*ひょいと歩き出した東海道五十三次。
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*
平成30年(2018年)11月10日、PM4:55
第32回の旅はここで足止めとしました。
願興寺前が桝形となって街道は続きますが、正面が名鉄広見線御嵩駅。
次回の旅は翌春に再開と思ってましたが、2018年暮れになって、
なんとこんどは右下腹部ヘリニアの症状がでて、大学病院の診断で手術を
受けることになったが、ただし、大変に混んでるため手術は4月に。
年は明け、平成31年(2019年)を迎えます。
4月16日無事手術は終えましたが、術後のリハビリなどもあって
街道旅はしばらくお預け。
そんななか平成は終わりをつげ時代は移り変わり、新たな令和の新時代へ。
5月中、術後の一か月診察にて完治診断があり、旅は何時でもOKとなったが、
足が重いとか・・なにか愚図愚図していたら、・・・
なんと、21日になって、カミさんの兄から「東海道完走」のメールが写真とともに
送られてきた。
前々から私たちの街道旅に関心を寄せていたが、数年前に起こしてしまった
バイク転倒で、長距離歩きや激しい運動は無理なんだ、と残念そうに言っていた。
その後、日頃使ってる自転車でならと訓練を始め、新たに折りたたみ式を購入。
この5月に挑戦していたのが、10日間での完走を果たしたそうです。
再開を躊躇していた街道でしたが、義兄の刺激をうけて?、
よ~し、こちらも再開するか!
来週はカミさんの内職仕事が入りそうなので、そうとなれば善は急げ、
カミさんに声をかけると、あっさりOK。
ばたばたと宿を探し、まだ長距離には自信は無いが、無理はしない、
途中ギブアップOK。まずは動いてみよう、で街道旅の再開へ。
令和元年5月24日(金)、快晴の夜明け。
夏日がしばらく続く予報。炎天下の街道旅になりそうだ。
カミさんの仕事終えを待って、12時半マイカーで出立。
中央高速を休憩を挟みながら341km、約6時間を走り、夕闇の迫る前に
令和元年5月25日(土)快晴、真夏日の予報になってる!
少しでも涼しいうちに一歩をと、名鉄線新可児駅AM8:008発の電車で、
前回足止めの御嵩駅前へ。
再び立つことのできた、懐かしき中山道日本橋から49番目、御嵩宿。
(右手の道を歩み來し、街道は左手へ曲がって進みます。前回はこの場所で足止め)
出立ショットを収め、令和元年(2019年)5月25日(土)AM8:30
再び歩いて京の都へ! 中山道夫婦歩き旅、第33回の旅立ち。
今日の歩き旅、目標は
50番目、伏見宿 御嵩宿より1里余 4.6Km 日本橋より 96里27町 379.9Km
51番目、太田宿 伏見宿より約2里 7.5Km 日本橋より 98里27町 387.8Km
御嵩宿~3里 約12kmです。
前回寄れなかった、旧脇本陣跡の「中山道みたけ館」はまだ開館前でパスし、
1里余(約4.5km)先の伏見宿へ向かいました。
駅前は桝形になっており角に、現在、本堂解体修理が行われている
願興寺があります。
創建は平安時代初期の弘仁六年(815)に最澄が薬師如来(国重文)を彫り、
小堂に安置したのが始まりといいます。
平安末期と戦国時代に二度の兵火に遭っていますが、幸いにも本尊の薬師如来像は
じめ諸仏像は焼失を免れ、天正九年(1581)近在の農民の発願により
再建されました。
本尊仏「薬師如来座像」は秘仏であり、子年4月にご開帳となります。
蟹薬師の由来は近くの池から一寸八分の薬師如来が無数の蟹の背に乗って現れた
一旦境内へ入り、覆われてる本堂周りを一回り。
仮本堂(写真右)の小さなお堂)にお参りして、願興寺を後に。
お寺の西側に出、先に進むと左手に神明神社があり、
おっ、いいね~、食事処のようですが看板は無し?
金、土、日の三日間だけの営業??
暖簾が下がってるから朝からやってる様ですね。
中山道は、時計塔を持つ洋館風の「宝石・メガネの原」と原写真館(両館は親戚?)
の信号交差点を左折して行くと・・
街道らしい雰囲気の道へ変わりますが、西へ向かう街道は日陰がなくなり、
じりじり背中から暑い日差しが照り付けてきます。
持参飲料はガンと凍らせたペットボトルに水と、レモン水。
水分補給はこまめに、今日の旅の合言葉ですね。
しばらく進むと左角に、文政4年(1821年)建立の「笠と火袋」が木でできた
常夜燈が建つ十字路を右に曲がり、
さらに進んで、右手に秋葉山常夜燈を見ての先、西屋敷交差点で国道21号に入り
左折して西へ向かいます。
擦れてほとんど読み取れない自然石道標(街道書記)をみてすこし西へ行くと、
蟹薬師に関係する逸話が残る鬼の首塚がある。
塚の上に建つ木造の社には、「鬼首塚」「関ノ太郎首塚」と刻まれた新旧の石碑が
祀られている。鎌倉時代に「関の太郎」あるいは「鬼の太郎」と呼ばれる悪人が
この地に住み着き、その悪業に手を焼いた住民が地頭にその退治を懇願する。
地頭が蟹薬師に悪人退治の祈願をしたところ、関の太郎が女装して祭礼にやって
来るとのお告げがあり、見事にその首を討ちとることができたという。
その首を京に運ぼうとしたが、急に重くなって持てなくなり、そこに塚を造って
その首を葬り鬼の首塚と呼ぶようになったという。(解説板)
鬼の首塚の隣には、
「草枕 むすぶまもなき うたたねの ゆめおどろかす 野路の夕立」
と刻まれた正岡子規の歌碑が建っている。
首塚から少し進むと大庭交差点。その手前右手に「御嶽神社」が祀られてます。
大きな石碑や灯篭に挟まれたお堂には「御嶽神社御分霊」の額が下がってます。
大庭交差点を過ぎて、150mほどで旧道は右に分岐し、
田圃に水が張られた車もほとんど通らない道はすぐに国道21号に合流する。
左手の可児川沿いの国道21を200mほど行くと顔戸(ごうと)の信号。
付近に応仁の乱時代の顔戸城址があるようでしたがパスして進みます。
信号を左手に可児川を渡って行くと、名鉄顔戸駅があるようです。
さらに可児川を見ながら400mほど行くと再び旧道が右に分岐し、
中山道と彫られた石碑があり、側面には比衣(ひえ)の一里塚跡と彫られてます。
単なる盛土になってるだけですが、お江戸日本橋から96番目の一里塚(跡)です。
石碑の分岐から右手へ行き、東海環状自動車道の下を潜って
「右御嶽宿 左伏見宿」と刻まれた道標を過ぎると、国道21号に合流する。
国道へ合流し、3,400mほど進むと右側に可児警察署伏見駐在所があり、
中山道の方向を示すものはありませんが、街道書では、国道から分岐して右手への
道筋になってます。
右に入ると街道書には駐在所裏手の森は「高倉山古墳」と記されてますが、
なにも案内が無く判別がつきませんでしたね。
少し先で左手へ曲がった田圃沿いの道地面に、江戸へ向かっての中山道の
プレートが描かれていてました。
両側が田圃の道を行き、少し坂道を上がると国道に合流します。
江戸方面からは樹の陰で見えませんが、国道合流地には江戸くだり方向の
中山道標識が建ってます。
合流地が伏見宿入口の桝形という説もあるようですね。
ここから伏見宿に入ったようです。
国道21号は御嵩入り口で新国道21可児御嵩バイパスが分岐してるので、
伏見宿街中を通る国道は車も少なく、静かなたたずまいの街並みです。
左側に伏見公民館があり伏見公民館前の植え込みに、
代々岡田与治右衛門が勤めた、伏見宿の本陣跡の標石、尾張藩の領界石が
建っています。
御多分に漏れず、1848年(嘉永元)年の大火で本陣は焼失し、
あと再建はなかったそうです。
伏見宿は江戸から50番目の宿場で、御嶽宿と太田宿の間に設けられた間の宿で
あったが、御嶽宿が開宿してから約90年後の元禄7年(1694年)に、
木曽川の流れの変化から、渡し場が太田と今戸に変更になったのに伴い、
太田の対岸にあった土田宿が廃止されたため、中山道の宿場として新設された。
兼山道と犬山道が分岐する交通の要衝にあたり、更にすぐ近くを流れる木曽川の
水運を利用して新村湊から多くの物資が運び出され、賑わいを見せたという。
尾張藩領だった1843年当時、
家数 82軒 (うち、本陣1、脇本陣1、旅籠29)
人口 485人 (うち 男230人、女255人)
街中は歩道部分が茶褐色に彩色されて歩き易く、本陣跡碑から約140m歩くと
伏見交差点で、交差点右側はトイレが備えられた一本松公園になってます。
街道に面した処に「右御嶽」、「左兼山 八百津」と刻まれた兼山道道標が
建っている。(写真の左石柱)
兼山道というのは、ここより北東方向にある、斎藤道三の養子斎藤正義が築いた
兼山城に通じる道であった由。
美濃路へ入ると、とたんに戦国時代の武将の名が頻繁に出てきますね。
伏見交差点を左へ行けば洞興寺があり、伏見には宿場時代、数多くの飯盛女が
働いていたが身寄りの無い人も多く、懇ろに葬ったといわれる多数の石仏が
祀られた「女郎塚」と呼ばれる塚があるのですが、寄らずに足を進めます。
伏見交差点をすぎて100mほどに、旧伏見郵便局舎(建物左)を利用した
ミニ観光案内所と、連なって卯建つのある旧旅籠の三吉屋で、
文政7年(1824年)に伏見宿に駱駝が来た事に因み、建物には
お休み処「らくだ」の表示が掲げられています。
ラクダは、オランダ商人が幕府献上品として輸入したが、幕府が受け取りを辞退
したため、興行師の手に渡り文政7年(1824年)伏見宿にやってきた。
興行師が病になり三吉屋に二日間滞在し、滞在中の二日間に2千人もの人びとが
見物に集まり、大盛況を呈したという。
旧旅籠三吉屋は建築年代不明ながら、旅籠のほかに生薬「感応丸」を商い、
近江の日野商人が取り扱ったことにより、全国規模で販売される人気商品となった
という。
三吉屋はお休みどころとなっていたので、覗こうとしたがカギが掛かっていて
「入れないね」と話してたら、隣の案内所から女性が出てきて、
開けますから是非寄ってくださいと進められて、中へ案内されると、
旅籠つくりの建物内では、展覧会などにも出展されてるという同好会の
お二方の、素敵なパッチワークキルトの作品展をされていたんです。
裁縫関連の2級技能士の資格を持ち、最近着物帯を利用したバック造りを始めた
カミさんは素敵な作品に大喜び。
作品を一点、一点説明をいただきながらゆっくりと拝見させていただき、
見終わって隣の旧郵便局(観光案内所)でお茶やお菓子をいただきながら、
さらに作品の話、旅の話と盛り上がり、いいひと時を過ごしました。
帰路についた車の中でも、カミさんは「素敵なパッチワークキルトだったわね」と
いい思い出になったようです。
皆さん、ありがとうございました。
街道へ戻り先へ進みます。
右手に灯篭が立ち。祠に道祖神が祀られてます。
そういえば御嵩宿を出てから、木曽路ではあれほど出会った、道祖神、馬頭観音は
撤去されたのか、全く見かけませんでしたね。
よく、地域開発の際にお寺や神社など一か所に集められてるのを目にしますが、
どこかに移動されてるのかな?
更に約200mほど行くと、交差してくる道の角に大きな石碑があり、
街道書によれば、かなり特殊な字体は「南無阿弥陀仏」と刻まれ、
槍ヶ岳を開山した江戸後期の僧・播 隆上人の名号碑と記されてます。
伏見宿の京方口はどこなのかわから無いうちに、宿場は終わってるようです。
どの辺を描いたのでしょうか??
街道は緩い下り道となり、ほどなく右手に御嵩町の大きな案内板と、そばに
正岡子規の句碑がありました。
明治24年松山への道中、中山道を歩き、伏見宿に泊っているそうです。
「すげ笠の 生國名のれ ほととぎす 」
句碑から150m強歩いたところが、斜交いに交わる上恵土交差点にで、
大正4年(1915年)建立の「右太田渡ヲ経テ岐阜市ニ至ル約九里」
「左多治見及犬山ニ至ル約4里」と刻まれた犬山道道標があります。
あの広重画の伏見宿は、犬山道へ入ったところの一本杉付近、との説があるそうです。
(広重は中山道を旅してない・・の説の元にもなってるようですね)
交差点を渡り、右手の太田への道へと旅は続きます。