*ひょいと歩き出した東海道五十三次。
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*
10月9日、岩村田宿を立ち、第16回目の旅が始まりました。
岩村田宿~塩名田宿 1里11町 5.1Km
塩名田宿~八幡宿 0里27町 2.9Km
八幡宿~望月宿 0里32町 3.5Km
岩村田宿~望月宿 2里32町 11.5km
*すぐに道は突き当たってしまい、旧中山道は藪の中に消えてしまう。
ここは右に曲り、国道142号を横断して・・
後編
PM2:20、国道142号を横断し、望月宿へ通じる瓜生坂入り口へ到着。
旧中山道は消滅してるため、しばらく迂回路になる*中部北陸自然歩道を
進みます。
*中部北陸自然歩道
「多くの人々が、自分の足でゆっくり歩きながら、中部北陸地域のすぐれた風景地を歩くことにより、沿線の豊かな自然環境や自然景観、さらには歴史や文化に触れ、親しむためのみちで、中部北陸地域の各県(群馬県・新潟県・富山県・石川県・福井県・長野県・岐阜県及び滋賀県の8県)を結んで整備された長距離自然歩道です」
長野県内の旧中山道は、県内に6本設定されている「中部北陸自然歩道」の
一つ道で、街道書などの道標とし記載されてるのも「中部北陸自然歩道道標」に
なるようです。
所々で旧中山道が消滅してしまってるところが有りますが、そのとき歩いてるのは
中部北陸自然歩道なんですね、
だらだらと坂道をのぼり、二股を左へ曲がり小さな道祖神を見送って、
みぎへ曲がると、・・・
前方、切通しのようなところに、
藪に消えた旧中山道に合流した気配もなく、江戸の日本橋を出てから45番目
「瓜生坂の一里塚」の碑と案内板があります。
こちらは南塚で、北塚は道路の造成で半分削られてしまったようです。
それでも左右両塚とも現存のは、貴重な一里塚と言えますが、
草木が生い茂っていて、小さな標柱では気づかなかったでしょうね。
カミさんが
「一里塚が有ったと言うことは、消滅していた旧中山道に合流してると言うことね」
旧中山道はゆるく曲がっていて上って行き左に曲がると・・
瓜生坂の峠のようで、曲がったところに「瓜生坂百万遍念仏塔」「中山道瓜生坂」と
刻まれた石碑が立っています。
昔は望月宿に通じるこの瓜生坂は大変に急だったため、往来が困難であったと
伝えられています。
安藤広重が浮世絵で描いた望月宿の絵はこの瓜生坂の光景を描いたもので、
名馬の産地として有名だった望月を意識して、馬と満月が描かれています。
木々はは赤松と言われてます。
(えっ、赤松並木・・・信州信濃は松茸の名産地、旅人も賞味で来たかな?)
でも赤松並木は朽ちてしまったのでしょうか。松の木は全く見当たらなかったな~
「茂田井宿 4.1km 塩名田 5.4km」と中部北陸自然歩道標柱があります。
「道はここから土手を斜めにくだっていた」と説明があり、左に長坂旧道と
呼ばれる段丘崖の急坂道を下っていきます。
土道は舗装路に再び合流し、逆S字に急坂を下ると分岐点に
道標「茂田井宿 3.3km 笠取峠 9.1km 塩名田 6.2km」があり、
斜め右の長坂旧道(写真右)に入ります。
枡形状に曲がった坂道を下ると、石尊大権現や道祖神、御岳神社、百万遍供養塔、
馬頭観音など多くの石仏石塔群がまとめられていて、これらは「長坂の道祖神」と
呼ばれています。
坂の途中に「大応院」があったが、明治5年に廃寺となった名残だそうです。
長坂を枡形状に進み、千曲川の支流である鹿曲川まで下ってきました。
中山道長坂分岐点案内板によると
江戸時代前期の中山道は、鹿曲川で右折し、望月新町があった鹿曲川右岸を下流に進み西(左手)に折れて中之条橋を渡って、望月宿に通じていた。
寛保2年(1742年)に大洪水が発生し、望月新町が道もろとも流され壊滅したため、
新町は左岸にある現在地に移転した。
そのため中山道は鹿曲川の左側の長坂橋を渡り、現在のようなコの字形に
宿内へと通じるようになった。
長坂橋で鹿曲川を渡ります。ここのあたりが望月宿の江戸方入り口になります。
長坂橋を渡ったら道なりに小さな道祖神を見ながら坂道を上ります。
突き当たったら右に曲り、旅館島田屋の先「望月宿入口」交差点を右折すると
望月宿に入ります。
望月宿は、現在の長野県佐久市望月にあたります。
中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて25番目の宿場です。
天保14年(1843年)の中山道宿村大概帳によると、
望月宿の宿内家数は82軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠9軒で
宿内人口は360人でした。
手前の八幡宿との間の宿間距離も約30町(約3.3km)と、中山道で2番目の短さです。
特に大きな宿場ではなかったのですが、馬を売買する人でたいそう賑わったのだ
そうです。
平安時代からこの地を収めていた豪族・望月氏や、馬の産地として名高い
「望月の牧」から、「望月」の名が付いたと言われています。
宿内は古民家も多く、街道街の風情を残しています。
大正5年(1916年)木造三階建の旧旅籠井出野屋旅館があります。
第1作『犬神家の一族』(1976年公開)』の中で、主人公・金田一耕助が投宿する
「那須ホテル」は、この「井出野屋旅館」で撮影されたのだそうです。。
旅館「山城屋」です。
江戸時代に旅籠として創業し、今でも現役の旅館として営業しています。
外観は昔のままですが、内部は近代的で、設備もいいそうです。
今街道旅人にも人気の宿のようですね。
望月宿の本陣跡です。
宿場中心部の立派な門がある望月歴史民族資料館の敷地は、本陣跡の一部で、
玄関脇に“御本陣”の看板が掛けられている、隣の小児科医院が本陣を務めた
大森家。
両方合わせた広大な敷地が本陣だったのです。
脇本陣兼問屋を務めていた鷹野屋です。切妻造りですが、2階がせり出した
出梁(だしばり)造りと呼ばれる建築様式。
脇本陣の看板は、現在、歴史民俗資料館に展示されています。
本陣跡の斜め向かいは、真山家住宅、旅籠・大和屋と問屋を兼ねていました。
当時を偲ばせる「出桁造り」。
くぐり戸の脇、軒下が板の間になっていて、
問屋として荷が置かれた造りがよく分かります。
幕末には庄屋も務めた。
明和三年(1766)に建てられたもので、望月宿最古の建物であり、
国の重要文化財に指定されている。
(国重要文化財としての案内板は、なかったような?)
向かいの家は昔は下駄屋の香美屋跡。
下駄型看板が軒下に吊っている。
あら、屋号は井桁屋かしら? てカミさん。
少し戻って区切りとして、佐久市立望月民俗資料館前で第16回の旅の足止めです。
向かいの商工会館前バス停より、千曲バスにて佐久平駅へ戻ります。
PM3:20 すこし時間が有るので、
バス時刻まで、佐久市立望月民俗資料館を見学へ。
「ご案内」
中山道望月宿の本陣跡に位置している望月民俗資料館は、平成3年8月1日に
開館しました。歴史的景観を損なわぬよう配慮された外観と内部には、江戸時代の解体民家の梁を使うなど、趣のある造りとなっています。
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当地に残るさまざまな歴史資料をもとに、
「郷土の歴史と文化」「中山道・望月宿」「人々の暮らしと伝統」の
3っのテーマに分けてわかりやすく展示しています。
岩村田宿~望月宿 2里32町 11.5km
日本橋から45里(176.7Km)、 京へ90里34町 (357.2Km)
PM4:10 定時にバスに乗り、第16回の旅は無事、おわり。
また、いつの日か旅に・・・・・