*ひょいと歩き出した東海道五十三次。
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*
11月3日に歩き残してた「碓氷峠越え」を果たし、街道は江戸から
28番目・和田宿へ一本線に継ながりました。
最後の急登を曲がると、でた~・・切通しの先は塩尻峠の十字路になった広場。
松林の右手を少し上ったところが頂上で、標高1055m。
白い展望台が設置されてます。
AM11:45
峠には松本藩領と諏訪藩領との郡境の宮として「富士浅間神社」が祀られ、
「明治天皇塩尻峠御野点所」などの石碑群が在ります。
ちょうど昼頃なのでここで昼食にするか、峠を下って、側を通る高速道の
みどり湖PAまで足を伸ばすかを話し合うと、
カミさんは「トイレのあるPAにしましょう」ということで峠を下ることに。
決まるとカミさんは、さっささっさと急坂を下っていってしまいました。
お~い、展望台は・・まあ、いいか、
右手奥には展望台が在りますが、寄らずに峠を下ってしまいました。
栄泉画の塩尻峠「諏訪ノ湖水眺望」は冬景色。
氷結した諏訪湖渡りが描かれてますね。
塩尻峠は5差路になって、北に向かう尾根道に向けて、大きく
「塩嶺高ボッチハイキングコース」の案内がある。
坂を一気に下ると家屋が見えてくるのが、寛永8年(1796年)建築の
「上条茶屋本陣跡」。
本棟造り、門、玄関、上段の間、次の間などが残されているようです。
皇女・和宮も休息したようです。
江戸時代に本陣を勤めた上条家は、子孫の方が今もここに住まわれています。
向かいに「明治天皇塩尻御膳水」と書かれた碑があり、後ろに井戸が残されて
いました。
あの山は?
カミさんの声に左手を見ると、ゴツゴツとした雪山が望遠できます。
デジカメをアップで覗くと「木曽の御嶽山」でした。
もう10年も前になってしまいましたが、カミさんと初めての山小屋泊りで
登ったことがありました。
山上湖が綺麗だったわね~・・てカミさん。
(10年前、思い出の御嶽山頂湖、三の池)
下り道は木柱道標に夜通道(よとうみち)とありました。
塩尻側に住む美しい娘が岡谷の男に惚れて、毎夜この道を通って逢いに行った
という伝説があるんだとか。
追いはぎも出たと言うこの峠道を、若い女性が一人で通るなど信じられませんが
ちゃんと護衛がついていたかな??
夜通道の杉林の中に親子地蔵尊。
天明の大飢饉時、行倒れになった旅の親子を供養のため、享保元年(1716年)
に建てられたそうです。
さらに道を下ると左手にこんもりとした小山があり、
江戸から57里目「東山の一里塚南塚跡」
街道書によると「元和2年(1616年)塩尻峠が開通し中仙道が牛首峠経由から
塩尻峠経由に変更された際に築造された」と在ります。
ゆるやかに降り切ったところで、左から登ってくる道と交差した。
右手に分かれて山へ登る方向の道は「高ボッチスカイライン」と呼ばれ、
10kmほど北のレンゲツツジで知られた「高ボッチ高原」への道。
高原は高ボッチ山( 1665m )からその奥の鉢伏山( 1929m )に連なる山頂周辺に
広がる高原で、毎年六月中旬頃に、「レンゲツツジ」が一斉に花を咲かせることで
知られ、数年前には何度か高原車中泊で訪れたことがあった懐かしい高原です。
(思い出のレンゲツツジ)
高ボッチ高原では牧場内の草原コースで草競馬も開催されるんです。
山道のマンホールの蓋にデザインされてます。
さて、中山道に戻りましょう。
坂道をさらにくだると右手杉林の中に旧東山村の鎮守、東明神社と道脇には
地域は東山、集落が近づいてきました。
遠くの山並みは何処でしょうか?
今日出合った何組目かのご夫婦が峠越えへ向かって行きます。
おっ、「雀おどり」だよ! 独特の屋根飾り
峠道は国道20号の峠道に接し、すぐ右手の脇道へ進みその先で国道と合流します。
少し先で再び右手の上り道へと向かいます。
紅葉の緩い上り道を進むと、
唐松林が黄金色に輝く、のどかな里山が広がります。
右手、唐松林の斜面に大きな石碑があり、「牛馬守護神」とありました。
街道には道祖神、庚申塔、馬頭観音などいろんな石仏石塔がありましたが、
「牛馬守護神」は初めてと思います。
街道書にも解説は記載されておらず、帰宅して調べてみたところ、
民俗信仰の荒神様という信仰があり、そのなかに、大事な大切にしていた
牛馬の安全祈願と、子ども達の健やかな成長を祈ってお参りした
牛荒神があるそうで、その神を祀ったのでしょうか。
話は違いますが、よく神社などの神馬厩に猿の彫刻がほどかれてます。
日光東照宮の三猿が有名ですが、
その解説の中に
「厩神を祀る多くの地方では猿が馬の守り神とされており、厩の柱の上に
厩神の祠を設け、猿の頭蓋骨、または猿の手足を神体として納めていた。
また猿の絵を描いた絵馬やお札を魔除けとして貼ったり、季節ごとに馬の安全を
願う祭礼として、厩の周りで猿を舞わせる風習もあった。
大道芸の猿まわしはその名残りである」と書かれた書もありました。
牛馬守護神の少し先で左カーブし、右手の宗教団体系の施設石垣沿いに真っすぐ
下ってくると国道20号と交差します。
そこには信号も横断歩道も無く、左手に横断地下道が作られてますが・・
車の行き来を見極めて、それ!渡れ・・
渡った右手は新しそうな施設はワイナリーが在りました。
駐車場から雲間に雪山が・・乗鞍?穂高?
街道は右手土手に、伐採されてしまった防風林の切り株が続く坂道を下ります。
土手の上は少し前までは松本営林署塩尻種苗事業所の苗畑だったそうですが、
現在は国道沿いに在ったワイナリーのブドウ畑が広がってます。
土手下に植えられてるのはカリンのようです。
土手道が途切れたところで、下を長野自動車道が通る跨架橋に出、
左右に登り下りのみどり湖PAがあり、橋周辺にはPAからの高速バス利用者用の
駐車場が用意されていて数台の車が駐車してます。
バス利用者用の階段を下り、パーキングで昼食と足休め。
リックには途中で買ってたサンドイッチなども入ってましたが、
信州と言えば蕎麦がいいで、 美味しかったです。
さしずめPAは「車茶屋」とでもいえるかな。
ゆっくり足休めもしてPM1:30、再び街道歩きへ復帰します。ハウスの並ぶ畑脇に嘉永6年(1853年)建立の馬頭観音。
いままで数えきれないほどの馬頭観音を目にしてきましたが、
街道旅を始める前によんだ資料によれば、
「馬頭観音は六観音のひとつで、宝冠に馬頭をいただき、忿怒(ふんぬ)の相をした
観音菩薩(ぼさつ)。
魔を馬のような勢いで打ち伏せ、慈悲の最も強いことを表すという。
江戸時代には馬の供養と結び付いて信仰されるようになった。
石仏として像立され始めるのは、近世中期ころ、死馬の墓標として造立され
るようになります。
初期は像塔が多いが、次第に文字塔に移り変わってきた」そうです。
地区は柿沢地区。
手入れされた生垣の落ち着いた家並の柿沢集落坂道が続きます。
小春日和の信濃路の里
馬頭観音のウンチクを話しながら歩いていて、、街道書に記載されてた
武田、小笠原の塩尻峠合戦の戦死した小笠原勢の亡骸を埋葬した「首塚胴塚」への
案内板を見過ごしていたことを、しばらく先で気が付いた!!
右手に双体道祖神
あれ、「柿沢公民館」の案内板の文字、書体が癖文字だ、
家並みは、峠を控えての立場だった柿沢集落です。
大きな蔵が目立ち、中には屋号が記されている蔵もあります。
「雀おどり」と言われる棟飾りを上げた、本棟造りのおおきなお屋敷が続きます。
街道書によれば、
本棟造(ほんむねづくり)は、長野県の中信地方から南信地方にかけて分布する
民家の形式で、切妻造り妻入り、ゆるい勾配の屋根、雀おどしと呼ばれる棟飾り、
正方形の間取りなどが特徴で、豪農などの印でもあったようです。
見た目にもどっしりとした、家全体に風格がありますね。
左手に高札場跡
旧家風情の大きなお屋敷塀脇に「道祖神」
お屋敷の左手、倉の下にある石仏は「七観世音」とは珍しい!
七観音とは
聖観音 千手観音 十一面観音 馬頭観音 如意輪観音 不空羂索観音 准胝観音 だそうです。一度に七観音様をお参り、ご利益をいただける?
観音様の呼び名で親しまれている観音菩薩は、仏教発祥の地インドで誕生した
仏尊です。仏教の伝来と共に中国経由で日本へ渡って来ました。
観音菩薩には、様々な姿に変身して私達衆生を救うという性質もあります。
あらゆる輪廻からの救済と、あらゆる現世利益的な功徳に対応出来るとされている
のが七観音なのだそうです。と街道書にはありました。
道路を跨いだ大きな鉄骨製鳥居のようだが、中山道をまたいでいる。
これは首塚の交差点を反対側に入った、丸山にある八幡神社の鳥居だそうです。
街道は火の見櫓の二股を左の道へ進みます。
ほどなく川沿いになり、ここで左側から来た国道153号に合い、
中山道は、そのまま国道153号に吸収されて右手へ橋を渡って進みます。
国道を少し行くと右手に道祖神が二体。
二体とも双体道祖神のようですが、左のは抱擁道祖神で、「お女郎道祖神」と
呼ばれてるとか。
道祖神の脇道を入ってもう一本北側の道へ抜け出て、柳の見事な大木、
そして大きな山門を構えた「永福寺」へ立ち寄ります。
寺伝では、1521年に近くの長畝に臨済宗の長福寺として開基されたといいます。
そこが、古い塩尻宿の北の入り口だったと言われている。
その後、中山道塩尻宿の成長にともなって1634年、宗旨を真言宗に変え、
上町の南(長福寺跡)に移設された。
やがて塩尻宿が建設され宿場町として成長すると、さらに1704年に現在地に
移設され寺名を永福寺にあらためた、とあるそうです。
石柱に木曽義仲ゆかり寺と彫られています。
永正年間(1504~21)木曽義仲の末孫である義方上人が,義仲の 菩提を弔うため,義仲信仰の馬頭観音を本尊とする観音堂を建立する。
義仲は、挙兵して平家を京洛から駆逐したことで征夷大将軍の位をおくられ、
朝日将軍と尊称されたことにちなみ、この観音堂は朝日または旭観音堂と
呼ばれるようになった。
その観音堂はその後、焼失してしまい、1855年に二代目立川和四郎の手で再建
されのが現存のお堂です。
入母屋造りの茅葺屋根が美しく、塩尻市有形文化財となってます。
観音堂の前には馬の銅像が立っていまが、木曾義仲の愛馬「鬼葦毛」かな。
仁王門(山門)は、和四郎の弟子立、棟梁立川(立木)音四朗種清の手により、
三間一戸、入母屋、桟瓦葺き、総欅、楼門形式で,明治27年(1894年)の建立.。
屋根に雀踊りを載せた本棟造りの庫裏
あら、この木、何か変よ!のカミさんの指さす木を見ると、
えっ、イチョウの木に桜の木が!!
イチョウと桜の古木が一本にくっついてしまったんですね。
(そういえば間の宿茂田井で梅ノ木にモミジが生えていたね・・)
街道に戻るとくっきりと乗鞍岳・・8月にご来光バスで登ったね、
永福寺山門前の道を、そのまま200mほど行くと国道153号との仲町T字路で、
その手前に江戸から58番目の「柿沢の一里塚跡」の石碑が置かれてます。
(平成26年に建てられたものだそうです。宿内は遺構現物はほとんどありませんが、
跡碑などは良く整備されてます)
その先で国道に合流地点が塩尻宿の江戸口になるようで、新設された風情の
塩尻宿は、
江戸から58里3丁,30番目の宿。
当初の中山道は下諏訪から三沢,小野,牛首峠を経て贄川(にえかわ)宿桜沢へ通じ,塩尻を通過していなかったが,元和2年(1616)現在の道となり
,中山道・伊奈街道(三州街道)・五千石街道・松本道(→千国街道)と
交通の要衝であり,名の示すとおり牛馬で運ばれてきた日本海からの北塩と
太平洋からの南塩が出会った南北「塩の道」の最終地点として、
中山道成立以前からの宿場として賑わった。
中山道では旅籠数二番目の多さ,飯盛り女を多く抱え,歓楽を売り物に旅人以外に
近在からも宿泊客を集め賑わった宿場である。
文政11年(1828)と明治15年(1882)の二度の大火で江戸時代の建物は殆ど焼失。
宿往還の長さ8町28間余,道幅2~3間。
慶安4年(1651)の塩尻宿書上帳では家数119軒・人数828人、
旅篭は45軒、
幕末の天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」では家数166軒・
人数794人,本陣:1,脇本陣:1,旅籠:75軒 であった。
(人口が減ってるのはなぜでしょうね)
道の向かいには大きな馬頭観音
その先左手の倉手前、木柵で囲まれたところは宿の京方に鎮座する
阿礼神社の「御旅所」だそうです。
50mほど先に左手へと道があり、角に「三州街道」の道標碑が建てられてます。
南に進む道が、諏訪湖近辺から天竜川に沿いつつ、伊奈飯田を経て三河へ至る
南(表)「塩の道」であったそうです。
名古屋市を起点とする国道153号には、「三州街道」の愛称があるのだとか。
「塩の道」と言へば、何回か歩いたわね、てカミさんが思い出してました。
数年以上前になりますが、毎年5月の連休に、信州信濃の小谷、白馬、大町で
開催される「塩の道祭・(街道ウォーキング)」へ参加し、野山の道を歩きました。
いまこうして旧街道を歩いてるのも、その時の楽しさが素地になってるのかも
しれません。
(思い出の塩の道まつり)
二度の大火で宿場のほとんどが焼失し,江戸面影は極めて少ないですが、
石柱や案内板が設置されており、旧中山道塩尻宿の影を想うことができますね。
20mほど先右手に
塩、米、材木、女人等を取り締まった「松本藩塩尻口留番所跡」。
少し先に「十王堂跡」がある。
脇に5~6基の石塔群,庚申塔や何とも可愛らしい双体道祖神もある。
(十王とは、地獄において亡者の審判を行う閻魔大王をはじめとする十人の王の
総称です)
松本を経由して糸魚川に至る、北(裏)「塩の道」五千石街道碑
諏訪藩の飛び地となった、5千石の領地巡見のために作られた街道。
ここから松本市内牛つなぎ石先までおよそ16kmの道である。
(街道書より)
五千石街道碑から数分先,右手に「小野家住宅」
塩尻宿に唯一残る江戸時代の建物で、国重要文化財。
宿場町の有力商人で大地主でもあった「いてふや」の屋号で呼ばれていた旅籠で,
文政11年(1828)の火災後の建築とされる。
間口8間で奥行き40間の広壮な屋敷で、主屋2階の客室5部屋はいずれも
絵画・装飾が施され,とくに「桜の間」は,天井・板壁・天袋小襖に桜の極彩色の
絵が描かれているという。
東棟と西棟があります。
つい最近、修復されたのかな、綺麗な建物でした(惜しいかな未公開)
向かい住宅脇に、飛脚問屋跡碑が建ってます、
その先すぐの並び空き地に、上問屋跡碑
右手郵便局隣が高札場跡、下問屋跡の碑
郵便局から10m位先の道の左手は、「本陣跡」
当初小口家が勤めていたが,平林家に替わり,明和8年(1762)以後は川上家が
務めた。
屋敷は間口24間,建坪367坪,門構え,玄関付き。造り酒屋を兼ね,
裏の宿場用水の南に酒造場と酒蔵があった。
中山道の本陣では最大であったが,明治15年(1882)の大火で焼失。
さらに向こう隣りは脇本陣跡
脇本陣は,
本陣の西隣りにあり,本陣・川上家の分家、川上喜十郎が勤めていた。
建坪270坪,門構え,玄関付き,同じく明治の大火で焼失したが,
奥の庭園は昔の姿を残していると云う。
すぐ隣りに「塩尻陣屋跡」
塩尻宿は慶長10年(1605年)以降は天領となり、享保10年(1725年)には
幕府直轄領となって陣屋が置かれていた。
現在陣屋跡は、「さかばやし」がつりさげられている明治16年創業の造り酒屋
「笑亀酒造」
創業明治16年とあるから、大火の後に創業したのだろう。
海鼠壁の穀藏は国登録有形文化財とか。
100mほど進むと歩道橋の有る信号機のない四差路で、中山道は国道152号と
分かれ右に折れていく。
左手歩道橋階段下に「駕籠立場跡の碑」と右手階段脇角に「塩尻宿鉤の手跡」の
石碑がある。宿場特有のいわゆる”桝形”である。
中山道を鉤の手に曲がるとすぐに阿礼神社。
社殿は将軍綱吉時代の寛保三年(1743)に再建したものだが、古くは坂上田村麻呂や
木曽義仲も参拝したという長い歴史を持つ神社である。
例大祭は、塩尻祭りと呼ばれ、近隣から山車が7台が集結し、神社神輿は
宿内へ入ってすぐ左手にあった、御旅所まで巡行されるようです。
実に愛嬌のある狛犬ですね。
神社と隣りの小学校前の道が桝形に左手に曲がり、小学校門前に
「是より東 中山道 塩尻宿」の道標が有り、宿の京方(西口)でした。
地域は堀の内、お屋敷の塀に囲まれて男女双体道祖神
その先に旧堀の内村の名主を務めた、堀内家住宅(国重要文化財)でしたが、
保存修理中でテントで覆われてました。
ちなみに、国重文ですが、
発注者名は 堀内家の家人名(個人での保存修理なのでしょうか?)
工事請負は「田中社寺株式会社」とあり、
国宝・重要文化財保存修理工事の専門会社でした。
200mほど先の大小屋交差点で国道153号と交差する。
交差角に「蟲玉大神」「秋葉大神」「庚申」「道祖神」「南無妙法蓮華経」の5つの石碑が並ぶ。
国道を渡りさらに左手の細い道へが中山道です。
住宅の並ぶ小路を行くと川沿いになり再び国道に合流、橋を渡って南へ進みます。
橋の上から西北の雪山は北アルプスの嶺
橋を渡り150mほど南へ足を進めると
下大門三叉路の交差点。
左手へ曲がるのが旧中山道。
国道152は右手へとカーブしてゆき松本方面(松本街道)へ向かう追分です。
今日の旅はこの下大門三叉路が足止地点。
このまま三叉路の真ん中の道へ入り塩尻市街地へと進み、塩尻駅へ向かいます。
現代の塩尻市中心街は、塩尻宿から約2kmほどはなれた塩尻駅周辺になってます。
鉄道駅と宿場町が離れてることが結構多いですね。
カミさんが「鉄道敷設計画時に、塩尻宿周の方々の反対があったのかしらね」
PM3:30 塩尻駅前へ。
遠回りになるけど北アルプスを眺めながら帰ろう、と長野道を走り松本、安曇野
周辺で夕日を受けた北アルプスの雪山の嶺々を眺め、上信越、関越と走り
PM8:00、旅を終えました。
(塩尻宿の民家に咲いていた秋ばら)
第20回、おわり