早春賦

立春4日、所用で出掛けた帰りの道草。

もう、咲きだしたかな「セツブンソウ」と東京都薬用植物園へ。

咲いてましたセツブンソウ(節分草)

代表的な早春植物(スプリング・エフェメラル)

咲きだしたばかりか、小さく小さく草丈は3~5cm、花径は1~2cmほど。

微笑みかけてくれているような愛らしさ、ともいいますね。

ただ、同じキンポウゲ科トリカブトと共通する毒成分を含んでいるという。

透けるような白の中にあるその雄しべのブルー。

白い花弁状に見えるものは萼片、花弁は小さな黄色の蜜腺に変化。

コセリバオウレン(芹葉黄蓮)キンポウゲ科 オウレン属

雪解けの頃に咲き出す、春の訪れを告げる植物の一つです。

日本海側に分布するオウレン(キクバオウレン)の変種と

され、太平洋側や西日本に多く分布します。 

オウレン Coptis japonica は日本特産種の常緑多年草

キクバオウレンはオウレンとそっくりで見分けるのは困難ですが、

セリバオウレンは葉の様子がセリの葉状で、セリバオウレン。

根茎は古くから薬用にされてるという。

まだ咲き始め、花は小さく1~2cm位でした。

雪国では、雪の中からふんわりした黄色が花開き、幸せを呼びそうな福寿草

花は、陽の当たる日中に開き、夜間や、天気の悪い日は閉じている。

明るい色彩で目を楽しませてくれて、縁起のいい名の福寿草

だけど、生命にもかかわる強い毒性のあるので要注意。
黄色い花弁が見える前の状態はフキノトウの出始めと誤認されやすく、

誤って食べてしまい中毒する事例が多いそうな。

(薬草園の福寿草は園芸品種のフクジュカイ・福寿海と言うそうです)

スノードロップ(雪のしずく)

寒さ厳しい時期にうつむいて咲く白い花、さながら雪の精を思わせ「雪の雫」の命名

和名はマツユキソウ(待雪草)

含まれる成分の一部は、アルツハイマー認知症や筋無力症を改善する薬としても

用いられるそうな。
原産地バルカン半島小アジア

鉢で栽培されていた花はクロッカス?と思ったら、

チューリップ 原種と花札があった初めて目にした花。

丈、2cm位、花径 2~3cmのコンパクトな花。

そいえば、葉はチューリップでした。

原種系は70種い以上あるそうな。

水仙(バルボコジューム)は、原種系のスイセンで、

ペチコートスイセンとも呼ばれている。

科名 / 属名:ヒガンバナ科 / スイセン属 草丈10~15cm。

強健で、小さなかわいらしい花を毎年たくさん咲かせます。

小型原種スイセンの代表的な種類で、ヨーロッパ南西部や北アフリカに広く分布して

いるという。
秋の中ごろから葉を伸ばして、葉を成長させながら冬を越し、早春のころには

黄色いペチコートのような花を、1茎に1花開きます。

温室を覗いてみます。

まずは始めて見かけた花はセンシンレンの花名があった。

薬草園の説明では、

キツネノマゴ科、原産地、東南アジアの一年草

インド、東南アジアでは止瀉薬、強壮薬などに古くから用いられた薬用植物。
中国名は「穿心蓮」、インドネシア語での呼び名サンビロート。
日本ではかつて、この植物より健胃薬を調製した記録が残っています。
花は白色で、濃紫色の斑紋があり、長さ1.5cmほどです。
(一部情報では対コロナ有効成分があるとも言われてるとか)

赤色の花と白色の萼が対照的で美しい、ゲンペイクサギ シソ科

和名:ゲンペイカズラ(源平葛)、

つる熱帯植物       原産地    熱帯西アフリカ

初夏から秋まで長期間開花する常緑のつる性植物で、各地の植物園の温室でよく

見かける花です。
花冠が深紅色、萼片が白色であり、この紅白の対比から「源平臭木」の和名が

あります。

花後しばらくすると萼は赤紫色に色付きます。

ホウライアオキ (蓬莱青木) キョウチクトウ科  台湾・中国南部原産。

常緑低木で、白色のろうと状のに咲く花で、ほぼ一年中咲いている。

そして、楕円形で滑らかな美しい赤い実。。

根や茎が血圧降下剤の原料として使われている。

葉がアオキの葉に似ているので、この名前が付いたらしい。

短時間の寄り道でしたが、春呼び花のセツブンソウ、福寿草

春は名のみの・・・とはいえ、ポわっとした温かみを感じた道草でした。

 

 

 

甲州街道四十四次 2 後編

まさに絢爛豪華、その中に和の美を取り入れた西洋宮殿。

ゆっくり過ごした良い寄り道でした。

街道旅は後編へ。

四つの谷から四ツ谷と呼ばたの説が有りますが、新宿通り(旧甲州街道)左手は

谷へ下るような坂道が迷路のように入り組んでました。

200mほど歩いた左手を下ると、服部半蔵の墓のある「西念寺」と街道書に記されて

いて、細い坂道へ入ります。

5分ほど下ると寺院らしい塀に当たり、左手に回り込むと西念寺入り口でした。

ここ若葉町一帯は、もと伊賀町と呼ばれ、伊賀衆の組屋敷があった所で 

西念寺は、組頭服部半蔵正成の菩提寺として記されている。

街道書や門前の案内板には、

浄土宗・西念寺

忍者の頭領、槍の半蔵として有名な服部半蔵正成によって、松平信康徳川家康嫡男)の供養の為に開創された。

服部正成自身は武士として徳川家康公に仕え、伊賀・甲賀の忍者を率いて、

また槍の名手として「鬼半蔵」の異名をとり数々の武功を重ね、家康公より槍を拝領しました。この槍は当寺寺宝として伝わりている、とあります。

西念寺の由来書抜粋)

徳川家康の嫡男徳川信康は、武勇に優れ将来を嘱望されたが、徳川家と同盟関係あった織田信長の理不尽な要求で切腹を命ぜられ、切腹介錯を任ぜられたのが半蔵正成。
しかし「鬼半蔵」の異名をとった正成は、いかに命令とはいえ、仕えていた主君に刃を向けることはできず、遂にこの役目を果たすことができませんでした。
このことから世の無常を感じ、信康公の冥福を祈る為、仏門に入りました。

天正18年(1590)、家康公は江戸に入国し、江戸城を築き本拠を置きました。
半蔵正成も江戸に入国しましたが、信康公の御霊を弔うために剃髪出家し、

名を「西念」と号し、麹町清水谷に庵を設け、遠州以来奉持していた信康公の遺髪を

ここに埋めて、専称念仏の日々を送りました。
文禄2年(1593)には、信康公の御霊と徳川家忠魂の冥福を祈り、一宇を建立するよう内命を受けたとも記録されていますが、寺院建立を果たせず、

文禄4年(1595)没し、法名は「専称院殿安譽西念大禅定門」。
その後、同所に一宇の建立がなり、山号院号・寺号は、この法名からとり

「専称山安養院西念寺」となり半蔵の墓が建てられた。

寛永11年(1634)江戸城外廊拡張に伴う外濠新設の為、濠の外の現地にに移転した。

残念ながら、戦災により全ての建物は焼失し、昭和36年(1961)本堂再建がなり

ました。

境内の案内図のようなものや経路標識もなく、時代を感じる墓地内などを探して

「判らないね、どこにあるんだろう」としばしうろうろ。

本堂

 

ようやくたどり着いた部半蔵の墓

服部半蔵の槍は本堂内にっ保管されてますが、写真はガラス戸越しで写ってなかった。

服部半蔵がが建てたという徳川信康供養塔は本堂裏手脇にありました。

介錯を命じられた半蔵は「三代相恩の主に刃は向けられない」と介錯だ出来なかったといい、家康は「鬼と言われた半蔵でも主君を手にかけることはできなかったか」と

正成をねぎらったとか。三河武士の典型「大久保彦左衛門」が書いた三河物語に残されている逸話だそうです。

西念寺を後にし、街道書にある愛染院へ向かいますが方向がつかめず、塀沿いに回り込んできた道を少し登り返し、広めの道を西へ5分ほど行くと、東福院坂と名された

急坂道へ出ました。

このあたりは、かっては四谷区寺町、南寺町と言われた通りお寺が大変多く、

辺りの寺院はこのような急坂の途中に作られていることが多い。

道も狭く、住宅、アパート、ビルが密集し、窮屈な格好で建てられている。

急坂を少し下ると左手に愛染院、右手に坂の名の真言宗・東福院があった。

東福院入り口に「豆腐地蔵」との掲示が有ったので街道書には記されてないが寄り道。

東福院の入り口の右手に「豆腐地蔵」が立って、豆腐が二丁供えられてました。

由来案内板などはないため、後に新宿観光資料などで調べた豆腐地蔵の名の由来は、

「昔この付近に、よこしまな心をもった豆腐屋がいました。

毎晩豆腐を買いにくる坊さんがいたが、豆腐屋が代金を竹筒に入れておくと、

翌朝これがシキミの葉になっています。さては、狐か狸が坊さんに化けていたずらを

しているのであろうと考え、こらしめに手を切ってしまいました。

豆腐屋が血痕を追ってみると、東福院の門内に入って、この地蔵のところまで続いて

います。豆腐屋は坊さんの正体が地蔵であると知って後悔し、それからは心を

入れ替えて正直な商売をしたということです」めでたしめでたしかな・・・

豆腐は石膏造りでした。

東福院の向かいに愛染院が有ります。

街道書と入り口案内板には

墓地には、元禄11年に甲州街道の宿場を新設した内藤新宿開発人で、

正徳三年に没した「高松喜六の墓」と、群書類従の編者として名高い盲人国学者

塙保己一の墓があると記されてるが・・・・

こんな看板が・・

(お寺は多く、ちょいと覗いたりしましたが、こんな警告が結構立ってましたね)

東福寺坂をさらに下ると谷底状になり、突き当りにの急な石段上に須賀神社

街道書には「四ツ谷18町の鎮守で、須賀町の名前の由来の元になった神社です。

毎年6月の祭礼は、江戸五大祭りの一つ、天王祭り」とあった。

アニメ映画『君の名は。』舞台モデルともなったそうで、ファンが連日訪れている

スポットとなっているんだとか。

その頂上から振り返った時の景色が重要なシーンで使われ、チラシや公式ページの

メイン画像などにも使われたこともあり、実際の景色は描かれたものと全く同じでは

ありませんが、ファンには絶対撮影したいポイントとなっているという。

階段付近で何組かの若いグループに出会いましたが、フアンなのかもしれません。

街道書によると、

須賀神社は江戸初期より四谷の地に鎮座する、四谷十八ヵ町の鎮守様です。
 毎年六月に行われる御祭礼は、古くは四谷の「天王祭り」といわれ、

 江戸の五大祭りの一つとして有名でありました。

 四谷見附外に祭ってあったのを、寛永11年(1634)の外堀の開堀のために、

 現在地に、移転したもので、明治維新須賀神社と呼ばれるようになった。

 須賀神社須佐之男命(須賀大神)と宇迦能御魂命(稲荷大神)を主祭神とする。

 もともとは稲荷神社であったので、境内の左奥には稲荷神社のお社もあります。

 須賀大神は諸難・疫病除けや悪霊退散、稲荷大神は開運招福や商売繁盛の神様」

 とある。

本殿左手回り込むとに天白稲荷神社、隣の祠には大黒天(大国主命)。

脇から神社を後に少し下ると左手に曹洞宗勝興寺。

街道書には七代目山田浅右衛門の墓、とあるので境内へ入ります。
寺由来記によれば、

天正10年(1582)創建、江戸城外堀建造の拡張の際に伴い、

寛永11年(1634)当地へ移転し現在に至る。

また、死罪執行の打ち首役の「首切り浅右衛門(山田朝右衛門)」を代々務めた、

6代目と7代目のお墓があります。

当主は「首切り浅右衛門」と呼ばれ、山田浅右衛門家は代々、将軍家の刀の新刀鑑定

試し切りを代々勤める家でした。

維新後も新政府の指揮下に入り、家業を続けていました。

7代目山田朝右衛門吉利は、安政の大獄の際に、吉田松陰橋本左内頼三樹三郎

首を斬った人として名が知られています。

7代目の墓

(ここも場所を案内の標識などは無く、時代を感じる墓地内をあちこち

 歩き回りました)

参道右手に正面を向いた「首の」落ちなかったためそう言われる「首の繋がる地蔵」があります。東日本大震災の際にお地蔵さんの首が落ちそうになりましたが、ギリギリ落ちなかっためそう言われるようになりました。

参道右手奥に、「乳母様」が居ります。子供を育てる神様と言われる中で、逆に子供を連れて行ってしまう神様とも言われており、そのため昔は一生懸命にお祈りをし、子供がお利口さんになるよう祈ったと言われています。

勝興寺を後に、来た道を少し戻って円通寺坂と呼ばれる坂を新宿通り近くまで行くと、

右手に細い石段参道があり、奥が街道書には、伊賀衆の菩提寺臨済宗祥山寺。

文禄4年(1595)麹町付近に創建し寛永年間に当地へ移転。

伊賀組忍者供養の「忍者地蔵」がある、と記されてます。

案内板などは立ってないが、忍者地蔵(と思います)。

 続いてすこし西側に回り込んで女夫坂通りを下ってゆけば、街道書にある

お岩稲荷田村神社へたどり着くはずだが、これがなんと大迷い道。

坂を下たり小路へ行ったり、しばらく迷って、残念ながらパス。

街道書では「於岩稲荷は、東海道四谷怪談で御馴染みのお岩さんでは無く
実在の武家(田宮家)の娘於岩のこと。
家計の苦しい家を支える為に商家に働きに出て、田宮家を再興させたという。
その於岩が熱心に信仰していた社が評判になり、何時の頃か於岩稲荷と呼ばれるよう

になったという。

おどろおどろした怪談話のお岩さんは、江戸時代の作者鶴屋南北が、この知名度

高い於岩の名前を借用した、と言われるそうです。

お岩稲荷をパスし、新宿通り(甲州街道)へ戻るとそこは四谷三丁目交差点。

何気なく交差点向こうのビルを見ると、

消防博物館開館30周年」の垂れ幕。

交差点を渡って建物を覗くと、ここは四谷消防署で、館内地下階と3~5階に

消防博物館があるといい。しかも拝観無料。

1階受付で聞いたら江戸時代からの消防活動の変遷がみられるという。

カミさんも「おもしろそう」でたまた大寄り道。

むろん下から見て行くのではなく、一旦エレベータ利用して最上階10回展望室へ。

さっそく見下ろす甲州街道、新宿方面新宿御苑の壮が見え、甲州街道内藤新宿

すぐ近く。

四ツ谷見附方面

北東にはスカイツリーも見られました。

エレベーターで5階へ下り「消防の夜明け・江戸の火消し」
「組織的な消防は江戸時代の火消しに始まります」

江戸時代を再現したジオラマで、粋でいなせな町火消や大名火消の活躍などを

紹介しています。

町火消

大名火消

 

4階は消防の変遷

馬牽き蒸気ポンプ

手引き蒸気ポンプ

出動服変遷

はしご車

3階は現代の装備

などなど小一時間ほど、大人も子供も楽しく学べる消防博物館でした。

まだまだ地階には消防自動車の変遷展示があるようでしたが、街道はもう少し先が

有るので惜しみながらも時間切れ・・・

機会が有ったら是非のお勧めですね。

博物館を後に西へ進むと新宿御苑の壮が見えてきました。

博物館から10分ほどで、新宿通り、現甲州街道(国道20号線新宿御苑トンネル)、

外苑西通りの交差する変則5差路の四谷四丁目交差点。

ここで国道20号線(現甲州街道)が左に分岐して新宿御苑トンネルに入っていきますが、旧甲州街道は右側の新宿通り・都道430号新宿停車場前線をそのまま進みます。

元和2(1616)年、江戸幕府により四谷の地に、甲州街道における江戸への

出入り口として大木戸が設けられており、交差点角に石碑がたってます。

木戸の両側には石垣を設け高札場もあった。

後に木戸が撤去されているが「四谷大木戸」の名は残った。

大木戸近くには、承応2(1653)年に完成した玉川上水の終点にあたる

四谷水番所が設けられ、ここから江戸市中へ配水していた。

元禄12(1699)年には大木戸の西に甲州街道最初の宿場となる内藤新宿

開設されている。

現在の交差点上が「四谷大木戸跡」として東京都指定旧跡となっている。

四谷大木戸にはかって玉川上水番所跡があり、交差点向い側に「水道碑記」の石碑が

建っています(東京都指定有形文化財)。

玉川上水は、かつて江戸市中へ飲料水を供溝渠給していて、江戸の六上水(神田上水

玉川上水本所上水青山上水三田上水千川上水)の一つです。

多摩の羽村(現在の東京都羽村市)にある羽村取水堰多摩川から取水し、武蔵野台地を東流し、この四谷大木戸に付設された「水番所」を経て市中へと分配されていました。水番所以下は木樋や石樋を用いた地下水道でしたが、羽村から四谷大木戸までの約43kmはすべて露天掘りの用水路でした。

「水道碑記」の石碑の脇の解説板の後ろにも「四ツ谷木戸跡碑」が立ってました。

四ツ谷木戸跡から先は宿場、内藤新宿です。

150m程左手奥に新宿御苑の大木戸門が見えます。

この新宿御苑になっているところには、江戸時代、信濃国高遠藩3万3千石 内藤家の

広大な下屋敷がありました。

内藤家と新宿については、内藤家が一帯に広大な敷地を家康から拝領した逸話として、小説等などにもに書かれた“駿馬伝説”がある。

1590年、徳川家康が関東へ入府したとき、内藤家2代・内藤清成も江戸に入りました。

家康が今の新宿あたりで鷹狩りをした折、随行していた内藤清成に

「この一帯を馬で一息に駆けて、駆けまわってきた土地はぜんぶお前にやろう」と

言ったそうです。

清成は愛馬にまたがり、四谷、千駄ケ谷、代々木、大久保とまわって、駆け抜けた

広大な土地を拝領し、地名も内藤と呼ばれるようになった。

 家康から拝領した土地は20万坪(東京ドーム14個分)ほどあったといわれ、

その屋敷の一部が幕府に返納されて新たに宿場町が設けられ「内藤の新しい宿」、

内藤新宿」と呼ばれるようになり、現在は新宿としての地名になった。

宿場解説文では、

内藤新宿は、江戸時代に設けられた甲州街道の、江戸日本橋から数えて最初の宿場で

あり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している青梅街道の起点でもありました。

内藤新宿は、玉川上水の水番所があった四谷大木戸から、新宿追分(現在の新宿三丁目

交差点付近)までの東西約1kmに広がり、西から上町・仲町・下町に分けられていま

した。

享保3年(1718年)には、宿場内に旅籠屋が52軒という記録が残っていますが、

享保3年(1718年)、内藤新宿は幕府によって宿場開設より20年足らずで廃止されてしまいました。このため、高井戸宿が再び甲州街道最初の宿場となりました。

宿場としてより岡場所として賑わっていた内藤新宿は、その改革に伴う風紀取締りの一環として廃止されたといわれる。

廃止から50数年が過ぎた明和9年(1772年)、却下され続けた再開が認められました。

宿場の再開により町は賑わいを取り戻し、文化5年(1808年)には旅籠屋が50軒、

引手茶屋80軒との記録が残っています。

江戸四宿の中でも品川宿に次ぐ賑わいを見せ、その繁栄は明治維新まで続きました。

現在では内藤新宿という地名は残っていませんが、新宿の地名として残っています。」

 

少し先右手にビルに挟まれて防火の神秋葉神社が祀られてます。

なんと隣は消防署で、二重の防火対策。

すぐ先が新宿一丁目西交差点で、東京メトロ丸ノ内線新宿御苑前駅があり、

このあたりに内藤新宿の橋本本陣があったそうなのですが、今はその痕跡も残って

いません。

新宿一丁目西交差点を右折し、すぐに左折して、一本奥の道を進みます

内藤新宿の中央付近、仲町のすぐ北にある浄土宗の寺院・霞関山太宗寺です。

寺伝によれば、慶長元年(1596年)頃に僧の太宗が開いた草庵「太宗庵」が前身とされ、寛永6年(1629年)、2代目内藤清成の3男当時安房国勝山藩主であった内藤正勝の葬儀を行ったことを契機に内藤氏との縁が深まり寺地の寄進を受け創建され、以後内藤家の

菩提寺となった、という。

 

境内には江戸に入る6本の街道の入り口 (旧東海道品川寺奥州街道東禅寺

中山道巣鴨の真性寺、水戸街道の霊厳寺、千葉街道の永代寺、甲州街道太宗寺)

に安置された青銅製地蔵菩薩像(江戸六地蔵)の第三番があります。

六地蔵の内、四地蔵尊と出会ったことになりました。

旧東海道品川寺 平成25年(2013年)3月3日

中山道巣鴨の真性寺 平成28年(2016年)9月27日

日光街道、旧奥州街道東禅寺 令和2年(2020年)6月1日

内藤氏はその後信濃国高遠藩へ移封されたのですが、太宗寺はその後も高遠藩内藤氏の菩提寺として、歴代藩主や一族の墓地が置かれました。

内藤氏の墓地は約300坪の広大なものであったのですが、昭和27年(1952年)からの

区画整理で縮小され、現在は5代目藩主正勝など3基の墓石が現存するのみになった。

境内のお堂には内部が暗く撮影は出来ませんでしたが、都内最大の閻魔像や、

飯盛女たちの信仰を集めた奪衣婆像などが安置されており、

他にも新宿山ノ手七福神の一つである布袋尊像が安置されてます。

また境内のお堂には、真っ白に塩を被った姿が特徴の「塩かけ地蔵」がありました。

都内に幾つかの塩地蔵があるそうで、説明板はありませんが、おできにご利益がある

といわれるお地蔵さん。
お願いする時は、お地蔵さまに願をかけて塩を少し頂いて帰り、願いが叶ったら

塩を倍にしてお返しするという。

舐めたらしょっぱい そうで、白いのは全部塩らしい。

太宗寺から新宿通り(甲州街道)に戻り、さらに10分ほど行くと新宿三丁目交差点。
街道は左折して南方向へ続きますが、時刻も夕4時近くで我々の2回目の街道旅は

ここで足止めです。

四谷見附から進んだ距離は、街道だけだと旅とは言えない僅か約3kmのみですが、

よろよろ亀足ペンギン歩き、おまけに楽しい寄り道「街道歩き」。

次はいつの日か??

 

 

甲州街道四十四次 2 前編

よろよろ亀足ペンギン歩きでも、足さへ前に出せればいつかは目的地にたどり着く。

今度の街道は、お江戸日本橋から甲州(山梨)を経て、信濃(長野)下諏訪まで、

甲州街道44次。

躊躇していた街道歩き旅、始めてしまいました。

 

令和5(2013年)年1月4日,

お江戸日本橋を旅立ち、皇居(旧江戸城)お濠周りを約半周し、半蔵門から西へ

向かい四谷見附跡(四ツ谷駅)で初日は足止め。

好天続きだった天気も20日ぶりくらいに雨になり、冬らしくなって来た。

寒さも増してきたが、天気予報は晴れ時々曇りの19日、2回目の甲州街道へ。

電車を乗り継ぎ、新宿区四谷一丁目にあるJR中央線四谷駅へ。

東口へ出るとすぐ横は石垣が見え、前回足止めの旧外堀で大番所があった四谷見附跡。

AM10:00 第2回目の旅立ち。

枡形に成ってる四谷見附、石垣を右に見ながら陸橋を渡ります。

下はJR中央線と総武線の四谷駅のホーム、メトロ丸の内線が通る旧江戸城外壕の跡。

左手には見附石垣の採石地などの説明板が有りました。

巨大な石は、遠く伊豆地方で採石され、船で運ばれたそうです。

陸橋を渡ると外堀通り、左に曲がってすぐに四谷見附交差点で 新宿通りと交差し、 

左右が外堀通り、直進が甲州街道の新宿通り。

外堀通りを先へ横断して行くのが甲州街道ですが、今日はそのまま歩きません。

四谷へ来た良い機会、是非行ってみたかったとこへ向かいます。

信号を左手へ渡り、そのまま外堀通りを200m程南へ行くと道は二股になり、

左手を辿ると赤坂見附を経て内堀の三宅坂へ、右手は明治神宮外苑へと続き、

正面は二股三角州の若葉東公園で、奥には豪壮な洋館の正門(国宝)が

見えてくるはず・・・が見えない?。

奥にあるのは国宝・迎賓館赤坂離宮です。

迎賓館では正門・外柵の修復及び補強工事を年内行っており見ることは

出来ませんでした。

(下写真は迎賓館パンフレットの国宝・正門)

脇の門から見た前庭と本館。

前庭の見学は、入場料も事前予約も必要なく開館時間内なら自由に入れますが、

館内や主庭の見学は有料で正門ではなく、西門から敷地内に入ります。

正門を右側へ回り込み、3分ほど歩くと道を隔て「学習院初等科」、

左手に迎賓館西門がありました。

西門を入ると地響きの様な豪音にビックリ。

なんと迎賓館敷地内地下を、首都高速道トンネルが通てるんですね。

西門を入って右手へ回り込むとテント場が有り、セキュリティーチェック。

空港と同じように手荷物をカゴに入れX線画像で手荷物金属探知機を使って検査を

受けます。

迎賓館は国賓を招く施設です。そのため、厳重な管理体制が行なわれています。

ドリンクを持ってる人はその場で一口飲まされるそうです。

ポケットのものなどすべて確認され、人はセキュリティゲートをくぐります。

凶器になるようなものなどは、一旦預けて帰りに出口で受け取るようになてます。

ミニ三脚を持っていたのは、預かりとなりましたね。

本館、主庭園、和風別館(予約必要)などは有料拝観です。

手荷物検査が終わったら券売機でチケットを買います。

えっ、五千円、一万円札は使えません! おや今時に・・・

終えて本館へ向かいますが館内にトイレは無いそうで、事前に済ませるよう

案内板が有ります。

左手に仮設トイレもありますが、少し右手奥の建物内にもトイレがあり、

ちょっとした休憩所などが有りました。

さて、いよいよ本館見学者入り口へ向かいます。

ここから先は写真撮影禁止で、スマホの使用も禁止、館内での飲食もできません。

国宝・本館 主庭噴水

迎賓館は紀州徳川家の江戸中屋敷跡で、明治期に皇室に献上された。

この土地の一角に明治42(1909))年、東宮御所として建設された、

日本では唯一のネオ・バロック様式による宮殿建築物です。

当時の日本の建築、美術、工芸界の総力を結集した建築物であり、明治期の本格的な

近代洋風建築の到達点を示しています。

戦後は国に移管され、昭和49(1974)年に迎賓館としてよみがえりました。

現在は、世界各国から賓客をお迎えする外交の場となっています。

創建から100年を迎えた平成21(2009)年には、本館、正門、噴水などが明治期以降の建物で初めて国宝に指定されました。

世界各国の国王、大統領などをお迎えし、外交活動の華やかな舞台となる迎賓館は、

 主要国首脳会議などの国際会議の場としても使用されています。

 施設概要
所在地    東京都港区元赤坂2-1-1
敷地面積    約12万平方メートル
本館構造    鉄骨補強煉瓦石造、地上2階(地下1階)
延床面積    約1万5000平方メートル          (パンフレット抜粋)  

(パンフレット写真)

入り口から館内、各所に男女の職員の方がいて、丁寧に対応してくれます。

さあ、本館内へ。

本館の中は一言でいえば大変ゴージャスです。

どの部屋も細部までこだわっていて、見どころ十分でした。

現在、国賓来日などのある日などを除いて、一般公開されています。

現在は昭和49(1974)年に新たに作られた和風別館は要予約ですが、

本館は予約なしで入れるので、気軽に訪れられます(有料です)。

(館内の様子は入り口で頂いたパンフレットの写真をスキャンした映像です。

 案内文もパンフ資料などを参照抜粋させて頂きました)

 

拝観順路案内に沿って館内へを進みます。

まずは多くの賓客をお迎えする豪華な深紅の絨毯や大理石の柱の「本館玄関ホール」

ガラス戸で仕切られていてホールへは入れません。

中央の赤い絨毯は、迎賓館の職員でさえ踏むことが許されていないという。

賓客をお迎えする際には、出迎える側は中央階段を下りてきて、玄関ホールの

中央でぴったり出会えるように計算しているのだとか。

階段の左右に張られている豪華な大理石、何度か出迎え風景をTVなどで見ましたね。

中央階段を上がって正面にあるのが「朝日の間」。

天皇皇后両陛下が賓客とご挨拶されたり、首脳会談が行われたりする、

迎賓館で最も格式の高い部屋です。

2年間の改修工事を行い平成31(2019)年以降に一般公開が再開がされました。

玄関ホールを過ぎて階段を上がって行くと「朝日の間」へ行きます。

天井を飾るのは朝日を背にし4頭立ての白馬の車に乗り、天空を駆ける女神絵画

朝日の間を後に拝観順路の次は晩餐会用の部屋「花鳥の間」。

着席で最大130人も入れる大きな部屋で、主要国首脳会議などで使われることもある

そうです。

木曽産のシオジ材で板張りされた内装は、落ち着きのある心地よさを感じさせます。

深い森のような落ち着いた室内には、さまざまな花と鳥がいます。

ここの内装は、16世紀後半ルネサンス期のフランスのアンリ2世様式。

柱などの直線や平行線を利用した、落ち着いた雰囲気の部屋となっています。

壁には四季の草加の中で戯れる鳥を表現した七宝焼、30枚で飾られてます。

七宝焼

花びらの1枚1枚や、羽毛の様子まで見事に再現されてます。

次にご紹介するのは「彩鸞(さいらん)の間」。

先ほどの「花鳥の間」とは雰囲気が変わり、白・金・赤の華麗な装飾の部屋です。

この部屋では天井に注目。まるで天幕のようなドーム型の天井は、

ナポレオン一世時代に流行したアンピール様式が取り入れられていて、

野戦の天幕をイメージしている。

こちらは、来客の控えの間や、条約などの調印式にも使われる部屋。

それぞれの部屋には、実際に接遇に使われている時などの写真も飾られています。

最後の「羽衣の間」は歓迎式典や晩餐会の前の食前酒を振る舞う場であり、

ここはかつては「舞踏室」と呼ばれていて、正面にはオーケストラボックスがあり、

演奏会に使われている。

謡曲の一節をフランスの画家が描いた天井画は天女が地上に降り立った気配の表現で、

天女は描かれていないが、舞踏会に集う淑女を重ね合わせる趣向と言われる。

迎賓館で最大、最も豪華なシャンデリアが、「羽衣の間」の3基。バカラ社のクリスタルガラスやボヘミアン・グラスなどが使用され、1基が7000ものパーツでできている。

賓客が使用される部屋や寝室などは拝観できません。

1時間半ほどかけて、ゆくりと拝観できました。

本館を見学し終えたら、入り口と同じ場所に出て、ここから本館の南側に向かいます。

途中の主庭の両側には記念植樹があり、西側には昭和49(1974)年、迎賓館での

最初の国賓、米国フォード大統領植樹のハナミズキ、隣には旧ソ連ゴリバチョフ大統領が平成3(1991)年植樹のフユボダイジュが有りました。

東側には英国エリザベス女王も植樹されてるそうです。

ハナミズキ(花水木)は、1912年にワシントン.に贈ったサクラの返礼として

日本に贈られた木として知られてますね。

家にも30数年前からハナミズキの白花が1本だけ植えてます。

南側には主庭が広がり、

その中央に位置するのが噴水は、創建当時からのもので、国宝に指定されています。

噴水は彫刻の石組みの上に青銅製の水盤を置いた構造で、中間の水盤の上にいるのは

シャチです。噴水塔を囲む縁石にいるのは亀、その四方を、鷺の上半身に下半身が

ライオンで翼を持つギリシャ神話にも登場する伝説上の生物「グリフォン」が

守っています。

噴水の位置が本館より低く設計されているために、列柱が並ぶ軽やかな南面の背景と見事に調和。

楽しんだ迎賓館。西側を周り北側の前庭を通って本館正面、前庭を通って

出口へと向かいます。

本館正面(昼頃は逆光になります)

前庭(北側)から見た本館(パンフ写真)

石造り鉄骨補強レンガ造りの組み合わせで、屋根は緑青。

中央に青銅製の阿吽の甲冑、少し離れて金の星を散りばめた天球儀と黄金の霊鳥が

飾られてます。

前庭では最近話題のアフタヌーンティーを頂くこともできます。

迎賓館の美しい建物を眺めながら、贅沢な気持ちでティータイムを過ごすのも

オススメです。

中門を向けて工事中の正門わきより迎賓館を後にしました・

まさに絢爛豪華、その中に和の美を取り入れた西洋宮殿。

ゆっくり過ごした良い寄り道でした。

再び若葉東公園を通って戻ります。

公園内には迎賓館赤坂離宮前休憩所があり、食事などもできる建屋がありました。

さあ、甲州街道へ戻り旅を続けよう。

旅は後編へ。

 

 

甲州街道44次 歩き旅 1

新年の幕開けは、快晴の穏やかな夜明けで開きました。

初日の出、初富士、家から自転車で10分ほどのスポット農道には、

例年以上の大勢の方々が見え、特に若い方が多かったですね。

2023年(令和5年)、今年は春に83才、カミさんは76才を迎えます。

令和5年初富士

昨年は春にコロナで5年がかりの中山道69次の街道旅を終え、11月には3年掛りで

日光街道を完歩。

2013年2月に東海道53次へ一歩踏み出してから9年がかりでしたが、

江戸幕府道中奉行管轄の5街道のうち、3街道、計293里・1178kmを

歩き終えました。

東海道53次 京都三条大橋到着 平成28年6月18日 (2016年)

中山道69次 京都三条大橋到着 令和4年年4月7日(2022年)

日光街道21次 栃木県日光市神橋到着 令和4年10月30日 (2022年)

すっかりライフワークの街道歩き旅だが、年と共に足腰の衰えは如何ともしがたく、

「来年も歩き旅続けられるかな・・・」とつい弱気の一言も。

正月も3日になって、カミさんが「明日、甲州街道旅立ってしまわない!」

と、なんと急遽4日、4街道目の甲州街道へ旅立ちすることに。

「前にさえ足を出せれば、よたよたでも旅は続けられる。あとは気持ち(気合)次第」

「旅立ってしまえば、気持ちも動くだろう」と、あれこれ弱気になったのを

と読まれたような?

 

令和5年1月4日(水)世は仕事始め。ならばこちらは老々旅始め。

なんて意気込んだ訳ではありませんが、ラッシュを避けてゆっくり電車へゆられ、

街道出発点「お江戸日本橋」へ。

AM11:00 東京・日本橋、4度目の旅立ち。

東海道中山道日光街道甲州街道の起点は江戸川(今の日本橋川)に

架けられた、日本橋

日本橋川は東京都千代田区中央区を流れる荒川水系一級河川です

徳川家康が幕府を開き、直後の早くに町地として開発され日本橋が架けられ、

ここが江戸と全国主要都市とを結ぶ五街道の起点。

交通の要所として定められてからは、江戸時代の越後屋(現在の三越百貨店)をはじめ

大店が集まり、また付近には金座や銀座が置かれるなど金融の中心でもあり、

江戸を代表する場所として大いに繁栄を極めたところでした。

現在でも日本橋界隈は、日本銀行本店や東京証券取引所など日本を代表する金融街

あり、また老舗の百貨店を含む商業施設や問屋街、製薬会社が連なる地域となって

います。

また築地から現在豊洲の新市場へ移転した市場も、元々は日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿い一帯にありました。

三越日本橋に面した建物の壁面に掲げられているエンブレム(社紋)の周囲には

多数の魚が描かれていて、その魚はこの日本橋魚河岸にちなんだものなのだという。

日本橋の手前に東京市道路元標、さらに日本国道路元標の複製が飾られています。

(実際の日本国道路元標は日本橋の中心の橋の上の路面に埋め込まれている)

甲州街道は、関東地方(武蔵国)の江戸に幕府を開いた徳川家康が、

慶長8年(1603年)に諸国を結ぶために整備した5つの主要な5街道、

(東海道中山道奥州街道日光街道甲州街道)の一つです。

甲州街道は正徳6年(1716年)正式名称は「甲州道中」となったが、甲州道中と甲州街道の表現が併用され、一般的には「甲州街道」と称することが多かったという。

江戸の日本橋を起点とし、八王子、甲府(山梨県)を経由し、諏訪湖畔の諏訪大社下社

秋宮付近にある中山道との追分、下諏訪宿を終点としています。

総距離約53里24町(約211km)。

その間に44の宿場があり、終点の下諏訪宿が45番目。

江戸から甲府までの37宿を表街道、甲府から下諏訪までの7宿を裏街道と呼んだ。

甲州街道終点兼中山道との追分)

江戸の日本橋から下諏訪宿というと中山道があり、当時はこの中山道のほうを使うのが一般的で、参勤交代の際に利用した藩も信濃高遠藩、高島藩(諏訪藩)、飯田藩の僅か

3藩だけで、それ以外の藩は中山道を利用していました。

中山道ルートは、途中に碓氷峠(標高約1,200m)、和田峠(標高1,600m)という難所と

言われる険しい峠あり、一見、甲州街道ルートと比べ随分と遠回りをする印象を

受けますが、中山道下諏訪宿までは総距離約56里約217km)、

甲州街道ルートと比べ僅かに6km遠いだけで、甲州街道にも笹子峠小仏峠という

難所の峠があり、甲州街道は将軍徳川家が軍事的目的で重要視したことが強く、

警備が厳しく、短い街道であるにもかかわらず、小仏と鶴瀬の2箇所に幕府直轄の

関所が設けられ、また、街道沿線の整備の状況も中山道に比べて悪かったという。

軍事的側面の強い街道だったのですが、太平の世になると信濃〜甲斐〜武蔵の流通が

盛んになり、甲州街道も大いに栄えるようになったという。

日本橋を後にし東海道と同じく銀座方面へ向い、50m程先で日本橋交差点を

右折して永大通りを西方向(JR東京駅の方向)に進みます。

この日本橋交差点は東海道との追分(分岐点)になっていて、直進する西方向銀座方面が国道15号線の旧の東海道

日本橋交差点を右折して、永大通りを西方向(JR東京駅の方向)に5分ほど行くと

「呉服橋交差点」で左右に交差するのが、かってはお濠の有った外堀通。

昔は江戸城の外堀があり、今は埋め立てられたが、呉服橋、一石橋、常盤橋、、鍛冶橋とか、多くの橋が架かっていた。

交差点を渡って右折し、すぐ先が高架下日本橋川に架けられた「一石橋」。

この一石橋は、旧江戸城外濠と日本橋川の分岐点に架橋され、

名の由来は、北橋詰の本両替町には幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰の呉服町には

幕府御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、橋損壊の折りこれらの両後藤家の援助に

より再建されたことから、後藤の読みから「五斗(ごと)」、「五斗+五斗で一石」と

もじった洒落から「一石橋」と名付られたという。

現在の橋は平成12年(2000年)に架け替えられたものですが、その前の橋は大正11年(1922年)に架けられた鉄筋コンクリートRC花崗岩張りの見事なアーチ橋で、

橋長43m、幅員27mで親柱は4本、袖柱は8本。市電(路面電車)も通っていて、

関東大震災以前のRCアーチ橋としては都内最古のもので、平成14年(2002年)に

南詰の親柱1本を、中央区が区民有形文化財建造物に指定し保存されています。

南詰親柱の左手には安政4年(1857年)に建てられたという石標

「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」なる碑が建っています。

江戸時代~明治時代付近はかなりの繁華街で迷い子が多く出、当時は迷い子は地元が

責任を持って保護するという決まりがあり、“しるべ”の左側には「たづぬる方」と

彫られた窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、右側の「志(知)らする方」

の窪みに、それを見た心当たりがある場合は、その旨を書いた紙を窪みに貼って、

迷子、尋ね人を知らせ合った伝わっています。

この「満よひ子の志るべ」は浅草寺境内や湯島天神境内、両国橋橋詰など

往来の多い場所に数多く設置されたが、現存するものはこの一石橋のものだけという。この一石橋の「満よひ子の志るべ」は東京都指定有形文化財に指定されているという。

呉服橋交差点を過ぎ、まもなくJR東京駅という丸の内トラストタワーの手前のところで左折し、路地裏のような細い道が甲州街道

この細い道を少し進んだところにあるのが御存じ“TVドラマの

「北町奉行・遠山左衛門尉様、ご出座ぁ~!!」の遠山の金さん,名奉行・遠山金四郎景元で知られる「北町奉行所」があったところで、碑がありました。

南町奉行にはあの最後には大名となった大岡越前も、徳川吉宗の時代に就任している。

ちなみに、初代北町奉行徳川幕府開府の翌年、三河以来の譜代の米津勘兵衛が、

家康直々の命で初代北町奉行に任じられたという。

甲州街道丸の内トラストタワーの敷地に沿って右折し、そこから江戸城(皇居)の

和田倉壕に向かってほぼ真っ直ぐ延びていましたが、

現代の街道は日本を代表する巨大ターミナル駅東京駅の駅ビルの1階、

「北自由通路」が、八重洲北口から丸の内北口を繋ぎ、この「北自由通路」が

「東京駅の中の甲州街道」でした。

何度か通ったことにある通路ですが、街道として意識して歩くとは思っても

いなかったですね。

東京駅の丸の内北口に出てきました。

丸の内は徳川家康天正18年(1590年)に江戸城を居所とする前までは東京湾

一部で、日比谷入江と呼ばれていました。

天正20年(1592年)から入り江が埋め立てられ、新たに外堀が作られ、

「御曲輪内(おくるわうち)」と呼ばれるようになり、さらに堀で囲まれた内側という

意味で「丸の内」とも呼ばれていました。

さらに、親藩譜代大名江戸藩邸が24もあったため大名屋敷が立ち並び、

大名小路」とも呼ばれていたという。

現代は三菱の手でオフィス街が築かれ三菱グループ各社の本社や三菱地所所有の

オフィスビルが集中しています。

甲州街道は丸の内の北側を江戸城和田倉壕に向かってほぼ直ぐ延びていました。

そんな高層ビルの谷間に桜が咲いていた!!

十月桜のようだが、まだ咲き残っていたんですね。

丸の内北口から和田倉壕に向かって150m程、右手の豪壮な雰囲気のビルヂング

日本工業倶楽部で、このあたりは「伝奏屋敷(てんそうやしき)」があったという。

伝奏屋敷は武家伝奏または勅使の宿舎として江戸に設けられた屋敷です。

武家伝奏は朝廷に置かれた役職で、江戸幕府との各種交渉がその主な仕事でした。

その武家伝奏たちが宿泊することから伝奏屋敷と名付けられました。

伝奏屋敷は広さが坪数にして2,530坪もあったと言われています。

赤穂義士忠臣蔵と言えば発端は江戸城内の松の廊下が有名ですが、そもそもの発端は

この伝奏屋敷で、浅野内匠頭吉良上野介から勅使接待の指導を受けていたことから

発してたといいます。

伝奏屋敷の北隣には評定所がありました。評定所は幕府の最高裁判機関で、

当時は各種政策の立案や審議もここで行われていて、三奉行(寺社奉行町奉行(北町&南町)、勘定奉行)が対応していたそうです。

更に150m程進むと横切る大通りは日比谷通りで、横断歩道で渡ります。

渡ると皇居の内濠で日比谷通りに沿って左手へすすみます。

皇居(江戸城)を取り巻く一連のお濠(堀)が内濠(内堀)でそれぞれ名称が付けられ、

ここはその1つ、「和田倉濠」。左手濠に木橋の面影を残したコンクリ-ト橋の

和田倉橋が掛り、橋を渡ると和田倉門が有ります。

日比谷通りに沿って130m程で和田倉門交差点。

その先からは馬場先濠となり、和田倉門の交差点で行幸通りの広い道路が交差し、

その先は馬場先濠に沿って日比谷へ向かいます。

和田倉門の交差点の行幸通り左手奥、突き当りに見えるのは赤レンガの東京駅です。

丸の内にある歴史的建造物と言えば、東京駅丸の内駅舎で、この建物は辰野金吾

設計により大正3年(1914年)に竣工した鉄骨レンガ造駅舎。

関東大震災でも大きな被害は受けなかったのですが、昭和20年(1945年)の空襲で損壊。戦後、3階建てを2階建てとする応急的な復興工事が行われました。

2003年に国の重要文化財に指定され、2012年に元の3階建てに復元されました。

西奥は皇居前広場へと向かってます。

行幸通りを横断し日比谷通りを南へ進みます。

右手の馬場先壕に渡り鳥の水鳥が十数羽。もう来ていたのか、キンクロハジロ

あまり見かけないな~君の名は?幼鳥なのかな・・

たしか、バンだったね。

左手のローマ風円柱の立派な建物は明治安田生命保険相互会社の本館

(略称:明治生命館)です。

第2次世界大戦後は、進駐してきた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、

昭和31年(1956年)に返還されるまで、アメリカ極東空軍司令部として使用され、

平成9年(1997年)、国の重要文化財の指定を受けました。

皇居二重橋へ続く406号道、馬場先門交差点。

右手奥に馬場先門が有ったそうです。

奥へズームしてみると二重橋が見えました。

馬場先門交差点を横断し、右手壕は日比谷濠で、左手に帝国劇場、

そして、左手にの方柱10本が立ち並んだギリシャ風の豪壮で美しい建築館は、

平成16年(2004年)には東京都選定の歴史的建造物に指定されてた第一生命館。

この建物は第二次世界大戦中は陸軍により東部軍管区司令部が置かれ、屋上に高射砲陣地が設置されていました。

終戦後の昭和20年(1945年)にGHQに接収され、総司令部本部として使用され、

昭和27年(1952年)7月に返還されるまで連合国最高司令官総司令部として使用されて

いました。館内には連合国軍最高司令官を務めたダグラス・マッカーサー元帥の

執務室がそのまま保存されているのだそうです。

平成元年(1989年)から平成7年(1995年)にかけて再開発保存されてます。

その先は日比谷通りと晴海通りが交差する日比谷交差点です。

昔から交通量が多く、昭和5年(1930年)に日本初の電気式信号機が設置された。

お濠と甲州街道はここで右折し、晴海通りに入ります。

路は右折しますが、左手は日比谷公園が広がっていて、日比谷交差点渡って

50余年振りに公園内へ足をいれました。

まだ婚約中にカミさんとデートで歩いたことが有ったんですが、まるで初訪問の

感じでしたね。

おや、新春の紅葉景色?

日比谷交差点からの入り口から入ってすぐに「日比谷見附跡」の碑が建っています。

「見附」とは、街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所のことです。

この石垣は江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部で、城の外側から順に、

高麗門(こまもん)、枡形、渡櫓、番所が石垣で囲まれていたが、石垣の一部だけが

ここに残っているという。

江戸時代は石垣の西側は濠となっていましたが、公園造成時にその面影を偲び造成した

「心字池」がありました。

全体を上から見ると、「心」の字を崩した形をしているのだそうですが・・。

池端のムラサキシキブの実がまだ綺麗な色合い。

池の岩陰のアオサギ君、君は何を見つめてるのかな?

江戸時代の日比谷公園は、仙台伊達藩三代藩祖綱宗まで、仙台藩桜田上屋敷

あった所で、伊達政宗は江戸参勤の折、寛永13年(1636年)この地で70年の生涯を

閉じた、と「仙台藩伊達政宗 終焉の地」という案内看板が立っていました。

街道へは戻らず、そのまま日比谷公園内を歩き、日比谷交差点から10分ほどの

祝田門から甲州街道へ戻ると二重橋へ通じる祝田交差点。

甲州街道である国道20号線(国道1号線と重複)は、この祝田橋交差点で晴海通りから

内堀通りに変わり、祝田橋を過ぎて内濠も日比谷濠から「凱旋濠」に変わり、

内堀通りをお濠に沿って桜田門へ歩いています。

左側は官庁街で江戸時代は大名屋敷が並んでいた所。

資料によれば、左手レンガ造りの旧法務省本館は東北米沢藩跡地でした。

この建物は明治28年(1895年)に竣工し、基本設計は明治政府が招聘して建築顧問官を

務めていたお雇い外国人のドイツ人建築家で、実施設計と工事監理は河合浩蔵が行

いました。

戦災の空襲により全焼し、昭和25年(1950年)ころほほぼ建されたが、

平成6年(1994年)の改修工事では文化財としての観点から、創建時の外観に戻され、

法務総合研究所及び法務図書館として利用されるようになりました。

本格的なドイツ・ネオバロック様式の外観に特徴があり、都市の景観上貴重で、

平成6年(1994年)12月27日には国の重要文化財に指定されました。

ちなみに奥の桜田門交差点に建つ建物は、御存じ、桜田門の警視庁で、

元は豊後杵築藩邸でした。

TVドラマなどでもお馴染みの警視庁正面

桜田門交差点のお濠の右手奥は江戸城桜田門で、幕府大老井伊直弼の暗殺事件、

桜田門外の変の門で、正式には外桜田門

昭和36年(1961年)に「旧江戸城桜田門」として国の重要文化財に指定されています。

桜田門から壕は日比谷壕から桜田壕。

桜田門交差点で国道1号は左手に南へ向かい、桜田壕沿いの道は甲州街道国道20号の内堀通り標識が現れます。

弓なりに左手に曲って正面は国会前交差点で奥に国会議事堂です。

現在の建物は昭和11年(1936年)に帝国議会議事堂として建設されたものです。

建物は鉄骨鉄筋コンクリート造り、9階建て。

左右対称の形を成しており、正面に向かって左側に衆議院、右側に参議院が配置されています。

甲州街道(国道20号線内堀通り)は国会前の交差点のところで、内濠(桜田濠)に沿って

緩やかに右にカーブしていきます。
国会前の交差点を渡ったところの地名は「千代田区永田町1丁目1番地」。

内濠(桜田濠)側を歩いて行くので立ち寄りませんでしたが、

街道書によれば交差点を国会側に左手に渡るとちょっとした公園(国会前庭)に

なっていて、江戸の名水「櫻の井」があり、付近一帯は近江彦根藩35万石・井伊家の

上屋敷が置かれていましたとあります。

この井伊家上屋敷跡はそれ以前は加藤清正邸跡で、この「櫻の井」は加藤清正

命じて掘られたものだと伝えられています。

現在の井戸は昭和43年(1968年)、道路拡張のため国会前の交差点内から原形のまま

約10メートル離れた現在の地に移設復元されたものですとも記されてました。

内濠通りは緩い上り坂となってきて三宅坂

坂両側の並木はユリの木の大木が続いてます。

緩い傾斜の三宅坂を進むと右壕端に「柳の井」の案内板が立っていました。

桜田壕の土手下に柳の木にちなむ井戸があって名水として知られたという。

お堀に下る石段がかすかに見えるが立ち入り禁止の様でした。

さらに上ると三宅坂交差点です。

三宅坂交差点は、右手に国道246号(通称:青山通り)の起点となっています。

坂の名前は、江戸時代この坂の途中に譜代大名三河田原藩1万2千石、 三宅家の上屋敷があったことに由来します。

明治維新以降、陸軍の中枢参謀本部三宅坂に沿って置かれ、戦前戦中には「三宅坂」と言えば参謀本部の代名詞でした。

大戦後は付近は米軍に接収されて、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の将校が住む

パレス・ハイツになり、土地が返還された後の昭和40年(1965年)からは国立劇場最高裁判所が相次いで建設されました。

写し方が悪いですが、三宅坂交差点を右手に渡ったところが最高裁判所

坂上国立劇場でした。

三宅坂交差点から街道はお濠に沿って少し急坂の上り坂に成って行き、お濠の土手も

かなり高くなってきました。

街道書によると、このあたりに日本橋を出てから最初の甲州街道一里塚「隼町一里塚」があったが、所在地は不明とありました。

登りつめたところが右手に半蔵門

江戸城西端に位置する門で、大手門とは正反対の位置にあります。

この門内は、江戸時代には吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍や、将軍継嗣などの

住居とされていました。

現在は吹上御苑と呼ばれ天皇のお住まいに一番近く、天皇及び内廷皇族の皇居への

出入りには主にこの半蔵門が用いられているという。

そのため警護は厳重で門前には交番が設置され、一般人の通行は認められていません。

半蔵門の名称については、徳川家の家来服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来するといい。服部家の与力、伊賀同心がこの門外に組屋敷を構えていました。

甲州街道はここから左手にお濠を離れ、ほぼまっすぐ西に延びているのですが、

半蔵門から壕に沿って先は桜の知られる千鳥ヶ淵が続いてゆきます。

西へ向かう街道沿は麹町一帯が旗本屋敷が建ち並んでいたといわれ、有事の際には

将軍家脱出経路と考えており、半蔵門江戸城の搦手門にあたると言えるそうです。。

半蔵門交差点で、甲州街道(国道20号線)は左折し、内堀通りから分かれて新宿通りに

入り、麹町を抜け四谷駅、さらに新宿駅方面へと向かいます。

(50年ほど前、親戚の悲しい出来事の確認をしたことが有った麹町警察署

此処でした。)

警察所から100mほどで麹町1丁目。

街道書では、左手に坂をすこし下ると疱瘡に関わる霊験が伝えられる

太田姫稲荷神社の分社が有り、麹町地域における疱瘡などの病気平癒祈願の稲荷、

とあったのでちょいと寄り道。

更に少し下って右手へ入ると平河天満宮が有ります。

菅原道真を主神に八幡宮東照宮徳川家康)を相殿の神として祭っています。

文明10年(1478)に大田道灌が江戸城本丸内の梅林坂上に勧請したのが始まりと

言われ、徳川家康入城後、本丸修築のためこれを平川門外に移り、慶長11年(1606)

現在の地に遷座しました。 
 徳川幕府に特別な格式で待遇され、紀州藩徳川家、彦根藩井伊家の祈願所でもあり

ました。天保15年に氏子町により奉納された銅鳥居や、力石、狛犬千代田区

文化財に指定されています。

 梅が天神様のシンボルであるのと同様に、牛(神牛)も天神様のトレードマークです。平河天満宮にも撫で牛が1体、石牛が4体鎮座しています。

街道へ戻りさらに15分ほど行くと麹町6丁目、右手に心法寺。

浄土宗で、三河国の秦宝寺から天正18年(1590)に徳川家康といっしょに江戸に来た然翁聖山和尚が創始者です。

墓地には下野皆川藩松平家の墓や酒樽の形の墓などいろいろ面白い墓石がありが

あるそうですが墓地内へは入れません。

境内に、自分の体の治してほしい部分と同じお地蔵さんの体に塩を塗って

お祈りするとご利益があるとされる塩地蔵がありました。

塩を塗られて水分が抜けたため、お痩せになったのか、細身のお体ですね??

すぐ先は四ツ谷、左手は良く知られるのが上智大学です。

現在は地上17階、地下1階建ての白亜の近代的な建物に大変貌を遂げている。

50m程先はJR中央線と総武線東京メトロ丸ノ内線南北線という4つの路線の

四ツ谷駅で、右手に駅東側に回ると「四谷見附」の跡があります。

江戸城の西の玄関にもあたる要所のひとつで、実質的な甲州街道の出発点。

見附とは街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所のことです。この四谷見附は両側を高い頑丈な石垣で固められ、そこに黒々としたガッチリ構えた見附門があったと言われています。この門は六ツ時(午後6時頃)には容赦なく扉が閉められたのだそうです。

甲州街道は四谷見附橋を渡って続いてゆきます。

時間はまだ午後の2時半過ぎ、日本橋からわずか5km強旅をしただけですが、

老々夫婦歩い旅の一日目はここで足止めにしました。

JR中央線で新宿駅へ向かい、かって通勤で通いなれた西武新宿線で帰路へ。

降り立った自宅最寄り駅前では、夕暮れ月が「おかえり」

躊躇していた街道歩き旅、始まってしまいました。

よろよろ亀足、ペンギン歩きでも、足さへ前に出せればいつかは目的地にたどり着く。

さ~て、次はいつの日か・・・。

東京都薬用植物園

久しぶりに電車を乗り継ぎ、東大和市の東京都薬用植物園へ。

園内は秋の色合いを濃くし始め、花は少ないがゆっくり4時間も滞在していた。

鮮やかな紫色系の発色が美しく品の有る「ヤマジノギク」、キク科シオン属。

東海地方以西の草原に咲くヤマジノギクを、大分県農林水産研究指導センターにて、

50年以上の年月をかけて品種改良し、園芸化したという。

例年は10月が見頃だったそうですが、今年はこれからの様子。

隣には鉢栽培デサフラン

園内には藁敷きのサフラン畑もあった。

一番のお目当てだった「センブリ」は少し遅かった様子。

何鉢か栽培されてるが、花がごく小さく、数もちらほら。

山野に生育する二年草で、室町時代から健胃、腹痛などの薬用にされてきたという。

花はセンブリよりも大きく青紫色が鮮やかな「ムラサキセンブリ」

主に中部地方以西に分布する二年草で、野生のムラサキセンブリは自生地の

開発などにより減少し、準絶滅危惧種に指定されている。

そして紫の花は「ハナトリカブト

トリカブト類は山地の林等に自生し野山でよく見かけることが有る、

キンポウゲ科多年草

ハナトリカブトは中国原産のトリカブトで、薬用植物として栽培されています。

特に塊根は猛毒とのことで、鉄柵囲いの中に咲いていた。

ハマナス(ハマナシ)の実

北日本の海岸(北海道から、太平洋側は茨城県日本海側は島根県まで)に生育する

落葉低木でバラ科バラ属のバラ原種のひとつ。

故郷の海岸にはたくさん群生し、花後のトマトのような実はよく口にしたもんです。

ちょと変わったひょうたん型のカボチャ。

ニホンカボチャ・品種名:鹿ヶ谷(ししがたに)」とあった。

濃い緑色から熟して今の茶色のカボチャ。

鹿ケ谷南瓜は京の伝統野菜で、江戸時代の文化年間(1804~1818)の頃山城国粟田村(現・京都市東山区粟田口)の農夫が旅先の津軽から持ち帰った南瓜の種を。

愛宕郡鹿ヶ谷村(現・左京区鹿ヶ谷)の農家にあげ、それを栽培し始めたのが

ルーツだという。

当初は普通の日本南瓜型だったものが、栽培を繰り返すうちにひょうたん型になった

とされ、鹿ケ谷でこの南瓜が作られるようになり、京都では、「おかぼ」と呼ばれ

親しまれてきました。しかし、現在では極僅かしか作られなくなってしまい、

一般市場にはほとんど出回らないとい。

、その形の面白さや季節感から、お茶席などの飾物として飾られるそうな。

鮮やかな紅い小さな実を付けた樹木は「ハナヒョウタンボク」とあった。

赤い実は2つの実がつながって、瓢箪(ひょうたん)形になっていることから命名

秋風にゆらりとそよぐは、少し背丈の低い「ヤクシマススキ」

屋久島原産のイトススキの仲間という。

ロックガーデンに咲く「リンドウ」

根および根茎を漢方処方用薬などに利用。

ホトトギスは終わっていた。

大きな木に今年も鈴なり。

中国原産の落葉高木「オオモクゲンジ(ムクロジ科)」の実。

花の開花期は短く、最盛期には木が黄金色に染まるというが、

花期は9月らしいが、まだ来たことはないんです。

秋の袋状の果実もピンク色に染まって、その光景も花が咲いてるよに美しい。

これも鈴なりの鮮やかな赤い実はいかにも美味しそうな「ガマズミの実」

梅干し並の酸っぱさで、酸味のせいか鳥も好まないらしい。

隣には、おやもうマンサクが咲いている。

アメリカ原産の落葉高木「アメリカマンサク」。

開花期が早く、葉の黄葉とともに糸状の花を咲かせる。
葉や樹皮にタンニン等を含み、民間薬としてきた植物で、現在は化粧水などに

用いられているという。

山ぶどうのような蔓植物はすエビヅル(和名:海老蔓または葡萄蔓)。

ブドウ科ブドウ属で、ヤマブドウや野ブドウもエビヅルの仲間ちう。

実はぶどうの味だそうで、ワインにもなったという。

前方に大木が有り、何やら花が咲いてるように見えた大木は、

中国原産の落葉高木で「カンレンボウ」。

白い球状の花が夏の暑い盛りに咲くようで、訪れたことは無し。
成分は抗がん剤などとして実用化されているという。
秋になる多くの実をつけることから、子孫繁栄・喜びの木として、

別名をキジュ(喜樹)という。

小さな可愛らしいバナナの実のようなカンレンボクの実

鮮やかな赤紫の実は、アジアやアフリカの熱帯原産のローゼルアオイ科の実。

花はオクラによく似ていて、実はハイビスカスティーの材料として利用される。

食用になるのは萼(がく)および苞(ほう)と呼ばれる部分で、上側の赤い部分が苞、

下側のトゲトゲした部分が萼で、どちらも赤くなった頃が食用に適しているという。

(花は昨年訪れた時の写真です。)

青空の下、大きく咲いていたのは、アフリカ原産のアオイ科ケナフ

麻の仲間で、ジュート(黄麻)の代用繊維として、また木材繊維に代わるパルプの原料としても利用され、エジプトのミイラを包んだ布もケナフが使われているという。

近くにまだ花の残ていた「ラッキョウ」の花。

珍しかったのは「クロホウズキ」の実

ナス科、 オオセンナリ属、 オオセンナリの園芸種、

花後にはホウズキのような袋が出き、中には黒い実。

葉には、ハエや虫を寄せ付けない成分が含まれているという。

そして最後は、園内で遠くからも見えてる大きな樹が紅葉している。、

大木はムクロジ科の「ハナノキ」
日本固有種で、愛知県北東部から岐阜県南部・長野県南部にかけての丘陵地などに

自生する落葉高木。
花は残念ながらまだ見たことはありませんが、春、葉に先がけて咲く紅色の花序が特

徴的で「花の木」の和名があるという。
晩秋には鮮やかな紅葉を見せるが、個体群の存続が危ぶまれるため、

絶滅危惧植物に指定されています。

中山道の歩き旅の折り、岐阜県の山中で群生を初めて知り、近江(滋賀)路では

お寺などの境内で、綺麗な紅葉を見たことが有った。

来春には、ぜひ花を見たいもんだと思ってます。

中山道、近江路(滋賀)で出会たハナノキ紅葉

薬草園の花木、実りはまだ沢山ありますが、またの機会に。

日光道中二十一次 第15歩 完歩編 

平成4年10月30日、日光街道最後の歩き旅へ向かいました。

早朝の電車を乗り継ぎ、前回足止め地の第20宿今市へ。

 駅前旅立ちショット

天気予報は冬型だったが、予想より暖かく。ジャンパー類は腰に。

 駅より300m程行き、小倉町交差点で国道19号の日光街道へ復帰。

右手にはに追分地蔵見守る、日光街道と例幣使道との追分。

交差点を左折して、街道(国道119)を少し先の道を右手へ入ります。

100m程左手の二宮報徳神社に沿いながらさらに100mほど行った右手が、

浄土宗・如来寺の別院玄樹院(埋葬など墓地の為の別院のようです)。

入り口右手の如意輪観音像は寛延2年(1749年)の建立。

左手には弘治3年(1557年)造立の今市最古の地蔵尊像が祀られてます。

頭部は失われたと聞いていたが、最近新しく付け替えされたそうです。

同じ道を戻り、二宮尊徳を祀る報徳二宮神社へ。

鳥居前に建つモニュメント?

どちらも尊徳さんのようだが、良くわからない。

木の一本彫りのようだが・・

説明板には、

嘉永6年(1853年)徳川幕府の命を受け旧日光神領八十九カ村の復興に入村し、

農村復興指導中、安政3年(1856年)報徳役所にて70歳で逝去、とあり、

遺言通りの質素なお墓おはかです。

かっては学校には必ずありましたね。

神社を後に右手に行くと、左手に最近できた様子の道の駅があった。

あとで寄ることにし少し先へ足を進めると浄土宗如来寺がある。

街道書によると、

室町時代中期に創建で、江戸時代には東照宮御造営の際、徳川第三代将軍家光が

宿泊するために壮大な御殿が境内に建てられた。

1665年には御殿の建物が如来寺に下附されたが、1742年には火災で焼失し

御殿が再建されることはなかった。

また、安政3年(1856年)には二宮尊徳翁死去の際、葬儀が行われた寺、とある。

境内の観音堂

如来寺を出て開業7年目という道の駅へ寄り道。

朝が早かったので、ベンチをお借りして早めのお昼に。

うん、美味しかったです。

国道側向かいには創業天保13年(1842年)という銘酒「日光誉」の蔵元

渡邊佐平商店があった。

隣の信金場所が、天保14年(1843)焼失した今市高橋本陣跡。

今市も江戸時代の面影を残す建屋は全く残ていない様子。

街道は街灯のみで電柱無しの街並みです。

更に200m程行くと、右手の細い通りが旧会津西街道で会津若松まで

28里約112km。

100m程先春日町交差点が現会津西街道、越えて100m程先左手にある

「今市宿市緑ひろば」には明治天皇御小休之蹟碑。

街道書では脇本陣跡とあるが、別説では高橋本陣跡とは別の年代に運営されていた

岸本陣跡ともあり、幕末には〝天狗党〟の仮宿として使用された記録もあるという。

10mくらい先右手参道を入ると浄泉寺。

家光の日光山移葬のおり安置されたと街道書にはあった。

(立ち寄り無し)

すぐ先は左手に天応2年(782年)創建という古刹、今市の総鎮守瀧尾神社。

社宝は山岡鉄舟の大幟と正宗の太刀と街道書のある。

社前が今市宿の北木戸で、今市宿を後にし、街道は再び杉並木(中)となり日光山へ

向かいます。

鬱蒼とした3.5kmほどあるという杉並木。

杉並木の右手には杉並木公園が並行して続いています。

公園には水古民家や風車が回っています。

今市市は杉線香の生産日本一を誇っていて、かつては杉線香生産の動力として

水車が利用されていたという。

一角には「朝鮮通信使今市客館跡」を示す大きな石碑が

あった。使節は12回来日し、3回ここに宿泊して東照宮の参拝を行ったという。

杉並木にもちょいと分かれて、公園内を散策で進みます。

おや、この倒れた象はなんだろう?

杉並木街道へ戻ります。

杉の大木には個人名や企業名の札が付いた樹があり、調べてみると杉並木オーナー制度というもので、杉並木保護に賛同された人が、杉1本につき1000万でオーナーになる

という。は~自分的には無理だな・・・・

右手林の中にあるのは高龗神社(たかおじんじゃ)。

境内の石灯籠は嘉永7年(1854年)建立で、寒念仏供養塔などがあった。

車両通行止めではないので入って来た車があった。

そろそろ両塚を残す、と街道書にあり北塚は切株を残す「瀬川の一里塚」があるらしいが、良くわからない。

左手の竹藪がそうかな?

あとで調べると南塚は国道側へ出ないとわからないらしい。

杉並木がいったん切れ、集落の中を抜けて行きます。

民家の庭には十月桜が咲いていた。

再び杉並木になる左手細い道入り口に、大日如来堂の標識が有った。

境内には十九夜などの石仏石塔があるというが、立寄らずに先へ。

杉並木道は再び特別保存地域の杉並木となり、左手の古そうな杉の大きな切り株は

街道書に七本杉の切株とある、七本の杉が密着して生えていた株跡と思うが。

(ここも示すものは何もなし)

別資料によれば、

7本の杉が1つになった巨大な杉で、2本は強風によって倒れ、本は老朽化による

倒木の恐れがあるということで、1968年に伐採されてしまった、とあった。

街道には側溝があり、きれいな水が音を立って流れて行きます。

すぐ先で再び杉並木が途切れ2,3軒の民家が現れ。

内1軒は日光彫工芸店作品が何点か展示されていた、

再び杉並木へ入ります。

10分ほど行くと右手に砲弾打込杉との案内板があった。

戊辰戦役の激戦地で、杉の幹に官軍が放った砲弾が当たって破裂した痕跡が残る、

とある。

後の杉のこれかな?

10分ほど杉並木をゆくと右手草むらに石碑が見えた。

街道書にある神道系の「代々馬力神」だった。

すぐ先右手の木々の中に石柱が建っている。

旧幕府軍の陣地後で、旧幕府軍と官軍との日光を戦場とすることで、

日光寺院の要請により官軍参謀の板垣退助が停戦を決断した、などの経緯が

あるそうです。

杉並木を15分ほど行くと、廃屋現われ、5分程先に何軒かの民家が有りました。

5分ほど先右手に街道脇に釣鐘が置かれたお堂は元龍蔵寺跡の野口薬師堂で、

境内には如意輪観音像等多数の石仏が残されていた。
道端の釣鐘は明和5年の造立だが重みで龍頭が壊れて以来放置状態というが、

よく見るとなんと石造りの梵鐘でビックリ。

普通は青銅製まれに鉄製と言われてるが・・・

”ゴーン”と鳴り響いたでしょうか???

なぜ石造りなのか、詳しいことは判らないままです。

5分程先で街道はY字路形になり、右手に分岐道は日光古道だそうだが、

先は洪水で失われたと街道書にある。

左手に回り込むように街道は続き、左手には石仏石塔群があった。

先で杉並木は途切れ、右手を併行すtる国道とに挟まれた集落内の道となり、

街道は今風石畳道になっている。

200mほど程行くと国道119(日光街道)と合流。

合流国道左手に、寛政3年(1791年)建立という常夜燈が建っている。

この常夜燈は近くの日枝神社のもので〝日光型〟と呼ばれている少し形の変わった

角型の常夜燈です。

合流した国道は杉並木は途切れ、左右に民家が数軒立ち並び、スピードを出す

車の行きかう国道119号。

周辺は七里村と呼ばれていたようだ。

おや、ホトトギスが咲き残ってるね。

その先は杉並木に成ったり途切れたいの国道だ続きます。
歩くのは路肩ぎりぎりの白線内でかなり注意が必要。

5分ほど行くと右手に墓地が現れ、街道書には「元泉光寺後で、戊辰戦争宇都宮

の戦いで戦死した隊士の墓がある」とある。

小さいが白い木柱付近の墓石だろうか。

集落のある付近は、少しは歩き幅もあって有難い。

かわいいオブジェ。

左手に現れたのは、七里村の鎮守・生岡(いきおか)神社への道標。

草道らしきものもなかったが、かっては参道があったのかな。

再び杉並木道が始まり、歩道帯は極わづか。

ビュンビュウン行き交う車にびくびく歩く。

並木太郎」とか「銀杏杉」と名の付いた大きな杉があるようだが、ゆっくり探しながら歩く余裕がない、

並木太郎、これかな? 銀杏杉は根元が似てるけど?

歩道帯の無い杉並木道を20分ほど行くと左手に明治天皇七里御小休所の碑が有った。

少し歩きやすい幅になった歩道帯を、10分ほど行くと右手にレトロは洋館が見えた。

全11室という人気の宿泊施設という。

更に200m程行くと宝殿交差点で二股となり、街道は右手へ入ります。

交差点付近に、江戸日本橋より35番目の最後の七里の一里塚が有ったそうですが、

現在は一不明と街道書にある。

更に200mほど狭い歩道帯を行くと、二股で左手に車のほとんど入らない

旧道杉並木を歩きます。

旧道を50m 進むと左側に椅子のような石があり『異人石』と呼ばれるいうそうです。
明治初期に来日し、東大医学部の前身である東京医学校で長年教鞭をとり、

『日本近代医学の父』と称されるドイツ人医師『エルヴィン・フォン・ベルツ』が、

日光杉並木を大変気に入り、いつまでも座って眺められるよう職人に頼んで

加工してもらった石、という。

200m程で杉並木は抜け、東武日光線のガードを潜り、すぐに右手の細い草道へ

登るのが旧街道。

杉並木道は特別保護地域として120mほど続いてます。

国道へ合流出口には、数基の石塔があり、街道書には馬力神、馬頭観音、勝善神等が

祀られてる、とあった。

国道から一旦普通地域になるがすぐに杉並保護地域に。

最後の杉並木道をゆっくり200m程歩くと相生町交差点で、

左手に史跡・日光並木街道普及並木寄進碑と、

特別史跡特別天然記念物日光卯木並木街道碑とが建ってます。

相生交差点を街道(国道)から折れて右手へ回ると、JR日光駅

すぐ先には東武日光駅があり途中に享和2年(1802年)男体山出羽山講中

建立したという日光常夜燈が建っている。

その先すぐに東武日光駅の駅舎で、すぐ先が街道(国道)で、日光山へと続きます。

街道(国葬119)へ出ると左手が杉並木最後の出口で、

日光街道最後にの宿場・21宿目の鉢石宿の入り口木戸があったと街道書にある。

鉢石宿は日本橋から21番目、日光街道最後の宿場である。

宿場町鉢石宿は1843年時には、本陣 2 脇本陣 1 旅籠 19 人口 985人。

徳川家康東照宮に祀られると、日光街道のゴールである神橋までの間は、日光東照宮門前町として栄えた。

電柱は地下化され道幅も広くなり、かっての宿場町としての面影は全く見られない。

木戸口跡から10分ほど右手に天台宗・龍蔵寺。

源頼朝の忠臣、畠山重忠の息、重慶が健保元年(1213年)創建と街道書にある。

畠山重忠は〝坂東武士の鑑〟と称された武将でしたが、頼朝死後の実権を掌握したい

北条氏の謀略により【畠山重忠の乱】を誘発され嫡子と共に討れしまい、

難を逃れていた重慶も、8年後に3代将軍源実朝の命で鵜tれていまったという。

境内には重慶供養碑や、戊辰戦役で戦死した芸州藩士の墓があった。

裏手には西行に謂れある西行戻石があるという稲荷神社がありますが、

立ち寄りはなし。

300mほど右手の蕎麦屋は入江家本陣跡。
往時は本陣を兼ねて菓子屋を営み、日光御宮御用達を務めた、と街道書にある。

向い左手には創業天明7年(1787年)創業、羊羹の老舗「綿半」があります。
日光山輪王寺御用で、寺門章「鎹山(かすがいやま)」を看板に使用してます。

5分ほどの右手現「さんフィールド」は高野本陣跡で、日光山の僧が建屋た松尾芭蕉

句碑が庭に有ったと、街道書には記されていた。

若いお二人さん、いいですね~

高野本陣跡から10分ほど、左手の瀟洒な建物は旧日光市役所庁舎。
大正時代、訪日外国人旅行者を対象として建築されたが、実際にはホテルとして

営業したことはなかったという。登録有形文化財、近代化産業遺産、

周辺は公園として整備され、今年の春に開園したそうです。

道路向かいの建物左手脇の坂を下れば、宿場地名の由来のなった

「鉢を伏せたような石」があると街道書に有り、明日寄るつもりでいて

立ち寄りを忘れてしまった。

5分ほど行くと、左手に観音寺の大きな石寺標。

弘仁11年(820年)弘法大師の開基。

急坂を登るため、立ち寄りは翌日31日でした。

急坂の参道脇に咲く大文字草、隣はなんでしょう?

山門を入った正面に千手観音を祀る観音堂

山門右手の崖階段道は観音道あとあり、多くの観音石仏が見守てます。

宿入り口から、ず~と緩い上り坂。
いよいよ夕暮れ迫る、日光山の二荒山神橋、日光街道の終点が近づいてきたようです。

左手に現れた建物は「国重要文化財」の金谷ベーカリー。

建物前の植え込みの中に建つ像は官軍総督府参謀・板垣退助像。

旧幕府軍と官軍との戦いに日光を戦場とすることで、日光寺院の要請により

官軍参謀の板垣退助が停戦を決断し、日光を戦火から守った由来によって

建てられたという。

右手に日光山に向かって、日光山の貫主となった天海大僧正銅像

令和4年10月30日(2022年) PM3:50

日光街道終点へ到着です。

(神橋周辺は日曜ともあって大混雑で、到着記念ショットは、翌日改めてお互いに

 写し合い)

思えば、2013年2月に東海道五十三次日本橋を旅立し、

(二人とも若いね~)


東海道53次    約127里   約496km
中山道69次  約136里 約526 km            
日光街道21次 約 36里 約144km
江戸期、徳川幕府が制定整備した5街道の3街道。
計293里・1178kmを、9年余ヵ月で歩いたことになりました。
う~ん、我ながら夫婦二人で、よく物好きに歩いたもんだな~と・・・・

さあ、このあと夕暮れの日光山輪王寺へ山を登り庭園、「逍遥園」の夜間拝観へ

向かいます。

お付き合いありがとうございました。

日光街道二十一次、旅を終えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鉢石宿の街並み
「鉢石宿」。 東照宮に向けてゆるく連続する坂道の両側には、日光名物の湯葉や羊羹の老舗が並ぶ

 

地名の由来となった「鉢石」が残る。 地表に露出した岩盤で、鉢を伏せたような形をしていることから「鉢石」と称された。

 

金谷ホテル入口には板垣退助の像が立つ。 戊辰戦争の時、幕府方の大鳥圭介と官軍の板垣退助が話し合い、日光を戦火から守った功績により像が立てられた。

 

 

日光道中二十一次 第14歩 (二日目)

明けて10月22日、朝食を済ませ駅前8:25のバスに乗り小一時間。

昨日足止めの山口バス停に降り立ち、AM9:20二日目の旅立ち。

いまは空は白い雲に覆われてるが、わりと暖かい朝。

予報では日中は陽が出て、昨日より気温は上がりそうで服装を改めてパチリ。

(三脚がないので路面から、露出を誤まったね)

路肩に綺麗な黄色いオシロイバナがまだ咲いていて、おや、紫陽花も返り咲きかな。

左手垣根越しに立派な蔵が見えている。

大谷石より色合いが薄い感で、この蔵も徳次郎石造りかな?

バス停から10分ほど進むと、道の左手は路肩歩きになるため、街道書では右手の

草道を行くとあるので、車の行き来を見計らって右手へ渡り、車道より一段高い

畑脇の草道を歩きます。

サザンカ?椿?

おや、アケビでは。

杉の花芽だね、花粉の時期は日光街道は要注意だ。

この実はヤマユリではないかな・・・、

そろそろ弥勒堂跡で地蔵尊など石仏や石灯籠と街道書にあるが、それらしきは

見当たらない。

歩道帯は一段高い所だったので見えなかったかな。

バス停より1km強ほど歩き、車道へ下ると先の道は二股になり、

右手が旧日光街道(国道119号)、左手に向うは国道119号バイパスとなる。。

ここから本格的に日光杉並木街道が始まり、全国で唯一国の特別史跡

特別天然記念物指定されてます。

日光街道に入り、100m程行った左手に建つのは「杉並木寄進碑」。

碑は日光杉並木の完成を記念して慶安元年(1648年)に立てられ、植栽された当時は

2万4000本ほどあったようだが、年間100本ほどが寿命で失われているという。

今は日光街道(大沢〜日光/16.52km)、例幣使街道(小倉〜 今市/13.17km)、

会津西街道(大桑〜今市/5.72km)の総延長35.41kmの間に、1万2500本もの杉並木が現存するという。

日光杉並木はこの3街道の並木の総称ということです。

寄進碑は、他に日光の神橋・例幣使街道小倉・会津西街道大桑の計4ヶ所に

建てられているそうな。

街道書によると、

東照宮に通ずる街道の杉並木を徳川家康、秀忠、家光の三代に仕えた

武州川越藩主・松平正綱が、寛永2年(1625年)から約20年の歳月をかけ杉を

植栽し、家康23回忌に東照宮へ寄進。

碑は日光神領との境にある所から『境石」と呼ばれた、とある。

日光杉並木街道は、「世界一長い並木道」として1992年にギネスブックにも登録。

バイパスによってクルマの通行もほとんどないが、車は通行止めではないので、

観光らしい車がたまに走ってくる程度で、静かな杉並木は実にいい雰囲気。

杉並木も現状により、普通地域と特別保護地域に区分されている

幹回りが7m以上高さ30~40mもの巨大な杉が続く様は圧巻で、延々続く並木道に、

街道時代を偲ぶ風景を見ることができます。

松でなく、杉を植えた理由は!?
なぜ松並木でなく杉並木なのかは、比較的温暖な東海道と異なり、冷涼で杉の生育が適していることだそうです。
東海道でも、山越えの箱根・芦ノ湖湖畔部分は杉並木となっている。

江戸時代、並木は日光奉行が厳しく管理し、枯れた際には速やかに補植されていました。
明治政府は財政再建のために杉並木の全伐を計画しましたが、日光を愛した

イギリス公使バークスの進言で断念という歴史があるそうです。

碑から10分強程で杉並木を抜け、150m先の大沢交差点でバイパスと合流し、

大沢宿へ到着。

大沢宿は江戸から19番目の宿場町で、日光街道歩きも残す宿場は2宿となりました。

元和3年(1617年)の規模は人口278人、総戸数43軒(本陣1軒、脇本陣1軒、

旅籠19軒)。

地名の由来は、鎌倉時代源頼朝がこの地を訪れ、家来に開墾居住させた。

頼朝の御恩を地名にし「御恩沢村」としたが「恩沢村」から「大沢村」となった,由。 

大沢交差点を渡ると右手の民家前えはお花畑。

コスモスなどが色鮮やかに咲いていて少し立ち止まり。

シュウメイギクとダリアの白花

白花キキョウ、ほうづきは網掛けに、

花談義をしていて、右手にある王子神社へ寄るのを度忘れで足を進めてしまった。

王子神社は大沢宿の鎮守で、創建は正治2年(1200年)。

推定樹齢250年の大銀杏が良く知られてる、と街道書にはあった。

少し先で歩道橋で左手に渡ると、歩道橋上から左手奥に、大沢小学校のグランドの

一部が見え、運動会が開催されていた。

大沢小学校は元竜造寺跡で、寛文3年以降歴代将軍日光社参の際、休憩所となった、

と街道書にある。

その先150mほど行くと再び道は二股となり、左手が杉並木街道(国道119号)で大沢宿の北口、右手は国道119号線バイパスとなる。

再び鬱蒼と聳える杉の大木。

ほとんどの車はバイパスへ流れるので、安心して足を進められます。

すぐ左手に石塔があり、小さな池がある。

その後ろの大杉は、杉並木造成いぜんからあった杉と街道書にはあった。

ここに大沢の木戸があり維新戦役で大沢の斎藤縫蔵らが幕府の間諜をを働いたと、

官軍より斬首され、この木戸に首級がさらされた、ともある。

すぐ先、右手杉並木の中に小さなお社は八坂神社。

手前の切り株は二本の杉の根元が癒着した二股杉の切り株、お堂の右手の御神燈は

文政5年(1822年)建立と街道書にある。

2,3分程先左手の地蔵さんは「交通安全地蔵尊

まだバイパスが出来る前、見守ってたんでしょうね。

さらに10分ほど歩むと右手に、六ケ所残ってる接合井の第三接合井が建ってます。

唯一機能してると、街道書にはあるが今も機能してるか?

5分ほど進むと街道書に両塚を残してると記された「水無の一里塚(東塚)」が

あり、江戸日本橋から32番目の一里塚。

塚木柱には御成街道の記されてるが、御成街道は江戸・本郷追分で日光街道と分かれ、武州幸手宿にてに日光街道と合流している将軍通る街道です。

西塚は多分これらしい。

一里塚は「特別史跡特別天然記念物」指定とある。

杉木立の少し薄暗い日光街道では路肩に、赤く染めた実のマムシ草、

まだ花盛りの様に、サラシナショウマの穂咲きの白い花が、あちこちに咲いてました。

一里塚から15分程、並木を抜けたところ左手に建つお堂は延命地蔵尊と街道書に

ある。堂内暗く地蔵尊は拝めない。

境内に享保15年(1730年)建立の念仏供養塔や六地蔵燈籠、十九夜塔、

庚申塔等があった。(レンズが汚れて見苦しいですが)

ここは右手から国道119バイパスから左手方面へ並木道を横断して通ているため、

杉並木道へも車が入り込んでくる。

ほとんど歩道帯を確保してない並木道は、我々老々には危なかしっくて歩けない。

さいわい並木道と平行して一般道が続いてるので、しばらくは利用することに。

並木で見れなかった空は大きく広がり開放感がいっぱい。

路には秋らしさもいっぱいで、路肩には馬頭観音や石仏もあった。

15分のほど行き、再び杉並木に戻るとすぐ先から杉並木は車の乗り入れ禁止道に。

すぐ右手にあった墓地は街道書にある「山伏千手院跡」の様子。

山伏は日光山の「里山伏」として、東照宮渡御祭り行列の供をした。

跡地には如意輪観音像十九夜塔や男女双体道祖神が残されている。と街道書にはあり、

墓石枠の手前に小さく石仏が見えていた。

さらに5分ほど先き119号バイパスから国道119号が分岐して杉並木を横断し、

杉並木に並行して続いています。

左手に大正4年(1915年)建立という馬頭観音があった。

更に10分ほど杉並木道を歩み、

再び平行する国道119号へでて解放感を味わいます。

しばらく行くと右手杉並木の向こう側の茂みの中に、第二接合井がみえた。

すぐ先で杉並木は途切れ、左手からの国道119と合流し、

振り返ってパチリ。

森友交差点をわたります。

50m程先、右手に永正14年(1517年)創建という浄土宗「來迎寺」
わが家の宗派なのでお参りへ。

参道には如意輪観音十九夜塔が四基ならんでいた。

初めて出会った観音像でした。

来迎寺から200mほど右手の整備された植え込みの中に常夜燈が建っている。

常夜燈は寛政9年(1797年)建立で、旧漢字体で「男体山」と刻まれている。

300m程行くと会津街道と呼ばれた道との森友交差点。
渡ると再び杉並木に入るが、右手へ会津街道を国道119号バイパス方面へ足を

向けます。

300m程先のコンビでのトイレ拝借。
はや1時近くでイートインが有ったので、いつものサンドイッチとコーヒーランチ。
(老々にコンビニトイレは大変ありがたいです)

コンビニ前から日光方面への車両交通の激しい道は、令和3年に開通された整備された、国道119号水無バイパスでした。

車両の多くはバイパスを通り日光方面へ向かうようです。

街道へ戻る途中すぐの左手空き地に庚申塔など数基の石塔がのこされていて、

歩いてる路が会津街道だったことが分かります。

50m程先左手に瀧尾神社。

建長4年(1252年)大己貴命(大国主命等を祀ったされる神社を、

1916年に現在地に遷座したという。

社殿には縁結び子宝の大きな注連縄が掛けられていた。

再び杉並木街道へ戻てきました。

此処から先は、水無バイパスと旧道(日光杉並木街道)を結ぶ連絡道(往復した道)

が整備され、これにより、沿道アクセスに影響のない森友交差点から先、800m区間について 、地域の安全・安心の確保のほか、杉並木の生育環境の改善等が図られた

車両通行止め区間です。

一般国道119号は左手に分離して、旧街道杉並木とほぼ並行して通ています。

杉並木はここから先は車両通行の無しの一方通行となり、歩きやすい街道です。

入って200m程先の標識には、10km余の車両通行止めと記されてました。

通行止めはこの部分のほか何か所かあるようです。

杉並木の杉には、植栽以前からの古木もあると街道書には記されていたが、
大木も多く、判別は難しいですね。

なかには杉の切り株から山桜の木が生えている珍しい「さくらすぎ」がある、

と街道書にあるが、見つけられなかった、

通行止めから約15分、右手に根元が空洞がある老杉のところは江戸から33番目

「七本桜の一里塚」の北塚と街道書にあり、空洞には大人4人程度ならば入れるとか。両塚を残してるとあるが東塚は判別がつかなかった。

その先5分ほど行くと七本桜交差点で、一旦車両通行止めは解除になり、

杉並木は日光方面からの一方通行道になり、道幅も狭く車両も多く入り込んでくるようで並木歩きは止めて、平行する国道119号へ。

5分ほど行くと東武日光線のガードをくぐると今市(日光市)は近いようです。

ガードを潜って7,800m程先の交差点から、車両は入り込むようでなので、

交差点で国道を右手に横断し、再び杉並木道を歩きます。

杉並木を300mほど行くと、変則五差路の小倉交差点手前で、日光街道と左からの

例幣使街道が合流した追分になり、今市宿に入っていく。

振り返って、左杉林の下が日光街道、中、国道119号、一番右手が日光例幣使街道

例幣使街道は、旧中山道歩きで通った倉賀野宿に追分が有り、中山道から別れ、

太田、栃木、鹿沼を経て、ここで日光街道と合流している

両街道合流地点、街道に挟まれて高さ2m90cm、北関東でも一、二を競う大きさの追分地蔵尊が見守ってます。

一説には、江戸期の頃には地蔵尊の裏手で高麗人参の栽培が行われ、今市宿の名物に

成ったという。 

追分地蔵尊には多くの伝説が残されており、日光市文化財に指定されています。

立ててある説明文によれば、                
「 江戸時代初期に石工が、大谷川(だいやがわ)の川原の砂に埋まっていた石を
割ろうとしてノミを打ち込んだところ、真っ赤な血がにじみ出てきて、 驚いた石工が

掘り起こしてみると、この大きなお地蔵様でした。

左肩から背中にかけて、石割りクサビ用のノミ跡が幾つも、今もくっきりと残る石

地蔵です。  

それを村人達が運んで行くと、現在地で動かなくなったので、 ここに安置したが
後に如来寺という由緒あるお寺に移したところ、お地蔵様の泣き声が聞こえる様に

なった為、  村人達は「このお地蔵様は日光の大谷川含満ヶ渕の親地蔵で、

洪水で流されて来たのだろう」と、日光の見える元のここ追分に戻して、

日光に向けてここに安置したという。

ふつうは地蔵の手印は錫杖と宝珠であるが、この地蔵尊胎蔵界大日如来
法界定印という手印を結んでいるそうです。

制作年代は明らかではないが、享保13年(1728)徳川8代将軍吉宗の日光社参の時に、すでに現在地にあったと記録が残されているそうで、地蔵尊はその以前から

この地に安置されていたとみられている。
日光含満ヶ渕には並び地蔵があるが、明治35年(1902)の大洪水でも、親地蔵と

他の地蔵の幾つかが流された、との記録が残っているそうです。
            

ノミで傷ついた跡という。

追分のすぐ先は小倉交差点で渡ると江戸から20番目の今市宿へ入り。

日光街道も最後の21宿目鉢石j宿まで残すとところ約8・5km(2里余)で、

時刻もまだ早いですが、私たちの旅第14歩はここで足止めで、

交差点を左折してJR今市駅へむかいました。

電車を乗り継ぎ早めの帰宅。
日光街道夫婦二人旅 第14歩はおわります。 完