>平成28年6月18日、3年半をかけて東海道五十三次を旅し、
京の三条大橋に立ちました。
そして夫婦は旧中山道69次の旅、再び京を目指して歩いています。
10月22日(土)江戸から8番目、熊谷宿を過ぎ次の深谷宿との
中間くらい,大きな食品スーパー前を過ぎると名無しの十字路になり、
で足止めして,1週間。
10月29日(土)またも夫婦は旅に出ます。
(ひまなんだな~なんて言わないでね、熱中してるんです!)
早めの朝食を摂り、マイカーで出発。
JR高崎線・深谷駅近くの駐車場へ車を止めて、電車で一駅、籠原へ戻り、
名無しの十字路へ。
午前9時出発、県264を進みます。
ありゃりゃ・・カメラ地面置きのフォットだね。
青空あり日差し有れど北風強し。
遠くに赤城山が望めたので、もうここらは上州赤城下しが吹くのかな?
すぐ左手に明治天皇御小休所跡碑。
この付近は籠原の立場だったようで、志がらき茶屋本陣があったそうです。
街道(県264)は歩道区分無し、けっこう交通量が多く気を使いながら歩います。
右手に地蔵尊があるようでしたが、見つけられないで進みます。
左手に一本のケヤキが立ち、少し盛土になったところがありました。
花が植えられて花壇になって案内板がありますが、「一里塚と花畑」とのみで、
一里塚としての解説はありません。(板には深谷市とあり、ここで熊谷とはお別れ)
一説には「中山道分間延絵図」によると、道路東側の馬頭観音は塚跡、また塚より200m位離れて稲荷明神が描かれてることから、
日本橋から18番目「東方の一里塚」であるとしています。
(実際、先にに稲荷さんがあります)
東方の地名は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折当地を通り、
里人に「東の方は何れに当れるや」とたづねた古事によってと言われてる由。
(塚の道路東側の馬頭観音を写真に収めるのを忘れてしまいました。)
たしかに200mほど進むと右手に「鬼林稲荷神社」があり、街道から赤い鳥居が奥へと連なってます。
少し歩くと左手に庚申塔が二基祀られている。
用水路に沿った小道の十字路脇に道標が立ってます。
「右なかぜみち」
船運で賑った利根川沿いの中瀬河岸への道標で立場でもあったようです。。
国道17号と深谷バイパス(17号バイパス)を結ぶ東通りを、東方2丁目交差点で渡ると、中山道に面して一の鳥居、そこから北に参道が延び、二の鳥居三の鳥居を経て境内にいたるのが「郷社熊野大神社」です。
境内には、樹齢350年のご神木の大欅がそびえ、歴史を経た古社の雰囲気が
漂っています。
社伝では、延長五年(927)この地に枇杷の木を棟木にして小社を建て、上野国碓井 郡 熊野本宮より奉遷し東方と号する、とある。
本殿は天正年間(16世紀)に建てられたもので、深谷市の文化財に指定されています。
深谷上杉の宿老の一人、 秋元景朝とその子 秋元長朝の信仰く、天正年中(1573~92)に、社殿改修を行なったと記されてます。
本殿は大変荘厳、風格を持ち、文政2年と平成11年の大修理が行われたたそうです。
街道に戻ると両側の畑には深谷ネギが栽培されてます。
関東で主に栽培してきた白ねぎは、根元の土を何度も高く寄せる、土寄せという作業を行うことで光を遮断し、ねぎの軟白部分が長くなるように栽培していきます。
そして関東で代表的なのが深谷ネギですね。
長い参道を戻り街道を少し進むと、やっと歩道区分のある道になりました。
枝を下してずんぐりしてますが、結構樹齢を重ねたような銀杏並木が続きます。
持参案内書では右手に御嶽神社、そしてその先左手にも御嶽神社とありますが、
右手の御嶽神社は見過ごしたようです。
(帰宅して調べた深谷市の神社仏閣一覧に御嶽神社は2か所ありましたが、場所が違ってます。ただ、ネット地図で見たところ道右手に御嶽神社とありましたので、やっぱり見過ごしたのでしょうか)
先左手に常夜燈が見えてきてきました。
一角には鳥居のある境内になっていて、社殿はなく石碑や石塔など多くが建てられてます。
御嶽神社(木曽御嶽山遥拝所)で「一心 並木一心霊場 」と言うようです。
一心はは木曽御嶽信仰の御嶽講行者で、講の一つ一心講の開祖。
1852年(嘉永5年)ころ、一審の弟子、盛心が並木国済寺の東北済に
御嶽山遥拝所を建立し、一心の歯髪を納めた宝篋印塔を建立した。
1937年(昭和12年)この地に遷座。
一番奥に御嶽三神碑がある。かたわらに不動明王。一心大菩薩宝塔、盛心大菩薩宝塔がある。一心と普寛の石像。一心八十年祭碑、百年祭碑、百五十年祭。盛心百年祭碑。盛心百五十年祭碑などが建てられてます。(参『木曽御嶽信仰』より)
(木曽の御嶽山・・懐かしいな・・初めて山小屋へ泊ったわね・・て、
しばし話が弾みました)
右手の木立の中に昭和に建てられた芭蕉の句碑のある、愛宕神社があります。
少し先右手は、小学、中学、そして高校と学校が並んで文教地区。
道沿いは木々が蔽われてます。
街道から左手奥に国済寺があるのですが、街道には道案内標識もなく、
見当をつけて左への細い道へ入ると、左手に白壁の塀が続きます。
塀にそて進むと開かれた脇門があり境内に入りました。
正門まで戻ってみるとすぐ右手は国道17号でした。
接した辻に当たるところに、道祖神や六地蔵があり、カキの木にはたわわに秋の実りがありました。
国道17号の拡張に伴い、ここに改修されたそうです。
約8万坪と言われる境内が広がってます。
康応2年(1390)深谷上杉氏の祖、第六代関東管領上杉憲英が開いた寺で、
正門から入山すると、禅宗様式の簡素な美しい総門、三門、本堂と続きます。
総門(黒門)
深谷上杉家は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつで、後年
関東の雄、北条の傘下に入り、豊臣秀吉の北条征伐にて所領を失った。
三門、鐘楼
本堂
本堂裏手には、県指定遺跡、上杉憲英公墓や上杉家歴代の墓所がある。
徳川家康から天正18年(1590),寺領30石の朱印状を下付された由。
国済寺を後に街道へ戻ります。
この辺り江戸末頃には450本もの松並木が美しかったと言うが,いまは銀杏並木に変っていて,昔日の面影はありません。
国道17号と交差する手前に「見返りの松」石碑が立ってます。
深谷宿に泊まった旅人が江戸に向かう時,振り返って遊女と別れを惜しんだといわれてますが、松は平成18年に枯れ、いまは2代目、少しは樹らしくなってきましたが、
まだまだ若木ですね。
(余談、歩道のマンホール蓋やタイル画、椿がアレンジされてます。
右角にお馴染みの讃岐うどんの店。
時間は11時、朝食が早かったのでカミさんがお腹が空いた!早めのお昼に。
たっぷり盛ったネギは・・・深谷ネギ!・・???
お昼をいただき、足も休めて街道へ。
大きな広いお宅の庭は、バラの園。
よく見るとバラの蕾に袋をかぶせてる!
街道は再び歩道区分無しの道となります。
そして先に大きな常夜燈が現れます。
現在の常夜燈は明治の建立で,高さが約4m,中山道中最大級の常夜燈といわれている。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、本陣1軒、脇本陣4軒、
旅籠80軒で宿内人口は1,928人で、中山道で一番大きな宿場町だったそうです。
江戸をたった旅人には2泊目の距離の宿場町。飯盛り女も多く、大変賑ったと
言われます。
英泉画・深谷宿
(余談)
常夜燈が建つ場所には中山道を横切って、南北に延びている細い道が続いてます。
この道は、今は閉鎖された日本煉瓦製造㈱と深谷駅を結ぶ軌道跡で、現在は遊歩道に
なってます。
日本初の日本煉瓦製造。
あの東京駅も深谷の煉瓦なくしては出来上がらなかったでしょうね。
http://www.city.fukaya.saitama.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/76/panf-nihonrenga01.pdf
明治維新騒乱の時期には最後の将軍、徳川慶喜に仕え、日本近代経済界の父ともいわれます。
http://www.city.fukaya.saitama.jp/shibusawa_eiichi/shokai.html
旅へ戻って、右手に国登録有形文化財に指定されてる、大谷邸があります。
二階建て洋館付和洋折衷住宅。
昭和恐慌の時、時の深谷町長故大谷藤豊氏が、お助け普請で建てたといわれます。
大谷邸左先には江戸時代後期創業と言れ 宿場時代からの袖蔵のある建物で営業している米屋「大政(だいまさ)」がありました。
(袖蔵は時代の流れ、通信機器店舗)
だいまさの先、十字路を右手に入ると浄土宗・東源寺があります。
門前に明和年(1768年)建立俳人・菊図坊祖英塚があります。
境内には葬儀中の様子なので、お参りはしませんでした。
街道にもどり少し行くと唐沢川に架かる行人橋。
たびたび氾濫で流された橋を、行人という僧が托鉢をして架けなおした、と言われ
橋のたもとに石碑が立ってますが、擦れてしまい全く判読できませんでした。
橋を渡りしばらく先に大きな通りとの交差点。
大きな通りを右に行くと先に国道17号が横切ってます。
その手前右に、家康の甥、松平康直開基の福寿院がありました。
広い通りを横断し、街道の一本北の通りを行くと、浄土宗・三高院があります。
松平源七郎康直(文禄2年1593年寂)が開基となり創建したといわれます。
康直は25歳で没したようです。(墓所は奥に入れなかったため未確認)
三高院から一本西の道が街道47号で、本住町、仲町付近から、深谷宿街になるようです。(先の交差点が仲町交差点、真っすぐが深谷駅)
仲町交差点から街道を少し戻ると、東側に「きん藤旅館」があり、
脇本陣を務めました。
創業者の藤平が近江の国出で近藤と名乗ったそうで、今も盛業中です。
向かいに煉瓦造りの大きな「卯建(うだつ)」をもつ商店
さすが煉瓦の街、深谷ですね。
「卯建(うだつ)」とは、隣家との境界に取り付けられた土造りの防火壁のことで、
これを造るには相当の費用がかかったため、裕福な家しか設けることができませんでした。 すなわち「うだつが上がる」とはこのことなんですね。
(参、四国旅での徳島のうだつの町、美馬市の白壁うだつ)
PM12:35、
深谷宿のハイライトはこの後も続きますが、今日の旅はここ深谷市、仲町で足止めで、いままでで一番短い旅区間となりました。
カミさんの希望で、これから遠回りですが南下して、県央の伊奈町バラ園へ寄り道をして帰ります。
もう十年以上前の春に、一度訪れたことがありました。
左へ行くとJR深谷駅。
あの東京駅と遜色なしの煉瓦つくりの、美しい駅です。
深谷の煉瓦なくしては東京駅はあの美しさを実現できなかった納得!!
次回はもう少し煉瓦の町深谷を散策してから、次の本庄宿へ向かいたいと思ってます。
北風の厳しい季節に向かいますが、
元気なうちに、歩けるうちにと旅は続けます・・