セツブンソウの群生地へ。

県北西部の秩父地方、小鹿野には日本百名山両神山(1723m)への

山道沿いに、日本一といわれるセツブンソウ群生地がある。

今年はかなり咲き進んでる様子なので、春日和の23日(日)、ドライブかねて

車を走らせた。

通り道の飯能市にオープンした、テーマパークへ向かう車でかなりの交通量。

そのうえ3連休とあってか、秩父方面へ向かいう車も多く、市内へ入る付近でも

交通渋滞があった。

なんだかんだで1時間以上の遅れた感じ。

群生地でも駐車待ちがあったが、20分ほどで入り口近くに止めることができ、

やれやれ。

小鹿野町両神小森堂上

なだらかな山の斜面に広がる約5,000㎡の園地は、自生地として日本一の規模、

とも言われてる。

例年、3月上旬頃に見ごろのピークを迎えますが、今年は暖冬の影響で

2月下旬頃までがピークとなりそう、とのことでした。

協力金を収めて、さて園地へ。

以前に来た時よりさらに規模は広くなったと思われる、

山の斜面が白く遠く奥まで、雪が積もってるかのように広がっている。

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日当たりの良いところでは、ピークは過ぎたように感じます。

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キンポウゲ科の中では最も早く咲き出すセツブンソウ。

純白の和紙のようにも見える清楚な花弁は、実は花弁ではなく萼片です。

数は5個が標準ですが、数や形状の変異が多いです。 

花の下には掌状に切れ込んだ総包葉があります。

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花弁は、2裂したY字形をし先端が黄色い部分(蜜腺)です。

花弁の根元付近は薄く紫色が入っています。

花弁の内側には青紫色の葯をつけた雄しべがたくさん並んでいます。

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花びらに見える萼片の形にも丸っこいのや星形など、いろいろ個性があります

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日本原産の固有種で、石灰岩地帯を好み、凍てつくような真冬に芽を出して

花を咲かせ、後に葉を茂らせ、木々の新緑がまぶしくなる晩春には茎葉が枯れて

地下の球根(塊茎)の状態で秋まで休眠に入るそうです。

セツブンソウが地上に顔を見せるのはせいぜい春の3ヶ月程度で、

可憐さとはかなさが魅力の山野草、森の小さな妖精も呼ばれ、寒空に咲く

けなげな姿を見つけると、思わず顔がほころびます。
学名(属名)エランティスは、「春の花」という意味だそうです。 

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f:id:hansui:20200224113608j:plain見つけられるかな??咲いてるのあるのかな??

ゆくりゆくり確かめながら足を進めます。

今日訪れたのは久しぶりの大群落を見ることはもちろんですが、

変化咲きを見つけたい、の理由がありました。

これでは?と思われる花には、デジカメズームをして確認しながら進みます。

1時間以上、眼を凝らしながら園内をあちこち歩きまわり、

諦めかけ始めた時に、

「アッ、これでは!」のカミさんの声。

指さす方をデジカメズームでのぞくと、

あった、この花だ!!

探していたのは花便りで見た通称、白花節分草でした。

  (青軸素芯セツブンソウと言うらしい)。

葉や茎がきれいな緑色をしている。 

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 左・通常のセツブンソウ

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 すこし離れて、だいぶくたびれてるが二輪の白花が見られた・

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この咲き方も変化咲きだそうです。

普通は茎一本に一花だが、葉の上に二輪咲きのセツブンソウ。

似たような咲き方で、花茎がない双子咲きといわれる咲き方もあるようだ。

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セツブンソウは萼片の数の変異も多いようで、 標準は5個のようですが、

6個~も多く見られますね。

 萼片が多い花を探すのも、また楽しみの一つ。

遠くを覗いた10枚くらいに見えた八重咲き風。 

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おっ、八重咲き!!、とパチリ・・・なんとピンボケだ~・・・

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 見つけた八重咲き!!

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山間は日の陰りも早い、園地を後に家路へ。

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帰り道、道の駅裏の福寿草園に、

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少し色合いが薄くなったが、

秩父に咲くオレンジ色の福寿草秩父紅」もまだ咲いていた。

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 品名はわかりませんが、すこし白花系の福寿草

福寿草もいろいろな花色があるようですね。

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 令和2年2月23日(日、祝日・天皇誕生日) 訪。

春探し ちょっと寄り道 多門院

ぽかぽか陽気の21日、市郊外のホームセンターへの帰り、

春探しでいつものお寺多門院へ。

1週間前来たとき咲き始めていたフクジュソウは、あちこちに咲いていたが、

例年より少ない感じ。

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咲き始めの黄花セツブンソウもちらほらだけ。

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沈丁花が咲き始め、顔を近づけるとほんわか香りがくすぐる。

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やっと姿を見せた雪割草。
ただだいぶ整理してしまったそうで、数はちらほら程度。

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そうだ、と思い出して隣の雑木林散策道へ。
咲いてる!! 青い花キクザキイチゲ(菊咲一華)キンポウゲ科イチリンソウ

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青空にマメザクラ

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当地は穏やかだったが、

明けて22日、都内の方では、春一番が吹いたようだ。

春探し、徒然歩き

朝晩の冬らしい冷え込みがあっても、日中は春の陽気が続いてる。

庭では遅れていたクロッカスも、白花が咲き黄花も2日ほど前から咲きだした。

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これも例年より遅れたが、シレネ・カロリニアもプランター植えから次々と

咲きだしている。

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今朝19日は冬らしい冷え込みになったが、陽が昇るにつれて気温が上がりだし、

ポカポカの陽気にさそわれて、午後から久しぶりの川沿い道へ早咲き桜探し。

川沿い道へ途中でが、ミモザと小彼岸桜。

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小彼岸桜はかなり開花が進み5分咲きくらいだろうか。

小彼岸の隣に咲く寒緋桜がほころび始めていた。

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 川沿いにそぞろ歩き。

いつも早咲きの桜がちらほら花を姿を見せていた。

桜並木はソメイヨシノ河津桜系が多いが、桜の判別は抜きにして春探し。

5輪ほど咲いてる小さな花の桜

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その少し先にの木の枝には、すこしピンクの濃い小さなサクラ、

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 ボケ、雪柳、寒椿

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この樹はソメイヨシノと思っていたが・・

小さく桜が咲いている。

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薄いピンクがさす桜

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河津桜と教えていただいいていた。

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まだ咲いている冬桜

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川沿い道を離れ家路への道筋、満開のしだれ梅

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空き地に咲く早春の定番、オオイヌノフグリ

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  家庭菜園の小松菜?の菜の花

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満開になってきた早春の花、マンサク

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咲き始めたよ!!

帰り道のお庭の鉢植え沈丁花

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馬酔木の花

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そして庭で1月から咲き続く、オキザリス、キバナハナニラ

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芽吹きが始まりぐんぐん伸びだすヤマシャクヤ。

もうすぐ3月になる。

いま猛威を振るいそうなウイルス、一日も早い抑え込みを願て・・・。f:id:hansui:20200219210049j:plain



早春花

ようやく庭の雪割草が花をひらいた。

今年も年明け早々には蕾が膨らみだしていたが、今年は暖冬の影響のようで、

なかなか花開かなかったが、白く膨らみも20日ころからようやく開き始め、

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29日には一輪だけ花開いた。

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庭の雪割草の開花を受けて、小春日和の29日、所用で出かけた際の帰り道に

ちょっと足を伸ばして、都の薬用植物園と都瑞穂町の社会教育施設、耕心館庭園へ、
寄り道をしてみました。

お目当ては早春の花、特にセツブンソウとフクジュソウですね。

 

薬用植物園の黄梅

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 ザゼンソウ(座禅草)

薬用植物園、鉢植え

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 咲き始めたばかりの様子の福寿草

薬用植物園

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 スノードロップ

薬用植物園

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 セツブンソウ、

薬用植物園、耕心館庭園 

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 バイカオウレン

耕心館庭園

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ミスミソウ(雪割草)も遅れ気味ながら咲きだしていた。

薬用植物園

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 早春花の代名詞の梅の花も、関東は遅れ気味のようですね。 

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 はや1月も終わり。

2月へ入ると冬へ戻る予報のようですが、咲きだした早春花をみて

春遠からじ・・

なんかほんわか気持ちが温かくなったような。

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第37回    2日目・後編 五個荘村~武佐宿

地下道を抜けると直ぐの左側に道標が建ち、安土町東老蘇へ入ります。 

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続きです。


道標から約400m歩くと、安土町東老蘇集落で、奥石神社(おいそ)の大きな社標、鳥居が建ち、右前方に鬱蒼とした「老蘇の森」へ東参道が続いてますが、

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 表参道から入ることにし、5分ほど集落を進むと、奥石神社の大きな社標石、

大鳥居、そして後ろ神社を取り囲む大森林は「老蘇の森(おいそのもり)」と

呼ばれ、万葉の昔から歌に詠まれてきた名高い森で国の史跡に指定されている。
「今から約2300年前 孝霊天皇の御世に石辺大連(いしべのおおむらじ)という人が

神の助けを得て松、杉、檜などの苗木を植え祈願したところ、たちまち生い茂り

大森林になったと伝えられている。 
後にこの石辺大連は100数拾才迄生きながられたので人呼んで「老蘇」(老が蘇る)

と云い、この森を「老蘇の森」と呼ぶようになった。」 (老蘇の森 説明板)

  

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森の中には、藤原氏の祖である天津児室根命(あまつこやねのみこと)を祭神として

祀る奥石神社((式内 奥石神社 鎌宮)があります。

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大連翁が社壇を築いたといわれ、繖山を御神体とする延喜式内社の古社で、

安産の神ともいわれて、広く信仰されているそうです。

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本殿は天正9年織田信長が家臣柴田家久(勝家の一族)に命じて造営せしめたもので

三間社流造で、桧皮葺の豪華の中に優美な落ち着きを持った建造物で、

本殿は国の重要文化財に指定されています。

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参拝を済ませ街道を行くと、左側に「根来小路」の標石が建っており、

真向かいの小路を入り進むと、突き当りに根来陣屋跡で、標石と解説板が

建っていました。陣屋跡後方は老蘇の森です。

根来寺の僧だった根来家始祖・盛重は、鉄砲の根来衆で知られ、秀吉の根来寺焼き

討ち後に家康家臣となり、多くの戦功から大和・近江・関東に領地(知行地)を拝領。

大旗本として寛永10年(1633)当地が根来家知行所となり、元禄11年(1698)領地替えの際、ここに陣屋が設置され代官所が置かれました。」

(解説板)

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(さすが都に近い近江の国、戦国話がぞくそく出てきますね)

街道へ戻り少し行くと、右手に土壁も綺麗なお屋敷があり、覗かせて頂き、

向い左手板塀に、福生寺。轟地蔵の表示板をみて150mほど行くと、

 

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轟川に架かる轟橋があり、手前右側に轟地蔵跡碑と解説板はあります。

かつてここに、五個荘に伝わる小幡人形の千体仏地蔵があったそうで、

「轟地蔵は明治になってから福生寺境内に移設された」と書かれてます。

轟橋を渡った左側には、金毘羅大権現常夜燈が建っていました。

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街道書に、福生寺の本堂が根来陣屋の書院を移築した、と書かれており、

道を少し戻って路地に入り福生寺へ寄ってみました。

(なぜか地蔵堂は写してなかった、なぜかな??)

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街道へ戻り轟橋を渡った左手に杉原医院があり、勝本宗益(通称鈍穴)が江戸末期に

作庭した名勝の緑苔園、と案内板が立てます。入口から覗いてみましたが、

人気が無く、少しは見えるかと路地へ入ってみましたが、手入れさてた木々が

塀越しに見えただけでしたね。

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杉原医院から約200m行くと、信号のある十字路へ出で、用水手前に小祠があり、

用水を渡った脇に「右・観音正寺、左十三仏」などと彫られ中山道道標が立てます。

交差点を渡ると西老蘇地区になり、左側は老蘇コミニュティーセンターで、

元は老蘇の農協や郵便局があった跡との標石が立ち、その先には奥石神社御旅所が

あり、標石が建っていました。 

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御旅所から先右側に、鎌若宮神社があり、祭神は大己貴命(オオナムチノミコト)で、

創建は不詳で、老蘇村が東西に分裂したときに「奥石神社 鎌若」の若宮として

勧進したともいわれてるそうです。

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神社を出て街道を歩くと、ベンガラ塗の豪壮な建屋や長屋門を備えたお屋敷、

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右手に浄土宗の東光寺があり、門前に寺標石碑と、歌舞伎「菅原伝授手習鑑」の

モデルになった豊臣秀吉の祐筆、「建部伝内遺跡」の石碑、伝内堂が有ります。

もと五個荘清水鼻にあった佐々木六角氏ゆかりの寺院で、滅亡後「寺号」と

平安時代後期の作「木造阿弥陀如来立像」(安土町文化財)を譲り受けたと

伝わっている由。

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東光寺から街並みを眺めながら10分ほど行くと、亀川の交差点に出て、

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交差点を真っすぐ渡り50mほど行くと田園が大きく広がり、右手花壇に花が咲き、

中山道 西生来 どうぞごゆっくり」の木製板を吊り下げた小公園があり足休め。

青い機械は田園の用水ポンプでしょうね。

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すぐに西生来の集落に入り、水路のような川の端に「泡子延命地蔵尊御遺」跡の碑と

解説標板が掲げられている。地蔵尊は移設されてます。

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近江八幡市、マンホール蓋。

中央に八幡山を描き、八幡堀、白壁の蔵、近江商人のそろばんの玉柄ののれん、

市の木サクラが描かれるそうです。

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右側に西福寺があり、山門右側に移設された泡子地蔵堂が祀られていて、道を隔てた

向かいに不動明王道標が建っていて「これより二丁半」と彫られてます。

泡子地蔵は、茶店の娘が客の僧に恋をし、僧の飲み残しの茶を飲むと懐妊した。
三年して再び僧が現れ、子に息を吹きかけると泡となって消えたという、板があり、
はて、どこかで聞いたような、醒井宿だったかな。

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不動明王道標から約5分強歩くと右側街灯下に日本橋から124番目の一里塚跡の

標石が建っていました。(写真右)

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一里塚跡から、側溝が整備された街並みの家々を眺めながら足を進めます。

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おや、これは??

双体道祖神では。

壁に立てかけてるだけですが、ちゃんとお花を供されている。

木曽路までは多くの道祖神馬頭観音庚申塔を道端に見かけたが、美濃路、近江路

 入ると、ほどん目にすることが少なくなてる。

 なかんずく庚申塔は全く見かけなかった。 何故かな??)

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左手の家並みが途切れて、田園が大きく広がり、先に橋が見えてきます。

一里塚から約250m、5分ほど歩くと、蛇沢(いざ)川に架かる西生来大橋を

渡って進むといよいよ武佐地区へ入ります。

蛇沢(いざ)川は「どんどん川」とのプレートがつけられてましたが、いわれは?

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西生来橋を渡って50mほどの十字路先に泡子地蔵・200mの標識があり、

下のガードレールに隠れて、数個の石仏が祀られ、ここにもちゃんと花が供えられ

てました。中には道祖神の様に見える石仏もあったが、判然としませんでした。

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十字路先の空き地の道端に、ここでは武佐学区まちづくり協議会が建てた

「武佐宿 大門跡」の木札が立ち、街道書にはここは武佐宿東の見附で江戸口(東口)と記されてます。

 

(まちづくり協議会が、ここでもか活動してるんですね。案内板の作成は武佐小学  

 卒業記念だそうです)

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武佐宿は江戸から66番目の宿場で、

愛知川より、2里18町 9.8Km
江戸日本橋より、123里25町 485.7Km

街道書によれば、

武佐宿は近くに近江商人の町である近江八幡があり、物資の往来が盛んに行われ、

伊勢に通じる八風街道の追分を控え、塩や海産物の往来で賑わいました。

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、

宿内家数 183軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠23軒 宿内人537人。

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大門跡から約30m歩くと、右側に牟佐神社の鳥居が建っていました。

創立年代不詳で,火災や兵火にあうが、元禄五年に社殿、明和四年に拝殿が造営される。

ご祭神は都美波八重事代主命

武佐宿の氏神様で、元々「市神大明神」とも呼ばれ、境内では古くから盛大な市が

立った。

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ご本殿は覆屋の中に鎮座してます、

真ん中に市神神社でご祭神は都美波八重事代主命(つみはやえことしろぬし)。

境内社金毘羅宮と稲荷神社、とである。

(ご本殿の後ろに社務所が有りましたが、珍しいのでは)

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参道を戻ると右手にど~んと大木が立ってます。

御神木かな?注連縄のかけられた、ケヤキの巨木。

幹周囲4.46m,樹高30m,樹齢は300年以上経ているそうです。

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神社を出て鳥居の直ぐ先の右側、ごみ集積所箱前に高札場跡があり、

標板が建っていました。 

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 向かい側の鉄筋コンクリート建てに瓦屋根を載せた、瀟洒な建物は「武佐小学校」。

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神社を後に秋の花々を愛でながら行くと、

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左側に明治天皇聖蹟碑が建っていて、右手には広済寺で、推古天皇2(597)年

聖徳太子が創建したと記されたとの案内看板が有りました。

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約40m歩くと、右側に大きな冠木門の木戸風黒い門構えは、

かって奥村家が勤めた脇本陣跡で、後に武佐村役場となり、今は「武佐町会館」で、。

建屋左手には、これも大きな馬頭観音碑(文字塔)が見えました。

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脇本陣跡すぐ先、左側に明治19年(1886年)に建築され国登録有形文化財

指定されている旧八幡警察署武佐分署庁舎が有ります。

現在は、隣接する明治初期創業の古い料理屋・魚友楼の洋館という扱いになっている。

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庁舎跡から約80m歩くと国道421号、と交差する、武佐町交差点で、

渡る手前右側はポケットパークで常夜燈モチーフの武佐宿碑と、将軍吉宗に献上された象が一泊した時の様子が描かれている絵図が建っていました。

常夜燈モチーフには「右はちまん約4km、右京都約48km、右いせ約120km、

右東京約460km」と書かれてました。

国道421は、中山道・武佐から鈴鹿山脈をトンネルで越え、東海道・桑名を

結んでいるそうです。

・・旧東海道接触が近いことを伺がわせてるな・・

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国道421を武佐町交差点を渡ると、右側に虫篭窓を今風に残し、可愛い暖簾を提げた

民家があり、左側に「いっぷく処」の袖看板を付けた虫篭窓の家がありました。
「いっぷく処」は店名のごとく武佐宿の交流館的な場所で、かつての和菓子屋だったとか。

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いっぷく処から空き地をはさんで左側に、補修したばかりのような真っ白い漆喰壁、

虫篭窓の建屋が有ります。
標識が建っていませんでしたが、大橋家役人宅跡と思われます。

街道書には、400年以上の歴史を持つと云う宿内最古の建物で、十五代目、金左衛門は伝馬所取締役を務めた、とあります。

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役人宅のすぐ先右側に、かつて駄馬・人足を常置した「伝馬所」だった跡の、

宿場風情に合わせた現武佐郵便局があり、古い黒「書状集箱」を模した

現役の郵便ポストが置かれてました。

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隣は、白漆喰も綺麗な代々下川七左衛門が勤め建坪262坪だった本陣跡があり、

本陣門と土蔵が残っていました。

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本陣跡の斜め向かいに空き地が有り、宿内で良く見かけた武佐小学校の卒業記念制作の

標識がフェンスに掲げられ、旧旅籠・中村屋跡がありました。

現代まで営業していたそうですが、残念ながら平成23年に火災が起き全焼した由。

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約20m歩くと十字路があり、左角に八風街道道標があり、

石碑には「いせ ミな口ひの八日市道」「文政四年七月・・・)」とあります。
八風街道東海道を経て鈴鹿山系の八風峠を越えて八日市至る道で、
近江商人もよく利用していた中山道東海道を結ぶ通商路であった。
十字路を渡った右角にも道標が建っていて、安土浄厳道道標と読めました。

(帰宅後調べてみると、「浄厳院は、天正5年(1577)信長により建立された寺院で、佐々木六角氏頼が建立した慈恩寺跡地にあり、同7年(1579)、信長の命で浄土宗と

日蓮宗の僧による仏教論争が行われたことで知られている」とありました)

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道標の真向かい建屋の窓格子に「武蔵川越藩松平家の陣屋跡」との標識があります。

なんと武佐は、はるか関東の武蔵の国川越藩の飛び地、2万石だったんです。

(川越は家から車で30分くらいの藏造り街並み小江戸と呼ばれる城下町で、

 国指定有形文化財の絢爛豪華な山車が行く祭りなど、関東有数のの観光地です。

 柳沢吉保が城主の時代も有りました)

陣屋跡の先隣の左側に愛宕山常夜燈が建っていました。

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陣屋後の先隣りの家前に、5段の鉢棚が有り鉢植が沢山おかれてます。

窓格子に「近江八幡の花、武佐りんどう」のプレートが有りました。

そういえば、武佐交差点のポケットパークにも「武佐りんどう」の説明板が

ありましたね。
むしゃりんどう(武佐竜胆)

武佐竜胆(武者竜胆)はシソ科 ムシャリンドウ属で、リンドウというより
タツナミソウに似た花で、武佐町で発見されたことから名付けられたといいます。

6月から7月にかけて茎の上部に淡い青紫・白・桃色の花を咲かせ、

近江八幡市の夏の花に認定されてるそうです。

現在では、北海道に少々自生している程度で、環境省レッドリスト

(絶滅の危険が増大している種)の絶滅危惧Ⅱ類(VU)に登録され、

中仙道・武佐宿の地域ぐるみで、武佐では街を上げて「むしゃりんどうを守る」の

取り組み活動を行ってる由。
 

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(帰宅後調べるとこんな花でした)

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足を進めると、左手に向かう小路があり、白塗りの「←長光寺」と記された案内板が

立ち、向こう角には「従是三丁」と読める道標があります。

街道書には、徳太子が建立した49院の1つである元武佐寺(現、長光寺)に至る

道標と書かれてます。

立ち寄りませんでしたが、

長光寺は,中世の紀行文にも登場する昔から近江の名刹であった。
 寺の縁起によれば推古天皇の時代に聖徳太子が武川綱に命じて建立した寺で

「武佐寺」と呼ばれたと云う。本尊は聖徳太子の持念仏と云われる「千手観音」。

 また境内には聖徳太子が当寺建立の証として植えたと伝えられる樹齢5~600年と 推定されている「ハナノキ」があり、参道の左手に「千体地蔵」がある」

近江八幡資料にありました。

ここにも聖徳太子手植えハナノキがあるんですね。

きっと見事な紅葉になてるでしょう。

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道標から約100m、右側に愛宕常夜燈と、その隣には注連縄を掛けた石碑が有り、

石碑は木の蓋がしてあるように見えるのが、火防の神「愛宕大神」だそうです。

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常夜燈先の小路を越えて右側に、卒業記念で制作された「高札場跡」標識があり、
街道書では、武佐宿の西目付(京口)、とありました。

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高札場跡から2,3分歩く、と街道は桝形の様に右手に曲がり、

近江鉄道八日市線武佐駅です。

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2019年11月24日(日) PM3:30 

鳥居本から武佐宿へ、約24km。

歩いていて再び京の都へ、第37回、2日間の旅の足止めです。

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駅は無人駅でホームで待つと、懐かしさを覚える塗装の電車が入線してきました。
懐かしいはずです、昭和の終わりくらいまでは利用していた、西武鉄道カラーでした。

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近江八幡駅コンコースからの夕景

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翌日 11月25日(月)は前日の予報では雨天で、少しくらいの雨なら寄り道、

と決めてたが、嬉しいことに青空も見える薄曇り。

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寄り道は紅葉で知られる湖東山の二院、金剛輪寺西明寺多賀大社

錦秋の古刹を堪能し、いい旅の締めくくりでした。

写真は、愛知郡愛荘町金剛輪寺駐車場で写したマンホール。

「中央に町の鳥『きじ』を配置し,下方に町の花『つつじ』と町の木『うばめがし』,上方は稲と麦を配置して豊かな郷土を象徴し,バック全面に町章を置き,

町の限りない発展を表現したものです」との解説文が有りました。

 (秦荘合いは愛荘町と合併)

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紅葉模様はデジブックアルバム

 

金剛輪寺

 

西明寺

 

 街道旅は初春までお休みです。

おわり。


歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第37回    2日目・中編 五個荘村~武佐宿

愛知川を渡り五個荘へ入りました。

(街にはこの案内板が要所要所に建てられてました)

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2日目続き、

五個荘へ入ると左手に秋葉山常夜燈、さらに行くと左側に愛宕神社が祀られていました。

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愛宕神社から約70m歩くと、臨済宗中興の祖と云われた東嶺禅師御誕生地碑が建っていました。

東嶺禅師碑から約140m歩くと、小畑地区へ入り、代々細居家が伝承してきた

「小幡でこ」と呼ばれる土人形の窯元の家がありました。

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「小幡でこ」(案内板拡大)

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東嶺禅師は享保6年(1721)近江小幡駅出町(滋賀県東近江市五個荘小幡町) に薬屋を営んでいた中村善左衛門の嫡子として生まれ、享保14年(1792)9歳のとき近江能登川大徳寺の亮山恵林につき出家した。その後、近世臨済禅中興の祖と言われる白隠慧鶴(1686-1769)の高足の一人となる。

 (街造り協議会解説板)

小幡人形の家を過ぎ、電気店お茶屋さん?で、約80m歩くと近江鉄道

小幡踏切があり、茅葺被せ屋根の家の前で渡って進みました。

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踏切を渡ると道標が立ち、左手は近江鉄道五箇荘駅中山道はそのまま進み、

約210m歩くと、右側参道口に「聖徳太子御旧跡・法皇山善住寺」の石柱が建ち

奥に山門が見えました。

五個荘中山道の街道沿い集落で宿場や立場ではないそうですが、

綺麗な用水の流れに風情ある板塀、いい街道街情緒ですね。

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 左手に、2階屋根に屋根を乗っけた変った造りの中沢酒造(創業は昭和23年)、

左手に木幡神社祭礼で神輿が休息する御旅所(写真下右)があり、

奥に山王神社が祀られてます。

(中澤酒店前を右折して国道8号線を越え、1km弱行くと、五個荘近江商人屋敷群

 がるそうで、時間が許せば是非のお勧め、と地元の方に教わりました)

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善住寺から約60m歩くと追分道標が建あり、道標の左手を入り斜め右に進むのが

御代参街道と呼ばれ、道標には 「右京みち 左いせ ひの 八日市みち」と刻まれ、

八日市、日野、笹尾峠を経て東海道の土山宿まで続いている、との解説板が有ります。

正式名称は、「東海道脇街道・北国越安土道」と呼ばれ、寛永17年(1640年)

春日局伊勢神宮から多賀大社参拝の折に整備され、江戸中期頃、京の公卿たちが

年3回伊勢神宮と多賀社へ代参の名代を派遣する習慣があり、この道を利用したことから御代参街道と呼ばれるようになったそうです。

まっ直ぐ行くと五個荘駅に出る由。

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道標から約140m歩くとY字路となり、中央に旧中山道ポケットパークがあり、

街道は右に進んで行く。
ここには明治5年(1872)の大神宮常夜燈と東屋がある。

ポケットパークの向かい側の参道を入って行くと臨済宗の慈光山正眼寺がある。
正眼寺には、慶長17年(1612)に角倉了以の子である角倉貞順が安南(現在のベトナム)貿易に際して、安南に送った文書とそれに対する安南よりの修好文書とが所蔵されている、と街道書に有ります。

角倉 了以(すみのくら りょうい)戦国時代から江戸時代初期にかけての京都の豪商。
安南国貿易や諸国の河川開発事業にも活躍した人物です。

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ポケットパークから100m位、大同川に架かる橋を渡ると道標があり左折、

左手の川向う岸は最近移設した東近江市支所、道の右手に五個荘郵便局。

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進むと、大同川の向こう岸は、紅葉もいい感じの五個荘中央公園が広がり、

右手は東近江市五個荘支所跡で、支所移転後の昨年平成30に建てられた、

神崎郡役所跡・五個荘役場跡の石碑が立ち、その先には名残りの松が植生されて

いました。

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どっしりと根を下ろした古木をみて、住宅街に入ると道は再び狭くなてきます。

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ベンガラ塗んり塀の重厚な造りの旧家らいきお屋敷を見送くると。

右側に最近修復したような茅葺き屋根の家がありました。

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茅葺き屋根の家から約60m歩くと、右側に地蔵堂が祀られていました。
地蔵堂から約20m進むと、左側にポケットパークがあり公園内には大きな五箇荘宿場図が設置されていました。

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ポケットパークから約50m歩くと左側に、大きな鐘をデンと据えた、

西沢梵鍾鋳造所がありました。
西沢家は9代300年に渡り、代々梵鐘鋳造を家業としてきたとのことです。

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西沢梵鐘鋳造所から茅葺屋根にかぶせ屋根の旧家や、廃屋らしい崩れかかった土塀。

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左側の若宮神社を通り過ぎるなど約300m歩くと、左側に天保15年(1844年)に

建立されたといわれ、道標の役割もしていた常夜燈が建っていました。

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常夜燈から五個荘北町屋町の街並みへ入り、被せ工法の家を見ながら、

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約250m歩くと、左側の公園に隣接して明治天皇が休憩した跡碑が建っていて、
休所碑から斜め向かいに市田家があり、庭内に明治天皇聖蹟碑が建っていました。

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先には、右側に市田庄兵衛家本宅が保存されていました。

庄兵衛家は江戸時代より呉服・繊維商として京都や大阪で活躍した近江商人

そうです。 
家の板塀に「わがまち一番 京町屋風商家の保存」と記された看板が掲げられています

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市田庄兵衛家本宅からの先には、右側に北町屋の鎮守・大郡神社(おおこうり)が

あります。 

社殿は鳥居の奥、国道8号線を越えた5分ほど先に鎮座しているようです。

神社を中心とした東西南北400m程は、奈良平安時代に近江國に置かれた神崎郡役所(郡衙 ぐんが)の大郡遺跡と街道書に有ります。

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参道口の先は県道209号に突き当たり、県道を横切った右側に茅葺屋根の民家があり、あれ、瓦葺屋根の上に茅葺屋根??

角にに天保8(1837)年に建立された常夜燈が残されていました。

側の五個荘まちづくり委員会の解説板には金毘羅大権現常夜燈とありました。

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常夜燈の100mほど先にも、茅葺屋根の古民家があり、こちらは

片山家が勤め「ういろう」が名物だった茶屋本陣跡で、ここにも

五個荘まちづくり委員会の案内板が立ち、瓦葺屋根に茅葺屋根の混在造りになって

ます。

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先は五個荘石塚に入り、右側に小祠のある路地の角に鳥居はありませんが、灯篭が立ち若宮神社が祀られ、約10m先の右側路地角に観音正寺道標が建ち、上の祠には

観音像が祀られてっていました。
観音正寺は西国32番札所で、聖徳太子が建立したと伝わる古刹で万事吉祥縁結びの道場で、この路地を進んだ蒲生郡安土町の繖山(標高433m)の山頂近くに

鎮座しているそうです。

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道標から5分ほどのアパートの前に、最近整備されたと思われる石標と鋼板製の

案内プレートがあり、日本橋から123番目の「石塚一里塚」跡有りました。

(街道書では標石なし、になってました)

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一里塚跡の先には、元は松並木だったのでしょうか、数本の松が残されていている

右手にあった食事処で生パスタの昼食を済ませ、さらに行くと、

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国道8号に合流角に「てんびんの里」碑があり、道中合羽を着て天秤棒を担ぐ

近江商人像が乗っています。

五個荘近江商人の発祥といわれ、てんびん棒一本から豪商にまで立身出世した

立志伝がたくさん残されているようです。

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左方向へ150mほどの交差点で右手に渡り、騒音の国道から右手に分岐した

静かな里道へに進みます。山裾に大きな伽藍が見えてましたが・・

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左折して行くと五個荘清水鼻集落で、右側に湖東3名水の一つと云われた清水鼻の名水があり、石碑が建っていました。他の二つは醒井宿の居醒の清水、そして彦根

王水だどうです。

脇の石段を上ると日枝権現を祀る日枝神社と、街道書に記され、清水鼻村は立場で、「焼米はぜ(爆米)」が名物でした、ともあります。

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山裾の紅葉を眺め、天文5年(1536年)の開基で、本尊は阿弥陀如来の浄慶寺の

寺標、山門を見送り進むと市境。

東近江市から近江八幡市へ入り、安土町石寺です。

信長の安土城は琵琶湖の側と思いますが、この付近も安土なんですね。

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市境の先で近江八幡に通じている八風街道と呼ばれる八幡道が右手に分岐し、

先には大神宮と彫られた大きな常夜燈が建ち、左手の細くなった里道を進みます。

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5分ほど先で、歩道帯が右側だけの国道8号に合流し、国道左手の新幹線高架と

並行して5分ほどゆくと、国道は新幹線の高架下を潜り抜けて続きます。

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信長の街旧安土町のマンホールが有りました。

永楽通宝が三つ並んでいて、織田信長が刀に付けて愛用した「まけずの鍔(つば)」のデザインのもの。「sewerage」は英語の下水設備、「ANZUCCI」は安土のポルトガル語表記なんだそうです。

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こんどは右手に新幹線と並行に行くと、左手に大きな教林寺の紅葉案内板が立ち、

看板に右→があり、400m歩くと十字路の右手から、観光バスが2台出て来たので、

右手の新幹線の向こう側にお寺があるようです。

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中山道は、次の十字路を左手へ曲がるようになってますが、交通量の多い国道を

渡る信号が有りません。

一旦、十字路を右へ曲がり、新幹線の高架下をくぐってその先から、戻るように

地下横断で国道を渡ってゆきます。
国道左側を歩いてくるとそのまま左折できますが、左側には歩道帯が無いため

止む得ませんね。

高架をくぐりぬけると、

 

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左手に五個荘石塚にもあった「観音正寺」道標が立ち、道の先には

国道に合流してから右手に見えていた、山頂近くに観音正寺のある

繖山(きぬがさやま)があり、山頂近くに幟のようなものが見えてます。

デジカメズームしてみると「観音寺城・・」と文字が見え、観音正寺ではなさそう??

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(帰宅後調べると、繖山(きぬがさやま)は別名観音寺山で、幟のあった付近は

 室町幕府の近江守護職 佐々木六角定頼の居城で、後に織田信長上洛の際に

 落城した観音寺城跡でした。 観音正寺も側に有るようです)

 

地下道を抜けると直ぐの左側に「中山道東老蘇 武佐宿へ一里」の道標が建ち、

安土町東老蘇へ入ります。

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続きます。


歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第37回    2日目・前編 愛知川 ~五個荘入口

11月24日(日) AM6:30 有難いことに青空も見える薄曇りの天気。

歩き旅にはちょうどくらいの気温予報で、遠くの山並みが紅葉してますね。

(ホテルの窓からアップで)

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AM6:30からのホテルの朝食を済ませ、ゆっくり準備をして近江八幡駅へ。

今朝はJRではなく。近江鉄道を利用して昨日足止めの近江鉄道愛知川駅

向かいました。

JRの東側にこじんまりとした近江鉄道の始発ホーム。

乗り込んだのははカラフルなデザイン電車。

塗装ではなく印刷フイルムを貼ってる、ラッピング電車です。

前回の旅から利用している近江鉄道は、我が町に本社があった西武グループ

鉄道会社でした。

創業者の堤康次郎は、滋賀県愛知( えち )郡下八木村(現・愛荘町)の出身だ

そうです。

どうりで何か懐かしい黄色の色合いの電車が、走っていたんです。

乗ったのは「鉄道むすめ」の一人、近 江鉄道株式会社豊郷/駅務掛 

「豊郷あかね」ちゃんのデザインだそうで、

鉄道模型で古くから人気の、トミーッテクの鉄道に関する職場で働く女性を

モチーフに、トミーテックが中心となって展開している「日本鉄道キャラクター

コンテンツ」なんだそうで、全国で鉄道会社約30社が参加してるんだとか。

我が町西武鉄道は「井草しいな」ちゃんで、何度か見たことが有りました。

(井草 しいな は、新宿線池袋線の駅名です)

 

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昨日乗ったこのワィン電車もラッピング電車でした。

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AM8:40 愛知川(えちがわ)駅をでて、中山道へ向かいます。

おや、ハトの夫婦?と思ったら、ほんものそっくりに置かれた、置物でした。

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11月24日(日)AM8:50 第37回2日目の旅立です。

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、

愛知川宿の宿内家数は199軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠28軒で

宿内人口は929人であった。(現滋賀県愛知郡愛荘町愛知川)

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愛知川宿ゲートを潜って約20m進むと、宿口の守り地蔵堂が祀られてます。

見かけた黄色い花は「アンデスの乙女」だそうで、

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地蔵堂から約50m歩くと、左側に黒板塀を回した屋敷は、江戸期は田中新左エ門宅

だった処で、明治期に「田源」の屋号で麻織物商を営んだ田中家の別邸跡があります。
明治25年建築の南土蔵のほか、大正8年ごろに建築された主屋ども含めて

登録有形文化財となっているそうです。

現在は近江商人亭という日本料理店です。

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昨日もみたマンホール蓋。

調べた解説では、

愛知川町を流れる愛知川、不飲川、宇曽川、宇曽川支流の安壺川と新愛知川の

5本の川と、夏の風物詩愛知川の「花火」が描かれているそうです。

上部に町章、下部に「えちがわ」の文字、とありました。

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近江商人亭から大きな家並みの道を約150m歩くと川が横切り、

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郡分延命地蔵堂と呼ばれる地蔵堂があり、堂前に愛知川宿北入口碑が建ってます。

地蔵堂脇を流れる中の橋川は、中宿と愛知川宿の境、神崎郡と愛知郡との境」と

街道書には記され、郡境であることから郡分と呼ばれるようです。

愛知川宿の江戸口(東口)で、地蔵堂脇には沢山の地蔵が置かれてました。

 

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地蔵堂の隣りに菓子店舗があり、創業慶応元年(1865年)和菓子・しろ平老舗、

と看板を揚げています。

ふっと見上げて気が付いた、愛知川宿の街灯。

行燈をつるすアーチの上には、侍、商人、牛飼いなど、街道を行く大勢の人の姿が

描かれています。

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少し先で境町から泉町に代わる交差点に出、渡った左手は小公園、ポケットパーク。

広重の愛知川宿の絵や道標が置かれ、その隣には、明治4年(1971)の郵便創業当時と同じ型の「書状集箱」には、「他のポストと同様に取り集めを行います」と書かれ、

現役のポストのようです。

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小公園から大きなお屋敷街並みを眺めながらゆくりと100mほど進むと、

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右手に愛荘町街道絵地図、「親鸞聖人御舊跡」の石柱があり、「寶満寺」の案内板が

建てます。

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 建歴2年(1212年)、親鸞流罪の地、越後から京都へ帰る道すがら、
愛知川が氾濫して川を渡ることが出来なかった時に、ここに宿を取ったと伝えらる、
と街道書に有ります。
そして、案内板に有ったのが「親鸞聖人お手植えの紅梅とハナノキの花が咲く・・」
えっ! ハナノキがある・・・と山門をくぐります。

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 写真右、お手植えの紅梅かな>

そしてイチョウと並んだ、綺麗に紅葉に染まる大木。

 

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一見、桜の紅葉?と思いましたが、ハナノキの説明文あった「水鳥の水掻き」形の

楓の風の葉が混じてるので、この木がハナノキなんですね。

いや~、昨年の旅でマンホール蓋にハナノキの文字を見つけ、その秋の大湫から

御嵩へ向かう途中にあった自生地では確認できなかった、ハナノキでした。

まさかここで出会えるとは!!

「紅葉の彩りが美しいことから別名ハナカエデ(花楓)とも呼ばれ、葉色は黄緑、黄、オレンジ、赤の色とりどりを見せる。日本の固有種で、ハナノキ自生地としては長野県南部、岐阜県南部、愛知県北東部の3県県境のおもに木曽川流域の山間湿地に自生し、自生地は主に、ミズゴケ類が分布する湧水のある貧栄養の小湿地が多く、山間の川岸や湿原などの湿地などに生育するが、生息環境である湿地の減少などにより野生のものは数を減らしており、環境省のレッドデータでは絶滅危惧Ⅱ類(VU)に指定されている」(ハナノキ解説文)

優しい色合いね~とカミさんも幹回りを回りながら見上げてました。

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 うん、いいカットだね、と自己満足して、

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ゆっくりとハナノキ紅葉を楽しみ、満ち足りて街道へ戻ります。

 

 街道へ戻るとすぐ隣は、日本生命の建屋で塀に「源町・本陣跡」の表示板があり、

その隣は旧旧近 江銀行愛知川支店があったところで、両方とも本陣跡地に

建ってるようです。

本陣は西川家が勤めた、と街道書に有るだけ、今は跡形もない・・・

大正建築の旧近江銀行愛知川支店は改装をして、

「愛知川宿街道交流館・愛知川宿ふれあい本陣」として、今年8月にオープンして

ました。

地域観光の拠点として、

『旧近江銀行』を再整備し、中山道愛知川宿の歴史や商店街の移り変わりや沿革を

 紹介し、「愛知川」の歴史・文化・伝統を知っていただく館です。 

 西沢家が勤めた本陣跡で、本陣には皇女和宮が宿泊しました」

 とのプレートがありました。

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隣に鳥居が立ち、参道の奥に八 幡神社がある。

隣接する宝満寺の位置に城館を構えた愛智氏によって勧進されたと伝えられ、
本殿は、江戸中期の作で県指定文化財となっている

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境内の紅色に魅かれて参道へ入ると、右手は愛知川宿街道交流館の施設建屋があり、

本陣は広大な広さであったことがわかります。

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文化財のご本殿。

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街道に戻ると、参道入口左手は高札場跡で、神社標識の下に標識石碑が有りました。

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高札場跡の石碑の左手に、ベンガラ塗の風情ある民家の隣、

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鉄門扉のある空き地一帯が脇本陣の1軒で、藤屋家が勤めた脇本陣跡と街道書に有り、

以前は脇本陣跡の碑が立てられていたそうでうが、取り払われたようででした。 

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先行していた史跡見つけ係り?のカミさんが戻って、キヨロキヨロしてるのは、

脇本陣跡の向いは大きな「寺子屋」の看板を掲げた進学塾で、その隣の空き地の右端に問屋跡の標石が建っていたからです。

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問屋跡標石のから約20mほど先には、左側に文政11年(1828年)創業の

「赤かぶら漬け」の老舗、マルマタ商店がありました。

赤かぶら漬け、と言えば飛騨の高山が有名だったかな・・

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マルマタ商店を過ぎて、道がぐ~んと狭くなり、5分ほど行くと、

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「竹平楼」という立派な料亭があり、ここは宝暦8年(1758年)創業した

旧旅籠「竹の子屋」の跡で、提灯に「愛知川宿 旅籠」とありました。
右手に明治天皇聖蹟碑があり、こおで休息をしたそうです。

明治期に建築された御在所と広間は、国登録有形文化財と なっているそうです。

 

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竹平楼から5分強歩くと、宿の京口に当たる愛知川宿と掲げたゲートが見え、

手前に不飲川(のまずがわ)」があり、不飲川橋を渡ります。

(不飲川(のまずがわ)の名の由来は、
平将門の首を洗ったといわれる上流の不飲池から流れ出ていて、川の水も将門の
血で染まって飲めなくなったという伝説」と、街道書にありました。

欄干に不思議な壺が欄干飾りでのってます。

さて、何でしょう??と、

ちょうど通りかかった地元の方にお聞きしました。

愛知川の伝統工芸品「びん細工てまり」をモチーフにした焼き物んんだそうです。

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愛知川駅前にも「びん細工てまり」を模した郵便ポストがあり、駅の向こう側の

図書館併設で瓶手まり館があるそうで、滋賀県伝統的工芸品に指定され、

フラスコ型のガラスびんに、びんの口より大きな手まりが入っている。

まるく家庭円満に、さらには仲良く(中がよく見える)と言われ、嫁入り道具にも

なっている。今は「伝承工芸愛知川びん細工手まり保存会」の方々がその技術を守り

伝えている」そうです。

(駅前の写真をみると、写ってましたね。もうすこしちゃんと移しとけばよかったな)

f:id:hansui:20191215102450j:plain 橋を渡って約30m進み、国道8号の不飲橋交差点をを横断した所に、

一里塚跡と街道書に有るが、どこかな??

カミさんがキョロキョロしながら、斜め右方向に進むと「あったわよ~」

右手に駐車場が有り、奥に石柱が建っていたんです。

石柱は日本橋から122番目の愛知川一里塚跡でした。

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一里塚跡を確認し、蔦に覆われたオブジェのような建屋を見て、交通量の多い

国道8号を、それっと左手に渡り500mほどの行くと、愛知川手前で二股になり、

中山道は左手の道へ進みます。

約60m歩くと左側に祇園神社がありました。

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神社参道口の先に、高さ4m35cmの 睨み燈籠(常夜燈)が建っていました。

橋の位置が変る度に場所を変え、今は ここに置かれたそうです。

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睨み燈籠の先で右に曲がり、車道を横断して愛知川(えちがわ)を、御幸橋

渡ります。

御幸橋は、文政12年(1829)愛知川宿町人・成宮弥治右衛門忠喜ら4名が彦根藩に架橋を申請して天保2年(1831)に完成した。橋は渡り賃を取らないことから 「むちん橋」 よ呼ばれた。
また明治11年(1878)明治天皇御巡幸の際に板橋が架けられ、その後、地域に払い下げられ 「御幸橋」 と改称された。現在の橋は昭和36年に改修した5代目の橋である」

(解説板)

高宮宿の高宮川にも無賃橋でした。

広重の「恵智川」(愛知川)の絵にも木柱に「はし銭いらす」の文字が見えてます。

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 川を越えると市境で、東近江市市街の境標識に従い約20m先で川沿いに左折し、
東近江の五個荘地域へ入ります。

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 川沿い道へ入ると先に近江鉄道の愛知川南踏切、越えるとゴトゴト鉄橋を渡る

電車の音、振り返るとデザインされたラッピング電車が鉄橋を渡ります。

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約100m歩くと街道は斜め右に分岐し、文政8(1825)年に建立された

対岸と対の睨み燈籠が建ってます。

対岸の祇園神社へ分岐していた道が、愛知川の渡し場を渡りここへ継がって

いたようです。

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五個荘へ入ります、

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 続きます。