歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第30回 中津川宿~大井宿 後編

9月23日、PM2:20

右手に市境の標識が立ち、左手に「中山道 是より大井」と刻まれてた大きな
中山道碑が建てられてます。
中津川市茄子川から恵那市大井町に入り、江戸から336.9kmになるそうです。

からの続きです。

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市境を過ぎると道は再び登り坂になり、坂道は広久手坂と言うようです。

右手に石仏が見えてきました

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側に建つ案内板には「三面八臂馬頭観音像」とあり、大正14年(1925年)

長国寺悦音和尚が「旅人の道中安全と悪人と悪病を防ごうと」開眼供養したと

記されてました。

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右手土手に中山道広久手坂碑があり、右手に大きなグループホーム施設のある

広久手坂を上り詰めると、大きな栗の木が有って、道にゴロゴロ栗が落ちてます。

先ほどの馬頭観音にも沢山供えてあったのはここの栗かな?

東美濃は栗菓子が名物ですね、カミさんが仏壇に供えると、

 3個ほど拾わせていただきました)

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道は下りになり岡瀬坂と呼ばれる坂を下ります。

うわ!とカミさんが素っ頓狂な声を上げた廃屋。う~ん、床が抜けてるのかな?

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下り切ると左手に、大ヒノキの根方に石祠が二社祀られている社宮司が有ります。

宮司は土地の神の信仰で、木の神とされているそうです。

街道書では、ここの社宮司は近世はじめの土地調査(検地 という)に使用した、

尺杖 や水縄 を土地の神に謝し納めたところと伝えられている、とあります。

回りは大きく開けた田畑。この地を開墾終えて祀ったのでしょうね。

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宮司から約50mほど先に岡瀬沢交差点があり、横断した左手に大きな

永代燈があり、竿石には「ひだりあきばみち」と刻まれています。

ここから28里112kmの、遠州秋葉山への追分常夜燈で、並びに岡瀬澤碑が

あります、ここが岡瀬澤村の東口です。

秋葉山へは東海道を歩いた時に、寄り道してお参りしました)

街道書では、岡瀬沢は中山道の整備とともに発展した村で、中山道に沿った

約三十戸がその中心集落となり、茶屋や馬宿もできたといわれている。
この秋葉道は荷役用の牛が行き来していたところから、「うしみち「」と

呼ばれていた、と記されてます。

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岡瀬沢交差点を進むと左手奥にに富士浅間神社の鳥居が見えてます。

貞享二年(1685))の創建で岡瀬澤村の氏神、池に湧き出る霊泉は女性の病に

霊験あらたかと言われ、八月の例大祭には三河万歳の系統を引く七福万歳

恵那市文化財)が奉納されるそうです。

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富士浅間神社には立ち寄らず街道を進み、保古山山系に源を発する濁川

川の流れに対して斜めに架橋されているところから「筋違橋」と名の有る橋を

渡ります。

(筋違い?下手な写真だね~・・)

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橋を渡った左側に岡瀬澤と濁川についての標板が建っていました。

「みんなで川を守り、豊かな岡瀬澤地区を守って行きましょう」の趣旨でした。

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筋違橋から5,60m先に、左に入ると岡瀬沢観音堂参道口と記された杭が

建っていて、境内には石仏石塔があるそうですが寄りませんでした。

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街道情緒たっぷり、上り坂の集落を抜けてゆきます。

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左手に庚申塔があり、先の右手にも庚申塔があります。

岡瀬沢は庚申講が盛んだったそうで、今も講が開かれてるとか。

中山道道標を見送り坂道を行くと、

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 道(県道410号線)は左にカーブになって上り、右手に途切れていた中山道

 示すカラー舗装の道となり、分岐「甚平坂」についての案内板が建ってます。

左下には、草に埋もれて甚平坂の碑もありました。

案内板によると、

 坂の名前は鎌倉時代源頼朝の家臣で、東信濃小県郡禰津(今の長野県

 東御市 祢津)の豪族・根津甚平是行に由来するという。

 甚平は、妻とともに大井の長興寺に祈って子を授かった、とも記されてます。

カラー舗装道に入ると先は階段になっていて、上は根津甚平公園になっています。

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「甚平坂は短いが急坂で旅人は難儀した。 明治13年(1880)明治天皇
 通行に際し、村人総出で頂上を2m程掘り下げて、二頭立ての馬車を通した」
 との説が案内板に書かれてました。
 カミさんが、”こんな短い坂、歩けばいいのにね~”
 いやいや、昔の高貴な方々は外出には歩かないんだそうだ。
 何らかの乗り物で旅をする、と読んだことがあるよ。
 ”和宮の時は削ってないわよ”
 それは下りだったからかな、それに東美濃は勤皇思想の地域だから忖度?・・
 なんて、たわいないおしゃべりしながらベンチで足休め。

 正面の階段で甚平坂を上り詰めて見下ろすと、頂を2mも掘り下げてもこの傾斜。

 頂上付近に茶屋が造られていたといい、今は展望台がある公園になってます。

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 広重画の「大井宿」はここがモデルといわれ、摸写した碑もあります。

空気の澄んだ季節ならば、画にも描かれた「御嶽山」が左手奥に、

右手奥に「恵那山」が見えるそうで、眼を凝らしましたがザンネ~ンでした。

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甚平坂の階段を上る左手の県道側土手に、犬塚と馬塚の解説板が有り、

下に犬塚の石碑が有りますが、馬塚は・・・見当たりません。

(あとで確認したら県道の山側に有るのでした)

解説板には

「昔、信濃國の桔梗が原に八重羽のきじという化け鳥がいました、里人や旅人の

 命を奪いました。鎌倉幕府は根津甚平に化け鳥退治を命じ、甚平は馬に乗り、

 犬と鷹を連れ化け鳥を追い、この坂に追い詰めました。

 しかし馬はここで倒れ、犬と鷹はなおも追い続けたが犬も力尽きてしまった。

 そこで里人はこの坂に馬と犬の亡骸を葬ったといいます。」

なんとも遠くまで追い詰めたものですね・・

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甚平坂公園をでて、回り込んできた県道に再び合流し、先で道は下りになって

関戸地区へ入って行きます。

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 先の左手に祖霊社根津神社の石柱が建ち、もの凄い急石段を上ると、本殿裏の

 境内には、野津甚平の妻が建てたという供養塔、「関戸宝篋印塔」

岐阜県重要文化財)がありました。

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街道に戻ると、右手に蛇塚、馬頭観音などの甚平坂石仏群がありましたが

残念なが写真はピンボケ、アップはパス。f:id:hansui:20181002185450j:plain 坂を下って行くと左手に石柱だけが立っている「関戸の一里塚跡」があり、

江戸からは87番目になります。かっては北塚は榎、南塚は松が植えられていた

そうですが、大正の頃に取り壊されまったそうです。

右手の木は、消えかかった説明板に辛うじて榎木と読めます。

北塚ということですね。

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一里塚跡から200mくらい下ると、県道401に突き当たる手前に

中山道標識が有り街道は斜め左に入りますが、右手の段上に草の生い茂った

正善寺の境内?と思われる所が有り、「大井鬼子母尊神」碑と並んで、

大きな「明治天皇行在所御舊址・是より三丁」碑が建ってます。

碑の横書きには岩井慶隆邸と彫られいますから、

三丁先に明治天皇が寄りましたよ~、との案内石碑なんですね。

なんでこんな大きな碑をここに建てたんでしょうか??

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斜めに入る街道を下り県道401に突当り、左折して蓮華寺坂を下ると

左手の段上に石塔群があります。

右手の長石塔は高さは3.62mあるそうで、長国寺四世・丹山和尚が

村内安全を祈願し、延宝八年(1680)に建立したものです。

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石塔群から右にカーブしながら坂を下ると、中央高速道路に架かる恵那峡橋が

あり、橋の手前左に「中山道大井宿旅人の墓」と記された標柱が建ってます。

立ち寄りしませんでしたが、持参の史料には

「この墓には、北は秋田県、南は鹿児島県までの広い地域の人々が旅の途中に、

大井宿で亡くなった方が埋葬されている。ここには六十余基の墓がある。

主に男性(内武士五人)で、女性は四人。旅人の墓は近くの長国寺が守ってきた」

とあり、お墓の写真は資料より拝借。

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中央自動車道恵那峡橋で跨ぎます。今朝はここを走って恵那市へ入ったんです。

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渡ると直ぐの右側に菅原神社が鎮座しています。

江戸初期慶長年間(1596~1615)の創建で、いわずと知れた学問の

菅原道真を祀っています。

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境内入口脇に大井村内図が建てられていました。持参の街道書と見比べチェック。

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街道は県道410号から右手に分岐し、階段を下り上宿地区へ入って行きます。

恵那市内が大きく広がってます。

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階段を下りた右側に馬頭観音が祀られ、側に

「文政九年(1826年)建立、上宿八人の女講連中で建てる」との標柱が

 有りました。

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左手には大井宿案内絵図が建ち「上宿広場」と名地けられた小さな公園が

造られていて、トイレを備えた休憩棟が建ってました。

風紀問題がありトイレは夜間は閉鎖される、と会った地元の方が言ってました。

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大井宿の特徴、六つの桝形

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下る坂道は寺坂、「長国寺」への坂の意であるという。

右側に標石と上宿石仏石塔群が並んで建っていました。

案内板には、

馬頭観音庚申塔五輪塔、徳本名号碑、痰切(たんきり)地蔵、等

十五基が祀られています。地蔵一体の光背には「痰切」と刻まれている。

風邪をひいたらこの痰切地蔵を拝むと直ぐ治ると多くの参拝者が在ったと云う。

上宿地区の東外れに当たり、これらの石仏は宿内への悪霊の侵入を防いでいます」

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石仏石塔群を過ぎてすぐの右に、石段を上るとこちらも菅原神社への参道口の

ようです。

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おやこのマンホールの蓋は、丸い蓋の中に角型の二分割蓋?

四角く開くのかな?

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先に明知鉄道線の中津架道橋のガードが見え、道は用水を渡って下ります。

右手にパネルがあり、「水不足解消のため安永元年(1772)に引いた山本用水で、

大変な水不足で困っていたので東野の山本(阿木川ダム下)の阿木川から

5400mほどの長さの灌漑用水を引いた」・・・と記されてました。

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架道橋を潜った直ぐの左側に、高さ2.1mある享和3年(1803年)建立の

名号塔題目碑が建っていました。

案内板を読むと。

武州国(埼玉県)の新井長左衛門と云う人が,伊勢参りの帰途この大井宿に

泊った際に,母が病に罹り1カ月余りの闘病の後亡くなった。

その供養のため江戸の石工に頼んで建てた」との内容が書かれてました。

親孝行、有りきですね。

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持参街道書には記載が無かったので、 立ち寄ってはいませんが、

名号塔題目碑で左折して行くと、甚平坂の折に触れていた根津甚平が再興した

といわれる長国寺があり、西行法師の位牌などが祀られてるそうです。

次回、時間が有れば寄る予定です。

(写真は市資料より拝借) 

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 短いが急坂くだりの五妙坂となり・・

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坂の途中に 「高札場」が復元されている。

(元は40mほど戻った坂の上にあり,もっと大型のものであったと云う)

ここから大井宿へ入る東口(江戸方)になります。 

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大井宿について街道書では、

「江戸から87里30町8間,町並み6町30間。日本橋から46番目の宿場。

 江戸初期は幕府領であったが、元和元年(1615)から尾張藩領となり明治を

 迎えています。 交差する街道も多く、中山道の旅人だけでなく善光寺

 伊勢神宮などの参拝客や、商売で訪れる尾張商人や尾張に向かう木曽荷などで,

 美濃16宿中で随一の繁栄を誇った宿場である。

 人口:466人 家数:110軒 本陣:1軒 脇本陣:1軒 旅籠:41軒

 大井宿は枡形が6か所もあり、通常は城下町に築かれるものなので、幕府が
 大井に城を築こうとしていた、とする説もあるくらいです。
 宿は横町・本町・堅町・茶屋町・橋場という5町に分かれ、それぞれの町が

 枡形によって区切られている。 本陣門や当時の商家,宿役人の家など往時の

 面影が色濃く残っている。 宿の成立は古く,文禄年間(1593~96)

 には旅籠・伝馬もおかれていた」 とあります。

 

高札場跡から下ると上横橋があり、渡って約20m進むと右角に、本尊の薬師如来

行基の作といわれている「寿院横薬師が」あり、左折し(一番目の桝形)

ミスマッチ感の色の建物のある横町を、100m程で県道401号に突きあたる。

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突き当りが二つ目の桝形で、右手へと街道は続き本町となってゆき、桝形の

左手角の高塀をめぐらせた壮大な屋敷が「大井宿本陣」を勤めた林家です。 

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 「当時の本陣は間口約40m,奥行約40mの敷地を持ち、

  母屋部分(151坪)は残念ながら昭和22年の火災で焼失したが,

  幸い表門と、樹齢200余年の 老松が残り、かつての大井宿本陣の

  威信を漂わせている。表門の反りを持たせた瓦葺き屋根・破風板・小屋組み

  の細工や彫刻は,安土桃山 時代の様式伝えると言われています」

   と、 案内に有ります。
 松は平成8年に枯死してしまい惜しむ声が多く、翌年、当主によって姿かたちが

 よく似た2代目の松が移植されたそうです。

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 枡形を左折し、本陣裏へ回り込むと赤い鳥居があり内城稲荷の石柱が建ち

 奥に稲荷神社祀られていました。

戦国時代にかけて豪族の砦があった所で辺りは内城と呼ばれていた。

稲荷社の側に本陣林家の常用井戸があり、皇女和宮が当家にて 昼食を摂った

際に供され、和宮泉と呼ばれた井戸があった由。 

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 「本陣」の角を右折すると左側に大きな旧家があり、前の道路の側溝蓋が

 「中山道」になってます。

 通りは本町でしばらく行くと「3っ目の枡形」になります。

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 本陣から50mほど先左手に,紺の幟を掲げる「ひしや資料館」があります 。
 ここは江戸時代に屋号を「菱屋」と称し,享保年間(1716~35年)から

 幕末まで、約150年間大井村の庄屋を務めた「古山家」で、明治以降は郵便・

 銀行業務や俳諧など文化面にも積極的に活動したという。
 屋敷は間口10間半,奥行35間の敷地に8部屋と土蔵をもつ広大な建物が

 在った。 江戸時代の雰囲気を色濃く残している一部が資料館として開放されて

 いる。

(入館料大人200円)

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古山家の角、左手を行くと作並神社があるようで、小さな案内板が貼ってあります。

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街道書には、「本陣」から150m右手に「宿役人の家」とある。
文化2年(1805年),本陣より分家して以来明治に至るまで代々大井宿役人の

問屋役を務めた林家で、間口7間半,奥行25間,客室14部屋,特別室4部屋が

ある格式高い大型旅籠屋でもあった。

明治以降「戸長役場」としても使用されていた。
(ちなみに宿役人は,問屋・年寄・その下役人の人足指・馬指・書役などがあり

 幕府道中奉行の命を受け道中の荷駄や人の輸送・飛脚などの継立て事務を行う

 宿場の最も重要な役人であった)そうな。 

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向かいに、脇本陣高木家跡で下問屋を兼ねていたと、案内板があります。

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 明治天皇大井行在所跡、旅籠兼商家の元伊藤家(現岩井家)がありました。
明治13年(1880年)中山道巡幸の折に宿泊した奥座敷が、そのまま残され

てると云う。

石碑が二つ建ってるが、何故?

通って来た正善寺跡にあった石碑「明治天皇行在所御舊址是より三丁」は

ここを示していたんですね。

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右手に「町医者の家跡」のプレートだけ有る家が有りました。

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明治天皇行在所跡」から100m程先で「3っ目の枡形」となり右手に折れて

ゆきます。ここから先が「竪町となる。

角は旧「旅籠角屋」、現在は旅館「いち川」の看板が掲げられてます。

案内板には明治初年の角屋の写真が掲げられていて,「木曾路に多い出桁造り,

取り外しのできる格子戸がはまり,表には講札が沢山かけてある。

右手に特別な方の出入り口がある」と説明されている。

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 「堅町」のほぼ中央左手に豪壮な土壁の防火建築を残す「大井村庄屋古屋家」。

街道書には江戸時代は商業を営み庄屋を勤めた、と記されています。

重厚感のあるどっしりとした大屋敷ですね。

表札も「古屋」でしたので、今も子孫の方がお住いの様です。

(国会議員を勤めたかもいたそうです)

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簓子下見塀(ささらこしたみべい)の一部が外れて、土壁が見えてます。

「ずれた」のではなく、構造を見られるように、あえてずらした感じでしたね。

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 「堅町」の突き当たりが市神神社で、ここでまた左折する「四つ目の枡形」です。

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毎年正月七日に煙草市がたったといわれます。

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神社前を左折すると先が「茶屋町」。
街道書には、右手建物脇に「白木番所跡」とあるが見逃したようです。

100m程先で五つ目の枡形で右折すると、橋場町になります。

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橋場町を80mほど行くと「六つ目の枡形」で、本陣から本町を真っすぐ来る

道にぶつかり,街道は右に曲がって、阿木川に架かる大井橋の袂へと出て来ます。

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大井橋は、欄干の解説板によると、

再三洪水で流され架け替えられてるそうで、大正12年(1912)に永久橋に

架けかえられたがこれも昭和58年(1983)9月28日の豪雨で破壊。

その後新設された橋の欄干には、陶板にて広重「木曽街道69次の浮世絵」が

飾られています。

今日は祭りの為、PM5:00まで車は規制されてました。

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 大井橋は大井宿の西の口(京方)です。
 橋を渡ると,旧中野村,”東銀座”という商店街となり、およそ150mほどで

右手の「JR恵那駅」から延びる中央通り、<中央通り1丁目>交差点です。

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PM4:30 江戸より46番目、87里27町(約345Km)大井宿。

なんとも遠くへ来~たもんだ~・・・

「歩いて再び京の都へ」第30回目の旅は足止めとしました。

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中央通りは5時の交通規制解除を前に、祭りの店仕舞いで搬出車があふれ大わらわ。

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ホテルへ向かう途中の「中山道広重美術館」で「木曽海道六拾九次之内」の

企画展中でしたが、閉館の時間が迫っていたので残念ながら今回はパスでした。

恵那市在住の収集家・田中春雄氏から寄贈された、歌川広重の浮世絵版画などを

所蔵し、特に世界で十数点しか確認されていない、広重画「雨の中津川」があることで知られてます。

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翌、24日も薄曇りなれど晴れ。

帰路の途中に伊北ICで一旦高速を降りて、箕輪町の「赤そばの里」へ立ち寄り。

赤い絨毯を敷き詰めたようなソバ畑をしばし散策。

高速道の渋滞も有って予定より1時間半遅れで帰宅し、美濃路3宿の旅は

終わりでした。

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  「赤そばの里」のブログに記録、こちらです。

hansui.hatenadiary.jp

大井宿から先は、街道がJR中央線と離れるため、駐車場と街道への接続が

難しくなり宿の確保など、よく練った計画が必要になるようです。

 

元気なうちに歩ける内に、旅は続きます。