*ひょいと歩き出した東海道五十三次。
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*
途切れていた信濃の国・和田宿、下諏訪間の中山道最大の難所と伝えられる
和田峠を5月25日、無事越えることが出来、街道を一本に継ぐことが
出来ました。
旅というより山登り、で翌日は足はパンパンに張ってましたが、
こんな時は、もっと歩いたほうがいい、と変な理由をつけて、
余勢を駆って、木曽路の街道旅へと出かけます。
6月2日(土)
目覚まし無しでも予定時刻に起床、洗顔を済ませ即マイカーを駆って出発。
中央高速諏訪SAで諏訪湖を眺めながら、ワンタンメンで朝食に。
そのとき、衝撃的な事が起きました。
湖畔を眺める窓際に腰を据えていたのですが、軒下に燕の巣があるらしく、
数羽が飛び交い出入りしていて、そこへカラスが一羽やってきて
フェンスに止り、軒下を見上げてました。
突然カラスが飛び上がり、軒下へ・・なんと、巣からヒナを咥えて飛び去ったのです。
すぐ燕も数羽追いかけて行きましたが、・・・
AM8:55
長野県、木祖の野尻駅前到着。
マイカーを置かせていただいて前回足止めの二駅戻った倉本駅を目指して
AM8:26発の電車に乗りました。
なんと、ホームで出会った東京の御夫婦も、倉本から野尻までを旅する方でした。
前日、木曽福島から歩いて、上松の目覚め床の宿に宿泊したそうです。
ご夫婦も継ぎ足し歩きで中山道を歩いてるそうで、私達と同じく難所の峠越え、
碓氷峠越えの話しでは交通や宿の問題から、某社の街道旅ツアーを利用されたが、
大雨に有ってしまい下着までずぶぬれで、えらい目に合った難儀な旅だった
と話してましたが、これも思い出峠越え、楽しそうに語っていたのが印象的でしたね。
(5月5日第25回足止め)
お気をつけて、と倉本駅でご夫婦は先行し、私たちは前回足止め地にて
出発ショット。
今日の道筋、倉本駅前から約6.5kmの江戸から39番目、須原宿、
その先7.5kmの40番目、野尻宿まで約14km(約3里半)です。
AM8:50、27回目の街道旅に足を進めます。
中央線を潜り東側へ抜け、ヘアピン状に曲がりながら、緩い坂道を上って行きます。
左手に先ほど下車した倉本駅にホームが見えてます。
曲がり角の標識は「←登山道 空木岳・木曽殿」で中山道の文字は有りません。
中央アルプスへの登山口だったんですね。
鉄道で分断され大きく迂回してしてますが、本来の中山道へは倉本駅の
福島寄りを通ってくる、左手(写真右)からの道に出会い旧中山道が復帰します。
消滅していた旧中山道が復活し、少し先は左手に道筋も見えない、草茂る空木岳へ
の登山道が有りました。
空木岳は、木曽駒ヶ岳の南方、中央アルプスのほぼ中央に位置する百名山。
ここから約10時間以上かかるそうですが、ちょっと厳しいコースですね。
下山に使われることが多いのでは。
雪の下が可愛い顔を覗かせてます。
屋号らしき札が掛かってますが、意味が??
屋号でなく表札?上の矢高さんもあるのかな?
旧道らしいのどかな道を行きます。
竹林のところで左に曲がると、斜面上に天王様の石仏群とも呼ばれている
「牛頭天王」と刻まれた文化6年(1809年)建立の常夜燈、その後方に
享保12年(1727年)建立の「除三尺之罪」と刻まれてた庚申塔が建ち説明板が
ありました。
「除三尺之罪」の判りやすい解説板ですね。
その先で道標に導かれ、右の心地よい草道を下りて行くとすぐに、大沢川の
ほとりに出ます。
旧道は30m程左から大沢川を跨いで、国道19号線のももやま商店付近に直線的に
あったが、今は橋もなく通れないので、右に行って鉄道鉄橋下を潜り国道へ出る。
交通量が多くて、向こう側には渡ることが出来ませんでしたが、暫らく行くと
国道右手の家の脇に、木々に囲まれれて江戸より74番目、倉本一里塚の跡碑が
確認できました。
ここも地域は上松で、上松内で北から四番目の一里塚。
一つの町村で四つも一里塚がある(沓掛・上松・萩原・倉本)のは上松だけ。
もともとは現在地より南へ20mほどの地点に左右両塚があったそうです。
白色壁の民家が資料にあった「一里塚」を屋号とした家の様です。
ちなみに、この辺は皆屋号が残っているそうで「上の茶屋」「下の茶屋」という
屋号の家が残っているそうです。
すこし先の池の尻信号で国道と分かれて、右斜めに通称、金吾坂下りて行く。
右に入ると池の尻集落で往時「池の尻立場」があった場所です。
家々は屋号札をさげていると街道書に在りましたが、これも屋号かな、
「梅のぼく」「一家」「池尻の大屋」「すみれ」
何を商っていたのでしょうか???
右手遠くに白い桃山発電所を眺め、
少し進むと街道は左手へ分岐し、やがて坂の草道を上がって行きます。
左手の小さな畑に植えられていた花は「なんの花」かな??
ラッキョウにも似てますね。 行者ニンニクかな?
右下に養殖池を見、廃墟となってるドライブインの脇を抜けると国道19号線に
合流します。
直ぐに境の沢橋があり、右側に標高(588m)標柱が建っていて、
この橋が上松町と大桑町の境で、沢橋を渡るとここから大桑町に入ります。
和田峠の1600mから、1週間ごに1000m下って歩いてるんですね。
のんびりと境の沢橋から、合流した国道右手を約200mほど行きます。
この付近からくるみの樹が多いですね。
右側に木曽のお酒木曽路の大きな看板
(なぜか西向きで、京側からしか見えません)
が建ち国道左手に細い道が通っています。
その道が街道書にある、エドヒガン桜旧道の東口痕跡のようです。
街道書では、
*左手へ国道を渡り、中央線を跨ぐ、草道にから・・うんぬん・・進む・・
と「エドヒガン桜旧道」のことが記載されてますが、
「但し、JR中央線の横断は禁止されてます」との記載はあり、実際に線路際に
禁止看板も建ってます。
(線路がカーブしているため運転手からも見えないそうで、本数は少ないとはいえ
確かに危険な道筋ですね。旅人は結構渡ってしまうようですが)
エドヒガン桜旧道へは入りませんでしたが、線路の東側には上郷集落があり、
養殖池などがあるようです。
ちなみに資料によれば、
大桑村天然記念物 樹齢 不明 樹高 13.5m 幹周5.8m、
「国道からはずれた旧道は、木橋で沢を渡り往時の旅が偲ばれる。その街道脇に
エドヒガンの古木がある。昔からこの木の下を行き来する旅人を見てきた古桜だ」
とあります。
(資料写真)
国道にコミュニティーバスの停留所がありました。
この路線にも大きそうな病院名があります。
乗合タクシーバスもあるようで、今日は土曜日、運休日でした。
バス停から200m程行き、阿寺渓谷標識の建つところからの右手の道が
街道です。
木曽川沿いを5分ほどで国道へ合流すると
道の左右が擁壁状になっていて、両側の擁壁の高さからして国道19号線は
堀切道で、右手の擁壁上の土道が本来の旧道痕跡の様ですが、草が生い茂っている
ため、止むなく歩道のない国道端を歩きます。
すぐ先、左手の擁壁上に見事な枝垂れ桜が聳えています。
歩道がなく日差しも強まったので、日陰の多い左手に渡り、車に注意しながら
足を進めます。
道端にはクルミの樹が多く見られ、手の届きそうなところに実がなってます。
実りの時に旅したら、くるみ拾いをしながらあるけそう。
こんなの探しながらの旅歩き、楽しいですね~
何故かオダマキ、もの凄い花付き、ナルコユリ?マムシグサかな、いい姿
国道を800m程進むと名古屋119kmの距離表が現れ、
左手に「神明社、夫婦杉」の小さな看板とが鉄路を潜るトンネルがありました。
距離とタイムを目的にした旅でしょうか、単独行の旅人が、わき目も振らず
急ぎ足で去って行きました。
トンネルを抜けると左手に神明社の石の鳥居が建ち、右手に巨大な杉が
立ってます。
さらに鳥居をくぐり境内の石段左手に、これまた超巨大な夫婦杉がありました。
大きいですよね~、夫婦杉を含め3本の大杉を見ることが出来ました。
夫婦杉入口から100mくら行くと、左手土手上に車道のガードレールが見え、
「糸瀬山登山口」の看板が建っています。
看板下の草道を上がって車道に出ますが、車が入れるのは40mほど先からです。
現在、先ほどのエドヒガン桜を見るにはこの道から入って行くそうです。
(相当の戻り道にになるので、立ち寄りしません)
すぐ先が猿沢橋。橋の側の温度計は28℃・・わあ!渡った瞬間、29℃表示に!
猿沢付近から須原宿手前までかっての中山道は、エゲ坂の旧道と言われる道が、
山道として僅かにその体裁を保っているそうですが、長い期間ほとんど人が入って
いなため藪に阻まれ、廃道と化してるのだそうです。
猿沢橋から200m程国道を行くと、歩道案内板が建ち、左手中央線と国道の
間の側道へ街道は続いて行きます。道脇に中山道石碑も立ってます。
右下に国道、さらに右下は木曽川の流れ。
鉄道線の擁壁や木々の茂りもあって日差しが遮られ、ちょっと嬉しい側道です。
側道を500mほど行き、民家の先の宮の沢橋を渡り国道へ合流し、
さらに 約100m進むと国道から左手に分かれる分岐があり、
その後ろの伸び放題に繁った草木の中に隠されて、「須原宿の街並み案内」や、
「水屋の里・須原」等の案内板が建ってます。
ちょっと左側に回ると、草に埋もれて、江戸より75番目の「須原の一里塚跡」碑が
ちょこんとありました。
「あれ、街道書はもう100mくらい国道を進むになってるわよ」のカミさん。
たしかに、この分岐を左に上って行くと須原宿、須原駅へ行くようですが、
持参街道書では、
「江戸方面からは左の県道へはいらず、国道を直進する」
さらに「国道19号線を少し進んだところで、左へ上がる細道が旧道であり、
入り口に小さな 「中山道」 の道標がある。この旧道を進むと民家の間を通って
須原駅の少し先に出てくる」と記されてます。
事前の下調べの4年ほど前の資料には、「一里塚跡碑は須原駅正面にある」
とも記載があるのです。
左か、右か、ちょっと迷いましたが、トイレ休憩もしたいので、
カミさんの「一旦県道へ入り須原駅前行き、国道からの細道を確認しましょう」
との意見に従うことに。(素直だな~)
と県道へ入り、100m程行くと駅前に出ました。
駅前広場の手前、金網フェンスに後ろにに建てられている石碑は
「幸田露伴文学碑」。 文学碑によると
「明治22年、木曽路を旅した幸田露伴は須原宿に泊まり、その縁で出世作
『風流仏』を著し、文中には桜の花漬のことも記されている」とか。
駅正面に、露伴の分中にも出てくる、名物「桜の花漬け」を商う大和屋があり、
街道書では一里塚跡木標識があったはずですが、なさそうです。
(ただし、分岐のところが本来の一里塚があったところであり、
元のところに碑を立て直した、との説があります)
なにか分岐のところの方が合ってる感じがしますね。
それにしても碑の有ったところは、草ぼうぼうだったね。
(街道書も書かれた時期がちょいと古くなったかな?)
桜の花漬て桜茶のことかな。
旧中山道を歩く旅人に人気の秘密は
「すばらしいぞえ須原の桜、つけてにえ湯の中で咲く」
と唄われた「桜の花漬」を売っているからである、と。
桜の花漬はどこでも売っているが、大和屋の花漬は江戸時代からの
須原名物で、しかも自家製。
桜花漬は八分咲きの八重桜を梅酢と食塩だけで漬け上げ、色あざやかで香りも
豊かで、お湯の中に花が美しく咲き開くため「桜茶」として、お祝い事によく用い
られますね。
むかしむかしまだ若かったころ、何かの折に上司に「二回ほど桜茶を飲んだ」と
話をしたら、 「お見合いしたんだね、どうだったかな」とからかわれたことが
あったけ。(カミさんは私は一回だけよ!て)
なんてじゃれ話をしながら行くと、右手に高札場跡の立て札だけが立っていて、
後ろは石垣で一段低くなっていて、先ほどの分岐の国道をもう少し辿り、左手へ上ってくる須原宿への道筋は、この付近に出てきて旧中山道の須原宿江戸口だったようですね。(この付近から方々に旅籠行灯があって、いい風情です)
高札場跡のすぐ先に「大桑民族資料館」の道案内標識があり、右下へ階段を行く
案内になってます。持参街道書の道筋はここへ出るように書かれてました。
階段を下りて道筋を逆にたどってみると、国道から斜め左へ来る廃屋?前の
草道になってしまった道筋があり、その道が本来の中山道須原宿への道だった
ことが判ります。
宿場の街並みへ戻ります。
須原宿は、一つ手前の上松宿から、3里9町(12、67km)あります。
木曽路案内によれば、
*須原宿は江戸戸日本橋から39番目の宿場で、天保14年(1843年)には
人口748人、家数104軒、本陣1、脇本陣1、旅籠24軒。
享保2年(1717年)に現在地へ移転し、木曽谷の中ででは一番古くに栄えた
歴史ある宿場町です。
広々とした街道に面して格子戸の家が連なり、宿場情緒を携えた静かなたずまい。
宿内には丸太をくりぬいて作られた水舟という水場が点在し、今も昔と変わらず
清水がこんこんと落ちている。
宿場の京側外れには桝形跡である鍵屋の坂があり、道の中央に用水路が配され
宿場町の原風景を残している* とあります。
大きな川沿いの宿場町は洪水を避けるため、ほとんど一段高い所に営まれて
いますね。
左手空き地のところが、木村本陣の跡地で、木札が建ってます。
(ほんのつい最近まで家屋があったようですが、今は空き地になってました)
う~ん、時代の流れは速いんだね~・・・
本陣跡の先には、旧脇本陣の西尾家があり、塀の前に板碑が建っている。
西尾家は木曽義仲の家臣であり、中山道の宿場が出来るのに伴い須原宿の脇本陣、
問屋、庄屋を兼ねてきた家柄です。
酒造業は江戸時代から続いている銘酒 「木曽のかけはし」 を生み出している
蔵元でもあります。
脇本陣の向かい側には水船があり、その後ろに正岡子規の歌碑が建っている。
正岡子規は明治24年(1891年)に須原を訪れた。
歌碑には、「寝ぬ夜半を いかにあかさん山里は 月いつるほとの 空たにもなし」 と
刻まれている。
明治20年代は鉄道もなく、露伴も子規も長旅をしてきたんですね。
須原駅前を過ぎると、街並みのいたるところに水船(水場)が見られるように
なります。
脇本陣の先に清水医院跡がある。
黒板塀の前の立札には「島崎藤村の ”ある女の生涯” の舞台となった清水医院跡。
建物は愛知県犬山市明治村の中心地に移転、保存されている」 と記されている。
藤村の姉 園も入院したことがあるのだとか。
医院跡の板塀前に、ミュージック仕掛け?がありました。
観光案内によると、大桑村指定無形文化財「須原ばねそ」(はね踊り)で
*須原ばねそは古くから伝わる郷土民謡盆踊りとして
唄い踊られる地唄で、はね踊るところから由来。 嘉慶年間より京都から伝承した
庶民文化です。 「よいこれ」・「竹の切株」・「甚句」の三種があり、いずれも
楽器を用いない地唄でこれを称して「須原ばねそ」と呼んでます* ありました。
水色の3っのボタンは左から押すと、まずは「ご挨拶」二つ目は「唄」
三っ目は律儀に、「お別れの御挨拶」結構な音量で静かな宿場街に流れます。
はあ~~・・・
長そうなので唄は一節だけ拝聴し、ちゃんと最後の挨拶も受けました。
と、民謡を楽しんで、清水医院跡の少し先左手に文化10年(1813)の常夜燈が
建ってます。正面には秋葉大権現、横に金毘羅大権現と刻まれていて、常夜燈の
側の幟柱のところを左へ入ると、須原宿の鎮守、鹿島神社仮宮がある。
(鹿島神社は須原宿の鎮守ですが、鉄道線を越えて600m程の山裾にあるようです)
広重画・須原宿は、右手に大杉が描かれてることから鹿島神社門前の様子を
描いてる、と言われてるようです。(他説もありますね)
右手に大きな石門柱が建ってます。
白い札には「昭和二年建立」と「大桑村立須原小学校」と読めました。
この村も小学校は今はなくなり、村立の保育園がありました。
平成15年、野尻小学校・大桑小学校・須原小学校が統合し、野尻に「大桑小学校」
が開校してるそうです。
えっ、野尻まで7キロ以上も通学してる!
その向かい側は、下松田屋の屋号が掲げられた家の前に立派な水船がある。
この水船の覆屋の軒には木札があり、「水船の水のきをめぐりて」 と歌われている
ように須原は中山道に面して数多くの井戸があり、生活の場として親しまれたこの
水船もその面影を残す」 と記されている。
旧旅籠吉田屋明治2年(1869年)の建物で、ここにも水船があります。
(近年は民宿すはら、でしたが民宿も廃業したそうです)
街道左手の桝形手前に、旧旅籠柏屋がある。
軒下には、大阪を講元に京都・江戸を世話方とする 「三都講」 、御嶽講の一つ
宮丸講の 「宮丸北之組」 の看板が下がっており、江戸期の指定旅館と
いうわけですね。
旧旅籠柏屋のすぐ先が桝形で、中山道は(鍵)の屋号紋をつけた蔵が建つ家の
角から、右手に曲がり「鍵屋の坂」を下りますが、坂道は何か改修のような
工事をしてました。
その少し先にある、永享2年(1430年)創建、臨済宗妙心寺派、
木曽三大寺の中でも最古刹の定勝寺へ立ち寄りします。
桝形を過ぎてすぐが定勝寺へです。
「山門」「本堂」「庫裏」の三建築が国の重要文化財に指定されています。
山門
本堂(なぜか、本堂を撮影してなかったのでパンフより)
庫裡
定勝寺には、国の重要文化財指定の木曽家縁の資料等が保管されており、
その中には日本で最初の「そばきり」についての文献、天正2年の定勝寺仏殿事
記録があるそうです。
戦国時代木曽谷を支配した戦国大名「木曽義昌」の位牌が安置されているほか、
東洋一の木曽ヒノキダルマ座像があるそうですが、覗けませんでしたので、
パンフから(左上)
「鶴亀蓬莱庭園」奥が亀、手前が鶴のようですね。
山門を出て、AM11:40
朝食が早かったので、まだ昼前ですがいつも持参の補助食品でお昼タイム。
宿内では食事処が見られなかったので、門前脇の水船の花壇前のベンチを借りして。
水船の里の図がありましたが、宿入り口付近にもあったかな?
図によると水船は宿内に六ケ所あるようです。
休憩してる間にも、西から東から何人もの旅人が、声を掛け合い挨拶を交わして、
通り過ぎて行きました。
外国の方は二人だけでしたね。
と、ここまで旅の記録写真を整理しながらブログを書き進めてきて、
あれ!!写真が無いが・・・
この後、おおきなミスをしていたことに気が付きました・・・・・
後半へ続きます。