35月25日(土)中山道歩き旅の続き編へ入ります。
一面には太田の渡しを経て岐阜に至ると刻まれ、もう一面は多治見、犬山に至ると
記されている犬山道道標の分岐を右手国道21号の旧道へ足を進めます。
上恵土交差点から約500m弱、右手に四国西国巡礼碑が建つ弘法堂
(なぜか撮影無し)を過ぎ、続いて寛文6年(1666年)に再建され
私たちは旧国道21の左側歩道帯を進んでますが、250mほど先に分岐があり、
左手に大きくカーブしてバイパスの現国道21へ合する道と、右手へ下って行って
300mほど先での国道へ合する二股になってます。
二股の手前右手に「またのおこしを・・中山道歴史の町」の看板がありました。
ここで御嵩町伏見がおわり、この先街道は可児市となってゆくようです。
街道書では二股は右手への指示になってますが、分岐手前からはガードレールに
切れ目がなく右手には渡れないため、左カーブで国道(21号バイパス)へ
合流しました。
国道21号の右手歩道帯を1km弱行くと、横断地下道のある中恵土交差点で、
中恵土交差点の手前にあるバイパスの地下道入口のところに、
江戸から97番目、恵土一里塚跡を示す石碑が建っています。
石碑には、江戸時代の一里塚はここから東に約30メートルのところにあったと
刻まれてます。
(「恵土」という地名の読み方は「えど」で、鎌倉時代には「荏戸」と表記され、
「江戸」、「江渡」とも書いた由)
時刻もお昼直前。気温も30℃越えたかな?
国道の左側にコンビニ、さらに先に、Macの赤いマーク見えたのでどちらかでお昼にと
横断地下道で国道左手に。
コンビニにイートインコーナーがなさそうなので、久しぶりにハンバーガでの昼食。
結構席数の多い店舗で家族連れで大賑わい。
こうしてみてると、一人っ子なんていないようなんだがな~・・
小一時間ほど体を休め、再び炎天下?の街道jへ。
街道書では先で右手へ分岐するとあるので、手前の川合口交差点で国道右側へ
移動します。
街道(旧国道21)は、愛知用水の大東橋を渡ったところでバイパスから右に
分岐し、右手に可茂公設市場を見ながら進むと、JR太多線の中仙道踏切に
当たります。
街道書には、踏切手前に辞世を刻んだ数基の「辞世塚」があると記されてるが、
撤去された周辺何も無し?
踏切を渡り少し行くと、右手石垣台上に開運北辰妙見大菩薩碑が建ってます。
街道書には簡単に「北斗七星、または北極星を神格化した神」と記されてますが、
ある書では、
「昔から太陽・月・星の運行を神秘的なものとして崇め、
仏教では日蓮宗や、真言宗・天台宗などに取り入れられ、妙見大菩薩と呼ばれ、
国土安穏・五穀豊穣・除災招福、開運隆昌の守護神として信仰されてきた」
とありました。
碑から今度大東交差点を渡り、お世話にならないようにの「JAF」を見送り
約300m歩くと、左側に東住吉自治会館があり、秋葉神社が祀られていました。
住吉交差点で現国道21号と交差、現国道は新太田橋で木曽川を渡ってゆきますが、
街道は住吉交差点を直進し、国道248の旧道となって
今度の渡しを控えた立場で賑わった今度村へ入り、
300mほど行くと、右手に村の鎮守今度神社の鳥居が建ち、奥の木曽川沿いに
今度神社が鎮座しています。
神社は、昭和になって住吉神社・八幡神社・神明神社の三社を合祀した新しい
神社だそうです。
今度神社から150mくらいに、天正年間1609年に開山といわれる
臨済宗妙心寺派金剛山龍洞寺があり、龍洞寺起縁の名石と伝わる(街道書記述)
「龍の枕石」が祀られてます。
その昔、この近くに雌雄の龍が住んでいたそうで、その龍の寝枕なんだそうです。
枕を使って寝ていた?? 日本昔話だね。
先から道は右へ曲り始め、やがて道は二股に分かれ、旧国道248は
現在は「太田橋」を渡るため右折をして行くが、真っ直ぐ進む道が中山道で、
当初は先にあった「土田宿」から対岸のへ渡って行っていた。
その後現在の「太田橋」の西100mの所へと渡し場が変っていった。
分岐の右手前に参道があり、元禄年間(1688~1704年)に創建された
富士浅間神社が鎮座します。
境内の木陰をお借りして水分補給と足休め。
一休みして分岐左手の渡しへの道へ入り、「別格今渡弘法大師旧蹟」の石碑が建ち、
「卍南無弘法大師」と染め抜かれた幟が立ち並び、庚申塔の建つ小道へ右折すると、
木曽川に向かって石段があり、それを降りていくと弘法堂が建っている。
弘法堂の脇から木々の間に青い川面が見え、池の赤い橋を渡て左手へ下ると
護岸された木曽川の川辺の石畳道へ出ます。
護岸された石畳道は水面からかなり高く、渡し場跡は??と青い太田橋方向へ
進んでみましたが、崩れた場所などがあり先へは進めません。
崩れた付近が渡し場だった石段跡のよう見も見えましたが、わからないままに
戻りました。(史跡としての保存に力が入ってない?)
中山道の三大難所、「木曽のかけはし、太田の渡し、うすい峠がなくばよい」と
詠まれた、木曽川の渡し場跡。
この対岸の呼称が太田の渡しですが、木曽川の出水ごとに船止めとなったので、
旅人のため宿屋・茶屋などが立ち並び、今渡地区も湊町として繁栄したと
伝わってるそうです。
昭和2年(1927年)に太田橋が運用されるまで利用されていたという。
(太田橋は大正15年末に完成しましたが、 大正天皇がご逝去されたため昭和2年に
渡橋式を行ったそうです)
なにか史跡としての残し方に物足りなさを感じながら、再び弘法大師堂前を通り、
ゆるく坂道を100mほど行くと、旧国道への太田橋袂へ出てきます。
(後のかくにんで、渡し場跡の石畳道を下流方向へ遊歩道的に整備されてる様でした)
道の右手は小公園になっていて、ここに渡し場のモニュメントがありました。
さあて、今旅人は延長218m、2008年にできた新しい太 田橋歩行者用橋を
渡ります。
車道橋は1927年(昭和2年)完成で、土木学会選奨の土木遺産に登録されている。
歩道橋の無いころの太田橋は歩道帯が無く、つい最近まで今旅人にとっても
(2008年前の旅人日記にも必死に駆け抜けた、とありましたね)
5分ほどかけて木曽川を渡り青い橋桁が終わったところで、右手に下る道が
分岐し、道の左手に「リバーボートパーク⇒」の案内板が建ってます。
下ると木曽川の美濃加茂川河川敷で、従来からあった中之島公園をリニューアルし、2018年4月に開園したばかりの中之島公園「RIVER PORT PARK INOKAMO」
でした。
かつて観光客でにぎわい、2012年に廃止された木曽川日本ライン下りの出発地
を整備したようですね。
先で河川敷上を渡る橋となって、可児市から美濃加茂市へと入って行きます。
橋を渡った先は右手上流にかけられた新太田橋を通て来た現国道21号に
突き当たりますが、国道21へは合流せづ、一旦橋を渡ったところで、
ガードレール切れ間から左側へ渡り、少し戻った形で、木曽川沿いの堤防上が
遊歩道になっている中山道へと向かいます。
木曽川の右岸美濃加茂側河川敷は太田の渡し場跡があり、太古の森林の樹木が
土砂などに埋まって化石(珪化木)となったものが多数発見された「化石林公園」が
整備されているそうですが、土手上からの眺めで良し、として遊歩道を西へ進みます。
日陰のない堤防上遊歩道ですが、さすが川沿いは風も爽やかで、るんるん気分で
足を進め500mほど行くと、街道書に案内されてる文化会館側の階段があり、
堤防下に建つ美濃加茂市文化会館の敷地に、江戸から98番目の
「古井(こび)の一里塚跡」を示す標柱のみが建てられてました。
あら、いい色合いね、とカミさんの指さす方に咲いていた花。
初めて見た花 なんの花♬。
(桔梗草 (ききょうそう)、別名 段々桔梗(だんだんききょうというんですね)
敷地内を回り込んで再び遊歩道を行くと、右手にあの大阪万博・太陽の塔の
岡本太郎の父親で、漫画家の岡本一平終焉の地碑が建っていました。
(写真、上の左から右)岡本一平碑から約80m歩くとY字路分岐となり、
右側の道に進み、約80m先のポンプ場前を右折し、
(写真。下の左から右)その先の神明堂交差点を左折しました。
交差点右向いに飛騨高山道と中山道の追分道標が立っている。
後編へ続きます、