歩いて再び京の都へ 中山道69次夫婦歩き旅 第28回    野尻宿~三留野宿、妻籠宿、馬籠宿 後編の前編

*7月14日、PM4:04分の南木曾駅行(馬籠始発)へ乗車。
南木曾駅から小一時間待ちの中央線の電車で、今朝旅立ちした野尻駅へ戻ります。
さらに、マイカーで国道9号を南下し、今夜の宿は岐阜県北東部・中津川市
駅前ビジネスホテルへ投宿です。*

江戸から42番目妻籠宿へ昨日に到着。

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7月15日(月)の朝を迎えました。

宿は早朝出立の予定ですので、食事なしのビジネスホテルです。

お湯を沸かして、持参カップ天蕎麦で朝食を済ませます。

TVの天気予報では、東美濃は記録的な暑さになるとの注意報が出ています。

旅の計画は、中津川駅から電車で南木曾駅へ行き、さらにバスで妻籠

向かいます。

予定している旅路は、

妻籠から、

 43番目、馬籠宿(2里0町7.9Km)
 44番目、落合宿(1里5町4.5Km)

 第一計画、約12.5km

さらに時間、体力が許せば

  45番目、中津川宿(1里0町3.9Km)

  まで、約16km。

もしくは、16日、最終日に

 中津川までの約4kmを歩き、帰路へ。

ですが、この猛暑では第一は無理をしない、臨機応変にやっていこう、

と話し合い。

備えつけの冷蔵庫で、ペットボトル飲料を凍らせたのを3本準備。

車はホテルの駐車場へ夕方まで置いて行って構いませんよ、との

許可を頂き、朝食、準備を済ませ徒歩5分の中津川駅へ。

なんと、宿泊したホテルは旧中山道に面していました。

当初の予定通り歩き辿れば、この道を通るんです。

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津川駅AM7:40発の電車で南木曾駅へ向かいます。

南木曾駅、8:15のバス乗車。

馬籠へは行かない便の為か、南木曾で乗車したのは周遊チケットを利用してる

様子の親子3人と、地元の方らしき男性1人だけで、途中の乗降なしに妻籠

バス停にはあっというまの、8:22着。

(多くの添付写真、撮影未熟が多く見苦しいですがご容赦)

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道案内に従って妻籠の街並みへ入り、

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今は朝の8時半過ぎ、昨日も歩いた下町から旅を再開です。

写真は、妻籠の江戸口方面(三留野宿方向)、ぼつぼつ散策の方もいますが、

まだまだ宿場は朝の静けさ。

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居合わせた方と、お互いに写し合い、静かな宿場の街並みをゆっくりと

味わいながら、馬籠へ向かって足を進めてゆきます。

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まだ朝のヒンヤリ感はありますが、日差しは強く、猛暑になるのは間違いない

ようです。日陰を選んで足を進めます。

土産店の入り口に巨大な葉と花、「へちま」かな。

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昨日は縁台んでくつろぐ外国の観光客が多かったのですが、まだ見られませんね。

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本陣跡、脇本陣跡の残る、中町のゆるゆる坂を降りてきて、

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 西の桝形(京口)へ近づいてきます。

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ぼちぼち散策をしているのは、宿内に宿泊と思われる外国の方がほとんどです。

突き当りが西の桝形で、左手に昭和レトロの観光案内所があり、 

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秋葉常夜燈が建つ桝形を右手に下り、突き当りを左手へと曲がって寺下地区へ

入って行きます。

突き当りを右の小道に取ると、昨日南木曾駅へ向かったバス停です。

左手に曲がると、パンフに「妻籠で一番江戸風情を残す寺下」とある、

重要文化財指定の先駆けとなった家並みがありますが、楽しみは後回しに、

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先の石段の右手には宿・下嵯峨屋で

妻籠宿の庶民の住居を良くとどめている、片土間並列二部屋の

長屋の形式を、昭和43年に解体復元した家屋(町文化財)があります。

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下嵯峨屋の前の石段を上った左側に延命地蔵があり、

文化10年、光徳寺住職が、地蔵尊像の浮かび上がっている岩を

蘭川(あららぎがわ)から運んできて安置したものです。

この岩が常に濡れているように見えるところから、「汗かき地蔵」とも呼ばれる

そうですが、う~ん、良く判らなかったです。

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そばに 国内唯一とされる、
中国,唐の伝説上の2人の詩僧、「寒山 拾得」双体石仏像があります。
側に建つ説明板には
安政地震後の石垣の工事で、手ごろな石材として根石使われ、
それが、1984年の長野県西部地震でまた石垣が崩れ、その中から石像は
発見されました。

智慧を意味する「巻物」を手にした「寒山」は文殊菩薩の化身、

行動を意味する「箒」を手にした「拾得」は普賢菩薩の化身、とされるこの

双体像は、他に類例がなく、妻籠宿では「道祖神像」として
祀られてきました。
いつの時代のものか、誰が何の為に刻んだのかは、はっきりとしていません」

とありました。

森鴎外井伏鱒二の小説もあるそうですが、読んだことはなかったな~・・

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 日陰はまだ涼しさがありますが、日向はもうジリジリと照り付ける日差しが

肌を焼くように降りそそぎます。

なれど、行きます、

 町並みより一段高い台地に石垣を築き、白壁をめぐらせた 明応9年に開山されたと

言われているる臨済宗妙心寺派の光徳寺へ寄り道です。

延命地蔵堂左手の急石段が参道ですが、案内図を見ると、地蔵堂から戻る形で

ぐるりと回わって上で石段に出る登り道があり、直登はやめて回り道で行きます。

(写真、左下道が桝形の旧道、右手の道を行きます)

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城郭の様な堅牢な石垣脇を行くと、

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桝形から急石段の参道を登った正面の、勅使門と思われる山門は通常は閉じられて

いて、右に回った長屋門から境内に入ります。

写真右上、享保10年(1725)に脇本陣を勤める林家により再建された本堂、

ご本尊は薬師如来像です。

その右手(写ってない!)に庫裡玄関・・そして

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光徳寺案内板にも書かれてますが、

妻籠宿案内資料にも、

「お寺の庫裏へ入りますと、天井から籠が吊り下げられているのを見る事が

 できます。

 これは「人力車の祖形ともいうべき「車付駕籠」(町有形文化財)です。

 前後二人で担ぐ籠に、車輪を付けて引っ張る事を思いついたのが、光徳寺の

 幕末から明治にかけての住職逐応和尚さんなのだそうです。

 車輪も、お出かけ用と普段使い用の2種類作られていました。

 山道は乗り心地が悪く、酔ってしまって結局歩いた・・・と言うエピソードも

 残っているそうです」

 とあり、見たかったのですが・・・・開かなかった・・

(写真は、パンフ紹介より)

光徳寺を後に石段を寺下へ急降下、向かう馬籠はあの山越えて・・

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「そこに人が住み、生活しながら続いてきたのが、
   妻籠宿の保存運動。
    最初に保存事業が行われた寺下地区は、
     妻籠宿の原点とも言うべき町並みです。」
 と妻籠を語る時に称される、寺下地区のしっとりとした江戸情緒が

   眼に飛び込んできます。、

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 寺下は光徳寺の門前町の形態をなし、妻籠宿の保存事業はこの寺下から

開始され、26戸の解体復元工事が実施されました。

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復元さえた厩(うま)屋

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左手に、板葺き石置き屋根の木賃宿、上嵯峨屋。 

妻籠宿でも古い建築物で、18世紀中期の建築と推定され、

当時の旅籠(木賃宿)としての形式をよくとどめています。

数人の欧米観光客が見学してました。

 

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妻籠宿もそろそろ外れにやってきました。

振り返った寺下の宿並み。

散策しているのは結構ラフな姿の欧米の方々。

まだ、日本の人はパラパラの感じ。

(欧米人が出入りしてるところが、先ほどの上嵯峨屋です。

 みなさん、日陰を選んで足を運んでいますね。

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 寺下外れに、街道街並の風情に合わせた建て方で、綺麗に掃除もされたトイレが

設けられてます。

外国の方々もバシャバシャ写してましたね。

この先からは山へと向かって行きます。

私達もトイレタイム。f:id:hansui:20180731045738j:plainゆるく左曲がりをして振り返りの街並み。
早朝に散水をしたのでしょうか、道が濡れてます。

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AM9:10、妻籠宿を過ぎて、尾又(おまた)に入ります。

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ここから飯田道(伊奈道)が分岐した追分になっていた所です。

右手の沢沿いの竹やぶの中に、今もその道跡を辿ることができるといいますが、

宝暦年間(1760頃)に、飯田道がつけ替えられ、ここから約600m南の

橋場に追分が移動しました。

左手の山からの導水管が街道下を潜り横断、右に関西電力妻籠発電所

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向いに御左口(みさぐち)神を祀った「おしゃごじ様」と拝まれる謎の神様が

祀られています。

古代からの土俗信仰の神で土地精霊神、土地丈量神様、酒神といわれ、謎の神様と

いわれているようですが、ミサグチカミ、おしゃごじ、とは???。 

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この時間になると、早くも妻籠へ向かう外国のハイカーと出会うようになって

きました。もう馬籠から歩いて来た?それとも先の大妻籠に宿をとっていた?

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街道は右手に、清冽な流れの蘭(あららぎ)川に沿って進みます。

蘭川は木曽山脈の床浪高原に源を発し、男埵(おたる)川を吸収し、流末は

木曽川に落合います。

民宿・小嶋屋を見送り、

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藁と稲穂を使い、動きのある藁馬を一つ一つ作りあげている、

わら馬実演販売店「いんきょ」を過ぎて、

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坂道を行くと「民宿・八起」が尾又の最後の建物で、

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その先で国道256号大平街道線へ出てます。

左手に行くと伊奈方面、右手に行くと南木曾(三留野)方面です、

横断し町営第3駐車場の右手に建つ、大きな「妻籠宿」案内板の後ろ側の、

橋場旧道の土道に入ります。

案内板下に、中山道*さんまい「右まごめ 旧道/左志ん道 いいだ」自然石道標、

(さんまい??)

右手には中北道標「6.9km 馬籠宿/妻籠宿 0.8km」があります。

いよいよ妻籠宿、標高430mから標高801mの馬籠峠を越えて、

標高600mの馬籠宿へと向かいます。

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夏の匂いいっぱいの 蘭川(あららぎがわ)に沿う土道を進むと、田園が広がり

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車道(県道)に突き当たり、右折し橋場の集落へ入ります。

この分岐点には「中山道走しば邑(むら)」と彫られた自然石道標があり、

道標には「右 志ん道/左 旧道 つまご」と刻まれています。

京方面からの旅人への標ね、てカミさん。

(前にもありましたが、志ん道は新道のようです、

   中山道走しば邑は橋場村でしょうか))

傍らに木製道標「←中山道 妻籠宿へ1km」があります。

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少し先で 渡る大妻橋の手前付近が、橋場追分とも呼ばれ、追分は尾又からここに

付け替えられ中山道飯田街道の分岐点として栄えたそうです。

橋の手前に案内板は建っていますが、?、道標は何処かな??

周りをきょろきょろしますが、判りませんでした。

あとで確認すると、左手の民家の庭の中に、写真左下のような道標が

有ったそうですが、木々が繁っていたので見つけられませんでした。

石柱道標は明治14年(1881年)建立で、

  「中山道 西京江 五十四里半/東京江 七十八里半「飯田道」があります。

(写真左下の道標はパンフより)

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蘭川を大妻橋で渡り、突き当りに自販機があったので、Cafeタイム。

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先の民家の脇から道標に示す右手の大島邑旧道に入り薄暗い樹林の「神明坂」を

登って行きます。

この分岐点には中山道大島邑自然道標「右旧道/左志ん道」と

中北道標「1.2km 妻籠宿/馬籠宿 6.5km」が建ってます。

勢いよく山岳ランナーが声を掛けて追い抜いてゆきました。

この猛暑、カミさんが「わあ、凄い!」て言いながら道を譲ってます。

左下後方は先ほど渡った大妻橋、遠くに見える家並は妻籠の尾又地域かな?

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 大島旧道の山道は石畳道を一部残し、結構な急坂で右手にポツンと馬頭観音像が

祀られていて、木立を抜けると山上の旧神明村に入ります。

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すぐに村外れの急坂を下ると下道に突き当たり、右折し男埵(おたる)川を

神明橋で渡ります。

左手の一段高い民家の庭かな?涼し気な噴水?が勢いよく吹き上げてます。

川の水辺は吹いてくる風もヒンヤリと涼しさを覚えますね

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 橋を渡り急坂を進むと左手には、「弘法大師常夜燈」と「南無弘法大師之記念碑」

が建つ「旧旅籠・諸人御宿金剛屋」で、旅籠の二階に弘法大師を祀ったところ

参拝客で大いに賑わったといいます。

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坂を上り詰めると大きな大妻籠モニュメントが建つ、県道7号に突き当ます。

猛暑の中ですが、数人の集落の方々が周辺の清掃整理をしています。

「暑いね~、どこからですか」

 「こんにちは、埼玉です。今日は妻籠から馬籠まで 行きます」

妻籠、馬籠間は歩く人が多く、特に海外の方が増えてるので、定期的に清掃整備を

しているそうです。

そういえば、ここまで歩きてきてもゴミはほとんど落ちてなかったですね。

「ご苦労様、ありがとうございます。」

AM9:50、もう30℃は越えてるそうです。

「こんな暑さは初めてさ、気を付けてね」と見送られ先へと足を進めます。

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左の県道7号線が中山道で、、右は中山道旧道です、

妻籠のモニュメントから右手に坂を下り、手前に中山道自然石道標が建つ

男垂川に架かる橋を渡り、右手に水車のある坂道をのぼって行くと、

間の宿であった大妻籠でした。
妻籠は奥妻籠が訛ったものです。

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 上り坂を進むと右手に石置き屋根の水車小屋があり、石垣に馬頭観世音文字塔を

見送ると、妻籠宿保存地区内の一地区であり、袖卯建(そでうだつ)をもつ

出梁作(だしばりづくり)の旧旅籠が軒を連ね、今も民宿として盛業中です。

登り切って「近江屋」

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袖卯建(そでうだつ)の「まるや」、その奥は「つたむらや」

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「つたむらや」には満室で今回は泊まれませんでした。

多くの旅人が旅立ったのか、二階には布団などの満艦飾。

HPのフレーズです

「一歩足を踏み入れると 

   そこは、 

    日本の田舎ではなく 

         日本の「昔」

 テレビも時計もない客室で
    「今」をひととき忘れよう」

「つたむらや」は秋篠宮紀子さまが御学友と泊まった民宿で、

   宮様が来られるというので急遽洋式トイレにしたとか。

 

右手に路を取り5,6分坂道を上って行くと、建築年代はおよそ十七世紀後期と

推定され、木曽地方の古い農家形式を伝える貴重な建造物、

県宝・藤原住宅がありますが、パスして馬籠峠(標高801m)を目指します。 

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 左手に曲がり、 みたび男埵川を渡ると、街道は県道7号中津川南木曽線に突き

当たり、左手に中山道庚申塚があり、「右 志ん道/左 旧道 左 つまごに至る」と

刻まれていて、案内板の前には、中北道標「2.2km 妻籠宿/馬籠宿 5.5km」があります。

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持参街道図では、

ここが江戸日本橋から81番目「大妻籠一里塚跡」で、庚申塚とも呼ばれている、

と記されていますが、「一里塚らしい案内は何処にもないわね~」て

カミさんが言う通り、周囲を探しても判りませんでしたね。

県道を右手に曲がると旧旅籠こおしんづか(現民宿)があり、二階の軒下に

山駕籠を吊り下げています。

民宿前は庚申塚バス停で、宿泊したのか若いカップルがバス待ちをしてました。

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中山道はバス停の少し先で県道を横断し、どうがめ澤自然石道標

「下り谷を経て馬籠峠へ」や中北道標があるところから、石畳の山道へと入って

行きます。

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ここからはかなり急な、樹立するヒノキ林の上り坂石畳道を進みます。

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グングン上ると左手の斜面を見てカミさんが、「牛頭観音像が祀られてるわよ」

と指さします。

解説には「石の多い急な坂道を重い荷物を運ぶため黒牛が使用された。

その黒牛の供養塔である。この中山道に祀られた唯一の石仏(多くは馬の供養塔で

ある)」と記されています。

中山道塩尻峠を下ったところに文字供養塔「牛馬守護」がありましたが、

像としての牛頭観音は初めてでした。 

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九十九折りの急勾配坂を上ると、新しそうな熊除けの鐘がありました。

説明には「鈴を鳴らしてください。熊を追い払います」と記されています。 f:id:hansui:20180801065255j:plain

そういえば妻籠で休憩したとき、係りの人が、観光案内所で「熊鈴」を

貸し出してると言ってましたね。

行った先の観光案内所に返すんだそうです。

ただ、保証金の様なのが300円だとか。(返金されるそうです)

熊除鐘の先はちょと開けた台地の田圃があり、沿って進み少し下ると

小さな木造橋を渡り、自然石道標を見送り上り返すと、

その名も下り谷(くだりたに)の集落が見えてきます。

 

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左に曲がりながら村を抜け少しのぼると、左段上に倉科祖霊社が祀られてます。

松本城小笠原貞慶(さだよし)の重臣倉科七郎左衛門朝軌(とものり)の霊が

祀られています。

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倉科祖霊社から200m弱行くとY字路分岐となり、左手山道は

馬籠峠へ行く中山道、右手は男滝、女滝への道筋。

分岐手前にここにも熊除け鐘が設置され、ベンチの先には案内板が設置され、

英語でも書かれた木道標が有ります。

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案内板には外国観光客が記入したようで、日本語の下に英語で書き込みが

ありましたね。昨今は、木曽路は「Samurai Trail」と海外でも人気の

観光地なので、わりと案内板や道標などにも英語表記が多いですね。

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左手山沿いの中山道土道には分岐のすぐ先石垣の上に、庚申塔馬頭観音など

が祀られていました。

AM10:30、時間的にか、急に人の行き来が多くなってきました。

馬籠方面から、続々とトレッキングスタイルより、ラフなスタイルの欧米外国の

観光客がやってきます。

日傘や団扇を手にしてる女性もいますね。f:id:hansui:20180801133834j:plain

男滝女滝へ下る舗装道は「古中山道」の道筋になるという説があります。

最初から寄り道することに決めていたので、分岐を右手に進みます。

男埵沢を滝見橋で渡り、渡り詰めを中北道標に従って左の土道に入ると、

正面目の前に「男滝」が現れます。

吉川英治著の中で宮本武蔵が修行したといわれる滝ですね。

林間を通る風に渓流の冷気が入り込み、なんとも涼風が心地よい。

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手前には、

「この滝は・・・旅人に名所として親しまれ、憩いの場でした。」で始まる

案内板が建てられてます。

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渓流沿いの道の先に鉄階段が設置された展望台に、若い外国カップルが

向かってます。

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カップルはアメリカの男女で、お互いにツーショットを写し合い。

写したスマホを見て、親指立ててグッド!と笑顔で去って行きました。

(左上がシャターを押してもらった写真)

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先の小さな木橋で渓流を渡ると女滝の展望所です。

響き渡る水音、ナチュラル・ミストが流れ、なんともい~清涼風が、

ほてった体包まれ体力気力回復で、さあ、峠へ。

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ブログ記録後編は 馬籠宿までの予定でしたが、作成が遅れ気味なので、

「後編の前編」として、  後編の後編へ続きにします。