歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第15回)    沓掛~岩村田 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

 9月10日に念願の旅を再開。

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その時に足の中指に感じた痛み。

だいぶ前に低い段差に指をぶつけたことが有ったので、念のため

整形外科医へ院へ。

レントゲンでは骨には異常なし。

診察でも特に異常なところがないと言うことで、結局原因不明。

でも、痛かったんだから何かあった? (小声でヤブ)

指を触るとタコのような小さ硬質部分。

これかな?と昔使っていた医療ヤスリでごしごし。

カミさんが、靴下を五本指にしてみたら、といってさっそく買って来た。

タコみたいなのを処理し、五本指靴下をはいて、早朝散歩へ。

うん、まったく違和感がない。

カバーできたようだ、もう一度歩きに行ってみるか、

と早速19日(火)再び中山道の旅へ出発。

前回の度では足指に痛みが出て、信濃の国入りから9kmほど、
中山道、19番目の沓掛宿(現中軽井沢)で足止めでした。

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9月19日(火)

AM6:00、快晴の予報を見てマイカーを走らせ、

前回足止めした中軽井沢(沓掛)しなの鉄道駅の駐車場へ。

ここは駅に隣接していて、町営なので料金も大変安く有りがたいですね。

駅トイレを使わせてもらい、AM8:00、第15回目、

沓掛宿からの旅立ち。

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さすが軽井沢は高地、日差しは強いけれどヒンヤリとした爽やかな風。

歩き旅にはもってこいの日和です。

沓掛宿の街道は、現国道18号。

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国道18号は中軽井沢駅入口で、群馬・草津、上野原方面から南下する

日本ロマンチック街道(146号)と合流しここから先は

長野・上田市まで続く日本ロマンチック街道です。

www.jrs-roman.org

草津白根、志賀へ、また片品、金精峠、奥日光へと季節季節に訪れたときに

よくドライブした道でした。

今日の歩き目標は

沓掛宿追分宿 1里3町 4.3Km +

追分宿小田井宿 1里10町 5.0Km + 

足の異常が出なければ、
小田井宿岩村田宿 1里7町 4.7Km 

で、沓掛宿岩村田宿 3里20町 14.0Kmです。
日本橋からの累計 42里3町 165.3Kmかな。

 

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脇本陣跡、そして前回足を返した本陣跡を過ぎて進むと、道の右手向こう側に

小さな石碑が見えてます。(赤丸)

石碑は「草津道道標」で、当時この沓掛宿から草津までは約10里の距離だったと

いわれています

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すぐ先で旧道が国道から分岐する。

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旧道に入ってすぐ左手に道祖神

右側の草陰に隠れた小さい双体道祖神は新しいようですね。

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この先はゆるい坂道で、石垣に浅間山が大噴火した時流れ出た溶岩を

使っているようです。

この後も火山岩お上手く利用した石垣や、庭園を沢山見かけました。

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 旧道は国道18号線とほぼ並行してますが、別荘地らしい静かな木々に囲まれた

樹間の道を進みます。

道脇に、馬頭観音地蔵菩薩庚申塔、廿三夜供養塔等が残されていて、

中山道を旅していることを感じます。

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しばらく歩くと、振り返って右手後方に浅間が姿を見せ、

秋桜が咲き田んぼでは稲穂が垂れる、古宿集落に入ったようです。

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懐かしいですね。

集落は珍しく、温故・オンコ(イチイ)の垣根が多く、赤い実を沢山つけています。

故郷北海道では結構多い樹で、庭木や生垣に植えられてました。

子供のころ、口いっぱいに頬張って、種を噴き出したな・・

カミさんは食べたことがない、って一粒口へ。

ほのかな甘さ・・美味しいてさ。

もちろん、事前に種は絶対に噛まないように注意しましたよ。

けっこう種は毒性が有りますからね。

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その先に石の鳥居が見え、火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された

秋葉大権現(あきはだいごんげん)、秋葉神社が有りました。

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秋葉神社の少し先で再び国道18号に合流です。

その角に数基の馬頭観音が祀られてます。

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馬頭観音は、この先にも沢山残されてました。

信州は古くから馬の産地と言われます。

山や峠も多く、荷役に馬が活躍していたんでしょうね。

 

中山道国道18号線と合流し少し先で三筋に別れます(写真左上)。

右側の路は国道18号の上り線。

左側の道路は18号軽井沢バイパスへ入る(群馬県方向)道。

真ん中の道、これが国道18号で旧中山道の下り線。

この先で国道18号バイパスのガードの下を潜り、緩やかに右にカーブします。

(写真左下)

国道18号線に沿って緩やかな坂を登っていくと、国道18号線と合流する手前のカーブを曲がり終えたところに左へ入る道があり、そこを左折。(写真右)

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ここから旧街道らしい幅の狭い道になりました。

国道の抜け道になるのでしょうか、車の通行も多く注意しながら歩きます。

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しばらく行くと左手に分かれる道が有り、

「関所さけて 女人が多く往来せし女街道と いふは寂し」
と記された「女街道入り口」の説明板が立ってました。

この道は、厳しい取り締まりの横川の関所を嫌った女性たちが、

上州(下仁田)に出る抜け道として利用していたんですね。

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 その先に「遠近宮(おちこちみや)」という神社があります。

その昔、浅間山麓一帯は幾つかの谷のような地形になっていて、
その谷々に僅かに人家があって、それが広い範囲に散在していたので
「遠近の里」と呼ばれていたそうです。

歌人在原業平がこの里を通られた時に
信濃なる浅間の嶽に立つ煙 遠近人の見やはとがめん」(伊勢物語)

と詠まれたのにちなみ「在原業平遠近宮」称した。

創立年代は不詳とのことですが、古くから当地の鎮守産土の神として

崇敬されているとのことですf:id:hansui:20170926162022j:plain

 遠近宮を過ぎた付近は、 “間の宿”「借宿(かりやど)」と呼ばれる集落です。

「借宿」は、江戸時代、中山道浅間三宿(軽井沢宿、沓掛宿追分宿)の

“間の宿”として人馬の往来も盛んで、大いに繁栄したといわれます。

「借宿」という由来は、

中山道追分宿沓掛宿が満員の時、当地で宿を借りた。

源頼朝の狩り時に泊まったところが“狩宿”と呼ばれ、それが“借宿”に転じた。

…という説があるようです。

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借宿の名主を務めていた土屋作右衛門家です。

中山道筋の代表的な米穀問屋(穀屋)であり、水車を持ち、造り酒屋、質屋、ちゅうき場(中馬業)、立て場茶屋などを営んでおり、江戸時代末期には寺子屋も開いていました。

幾度の改修を経てますが、黄壁の立派なお屋敷です

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あっ、これだよ、道中記などでよく出てくる名物?交差点は。

真ん中に、上から信号機がぶら下がっています。

全国には何ヶ所か設置されてるそうですが、わりと閑散とした住宅街。

この交差点に、どうしてこのような信号機が設置されたのかな??

 

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街道両脇は側溝が有り用水が流れています。

家の敷地内に水場が作られてました。

昔は農作物などを洗ったり、家畜の水飲み場だったのでしょうか。

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 沓掛宿からの中山道沿いでは道路脇のあちこちに多いのが、馬頭観音像です。

遠近宮から少し歩んだ先には、高さが5メートル近くもある

巨大な馬頭観音があります。

借宿には江戸時代に中馬稼ぎが多かったことから、馬の墓塔である馬頭観音像が

多いのだそうな。

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“中馬(ちゅうま)稼ぎ”とは、

「江戸時代、信州の農民が農閑期の余業として、2~3頭の馬で物資を目的地まで

運送した輸送業のことで、農民の駄賃稼ぎということから、

“中馬稼ぎ”と呼ばれていました。

街道沿いの家の庭にも、馬頭観音が祀られてましたね。

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街道はすぐ先で騒音に包まれる、国道18号に合流です。。

合流点の右側に18号から入る細い道が見え、入口に「従是左上州くさ津道」と

刻まれた道標が建ってます。

「上州道道標」と呼ばれ、ここが草津方面への道との「追分」ですね。

草津道分去れ(わかされ)道標」と呼ばれています。

草津方面へは、沓掛宿中山道から分岐して向かう道があり、

小さな道標が残っていましたが、この先の西、追分宿方面からやって来る人達には、

距離が短くなるので、ここから分かれて草津方面へ向かう往来は多かったようです。

f:id:hansui:20170926180410j:plain国道18号を少し西へ進み、軽井沢追分歩道橋で右側へ渡ります。

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100m先に「標高1003m」という表示が立っています。

群馬県高崎市から新潟県上越市に至る、”国道18号線”の最高地点を示す標識です。

(旧中山道ではありません)

国道18号線碓氷峠は標高が960m。

ただし、現在は国道18号線碓氷バイパス”を通るのが一般的で、

そこの最高地点である入山峠の標高は1,030m。

ということでこの場所は、碓氷バイパス開通以前の国道18号線の最高地点と

いうことですね。

なお、旧中山道碓氷峠の最高地点(熊野神社あたり)の標高は1,190m。

幾つかある碓氷峠の中で、一番標高の高いところを通るのが旧中山道碓氷峠

ということになるわけです。

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 旧中山道碓氷峠は1190m、ここが1003m。

峠から約190mくだってきたんだ!?

何年か前までは、この標識のある反対側(左側)には、あの峠の釜飯

「おぎの屋」が有ったようですが、いまは空き地なってました。

標識からとほとほ進むと、右手の草が生い茂ったこんもりと盛り上がった

土手木立の中に江戸・日本橋から39番目、「追分一里塚」がありました。

この追分一里塚は、国道18号線の南側にもありますが、南側の塚は復元された

ものだそうです。

説明板には「江戸へ39里 京都へ91里14町」と書かれています。

京都まではあと91里14町、約360kmか。

お江戸日本橋から約160kmほど歩いて来たんだね。
 

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 この先に「追分宿→」という道路標識が出ています。

もう少し先で国道18号線から右に分岐する道、追分宿へと入って行きます。

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続きます・・・