*ひょいと歩き出した東海道五十三次。
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*
10月17日(火)長雨の隙間、次第に晴れる予報を頼りに、
簡易雨コート着て、AM8:30、第17回の旅立ち。
ここから坂を下り、しばらく歩くと芦田川が流れていて、その芦田川を橋で渡ると長野県道40号諏訪白樺湖小諸線に出るのですが、その交差点を渡ったあたりが芦田宿の入り口になります。
続きです。
交差点は中居の交差点。
宿の入り口には「中山道芦田宿」と書かれた案内標識と、常夜灯が立っています。
中居の交差点を渡り、芦田宿へと入って行きます。
芦田宿は、日本橋から26番目、46里8町(181.5Km)、
京へ89里26町 (352.4Km)
天保14年(1843年)の中山道宿村大概帳によれば、
人口326名、総家数80軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋6軒。
宿長は約700メートルあったようです。
現在の長野県北佐久郡立科町芦田で、すぐ手前の望月宿よりもさらに規模の小さな
宿場町でしたが、難所であった笠取峠の東の入り口にあることから、
ここで休憩をとる旅人が多かったと言われています。
皇女和宮も降嫁の際にこの芦田宿の本陣で休憩をとっています。
芦田宿は、芦田村の浪人・岩間忠助と茂田井村の土屋右京左衛門重郷が、
神官の今井曽五郎とともに、慶長2年(1597年)に蓼科神社に納めた文書(願文)により、
新駅の設立を願い出たことが伺え,江戸幕府による街道整備事業(慶長6年)
よりも早い時期に設置され,北佐久周辺では最も古いといわれている宿場です。
(広重画 望月宿 笠取峠ですが、松ではなく杉では、と言われてます)
緩い坂を上り古町バス停の側に、道祖神が有りました。
バス停をお借りして、お茶タイム。
道は緩い下り坂となり、芦田宿の中心へと入って行きます。
途中の民家に芦田宿の行灯。垣根下には道祖神もたってます。
「芦田宿」と書かれたパネルが掲げられた街灯の並ぶ道筋は、
芦田宿に入ったことを示している。
次の立科町役場入口交差点を過ぎたところで、道は東方桝形となり左に曲がります。
まがって右手が「ふるさと交流館 芦田宿」です。
立ち寄りしませんでしたが、この施設では中山道の歴史や町の偉人、近隣の豊かな自然など、芦田の町の文化・自然・歴史をパネルや映像、ジオラマ等を用いて様々な角度から紹介しています。
また、平成29年4月に移住サポートセンターも併設され、地域の方々や旅人、
移住者等多くの方々の交流が生まれる場所として利用されてるそうです。
隣りが町区コミュニティセンター
あら、「町」?町名が「町」なら、ここは立科町・町町??て首を傾げたカミさん、
隣りの立派な門構えのお屋敷が 芦田宿の「土屋家本陣跡」です。
当時の本陣は問屋も兼ねていたそうです。
本陣は宿場開設に尽力を尽くした土屋右京左衛門家が代々勤め、
往時は客殿、主屋、問屋場、荷蔵、酒造蔵、長屋など多くの建物があったそうで、
幕末の文久元年(1861年)には、皇女和宮が昼食を摂るために立ち寄っています。
現在も寛政12年(1800年)に改築された、唐破風(からはふ)の玄関、
京風の造りの本陣御殿が残っており、江戸末期の本陣建物の姿、間取りを伝えている。
土屋家資料によると、
「この芦田宿本陣の初代当主となった土屋右京左衛門重郷は、あの甲斐武田家の
二十四将の1人、土屋昌続の長男で武田信玄の死後、信玄の跡を継いだ
芦田城主・依田信蕃を頼って落ちのび住まいし、その後は芦田宿の開設に尽力し、
芦田宿で本陣を勤める土屋家の初代当主となりました。」
「かつては「ふるさと交流館 芦田宿」までをも含む広大な
敷地があり、このあたりは“町(まち)”と呼ばれる集落だったそうです。」
これで、先ほどの「町」の謎が解けました。
土屋家には歴史を物語る数々の貴重な資料、道具などが残されているそうです。
本陣の見学は事前の予約が必要だそうで、個人では無理かもしれませんね。
本陣の対面には、芦田宿開設の中心人物のひとり、岩間忠助の分家である
山浦家の脇本陣跡でしたが、昭和52年(1977年)の火災で主家が焼失して
しまい、今は駐車場の隅に脇本陣跡を示す小さな「芦田宿脇本陣」と記された
標柱が立っているだけです。そのすぐ先、芦田中央交差点の左向こう側に7枚の街道絵図を掲示してる建物角に、
「脇本陣跡」と刻まれた案内標柱が立って、その右隣の空き地までが、
これも問屋を勤め、庄屋を兼ねた山浦家が務めていた もう1軒の「脇本陣跡」です。
江戸初期の建築様式が残っていた建物は、老朽化により取り壊され、
跡地の奥に土蔵が残っているのみです。
この山浦家にも多くの古文書が所蔵されているのだそうです。
道の向かいには、古い造りの木造2階建ての建物があり、
味噌・醤油の蔵元、酢屋茂(すやも)がある。
昔は酢を醸造・販売していたが、明治の半ば頃から味噌・醤油の醸造・販売を
はじめたそうだ。。
酢屋茂の斜め向かいに、現在も金丸土屋旅館として営業している、
旧旅籠の「津ちや」がある。
文政元年(1804)頃よりの旅籠屋で、軒下の庵看板には東側に“土屋”と書かれているが
西側は“津ちや”と書かれている。
江戸に向かう上方の旅人には“津ちや”のほうが馴染むのでしょうか。
建物は往時のもので、「津ちや」の、出梁(だしばり)造り、腕木(うでぎ)に施された
雲形の彫刻、煙出しを持つ大屋根など、奥行きが深い町屋家屋で、間口も広く
客室を襖で仕切る、昔ながらの旅籠の間取りを残しているそうです。
さらに街並みを進み、
芦田の信号を過ぎて、左手に“枝垂桜”や“紫雲の松”で知られる「正明寺」がある。
天和8年(1622年)開山、楠木一本彫の阿弥陀如来立像を本尊とする
真言宗智山派「正明寺」。
庫裡などの建物が無く、今は無住職のお寺のようですが、地元の方々が境内を
綺麗に整備されていているようです。
本堂の大屋根、素晴らしいですね。
トタンを除いたら、素晴らしい絵になりそう!
(かやぶき屋根をトタンで覆ってるようです。)
正明寺の桜は左右二本あり、樹齢が300年くらいかと思われる見事な枝垂れ桜です。
春の季節は素晴らしい光景が出現するんでしょうね。
よく手入れされ、美しい枝ぶりの紫雲の松。
由緒などは説明板もなく、判りません。
根元を見ると根が繋がっています、根元で枝分かれ?
正明寺境内には古墳もあったようですが、確認できませんでしたね。
街道へ戻る参道の垣根に蔓を巻き付け、そばの電柱にまで蔓を伸ばして、
紫いろの小さな花が咲いてます。葛?アケビ?ムベ?
道は左手に曲がって行きます。
こらのあたりが芦田宿の京方の枡形だったようで、芦田宿西の出入口です。
付近には双体道祖神が旅人の安全を見守っていたようです。
先は結構急な上り坂で、笠取峠へ向かって高度を上げてゆきます。
上り切ると「芦田宿入口」碑があって国道に突き当たるところが石打場公園で、
「芦田宿」の案内標識や道路標柱など立っています。
「石打」は「石内」が本字で、「石内」とは「境界」や「災害除け」の意味が有って、 旧芦田村と横鳥村の境にあたる場所だったそうです 。
国道を横切り、「笠取峠松並木」の標識と「新しい常夜灯」との間の道へ向かいます。
(そういえば、ここは春に通ったわね、とカミさんが思い出してました。
そうです、花桃の季節に武石へ来た帰りに峠越えて帰ってたんです)
街道はすぐに旧道は登り坂の道となり、「笠取峠のマツ並木」と書かれた石柱が立つ
石畳の道となります。
ここから笠取峠を越えとなってゆきます。
松並木の入り口付近には、大日如来石仏や菅笠を持った旅装姿の「母娘の道祖神」
も立っています。
ここからが、歩くのを楽しみにしていた、長野県天然記念物に指定された
「笠取峠の松並木」です。
立科町公報によれば、
「長野県指定天然記念物。
笠取峠のマツ並木は、近世五街道の一つ中山道芦田宿の西方1キロメートル地点から
笠取峠にかけて約2キロメートルにわたっている。
言い伝えでは慶長七年頃、公儀より赤松苗753本を小諸藩に下付され、
近隣の村むらへ人足が割り当てられ小苗を植え付けたとされ、幕末まで
手入れ・補植等管理されていた。
現在総本数68本の松は、いずれも樹齢が150~300年以上経たもので、
その景観は往時の中山道をしのばせてくれるみごとなものである。
立科町では平成五年に、「松並木公園」として整備し松の保護に努めています。」
笠取峠は標高は約900mで、長野県北佐久郡立科町(芦田宿)と長野県小県郡
長和町(長久保宿)との境にある、旧中山道(及び国道142号線)の峠です。
笠取峠の名称由来には、
「余りにも勾配が急な坂だったことから、旅人が夏の暑い時など大量の汗をかき、
頂上付近になるとついつい頭に被っていた笠を取って汗を拭いたから」とか、
「峠の辺りは強い風が吹いて、旅人の笠を吹き飛ばすことがあったことから」
とかのイソップ物語風から
「旅人が峠通った途中、頭の笠を取って浅間山の絶景を眺めたから」とか
いろいろで、みんなそれらしいから面白い。
現在は国道142号線を迂回させ、この貴重な松並木を保護しています。
途中に道祖神や歌碑が幾つも並んでいます。
途中に国道142号(現中山道)と交わると手前に、東屋、トイレなど設置された
松並木公園が有ります。
昔、ここにはちょっとした出茶屋が置かれていたそうです。
お昼も近いので、東屋で昼食を兼ねて一休み。
お昼は相変わらずの機能食品です。
この休憩所には「和宮東下の行列」や「笠取峠の茶屋風景」などのレリーフ、
さらには「松並木説明板」や「歌碑」などがあります。
しばしの休憩、足も休まったところで、峠へ向けて出発です。
すぐ先で国道142号線のバイパスに当たり、街道は横断して先へと延びてゆきます。
の国道に当たった中山道左右には、文化3年(1809年)小諸藩が建た、
小県領(上田藩)と佐久領(小諸藩)との境界を示す「従是東小諸領」の領界碑や
道祖神、常夜灯が復元されてます。
国道142号線の笠取バイパスは、和田峠を越えて長野県の軽井沢町と下諏訪町を結ぶ
主要道路で、北関東と東海・関西を結ぶ最短経路として大型トラックの通行が多い
国道です。
旧中山道はここを横断しますが、信号機はおろか横断歩道すらありません!
今日は平日なので、ビュンビュン大型車両が行き交います。
(右を見て、左を見て右を見て、それっ、渡れ~・・ああ、渡れたね)
再び松並木が続きます。
この松並木は江戸初期に753本植えられ、調査では大正13年(1924年)に
229本、昭和46年(1971年)には129本が確認され、
最近平成22年(2010年)の調査では70本の古木が現存しているのを確認してます。激減してしまった松並木ですが、街道にはやっぱり松並木、いいですね~。
300mほど進むと国道142と合流し松並木は消滅してしまい、大型車などが
轟音をあげて行き交う国道の歩道を峠頂上へと上って行きます。
国道142号線の登り坂の勾配は、緩るそうで結構きつく足が進みません。
いつものように周りの風景を楽しみながら、ゆっくりゆっくり進みます。
「あら、排水の管が上向きなのに水が流れ出てうわよ」てカミさんが指さす方を
見ると、確かに排水管は上向き方向、でも水は流れ出てる。
目の錯覚じゃないね~
左奥の方に民家が木々に隠れて在ります。
道路沿いのお墓や田んぼは、あの家のでしょうか?
なんて亀の子足でも進んでゆくと、勾配がゆる峠に近い傾斜地に、江戸のから47番目の一里塚「笠取峠一里塚」の北塚のみが残っています。
登り坂で続いていた車の登板車線の終わり表示が見え、峠頂上が近いことがわかり、
先で長和町の標識が見え、笠取峠の頂上へ来たようです。
後編へ続きます、