取ったと伝えらる、
と街道書に有ります。
そして、案内板に有ったのが「親鸞聖人お手植えの紅梅とハナノキの花が咲く・・」
えっ! ハナノキがある・・・と山門をくぐります。

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 写真右、お手植えの紅梅かな>

そしてイチョウと並んだ、綺麗に紅葉に染まる大木。

 

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一見、桜の紅葉?と思いましたが、ハナノキの説明文あった「水鳥の水掻き」形の

楓の風の葉が混じてるので、この木がハナノキなんですね。

いや~、昨年の旅でマンホール蓋にハナノキの文字を見つけ、その秋の大湫から

御嵩へ向かう途中にあった自生地では確認できなかった、ハナノキでした。

まさかここで出会えるとは!!

「紅葉の彩りが美しいことから別名ハナカエデ(花楓)とも呼ばれ、葉色は黄緑、黄、オレンジ、赤の色とりどりを見せる。日本の固有種で、ハナノキ自生地としては長野県南部、岐阜県南部、愛知県北東部の3県県境のおもに木曽川流域の山間湿地に自生し、自生地は主に、ミズゴケ類が分布する湧水のある貧栄養の小湿地が多く、山間の川岸や湿原などの湿地などに生育するが、生息環境である湿地の減少などにより野生のものは数を減らしており、環境省のレッドデータでは絶滅危惧Ⅱ類(VU)に指定されている」(ハナノキ解説文)

優しい色合いね~とカミさんも幹回りを回りながら見上げてました。

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 うん、いいカットだね、と自己満足して、

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ゆっくりとハナノキ紅葉を楽しみ、満ち足りて街道へ戻ります。

 

 街道へ戻るとすぐ隣は、日本生命の建屋で塀に「源町・本陣跡」の表示板があり、

その隣は旧旧近 江銀行愛知川支店があったところで、両方とも本陣跡地に

建ってるようです。

本陣は西川家が勤めた、と街道書に有るだけ、今は跡形もない・・・

大正建築の旧近江銀行愛知川支店は改装をして、

「愛知川宿街道交流館・愛知川宿ふれあい本陣」として、今年8月にオープンして

ました。

地域観光の拠点として、

『旧近江銀行』を再整備し、中山道愛知川宿の歴史や商店街の移り変わりや沿革を

 紹介し、「愛知川」の歴史・文化・伝統を知っていただく館です。 

 西沢家が勤めた本陣跡で、本陣には皇女和宮が宿泊しました」

 とのプレートがありました。

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隣に鳥居が立ち、参道の奥に八 幡神社がある。

隣接する宝満寺の位置に城館を構えた愛智氏によって勧進されたと伝えられ、
本殿は、江戸中期の作で県指定文化財となっている

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境内の紅色に魅かれて参道へ入ると、右手は愛知川宿街道交流館の施設建屋があり、

本陣は広大な広さであったことがわかります。

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文化財のご本殿。

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街道に戻ると、参道入口左手は高札場跡で、神社標識の下に標識石碑が有りました。

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高札場跡の石碑の左手に、ベンガラ塗の風情ある民家の隣、

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鉄門扉のある空き地一帯が脇本陣の1軒で、藤屋家が勤めた脇本陣跡と街道書に有り、

以前は脇本陣跡の碑が立てられていたそうでうが、取り払われたようででした。 

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先行していた史跡見つけ係り?のカミさんが戻って、キヨロキヨロしてるのは、

脇本陣跡の向いは大きな「寺子屋」の看板を掲げた進学塾で、その隣の空き地の右端に問屋跡の標石が建っていたからです。

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問屋跡標石のから約20mほど先には、左側に文政11年(1828年)創業の

「赤かぶら漬け」の老舗、マルマタ商店がありました。

赤かぶら漬け、と言えば飛騨の高山が有名だったかな・・

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マルマタ商店を過ぎて、道がぐ~んと狭くなり、5分ほど行くと、

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「竹平楼」という立派な料亭があり、ここは宝暦8年(1758年)創業した

旧旅籠「竹の子屋」の跡で、提灯に「愛知川宿 旅籠」とありました。
右手に明治天皇聖蹟碑があり、こおで休息をしたそうです。

明治期に建築された御在所と広間は、国登録有形文化財と なっているそうです。

 

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竹平楼から5分強歩くと、宿の京口に当たる愛知川宿と掲げたゲートが見え、

手前に不飲川(のまずがわ)」があり、不飲川橋を渡ります。

(不飲川(のまずがわ)の名の由来は、
平将門の首を洗ったといわれる上流の不飲池から流れ出ていて、川の水も将門の
血で染まって飲めなくなったという伝説」と、街道書にありました。

欄干に不思議な壺が欄干飾りでのってます。

さて、何でしょう??と、

ちょうど通りかかった地元の方にお聞きしました。

愛知川の伝統工芸品「びん細工てまり」をモチーフにした焼き物んんだそうです。

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愛知川駅前にも「びん細工てまり」を模した郵便ポストがあり、駅の向こう側の

図書館併設で瓶手まり館があるそうで、滋賀県伝統的工芸品に指定され、

フラスコ型のガラスびんに、びんの口より大きな手まりが入っている。

まるく家庭円満に、さらには仲良く(中がよく見える)と言われ、嫁入り道具にも

なっている。今は「伝承工芸愛知川びん細工手まり保存会」の方々がその技術を守り

伝えている」そうです。

(駅前の写真をみると、写ってましたね。もうすこしちゃんと移しとけばよかったな)

f:id:hansui:20191215102450j:plain 橋を渡って約30m進み、国道8号の不飲橋交差点をを横断した所に、

一里塚跡と街道書に有るが、どこかな??

カミさんがキョロキョロしながら、斜め右方向に進むと「あったわよ~」

右手に駐車場が有り、奥に石柱が建っていたんです。

石柱は日本橋から122番目の愛知川一里塚跡でした。

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一里塚跡を確認し、蔦に覆われたオブジェのような建屋を見て、交通量の多い

国道8号を、それっと左手に渡り500mほどの行くと、愛知川手前で二股になり、

中山道は左手の道へ進みます。

約60m歩くと左側に祇園神社がありました。

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神社参道口の先に、高さ4m35cmの 睨み燈籠(常夜燈)が建っていました。

橋の位置が変る度に場所を変え、今は ここに置かれたそうです。

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睨み燈籠の先で右に曲がり、車道を横断して愛知川(えちがわ)を、御幸橋

渡ります。

御幸橋は、文政12年(1829)愛知川宿町人・成宮弥治右衛門忠喜ら4名が彦根藩に架橋を申請して天保2年(1831)に完成した。橋は渡り賃を取らないことから 「むちん橋」 よ呼ばれた。
また明治11年(1878)明治天皇御巡幸の際に板橋が架けられ、その後、地域に払い下げられ 「御幸橋」 と改称された。現在の橋は昭和36年に改修した5代目の橋である」

(解説板)

高宮宿の高宮川にも無賃橋でした。

広重の「恵智川」(愛知川)の絵にも木柱に「はし銭いらす」の文字が見えてます。

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 川を越えると市境で、東近江市市街の境標識に従い約20m先で川沿いに左折し、
東近江の五個荘地域へ入ります。

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 川沿い道へ入ると先に近江鉄道の愛知川南踏切、越えるとゴトゴト鉄橋を渡る

電車の音、振り返るとデザインされたラッピング電車が鉄橋を渡ります。

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約100m歩くと街道は斜め右に分岐し、文政8(1825)年に建立された

対岸と対の睨み燈籠が建ってます。

対岸の祇園神社へ分岐していた道が、愛知川の渡し場を渡りここへ継がって

いたようです。

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五個荘へ入ります、

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 続きます。

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第37回    1日目・後編 高宮宿 ~愛知川宿入口

 彦根市モニュメントが見送りです、

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続きです。


彦根市モニュメントを過ぎ少し先には、左側に葛籠町標石が埋設されていました。

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その先には出町交差点があり、交差点から約10m先の左側に出町と刻まれた標石が

埋設されていました。

付近は行政区域が複雑で、彦根市豊郷町甲良町が入り組んでるようです。

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出町標石から5分ほどで旧尼子出村に入ると、左手に日枝神社が鎮座し、

対の常夜燈の奥に鳥居があり、本殿は小さな造りで村の鎮守と街道書にあります。

 

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日枝神社の先で、彦根市から犬上郡豊郷町安食(あじき)地区へ入り、

10分ほど行くと四十九院交差点で、右側に阿自岐神社社標と常夜燈が建っていて、
ここから右(西)に約800m進むと阿自岐神社が鎮座しています。
応神天皇の時代にこの地を開発した百済の渡来人阿自岐(あじき)氏が、

祖神を祀ったもので、三間社流造りの本殿は文政二年(1819)の建立で,

庭園は日本最古の名園といわれるようです。
この辺りの地名の安食(あじき)は神社名の阿自岐に由来していて、

安食とは食物に恵まれ安住できる地を意味している、と街道書に有ります。

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 右手は豊郷安食西、左手は豊郷四十九院
 四十九院公民館先に「先人を偲ぶ館」への案内板がありました。 
 豊郷に生まれ全国で活躍した、八人の傑人の業績などを紹介してるそうです。

 「偲ぶ館」には寄りませんが左手へ入り、 

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先人を偲ぶ館の向いの左手にある、真宗大谷派兜率山・四十九院照光坊唯念寺に

立ち寄りです。
四十九院とは行基天平三年(731)この地に四十九の寺院を建てたことに
由来し、唯念寺はその四十九番目の寺で、行基作の阿弥陀如来像と弥勒菩薩像が

本尊として安置されており、書院前の枯山水庭園は行基作と伝わるそうです。
向いには真宗大谷派瑞光山恵林寺がありました。(写真下右端)。

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街道に戻って約300m進むと左手に鳥居が立ち、参道奥を左に曲がると

春日神社が鎮座しているそうで、行基四十九院の創建時に伽藍鎮護の守護神として

祀ったものと言われます。

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春日神社入口を過ぎると、旧石畑村で左手に豊郷小学校旧校舎群があり、

現在は町立図書館やカフェなどを運用してる、と街道書に有ります。

旧校舎がアニメの舞台に設定されTV放送されたことから、知る人ぞ知る

旧校舎群のようです。
「昭和12年(1937年)丸紅専務古川鉄次郎の寄付よって建てられた、
 鉄筋造りの小学校で、東洋一といわれました。
 鉄次郎は伊藤忠兵衛の元で丁稚奉公からの叩き上げで、忠兵衛の右腕となって
 活躍しました、身の回りは質素で通し、公共の福祉には大金を惜しまなかった
 ところから、近江商人の鑑といわれました。

 設計は各地に建造物が残る、ウイリアム メレルヴォーリズ設計。

  今は複合施設となって保存されています。」
(豊郷観光案内より)

平成25年、耐震改修が施された後、国登録有形文化財となっている。

まるで大学のような小学校(跡)でしたね。

校舎保存には賛成、反対など大きな紆余屈折があり、裁判騒動にまで発展し

新聞報道もあったようです。

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向かいに 弓矢が添えられている「やりこの郷」 碑が建っている。

 豊郷安食南地区には古くから「矢り木」(やりこ)という地名があり、

「やりこ」とは矢り木のことでその昔、神様のお告げで木の上から矢を射った先から

 水が湧きだしたことからそれが地名になったとされています。

(写真には弓矢が写ってなかった)

f:id:hansui:20191206142650j:plain先左手にある八幡神社の脇に「中山道一里塚の郷石畑」碑があり、江戸日本橋から

数えて121里目の、小さな一里塚が復元されている。

往時、石畑一里塚は豊郷町役場前の南に位置しており、松が植えられていました。

と側の案内板にありました。

(写真右)

石畑は高宮宿と愛知川宿の間の宿で、立場茶屋が設けられ旅人や馬の休息の場として

栄えた。

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石畑の解説板

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間の宿碑の直ぐ先を左に入ると、奥の左手に称名寺、手前左側に八幡神社が祀られて

いました。

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八幡神社から約240m歩くと、豊郷町役場前交差点があり、左側に町役場の庁舎が建っていました。八幡神社前の復元された一里塚は、元はここに有ったということです。

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豊郷町役場の交差点を越えた先には「伊藤長兵衛屋敷跡」の大きな碑があり、

左側に「くれない園」があり「伊藤忠兵衛翁碑」が建てられてます。

資料などによると、

伊藤忠兵衛は「近江麻布」を売り歩いていた近江商人から身を起し、

伊藤忠商事と丸紅の創業者である。

くれない園から約30m先に、伊藤長兵衛商店の丁稚から、7代目伊藤長兵衛を

襲名した若林長次郎家が住んでいた屋敷跡があり、石碑が建っています。

7代目伊藤長兵衛は、伊藤忠商店と合併し株式会社丸紅商店を設立し

初代社長となっている人物である。

(その後、合併、分離、合併を繰り返したが、終戦後は財閥解体伊藤忠、丸紅と

 分割された)

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伊藤長兵衛家屋敷跡から約80m歩くと、左側に伊藤忠商事の始祖である

伊藤忠兵衛生家」があり、記念館として開放している。

旧宅は初代忠兵衛が生活していた当時そのままの形で保存され、家具調度品、

仏間など近江商人の豪邸の有様を今に伝えているそうですが、立ち寄らずに先へ

急ぎます。故郷に錦を飾る近江商人の気質が良くわかります。

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豊郷の近江商人資料の要約。

「初代忠兵衛は、幕末の17歳の頃に九州や中国地方に出向き、

 高宮上布を売り歩いた、近江商人を代表する人物で、この時に作った地盤を元に

 明治時代に大阪で呉服店「紅忠」を開業する。これが後の「丸紅」の基礎となり、

 その後神戸で開業した海外貿易会社が今の「伊藤忠商事」に発展していく。

 さらに、貿易会社を総合商社に発展させたのは二代目忠兵衛の力に負うところが

 大きいといわれている。因みに、初代忠兵衛の兄で本家の六代目伊藤長兵衛の

 婿養子となったのが七代目長兵衛である」なるほど・・・

 

記念館の南側を左手へ入ると、豊郷駅近くに、平安時代犬上郡を収めた

犬上の君遺跡公園があり、隣接して遣隋使や遣唐使を務めた、犬上朝臣を祀った

犬上神社が有りました。

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街道に戻り、これなんだ?の石像を見送り約400m歩くと、右側に天稚彦神社の

社標が建っていました。

街道書によれば、

戦国時代、佐々木京極氏の家臣、高瀬氏がこの地に城を築き、その守護神とした。

とあり、光仁天皇時代(770-781)の鎮座とされる古社で、式内社軽野神社ともされる。しばしば戦火にあい、現在の本殿は延宝7年(1679)のもので ある。

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神社参道口から約30m歩くと、左側に煙突が立つ「出世誉」蔵元の西沢藤平商店が

あり、西沢藤平商店の前に今は涸れてしまったが、その名水を偲んで再現した

井桁状に組んだ井戸があり、「西沢新平家邸跡」「金田池/水の香る郷 四ツ谷」の

碑があります。

道の向いには、江州音頭で踊る人々の姿が描かれた「柳池分水工」があった。
「円 筒分水工」は農業用水などを一定の割合で分配する利水施設で、円筒の下から

 湧き出させた水を外周部で一定割合に分割する施設だそうです。

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金田池から庭の紅葉を眺めながら約300m歩くと、右側の道路沿いに日本橋から

121番目の「中山道一里塚址」があり、跡地に標石と標板が建っていました。

字が擦れて読み難い脇の看板には、「当地より800mほど北」とあるようなので、

町役場附近にあった一里塚の石碑をこちらに移築したのではないかな?

八幡神社の「中山道一里塚の郷」の碑は、なぜあそこに復元したんでしょうね。
一里塚碑の後ろの立派な建物は、

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蝦夷地・北海道の漁場開拓から廻船業にまで手を広げた藤野喜兵衛喜昌の

旧宅「豊会館」で、

案内板には、
「当館は、江戸末期より蝦夷と内地とを北前を用いた交易で財をなした近江商人藤野家本宅跡である。

明治初期に入ると、我国初めての鮭缶の製造を始め五稜北辰の商標「星印」で販売した所、人気を博しました。
今日では「アケボノ缶詰」として受け継がれています。亦天保の大飢饉には住民救済の為に行われた又十の飢饉普請は有名で、江州音頭発祥の地千樹寺の再建と、当家の建造物及び湖国百選に紹介されている名庭園「松前の庭」、勝本宗益作等何れも当時の原形を今日までほどよくほぞんされています。

また、館内には千数点に及ぶ美術・工芸品等が展示されています」

別資料によると。あけぼの印缶詰は、4代目辰四郎の創業だそうです。

(内地との言い回しは懐かしい、ず~と、本州のことは内地と言っていた、)

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 蝦夷地漁場開拓と言えば、司馬遼太郎の作品にもある、高田屋嘉平が良く知られていて、函館に銅像が有ります。藤野家は松前藩に重要されたようです。

 

又十屋敷の左手向いには浄土真宗本願寺派西還寺があり、しばらく行くと右側は

近江湖東二十七名刹霊場第十四番「千樹寺」の参道口で、行基が創立した四十九院

一つで観音堂と呼ばれています。

資料によると、

永禄11年(1568)信長の兵火で焼失、天正14年(1586)近江商人藤野喜兵衛の

先祖・太郎右エ門常美が基金して再建し、その後、再び大火で焼失、この時も

喜兵衛二代目藤野四郎兵衛が再建している。

その左角に「江州音頭發祥地」とあり、「観音堂(千樹寺)と盆踊り/江州音頭発祥の

起源」を記した石板があります。
 解説によると、天正14年(1586)、藤野太郎衛門常実が観音堂を再建し、

 遷仏式の余興として経文の句に節をつけて歌い、円陣で踊らせた。
 その後も盆踊りが催されていたが、弘化3年(1846)藤野四郎兵衛良久が花笠や

 華美な扇子を持って踊らせ、好評を博し、他村へも広まった、とある。

関西地方の芸能、三河万歳や河内音頭や上方漫才に大きな影響を与えた、

といわれるようです。

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江州音頭発祥地碑から約350m歩き、宇曽川お歌詰橋で渡ります。

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橋を渡ると愛知郡愛荘町に入ります。

この川は、水量か豊富なために舟運が盛んで、人や物資、石や丸太も運んだという。
この歌詰橋は、東国で殺された平将門の首が追いかけてきたが、将門の首に対し

「歌を一首」と問いかけ、将門の首が歌に詰まったために橋上に落ちたことから

「歌詰橋」と呼ばれるようになったとされる。(案内板)

平将門伝説がしばしば出てきますね)

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 これは?  花は無いけど、歌詰橋花壇。

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橋を渡り石部の集落へ入りると、普門寺の裏手、山塚古墳上にに飛んできた

平将門首塚があるそうで、後ろの小山の祠が「首塚お堂」かな?

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左側に広場、奥に祀られた薬師堂を見送り、正光寺を過ぎるなど約200m行くと、

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左側に平安時代延喜式に記載されてる古社、石部神社の参道口があり、

大きな鳥居が建っていました。

崇神天皇7年の創祀と伝わり、垂仁天皇の代に元伊勢之石部之宮と称し、

天照大神を主神として祀ったと伝わり、本殿は二間社神明造、と街道書に有ります。

 

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過ぎると沓掛の地名になり、次の宿場、愛知川宿が近くなります。

約500m先沓掛交差点を過ぎたところで三差路で、沓掛住宅案内の大きな看板が

有り、左下に「旗神豊満大社」の石 道標があります。

(写真は分かりづらい)

近江線の愛知川駅に向かうのは左だが、街道は右に進みます。
旗神豊満神社は、左の道を2kmほど愛知川駅を越えて南に進んだ先にあるという。


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右方向に約350m歩くと、河脇神社の参道口があり鳥居が建っていました。

河脇神社も延喜式に記載されてる古社で、白山大権現といわれた、と街道書にある。

傾いた陽に、紅葉が漉かされ良いい色合い、寄らずに進みます。

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これは何用の蓋かな?

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左手、小川沿いに入る道が有り、井上神社とあったので寄り道。

豊かな清水があり、この「井」の「上」に一社を創建し菅原道真公を観請して

産土神とした、と街道書にあります。 

小川をたどって行くと神社が有り、ご本殿が石垣上に一段高く祀られてます。

石垣に中に「井」があったのかな。

案内板らしきもの、無かった?見落とした?

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街道へ戻りすぐ先に十字路があり、「中山道愛知川宿」ゲートが有りました。
左折してゆくと近江鉄道愛知川駅です。

鳥居本宿から、高宮宿を経て約14km弱。

日暮れ前につきました、

11月23日(土)PM4:00 旅の一日目はここで足止めにします。

 

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ゲートを左手に道を取り、近江鉄道愛知川駅へ出て、近江八幡の宿へ戻ります。

帰り方は二通り。近江鉄道を使って南下し八日市駅経由で近江八幡へ行くか、

北上し彦根へ出てJRで行くか。

時刻表を見ると、彦根経由が早そうなので、彦根行き側ホームで待ちました。

あれ、時刻表にない彦根方面から電車が来た! 今日は日曜日、増発電車か??

と到着電車を見ると、「ワイン電車」のプレートのイベント特別電車でした。

車内ではテーブルが置かれ、乗客がグラスを傾けていた!!

戻った近江八幡駅にはこんなポスターを見つけた。

ボージョレ・ヌーボー」解禁日の 11/21(木)から運行が始まります。

6 種類の ワインが飲み放題!

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誘われたように、道すがらワインを買ってホテルへ。

乾杯!、2日目へ、旅は続きます。







歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第37回    1日目・中編 高宮宿 ~彦根堺

近江鉄道・踏切を渡り、高宮宿へ入ります。

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続きです。

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高宮宿は江戸より第64番目。119里7町 468Km
京へ16里6町(約64km)、鳥居本宿から約6キロメートル。

 高宮宿は多賀大社門前町として、また近江上布(麻布)の集散地として

 大変栄えた宿場で、

天保14年(1843)の宿村大概帳によると、

 戸数835、本陣 1、脇本陣 2、旅籠 23、人口3560人余

 宿長 7町16間(約800m)。

 とあり、中山道では本庄宿に次ぐ大きな宿場であった。

 

 高宮宿は、高宮布(麻織物)と多賀大社の鳥居ということで、

 多賀=高、大社=宮で、 門前町であった高宮の名の由来になった。

 

近江鉄道踏切を渡り200m位進むと高宮町大北交差点で、渡った右角に、

木之本分身地蔵堂大北地蔵堂)が有り、

「北国街道木之本宿の浄信寺にある、眼病に御利益のある地蔵菩薩の分身で、

 めずらしい木彫りのお地蔵様」との、解説パネルが側に立ってます。

(木彫りとは珍しい、と覗かせて頂きましが、薄暗く見えませんでした)

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地蔵堂から先の街中は、また急に道幅が狭くなり、車のすれ違いもぎりぎりの

幅になってきます。まあ、街道らしい道幅と言えるんですが・・・

お~い、後ろから車だよ~・・右側、歩いた方がいいよ~。

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緩く右に左に曲がりならの街並みが続きます。

地蔵堂から約300mほど、左手は近江鉄道高宮駅への道があり、高宮駅からは

多賀大社への鉄道線が分岐しています。

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駅入り口を過ぎて、相変わらず交通量の多い、歩道帯無しの道が続き、

家軒下ぎりぎりを歩くことが多くなってきました。

車がすれ違うたびに通行が停滞して、お互い譲り合いのタイミングが難しそうで、

怒号が飛び交う場面もありました。

150mほど行くと、右手は高宮神社の参道が伸び鳥居が建っています。

高宮宿の氏神様で、正徳3年(1713)と思われる古い石燈籠があり、鎌倉末期の

創祀とされ、本殿は嘉永3年(1850年)の建立と、街道書に記されてます。

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鳥居をくぐり参道を行くと大きな山門、嘉永二年(1849)建立といわれる随身門を

入ると、境内はけっこう広く、

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ゆっくりご本殿も拝観。

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参拝も済ませて、随身門脇の芭蕉の句碑を見て、参道を戻ると、

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左手に、門にしめ縄を掛けた建屋が有り、塀には大祭のパネルが

何枚も飾られてる。神社関連の建屋なのか?

パネルの様子から、見てみたい祭りとは思いましたが・・う~ん、無いだろうな~、

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そして右手南側には、大きな蔵を持ち複雑な屋根組の旧家らしい建屋は、

高宮村の庄屋を務めるなど村の有力者で、地域を代表する近江商人であった馬場家で、江戸後期の天保4年頃の建築と推定される建物は、彦根市文化財に指定、との説明板が建ってます。

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参道を戻り鳥居正面の「宿駅 座・楽庵蔵」の大きな看板を掲げてるのは、

築200年を越え、かっては倉が7棟もあったという高宮布の問屋の布惣跡でした。

現在は喫茶店「おとくら」とギャラリーになっている。
高宮布は室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重され、江戸時代になってからも高宮は麻布の集散地として栄えた。
この主屋は三つの蔵とともに、国登録有形文化財に登録されている。

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左側の高宮郵便局の前に、祭り提灯などが飾れた、なにか懐かしい提灯店があり、

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馬場提灯店の先隣りに昔ながらの酒店がありました。

時代を感じる荒壁の建屋など、いい味を醸している町家が続きます。 

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酒店の直ぐ先は高宮鳥居前交差点で、左側に高さ11メートル、滋賀県指定有形文化財

多賀神社の大きな鳥居が建っています。

その右傍らには、「是より多賀みち」の道しるべと、多賀みちを照らしていた

高さ6mという大きな常夜燈が並んで立っています。

これより約4キロメートルの先には、延命長寿と縁結びの神として崇められる

多賀大社があります。

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多賀大社は、現滋賀県犬上郡多賀町多賀に所在し、
 お 伊勢七たび熊野へ三度 お多賀さまへは月まいり j、と唄われ、
 伊勢神宮の祭神天照大御神親神様を祭る神社として古くから信仰 を集めてきた。
 特に江戸時代以降、庶民が容易に神社 仏閣を巡る旅に出られるようになると
 伊勢神宮や讃岐 の金毘羅宮、西富三十三所観音霊場などと共に全国か ら参詣者が
 訪れるようになった。」(滋賀文化財資料より)

 

多賀大社へは、今回の旅の帰りに寄り道参拝しました。)
 ブログ・多賀大社

hansui.hatenadiary.jp


右手に芭蕉が泊まった小林家があり、ここが芭蕉紙子塚で、石碑と解説パネルが

有ります。

「貞享元年(1684年)冬、円照寺の住職の紹介で町家に世話になった芭蕉が、

 寒さに耐えて横になる自分の姿を、『たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子』と

 詠み住職に送ります。(紙子とは紙で作った衣服のことです)

「単なる客人」だと思っていた町家の主人が、その客人が芭蕉だったと知ると、

 非礼への償いとして新しい紙子羽織を贈り、古い紙子は庭に埋めて「紙子塚」

 とし、代々敬った」(解説パネル)

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芭蕉紙子塚から約90m歩くと、右側に塩谷家が勤め問屋を兼ねた脇本陣跡があり、

格子に解説パネルが掲げられていました。

こちらは高宮宿に2軒あった脇本陣のうちの1軒で、慶長13年(1608年)から

問屋場も兼ねたそうです。また、門前には高札場が設けられていた、と街道書に

有ります。

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玄関前に綺麗に咲く秋の花々を楽しみながら、

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脇本陣から約40m歩くと、左側に小林家が勤めた本陣跡があり、

往時は、間口約15間、建坪123坪の広さとされ、現在は表門が残されています。 f:id:hansui:20191204044231j:plain

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本陣跡の斜め右手は円照寺があり、パネルには「元和元(1615)年大阪夏の陣に向う

徳川家康が腰掛けた家康腰掛石があり、明治天皇所縁の松がある」と記されてます。

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円照寺から約180m歩くと、

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高宮宿も家並みが途切れ、高宮川の無賃橋北詰交差点付近が江戸時代の高宮宿

西の京口で、交差点の右側に、「無賃橋碑」と「むちん橋地蔵尊」が安置されて

いました。

現在の橋は昭和7年(1932年)にコンクリート製の橋に架け替えられたもので、

昭和52年、むちん橋の改修工事の際、橋脚の下から2体の地蔵尊が発掘され、

天保三年(1832)の最初に架橋された礎の地蔵尊であろうとお堂を建てて祀った由。

無賃橋の由来は、彦根藩近江商人藤野四郎兵衛に命じて募金により架橋した橋で、

渡り料を無賃にしたことで付けられたようです。 

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綺麗な秋空に、犬上川の源流の鈴鹿山系の山並みが望めました。

犬上川の流末は琵琶湖へ注ぎます。

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広重画 高宮宿 (画解説文より)

高宮川は、宿場の西口(南)にあって、犬上川とも言われます。当作品は、川の南岸から高宮を見通す視点で、北岸に常夜燈、宿場、背景の山並を遠近法的に紹介する形式です。川中に橋桁を設置し増水時に板を渡して渡っていた。平時は渡渉であった。同スケッチ帖から判断して、広重は、水位が低くなって橋脚だけが残された景色に興味を持ったのかもしれません。これに歩行で川をジグザクに渡る旅人達を加えたのみならず、麻あるいは苧殻(おがら)を背負う2人の農婦を前景に描いたのは、宿中で織られた高宮布(上布)と関連付け、高宮宿の名産を紹介するためです。

両側に描かれた松は、多賀大社の鳥居に見立てたという説がある。

(増水時の渡り賃が無料だったのかな?)

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高宮橋(無賃橋)を渡ると、旧法士(ほうぜ)村に入り、約250m歩くと、

四の井川に架かる新安田橋があり、渡った処の十字路先の左側に日本橋から

120番目の「法士(ほうぜ)の一里塚塚跡」標石が建っていたはずですが、

標石は無残にも壊れていました。

1年前に旅をされた方も「壊れていた」とあり、残念ながら放置されたままでしたね。

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多賀道道標、八幡神社を過ぎると葛籠村となり、少しだけ松並木が残されてます。

旧つづら村は藤細工、葛籠、行李、団扇な名物の立場であった、と街道書に

記されてます。

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しばらく足を進めると、右手に真言宗豊山派の寺院である月通寺があります。

本堂には行基彫造と伝えられる、蔵菩薩が安置され、別名「柏原地蔵」とも

呼ばれてるそうです
山門前に「不許酒肉五幸入門内」と刻まれた石標があるが、禅宗であった頃の名残を

伝え、山門は、左右に本柱と控柱をそれぞれ一組ずつ配し、屋根は切妻破風造りと

なって、医薬門の一種、と街道書に記されてます。

「許酒肉五辛入門内」とは、酒・肉・五辛など臭いの強いものを、

門内に持ち込むことは許されません、ということだそうで、

ここで言う五辛(ごじん)とは、にんにく・にら・ラッキョウ・ねぎ・

ひる(野蒜の異名)を指すそうです。

(全部、好物ばかり・・)

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時刻も午後の1時、そういえばお腹も空いてきた、と境内のベンチをお借りして

持参の昼食一休み。

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月通寺から100mくらい右手に、足利利尊氏の子義詮に纏わる事柄がある

産の宮井戸跡があり、「足利氏降誕の霊地」と彫られた手水鉢と井戸跡、

奥に進むと「産の宮」が祀られているそうですが、宮までは入りませんでした。
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すぐ先左手に真宗大谷派甑谷山(そうやざん)還相寺があり、

向いには大正元年(1912)の開基の浄土宗摂取山了法寺があります。

次いで右手の高崎医院の並びに、堂の川地蔵尊が祀られています。

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先の左小路に入ると鹿嶋神社が鎮座しています。

甕槌神(たけみかづち)を祭神とする神社で、武神であるところから武家の崇敬を

篤く受けた、と街道書に有ります。

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 葛籠の街並みが途切れると、街道は松並木になり田園風景が広がります。

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左手に彦根市モニュメントがあり、三本の石柱の上に

「麻を背負った婦人、菅笠を被った旅人、そして近江商人」の像が乗っています。

彦根市から出る側には「またおいでやす」、入る側には「「おいでやす」彦根市

刻まれています。

彦根市の東、鳥居本宿へ入るところにも、像は違いますがモニュメントが有りました。

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 旅は続いてゆきます。

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第37回    1日目・前編 鳥居本宿~ 高宮宿 

中山道、夫婦歩き旅も11月初の旅でついに近江の国へ入り。

残すところも70kmを切り大詰めが近づいてきた。

年内にできるだけ京へ近づきましょう、のカミさんの意向あって、

11月22日(金)~25日(月)に再び旅の空へ。

天気は小雨模様も予報されていたため、雨具などを用意してそれなりの準備で

11月22日(金)カミさんの仕事終わりを待って職場から拾い直接旅立ちへ。

PM7:30 近江八幡のホテル着。

 

11月23日(土)

前日までは薄曇り小雨可能性有り、の予報だったが、有難たや!快晴の夜明。

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ホテルで朝食をとり、JR近江八幡駅から乗車し、JR彦根駅近江鉄道に乗り換え

前回足止めの鳥居本へ。

地図を見ると、中山道はJR線とは離れてしまうが、有難いことに近江鉄道が、

中山道とつかず離れず走っているので、わりと足の心配はしなくて済み、

大助かりです。

(缶コーヒーの看板を写したのではありません。新幹線を写したら頭が隠れちゃた)

そうそう、鳥居本駅にはトイレがありましたが、現在は閉鎖されてます。

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晩秋の旅の空は日暮れも早い。
今回の予定、今日23日(土)は、
63番、鳥居本~64番高宮 1里18町 5.9Km 日本橋より 119里7町 468.0Km
64、番高宮~65番愛知川 2里0町  7.9Km   〃    121里7町   475.9Km
                   (13.8km)
24日(日)は、
65、番愛知川~66番武佐 2里18町 9.8Km 〃 123里25町 485.7Km
 2日間で23.6km

 今の老老旅ではこんなもんですね。

 

 前回の旅、11月4日に足止めした江戸から64番目・鳥居本宿脇本陣前で

旅立ちショットをとり、

11月23日(土)AM9:20、無風快晴の空の下第37回目の夫婦歩き旅の再開。

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前回歩いてきた鳥居本宿内には、枡形は残っているものの、本陣や脇本陣などの

遺構は残念ながら残っておりませんが、町並みに連なる切妻屋根の中二階建て、

漆喰塗籠めの虫籠窓、卯建、格子、出格子などをしつらえた伝統的な町家など、

宿場町の面影を伝えるべくの維持活動がなされていることが良くわかります。

鳥居本のあたりは、古今和歌集」や「百人一首」の編集で知られる藤原定家一族の

荘園だったようです

鳥居本駅入口からすぐに高橋家が勤めた脇本陣があり、問屋場も兼ねていたそうです。

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街道書には、脇本陣の向かい側で鳥居本駅入口の右角に高札場、と記されてますが、

標板など何も表示されていませんでした。

虫篭窓の旧商店らしき建物軒下にはこんな札が下がってますが?

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高札場跡から約90m歩くと、文政8(1825)年に創業した合羽所松屋跡があり、

軒先に行燈看板が掲げられていました。

合羽所「松屋」での案内板によると

「 江戸時代より雨具として重宝された渋紙や合羽も戦後のビニールやナイロンの

 出現ですっかりその座を明け渡すこととなり、鳥居本での合羽の製造は

 1970年代に終焉し、今では看板のみが産地の歴史を伝えています。

 昔そのまま屋根の上に看板を掲げる松屋松本宇之輔店は、丸田屋から分家し、

 戦後は合羽の製造から縄づくりに転業しています。

 2001年には、かつて 家屋の構造を生かしながら改修されました。」

 とあります

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現在の行燈看板には「商号松宇 包紙紐荷造材料」と書いてあり、

扱い苞品は変わってきてるようですが、まだ現役の商店のようです。

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合羽所松屋から約60m歩くと、十字路分岐があり、分岐の右角に礎石の上に唐破風の桧皮葺き屋根の常夜燈が建っています。

格子の扉が嵌められ、擬宝珠まで乗っている立派なお堂のような常夜燈です。

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f:id:hansui:20191203035338j:plain常夜燈のすぐ先右手に「鳥居本宿交流館・さんあか」があり、

駅にトイレが有りませんので、ここでトイレを拝借します。

街道歩き人にとっては、ゆっくり足休めもできる本当にありがたい施設です。

名産の、すいかの赤 合羽の赤 薬の赤玉の赤で「さんあか」なんだそうな。

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常夜燈から歩くと、左右に白壁造虫籠窓の家、ベンガラ塗の家などが並び宿場時代を

彷彿とさせてくれる、歩いて楽しい街並みが続きます。

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右側に聖徳太子開祖と伝わる専宗寺があり、山門右手の境内に聖徳太子廊が

ありました。

さすが近江の国、聖徳太子が出てきましたね~。

 かつては、佐和山城下町本町筋にあり、泉山泉寺と号していましたが、

寛永17年(1640年)に洞泉山専宗寺と改め移ってきました。

本堂などの建立年代は18世紀後半のものといわれており、山門の右隣の二階建の

太鼓門の天井は佐和山城の遺構とのことです。

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さあて、この屋号は、カミさんは(しひやく、ひゃくし)

 なんて読むのかな??

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(駐車案内板に「どどもも」とフリガナされていた。

 帰宅後調べてみると、百百(どど)家という旧家で、2010年に登録有形文化財

 に指定された建屋での蕎麦店でした。もも、は名なのかな)

 

専宗寺から約200m、鳥居本宿の南のはずれに近い四つ角に、

文政10年(1827)に建立された「右 彦根道 左 中山道 京いせ道」と

刻まれた古い道しるべが建っている。

右折した道が彦根に通じる彦根道であり、朝鮮人街道とも呼ばれるそうです。

朝鮮人街道(彦根路)は中山道彦根城下を結ぶ脇街道的な存在で彦根藩2代藩主

井伊直孝が整備した、との説明板が有ります。 

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ここから彦根城下までは約一里だった。

彦根道は、徳川家康関ヶ原合戦後の上洛に使用した道であるが、朝鮮通信使が通ったことから、 朝鮮人街道 とも呼ばれている。
朝鮮人街道とは、先に雨森芳洲の章で触れた朝鮮通信使が朝鮮と江戸との往復の際に通った道で、鳥居本宿から分岐して中山道よりも北側の琵琶湖沿いの道を通り守山宿の手前の行畑で元の中山道に戻る全長40㎞あまりの道のことである。
 比較的まっすぐな道として整備されている中山道とは異なり、道が複雑に右折左折を繰り返す道をわざわざ朝鮮通信使一行に歩かせた幕府の意図はよくわからない。
 この道は関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が京に上る際に通った吉例の道とされている。その後も将軍上洛の際に使用された道であるが、大名の参勤交代には通行を許されなかった特別な道でもある。
 朝鮮通信使はここで進路を右に取り、彦根城下の宗安寺で宿泊するのが通例となっていた。朝鮮通信使徳川時代を通じて12回しか派遣されなかったのにこの道が朝鮮人街道と呼ばれるようになったのは、沿線の住民たちにとって朝鮮通信使の一行がいかに印象強いものであったかを物語っている。(彦根市解説文)

道標から約230m歩くと、左側に鳥居本宿標柱が建っていました。

ここが鳥居本宿の京口(西口)でしょうか。

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鳥居本宿標柱をあとに。街道は東西を200~300mの山に挟まれた幅200mほどの

谷間に、東側を名神高速が走り、西側を東海道新幹線が通り都内のラッシュ時の様に

次から次と行き交っています。

左手に「古宿」の標識があり、さらに進むと左手小野川用水沿い彦根市小野町の標識があり、小野小町の出生地と云われる旧小野村へ入って行きます。

街並みの入ると左側に小野こまち会館が建っていました。

江戸以前はこの集落が宿場であったことを「古宿」の標識が物語ってます。

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右手に地蔵堂、左手にも地蔵堂、といくつかの祀られた地蔵堂を見ながら、

静かな佇まいの小野町集落を歩き、

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間もなく集落を抜けると高速道(写真右アーチ)、新幹線(写真左下)が

ますます近よってきて、挟まれた中を街道は通じてゆきます。 

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先ほど新幹線が通過したこの建造物は何でしょう??

新幹線の右方向に有ったセメント工場と、左手方向に有った石灰岩採掘場とを結び、

原料を運搬していた索道(ロープウェイ)が通っていた、との説がありました。

工場は1996年(平成8年)に閉鎖され、索道も取り外されたということですか。

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すぐ先右側に八幡神社参道入口の社標と常夜燈が建ち、新幹線高架越に鳥居が

見えていて、社殿は奥の森の中に鎮座している様子です。

設置された案内説明板には、創立年代は不詳だが社殿は天保8年(1837)の改築、

とありました。

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参道入口から約240m歩くと、左側に「聖谷」の看板が立ち、

聖徳太子が合戦の折、一時隠れた陣地」と記されてますが説明板もなく

詳細は不明です。

その先には小さな建屋の中に六地蔵が祀られ、そのさき約30mほど左手に、

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小さなお堂があり、絶世の美女と讃えられた六歌仙の一人・小野小町は、

ここ小野村が出生の地とされ小町地蔵堂が祀られていました。

出羽郡司小野美実(好美)は奥州に下る時、小野宿に泊まり、ここで生後間もない

女児を養女に貰い受け、出羽国へ連れ帰りました。この女児が小野小町と云われて

います。(案内板)

小野小町」の生まれた場所や墓は全国各地に見られるそうですが、ここで生れた

 という説はかなり有力といわれているだそうです。

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「小野地蔵は自然石を利用して、阿弥陀如来座像が浮彫りにされている。

 正面だけでなく、両側面にも彫り込まれており、類例が少なく貴重なものである。

 太鼓を抱えた猿と兎が描かれた鳥獣戯画風の石板は、「郷土芸能「小野町太鼓踊り」

 を表し、「小野小町にはたおりさせば あややにしきの姫ばたを」

  と記されてる。 (説明版より)

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小町地蔵堂の隣に中山道標柱があり、小町前茶屋跡の標識が建っていました。

小野前茶屋は明治の中期まで茶屋があり、お多賀さん(多賀大社)参りの人で

賑わったそうです。

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小町前茶屋跡から約75m歩くと、東海道新幹線の高架橋があり、

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高架橋を潜り謎の大狸を見つけながら行くと、やがて左手に用水が流れている

「原」の集落に入ってきます。

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約350m歩くと、 左側に原八幡神社地蔵尊入口の標柱が建っており、新幹線下を潜った先に地蔵尊が祀られていました。

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原の集落

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右側に聖徳太子を祀る原八幡神社の鳥居が建っており、鳥居の脇に、

芭蕉 昼寝塚/祇川 白髪塚」の石碑があり、右折して神社に立ち寄りました。

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神社の境内に入ると、白髪塚、芭蕉ひるね塚があり、解説標板が建っていました。

解説文によると、

「昼寝塚」に彫られている方は芭蕉の句は「ひるかほに 昼寝せうもの 床の山 」

 というもので、この句はこの付近で詠まれたものだという。

「白髪塚」の方は「恥じながら  残す白髪や 秋の風」というもので、聖徳太子

守屋との戦い等、幾多の戦いの将士達をあわれみ、蕉風四世・祇川居士(陸奥の人で、芭蕉の門人)が師の芭蕉の夏の句に対し、 秋を詠んだ句ではと言われている。」

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街道に戻り、約80m歩くと右側に、中山道・原町の道標が立ち、

右奥植え込みの中に天保15(1844)年に建立された「五百らかん」への

道標石碑があり、道標の先は名神高速道路彦根ICの高架道路が2つ続いてiいます。

五百羅漢を祀る天寧寺は、井伊直弼の父である直中公が、自分の過失で手打ちにした

腰元と初孫の菩提を弔うため建立したそうで、後に桜田門外の変で暗殺された

井伊直弼の墓もある、と街道書に記されてます。

(往復で3,40分ほどかかるようなので寄らづに先へ進みました)

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2本目の高架道路を潜った所から約150m歩くと、正法寺前交差点の手前左側に

慶応3年(1867年)建立の多賀大社常夜燈が建ち、周りには、

道標「是より多賀みち」、安産観世音是より四丁慶光院、

慶応2年(1866年)建立の金比羅大権現石碑などが建っている。

常夜灯は多賀大社の東参道への近道を知らせるために建てられたそうで、途中も

お参りするところがあることを示してるそうです。

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多賀大社常夜燈の先の正法寺前交差点を横断し、森に沿って急に狭くなった道を

約350m歩くと、右側に春日神社の参道入口があり鳥居が建ってます。

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春日神社を後に先へ進むと、食品スパーが有り、トイレとイートインコーナーで

足休めCaféタイム。

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スーパーを後に歩道帯の無くなった道を車に注意しながら約200mほど行くと、

右手に浄土真宗勝満寺があり、鐘楼堂前に、矢除地蔵堂が祀られていました。

聖徳太子ゆかりの史跡。中には聖徳太子像と地蔵。

この地に隠れていた聖徳太子が守屋の軍勢に発見され、矢を射かけられたが、

突如金色の地蔵菩薩が立たれた。後になって松の根方に小さな地蔵尊が右肩に矢を射込まれて血が流れていたという伝説があるそうで、このあたりには聖徳太子伝説が

多いそうです。(解説文概要)

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矢除地蔵堂から、結構交通量の多い歩道帯のない道を約500mほど行くと、

鈴鹿山脈に源を発し琵琶湖へそそぐ芹川が流れ、大堀橋で渡ります。

芹川は不知哉川「いさや川」と呼ばれ、万葉集の歌枕になったそうで、橋を渡る手前、

左手に橋下へ下ると万葉歌碑があるそうです。

(道の右手を歩いていたので立ち寄りはしませんでした)

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大堀橋を渡ると大堀町交差点があり、右側に「床の山碑」が建っていました。

標柱に「ひるがおに 昼寝せうもの 床の山」と刻まれている。

街道書には、川の手前左手の山、大堀山は鳥籠山(床の山)といわれ、

歌枕になり、672年の壬申の乱の古戦場でもあった、と記されてます。

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床の山碑の後ろは綺麗な紅葉にいろどられた旭森公園があり、公園の外れ斜面には

地蔵堂があり、脇にはたくさんの石仏が置かれてます。

地蔵堂の道を隔てた向こう角に多賀道道標が有り、道標の右手岩清水神社駐車場は

お休み処「かどや」跡で、お休み井戸を残していて案内板が立ってます。 

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 地蔵堂の隣は亀甲山と呼ばれる小山で、石清水神社の参道入口の石段があり、

能楽家元が彦根藩を訪れたとき、記念に面と扇を置いて行き、当地の弟子たちが

記念の「扇塚」「面塚」を建てたといわれ、現在は「扇塚」が残されてます。

境内のモミジが素敵な彩を添えてますね。

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大堀町の解説によると、古く飛鳥時代からこの地にお祀りしている神社だそうで、

武勲守護の神、また安産の神として参拝、祈願する人が絶えなかったそうです。
本殿(写真右)の建築時代は不詳、拝殿は明治9年5月改築さたとも記されてます。

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石清水神社から先は次第に住宅が立て込み始め、道幅もかなり狭くなってきますが、

歩道帯は区分されてはいません。

車の往来はかなり多く、お互い待ち合わせをしながらの行き交いになり、歩く方も

暫し足止めをしながら進む街道になってきました。

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 歩道帯のない道は、車と対面する右手を歩くようにしています。左手を歩くと

後ろから来る車に対応ができないからです。

右手に堂々たる山門、鐘楼堂をもった、天台宗から改宗した浄土真宗本願寺派

鳥籠山(ちょうろうさん)唯称寺を見送り

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唯称寺から10分ほど行くと、右側に大堀家地蔵堂が祀られていました。

建久元(1190)年、源頼朝はここで体調を崩し、地蔵菩薩に平癒を祈願したという

いわれがある地蔵堂、と街道書に有ります。

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 地蔵堂から約350m歩くと、近江鉄道の踏切があり、手前右側に大きな常夜燈が

建ち、高宮宿碑が建てられているのですが、写ってない!

街道書では、ここが高宮宿の見附跡で江戸(東)口だった、と記されてます。

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江戸より第64番目。119里7町 468Km
京へ16里6町(約64km)、鳥居本宿から約6キロメートル。

 高宮宿場街へ入ります。 続く。