一般公開 皇居乾通り通り抜け、と東御苑散策 (Ⅱ)

12月9日(土)、皇居一般公開散策へ、、続き

北の丸公園で昼食を摂り、通常も一般公開されている「東御苑」へ向かいます。

皇居東御苑は,旧江戸城の本丸・二の丸・三の丸の一部を宮殿の造営にあわせて

皇居附属庭園として整備されたもので,昭和43年(1968)から公開されています。

何度か訪れる機会はあったのですが、なぜか実現せずで今回が初めての入場です。

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坂道を上って、北桔橋門から東御苑へ入ります。

この橋は江戸時代「跳ね橋」仕組みになっていて、天守閣に一番近く背面に

位置し、本丸、大奥と直接外部に通じる搦手門であり濠を深く・石垣も高くして、

堅固な防衛力を持っていた。
 石垣の高さは18.5mもあり、江戸城の石垣の中で最も高いといわれます。 f:id:hansui:20171211104529j:plain

右手、乾濠

石垣の高さが判りますね。f:id:hansui:20171211120703j:plain

 左手、平川濠、両濠とも18mの高さがあるそうです。

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門を入った一段と高くなったところの、石垣台は天守台。

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天守台は天守閣跡、、江戸城本丸の一番北側に位置し、

東西約41m、南北約45m、高さ11mの石積み。

最初の天守閣は、1607年、二代将軍秀忠の代に完成しました。

その後大修築され、三代将軍家光の代に国内で最も大きな天守閣が完成。

その高さは地上から58メートルもあったそうです。

しかし、わずか19年後の1657年に明暦の大火により全焼し、

翌年に加賀藩前田家の普請により、現在も残る高さ18mの花崗岩でできた

天守台が築かれます。

しかし、四代将軍綱吉の叔父である保科正之の「城下の復興を優先すべし」の

提言により、天守閣は再建されることなく現在に至ってるそうです。f:id:hansui:20171211121952j:plain

天守台より北方面、北桔橋。背後に広がるは北の丸公園

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天守台の南側は本丸御殿跡で、天守台近くから大奥御殿、中奥御殿、表御殿とあり、

現在は広大な芝生園となってます。

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天守台左手は、香淳皇后の還暦を記念して、1966年(昭和41年)に

建てられた音楽堂「桃華音堂」があります。

右手奥は宮内庁楽部庁舎です。

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天守台より芝生園の右手、濠土手沿いを南へ進みます。

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火災の起きたときに、大奥の調度品などを避難させた石室

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乾通りからも見えていた富士見多門

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松の廊下跡の案内板がありました(上図赤丸)

忠臣蔵の発端となった、元禄14年(1701年)赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が

殿中で吉良上野介義央への刃傷事件を起こした場所ですね。

廊下に沿った襖戸に「松」と「千鳥」を主題にした絵が描かれていたことから

「松の大廊下」と呼ばれていました。江戸城で2番目に長い廊下で、

畳敷きの立派なものだった由。

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見事な大木

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本丸跡の南端に建つ、富士見櫓のうしろ(北側)姿。

乾通り側は西面が見られました。

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東へ回り込んで二の丸跡へ向かいます。

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冬桜

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汐見坂を下り二の丸跡へ

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白鳥濠

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二の丸雑木林

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二の丸御殿跡に左手奥には諏訪の茶室、右手は二の丸庭園

この周辺は5月のツツジが素晴らしいと聞きました。

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二の丸庭園

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二の丸庭園を後に南へ向かいます。二の丸雑木林は初冬の染り。

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二の丸後から三の丸跡、出口の大手門へと下ります。

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正面に建つ百人番所

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大番所

前の坂を上ったところが本丸の入口で中雀門があり、中之門の側に設けられ、

他の番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていました。

(建物は皇居東御苑開園に合わせて、昭和41年に復元されました)

 

 

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右手に百人番所

本丸と二の丸へ通じる要所である、大手三之門の前に設けられた番所です。

鉄砲百人組と呼ばれ、甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の4組が昼夜交代で

詰め、各組には同心が100人ずつ配属されていました。

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百人番所の南側垣根の後ろは三の丸跡

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桝形右手へ曲がって、同心番所

江戸城の正門であった大手門から入城した大名が最初に通る番所で,

与力,同心が詰めて主として登城する大名の供の監視に当たっていました。

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右手は皇宮警察本部、白亜の大手門

大手門は、 高麗門と櫓門で構成された桝形門になっている

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抜けて左へ曲がると

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江戸城正門、大手門(高麗門)、皇居を後にします。

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大手濠のカワウとチュウサギ

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桔梗濠と大手門

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手前から、巽櫓、桔梗門、富士見櫓

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警備車両が任務を終えて帰還します。

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行幸通りへ戻ってきました。

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馬場先濠、日比谷通り

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第一生命館

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左手和田倉濠に架る木造の和田倉橋

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再び地下鉄で四谷へ出、所用を済ませ帰路へ・・・いい一日でした。

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おわり、