*ひょいと歩き出した東海道五十三次。
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*
>左へ進めば20分くらいで軽井沢駅。
中山道は右手の道へと進みます。 旅の後編
左足指にテーピングし、軽井沢宿から1里5町(4.5Km)19番目、沓掛宿へ
向かいます。
昼食を済ませ、「離山通り」と呼ばれている街道を進みます。
すぐ左手に大型バスが出入りしている専用駐車場が有り、
入口看板後ろの木陰に、馬頭観音が有りまが、よく探さないと気が付きませんね。
点々とおしゃれなレストランや別荘がある通りを進むと、
6本の道が交差する円形の六本辻交差点の道路標識が建ってます。
この交差点は円形(ロータリー)化されており、信号機が有りません。
侵入する車は右手よりを確認して入り、反時計回りですすんで
目的方面出口で左折してゆく方式です。
前にスイスへ行ったとき、郊外の幹線道などの交差点がこの方式でしたね。
街道はほぼ対面に続く道で、交差点侵入の車の途絶えを確認し、左回りに回って
向かいます。
交差する道の入口に、浅間の湧水を堰き止めた「雲場池」の大きな看板が有りました。
池周りは高級別荘地帯で、秋の紅葉の人気スポット。
11月のシーズンはこの辺は渋滞になるほどです。
六本辻交差点からは会社の保養所やリゾートホテルやペンションなどが
唐松林の中に点在する静かな街道を進みます。
右手に建築中のリゾートホテルの塀越しに、お椀を伏せたような離山が見えてます。
この山は周囲の山から独立した(離れた)独立峰で、浅間山の寄生火山の1つです。
ここ軽井沢自体が標高1,000メートルのところにあるので、低い山のようですが
標高は1256mもあります。
避暑地・軽井沢に相応しい、お洒落なリゾートホテル過ぎ、すぐ先右手に、
庚申塔、道祖神などの石仏群があり、街道らしい素朴な風景に出会います。
その先すぐの離山交差点で国道18号線に合流し、
右手、広大な森の中には、「歴史民族資料館」やその先に「市村記念館」がある。
ほかに「旧雨宮邸」(軽井沢を唐松林に変えた明治の実業家)とか「新座敷」と掲記された別荘などが何軒か建ってます。
市村記念館は元は、大正初期のアメリカ式洋館で旧近衛文麿別荘でした。
後に市村今朝蔵(元早大教授・政治学者、雨宮の甥)が購入し、
平成9年に軽井沢町に寄贈され、現在地に移築されたもの。
近衛文麿は“、五摂家の1つ近衞家の第30代目当主で、後陽成天皇の12世孫に
なるそうです。
昭和初期の激動の時代に、3度にわたり内閣総理大臣に指名され、
終戦時の戦犯指名にて自決した公家であり政治家ですね。
広大な敷地内に点在してるので、覗いただけで街道へ戻ります。
市村記念館の先で、中山道は国道から左斜め前方に、しなの鉄道(旧信越線)を斜めに横切っていたのですが線路にて分断され失われています。
すぐ先の<軽井沢中学前>信号で18号を横断、更に”しなの鉄道”の踏切を渡ると
右手へ曲がるのが旧中山道への復帰への道。
踏切を渡り右手へ続く旧道周囲は、静かな住宅街で、緩く坂道を上る感じで続きます。
ログハウス(売り物件でした)の先を曲がると、
坂の左手に雄大な浅間山が見えてます。
旧中山道でこの付近だけで見られる「左浅間」とは、ここから眺めた浅間なんですね。
左手の湯川を前沢橋で渡ると、そば畑の先は二股で、左手は中軽井沢駅裏手。
右手に曲がると、しなの鉄道の鉄橋をくぐります。
左手に坂道を上ると、中軽井沢の駅裏に出ます。
江戸時代初期の古旧中山道は「中軽井沢駅」の駅裏あたりを通っていたといわれ、
上って左手に「宮之前一里塚」がありました。
江戸の日本橋を出てから38里目の一里塚です。
安永2年(1773年)、沓掛宿が大火に遭い、その際に宿場まるごと移転しましたが、
一里塚だけがこの場所に取り残され、今は石碑が残るのみですね。
(一里塚は移転しなかったのでしょうかね)
坂道を下って戻り左折すると、湯川に架かるしなの鉄道の鉄橋をくぐります。
ちょうど電車がやってきました。
鉄橋を過ぎすぐの土手道を上がると、国道18号に当たります。
道路の向こう側の木の下に沓掛宿石柱が建ってます。
ここが江戸方の沓掛宿入り口だったのですね。
沓掛宿は江戸から数えて19番目の宿場で、現在の長野県、軽井沢町中軽井沢。
天保14年(1843年)の記録によると、宿内家数は166軒、本陣1軒、脇本陣3軒、
旅籠17軒で、宿内人口は502人であったそうです。
草津温泉に向かう街道との追分(分岐地点)でもあり、大いに賑わったと言われます。
甲府藩や小諸藩の領有を経て、徳川吉宗が8代将軍となった享保元年(1716年)以後は、天領として徳川幕府の直轄地でした。
「沓掛」の名称は、旅人が草鞋(わらじ)や馬の沓(くつ)を捧げて、旅の平穏を祈った
ことに由来するとも、草鞋(わらじ)を履き替える場所であったからであるとも
言われています。
宿内は5町88間(約668メートル)。
しかし昭和26年(1951年)の大火で町の殆どを焼失し、往時の様子を伝えるものは
殆ど残っていません。
その後は昭和31年(1956年)に沓掛駅が中軽井沢駅と改称したのを機に、
地名も中軽井沢と改称、以後別荘地や避暑地として発展していまが、「沓掛」は
地名としても残されていないそうです。
中山道が整備された当初、中山道は現在の“しなの鉄道線”の線路の南側に
沿うように通り、沓掛宿も最初は一里塚跡が有ったように、現在の中軽井沢駅の
南側に作られていたのですが、安永2年(1773年)の大火により、
宿全体が現在の場所に移っています。
栄泉画 沓掛宿
国道を石柱側へ渡った先に鳥居が有り、湯川に赤い橋が架かっていて、
その先には、天長年間(824年~834年)に創建されたといわれる、
長倉神社が有ります。
平安時代の文献である「延喜式」にもその名が残るほどの由緒ある神社です。
結構広い境内を持ち、入口周辺には「石碑」や「庚申塔」なども集められていて、
奥に本殿があります。
長倉神社の境内の裏手に「沓掛時次郎の碑」があります。
碑には
「千両万両枉(ま)げない意地も 人情絡めば弱くなる
浅間三筋の煙の下で 男 沓掛時次郎」
という名セリフが刻まれています。
唯一「沓掛」として残っているものはこの「沓掛時次郎の碑」くらいとか。
沓掛の地名を一躍全国的に有名にしたのが「沓掛時次郎」だそうで、
劇作家・長谷川伸さんが書き上げた戯曲『沓掛時次郎』の主人公ですね。
あくまでも架空の人物なのですが、数度にわたり映画化されたことで
全国的に有名になり、また、何度もテレビドラマ化もされ、歌謡曲でも歌われてますね。
そういえば昔のTVドラマで「木枯し紋次郎」とかが有りましたね。
(関係はないですね~)
神社から街道に戻り、少し南下するところ左手に「旅館岳南荘 升屋本店」と
書かれた旅館の跡があります。
旅館としても既に廃業してしまっているようで、残念ながら草ぼうぼうの
荒れた跡地となってます。
足を進めると中軽井沢の信号。
進んで中軽井沢交差点のすぐ先にある、八十二銀行の支店の駐車場の奥に
「脇本陣蔦屋跡碑」が建てられていました。(赤丸内)
先の右手の広い敷地の立派な家が、当時「本陣」を勤めていた土屋家で、
今も表札に「本陣」という文字が書かれた表札が掲げられています。
とここまで来たところで、足の指の痛みが再び強く感じられるようになったため、
大事をとって旅はここまでとし、中軽井沢駅からしなの鉄道で軽井沢へ戻ります。
中軽井沢駅は明治43年(1910年)、国鉄信越本線の「沓掛駅」として開業しました。
1956年、中軽井沢駅に駅名を改称。
国鉄の民営化に伴い、JR東日本に移管され、平成9年(1997年)、
現在の駅舎は平成24年(2012年)に完成したもので、さすがは日本有数の別荘地・軽井沢にある駅ですね。
駅は軽井沢町地域交流施設である「くつかけテラス」、さらには軽井沢町立の
中軽井沢図書館も併設されてます。
足指のアクシデントのため、碓氷峠頂上の熊野神社から約9kmと短い旅でしたが、
歩けた!の充実感は十分。
帰宅したらすぐに足指のケアをして、さあ、この次はいつの日かな?
さすが軽井沢は高地、駅近くの街路樹は紅葉も始まってましたね。
PM3:30、軽井沢を出、少し高速の渋滞は有りましたが、
PM6:00、帰宅、再開旅1回目を無事に終えました。
思いがけなく病で中断した、旧中山道歩き旅。
思い切って連続継ぎ旅は吹っ切って再開「夫婦で楽しむ歩き旅」。
さあ、足指のケアをしっかりして、どんどん進めるぞ!
と、終わり。
真っ赤に実っていた「ハマナス」の実。
甘いかな~