*ひょいと歩き出した東海道五十三次。
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。
10月26日(木)晴天の予報に早朝家を立ち、長久保宿から歩き始めました。
後編です。
*振り返り振り返り浅間山を見ながら緩やかな坂を上り、Y字路を左に進むと
「是より和田宿」と刻字した大きな石碑が建っている。
和田宿は江戸から28番目の、国指定史跡・宿場町です。
日本橋から、49里25町 195.2km
【和田宿・概要】資料より
*和田宿(長野県長和町)は江戸時代初期の慶長7年(1602年)に
中山道(享保元年:1716年以前は中仙道)が設定された事に伴い
慶長8年(1603年)頃に開設された、江戸板橋宿から28番目の宿場町で、
慶長19年(1614年)頃に完成されたと推定されています。
宿場町として成立する以前は、和田城の城下町として中町・下町が既に町割りされ
ていましたが、改めて上町が町割りされ、さらに周辺の雨原、細尾、鍛冶足、
久保などに集落から人家を集積し、江戸時代中期の正徳3年(1713)には船場、
新田を宿場町に組み入れています。
江戸時代後期の天保14年(1843年)「中山道宿村大概帳」には、
和田宿の長さは7町58間(約870m)、人口522人、家屋数126軒、
本陣1軒、問屋2軒、旅籠28軒(大規模12軒、中規模4軒、小規模12軒)で
構成されていました。
和田宿と下諏訪宿との距離は、中山道の中の宿場町間としては最長距離で、
難所として知られた和田峠を控えていた事から、伝馬役、歩行役の負担が大きく、
江戸時代後期の天保3年(1832年)には、馬は延7744匹、
人足は延17759人に上りました。
現在も和田宿周辺には中山道の道筋や町並み、
伝統的建造物(脇本陣、下の問屋、なが井、よろずや)、
交通施設(東餅屋茶屋跡、和田宿本陣、唐沢一里塚・永代人馬施行所)などが
残されている事から国指定史跡に指定されています*
難所であった和田峠(1600m)の入口にあり,標高820メートル余りの
静かな山里で、参勤交代で通行する大名は34家で、
下諏訪宿まで5里18町(約23km)と距離があったため,荷駄を運ぶための
伝馬役が、最盛期には70軒ほどあった。
和田宿は東口から原、新田、橋場、下町、中町、上町に区分けされていました。
すすんですぐ右手に道祖神があり、その先は学校下のバス停と奥にモダンな小学校。
この付近は新田地区。
和田小学校を過ぎて中学校手前に和田神社の鳥居が立ってます。
社殿は500mほど奥に鎮座しているそうでが立ち寄りはしませんでした。
(帰宅してから判ったことですが、和田中学はこの春に閉校になったようです。
どうりでバス乗っていた中学生らしい生徒は、長久保まで乗っていたはずです)
街道らしい右に左の曲がる道筋を行きます。
和田の原バス停を過ぎて、右に曲がりきったところに和田城主大井信定が
城の鬼門除けに建立したといわれる、八幡神社があります。
神社の手前には道標と国史跡の指定碑がありました。
旧和田城の鬼門の方角に建立され、後に和田宿の守護神となった。
社殿は拝殿と、本殿を収めた覆屋とを併合した一間社流造。
棟札には享保6年(1721年)建立とある.
拝殿と覆屋を合併した建築は大変珍しそうで、
資料には、入母屋造平入、正面千鳥破風、桁行3間、梁間1軒。
本殿は、白木造の一間社流造の間口1.7m、奥行き1.8mの大きさで、
蟇又に巴紋が入っており、妻の大瓶束が軍配団扇形となっている、とある。
(格子越に覆屋が見えるだけ)
(一間社流造・桁行(正面)の柱間が1間(柱が2本)であれば一間社流造)
街道書を見て、「かやぶき屋根とあるけど、この神社も修復したようね」
とカミさんが言う通り最近葺き直しをしたようで、先の若宮八幡神社の覆屋も
茅葺ではなかったですね。(トタン屋根に見えたが?)
時代の流れ、維持管理を思うとやむを得ないと思います。
でも、茅葺やねの社殿、見たかったな~・・が本音。
御神木、欅(ケヤキ)樹齢推定350年
神社を後に新田地域を歩みます。
和田宿は文久元年(1861年)の大火で殆ど焼失したが、半年後の和宮降嫁に備え、
幕府の威信をかけて短期に復旧したといわれる。
大政奉還された僅か7年前なんですね。
あれ、倒れてるが石仏の様だが? ただの石かな?
民家の脇に湧水の水場と、笹の中に祝言道祖神(平成3年に建てた)が覗いてます。
すぐ先が菩薩寺への参道です。
菩薩寺の開山は大変古く、平安時代・安和2年(969年)といわれ、
本尊は愛染明王。
本堂は武田信玄との兵火により焼失し、江戸時代に再建され、
平成14年完全修復工事がされたいる。
境内前の石橋下は散策道となっていたので、その道を通って街道へ戻ることに。
しばらく曲がりくねった裏道を下って行くと川沿い道に出ます。
川に沿って少し下ると街道を及川橋で渡ると和田宿中心、下町・仲町へと入ります。
和田宿は先述の通り、文久元年(1861年)の大火で本陣、脇本陣、旅籠など
109戸が全焼しています。
しかし数か月後に控えた皇女和宮の宿泊地であったため、幕府の援助を得て
全国から大工を集め、昼夜兼行の突貫工事で、
なんと!なんと!!たった4カ月で全宿場町を復興したそうです。
ちなみに、延べ8万人の皇女和宮一行は、和田宿を4日間かけて通過した!!!、
橋を渡った川沿いすぐの所が「かわち屋・現、歴史の道資料館(大火後再建)」です。
ここは旅籠で、切妻平入、出桁造り出格子の堅牢な造りの二階建で、上客向けの
旅籠だったそうで、江戸末期の建築様式が残されており、
修復が行われ「歴史の道資料館」として公開されてます。
(拝観はそのほか、和田宿本陣、大黒屋、黒曜石石器資料館など
5か所の共通券で300円です)
上客用の別門
入口土間、庭、二階格子から見下ろす街道
裏手に黒曜石石器資料館がありちょと立ち寄り。
和田峠周辺は黒曜石の産地で,旧石器時代の人々はこれを加工して道具として
使用していた。この資料館には男女倉遺跡から出土した石器を中心に展示されている。
両館を係りの方の案内説明を受けながら、ゆっくり拝見、後にします。
「たかき」の屋号で旅籠を営んでいた。
下の問屋跡・山木屋
山木屋の隣は旧旅籠、後穀物商・大黒屋。
先ほどの資料館で説明を受けましたが、建物が街道より少し高くなってたり、
奥に離れてるのは、明治以降、道路改修工事によって道路を低くしたり、
拡張したためだそうです。
重厚な門構え、土蔵建築の江戸情緒たっぷり、「穀屋」
明和2年(1765年)以降名主を務めた役宅跡 羽田家
文久の大火後に建てられた、平入出桁の門付旅籠型の代表的遺構。
「かあちゃんの家」として、地元料理の店として営業されてましたが、
2015年より蕎麦懐石の店「蕎麦や徳田」として営業中。
(朝はカップ蕎麦、お昼新蕎麦を頂きました)
羽田家は現長和町一帯の一族名士でしょうか。
さきの若宮八幡神社に、羽田家先祖の墓がありましたね。
(町長も羽田姓だった)
カミさんは十割蕎麦の田舎蕎麦、私は長和産 信濃霧山十割ダッタンそば(手前)。
(ダッタンそばとは、もともと中国北部に住む民族、韃靼人(タタール人)たちが
栽培していた苦蕎麦なんだそうで、血液をサラサラにするといわれるルチンを
大量に含んでいるようです。ステント留置の今のわしにはぴったりの蕎麦ですね)
「蕎麦や徳田」の脇道を進むと曹洞宗・ 信定寺の参門に突き当たります。
信定寺は天文22年(1553年)に、和田城主大井信定の菩提を弔う為に
建立された。
丁度この信定寺の裏山が和田城跡で、江戸時代には京都二条殿の庇護を受け、
日光東照宮参拝の例幣使一行や、諸大名も和田宿に立ち寄った際には
信定寺に参拝したといわれてます。
(若宮八幡神社境内の大井定信の墓は、当寺の6世来安察伝和尚が建立)
本堂の本尊として安置されている「釈迦如来」は鎌倉時代末ころの作で、
光背台座は江戸時代といわれる。
街道に戻り、道の向かい角に立派な門構は代々長井家が勤めた、和田宿本陣跡。
和田本陣冠木門
和田本陣屋敷門
(図をもとに再現された由)
解説板によると、
当時の本陣は大名が泊まる「座敷棟」と、本陣の所有者が寝泊まりしていた
生活棟のいわゆる「居室棟」に分かれていたが、現存しているのは居室棟の方で、
皇女和宮が宿泊したという「上段の間」などがあった座敷棟や座敷門は
移転(売却)され失われてしまった。
その後、昭和59年までは和田村役場として使われいた事もあった。
役場移転で解体の危機にあったが、昭和61年に「居室棟」と一部残されていた
座敷部分を解体修理復元され、本陣跡として一般公開されている。
昌葺きに石置きの屋根。
係りの方に案内していただきながら見学させていただきました。
旅籠屋を営み「年寄りを勤めた石合家。
典型的な旅籠屋の外観を残されている。
先日通った、長久保宿本陣と同名の家であるので、同族であろうか
上の問屋を勤めた、米屋鐵五郎、現「和田宿休憩所」
その隣は、和田宿で唯一営業していた「本亭旅館」、跡になるかな。
昔は名主だった長井氏の屋敷を改築した建物といわれ、中山道を旅する人に
大変人気のあった宿だったが、2012年に営業を停止。
これにより和田宿での宿泊は不可となってしまった。
(少し荒廃した感じでしたね)
向かいは今朝バスに乗った、上和田バス停でその左手が、
和田宿には翠川氏と羽田氏の2軒の脇本陣があったようで、
大火後再建され、現在残っているのは公開はしていないが、御殿部分で、
上段の間、二の間、脇上段など当時の部屋がそのまま残こされている由。
(朝写した写真)
宿場の中心、下町・中町から上町に足を進めると火返しの卯建が備え付けられた、
江戸期に質屋と両替商を営んでいた「よろず屋」が建っていますます。
和田宿もそろそろ京方の口が近づいて来たようです。
不動明王が安置されたお堂を併設の上町公民館を過ぎると・・
上町中バス停前に高札場跡があります。
跡地に立っている案内板によると,
今は平らなところに立ってます。
高札場跡の先で街道は曲がり、桝形でこのあたりで和田宿は通過したようです。
和田宿を抜けると街道は傾斜を増し、和田峠へと向かいます。
広重画・和田宿は和田峠ですね。
和田宿の外れ上町標識、そして振り向けば浅間山。
みちはくねくねとアップダウンを繰り返しながらも少しずつ上って行きます。
民家の土壁蔵脇に双体道祖神。
鍛冶足バス停を過ぎ、和田鍛治足交差点で国道142号線を横断、斜め左の道筋に
入ります。
交差点に日本橋から五十里目・鍛治足の一里塚跡があります。
(単純計算で日本橋から200km!ですが、実質的には200kはもう少し先か??)
傍に道標「左松澤歩道 右諏訪街道」があります。
一里塚跡を過ぎしばらくはゆるい坂道を上って行き、茅葺屋根の大出バス停を見て
すぐの二股を道標に従って左手へと入ります。
大出川沿いの大出集落の細い道を上って行くと、先で国道142号に合流します。
国道142に合流し、この先は唐沢集落まで民家が無いようです。
旧中山道は、昔は国道に合流するこの辺りからは、国道の左手を流れる川沿いの
道だったそうですが、現在は川に削られてほとんど残っていないそうです。
写真、左上の右側坂道が歩いて来た道
国道山側に二基の石碑が建ってるが何の石碑か・・
国道山側に導管が有って、左下の大出川に発電所があるようです。
振り返ると浅間山。
以前は酷かったのでしょうね・・ご利益があった様で付近は綺麗です。
まさに国道(酷道)、ぽつんぽつんとドライブインが有るがだけの、
歩道のない道は、後ろから煽られないよう右側を車と対面で歩きます。
前方からの大型車には通過するまで足を踏ん張って立ち止まります。
食事処「杉の屋」の街道沿いの杉木立の足元に、男女双体道祖神と中山道石柱
があります。
街道書には
「ここに二軒の茶屋があり、うち一軒は「塩つけ宿」と呼ばれる中牛馬稼ぎの
宿泊所であった。信州の特産品を上州(群馬)まで運び、帰路は貴重な塩を
持ち帰った」とあります。
また別の資料には、「昔,幕府の用材の木曽檜を牛に載せて江戸に運び,
この牛を泊める宿」があったとありました。
牛宿があったようですが、見渡してもわかりませんでしたね。
峠への道もこの辺で標高は910mくらいだそうです。
しばらく先へすすむとやっと左側に歩道らしきものが見てきました。
やれやれ一安心です。
「あら、かぼちゃよ!」の声にt近づくと、道路脇にごろごろ小さめの南瓜が
実ってます。
どうも側の農作物処分のところから発芽して育ってしまったようですね。
「このあいだ、庭に埋めた残廃からも芽が出て抜いたばかりだね」
しばらく先で扉峠への道が分岐し、左側のライブイン和田峠の敷地に
茅葺屋根の扉峠バス停が現れます。
(扉峠への道は、朝の道路情報では降雪で通行止めとなっていました)
旧中山道は国道142号線から、右手の側道に入って進み(写真左)、
和田川を渡って、再び国道142号線に合流(写真右)します。
道路右手に大きな石灯籠のあり、向かい側の道路左手に
緩い上り坂の道が国道から分岐してるが見られます。
この道は古道で古中山道と呼ばれ、先には日本橋から51番目の唐沢の一里塚跡が
両塚とも残されてます。
天保2年(1831年)以前に街道の付け替えがあり山中に取り残されたと
言われてます。
すぐ先で旧中山道は国道142号から右手に分かれて、坂を下って行き
峠手前、最後の唐沢集落を通って和田峠へと通じます。
今日の歩き旅はこの分岐点、唐沢下バス停にて足止めとしました。
(資料等から計算すると、この付近が日本橋かえら200kmになるようですが)
ここから和田峠越えの入口、男女倉口まで約1.5kmです。
今日の峠情報では降雪との表示もありました。
先には中山道最難関の和田峠越えが待ってますが、峠越えは年を越して
来春の雪解けを待ってとなるかな~・・・
PM2:19のバスにて車を停めた道の駅・和田宿ステーションへ戻り、
帰路へ。
「まだ歩き残してる碓氷峠越をしなくしなくてはね」て
カミさんがノリノリです。
和田宿マンホール蓋も和田峠
第18回、おわり。