歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅  第25回     福島宿~上松宿~倉本駅 後編

5月5日、AM11:20

 山並みもひくくなり、空が大きく広がってきました。
右手には木曽川が流れ、心地よい風を受けながら街道旅は上松へ続きます。

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後編を始めます。

この先で歩道帯が急に狭くなてしまいます。

今は木曽川沿いに、♭狭いながら~も~嬉しい歩道~♬、で、

一人通れるくらいにの幅を、ガードレールで確保してありますが、

国道19号が対岸に通じる前は両側に歩道が無く交通量も多く、よく旅人の記録に

「しばらく歩道がなくなり、危険を感じながら・・」と記されたり、

街道書によっては「危険を避けて、対岸の国道を行くことを薦める」と記してあり

ました。

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少し先左手に、見落としそうな小さな名札を付けた、新茶屋橋があります。

かっては厳しい崖を避けての高巻き道があって、蕨餅が名物の弥生茶屋があった、

と街道書に記されてます。

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しばらく右側を流れる木曽川を下に眺めながら、心地よい川風を受けて歩むと。

左手山沿いを上がる道があり、中山道の標識が立ってます。

ここも昔の高巻き道かな??、4、5分で旧国道へ下りました。

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道は少し上った様で木曽川が、かなり下に見えるようになり、右岸、左岸を結ぶ

国道19号の橋が架かっています。

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歩行者道の看板が建つ側道を行き、国道19号の橋桁下をトンネルで抜けて

、左手に階段を上がって国道19号へ出ます。

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国道は歩道がなく、幸い大型車の通行は少ないですが、JR線のガードを

用心して抜けて笹川交差点に出て、

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笹沢交差点で右に分岐するのが旧道(中山道)へ入り、大きく左へ回り込むと、

上松の街並みが見えてきます。

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中央線を右下に見て10分ほど歩いて十王橋交差点を渡り桝形に左折すると、

十王橋の橋詰に「上松宿入り口」の標柱が迎えてくれ、高札場跡がありました。

日本橋から38番目、かっては木材の集散地として賑わった上松宿の江戸口に

出ました。

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上松(うえまつ)宿は、江戸から72里3町24間(約283.1km)

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、

家数は362軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒で、人口2,482人。

 江戸口は十王沢(昔は小野川)に架かる橋詰に、地蔵尊を祀った十王堂が

建っていたが、慶応3年(1867年)の大洪水で流失してしまったいう。

しかし、75年後の春の彼岸に地蔵尊が発見され、ほかの場所にあった馬頭観音

など石仏石塔群とともに、この高札場跡に祀られた。

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説明板は高札場を現わしたのかな?

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十王橋を渡ってすぐに左手へ桝形の曲がり(家と家の間の道)左手へ進むと上町です。

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 上松宿はたびたび火災にあっているが、特に昭和25年(1950)の大火では

上町以外の上松宿がほとんど焼失してしまったという。

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火災からまぬがれた上町には出梁造りの古民家が並び、曲がり道が街道宿場らしい

風情を残しています。 

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町並みに入って100mほどの、左の路地を入ると八幡神社があります。

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楽殿、拝殿と一体になった覆屋の中の本殿は、正徳4年(1714年)建立と

言われ、江戸時代中期の代表的な社殿建築で、上松宿の文化財に指定されている。

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街道に戻りまた100mほど行くと、左手に路地を入ると「玉林院」の裏門が

ありました。

なぜか表山門からはおとずれなかったのですが、街道書によれば、

「玉林院」は木曽義元の次男「玉林和尚」が天正10年(1582)に創建。

裏山に天神山木曽氏館跡があり、十九代木曽義昌の弟、義豊が居館を構えていた。

明治26年の12月に火災に遭い本堂と庫裡は失われましたが、

土蔵と明和3年(1766年)に再建された山門は、火難を免れて今も当時の姿を

保っている。本堂は昭和33年に再建されたものですが、山門や黒松の老木と

整えられた庭に、往時を偲ばせるものがあります」、と記されてます。

 

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上松のシンボル赤沢自然休養林の「森林鉄道」と「オオヤマレンゲ」があしらわれ,「ひのきの里・あげまつ」とあります。  

「上松は、江戸時代初期より尾張藩の保護を受けた、古くからの木曽ヒノキの集散地。
その歴史は今もなお、木材工業の町としてその名を馳せています。
戦後の数回にわたる大火により、古い町並みは上町にわずかに残るだけですが、
木曽駒ケ岳を望むこの町には「赤沢自然休養林」「木曽の桟」「寝覚めの床」などの
木曽路を代表する名勝を有し、人から人へ受け継がれ守られてきた自然美を
四季折々楽しむことが出来ます。」
木曽路パンフより)

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どっしりとした建物は置き屋根になっていて、倉を利用した住宅のようですね。

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日の丸が掲げられた交番、「子供の日」祝日だったね。

今日、国旗を掲げた住宅は見かけなかったような・・・

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男女双体道祖神と右隣りは、水の女神「水速女命(みずはやめのみこと)」だそうな。

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この辺りは本町で、 問屋、総庄屋を兼ねた原家が勤めた脇本陣跡。

門扉脇に「といや」の木札が架けて在りました。

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文久元年(1861年)皇女和宮一行も宿泊した、藤田九郎左衛門が勤めた

本陣跡はなにも印無し(街道書に記載あり)

ただ裏の土蔵には、焼け残った資料が保存されている由。

現在は歯科医院が建ってます。

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本陣跡の先で、街道はクランク状に曲がって行くようですが、右曲がりの角に

江戸日本橋から72番目の本町の一里塚跡(移設)の碑がありました。

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一里塚あとで右に曲がり緩い坂をちょいと下ると、右手にカフェ&ダイニングがあり、時刻も昼過ぎで立ち寄り、ランチメニュー・パスタセットで昼食。

(12:20)

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あら!面白いわね~、てカミさんが喜んだ、砂糖&ミルク入れ容器

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ごちそうさま、と店を後に20mくらい下って、桝形跡をで左手へ仲町で、

旧国道に合流します。

先きほどの一里塚は、元はこの付近にあったようです。

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おっ、鉢植えだけど黒百合では??

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100m程あるくと広小路交差点で、右へ行く突き当りがJR上松駅

左角にはよく旅人が宿泊する「旅館田政」(江戸時代から続く旅籠)を見送って、

下町交差点もわたり、

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 100m程先の歩道橋手前、旧国道と左手に分かれる、中山道寺坂と呼ばれる

坂道となり、曲がりながら細道を入って行くと、

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左手曲がり角に駒ヶ岳大明宮や、駒嶽開山神明霊神などの石塔群が建ってます。

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その先車道になり、十字路の左土手の上は上松小学校で、

角の土手に「斎藤茂吉の句碑」がありました。

「駒ケ嶽見てそめけるを背後にし小さき汽車は峡に入りゆく   茂吉」

と刻まれてるそうな。

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 小学校校門に入る上り道の右側に、藤村文学碑が建ってるはず、

あれ、あの像は二宮金次郎では?

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すっかり風化してしまってますが、手に持った本、金次郎さんですよね。

(藤村文学碑は写し損ねてました)

 

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小学校のグラウンド下の街道側土手に、「尾張藩直轄材木役所跡碑」があります。

案内板には、「尾張は、木曽総山検見を行い、に山村代官から管理権を取り上げて

藩直轄とし、この向かいに材木役所を置いた」とあります。

(何らかの不正事があったのかな?)

土手上の小学校の広いグラウンドが、上松材木役所陣屋の敷地であったのでしょうか。

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陣屋跡碑の少し先の土手にも石段があり、諏訪神社の鳥居が建っている。

上松宿の鎮守の神様として古くからこの地にあった由。

諏訪からではなく、京都から勧請しため、御柱は立っていない。

石段を上ってみると、グランドのフェンスに阻まれ、なんと本殿は広いグランドの

向こう側に鎮座しています。

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グラウンドではサッカーの試合中だ!

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緩い下る坂を上松小学校のグランドが終わる処まで来ると、十字路の左角に建つ

庚申塔を見送り、

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住宅街の中を通ってくだって行くと、中沢橋。

上松宿から頻繁に出ている、「目覚の床→」への距離道標がも建ってます。

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坂下で木曽駒ヶ岳の雪山並みを見ながら、街道らしい静かな佇まいの

「見帰(みかえり)」集落を抜け、県道266を歩きます。

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上松第一トンネルを抜け出て来た国道19号の上を渡って下ると、
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左側に、常夜燈など多数の石仏石塔が祀られていました。

花は、忘れな草ですね。

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街道は立場茶屋の有った、寝覚集落へと入ってきました。

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見えてくる古民家が手前が、江戸時代の「寝覚立場」の茶屋本陣で、築300年の

建物、上段の間や囲炉裏があるという、「たせや」。

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赤いポストの向こう側が創業寛永元年(1624年)で、寿命そば(蕎麦切り)の

老舗「越前屋」。

「越前屋」は国内で3番目に古いといわれる蕎麦屋だそうで、参勤交代の諸大名が

必ず休憩した所として、立派な造りの建物です。

十辺舎一九「続膝栗毛」や藤村の「夜明け前」にも出てくるそうな。
 現在はそれぞれ民宿・旅館を営んでいる。

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(越前屋の蕎麦は、今は寝覚め床近くの 国道沿いで営業を続けている )

「たせや」と「越前屋」の間の急坂を、木曽川の方へ300m程下り、

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国道19号を横断した先が、寝覚の床の入口で臨川寺の庭園でもあり、見晴台から

眼下に寝覚の床の全景が見えます。

木曽川の奇石と水面の美しい名勝で、1923年(大正12年)3月7日に国の名勝に

指定された。

中山道を訪れた歌人等によって歌にも詠まれ、長野県歌「信濃の国」の4番にも

「旅のやどりの寝覚の床」とうたわれている。

臨川寺はあの昔話し「浦島太郎」伝説があり、寺の縁起によれば、
「龍宮城から戻った浦島太郎は全国をめぐり歩いて、

ここ木曽川のほとりの地にたどり着き、釣りをしたりして楽しく暮らしていた。

天慶元年(938年)に里人に竜宮城の話をしたときに、玉手箱の蓋を開けて

しまい、齢300歳の老人になってしまったという浦島太郎伝説が残っている。

言い伝えでは、浦島太郎が今までの出来事は夢で、夢から覚めたようだと思い、

この里を寝覚、この岩場が床のようであったことから、「寝覚の床」と呼ぶように

なった。その後、いつのまにか太郎の姿はなくなり、立ち去った跡には弁才天

像が一体残され、寝覚めの人々は祠を建てこの弁才天を祀った」と伝えている。

 

寝覚め床は御嶽山登山の折に寄ったことがありましたので、今回は立寄りは

しませんでした。

(昔の思い出フォット)

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 越前屋を後に100mも行くとY字路で、分岐点に津嶋神社があり、

脇に大カツラが聳えています。

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幹の周囲が4.1m、若葉が何とも美しいんですね。

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付近からは左手に迫るように中央アルプスが聳えてます。

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 旧中山道はこの先の郵便局前を左に曲がり、左手に石塔を見て坂を行くと、

台地にでてバックに中央アルプスを据えた、花々咲く集落の墓地がありました。

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黄色い花は(写真右)はセンダイハギですね。

カミさんが気に入った様で、庭に植えような~。

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立派な上松中学校と、これまた立派な県営集合住宅が。

上松駅前から随分歩きてきたと思ってましたが、地図で確認したらまだ2km位

なんですね、地番も上松でした。

そのまま真っ直ぐ行くと、先は森に突き当り??

旅人が一人、コンニチワ、の声を残して足早に追い越してゆきました。

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中学の敷地端から左手に、街道は復元された石畳坂を下ります。

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緩く曲がりると木曽川にそそぐ、中央アルプスより流れ出る清流の滑川。

橋の上からは、山間にアルプスの嶺も望まれます。

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木々の芽生え新緑の美しさが、何とも言えない安らぎを感じますね。 

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滑川橋を過ぎて少し先の道標は、左手・木曽古道となってます。

 

木曽福島から足を進めているとき、道標に良く「木曽古道→」と記されてます。
調べたところ、「 駒ケ岳山麓木曽川にそって、留野(現在の南木曽) から

木曽福島に通ずる中山道整備以前からの道があり、江戸 時代以降の中山道

区別し「古道」と称するそうです。
 木曽古道集落として、倉本・東野・吉野・徳原 ・川上・原野があり、

 原野と木曽福島の間、上松から倉本までの間の山道は、地元にて中央アルプス

 への登山道やハイキング道として整備もされている」とありました。

中山道の古い道の意味ではなかったんですね。

此処の道標には「3.2km先の吉野地区~東野地区~倉本地区へ」と記載されていて、古道が通っていた地区への案内なんですね。

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深紅のツツジ、紅サラサドウダンなどの咲く荻原集落を抜け

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線路沿いの道となって

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御嶽山講中碑を見送り、 中央線をガードで抜けて右手へと道は曲がって行きますが、

f:id:hansui:20180512203608j:plain畑で農作業をしていたご婦人から

「右へ行ってはダメだよ! 左に下って家の前を通って行くんだよ」と

指さして教えてくれました。

ありがとうございます。

なんと、中山道は庭先を通って草道を進み国道へ合流していたんです。

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f:id:hansui:20180512204137j:plain国道と合流して100m程行くと、左手の中央線の鉄橋奥に木曽八景の一つ、

小野の滝が飛沫を上げて落下してました。

「あら、いい滝だわね」てカミさん。

以前に滝巡りと称して、長野、群馬をドライブしたこともありました。

「日本一の落差、富山、立山麓の称名の滝、隣なりの雪解け時のみ現れる、

落差500mのハンノキ滝、凄かったわね~」てしばし滝談義。

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中山道、広重描く「上松宿」は、この「小野の滝」を題材としてますね。 

渓流滝は山間の街道沿いで見ますが、本格的な落差の滝を見るのは久しぶりです。

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国道沿いの細い歩道を10分(600m)ほど行くと、中山道は左手に山側の

上り坂道へと分岐します。

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そこに江戸から73番目の荻原一里塚跡で、石碑や案内板が立っている。

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石碑の横にお互いの幹が接して成長した、榎と紅葉の合体木が枝を伸ばしている。

モミジの合体と言えば、間の宿・茂田井で梅の樹に寄生したモミジを、見たことが

ありましたが、合体ではなく梅の枝分かれ二股にモミジが生えてしまってましたね。

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坂道を上りくねくね曲がった道を行くと立場のあった旧萩原村の集落で、

常夜燈も建つ、静かな家並みが続きます。

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集落の南の入口に「二十三夜塔」などがあり、「高札場」が在ったという。 

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 200mほど行った先左手に入ると、
「風越山(かぜこしやま)の湧き水(和水なごみ)」があり
 標高1698.5mの風越山の自然水で,柔らかな口当たりとても美味しい。

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すぐ先1分ほど萩原信号交差点で国道19号に出会い、

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 萩原沢の橋を渡って100mほど進んだ左手に<串ケ下>バス停があり、

此処にも中山道と木曽古道の道標が建ってます。

左手の山の中へ向かう、草道の踏み跡がありました。

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道標から約300mほど歩くと、右側に阿寺渓谷(16㎞)、柿其渓谷(24㎞)

などが記された案内標識が建っている左側に、斜め左側に入る道があり、

左に入ってすぐにJR線路を串ケ下橋梁を潜り抜け右折し緩い坂道をゆくと、

次第に高度が上がって行きます。

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 道の両側草むらにはここでも蕨がいっぱいです。

旅の途中でなければ、しばし山菜取りをしたいところですが・・

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木立の間から木曽川沿いの河川敷に大きなサッカーグランドがみえ、なにか大会が

開催されてる様でした。

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左側にある擁壁の上に、道路整備などで移設したのか、石仏石塔群が集められてます。

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木立の覆いかぶさる山道を、まがりくねって少し進むと、4.5軒の宮戸集落です。

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さきに進むと民家の前側壁に、

木曽古道「〇〇方面は庭を真っすぐ通りください」とあり、中山道も合しての

道筋のようで、古い土蔵の脇を通って草道へと入って行きます。

うん?家からカラオケが聞こえてる!集会所になってるのかな?

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脚に優しい草道を歩き、右下の中央線の土手下へ「くるみ坂」を急降下し、

道標の建つところで、正面の石段を上らずに右手の立町橋梁を潜って

国道へとさらに降りてゆきます。

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坂を下った左手に鳥居が建ってます。

神明神社の鳥居で、上松の立町地区と倉本地区の鎮守の神社として、

300年以上の長い歴史を有する神社ですが、急な石段の参道は途中で

JR中央西線で分断されていて、国道筋から直接参詣することができない。

(さきほどのくるみ坂を下った正面の石段が、神社へと続いてるそうです)

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すぐに左の線路下の道に入り2,3分で再び国道へ,立町横断歩道橋で国道の

西側に渡ると、立場の有った立町集落へと入ります。

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「坂口屋」とか「つたや」といった屋号を掲げる家、水神碑と水場など

かっては旅人で賑わっていたと、ちょぴり思わせます。

 

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空沢橋の先右手に入ると、木曽川に架かる木造の吊り橋の「諸原橋」が

ありますが、今は老朽化が進み渡ることはできません。

(撮影はピンボケで失敗、アップは拝借フォットです)

f:id:hansui:20180513111915j:plain集落を抜けて再び国道19号へ。

中山道は、中央線線路側を越えで左手へ倉本集落へと続いていたようですが、

国道、鉄路で分断されて消滅です。

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国道をおよそ600m,

PM3:30、今日の中山道歩き旅の足止め地点「倉本駅下」到着です。

木曽福島より、4里、約16km、お江戸日本橋より290km

中山道は、写真右端の中央線ガードを潜って続いてゆきます。

 

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国道のバス待合所で持参のオヤツタイム。

PM3:52、コミニティーバスに乗り、木曽福島駅へ。

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高速道事故渋滞に合いましたが、PM10:30帰宅、

中山道夫婦歩き旅、第25回目の

           「おわり」