歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第8回) 本庄宿へ 前編

>平成28年6月18日、3年半をかけて東海道五十三次を旅し、
京の三条大橋に立ちました。
そして夫婦は旧中山道69次の旅、再び京を目指して歩いています。

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11月5日(土)、夫婦は再び旅に出かけます。

早めの朝食を摂り、マイカーにて出立、今日のスタート深谷へ向かいます。

深谷駅近くの駐車場へ来ると、ゲートが開いたまま??

張り紙を見ると、「深谷産業祭り、駐車解放」、えっラッキー・・

(銀行メインの駐車場だったので、お祭りのために一日、無料開放してたんですね)

 産業祭は旧中山道を中心区間歩行者天国にて、開催されるようでした。

祭準備中の仲町交差点より、AM8:36旅の再開。

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向かうは江戸から10番目、21里30町余(約85km)武州最後の本庄宿。

今日は約2里26町(約11km)足を進めます。

深谷と言えばこの人ですね。

渋沢栄一像、前回写真に収め損なったのでパチリ。

日本初の煉瓦工場跡や渋沢栄一記念館などは、まだ時間も早いため、

立ち寄りはまたの機会に。

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快晴、微風、気温低けれど、足軽し。歩きには最適ですね。

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当初は東に足を延ばし深谷城址公園へ寄る予定でしたが、祭準備中の街道が

賑やかで、すい、と街道を北へ進んでしまいました。

城址公園機会があったら・・

    機会は作るものでもあるわよ!てカミさん・・ハイ)

さすが煉瓦の街、いい雰囲気ですね。

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 江戸時代の末期、嘉永元年(1848年)に創業。

越後の柿崎(新潟県…現在の上越市)より現在の地に移り酒造りを始めた、

 藤橋藤三郎商店 

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街道から右手の道を覗くと、1階が煉瓦積みの3階建ての蔵。

2・3階はブリキ張?アンバランスがかえって面白い!

深谷レンガホール・貸ホールのようです)

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深谷の本陣・飯島本陣跡?。(のち確認したら、案内板は枠のみだが、

白い細井杭に書いてあるらしい)

飯島家は宝暦2年(1752年)より明治3年まで本陣職を勤め、

事務所裏手奥に 上段の間、次の間、などが保存されてるそうです。

御子孫が今は印刷業として、その場所で盛業は素晴らしい。

(お~い、ずーと先じゃないよ、本陣跡はすぐ隣だよ~)

カミさんは祭準備に来ていた賑やかな小学生集団を見ていた。

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「 七ッ梅」元禄7年(1694)「 滋賀県出身の近江商人、田中藤左衛門商店が

醸造していた清酒の銘柄。

銘酒"七ツ梅"は、江戸時代に「酒は剣菱、男山、七ツ梅」といわれた

三大銘柄の1つ。幕府大奥の御膳酒として愛飲されたと言われます。

惜しくも平成16年(2004)に廃業した後は、一般社団法人によって

運営・管理されているそうです。

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奥には元酒蔵を改装して、「深谷シネマ」があるんですね。

(写真、左下)

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(改装前の元酒蔵・拝借写真)

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創業から100年とか、

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創業は文久三年(1863年)現小川町にて創業し、明治30年代に深谷

引っ越してきた、銘酒「菊泉(きくいずみ)」で知られる「滝澤酒造」

仕込水には埼玉県下蔵元では最高硬度に近い硬水(荒川地下伏流水)を使用し、

酒質はその特徴が良く出ている淡麗辛口タイプと言われます。

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菊泉の巨大な煙突、もちろん煉瓦造り。

全高30メートル以上。数度の地震や戦争での銃撃に耐え、現在も凛とそびえて

います。

工場見学などもできるようですが、残念ながらまだ早い!

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産業祭りの会場で、深谷銘酒の試飲もあったようですが、行き帰りの足が

マイカー!

監視役(カミさん)の目厳しく、涙を呑んで足を進めます。

桝形曲がりの手前に大きな常夜燈、向かいに赤い柱の建物が・・

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赤い柱は呑龍院(子守地蔵尊)の鐘楼でした。

呑龍とは現群馬県太田市大光院の吞龍上人で、当時多くの子どもが間引かれて

殺されていたことを悲しみ、これらの子どもを弟子として引き取って育てたため、

後世の人々から「子育て呑龍」と慕われていたようです。

その上人がここ深谷へきて布教したようですね。 

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境内のお堂に4体の地蔵尊が祀られてます。

昭和6年(1931)の深谷地震にて、旧富国館製糸工場の赤煉瓦造りの煙突が倒れ、

その下で遊んでいた子どもが災害にあい、この供養のため四体の子守地蔵が

祀られたそうです。

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そして呑龍院の向かいにある常夜燈は、天保11年(1840)に建立された

高さ4m、中山道の中では最大級の大きさと言われます。

深谷宿もここが西の京口、街道らしい桝形道で深谷宿とはお別れです。

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宿は後にしても家並みは続き、町名は岡部六弥太忠澄の所領地だった

萱場になります。

 

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桝形を曲がった先の左手、JRの踏切の先に浄土宗・清心寺。

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静心寺は萬誉玄仙が開山、上杉氏の老臣岡谷加賀守清英が開基となり、

天文18年(1549)に創建したといいます。

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源平一ノ谷合戦で平忠度を討ち取った岡部六弥太忠澄が、平忠度を弔ったという

供養塚があります。

(一節には、所領の岡部原に五輪の塔を建立したが、その後五輪の塔は

慶安2年(1649年)に、ここ清心寺に移築されたとも言われます)

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静心寺を後にしばらく歩むと、街道は国道17号と交差し、信号を渡ってY字路を

右に入ります。

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信号で渡ると旧宿根村。

 旧中山道国道17号線が交差する所に瀧宮神社。

宿根村の総鎮守で、1496年大旱魃の際、領主がこの地を掘ったところ滝のごとく

水が湧き出たので、瀧宮神社を建てた。その池が今も残されています。

社殿新築中でご本殿は布に包まれて鎮座されてました。

 

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神社ご由緒の池は、ホテイアオイにすっかり蔽われてましたね。

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深谷ネギの出荷準備でしょうか。

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中山道は再び国道17号(現中山道)と合流し、さらに北へ向かいます。

このあたりから旧岡部町。

少し先に、岡部六弥太の守り本尊である薬師如来を安置しているという、

曹洞宗「正明寺」があります。参道入り口付近に月待信仰の女人講・二十二夜塔が

あります。

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月待ち信仰とは、夜中に月の出を待ち、安産などを祈願する風習で、ここでは

十二夜の月待ちが行われていたと言われます。

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17号を400mほど進むと右手奥に、曹洞宗・源勝院があります。

岡部藩主安部家の菩提寺で、岡部藩主歴代の墓&安部大蔵君碑が市指定史跡に

なっていいます。f:id:hansui:20161106122541j:plain

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下写真右、歴代藩主の墓碑が世代順に並んでいます。

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源勝院のすぐ西に岡部神社があります。

岡部六弥太忠澄の祈願所で、後に岡部藩主となった阿部氏は当社を崇拝し、

代々祈願所として参拝していました。

珍しいね、鳥居に屋根がついている。(下写真、右)

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神社から街道へ戻ると国道17号(現中山道)。

江戸(東京)日本橋からの80km距離標識がありました。

一歩一歩、で80kmか~・・・

なんて感慨に浸っていたら、17号西側の道に入ると岡部藩陣屋跡・そこが

高島秋帆幽囚の地と資料にありましたが、行きすぎたようです。

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個人宅の敷地内のお地蔵さん。

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岡部六弥太が開山した普済寺の参道口に、石仏石塔群があります。

岡部領界石碑、馬頭観音庚申塔などが並んでいます。

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普済寺本堂

法要があって入りませんでしたが、境内に「平忠度の歌碑」があるそうです。
「ゆきくれて 木のしたかげをやどとせば 花やこよいの主ならまし」

誰とも分からず平家武将を討ち取った岡部六弥太であったが、

箙(えびら・矢入れ)の中にこの一首が入っており、薩摩守忠度と書いて

あったのだそうです。

山門前で。

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普済寺からそのまま県道に出てすぐに「岡部六弥太墓」あったのですが、

カミさんがさっさと17号へ戻ってしまい、見落としてしまいました。

(拝借写真)

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「岡部六弥太 忠澄」

平安時代末期から鎌倉時代にかけての武将、御家人

武蔵七党の猪俣党の庶流岡部氏の当主。

保元の乱平治の乱では源義朝の家人として、熊谷直実斎藤実盛、猪俣範綱と

ともに従軍して活躍した。

源義朝の死後は故郷の岡部に戻っていたが、治承4年(1180年)に義朝の遺児

源頼朝が挙兵すると、それに従うこととなった。

木曾義仲追討戦の後、源義経の指揮下に入り、寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦い

では平忠度と組み討ち、討たれそうになるも郎党が助太刀して忠度の右腕を

斬りおとしたことで形成が逆転、観念した忠度は念仏を唱え、忠澄に斬られた。

その後、忠澄は箙に結び付けられた文から自分が斬った男が忠度であることを

悟り、惜しい人物を斬ってしまったと悔やんだという。
平家滅亡後は源頼朝に従い、その御家人として奥州合戦や頼朝の上洛にも付き

従った。建久8年(1197年)没。

墓所深谷市普済寺隣りの公園にある。夫人や他の岡部一族と共に

埋葬されている。

ただしこの墓は藤原助重のものだという見解もある。

この墓地には石塔が六基あり、右から二番目のものが忠澄の墓とされている>

(史資料より)

 武蔵野源氏、坂東武者、平家物語か・・・

 

レトロ建築(少し先で近代建物で開院してました)、貴重な建築遺構だね。

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おや、寶登山神社秩父長瀞の神社の分社かな?

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中山道国道17号と別れ右に入って行く。

分岐付近に立場があったようですが、案内板などもなく不明。

 入ってすぐ左側の石碑は雲雀塚と呼ばれる「芭蕉句碑」
 「原中や 物にもつかず 啼く雲雀」

この付近に日本橋から20番目、岡下の一里塚があったと言う説がありますが、

現状は不明のようです。(距離的にあってもいいくらい)

一説には竹が植えられた一里塚とも言われます。

下写真右

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街道沿いに島護産泰(しまもりさんたい)神社。榛沢(はんざわ)郡の総鎮守で、

利根川氾濫鎮護の守護神として信仰されました。

安産の神としても知られ、底の抜けた柄杓が奉納されるそうです。

皇女和宮も参拝しましたとか。

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名残ひまわり!!

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島護産泰神社の横の道を、国道17号線深谷バイパスの方へ進んで行くと、

中宿歴史公園があります。バイパス手前右が道の駅「おかべ」

朝が早かったので、お腹も空いたね~・・お昼と足休めに。

美味しかったですね、このお蕎麦! 当たり!!

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こ こ道の駅は、数年前まで高速を使わないドライブで2.3回は立ち寄ってました。

帰り道立ち寄りではよく野菜を買ったわね・・てカミさん。

 

旅は後半へ・・・・

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第7回) 深谷宿へ 

 

>平成28年6月18日、3年半をかけて東海道五十三次を旅し、

京の三条大橋に立ちました。

そして夫婦は旧中山道69次の旅、再び京を目指して歩いています。

 

10月22日(土)江戸から8番目、熊谷宿を過ぎ次の深谷宿との

中間くらい,大きな食品スーパー前を過ぎると名無しの十字路になり、

で足止めして,1週間。

10月29日(土)またも夫婦は旅に出ます。

(ひまなんだな~なんて言わないでね、熱中してるんです!)

 

早めの朝食を摂り、マイカーで出発。 

JR高崎線深谷駅近くの駐車場へ車を止めて、電車で一駅、籠原へ戻り、

名無しの十字路へ。

午前9時出発、県264を進みます。

ありゃりゃ・・カメラ地面置きのフォットだね。

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青空あり日差し有れど北風強し。

遠くに赤城山が望めたので、もうここらは上州赤城下しが吹くのかな?

すぐ左手に明治天皇御小休所跡碑。

この付近は籠原の立場だったようで、志がらき茶屋本陣があったそうです。

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街道(県264)は歩道区分無し、けっこう交通量が多く気を使いながら歩います。

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右手に地蔵尊があるようでしたが、見つけられないで進みます。

この付近は左手が熊谷市、道路右手は深谷市になってました。

左手に一本のケヤキが立ち、少し盛土になったところがありました。

花が植えられて花壇になって案内板がありますが、「一里塚と花畑」とのみで、

一里塚としての解説はありません。(板には深谷市とあり、ここで熊谷とはお別れ)

一説には「中山道分間延絵図」によると、道路東側の馬頭観音は塚跡、また塚より200m位離れて稲荷明神が描かれてることから、

日本橋から18番目「東方の一里塚」であるとしています。

(実際、先にに稲荷さんがあります)

東方の地名は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折当地を通り、

里人に「東の方は何れに当れるや」とたづねた古事によってと言われてる由。

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(塚の道路東側の馬頭観音を写真に収めるのを忘れてしまいました。)

たしかに200mほど進むと右手に「鬼林稲荷神社」があり、街道から赤い鳥居が奥へと連なってます。

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少し歩くと左手に庚申塔が二基祀られている。

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用水路に沿った小道の十字路脇に道標が立ってます。

「右なかぜみち」

船運で賑った利根川沿いの中瀬河岸への道標で立場でもあったようです。。

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国道17号と深谷バイパス(17号バイパス)を結ぶ東通りを、東方2丁目交差点で渡ると、中山道に面して一の鳥居、そこから北に参道が延び、二の鳥居三の鳥居を経て境内にいたるのが「郷社熊野大神社」です。
境内には、樹齢350年のご神木の大欅がそびえ、歴史を経た古社の雰囲気が

漂っています。

社伝では、延長五年(927)この地に枇杷の木を棟木にして小社を建て、上野国碓井 郡  熊野本宮より奉遷し東方と号する、とある。

本殿は天正年間(16世紀)に建てられたもので、深谷市文化財に指定されています。

深谷上杉の宿老の一人、 秋元景朝とその子 秋元長朝の信仰く、天正年中(1573~92)に、社殿改修を行なったと記されてます。

本殿は大変荘厳、風格を持ち、文政2年と平成11年の大修理が行われたたそうです。

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 街道に戻ると両側の畑には深谷ネギが栽培されてます。

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関東で主に栽培してきた白ねぎは、根元の土を何度も高く寄せる、土寄せという作業を行うことで光を遮断し、ねぎの軟白部分が長くなるように栽培していきます。

そして関東で代表的なのが深谷ネギですね。

長い参道を戻り街道を少し進むと、やっと歩道区分のある道になりました。

枝を下してずんぐりしてますが、結構樹齢を重ねたような銀杏並木が続きます。

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 持参案内書では右手に御嶽神社、そしてその先左手にも御嶽神社とありますが、

右手の御嶽神社は見過ごしたようです。

(帰宅して調べた深谷市の神社仏閣一覧に御嶽神社は2か所ありましたが、場所が違ってます。ただ、ネット地図で見たところ道右手に御嶽神社とありましたので、やっぱり見過ごしたのでしょうか)

先左手に常夜燈が見えてきてきました。

一角には鳥居のある境内になっていて、社殿はなく石碑や石塔など多くが建てられてます。

御嶽神社木曽御嶽山遥拝所)で「一心 並木一心霊場 」と言うようです。

一心はは木曽御嶽信仰の御嶽講行者で、講の一つ一心講の開祖。

 

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1852年(嘉永5年)ころ、一審の弟子、盛心が並木国済寺の東北済に

御嶽山遥拝所を建立し、一心の歯髪を納めた宝篋印塔を建立した。

1937年(昭和12年)この地に遷座

一番奥に御嶽三神碑がある。かたわらに不動明王。一心大菩薩宝塔、盛心大菩薩宝塔がある。一心と普寛の石像。一心八十年祭碑、百年祭碑、百五十年祭。盛心百年祭碑。盛心百五十年祭碑などが建てられてます。(参『木曽御嶽信仰』より)

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(木曽の御嶽山・・懐かしいな・・初めて山小屋へ泊ったわね・・て、

  しばし話が弾みました)

右手の木立の中に昭和に建てられた芭蕉の句碑のある、愛宕神社があります。

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少し先右手は、小学、中学、そして高校と学校が並んで文教地区。

道沿いは木々が蔽われてます。

街道から左手奥に国済寺があるのですが、街道には道案内標識もなく、

見当をつけて左への細い道へ入ると、左手に白壁の塀が続きます。

塀にそて進むと開かれた脇門があり境内に入りました。

正門まで戻ってみるとすぐ右手は国道17号でした。

接した辻に当たるところに、道祖神六地蔵があり、カキの木にはたわわに秋の実りがありました。

国道17号の拡張に伴い、ここに改修されたそうです。

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常興山と号す臨済宗 南禅寺派の寺院・国済寺。

約8万坪と言われる境内が広がってます。

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康応2年(1390)深谷上杉氏の祖、第六代関東管領上杉憲英が開いた寺で、

正門から入山すると、禅宗様式の簡素な美しい総門、三門、本堂と続きます。

総門(黒門)

深谷上杉家は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつで、後年

関東の雄、北条の傘下に入り、豊臣秀吉の北条征伐にて所領を失った。

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三門、鐘楼

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本堂

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本堂裏手には、県指定遺跡、上杉憲英公墓や上杉家歴代の墓所がある。

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 徳川家康から天正18年(1590),寺領30石の朱印状を下付された由。

国済寺を後に街道へ戻ります。

この辺り江戸末頃には450本もの松並木が美しかったと言うが,いまは銀杏並木に変っていて,昔日の面影はありません。

国道17号と交差する手前に「見返りの松」石碑が立ってます。

深谷宿に泊まった旅人が江戸に向かう時,振り返って遊女と別れを惜しんだといわれてますが、松は平成18年に枯れ、いまは2代目、少しは樹らしくなってきましたが、

まだまだ若木ですね。

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 (余談、歩道のマンホール蓋やタイル画、椿がアレンジされてます。

平成の大合併以前の旧深谷市の花だったんですね。)

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 右角にお馴染みの讃岐うどんの店。

時間は11時、朝食が早かったのでカミさんがお腹が空いた!早めのお昼に。

たっぷり盛ったネギは・・・深谷ネギ!・・???

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 お昼をいただき、足も休めて街道へ。

大きな広いお宅の庭は、バラの園。

よく見るとバラの蕾に袋をかぶせてる!

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 街道は再び歩道区分無しの道となります。

そして先に大きな常夜燈が現れます。

深谷宿常夜燈で、ここが江戸口、深谷宿の入口いなるんですね。

現在の常夜燈は明治の建立で,高さが約4m,中山道中最大級の常夜燈といわれている。

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深谷宿は 中山道、江戸から9番目、19里5町(約78km)

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、本陣1軒、脇本陣4軒、

旅籠80軒で宿内人口は1,928人で、中山道で一番大きな宿場町だったそうです。

江戸をたった旅人には2泊目の距離の宿場町。飯盛り女も多く、大変賑ったと

言われます。

英泉画・深谷宿

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(余談)

常夜燈が建つ場所には中山道を横切って、南北に延びている細い道が続いてます。

この道は、今は閉鎖された日本煉瓦製造㈱と深谷駅を結ぶ軌道跡で、現在は遊歩道に

なってます。

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日本初の日本煉瓦製造。

あの東京駅も深谷の煉瓦なくしては出来上がらなかったでしょうね。

http://www.city.fukaya.saitama.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/76/panf-nihonrenga01.pdf

そして深谷といえば渋沢栄一生誕の地です。

明治維新騒乱の時期には最後の将軍、徳川慶喜に仕え、日本近代経済界の父ともいわれます。

http://www.city.fukaya.saitama.jp/shibusawa_eiichi/shokai.html

旅へ戻って、右手に国登録有形文化財に指定されてる、大谷邸があります。

二階建て洋館付和洋折衷住宅。

昭和恐慌の時、時の深谷町長故大谷藤豊氏が、お助け普請で建てたといわれます。

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大谷邸左先には江戸時代後期創業と言れ 宿場時代からの袖蔵のある建物で営業している米屋「大政(だいまさ)」がありました。

(袖蔵は時代の流れ、通信機器店舗)

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だいまさの先、十字路を右手に入ると浄土宗・東源寺があります。

門前に明和年(1768年)建立俳人・菊図坊祖英塚があります。

境内には葬儀中の様子なので、お参りはしませんでした。

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街道にもどり少し行くと唐沢川に架かる行人橋。

たびたび氾濫で流された橋を、行人という僧が托鉢をして架けなおした、と言われ

橋のたもとに石碑が立ってますが、擦れてしまい全く判読できませんでした。

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橋を渡りしばらく先に大きな通りとの交差点。

大きな通りを右に行くと先に国道17号が横切ってます。

その手前右に、家康の甥、松平康直開基の福寿院がありました。

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広い通りを横断し、街道の一本北の通りを行くと、浄土宗・三高院があります。

この寺も徳川家康関東入国後に深谷1万石の城主となった、

松平源七郎康直(文禄2年1593年寂)が開基となり創建したといわれます。

康直は25歳で没したようです。(墓所は奥に入れなかったため未確認)

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 三高院から一本西の道が街道47号で、本住町、仲町付近から、深谷宿街になるようです。(先の交差点が仲町交差点、真っすぐが深谷駅

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仲町交差点から街道を少し戻ると、東側に「きん藤旅館」があり、

脇本陣を務めました。

創業者の藤平が近江の国出で近藤と名乗ったそうで、今も盛業中です。

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向かいに煉瓦造りの大きな「卯建(うだつ)」をもつ商店

さすが煉瓦の街、深谷ですね。

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「卯建(うだつ)」とは、隣家との境界に取り付けられた土造りの防火壁のことで、

これを造るには相当の費用がかかったため、裕福な家しか設けることができませんでした。 すなわち「うだつが上がる」とはこのことなんですね。

(参、四国旅での徳島のうだつの町、美馬市の白壁うだつ)

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PM12:35、

深谷宿のハイライトはこの後も続きますが、今日の旅はここ深谷市、仲町で足止めで、いままでで一番短い旅区間となりました。

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カミさんの希望で、これから遠回りですが南下して、県央の伊奈町バラ園へ寄り道をして帰ります。

もう十年以上前の春に、一度訪れたことがありました。

左へ行くとJR深谷駅

あの東京駅と遜色なしの煉瓦つくりの、美しい駅です。

深谷の煉瓦なくしては東京駅はあの美しさを実現できなかった納得!!

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次回はもう少し煉瓦の町深谷を散策してから、次の本庄宿へ向かいたいと思ってます。

北風の厳しい季節に向かいますが、

元気なうちに、歩けるうちにと旅は続けます・・

 

 

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第6回) 熊谷宿へ 後編

 

 

10月22日、吹上駅前を旅立ち、熊谷駅踏切を渡って、昼食タイム

続き・・・

 

午後1時20分、交差点を横断直進の国道17号(中山道)へ向かわず、

道を北へ取り熊谷直実像のある熊谷駅前へ向かいます。

ロータリーへ来ましたが、うん?ずいぶん小さいな・・

と思ったら、東口のロータリーでした。

大きな駅ビルに沿って進むと、明るい大きな北口ロータリーへでました。

(浦和のサッカー、熊谷のラグビーですね)

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直実像は近寄れない広場の中に立ってます。

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熊谷 直実(くまがい なおざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。

武蔵国熊谷郷(現埼玉県熊谷市)を本拠地とし熊谷を名乗った一族です。

当初は平家に仕えていたが、石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従し御家人となる。

寿永三年(1184)一ノ谷の戦いで17歳の平敦盛を討ったことから、世の無常を感じ、後諸々の事情もあって出家し、法然上人の門に入り、名を法力坊蓮生と改め念仏修行に明け暮れた話は、平家物語や能、歌舞伎で有名ですね。

(像の周りは車の周回路で近寄ることができません。残念ながら案内板などもなかった

様子)

〇出家した直実の逸話は、東海道にもありました。

熊谷下向での東行逆さ馬の事。
西方極楽浄土は西方にあると思い、西に自分のお尻を向けてはならないと考え、馬に鞍を逆さにおいて、後ろ向きに馬に乗って東海道を下ってきました。

〇小夜の中山での山賊との事。
僧となった蓮生は、「殺生はしない、路銀は全部やるから持っていけ。」
と財布を山賊に投げ与えた。

〇藤枝宿での十念質物の事。
無一文になった蓮生は、郷士福井憲順に路銀を貸して欲しいと頼むと、「質物がなければ貸せない」と言われた。
蓮生が十度念仏を唱えると、蓮生の口から光り輝く仏が現れ憲順の口に入った。
ありがたさに喜び、路銀を貸してくれた。
その後、蓮生が京都へ上るため藤枝を通ったとき、借りた金を返し、質入れした十念を返して欲しいと言い、十念を唱えると、憲順の口から仏が現れた。
「最後の一体の仏だけは、私達にください。」という憲順の妻の頼みを承知した。
蓮生の信仰に教えられ、憲順夫妻が私財を捨てて建てた寺が藤枝の熊谷山蓮生寺だという。

 駅からまっすぐ東に延びる広い通りを国道17号に向かって進みます。

真ん中を星川が流れるその名も「星川通り」を渡り17号の筑波交差点で大きな歩道橋を渡り、中山道復帰です。

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市役所入口交差点にきました。

ここから先が熊谷宿の中心になる感じです。

(調べても江戸からの入口となる木戸がわかりませんでした)

現在の埼玉県熊谷市にあたる「熊谷宿」は

中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて8番目の宿場。

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、宿内人口3,263人、

家数1715軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠19軒、問屋場1軒、高札場1箇所。

旅籠屋の軒数が19と少く、宿泊業に依存せず、絹屋、綿屋、糸屋、紺屋などの

機織関連の店、茶屋やうどん屋、穀屋などが軒を並べるなど、商業都市として賑わいを見せていたと言われます。

f:id:hansui:20161024175230j:plain五街道分間延絵図(江戸時代)

市役所通りを右手に行くと、平安時代延喜五年(905年)、宮中において延喜式式内社に指定された大変古い「「高城神社」があります。

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入口右手の鉄製常夜灯は、高さ2.75mで天保十二(1841)年に江戸、京、桐生、高崎など 150人ほどの紺屋により奉納されたもので、その名前が台座の周囲に彫られている。

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そして、樹齢800余年と言われる、ケヤキの御神木が風格を漂わせてます。

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高城神社の表参道を17号に戻り北へ向かうと交差点の向こう側に、

3階建てのレトロなビル1階に蕎麦屋あります。

向う側の信号機、左に小さく見えてる立て看板、下に石碑。

そこが札の辻・高札場でした。

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(信号を渡らなかったので、拝借写真)

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蕎麦屋と言えば、十辺舎一九が、「東海道中膝栗毛」の弥次さん喜多さん

中仙道編で熊谷宿へ登場させ、

「(江戸に向かう途中)
高柳、石原をうちすぎて、熊谷の宿に至る。
弥次「ナントここに評判のそば屋があるということだ。一杯食っていこうか。」
喜多「ソレソレ、久しく蕎麦を食わねえ、たしか梅本とかいう家だ。」
弥次「オオ、その梅本よ。ハハアここが布施田だな。これも評判のいい宿屋だ、ヤア蕎麦屋はこれだ、これだ。」
と、うち連れてかの梅本へ入り、
弥次「モシ、ぶっかけを熱くして二膳たのみやす。」
蕎麦屋「はいかしこまりました。」と早速二膳もってくると、
喜多「なるほどいい蕎麦だ。そしてめっそうに盛りがいい。汁のあんばいも申し分なしだ。」
弥次「こりゃ、一首やらずばなるめえ。」

>熊谷の 宿に名高き故にこそ よくもうちたり あつもりのそば<

梅本の蕎麦を、一ノ谷の戦いで直実が討ち取った敦盛(あつもり)とかけたお話。」

(拝借逸話)

こんなにわか仕込みうん蓄をカミさんと話しながら足を進めると、本町で再び右へ行くと直実の父の熊退治にまつわる千形神社。

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神社前をすこし北へ向かうと、熊谷直実が出家し、ひたすら念仏を唱えた草庵が始まりと言われ、立派な山門を構えた浄土宗・熊谷寺(ゆうこくじ)があります。

境内に熊谷直実の墓と伝えられる宝筐印塔があるそうですが、一般拝観はお断りになっていて入れませんでした。

(法要などがない限り、お願いすれば拝観できるとの情報もありますが)

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右手に八木橋デパートの建つ17号へ出てきました。

あっ、本陣跡は・・行き過ぎた、道のむこうだ・・

17号を少し戻った本町一丁目信号交差点を渡ると、明治の火災と戦災で失われてしまった、敷地1600坪、建坪700坪、47部屋あり国内最大規模であった竹井家本陣の跡碑がありました。

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 再び交差点を右手に渡り、街道の右側を進み鎌倉町交差点先に埼玉県内初の百貨店、

創業110年を超えた老舗百貨店「八木橋百貨店」に行き当たります。

街道案内図を見ると、建物の中に線が引かれている???と思ってましたが、!

なんと中山道が1階フロアを通ってるということなんです!!。

かつては、旧中山道を挟んで北側と南側に分かれて店舗が置かれていたが、

1989年に改築する際に、敷地の一部を公共の歩道として寄付することを条件に

中山道を遮断する形で建設された。

そのため、1階には旧中山道の位置に幅を広めに取った店内通路が設置されている。

それぞれの端には出入口も設置されているため、営業時間内であれば、迂回せずに旧中山道を辿ることが可能になってます。

街道に沿った建て方なのか、国道17号側は少し端すって建てられてますね。

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いまでこそ隣県の前橋や館林などに首位の座??を奪われた格好ですが、

熊谷と言へば猛暑の街・熊谷です。

 熊谷市で国内観測史上最高の40.9度に達したのは、平成19年8月17日。

熊谷の夏の風物詩の一つ、暑いぞ熊谷!『大温度計』はこの百貨店前に設置されるんだそうです。

店前交差点は鎌倉町。この付近を鎌倉街道が通っていて、追分でもあったのかな。

(未確認)

百貨店の化粧品売り場の前を30mほど抜けると正面西口に出る。

西口を出ると一番街アーチを通り二股の道右へ。

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しばらくの間道の両側に点々と百貨店の駐車場が続いてました。

今や駐車場が備えてなければ集客できない時代ですね。

歩道区分のない弓なり左カーブの道は、すぐに国道17号に合流し石原地区へ入ります。明確ではありませんが、この付近が昔の熊谷宿の西端(京口)であったと記された資料がありました。

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 少し先の石原1丁目歩道橋の先に「かめ道」の石原公園があります。

かめ道とは、

東武鉄道熊谷線(妻沼線)の跡地に整備された公園。

この路線を走っていた電車が、カメ号(我々のように、のんびり走ったか?)と呼ばれていたことに由来して、かめの道公園という。

この公園は、秩父鉄道上熊谷駅を過ぎ北に分岐したところから始まり、第2北大通りまで約1.7kmで4つの区域に分かれてます。(③のところ)

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 石原公園には3基の道標が残されています。

左側は明和3年(1766)の碑で 「ちゝぶ道、志まぶへ十一り」とある。

「志まぶ」とは秩父三四カ所巡礼道の「第一番四万部寺」。

中央は安政5年の碑で「秩父観音巡禮道、一ばん四万部寺へ、たいらみち十一里」。

右側は弘化4年(1847)の碑で「寶登山道 是ヨリ八里十五丁」で江戸講中

秩父長瀞の「宝登山」登山記念に建てたものだそうです。

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 秩父へはよく行きますので、なじみの寺、山ですね。

片側2車線だった国道17は、ここから片側1車線となり、

立派なお屋敷の塀が続いた先に熊谷警察。

交差する道、右へは国道407号。利根川を渡って群馬足利方面へ。

左へは140号、秩父方面を経て山梨へ。

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道は直っぐにさらに300mほど行くと、旧街道は石原北交差点の先二股で左へ

17号と別れます。

すぐ右手に日本橋から17番目、市指定史跡、「新島の一里塚」の北塚。

樹齢300余年の欅が塚の木でしたが、平成22年9月の雷雨により

大半が折れたものの、今は再び若枝が芽吹きよみがえりつつありました。

ガンバレーケヤキ!(応援したくなりますね)

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一里塚のすぐ先、細い道との十字路角に「忍領石標」があります。

安永9年(1780)、忍藩主が領地の境界を示し、他藩との境界争いを防ぐため十六か所にたてた石標のひとつ。

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新島と石原の境にあり、高さ190センチメートル、幅30センチメートルで、「従是南忍領」と刻まれている。県指定旧跡。

先に松原の立て場跡があるようですが、確認しないまま通り過ぎてしまったようです。

 左手に浄土宗新照寺があり、お参り。

山門前に享保6年(1721年)建立と言われる地蔵尊馬頭観音などなどの

石仏石塔郡がありました。

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時刻は午後3時、Caféタイムにと街道を右手に離れ、国道17号のコンビニへ。

17号を渡る手前に、小規模ながら隣接するお宅で育ててるのでしょうか、 良く手入れされてるバラ園がありました。

うす曇りで日差しがないのが惜しいですが、秋ばらが綺麗に咲いていて、

少しバラを育ててるカミさんは大喜び。

園内に足を踏み入れは遠慮して、周りを2度ほど回りしばし秋ばら鑑賞。

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20分ほどのCaféタイムをして街道へは戻らづ、国道17号を旧道と合流地点まで

歩きます。

左右に広大な田園が広がってます。

稲の収穫が終わり、二毛作での麦の作付けも間もなくでしょうね。

新島から玉井窪地区へ入り、 農業総合研究センターの歩道橋のところで

旧道と合流します。

歩道橋手前に道路距離標、東京へ70km、大宮へ40km、

向う側には東京から70km深谷へ7km。歩いて来たんだな~・・・

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試験場を過ぎ、すぐに街道は17号と別れ右手に県道264を進むと、すぐの付近が

玉井窪川越場跡、筋交橋。

満水時には人足による川越しが行われたそうですが・・・

今はひとっ跳びできそうな細長い用水路なんだけど・・(昔はいく筋も川があったのかな~)

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不動尊道祖神、風格ある家並みを見ながら進むと、。

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 熊谷バイパスが立ちはだかり、歩道橋で渡ります。

おや、送電線にコサギが空を見上げてる!

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 歩道橋を渡り進むと右手に広がる田園の中に、島のように小さな森を作って

お社が見えました。

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 堂々たる門構えのお宅を過ぎて、上の茶屋集会所脇に地蔵座像堂。

街道資料を見ると熊谷・深谷の中にあたり、昔は茶店があったそうな。

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おっ、これ何だ??高圧鉄塔の並ぶ幅広い地帯が長~く緑地帯になってます。

(あとで聞いたら玉をさえる下の台が井桁になていて「玉、井桁・・玉井」)

 

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田園が見なくなり家が立て込んできました。

右手に観音堂があり観世音菩薩が安置されてます。

境内はたくさんの地蔵尊庚申塔があります。手持ちの街道資料では詳しくはわかりませんでしたが、一説には区画整理などで撤去されていたのを、個人の方がここに安置し施主となられたとも。

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街道を横切るコンクリート橋の用水路を通ります。

橋は「市右衛門橋」のひとつなのだそうです。

奈良堰幹線用水路と呼ばれ、玉井・別府地域を南北に走る用水が流れてます。

「江戸時代、荒川の水を得るための水利権をめぐって様々な闘争が行われるなど、農業用の水確保は重大な課題であった。

18世紀後半、奈良村の慈善家、吉田市右衛門(三代、宗敏)は多額の私費を投じ、用水路の整備を行った。

この恩義に地元農民は感謝の意を込めて、用水に掛かる橋に対して「市右衛門橋」と名付けた。中山道と奈良堰用水の交わる橋においてもこの名前が残されている。」

中山道、資料と文化財より引用)

地図で確認すると中山道の玉井地区の東方に奈良地区というのがありました。

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夕暮れも近く午後の4時半です。

大きな食品スーパー前を過ぎると名無しの十字路になり、左へ道は17号を横断して

JR高崎線籠原駅になります。

吹上から約15km、日本橋から約71kmを越えました。

今日の旅はここで足止めし、車を止めた籠原駅前へ足を向け家路へ。

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中山道、夫婦旅はまだまだ・・歩けるうちに、元気なうちに・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第6回) 熊谷宿へ 前編

>平成28年6月18日、3年半をかけて東海道五十三次を旅し、京の三条大橋に立ちました。 そして夫婦は旧中山道69次の旅、再び京を目指して歩いています。

 

10月15日(土)、江戸から7番目、鴻巣宿を過ぎ、次の熊谷宿との中間、

吹上にて足止め。

 

10月22日(土)、旅の再開です。

マイカーにて家を早めに立ち、熊谷宿の先JR高崎線籠原駅前に駐車。電車にて

吹上駅へもどります。

AM9:00、吹上駅前を旅立ち。

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 昨日まで晴れの予報が今朝は一日中うす曇り。

(また予報はハズレだね)

でも歩くのにはいいのかもしれません。

日本橋から数えて7番目の宿場である鴻巣宿と8番目の熊谷宿との中間の吹上は、

茶店や土産物屋などが軒を連ね小規模ながら間の宿でした。

いまは面影も失われてしまっています。

右手駐車場付近が茶屋本陣林本陣跡で、明治天皇が小休止したようです。

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本町交差点に、中山道案内石碑。

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案内石碑の通り先の吹上本町より県道を左手に入ると、ここからは歩道区別のない一般道。右手に1751年ー1764年(宝暦年間)に造立されたいぼ神様といわれる地蔵を祀る東曜寺(創建年代不詳)、隣が吹上の鎮守「吹上神社」

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先へ進むとJR高崎線に寸断され、跨線橋歩道にて渡ります。

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少し線路沿いに進み、ゆるく左手へと道は榎戸地域(旧榎戸村)へと続きます。

民家の一角に1786年の建立といわれる猿田彦大神碑。

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先の右曲がり角に、中山道道標。

 

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道標の右手に入ると、トイレのある榎戸堰公園があり、

元荒川が流れている。

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元荒川は古くは荒川の本流でした。しかし寛永6年(1629年)、伊奈半十郎忠治により、荒川は石原(熊谷市)で現在の荒川に流路を変えることになりました。

その結果、これまでの荒川は佐谷田さやだ(熊谷市)からのわき水を水源とした河川に

なり、全長:約61kmの「元荒川」と呼ばれるようになりました。

(湧水が源流だったとは初めて知りました)

そのさきに小さな小川がありレンガ造りの橋がかかり「元荒川起点」の標石がありました。明治時代に造られた農業用水の道路橋を兼ねた煉瓦樋管で、源流との意味ではなく、大正~昭和初期に県で実施っした改修工事の起点のようです。

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右に左にと街道らしくゆるく曲がりながら進むと、正面に荒川の土手が現れます。

土手下に権八延命地蔵(別名「物言い地蔵」)が祀られてます。

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旧東海道・品川の鈴ヶ森刑場の案内板にも権八の名があったね)

権八地蔵は鴻巣宿の勝願寺にもあり、二体目です。

(英泉描く「熊谷宿八丁堤の景」はここ、との説もあるようです。)

中山道は地蔵堂の横を通って熊谷堤に上がり、しばらくは堤の上を歩いて行きます。。この付近で鴻巣市から熊谷市・久下地区に入り荒川の土手(熊谷堤)を歩きます。

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浅間山,赤城.榛名,谷川岳連峰が見えるはず・・・・

うす曇りで、遠くに見えるはずの山々は全く見えません。

浅間らしきが、かすんだ中に見えたような・・

鴻巣で川幅日本一とありましたが、熊谷堤も対岸が見えない広さです。

しばらく行くとY字路、いったん土手下へ下ります。

下ったところに小さな垣根囲いに大曲八幡神社と天徳5年(1715年)建てられた

青面金剛像と寛文6年(1666年)建立・庚申塔があり、

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その先に安永8年(1779年)建てられた「馬頭観音」があります。

 

 

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その先から再び土手上(熊谷堤)を歩きました。

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この熊谷八丁堤は、天正2年、針形城主・北条氏邦が荒川の氾濫に備えて堤を築き

、江戸時代にには忍藩が修築を行いったよし。

堤道には頻繁にこの標識が現れます。

初めは道路の距離標と思っていたら、なんと川の海までの距離でした。

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街道は右下の道ですが、広がる景色があるので堤上道をあるきました。

しばらく進むと昭和22年(1947年)のカスリーン台風で、堤防決壊の跡碑

があります。

この台風は利根川の氾濫とともに、関東下流木域の甚大な被害をもたらしてます。

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並行して流れていた元荒川が熊谷市との境のようです。

土手下に建つマンション前に鳥居とお稲荷さんの一角が日本橋から15番目

「久下新田一里塚跡」すこし離れて草むらに埋もれて馬頭観音石碑。

今の道は、昔の土手道中山道とは少しずれてるんですね。

マンションの向こう側は元荒川が流れていて行田市との境。

橋を渡ってまっすぐ250mほど行くとJR行田駅です。

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しばらく堤上歩きを楽しんでると、道は二手になり堤をくだる道へ下り、久下の集落へと入ってゆきます。

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集落に入り右手に小学校、先に「久下神社」ひっそりと鎮座しています。

歴史は古く 源頼朝の前で熊谷直実と領地争いをした久下直光が創建した三島神社で、

後に周辺の神社を合祀し明治になって久下神社となった。

f:id:hansui:20161023165248j:plain境内には嘉永4年(1851年)建立の常夜燈や稲荷、庚申塔道祖神らしきや祠が

多くありました。

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白壁土蔵の家などが建つ久下村を進み、県257久下橋への高架下を通り再び熊谷堤へ向かって行くようです。

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静かな街道を十数分歩くと個人のお宅門横に「中山道碑」が置かれてます。

「ここは久下上宿」と「この街道、旧中山道  屋号・大銀治屋」と刻まれているので

鍛冶屋を営んでいた家だったのでしょうか。

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 みちはこの先で堤に突き当り、堤下が権八久下公園になってます。

一角に三つ目の権八地蔵のお堂、熊谷堤改修碑があり、寛政8年(1796年)建立の塞神道標には左面に「左松山道」、右面に「右熊谷道」と刻まれている。

道標の通り、右に進めば中山道熊谷宿、左に進めば久下の渡しで荒川を渡って約10㎞で松山宿(現東松山市)方面になる追分だったようです。

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 堤改修工事にて旧中山道は中断されたようですね。

道は堤を上って続きます。

上には久下の渡し&冠水橋跡解説板が立ってました。

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昭和30年ころまで船渡しがあったんですね。

遠く下流に見えてるのが新久下橋のようです。

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堤を右に下ると「カッパの妙薬みかりやさん」のみかりや茶屋跡で、 ここが「英泉の描いた『八丁堤の景』」のようです。

消滅していた旧道と合流したようです。

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左手にでかい案内板。

当地周辺の武蔵国大里郡久下郷に居住した鎌倉幕府御家人久下次郎重光が、

治承4年(1180)源頼朝の石橋山挙兵の時の駆け参じ武功をたて、頼朝より下賜された「丸に一の字家紋」。

東竹院は久下家の菩提所でした。

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参道まえに庚申塔などの古佛が並んでます。

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境内に達磨石と言われる大石があります。

寛文年間(1661-1672)に忍城主が、禅宗の祖達磨大師に似たこの巨石を、秩父かからいかだで運ぶ途中で川に落ちてしまい、何度か引き上げようと試みられたものの、度重なる荒川の洪水で行方が分からなくなってしまってました。

それから250年ほど経った大正14年、この伝説の達磨石が荒川の東竹院のすぐ前で偶然に発見され、 当時の青年団など有志の手により、川底から掘り起こされ、東竹院に安置されましたそうです。(こりゃ運ばされた人々は苦労したでしょうね)

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隣から子供の歓声が聞こえ、なんだろう??

突き当りが土手で手前に水槽がたくさん並んだ「埼玉中央漁協」が

ありました。

 

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秋恒例の家族釣り大会が開かれてたんですね。

水槽でホテイアオイ(左下)が綺麗に咲いてました。

ぐるりと炭火を囲んだ串焼きの穴なかに、金色の魚が、イワナかな?(右上)

初めてみたね。

しばらく進むと非常に澄んだながらの川に出合います。

橋の名が「熊久橋」

この付近が久下直光と熊谷直実との領地争いの地だったようです。

(ということは、、建久3年(1192)源頼朝の御前で直光と訴訟対決中、

裁決の前に直実が出家してしまう原因となった場所!)

そしてこの流れは元荒川源流部で、世界で熊谷市にしか生息していない

県の天然記念物・希少魚「ムサシトミヨ」が生息しているそうです。

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元荒川の水源は湧水と聞いてますが、水量も多く何より澄み切ってます。

豊富な湧水があるのかと思いましたが、聞いてみると今は

源流部に設置されてる「熊谷市ムサシトミヨ保護センター」において、

ポンプで汲み上げられた地下水を流しているんだそうです。

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この先で右まがり先で街道を見失ったりしたが、足を進めると小さな公園に

江戸日本橋から16番目、八丁一里塚跡がありました。前の一里塚と個々の間に

八丁堤があることから「八丁一里塚」と呼ばれたそうです。

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公園フェンスに

あら!いい色のッルコウソウ

さっそく、種を少しいただきました。

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一里塚を後にすると、街道は家が立て込んできて、左手に大きな熊谷駅舎の見える手前で、秩父鉄道の踏切、新幹線の高架下、さいごに高崎線の第六中仙道踏切を渡ったて

広めの賑やかな通り交差点へ。

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街道は交差点を横断し、もう少し先の国道17号中山道)銀座1丁目交差点へと

進むのですが、時間も12時半。

すぐ右の大きな、新しくできたとみられるショッピングモールにて、

足休めを兼ねて質素にランチタイム。

(パンも良かったが、アイスコーヒーがとても美味しかった)

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旅は午後の部、後編へ・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   第5回 鴻巣宿~吹上駅前

江戸から7番目、鴻巣宿を後にします。<5回目、中山道旅の続きです。 すぐに第3中山道踏切を渡り、旧j中山道(県365)は北鴻巣、箕田(みだ)に向かいます。

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左手に曹洞宗寛永11年創建の永林寺、

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さらにすすむと天長2年(825年)創建の古刹、真言宗光徳寺が あります。

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右手に渡辺綱ゆかりの馬頭観世音菩薩を祀る「箕田観音堂

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左手奥に宮登神社。本殿裏に市指定史跡、宮登古墳があります。

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左に創144年の箕田小学校、右奥に永長2年(1097年)開山、徳川家代々将軍より寺領5石を給付された 真言宗豊山派の龍昌寺がありました。

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小学校を過ぎて右側に箕田郷27ヶ村の鎮守、氷川八幡神社があります。 箕田郷は箕田源氏(武蔵武士)発祥の地、境内に宝暦9年(1759年)建立の箕田碑があります。

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しばらく進み左手に馬頭観音拝み先を右奥に入ると、

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承平元年(931年)創建の氷川神社が 古墳の上に鎮座してます。

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神社の前にある真言宗のお寺の塀沿いに行くと、

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武蔵水路に突き当ります。 水路は首都圏の水確保のため利根川から荒川に引き入れた全長14.5kmの用水路でした。 昭和40年(1965年)完成。

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少し進んで、右は行田(忍)、館林を通り、日光例幣使街道に合流する日光脇往還

館林道で日光裏街道と言われます。 (北鴻巣駅は右へ行きます)

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中山道は左へ入り、入口には地蔵堂庚申塔があります。 鴻巣宿からほぼ一里(約4km)、旅人はここらで一休みしたのか往時は立場があったという。

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街道に入ってすぐに、石塔が2基(1727年、1714年建立とか)、すぐ先に正徳2年(1712年)建立の庚申塔罔象女神(みつはのめのかみ)が祀られています。 そして右手に祠の中に六地蔵碑。

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田園風景の広がる中山道を進みます。

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左手に道を折れて入ると、正徳2年(1625年)開創の曹洞宗・龍昌寺があります。 関東郡代伊那備前守が開山旦那で、境内に多くの板碑がありました・

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街道へ戻ると角に前砂村標石が立ってます。 「江戸より15里余、池田英泉の鴻巣吹上富士はこのあたりで描かれた」とありました。

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 英泉画

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(今日はうす曇り。富士は雲の中、あのふきんかな?)

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「あら、この柱が一里塚跡かしら??) カミさんの声で道端を見ると、白い杭が立ってます。 よく見ると、一里の文字が辛うじて読めました。 江戸から14番目「前砂の一里塚でした。

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(56km来たことになるんだね) 街道案内を見ると、右手の江原家門内に「忍領界石標」があると記してます。 道からチョとのぞかせてもらいました。あの立ってるのがそうだね。

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先の前原信号地で道は二手に分かれます。 「中山道こうのすふきあげ・・・」の中山道道標がありました。 「京三条大橋へ百二十一里三十二町、熊谷j宿・へ二里二十二町」などが刻まれてます。

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中山道みち案内もありましたね。

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中山道は右手の道を行きます。 JR高崎線の線路が近寄ってきて、しばらくして第4中山道踏切を渡って線路を超え、すぐ左手の道に中山道は続いています。

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左を行くと、先にまた二股。妙徳地蔵堂がありました。 眼病に霊験からたかと謂れ、お参りする人が絶えなかったそうです。

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もうすぐ先、吹上駅入り口です。 手前右手奥に、浄土宗のお寺がり、家の宗派なのでお参りによりました。 浄土宗吹上山。勝願寺。 創建は不明のようですが、江戸期徳川家から寺領八石の朱印状を拝領していたそうで、 境内の鐘楼で時の鐘をついたと言われます。

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午後3時、吹上駅前にて、今日の旅は足止めです。

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吹上駅より北本駅へ電車で戻り、駐車してたマイカーで家路へ。 (年内に歩けるとこまで、歩いてしまいましょうね、・・カミさんがのりのり・・) 今度の土日、いづれかも旅かな? 、

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅    第5回 前編  北本~鴻巣宿へ

平成28年6月18日、3年半をかけて東海道五十三次を旅し、京の三条大橋に立ちました。 そして夫婦は旧中山道69次の旅、再び京を目指して歩いています。< 10月10日(体育の日)。 江戸から7番目・桶川宿から8番目・鴻巣宿を目指し、 4.6km歩いた北本市、駅交差点で足止めし、15日(土)再び中山道の旅へ。

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イカーで、前回利用した北本市駅西の駐車場へ。
久しぶりに駅の立食いそば店にて朝食。
(この店は前回の帰りに、次の旅で朝はここでと決めてたんです)

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AM8:30、第5回目の中山道旅立ち。

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中山道(県道164号鴻巣桶川さいたま線)を北へ進むと、右手に寛永元年(1624年)創建の勝林寺があります。境内には馬の顔が刻まれた珍しい馬頭観音が並んでいます。

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道を隔ててはす向かいに、東間浅間神社がありましたが立ち寄らず、旧中山道から離れて左手に入り、 JR高崎線を踏切で渡ると線路に沿って北へ進みました。 この道は、徳川家康中山道を整備した慶長年間の頃まで、初期の中山道(当時は東山道)でした。 中山道が整備された後、江戸時代には「古中山道」と呼ばれていたそうです。

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線路沿いに少し進むと、右手に江戸日本橋から11番目、「馬室原(まむろはら)一里塚」があります。 この一里塚は旧中山道が整備された慶長17年(1612年)に築かれたものだそうです。

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一里塚の標柱を見たカミさんが、「ここはもう鴻巣市なのね」て。 えっ、いつの間の??と地図を見ると、あの渡った踏切の西北は鴻巣市でした。 線路の真ん中をしばらく北本、鴻巣の市境だ続いてるんですね。 左手は田園風景の残る住宅街、右手は市境(古道沿い)の鉄路を電車が走ります。

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1kmほど行くとその名も第二中山道踏切」。渡って北本市へ戻り県道を進みます。

「決定??」

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深井2丁目交差点より、鴻巣市に再び入ります。

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交差点左手に「鴻巣宿加宿上谷新田碑」が建ってます。 付近の上谷新田の村々は、鴻巣宿の人馬応援の役を司ったんですね。

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村は旗本・藤堂家の知行地で、村民の多くは、農閑期に雛人形鴻巣雛」を製作していました。 その後、幟・兜・菖蒲刀・破魔弓・羽子板・盆華などの製造も盛んに行われるようになり 、伝統ある地場産業である「雛人形の町」として今は呼び名も「人形町」です。

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右手奥に真言宗の金剛院、手前に八幡神社が見えました。

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道路左手に「鴻巣市産業観光館「ひなの里」があります。 ひな人形や赤物など鴻巣の歴史を今に伝える展示品や、中庭にはに明治期の蔵(埼玉県の景観重要建造物)もあり、市内の観光案内も行っております。

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ひなの里

http://www.konosu-kanko.jp/hinanosato/

春3月の鴻巣市といえば これだ!! なんどか訪れたことがありました。

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市HP

http://kounosubina.main.jp/

 

本町南交差点の少し手前に鴻巣の江戸口「是より鴻巣宿 碑」があり、江戸から7番目、 日本橋から12里8町(約48km)。本陣:1 脇本陣:1 旅籠:58、家数:566軒。 江戸時代から雛人形の産地で、関東三大雛市の一つとして栄えてきた、大変賑った宿だったそうです。

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鴻巣宿の中心街に入ります。

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左手奥に、門と大きな石柱が見えます。

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文永年間(1264~75年)の創建で、天正元年(1573年)に現在の地に再興された、

「浄土宗・勝願寺」。 広々した境内、江戸時代の建物群は、明治3年の大旋風による

被害と、明治15年に起こった火災によって 殆どが失われてしまい、

本堂は明治24年,鐘楼同43年,仁王門は大正9年それぞれ再建されたものですが、 浄土宗関東18壇林(僧侶の大学のような学問所)の一つで、将軍家より御朱印が与えられ、徳川家の 三つ葉葵を使用することを許されている古刹です。

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本堂の左手に数基の古い墓がありました。 戦国時代末期の武将仙石秀久や、本多忠勝の娘で真田信之に嫁いだ小松姫の墓石が並んでいます。 小松姫は元和6(1620)年、病いの療養のため江戸から草津に向かう途中、 ここ鴻巣で亡くなりました。 (いま大河ドラマは真田一族ですね、小松姫は吉田羊さんだったかな)

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本堂の唐破風正面を飾る透かし彫り彫刻も見事で、下に珍しい「漆喰彫刻」が施されてました。

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街道に戻った先に大きな交差点が現れます。

画像

鴻巣市にはあのピラミッド雛壇を含めて、八つの日本一があるんです。 交差点を左に、道路標識の27号へ行くと、JR高崎線を陸橋で超えた先に、鴻巣の日本一があるんです。 それは、 http://www.city.kounosu.saitama.jp/shisei/gaiyo/4/1455525739895.html http://www.city.kounosu.saitama.jp/shisei/gaiyo/4/ ひな祭りにはこの日本一の川幅を渡て鴻巣に来てたんです。

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なんてお喋りしながら歩いていて「鴻巣御殿跡」入口の案内を見過ごしたようです。 見当をつけて左の道へ入ってみましたが、それらしきものは見当たりません。 通りかかった地元の方にお聞きしても、わからなかった。 探すのあきらめて、細めの道を街道へ向くと「、あらあら、有ったわよ!」

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(平成6年市の試掘調査で存在が確認されたそうです) ははは、こんなちゃんとした案内、見過ごしたんだね・・

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先に鴻巣駅入り口交差点が見えてきました。 この付近から鴻巣宿の中心であったようですが、本陣や脇本陣、旅籠などはすべて失われ、 街道風情はあまり感じられません。

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鴻巣駅入り口に、

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駅前

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日光裏街道が左手を通る手前に、地名の由来になった「こうのとり」の伝説の鴻神社ああります。  明治6年に氷川社、熊野社、竹之森雷電社を合祀し、さらに.明治35年から40年にかけて、 日枝神社東照宮八幡神社などを合祀して鴻神社と改めた。

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とんとんと県道164を進むと、街道は加美交差点で二股にわかれ、旧中山道は左手の県道365線に代わります。 交差点に中山道道標が建っていて、鴻巣宿、西の(京方)出入り口。

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江戸から7番目、鴻巣宿を後にします。

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英泉の鴻巣宿は何処かな?

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後編へ・・・旅は続きます。

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅    第4回  大宮宿 上尾宿 桶川宿 後編

平成28年6月18日、3年半をかけて東海道五十三次を旅し、京の三条大橋に立ちました。 そして夫婦は旧中山道69次の旅、再び京を目指して歩いています。 >9月17日、お江戸日本橋を旅立ち。 上尾宿を過ぎ、Café店でランチ足休め・・続きです。

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県道164号線(旧中山道)、北上尾駅入口を過ぎて右手に、うっそうと茂る木々にうずもれて 黒板塀に囲まれた、お屋敷が見えてきました。 街道資料では紅花の仲買問屋であった豪商須田家」とありました。

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先の家先に秋の七草のひとつ、絶滅危惧種にもなってるフジバカマが咲いてます。 あの海の渡りをする蝶、アサギマダラの大好きな花、南への途中、立ち寄って行ったかな。

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東海道箱根山中でアサギマダラに出会ったね・・・ なんて思い出話をしているうちに、上尾市を後にし桶川市に入ってました。

そばに顔より大きなアメリカ芙蓉、

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わいわい進むと『木戸跡』の石碑が建っていて、ここから桶川宿に入ります。 皇女和宮降嫁通行時、自身番が詰め、半鐘があったとか。

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10月10日、PM12:45、桶川宿へ入ります。 江戸から6番目、10里14町(40.8km) 天保14年(1843)で 人口1444名、総家数347軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋36軒。 英泉描く桶川宿

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桶川宿は近隣の村々で生産された農作物の集散地でもあり、「武州藍(ぶしゅう-あい)」と呼ばれた 染料の藍、「桶川臙脂(おけがわ-えんじ)」と呼ばれた紅花なども取引された。 なかでも紅花は、桶川宿を中心とした桶川郷一帯で盛んに栽培され、最上紅花に次いで 全国第2位の生産量を誇っていた。 (紅花、資料より)

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左手に年代を感じる旅館が現れます。 江戸時代の旅籠の姿を今にとどめる、国有形文化財にも指定されている「武村旅館」です。 今は宿泊できませんが、奥にビジネス旅館として営業してるようです。

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その先に、おっ、まんじゅうもあるよ!「べに花まんじゅう」のお店

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左手路地奥に浄念寺仁王門が見え、浄土宗・浄念寺があります。 室町時代後期の天文15年(1546年)に開創。 この朱色に塗られた仁王門は鐘楼門で、元禄14年(1701年)に再建され、楼門下の一対の仁王像は 明和5年(1768年)に開眼されたものです。

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平成16年(2004)本堂新築落慶。  本尊は、「木彫、阿弥陀如来坐像

 境内には、古いものは正和4年(1315年)、新しいものでも天文19年(1550年)の板石塔婆。 荒川を渡る手前にもあったが、半壊状態。全体像が分かり貴重ですね。

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歩道橋のさき交差点は、左、桶川駅です。 この周りはお桶川宿の中心であったようです。

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交差点を過ぎてすぐに、島村家住宅土蔵の案内板があります。 天保7年(1836)の建築と伝えられ、桁行6間、梁間3間の総3階建ての土蔵です。 国登録有形文化財に指定されてます。 土蔵3階建で 天保7年(1836)の建築と伝えられている。 凶作で飢餓に苦しむ人々に(蔵を建造することで)仕事を与えるために建てられたことから 「お助け蔵」と伝えられている。  内部を公開は毎月第一土曜日、見られませんでした。

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隣が島村老茶舗。 創業は嘉永7年(1854年)、二階の連子格子、、右から「御茶処」と彫られた板看板。 今の建物は昭和初期建てられたそうですが、宿街並みにマッチしたいい風情です。

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さらに隣は「矢部家住宅」 矢部家は、「木半」の屋号で知られた穀物問屋で、 江戸時代に紅花商人としても活躍していました。 中山道に面した土蔵造りの「店蔵」と、その奥へ続く「住居部」と「文庫蔵」で構成されます。 現在の店蔵は明治38年に建てられたものですが、実に時代を感じるどっしりとした風情を持ってます。

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道路対面に小林家住宅主屋(国登録文化財)があります。 発見された棟札から、穀屋(古久屋)吉右衛門が江戸時代天保11年(1840)~嘉永5年(1852)、頃に 建てた旅籠です。 古久(穀)屋吉右衛門」と書かれた棟札が遺されています。 また、文久元年(1861・酉年)皇女和宮の下向時の割書帳には、すでに吉右衛門の名が記されているそうです。  その後、小林家が建物を買い入れ、材木商を営みました。 それに伴い大きく改修され、旅籠当時の間取りは図面に残っているのみですが、 外観は建築当時の姿をとどめています。

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足を進めて、

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矢部家の数軒先にある冠木門が「府川本陣跡」。 本陣は代々府川家が務め、また、名主として宿場の運営にあたっていました。 加賀百万石前田家の宿所であり、また、文久元年(1861年)の皇女和宮の下向の際には、皇女和宮がここに宿泊しました。冠木門をくぐると薬医門があり、その脇に「明治天皇行在所」の碑が建っています。奥に皇女和宮も泊まられたという本陣建物(上段の間、次の間、湯殿等)が今も残っているそうなのです。 今も民家として使用されています。 「本日は誠に申しわけありませんが、公開いたしておりません」 う~ん、残念!・・・と思ったら通年非公開なんだそうです。

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本陣の北隣に脇本陣、対面に問屋場脇本陣が資料にありましたが、 案内板もなく不明でした。 少し進むと左手に「中山道宿場館」があり、桶川宿の観光案内はお任せ下さい! というところですね。 散策マップなど頂き、紅花の桶川の話などいろいろと聞かせていただきました。

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宿場館を後にすると、左手にトイレのある小公園があり、 「桶川宿碑」と「桶川宿案内板」が建てられています。

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公園内に、「お茶博士・辻村みちよ顕彰碑」というのがありました。 辻村みちよ1888年〈明治21〉、足立郡桶川宿(現桶川市)に生まれました。 茶がいろいろな面で良い飲料であるというのは、いまでは当たり前のように思われていることですが、 研究の結果、緑茶にビタミンCが含まれていることを発見し、さらにテキンを取り出すことに成功し、 タンニンの結晶を取り出し、化学構造を明らかにしました わが国最初の女性農学博士にして、お茶の栄養を発見した「お茶博士」だそうです。 (お茶の産地の住人ですが、知りませんでした)

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公園の先を右折、しばらく進むと、12世紀の創建とも言われる「桶川稲荷神社」があります。 縁起によれ明治2年に現在地に移転してますが、創建は嘉録年間(1225~6年)といわれ、 桶川宿の人々の「村の鎮守」となっていたそうです。 境内には、紅花商人が安政4年(1857)に廃寺となってる南蔵院に寄贈し、明治2年に現在地に移転した、 「石灯篭一対と御手水石」がありまる。

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境内正殿に向かって右手に、文字通り、日本一の大きさ・重量(約610kg 121×54×75(cm)である、 力石が奉納されてます。 />

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力石は街道旅でよく見ましたが、これほど大きいのは初めてでした。 境内の道路に面した一角に・・

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桶川宿も終わり近く、左手奥に弘治3年(1557年)の開基と伝えられる曹洞宗大雲寺があります・ ここには「女郎買い地蔵」といわれる1体の地蔵菩薩像が鎮座しています。 文化・文政時代には桶川宿も殷賑をきわめ、「大雲寺の地蔵が、夜毎抜け出して、女郎買いに行った…」   で、和尚さんがこらしめ「地蔵の背に鎹(かすがい)を打ち付け、鎖で縛って動けなくしてしまった」とのことです

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(カミさん曰く、きっと小僧さんたちが遊びに行ったんだね・・・だろうな・・・) 北1丁目陸橋そばに江戸から10番目の「一里塚」があったが、明治9年に取り壊され、案内板のみ建てられてました。

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一里塚跡の先、市役所入口交差点の右手前に「木戸跡」の碑がありました。 桶川宿の京側出口ですね。

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江戸から6番目、桶川宿を後に中山道の旅は続きます。 次の宿場は1里30町(8.3km)鴻巣宿です。

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中山道(県道164号鴻巣桶川さいたま線)を北へと向かいます。 ほどなくして桶川・北本市境の標識を過ぎます。

f:id:hansui:20180218120025j:plain地下を走る高速圏央道を歩道橋で渡ります。

 

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道路脇のドウダウウ、紅葉が始まってます。

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お屋敷だけど・・・・

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本宿交差点を渡ると北本宿碑、・本宿の案内板とがあります。 この付近は慶長9年(1604年)に、宿駅が現鴻巣宿の地に移転するまでは、宿場でした。 元の宿場から本宿と呼ばれるようになったそうです。

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本宿村は明治12年(1879年)に「北本宿村」に改称され、昭和34年(1959年)の町制施行の際に、 北本町となったそうです。

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北本に入ってから、旧中山道(埼玉県県道164号鴻巣桶川さいたま線)は道路拡張が続けられて利用で、 広くなったり、旧道のままだったりを繰り返してます。旧道帯は歩道がなく、結構交通量も多いので、あまりきょろきょろしてられませんね。

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セイタカアワダチソウ、道脇の原っぱで)

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道路向こう、右手に万治4年(1661年)に開山された真言宗の寺院、多門寺があります。 境内の、埼玉県・天然記念物、樹齢推定400年といわれるムクロジ(無患子)の巨木が、高々とそびえてます。

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隣が寛文2年(1662年)、京の北野天満宮を勧請した天神社がです。 学問の神様、菅原道真を祀ってます。

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その先は北本駅入口です。

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時間は午後3時30分。 7番目の鴻巣宿までは1里半町くらいですが、今日の旅は北本で足止めにします。

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旅立ち、宮原から4里強(約12.5km)江戸から約12里(約45km)くらいですね。 亀足夫婦旅は、まだまだ先は長~~い・・・・第5回へと続きます。