*ひょいと歩き出した東海道五十三次。
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*
平成30年4月29日(昭和の日)12時10分
来たぞ~来れたわ~の感激「中山道中間地点」。
江戸からも京都からも六十七里三十八町(268km)。
そして木曽福島宿へ到着して第24回を終えました。
GW後半、
「5日のお天気の崩れはなさそうよ、もったいないから歩き旅はいかが」
とハッパ?が掛かり、急遽旅立ち決定。
いつものようにみどり湖PAで塩ラーメンで朝食。
駐車予定の福島駅への途中に迂回して、前回の旅で立ち寄りしなかった
家並みを見に。
明治末期頃から木曽谷の狭い土地を有効に使った、床を川に張り出して造られた
崖屋造りと云われる家です。
町の通り側では1階・2階建ての家が川側へ回ると3階・4階建てとなっている。
積み木を重ねたような多層にせり出しているところが迫力満点で、
独特の風景を醸し出している。
わ~すごいわね~・・・でも怖い・・てカミさん。
(せっかく行ったのに写した写真はピンボケ・・アップは拝借写真)
寄り道しながら、AM7:35木曽福島駅駐車場着。
駐車の手続きやトイレを済ませ、少し風は冷たいが快晴の空の下での
AM8:00、25回目の夫婦歩き旅の旅立ち。
旅の予定は中山道・江戸から37番・福島宿~38番・上松宿、2里14町9.4Km
そして39番・須原宿・3里9町12.8Kmへの中間、街道沿いの倉本駅前までの
約16kmです。
駅前広場の右手、宿や食事処、観光センターなどの立つところは、建物の裏手は
きり落ちた崖でそこにコンクリートや鉄骨の土台を築いて建てられてます。
一部が表は2、3階建てですが、木曽川沿いは4.5階建てになっている建物も
みうけられます。
写真、正面奥の方へ中山道は通じていて、すぐ下ったところに建つのは御嶽神社。
中山道は左手の坂道へ登って行き、途中から細い側道をすすみ木曽町役場方行へ
向かいます。
左の舗装道路を行っても役場へ出ますが、案内は右の側道になってます。
役場に突き当り、旧道は木曽町役場に沿って右に、そして左へと曲がっていく。
旧中山道は役場の敷地内を通っていたのかな?
段丘上の草道を下り、合流の街道らしい細い道を左手に向かうと段丘の中腹の
塩淵集落です。
木々に阻まれ右手は見えませんが、かっては急斜面で下は木曽川の淵が
あったようですね。
塩淵地名の由来板が建ってます。
左側のところに、江戸から70番目の塩渕一里塚跡を示す石碑と白い木柱、
中山道と記された標識が立ち、壁に木曽路十一宿の案内板がありました。
庭に大きな藤棚、白藤があさのひかりに綺麗です。
山の傾斜地中腹に石仏石塔群。
この先、道は下りとなり塩淵交差点で、福島駅から直接下ってくる沿道に合流し、
すぐ先で県道461(旧国道)に合し、先に中部北陸自然歩道道標が建ち、
左手へ分岐しのての脇道坂へと道筋を変えていきます。
徐々に高度があがり、旧国道、さらに右手はとうとうと流れる木曽川。
堰堤ダムが眼下に見えてます。
資料によると、なんとずっと下流の「関西電力寝覚発電所」で使う水を取水するためのダムだそうです。
道の山斜面には、所々で群落を作って雑草のようにニリンソウが咲いてます。
右下に並行する県道461号線、木曽川。左手山側の上の方には国道19号、
JR中央線が通っているんですね。
300m程坂を上りきると比較的広い道路に出て「中平立場跡」の案内板が
建っています。
広めの車道を4.5分ほど行くと、左右への分岐になり、
左手の国道19号の陸橋下を抜けて行く道への、道標がありました。
陸橋下を抜けを抜けた正面に、どっしりとした石積み造りの中央線の廃線トンネルが
現れます。
煤焼けの黒ずんだ石積みは蒸気機関車時代から、そして電化されていた時代の
架線柱も残っていますね。
旧線は中平集落の山手側を通っていたようです。
(ちなみに新線は木曽福島を出てすぐに、長いトンネルでこの山腹を抜けてます)
本来の旧中山道は左手に山側へと続いていたそうですが、今は消滅のため
右手に陸橋下を回り込んで先の階段を上り、一旦国道19号へ合流します。
国道19号を少しくだると右手(写真では左手)に冠門のようなものが建ってます。
先ほど消滅していた旧中参道はここへ通じて、国道を横断して右側の山の方面へ
続いていたのでしょうか??
19号に合流して100mほど下ると、県道461が左手から登ってきます。
(振り返って、左、県道 右、国道)
木曽福島の街並みへは県道を行くの標識が立ってます。
さらに300mほど下るって左手を見ると、山側を下ってくる道がありました。
道の入口に「中山道を歩く方はこの先通行できません。
国道19号線沿いをお進みください」 との標識がありました。
あのトンネルがあった付近からの、消滅した旧中山道の京方面の道が、
ここに出てきていたんですね。(写真、振り返って)
すぐ先が木曽川を渡って木曽の御嶽山へ向かう分岐、本橋交差点になります。
右手に橋を渡ってゆくと、あの木曽の御嶽山への道筋です。
三度ほど、この橋を御嶽山登りで渡ったことがありました。
本橋交差点で左手へ渡ると、すぐ先で左折して中央線のガードを潜り
「神戸(ごうど)」というのどかな里山集落へ入って行くと・・・
花園の里路へとなって、ゆっくり楽しみながら歩きます。
カミさんが、わ~綺麗!と声を上げたのは、ツツジ?アザレア?
花園里の集落を抜けて杉林に入り右側の階段を上ったところが、村人や旅人が
遥拝所は御嶽山の東西南北4ケ所に設けられていて、ここ神戸(ごうど)は南の
遥拝所で、鳥居は寛永9年(1631年)以前からあったといわれ、現在の石製の
鳥居は文政4年(1821年)に建てられたもののようです。
木曽路で御嶽山を仰ぎ見ることができる場所は、ここと鳥居峠だけだそうですが、
鳥居峠では眺望できたが、ここでは木々が生い茂り今は見えなくなってしまった。
少し先になると崖の中腹の道となり、崖下に中央線、その右手が国道19号、
さらに右手下には木曽川と展望が開けてきます。
足休めとトイレ休憩で寄りたいのですが直接下る道筋が判らず、街道書に記載されてる
少し先の国道合流地点まで行き、戻って立ち寄りすることに。
少し進むと右手がますます開けて「あら、あの雪山は!!」とのカミさんの声に
すこし振り返ると、みえた~!!ど~んと「木曽の御嶽山」の雪山の姿!!
しばし足をとめて眺めましたね・・
先の広くなった草原に「あらあら、蕨がいっぱいよ」カミさんの声。
ははは・・街道は山菜の宝庫でもありましたね。
すこし下って央本線のガード下を潜り、国道19号線に合流。
車の途切れを見極めて、それ!と小走り横断して「道の駅」方向へと戻ります。
木曽川の対岸に新しそうな神社風の大きな建物が見えてます。
御嶽神社?いや、違うね~・・
御嶽信仰のを御嶽教として結成された、教団としての本宮のようです。
奈良県に里宮本宮もあるそうですが、詳しいことは割合。
AM10:15、
道の駅は、さすがGW中、大変な賑わいです。
トイレを済ませ、建物脇の御嶽展望所のベンチでしばし足休め。
私達にとっては、十数年前になりましたが、夫婦で初めて山小屋泊りを体験した
懐かしい山もありました。そのご紅葉時期や、山頂まで直登コースでなど
三度ほど登ったことがありました。
雪を残した泰然とした山容を眺めながら、しばし思い出山談義。
(思い出写真・宿泊の五の池小屋へ下る)
御嶽山は最近では、あの痛ましい大噴火ががありました。
被災された方々へ心で祈り、しばしの休憩を終えて旅へ戻ります。
さきほど中央線のガードのところで、再びそれ!と左手に渡ると、
名古屋・133kmの表示があり、その先で左手への分岐が見えてきます。
分岐の道標とおり、坂道を上ると板敷野集落(旧沓掛集落)で数軒の家があり、
すぐに分岐で道標が有り右手へ進み、さらに分岐で右手は国道へ下って
しまいますが、街道は家屋の建っている左手へと進んでゆきます。
カーブを描いてゆるく登て行くと、すぐに中央線の線路沿いになって、
舗装道はすぐに線路とはなれて右手へ坂を下ってますが、
「お~い、そっちじゃないよ~」
くだりかけたカミさんを呼び留め、進む街道は線路沿いの狭い草道。
草道を下ると、車の停まってる先に木立を乗せた小高い塚のようなものが見え、
案内板によれば、旧中山道は観音堂の前(左手)の線路側を通り南の旧観音坂を
下っており、現在のお堂はなんと江戸から71番目「沓掛の一里塚跡」の
南の塚跡の上に、鉄道工事の際に移設されたよすです。
(木曽義仲の伝説)
古道の観音坂は消滅で、新観音坂とでもいうのかな?舗装道路に戻って
道を下ると、木曽川の崖上を並行する旧国道に合流です。
合流地点にも、取り壊された西側の「沓掛一里塚跡」の石碑と案内板がありました。
道は木曽川側の切り立った崖上で、木々の隙間から木曽川の青い流れが垣間
見えてます。
旧国道は今は車の通行も少なく、川音、木々を揺らす穏やかな風音が
心地よく耳に届きます。
(持参案内図によれば、現国道19号は少し福島寄りで木曽川を
「かけはし大橋」渡り、木曽川右岸を通ってます)
10分ほど行くと前方に赤いアーチ橋が見えてきました。
木曽八景のひとつ木曽の桟(きそのかけはし)があったところです。
このっ付近は、木曽川の流れが削った深い断崖絶壁に、川に沿って木や藤蔓などで
作られた木の桟道が架けられ約100m程に渡って続き、中山道一の難所と
言われていたそうです。
(付近の住民の手でかけられ、渡り賃を徴収したともいわれてるようです)
断崖上にテラスのように架けられた桟(かけはし)は、旅人の松明(たいまつ)で
燃え落ちてしまったが、後に尾張藩が石垣積みにして築造し、現在は旧国道の下の
石積みにその一部を残して、街道の面影をとどめています。
先ほどの沓掛馬頭観音堂の謂れ、
「木曽義仲が木曽の桟で対岸までの距離を目算して、人の言葉が理解できたという
愛馬に「七三間とべ」と命令したが実際には74間あり、馬が谷底に落ちてしまい、
その供養として金の観音堂を作り、堂を建てさせた」
はこの付近の木曽川の物語なんでしょうね。
赤い橋を渡った対岸には、桟温泉旅館が建っており、明治天皇聖蹟、馬頭観音、
松尾芭蕉が訪た「かけはしや 命をからむ 蔦かつら」の句碑や、正岡子規、
種田山頭火の句碑も建っているそうです。
(対岸には渡っていません)
桟を過ぎると左右が開け、ひたすら旧国道を歩いてゆきます。
木曽川の花崗岩の岩々を賽の河原と擬して、賽の河原地蔵が祀られていました
山並みもひくくなり、空が大きく広がってきました。
右手には木曽川が流れ、心地よい風を受けながら街道旅は上松へ続きます。
街道旅は後編へ。