11月4日(月・振替休日)
いいお天気の夜明を迎えました。
ホテルの窓から、東、遠くに見える山の小さな突起は、あの岐阜城でした。
デジカメのズームを最大にしてパチリ。
今日の予定は約15km。朝ドラは見ないで少し早めに昨日の足止め地、
柏原へむかい、AM8:15、柏原駅前をスタートとして中山道へ向かい、
朝の光に包まれた、昨日歩いたまだ目覚めぬかのような、柏原の宿場町を
再び通ってゆきます。
昨日足止め常夜燈・高札場前で旅立ちショット、市場川に架かる市場橋(初恋橋)を
渡って旅の始まり。
「初恋橋」の呼び名、は映画監督 吉村公三郎の若き日の「思い出の橋」なのだとか。
橋を渡った左手は番所跡と街道書に有るが、示すものはなにも有りません。
広い空き地があり、石垣目前に屋号札があり「お茶処 亀屋〇〇〇」と記されてますが
建屋は無く売り物件の看板が立ってます。
隣のでんと構えた大きな家屋は、寛文元(1661)年に創業した「伊吹もぐさ」を
商う「伊吹堂亀屋」です。
旅といえば、てくてく歩くしかなかった江戸時代には、疲労回復にもぐさは
必需品だったでしょう。
旅人は故郷の土産に、軽くて荷物にならず手土産にはもってこいの亀屋の艾を
買った。
案内板には、
「古来よりこのあたり滋賀県「伊吹山」ふもと一帯は、もぐさ業の中心として栄え、
この地で作られ日本全国へ出荷されたほど「伊吹もぐさ」として有名なところ
だった」とあります。
街道書では、亀屋の六代目松浦七兵衛は江戸に出て「伊吹もぐさ」の唄を遊女に
毎晩宴席で歌わせ、その名を広めた。と記されています。
開店前で中は見れませんでしたが、天井につかえるほどの巨大な「福助人形」が
座った姿で”いらっしゃいませ”をしているそうです。
「福助」はもともとこの「亀屋もぐさ店」の番頭で、その働きぶりによって商売が
繁盛した。ご利益があるということでその福助人形が全国に広まったといわれ、
ここが福助人形の本家本元と伝わってる。との説もあります。
かっては10軒ほどのもぐさ店があったそうですが、「伊吹堂亀屋」は今でも
唯一「伊吹もぐさ」の専門店として暖簾を維持しているそうです。
広重も柏原宿の画では、ここを描いている。
広重画 柏原宿
(画の解説文より)
「 駕籠が二挺とまっている。これはどうやら荷物を運んでいるとみえる。
担ぎ棒に荷札を掲げている。
左から、
「酒さかな」の看板の向こうに結構な庭がある。屋根越しに築山の緑もみえる。
それを眺めながら一服しているのは、かなりの上客ではないか。
上がりかまちにわらじのまま休んでいる人の右に据えてあるのは、伊吹山の模型で
ある。それに商品の艾(モグサ)の袋を並べてある。柱の陰になっている男は、ここの
手代であろう。お客にお灸のすえ方なんかを教えているのだろうか。
菅笠をもち、道中の振り分け荷を肩にかけている男は、買い物をすませて出立し
ようとしている。衝立看板をはさんでその男を見送っているのは番頭であろうか。
金看板には「薬艾」とある。
その右が、この家の大看板である福助の人形である。」
( 福助は、いまもその現物が残っているそうです。)
そういえば、カミさんの実家にもお灸道具があって、カミさんの嫁入り道具の中にも
入っていた。腰の調子が悪かった時に、二度ほどすえたことがあった、
なんて、遠い昔を思い出しおしゃべりしながら歩きます。
伊吹堂の真向かいに、造り酒屋巌佐九兵衛跡があり、家屋横に解説標板が建っており、醸造樽が残っていました。
店には慶長年間に酒造りした記録が残されており、江戸期に醤油醸造に転業しましたが、明治初頭に酒造りに戻ったそうです。
宿内には造り酒屋が4軒あったそうです。
造り酒屋巌佐九兵衛跡の先隣りは造り酒屋山根庄太郎跡があり、家屋の左側に屋号の
看板が掲げられていました。
酒造りは宿内合わせて百五十石許されていたそうです。
向いに、うん、信長本陣?
昔は「たばこ屋」だった様子の造りで、看板が新しそうだから現在営業の茶房ですね。
造り酒屋・山根庄太郎跡の先隣りは旧柏原村役場があった所で、
入口左脇に柏原宿石柱、右手に表札、探訪マップなどが掲げられていました。
隣は、左軒下壁に「隅照燈」の木札が掛かり、低い石灯篭が有ります。
玄関右手には「仁右衛門〇」の横書き木札が有りますが、なんの家か??
村役場跡の先隣りが平成10年に開館した「柏原歴史館」
大正6年に建てられた 旧松浦久一郎邸を改築した主屋は、国 登録有形文化財。
中山道向けて三つの入母屋造妻飾りを重ねる重層な表構えに特徴があるとされる。
まだ朝の8時半、開いてませんが、中に喫茶「柏」があり食事処で名物は
「やいとうどん」。
やいと?、そうですね、 もぐさに火をつけて、アツツ、アツツ…と我慢する
昔懐かしの健康療法お灸「やいと」をイメージしたうどんとか。
パンフにあったフォット、まさに熱そう!「やいと」だけど、
美味しそうですね。
向いに建つユニークな建物は柏原生涯学習センターでした。
表通り面は和式建築ですが、後ろは鉄筋コンクリート2階建て。
お面を被った建物ですね。街の風情に合わせた建て工法です。
柏原歴史館の隣は、創祀年代は不詳ですが元暦元年(1185年)創建と伝えられる
日枝神社の参道入口。
御由緒は不明だそうですが、大山咋神を祀る山 王信仰の神社で、ここも明治維新まで
は「山王社」と呼ばれていたらしい。
拝殿は茅葺でしたが、後で奥のご神殿も茅葺屋根と知り、鳥居前で参拝し通り
過ぎてしまったのは残念。
その向かいはレーク伊吹農協柏原支点があり、敷地の左角に柏原小学校跡の解説標板
が建っていました。
ベンガラ塗の家々を眺めながら日枝神社から約80m歩くと、左側にやっと商店らしい
ショッピングセンターが現れ、向かいの「日用品のさわや河村店」は、家屋の二階が
虫籠窓になっていました。
※虫籠窓(むしこまど)は、京町家特有の低い二階(厨子二階)にある塗り壁の窓のことで、その姿形が「むしかご」のようだからとされるようです。二階の通風や採光のために設けられたもので、古いものほど小さい場合が多いそうですが、街道筋でも
良く見かけました。
漆喰の鏝絵デザイン虫篭窓です。
少し先左手の板塀空き地は、かっては造り酒屋だったようで、
屋号札がっかってました。
先隣りは新しそうな袖暖簾を掛けた建屋ですが、何を商ってるのかな?
庭の楓が朝日を受けて綺麗です。
左側に柏原福祉交流センター入口の標柱があり、標柱の右側に問屋場跡で、
東西2ヶ所あった内の西荷蔵跡があり、解説標板が建っていました。
西荷蔵跡の直ぐ隣りは白壁の虫籠窓の柏原銀行跡で、現在は柏原福祉交流センターと
なっており、正面玄関には「東部デイサービスセンターはびろ」の看板がかかる。
建物の脇に解説標板が建っていました。
さらに先隣りも白壁の虫籠窓の建物になっていました。
交流センターからすぐ先左側に、薬師道道標、説明板が建っていました。
この道標は享保二年(1717)と古く、正面が漢文、横に面が平仮名・変体仮名を
使った二つの和文体で刻まれている、と記されてます。
道標の斜め向かいは、問屋役(山根家)跡があり、板塀に標板が掲げられていました。
左隣は旅籠屋 麻屋 林左衛門で、その先は十字路になり、醒井宿・5.8km
と書かれた案内道標が有ります。十字路を左手へすぐに「火の見櫓モニュメント」
があったのですが、写ってなかった。
十字路を右折して約10m進んだところに、 駐車場を備えた緑地公園があり、
ここはお茶屋御殿跡でだそうで、標石と解説標板が建っていました。
茶屋御殿跡は年代は定かではないが、 天正16年(1588年)徳川家康が柏原村の西村家で
休息したことを契機として、中山道通過の際には柏原村で休息をとることが慣例化した。元和9年(1623年)徳川秀忠は御殿を新築して以後御殿番を置いて守備したというが、徳川幕府の権威が安泰になるにつれ上洛する機会も減少し、元禄2年(1689年)廃止となった。「お茶屋御殿説明板」
一角に「柏原地区街なみ環境整備事業」と書かれた大きなパネルが立っていた。
米原市の広報「柏原地区街なみ環境整備事業」に、感じていた街並みについて記された
一文がありました。
「柏原地区の歴史的な街なみ保存に関する取組み」
柏原地区は、江戸時代の中山道六十七宿の六十番目の宿場で、近江中山道筋では規模が大きく、中山道の重要な宿場であった歴史を持ちます。道路には、江戸時代から昭和30年代までに建築された建築物(切妻造瓦葺入町家、入母屋造草葺入民家)等が軒を連ね、全体として調和の取れた街なみを形成しています。
柏原地区のまちづくりは、地域の資源を大切にする暮らしの中でその歴史と文化を感じ、引き継いでいくことであり、単にまちの形を保存するだけでなく、地域住民がまちに対する愛着を持ち、まちでの住み方、まちの守り方を探っていくことが街なみ保存にとって大切なことです。それを長年に渡り実践してきたのが柏原地区であり、この街なみ全体を博物館として捉え、柏原地区を象徴する旧家を活用したまちづくりを進め、現在においても歴史的な街なみを見ることが出来ます。
街なみ環境整備事業着手までの経過
柏原地区は、平成14年4月1日に制定された、山東町美しいまちづくり条例により「歴史的・文化的景観または、自然景観の形成のための整備等が必要な地区」として指定を受け、その具体的な整備等の検討については、柏原地区住民により柏原地区街づくり協議会が組織され、平成15年10月17日の第1回街づくり協議会が開催され、その後定期的に地区内の現地調査、まちづくりに関する有識者の指導を受けながらワークショップ等を実施しながら整備方針の作成を進め、平成16年3月31日に国土交通大臣の承認を受けました。
街なみ環境整備事業の承認を受けた平成16年度からは、具体的な事業を実施するための事業計画の策定作業に着手し、世代を超えて街道の歴史的な街なみを保存するため、柏原らしい町家の基準を定め、これを「街づくり協定」として地区住民と締結しました。この協定に強制力はありませんが、この基準に沿って家屋を改修する場合には、助成を行うこととしています。
また、地区内の住環境向上のため、基盤整備についてもさまざまな検討がなされ、旧中山道を中心に排水路、舗装、公園、集会施設等の整備が計画に盛り込まれました。中でも地域の拠点として位置付けられていた旧柏原銀行の保存・改修・利活用については、街づくりアドバイザーを交え、街づくり協議会で何度となく利活用の方針について協議を行いました。事業計画は平成17年2月4日に国土交通大臣から同意を受け、平成17年2月14日に旧坂田郡3町が合併した米原市が誕生し、米原市となって平成17年4月1日から具体的な事業を実施することになりました。」
街道風情ある街並みだった柏原、改めて納得ででした。
お茶屋御殿跡から十字路に戻ると左手に「郷宿跡」という札を掲げた豪壮なお屋敷が
あります。
郷宿とは脇本陣と旅龍屋の中間規模の宿で、身分の高い武士や公用で旅する庄屋などが利用したという。
郷宿跡から100mほどの、昭和6年架けられた中井川橋を渡ります。
しばらく歩くと、右側に金毘羅山常夜燈が建ち、その先で再び中井川を丸山橋で
渡って進むと、
左側の川沿に橋が架かり渡った右手に、日本橋から115番目の、復元された
柏原一里塚がありました。
一里塚跡から再び橋を渡って街道に戻った向いは、山中腹にある愛宕神社参道の
石段があり、入り口付近にかっては東一里塚があったと、街道書にありました。
愛宕神社参道入口から5分ほど、左側に柏原宿西の入口だった西見附跡があました。
道の両側に喰い違いの土手(土塁)がある、と説明板に記されてますが形跡は
無かった。
解説板に、ここは海抜175mと書かれていて、柏原宿は高原の宿場町だったん
ですね。
「いい街だったわね~」のカミさんの言葉通り、江戸時代の家屋ではありませんが、
宿場時代雰囲気を残した工夫保存をされ、街道宿場町の風情を維持する柏原でした。
江戸から60番目、柏原宿を後に、西へ西へと足を進めてゆきます。
続きます。