歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第14回)    碓氷峠頂上~沓掛 後編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*

 

>左へ進めば20分くらいで軽井沢駅
中山道は右手の道へと進みます。 旅の後編

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左足指にテーピングし、軽井沢宿から1里5町(4.5Km)19番目、沓掛宿

向かいます。

昼食を済ませ、「離山通り」と呼ばれている街道を進みます。

すぐ左手に大型バスが出入りしている専用駐車場が有り、

入口看板後ろの木陰に、馬頭観音が有りまが、よく探さないと気が付きませんね。

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 点々とおしゃれなレストランや別荘がある通りを進むと、

6本の道が交差する円形の六本辻交差点の道路標識が建ってます。

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この交差点は円形(ロータリー)化されており、信号機が有りません。

侵入する車は右手よりを確認して入り、反時計回りですすんで

目的方面出口で左折してゆく方式です。

前にスイスへ行ったとき、郊外の幹線道などの交差点がこの方式でしたね。

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街道はほぼ対面に続く道で、交差点侵入の車の途絶えを確認し、左回りに回って

向かいます。

交差する道の入口に、浅間の湧水を堰き止めた「雲場池」の大きな看板が有りました。

池周りは高級別荘地帯で、秋の紅葉の人気スポット。

11月のシーズンはこの辺は渋滞になるほどです。

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六本辻交差点からは会社の保養所やリゾートホテルやペンションなどが

唐松林の中に点在する静かな街道を進みます。

右手に建築中のリゾートホテルの塀越しに、お椀を伏せたような離山が見えてます。

この山は周囲の山から独立した(離れた)独立峰で、浅間山の寄生火山の1つです。

ここ軽井沢自体が標高1,000メートルのところにあるので、低い山のようですが

標高は1256mもあります。

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避暑地・軽井沢に相応しい、お洒落なリゾートホテル過ぎ、すぐ先右手に、

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庚申塔道祖神などの石仏群があり、街道らしい素朴な風景に出会います。

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その先すぐの離山交差点で国道18号線に合流し、 

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右手、広大な森の中には、「歴史民族資料館」やその先に「市村記念館」がある。

ほかに「旧雨宮邸」(軽井沢を唐松林に変えた明治の実業家)とか「新座敷」と掲記された別荘などが何軒か建ってます。

市村記念館は元は、大正初期のアメリカ式洋館で旧近衛文麿別荘でした。
後に市村今朝蔵(元早大教授・政治学者、雨宮の甥)が購入し、
平成9年に軽井沢町に寄贈され、現在地に移築されたもの。
近衛文麿は“、五摂家の1つ近衞家の第30代目当主で、後陽成天皇の12世孫に
なるそうです。
昭和初期の激動の時代に、3度にわたり内閣総理大臣に指名され、
終戦時の戦犯指名にて自決した公家であり政治家ですね。

 

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広大な敷地内に点在してるので、覗いただけで街道へ戻ります。

市村記念館の先で、中山道は国道から左斜め前方に、しなの鉄道(旧信越線)を斜めに横切っていたのですが線路にて分断され失われています。
すぐ先の<軽井沢中学前>信号で18号を横断、更に”しなの鉄道”の踏切を渡ると

右手へ曲がるのが旧中山道への復帰への道。

 

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踏切を渡り右手へ続く旧道周囲は、静かな住宅街で、緩く坂道を上る感じで続きます。

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ログハウス(売り物件でした)の先を曲がると、

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坂の左手に雄大な浅間山が見えてます。

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中山道でこの付近だけで見られる「左浅間」とは、ここから眺めた浅間なんですね。

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左手の湯川を前沢橋で渡ると、そば畑の先は二股で、左手は中軽井沢駅裏手。

右手に曲がると、しなの鉄道の鉄橋をくぐります。

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左手に坂道を上ると、中軽井沢の駅裏に出ます。

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江戸時代初期の古旧中山道は「中軽井沢駅」の駅裏あたりを通っていたといわれ、

上って左手に「宮之前一里塚」がありました。

江戸の日本橋を出てから38里目の一里塚です。

安永2年(1773年)、沓掛宿が大火に遭い、その際に宿場まるごと移転しましたが、

一里塚だけがこの場所に取り残され、今は石碑が残るのみですね。

(一里塚は移転しなかったのでしょうかね)

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坂道を下って戻り左折すると、湯川に架かるしなの鉄道の鉄橋をくぐります。

ちょうど電車がやってきました。

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鉄橋を過ぎすぐの土手道を上がると、国道18号に当たります。

道路の向こう側の木の下に沓掛宿石柱が建ってます。

ここが江戸方の沓掛宿入り口だったのですね。 

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沓掛宿は江戸から数えて19番目の宿場で、現在の長野県、軽井沢町軽井沢

天保14年(1843年)の記録によると、宿内家数は166軒、本陣1軒、脇本陣3軒、

旅籠17軒で、宿内人口は502人であったそうです。

草津温泉に向かう街道との追分(分岐地点)でもあり、大いに賑わったと言われます。

甲府藩や小諸藩の領有を経て、徳川吉宗が8代将軍となった享保元年(1716年)以後は、天領として徳川幕府の直轄地でした。

「沓掛」の名称は、旅人が草鞋(わらじ)や馬の沓(くつ)を捧げて、旅の平穏を祈った

ことに由来するとも、草鞋(わらじ)を履き替える場所であったからであるとも

言われています。

宿内は5町88間(約668メートル)。

しかし昭和26年(1951年)の大火で町の殆どを焼失し、往時の様子を伝えるものは

殆ど残っていません。

その後は昭和31年(1956年)に沓掛駅が中軽井沢駅と改称したのを機に、

地名も中軽井沢と改称、以後別荘地や避暑地として発展していまが、「沓掛」は

地名としても残されていないそうです。

中山道が整備された当初、中山道は現在の“しなの鉄道線”の線路の南側に

沿うように通り、沓掛宿も最初は一里塚跡が有ったように、現在の中軽井沢駅

南側に作られていたのですが、安永2年(1773年)の大火により、

宿全体が現在の場所に移っています。

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栄泉画 沓掛宿

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国道を石柱側へ渡った先に鳥居が有り、湯川に赤い橋が架かっていて、

その先には、天長年間(824年~834年)に創建されたといわれる、

長倉神社が有ります。

平安時代の文献である「延喜式」にもその名が残るほどの由緒ある神社です。

結構広い境内を持ち、入口周辺には「石碑」や「庚申塔」なども集められていて、

奥に本殿があります。

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長倉神社の境内の裏手に「沓掛時次郎の碑」があります。

碑には

「千両万両枉(ま)げない意地も 人情絡めば弱くなる 

          浅間三筋の煙の下で  男 沓掛時次郎」
という名セリフが刻まれています。

唯一「沓掛」として残っているものはこの「沓掛時次郎の碑」くらいとか。

沓掛の地名を一躍全国的に有名にしたのが「沓掛時次郎」だそうで、

劇作家・長谷川伸さんが書き上げた戯曲『沓掛時次郎』の主人公ですね。

あくまでも架空の人物なのですが、数度にわたり映画化されたことで

全国的に有名になり、また、何度もテレビドラマ化もされ、歌謡曲でも歌われてますね。

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そういえば昔のTVドラマで「木枯し紋次郎」とかが有りましたね。

(関係はないですね~)

神社から街道に戻り、少し南下するところ左手に「旅館岳南荘 升屋本店」と

書かれた旅館の跡があります。

沓掛宿脇本陣の1つ、増寿屋(升屋)でした。

旅館としても既に廃業してしまっているようで、残念ながら草ぼうぼうの

荒れた跡地となってます。

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足を進めると中軽井沢の信号。

左折すると“しなの鉄道”の中軽井沢駅があります。

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進んで中軽井沢交差点のすぐ先にある、八十二銀行の支店の駐車場の奥に

脇本陣蔦屋跡碑」が建てられていました。(赤丸内)

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先の右手の広い敷地の立派な家が、当時「本陣」を勤めていた土屋家で、

今も表札に「本陣」という文字が書かれた表札が掲げられています。

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とここまで来たところで、足の指の痛みが再び強く感じられるようになったため、

大事をとって旅はここまでとし、中軽井沢駅からしなの鉄道軽井沢へ戻ります。

中軽井沢駅明治43年(1910年)、国鉄信越本線の「沓掛駅」として開業しました。

1956年、中軽井沢駅に駅名を改称。

国鉄の民営化に伴い、JR東日本に移管され、平成9年(1997年)、

北陸新幹線(当時は長野新幹線)の開業に伴い、JR東日本から

第三セクターの“しなの鉄道”に移管されました。

現在の駅舎は平成24年(2012年)に完成したもので、さすがは日本有数の別荘地・軽井沢にある駅ですね。

駅は軽井沢町地域交流施設である「くつかけテラス」、さらには軽井沢町立の

軽井沢図書館も併設されてます。f:id:hansui:20170922174748j:plain

軽井沢駅

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足指のアクシデントのため、碓氷峠頂上の熊野神社から約9kmと短い旅でしたが、

歩けた!の充実感は十分。

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帰宅したらすぐに足指のケアをして、さあ、この次はいつの日かな?

さすが軽井沢は高地、駅近くの街路樹は紅葉も始まってましたね。

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PM3:30、軽井沢を出、少し高速の渋滞は有りましたが、

PM6:00、帰宅、再開旅1回目を無事に終えました。

 思いがけなく病で中断した、旧中山道歩き旅。
思い切って連続継ぎ旅は吹っ切って再開「夫婦で楽しむ歩き旅」。

さあ、足指のケアをしっかりして、どんどん進めるぞ!

と、終わり。

真っ赤に実っていた「ハマナス」の実。

甘いかな~

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