歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第32回 大湫宿~御嵩宿 (四)

PM2:20、皇女和宮通行の際、御殿が造られたという物見峠の御殿場展望台

で、暫しの足休め。

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展望台には子供や、法要姿の方が数人いました。

あれ?どうしてこんな峠に礼服を着た方がいるんでしょう??

10分ほど足休めをして、街道へ戻ります。

トイレ脇で休息をしていた単独行の男性が、お先にと坂を下って行きました。

なんとこの方は、今朝大井宿(恵那)を立ち、これから御嵩、さらに足が動けば

その先伏見宿まで行くそうです。

えっ、35km!か、江戸時代の旅人も30~40kmくらい歩いたそうだけど、

なんともすごい健脚ですね。

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展望台に礼服の方がいた理由はすぐにわかりました。

すぐ先向かいは森のケーキ香房「ラ・プロヴァンス」だったのです。
朝早くから行列のできる人気のケーキ屋だそうで、駐車場にはたくさんの車が

停まってました。時間の余裕があったら寄りたいとチェックしていたのを忘れて

たんです。

目的地、御嵩まではまだ5,6kmあります。

カミさんに聞いたら、日のある内に目的地へ着きたい、というので、

横目に見ながら物見峠を下りました。

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坂を下ると街道は舗装路と交差し、道標に導かれて斜めに横切り「謡坂」に

進みます。f:id:hansui:20181117202824j:plain

5分ほど進むと、今は涸れているが昔は絶えることなく清水が湧き出したと

いわれる、唄清水と刻まれた石碑と句碑が建ち側には解説パネルが建って

いました。

石に囲まれた清水のそばには句碑があり、解説パネルによると、

「旧謡坂村が尾張藩千村氏の知行地で、千村平右衛門源征重(五歩)が
  「馬子唄の響きに波たつ清水かな」と
 唄ったことから「唄清水」と名付けられた」とあるそうです。 

今は残念ながら 「この水は生では飲まないでください」との注意看板が

建ってます。

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斜め向いには大正2(1913)年に建立された「禁裡御所巡拝記念碑」が建って

いましたが、巡拝したのは?いつ?なぜここなのか?

(今も調べ中)

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両側が竹林の謡坂行くと、カミさんが右手に石碑があるといいます。

街道書には記載のない石碑で、あとで調べましたが由来はわかりません。

竹林が先が明るくなり、唄清水から2,3分行くと建屋が見えてきます。

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街道書に記された「旧善知鳥(うとう)」村に入ったようで数軒の民家があり、

続いたあの竹林納得の、竹炭を扱う竹炭工房がありました。

「お休みどころ」との札も下がってました。

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*「善知鳥(うとう)」て鳥の名?とどんな鳥かなと調べてみると、

「チドリ目ウミスズメ科の海鳥。ハトほどの大きさで背面は黒褐色、くちばしは

 橙色。繁殖期にはくちばしの上部に角のような突起を生じ、砂地に穴を掘って

 産卵する。北海道・本州北部の離島に群生。アイヌ語起源の名、とする説もある 」

 を見つけました。海鳥のようですが、この山奥の村の名になったのはなぜ??

 また「能」に猟師を題材にした「善知鳥(うとう)」曲目があるようで、

 猟師の多かった村からか、なんて勝手に推測楽しんだ*

竹工房の先をひと下りすると、左手に「東海道標」「歴史の道道標」があり、

右手からの車道に合流し、左折します。

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舗装道路に合流したところに、屋根覆いされた「一呑み(ひとのみ)清水」跡が

あり、清水碑と地蔵尊が祀られてます。

側の解説版には、

皇女和宮はこの水を賞味し大変気に入り、後に和宮が江戸から京へ上る際、

多治見の永保寺で休息した時に、この清水を取り寄せ点茶をされた、とあります。

先ほどの唄清水もそうでしたが、昔は旅人にたいそう喜ばれ、岐阜県名水50選

にもなっていた両清水は、今ではそのままは飲めません。

「生のままは飲まないでください」の注意書き付きになってます。

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清水のところで道は二股になっていて、左手の道が街道らしい雰囲気でしたが、

石柱道標に示す「中山道石畳み」の右手車道へ進みます。

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うっかり、左手にあるとされる「馬頭観音」を見過ごし、西に少し傾いた陽を

受けた街道を下ると右手に「十本木立場跡」を示す石柱と解説パネルがあり

「宝暦五年(1756)刊の岐蘇路安見絵図(やすみえず)にも記載されており、

 元々は人夫が荷運びの途中に休憩を取っていた場所に、次第に茶屋が建ち旅人

 の休憩地となった。

 古老の話しでは、参勤交代の諸大名が通行する際にはここに警護の武士が駐屯

 し、一般の通行人の行動に注意が払われた」とありました。

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すぐ先に道標があり街道は左に分岐し、またすぐ二つの道標が現れ右に曲がって、

西日に綺麗な紅葉を見ながら足を進めると、

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分岐から2,3分の左手に、石置き屋根を乗せた井戸があり、脇に地蔵が安置され

ている、「地蔵の清水」がありました。

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地蔵の清水から約50m歩くと、右手に一里塚跡があり、塚が復元され解説パネル

が建っていました。
江戸から94番目の「謡坂(うとうざか)十本木一里塚」です。

瑞浪市にあった4つの一里塚は往時の姿のまま現存しているが、

この塚は明治になり不要となって2円50銭で払い下げられ、取り壊されていた

ものを、昭和48年(1963年)に地元有志によって復元されたもの」と記され

てます。
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一里塚跡から約40m先き右側に、ほとんど読み取れない標板が建っていましたが、

街道書にある立場の共同洗い場、「十本木洗場」跡のようです。

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右手一角は広めの草原になっていて、中山道歴史の道パネルがあり、
「広重が描いた木曽街道六十九次の「御嵩宿の木賃宿の様子」はこの建物が

 モデルになっている。絵の中に、野菜でも洗っているような人物が描かれてい

 ますが、ここが洗い場だったことからも推察できる」

 と記され、浮世絵が貼ってあります。

パネル向かいに家屋があり、家前に「十本木茶屋跡」の案内がありました。

十本木は、10本の松の木があった由来の由。

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広重画・御嵩宿、画の解説には、

「広重は御嶽として謡坂村の十本木立場の夕景を描いています。

そして宿場の外れにあるのが常であった、木賃宿(きちんやど)を描いています。

木賃宿は薪代を支払って宿泊し、自炊が原則でした。

前の小川では老婆が米を砥いでいます。

軒下の柱行燈には御嶽山御神燈が描かれいます、尾張は御嶽講が盛んで、多くの

講中がここに泊り、登拝に向いました。画面左は謡坂の下り坂です。」

とあります。

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茶屋跡から5,60m行くと分岐があり、石畳みの敷かれた左手の急な下り道へ

入ります。

そこには謡坂石畳と刻まれた石柱が立ち、ベンチがありました。

ここで下る旅人は足元の見直し、登ってきた旅人は一息つく、だね。

謡坂の石畳は平成9(1997)年から12(2000)年にかけて修復整備

されたそうです。 

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木立が生い茂り、西に傾いた日差しがさえぎられる石畳みを下ると、

右手に歴史の道中山道のパネルが建っています。

説明板によると、

「西からの旅人は謡坂の急な上り坂の苦しさを紛らわすために、歌を唄いながら上ってきたことから「謡坂(うたうさか)」と呼ばれるようになり、更に転じて「うとうざか」になった」という。

そういえば街道書には謡坂の付近は、善知鳥村(うとうむら)と記してあったのですが、謡坂の読み方と関係はないのであろうか??

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パネル左手に林の中へ続く細道があり、聖母マリアの案内板がありました。
細道に入り300m程道なりに行くと、キリシタン信仰の弾圧から逃れるために、

仏教の墓地を利用したキリシタン遺跡見つかり、後に聖母マリア像が建立された

そうです。

道を急ぐため、立ち寄りはしませんでした。

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午後の日差しに映える紅葉を眺めながら、5分ほど石畳の下り坂を行くと、

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道標や謡坂石畳の石柱があって謡坂石畳みは終わり、突き当りの舗装道路を左

に曲がり、とどめき橋を渡ってり広めの車道へと出て、旧斎藤村へ入ります。

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左手に道標があり、街道であることを確認しながら車道を200m下ると、

右手に石段があり、段上に耳の病にご利益があり、平癒したら錐(キリ)を奉納

する耳神社があり、入口に標石と解説パネルが建っていました。

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我が年齢からお参りと思いましたが、かなりの狭い急石段、あたりは暗さがある

ので石段下でお参り。縦型解説パネルには英文でも詳しく書かれてましたね。

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そういえば、昨年の11月に塩尻過ぎ木曽路へ向かう途中に「耳塚」があったのを

思い出しました。形の似た椀がたくさん奉納されてました。

「耳塚」

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時刻はPM3:20、

事前調べでは、向かう御嵩の到着駅まで約4km強。

4時を過ぎていたら懐中電灯明かりでも歩ける歩道のある国道へ、道なりに

約1.2kmを直接下る計画でしたが、何とか明るさが残るうちにたどり着け

そう。

少しゆっくり歩きになって足を進めます。

神社付近の崖が崩れそうな下に馬頭観音像があり、少し進んだところに

御嵩宿まで4100m、細久手7700mの道標があり、道路は右に曲がります。

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曲がった先は道標が立つ分岐となり、街道は右手へ行き、先で再び道標に導か

れて、さらに右手の登坂に入って行きます。

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坂道の上り口左手に、大きな百八十八ケ所順拝納経塚碑が建っていました。

西国、四国、坂東、秩父霊場巡拝記念だそうですが、どなたの記念碑なのかは

読み取れず不明。

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記念碑を過ぎ竹囲いの付近から、道は西洞坂(さいとさか)と呼ばれる土道の

急坂が続きます、

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急坂を3分ほど登ると、右て斜面石積みの祠の中に、三面六臂のの馬頭観音

安置されている石室があり、街道書には明和二年(1765年)の建立の

「寒念仏供養塔」と記されてますが、周りには標識らしきものがなく、

急坂を俯いて登ったら気が付かないかもしれません。

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供養塔を過ぎると、牛の鼻が地面にこすれ、欠けてしまうくらいな急坂なので、

「牛の鼻欠け坂」と呼ばれている、と記された歴史の道中山道の案内があり、

 「つづら折れの道となり、下り終えると京までは比較的平坦地になる」、

とも 記されてました。確かに懐中電灯では不安を覚える坂道です。

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パネルのまえで、御嵩のボランティアガイドさんに出会いました。

来週、11月17日に行われる「中山道ぎふ17宿踏破ウォーキング」の一部、

御嵩から御殿場(物見峠)へ解説案内人としてグループ20人ほどの道案内を務

めるそうで、道筋状況確認をしていたそうです。

道の曲がりなどに書かれた矢印は、そのイベントや、別の企画スタンプラリー

のためだったんです。

(イベントのことは、大湫や細久手への接続交通手だてを調べて知りましたが、

 日が合わず利用しませんでした。尚参加には有料で予約が必要でした)

 急坂も5分ほどで下り終え、道標や石碑を右手に見てY字分岐を右手に進み、

旧西洞村へ入って行きます。

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あら、トンボよ!のカミさんのひっそり声、そ~と脇を通り抜けます。

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坂を下ると、田園風景が広がります。

まっすぐ進み突き当り(車が見える)を右手に曲がって、さらに車道に出た

突き当りを路面に矢印に従って左手へ曲がります。

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越えて来た山方面を振り返り、

先ほどのパネルにありましたが、この先京へはわりと平坦な道のりとなるようです。

この牛の鼻欠け坂辺りを境にして、江戸へと向かう東は山間地域になります、

京へと続く西は比較的平坦地になり、ちょうどこのあたりが中部山岳地帯と平坦地

の境界線になっていようです。 幕府は要害の地として西洞村を天領とした、と

別資料にありました。

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道標を右手に見て5分ほど進むと、右手の小高い丘の上には、摩利支天の石塔や、

六字名号が置かれている、と街道書にあります。

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さらに5分ほど行くと、田園地帯が大きく開け道標の先で二車線道に合流し井尻の

集落へと入ります。

ここにも大井宿から十三峠へ向かうところに建てられていた、飲食関連の

注意看板がありました。

(でも、いずれも注意看板の付近は、準備しようにも何も無し、ちっと手遅れ気味)

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4,50m先の道標や路面の矢印にしたがって右折し、

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右に左にと道標を確認しながら何度か曲がり、10分ほど進むと、

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PM4:06、ようやく国道21号に出てきました。

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国道に出で右折しすぐの民家の裏手に回ると、古代の東山道をたどる途中の御嶽で

病気になり鬼岩温泉で湯治したものの、寛仁3年(1019年)にこの地で没した

と伝わる、平安時代を代表する女流作家和泉式部廟所があり、石碑が建てられ

解説碑があります。

和泉式部の墓と言われるものは他県にもあるそうですが、
廟所に立てられた石碑は

「天文五年(1563年)に建立されたと言われ、式部の歌
「ひとりさえ 渡れば沈む浮橋に あとなる人は しばしとどまる」の歌のほかに
「いずみ式部廟所 寛仁三巳未天」と記されているそうです。

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国道に戻った直ぐ脇に中山道ではなく「右・中街道」と刻まれた大きな道標

があり、大井・御嵩ともあります。

古街道の解説の中に、

「江戸時代に中山道として道が整備される以前は、「東山道」という名称でした。

この大井~御嵩間も、東山道時代は十三峠とは別のルートでした。

中街道と呼ばれているその道は、大井から下街道で土岐郡釜戸へ南下し、

日吉村の宿・本郷へ入り、可児郡上之郷村のうち次月・美佐野・宿・中切をへて

御嵩宿へ達していた・・・これらによって、東山道のこのあたりが平安時代

「木曾街道」と呼ばれ、江戸幕府によって中山道が整備されたときに「中街道」

という名前で残った。

中山道は、慶長七年(1602)大久保長安によって大井~大湫~細久手~

御嶽間の道筋が新たに開削されましたが、これは江戸防衛上の観点から難路を

選択した結果といえます」と記されてました。

ということは、この国道21が平安時代の古街道ということですか!?

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低くなった西日を受けて、右手に大きな八幡神社の社標石柱が立ってます。

500mほど奥に鎮座しれてるそうですので、立ち寄らずに御嵩宿へ進みます。

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左手に丸山稲荷神社の鳥居と小山を見送り5分ほど進むと、国道は井尻交差点で

左手に大きく曲がり可児御嵩バイパスとなって去り、街道は直進して

栢森(かやもり)地区に入り御嵩へむかいます。

街道書には、分岐する付近に日本橋から95番目の「栢森一里塚「」があったが、

位置不明と記され、確かにそれらしき遺構の姿は全くありません。

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分岐の井尻交差点から100mほど先の長岡交差点の道標に、横断して左手へ渡る

表示と路面の矢印があり、信号で左手にわたって右手に進みます。

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渡て7,8分ほど行くと、左手に道標、右御嵩、左細久手があり桝形道なって、

街道は左に分岐し、

11月10日、PM4:30、江戸から49番目、御嵩宿に入ります。

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御嶽宿は江戸から95里27町(376.Km)、美濃国になりますが、

宿は大湫宿細久手宿と同じく尾張藩領です。

  家数66軒 (うち、本陣1、脇本陣1、旅籠28)
  人口600人 (うち 男323人、女277人)
 弘仁6年(815年)に伝教大師によって創建された、願興寺の門前町として

 古くから栄えたといわれます。

中津川宿から続く5宿は山間の宿場ということで、宿場の規模が小さいにもかか

わらず、旅籠数は平均的な軒数(28軒)を有している。

宿長は4町56間(約540メートル)あり、と案内文などに記されています。

 先ほど横断した道の右手に鳥居があり、山側段上に津島神社が祀られてました。

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御嵩の地名は御嵩町に平行して流れている、可児(かに)川の対岸にある
金峰神社からきているそうで、御嶽と呼ばれた吉野の蔵王権現を勧請したため
この地を、御嶽、御嵩と呼ぶようになった、との資料がありました。

右手に弘法堂があったはずですが、なぜか左手を見ていて見過ごしてしっまた。

御嵩宿の石柱から300mほどで右手に曲がり、左手に「正一位秋葉神社上町組」

の石柱が立つ井戸があり、上屋にはしめ縄があり水神が祀られ宿場の防火の目的

もあり「用心井戸」と呼ばれたそうです。

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夕暮れ迫る御嵩宿を進みます。

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街道書には、用心井戸から約300mほど先の御嵩郵便局角に、高札場跡が

あった、と記されてますが、標識やそれしき遺構は何もなく、これが

「高札場跡」と勝手に決めてパチリ。

マンホール蓋、「郵」の字は、専用マンホール?

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と思いましたが、御嵩宿街並み絵図によると、高札場はこちらの家の角の

ようでした。

小さな犬矢来のある家には「御嵩、可児、散策切符」などの暖簾がさがり、

スタンプラリーのポスターが貼られてます。

スタンプラリーは岐阜17宿に、長短三種類のコースが設定され、参加コース内で

のすべてのスタンプを取得で賞品がもらえるそうです。

岐阜17宿内に二つのイベントが企画されてるんですね。

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陽が傾き街並みはそろそろ夕闇が迫ってきてます。

街道書では、元旅籠の吉野家

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立派な家屋ですが非公開、

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先となりは、御嵩町指定有形文化財に指定されている、犬矢来のある豪商「竹屋」

本陣野呂家から分家し、材木や木綿、絹織物などを手広く商っていた商家です。
主屋は大火後の明治10年再建され、約130年を経た建物です。

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現竹屋資料館となって公開、隣に駐車スペース、塀に御嵩街並み絵図があります。

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その隣は代々野呂家本家が勤めた本陣跡で、建坪は181坪、前棟、奥棟合わせて

室数24、畳数172畳あった。

非常の場合は北側の藪を抜けて5町離れた「宝積寺」へ避難できたという。

母屋は明治10年頃建替えられたが、本陣門は往時のものと、資料に記されてます。

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隣は「脇本陣跡」で、現在は町立の図書館と郷土館の複合施設の

中山道みたけ館」で、御嶽宿伏見宿に関する資料が豊富で、宿場の模型を

通してみる御嶽宿の様子、大名食の復元。皇女和宮通行の折の下賜品など紹介して

いるそうです。閉館時間まじかなので、次回に立ち寄ることにして先へ進みます。

町では「みたまち 中山道御嶽宿復興プロジェクト委員会」を立ち上げ活動してる

そうです。

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中山道みたけ館から約50m歩くと、唐沢川の唐沢橋をわたります。

みぎて前方に足場を組んだ大きな建物が見えました。

あっ、あれは国の重要文化財に指定されている「願興寺」では!

なんと本堂修復工事が始まってるようです。

立ち寄りは次回ゆっくりすることにして、先へ進みます。

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左手に無料の観光休憩施設で軽食もとれる「御嶽宿わいわい館」がありますが、

今日は閉館です。

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願興寺前が桝形となって街道は続きますが、正面が名鉄広見線御嵩駅。

11月10日、PM4:55 第32回の旅はここで足止めとしました。

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名鉄広見線、JR太多線、中央線と小一時間乗り継ぎ土岐市のホテルへ

PM6:20戻りました。

空にはきれいな眉月が・・

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  大湫宿から御嵩宿、約18kmの旅、歩けたね~・・乾杯の旨味倍増!!

昨年11月江戸から30番目塩尻宿から木曽路へ入り、木曽川沿いに、木曽谷の

山道、いくつもの峠を越えて東美濃へ。

宿場間には現代の水場(自販機)や食事処も少なく、水、食料携帯は必需品。

そして中山道最後の山中に続く街道を歩き、江戸から49番目御嵩宿へ。

中部山岳地帯の中山道を、塩尻宿から約149km(約38里)、

1年かけて乗り切りれました。

歩いたのね~、歩けたんだ~・・さらに美酒乾~杯い!!

 

またいつの日か西美濃をへて京への旅を・・

 

「第32回、旅の完」

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第32回 大湫宿~御嵩宿 (三)

細久手宿を後に、御嵩宿へと足を進めます。

右手の土手の上には、石窟に祀られた「西坂辻の穴観音」があります。
寛政13年(1801年)に建立された馬頭観音が安置されてます。
長寿クラブの案内板に「九万九千日観音この観音様の縁日に線香をお供えして
お参りすると、九万九千日分の功徳がいただける」と記され、下に都都逸風の唄が
書かれてました。

”九万九千の観音に 人目忍んで祈ります

    赤い襷のおさげ髪  あゝ細久手宿場街”

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すぐ先には小さなの西坂辻の津島神社があります。

そういえば、細久手宿の祭りに津島神社の「巻藁船提灯祭」があり、今年は台風で

中止になったと瑞浪市の資料にありました。

公民館広場の「星あかり夢街道」のリーフレットのもう一面は「巻藁船提灯祭」

でした。祭りはこちらの小さな津島神社の祭りだったのかな?

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 (公民館広場のリーフレット

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(ただ津島神社のお堂は、庚申堂の境内にあったのを、明治8年お堂を日吉愛宕

 神社に移し祭を再興した、と記した資料があるので別の津島神社かもしれません)

神社を過ぎて、左手に田畑の広がる県65・恵那・御嵩線を行くと大きな道標が

建ち、道はY字路となり県道352が左手に分岐してゆきます。

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右手は小さい棚田になっているゆるく坂を上ると、小沢平集落が見えてきて、

右手に「中山道くじ場跡」石碑が建ってます。

街道書によると、

駕籠かきたちが、大湫や御嵩への荷の順番を決めるためたむろしていた場所で、

次第に駕籠かきだけでなく宿場の人足たちが、休んだり博打を打ったりした所に

なったという場所、だそうです。

 

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2,3分ほど先、右手斜面に馬頭観音、さらに5分ほどの竹藪下にも馬頭観音

祀られていました。

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 敵中横断三百里、か・・たしか中学くらいのころに映画を観た記憶がかすかに

あるな~・・

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道は下りとなり二車線の道路に合流し、平岩の集落へ入ります。

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すぐ先で平岩橋を渡ると県道366との「平岩辻」と呼ばれる交差点で、

交差点の右手に道標やら、交通安全やらの碑が林立しています。

西は中山道のつはし・みたけ道。南は景勝地で温泉宿もある、まつのこ・おに岩道。

高い標柱には県道366を北へ1kmほどにある古刹、土岐家菩提寺の開元寺への

道標でした。

(まつのこ、はダム湖の松野湖だと思われるので、道標は割と新しいようす)

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中山道は交差点を直進し少し急な坂を上ってゆきます。

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5分ほど登ると左手にある中山道道標と、中山道影の碑から山の中に入って行きます。

右手にある石碑には「左仲仙道西の坂」と読めました。

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左手に立つ「瑞浪市内旧中仙道の影」碑

之より先千三百米一里塚迠瑞浪市日吉町平岩地内旧幕当時に開いた仲山道は昔其侭の姿を今尚残して居り此間に次の様な地趾が残って居る一里塚より先は可児町に通じて居る

一.道が東西南北に向て居る珍しい所

一.石室の中に観音像三体祭る

一.旧鎌倉街道へ行く分岐点日吉辻
一.切られヶ洞
一.一里塚京へ四十一里、江戸へ九十三里
    路上及び一里塚附近よりの眺め
一、東に笠置山恵那山駒ケ岳
一、西に、伊吹山鈴鹿連峰
一、北に、木曽の御嶽山加賀の白山
一、南に、遠く濃尾平野尾張富士又快晴の日には尾張熱田の海を見る事ができる

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これより先、楽しみな街道歩きになるね。

上ってすぐの右手に、石柱が二基ありましたが、判読できませんでした。

一基には「東 施主平岩小沢〇〇・・」 もう一基は「〇〇すぐ先を・・」

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西の坂を上りきる少し手前、右手石積みの台地に三つ石窟が並び、

「秋葉坂の三尊石窟」と題した説明版が立っている。

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3つある石積みの石窟には、右に明和5年(1768年)建立の三面六臂(さんめんろっぴ、顔が3つで腕が6本)の馬頭観音立像、真ん中に明和7年建立の

一面六臂の千手観音座像、そして左に風化が進んだ石仏がそれぞれ安置されている。

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解説板には石窟の後ろに秋葉様が祀られてるので、秋葉坂と呼ばれる、

とありますが、後ろに祀られてるのは写真を拡大してみた限りでは、

馬頭観音像に見えます。秋葉様は見逃してるのかな?

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すぐその先には「鴨之巣道の馬頭文字碑」標柱があり、林の中に碑がありました。

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ほぼ平坦な道が10分ほど続くと、道標などの立つ三叉路でます。

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鴨之巣辻の道祖神標柱があり、左手奥に道祖神石碑があり、間の標石には

「右旧鎌倉街道迄約一里余」と刻まれ、ここが「鴨之巣辻」になるそうです。

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ついに出た~! はい、しっかり二人とも熊鈴鳴らして歩いてますよ。

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街道書を見ると、右側は花の木ゴルフクラブの敷地になったようす。

街道は下りとなり5分ほど行くと右手に「切られが洞」なる石柱が建ってます。

何も説明物はありませんが、街道書によれば「昔、牛を追ってきた村人が盗賊に

切られた処」なのだそうです。

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前に通ってきたところにも山賊に襲われるうんぬん、がありましたね。

熊は鳴り物で避けられますが、盗賊は恐ろしい!

砂利道ですが落ち葉をカサカサ踏み鳴らしながら、道標を見送りしばらく行くと、

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両塚をしっかり残している、江戸から93番目の「鴨之巣一里塚」です。

解説版には

「江戸へ93里、京へ41里という道標の中山道鴨ノ巣一里塚です。一里塚は道の

 両側に一対づつ築かれましたが、ここの場合地形上北側の塚が16m東方に

 ずらされているのが特徴です。ここからは鈴鹿、伊吹や北アルプスの山々が

 一望できました」と記されてます。

 地形の関係によるらしく、16mほどずれて築かれているそうです。

北塚に対して南塚は京都寄りに築かれている。

先ほど西の坂(秋葉坂)の上り口の「瑞浪市内旧中仙道の影」碑にも

眺めの記述がありましたが残念ながら展望はなかったね。

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f:id:hansui:20181116200722j:plain 一里塚から下りになり、すぐ先に青色の「歴史の道道標」と東下りの旅人への

「ようこそ瑞浪市へ」の看板があり、瑞浪市から御嵩町へと入ります。

私たちには、「さよなら瑞浪」です。

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落ち葉を踏みしめながら進むと、歴史の道道標(青)と東海自然道道標が建ち、

左手に、鬼岩、松原湖方面への分岐があり、すぐ先に津橋1.2km30分の道標が

建ってます。

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下る坂はくじあげ坂と呼ばれるそうで、徐々に傾斜がきつくなってゆき、あまり

手入れにされていない竹林の急坂を下ってゆきます。

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30分ほど下ると、前方の空が広がり、津橋の集落が見えてきます。

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石垣に囲まれた石窟内に、馬頭観音があったようですが見過ごしてしまい、

さらに急坂を下ると、江戸時代には酒造業を営んでいたという山内嘉助屋敷跡で、

雑草や木に覆われているが、屋敷の石垣が今も残っている。

中山道を通行する諸大名の休憩所として、旅する人々には一夜の宿として使われた

ようです。

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坂を下り切ると分岐があり中山道道標が左を指して、製材所に入るような

砂利道を示し、ちょと迷いましたが足を進めて案内板に従って、

製材所の前を通らせて

もらいます。

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砂利道は製材所の前だけですぐに舗装道に替わり、津橋の集落内を左手に下って

ゆきます。

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道はかってはつばせ村と呼ばれる間の宿であったそうで、右手に天満宮常夜燈が建ち

台石には「當村氏子中」と刻まれてます。

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天満宮常夜燈から、コスモス咲く道を少し進むと、十字路となり、道に張り付けた

道案内と書かれt白い矢印に従って横断して、家の間の細い道へと進みます。

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さらに約60m進むと、右側手前に中山道道標の建つ県道65号に突き当たり、

左折しました。

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 県道65号に合流し、津橋を渡る手前から左手を見ると、立ち寄りしませんが

お堂は「津橋薬師堂」で、街道書によれば天井絵や堂の右手には宝篋印塔・

五輪塔・名号碑など11基が 並ぶほか、何代目かの山内嘉助が 勧進したものと

伝えられる宝暦3年(1753)と刻まれた石灯籠があるそうです。

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 津橋から4、5分ほど行く集落のはずれは五差路になり、県道65号から斜め

右に分岐して細い上り坂が現れ中山道石柱と「中山道 至御殿場」の道標が

坂の入り口に立ってます。

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お城のような巨岩の石積脇を通り、急勾配の坂の右手は山肌がえぐれて、

庇状になり、今にも山が崩れそう!足早に通過します。

坂道は諸の木坂と呼ばれるそうです。

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すぐ先右手に六字名号塔や二十三夜塔、四国百番供養塔が建ち、石段が木立の中へ

続いてゆき、奥には観音堂が祀られてるそうですが、参道入口にには、鳥獣駆除

の電線が張られていて入れませんでした。

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参道入口の約50mほど先の右手に立つ判読し難い碑を見送り、細めの道を進みます。

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しばらく山間の里道を上がって、観音堂入口から10分ほど登ると、

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急坂は竹林の中を進むようになり抜けると、右手石窟内に街道書には記載のない

馬頭観音が祀られてました。そのそばには・・

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緊急の時、場所を伝えるための看板ですね。御嵩に入ってからこの先でも

何か所かで見かけます。ありがたいですね。

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さらに7,8分、諸の木坂の急勾配を上ると廃業した工場のような建物の左手の

山道を行くようになります。工場の右手は荒れた草地が広がってますが

何だったのだろう?

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(令和元年7月20日、追記)

ある方の中山道の旅ブログ日記を見つけ読み進むと、上記場所の記述を見つけた。

「少し坂道を上ると立派な石碑があった。表面は「若鷲碑」裏面には「整田碑」とある、

若鷲碑と言うからには戦争にかかわるものと思うが、こんな山の中に何故あるのか。

碑は少し離れて高いところにあった
ことと、向きが少し斜めのため文字面がはっきり確認できなかった。でも、佐賀源一

と 言う名前と、無事帰還できたおかげと感謝….の文字は確認できた。

そして、裏面には昭和 55 年ころから全部で三十余の田圃を五つに集約、

どの田も排 水をして車が入れるようにした。その排水を利用してイワナ、アマゴ、

ヤマメを養殖。
さらに柿、梅を植えて鶏・鴨を飼った、全部で一千三百万円かけて完成。特攻で

戦死し たことを思い、土地改良で食料の確保に努めた……とある。

つまり、佐賀源一さんが特 攻で戦死したと思って、全財産を投じて食糧増産の

ために行ったものらしい。

碑から少 し行くと、整理して大きくなった田んぼが広がっているのが見えた。」

(確かに写真には写してないが、工場のような建物の手前藪の中に廃屋があり、

石碑らしきものが建っていたのを思い出しました。)

 

東海自然道標御嵩・0・7kmを見送り、琵琶峠より厳い諸の木坂を息を切らせて

上がってゆくと、峠の頂が近づいたようです。

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PM2:20、

建物やパネルなどの建つ、街道の両側に5軒の茶屋があったという

物見峠(諸の木峠)につきました。

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峠には「馬の水飲み場」の案内板と、それらしい水たまりがあり、中山道解説板

には和宮降嫁時に休憩用の御殿が作られたことから、「御殿場」と呼ばれている

由が記され御殿場の石柱も建ってます。

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案内板隣には真新しいトイレも設置されてました。

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石柱脇の階段を20段ほど上ると明るい広場で、そこがが御殿場跡で、四阿風の

休憩所が設けられ、東に恵那山、北に御嶽山を眺望できる場所と案内板には
記載されている。
江戸へ下る皇女和宮一行はここで休憩し、大湫宿で宿泊したという。

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霞がかかり望遠はありませんが、紅葉を眺めながらひと時の休憩。

 

旅は(四)へ続きます。

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第32回 大湫宿~御嵩宿 (二)

弁財天の池で暫し小魚を探したりしながら足休めをし、丘陵上の県道65を

進みます。

街道書に、この先に「ハナノキ自生地」がある、と記されています。

9月の中津川~大井(恵那)の旅路に、マンホール蓋にハナノキを見つけ

中津川山中に国指定天然記念物になっている「坂本ハナノキ自生地」というのが

あるのを知りました。

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その時に「ハナノキは楓の一種」と教えていただきましたが、今回の街道筋に

自生地が有ることを街道書に見つけ、楽しみにしてました。

細久手、2.2kmの中山道道標を見送り、

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10分ほど進むと左手道端に、瑞浪市天然記念物「南垣外ハナノキ自生地」と

刻まれた石柱が立ってます。

おっ、ここだ、どの樹かな??

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瑞浪市の資料によれば、
「ハナノキはカエデ科の落葉高木で4月頃に赤い花を咲かせる日本の固有種で
国指定史跡名勝天然記念物で,主として湿地などに自生する落葉樹です。
春先(4月の初め頃)に紅色を咲かせることから「花の木」の意味でこの名が付けられ
ました。また、秋の紅葉が美しく、一段と鮮やかなことからハナカエデとも呼ばれ
ています。

長野県・岐阜県・愛知県の県境付近に分布し、希少種のひとつとして
「絶滅危惧2類」に指定されています。
瑞浪市では釜戸町、日吉町、稲津町、陶町で自生が確認されており、釜戸町
神徳地区の山林、標高約450m付近に大きな自生地が見られます。
現在約1600平方メートルの区域が国の天然記念物に指定されており、区域内には
高さ約15~20mの7本のハナノキが自生し、その保護が図られています」

とあります。

愛知の県の木でもあるんですね。

秋の紅葉が美しい、とありますが・・・・う~ん、紅葉にはまだ早いのか!!

あたりを見回しても紅葉してる樹が見当たらないね~・・・

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しばらく眺めてましたが、特定はできませんでした。

瑞浪市の資料では、こんな紅葉が見られ、春には赤い花が咲くそうです)

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自生地を過ぎて、道は下りとなり、左手に一本の根から二本の松が生え、

夫婦円満・子授けなどご利益の珍木で中山道の名物だったという「女男松の跡」

の標柱。下の溝状に「陽松女陰神」の石碑がありました。

松は残念ながら昭和初年に枯れてしまった由。

石碑が置かれていた道下が旧街道の風情があった・・

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その先はかるい上りとなり、ゆっくりと進んでゆくと

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県道の両側に、高さ4メートル、直径12メートルの両塚がしっかりと残された

江戸から92番目の「奥之田一里塚が」ありました。

瑞浪の一里塚」とも呼ばれるそうです。

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三基の電波塔の立つ秋の山道、

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7,8分行をくと右手に「三国見晴台と馬頭観音像」と書かれた標柱が立って

いて、元治元年(1864年)建立の馬頭観音が祀られています。

後ろ斜面の高台は「切山辻の見晴らし台」の跡だそうで、今は木々が覆い隠して

しまってますが、信濃、美濃、三河かな?尾張も近江もあるが?三国を

見渡せた景勝地だったようです。

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このあたりから細久手宿地域になってくるのか、街道沿いの旧跡には
「細久手長寿クラブ」の手による案内板が設置されていていました。
「~The Goddes of Mercy build in 1864 元治元甲子6月建立 小田井宰兵衛」と
英語交じりで記されてまね。(観音像の下の方に名が読み取れます)

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道は左にカーブし、細久手バス停脇に大きな中山道の案内板があり、

細久手宿はすぐ先」と記されています。

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その先左折して坂道を下ると、十字路手前右手にすっかりペンキがはがれてし

まってほとんど読み取れない「細久手長寿クラブ」作成の案内板と山の風景があり

案内板の「霊」の文字と風景画の山から、街道書に江戸時代の絶景地で茶屋があっ

たと記されている「霊峰御嶽拝観地」茶屋ヶ根と推測。

この付近から遠く、御嶽山が見えるんだそうですが、・・・

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先は十字路に突き当たり、右から道路が合流して細久手宿へ向かいます。

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広重画の細久手宿は、ここの東の高い所から宿場入口を望んで描かれたようです。

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細久手宿に入ると左側に「日吉第二小学校跡」の大きな石碑がある。
子供たちは瑞浪市の方へ山を下っての通学かな。
隣の赤い社は「天王様」で、長寿クラブ案内板には、京都八坂神社の牛頭天王信仰

に始まるもので、細久手宿では7月16日が御霊会(お祭り)であった、

と記されてます。

今は開催されてないのかな?

瑞浪市の資料では、今年は台風で中止になったが、細久手津島神社灯籠祭が

開催されるようです。

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細久手には桝形が設けられて無く、緩い弓形の坂道になってます。

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坂道を5.6分行くと右手に道標や「長寿クラブ」の手による細久手宿の案内板が

建ち、おっ!「処刑場」があったらしい。

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道標の左手は庚申堂への参道で、脇に「細久手高札場跡」を示す標柱が建ち、

細久手宿の江戸口(東口)になるようです。

AM11:20、江戸から48番目、細久手宿到着です。
右手の街道より一段と高い場所に細久手の庚申堂があり、もともと小堂宇だった

ものが、寛政10年(1798年)の宿中大火のあと、宿の鬼門除けとして

享和2年(1802年)に再建されたもので、境内には江戸時代の石仏石塔が並んでます。
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いや~、懐かしいタバコ売り場ですね。昔、町のタバコ屋さんにありましたね。

右側の家にレトロのタバコ売り場と、現代のタバコ自販機が並んでました。

「TABACCO」の文字が彫り残された飾り窓、「たばこ」のホーロー看板。

細久手で1軒だけの商店かな。

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タバコ売り場の軒下に、これぞ「生え抜き」

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同じ種類だよね?? と見たら花札がありました。

左はモミジバゼラニュウム、右はモミジバゼラニュウム「サクラサクラ」

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隣の空き地に顔出し記念写真パネルがあり、そばにある「長寿クラブ」の案内板に

よると、儒学者、佐藤梅波が1830年に開塾した「細久手塾」跡地だそうです。

f:id:hansui:20181114211438j:plain向かい、左手の広場は細久手公民館で宿の中心街になりますね。

「星あかり夢街道」のリーフレットに皇女和宮の江戸降嫁の行列と星空が描かれて

ます。

もうすぐお昼です。少し早いですが家から持参し、朝ホテルでセットしたパンで、

ランチタイムにし足休め。

(後でわかりましたが、公民館の場所は、郷蔵二棟があったところだったようです)

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瑞浪市細久手宿解説文によれば、

細久手宿は標高420m、江戸から48番目の宿で、江戸へ92里、京都へ

 42里の位置にあり、東隣りの大湫宿と西隣りの御嶽宿の両宿間は4里半

 (約18km)も離れており、両宿で人馬が難渋したため、元々は7軒屋と

 呼ばれる小さな仮宿であったものを、慶長15年(1610年)に尾張藩

 よって新しい宿場として整備されたという。

 家々の地割は、5間から10間と統一されていませんが、家々の境は石積みで

 区画整地されており、いまも新宿設置のころの施工の様子がうかがわれます。

 宿内の町並みは東高西低で、東の茶屋ヶ根から西の日吉・愛宕神社入口迄が

 上町・中町・下町に三分され、宿長は3町45間(410m)ありました。
 枡形はつくられず弓なりに緩くカーブし、上町と下町に弓形が施され、

 高札場は上町入り口の庚申堂前に、本陣・問屋場は中町に、脇本陣は下町に

 あり、往還に沿って東西に細長い町並みでした。

 家数 65軒 (うち、本陣1、脇本陣1、旅籠24)人口 256人 

 中山道の宿場で2番目に少なく、規模の小さな宿場でした。
 3回にわたって大火に見舞われ、宿場の建物を焼失してしいましたが、

  大湫宿の場合と同様主要交通路や鉄道が南の土岐川沿いに移ったため、
 主要地方道65号恵那御嵩線のみとなり、宿は過疎化の中でわずかに往時の姿を
 とどめています。」とあります。 

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12:00、旅人にも開放してる公民館脇のトイレをお借りし(志し寄付制)

街道へ戻ります。

公民館の向かい側に、卯建(うだつ)を上げた旅籠「大黒屋」、があります。

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細久手宿大火のため安政6年(1859年)に再建され、昔の古い建物のままで今も

大井御嵩間で唯一の旅館として営業し、現代の街道旅人に重宝されています。

市資料によれば、

安政の大火の翌年に再建された建物で、切妻屋根の両端に本卯建を上げ、2階が

1階に比べてかなり低い構造となって、江戸時代の面影を色濃く伝えています。

尾張藩が手狭になった宿の本陣、脇本陣での宿泊を嫌い、問屋役酒井吉右衛門宅を

尾州家本陣」として定めたのが、『尾州家定本陣大黒屋』のはじまり」

 と記されてます。

 宿場・観光案内所も兼ねており、近年は海外のガイド本にも紹介されてる

 そうで、美濃路木曽路を歩き旅をする海外ハイカーにも人気の宿になって

 いるそうです。 

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 先の琵琶峠で出会った外国のウォーカーも、一夜を過ごしたんだね。

私たちは、残念ながら日程が合わずに写真収めるだけにしました。

代々小栗八郎左衛門が務めた本陣は、大黒屋から少し先の右側にその跡を示す

石柱だけが建っていて、例の案内板もありました。

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持参街道書では本陣跡の向かいのバス停裏手の空地が、代々小栗八左衛門が勤めた

細久手宿脇本陣跡と記されてますが、標識も遺構もなく、たぶんこの空き地?

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 おや、左手の家の軒下に下がってるのは?

デジカメをアップで覗くと、なにやら動物の骨のようです。

「大般若祈祷・・」の札が下がってるので、行者の祈祷所のようでした。

謎のままに通り過ぎ・・

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右手向かい側の大きなお屋敷裏に和宮使用の井戸があるようです。

和宮細久手宿で昼食を摂っていますが、その際に使った井戸と言われています。

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お屋敷の塀に文化10年(1813年)頃の宿場内の家並みを表した細久手宿絵図

が張ってありました。

緑星印が当家輪島屋与衛門(本田屋)でパネルに黄矢印がつけてありました。

右端下の赤枠が郷蔵で、休息をした公民館、向いが「尾州家本陣 問屋場 

大黒屋吉右エ門」の表示がありました。

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 宿場の道は下り坂となり、先で左手へ下ってゆきます。

絵図のところで追いついて来た日本人の旅人としては、今日、3人目の行き交った

方がとっとと去って行きました。

 

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右手石積土手の上に、長寿クラブのほぼ擦れてしまった案内板。

街道書に記されてる、南蔵院跡の案内のようです。

不動明王を祀り、加持祈祷を行った」とあります。

ということは、先ほどの骨を飾った家(祈祷所)と関係ありそうですね。

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その先に分岐があり、道標の立つ山側へ行く右手奥に、細久手宿産土神

日吉・愛宕神社がありました。

天正年間(1573~92年)に細久手村を開いた国枝重円が文禄四年(1595年)に

創建した神社で、宿の守護神して多くの人々に崇敬を受け、旅人も道中の安全を

祈願したと、案内書にあります。

鳥居の右手の灯篭は、嘉永年間(1848~54)の山灯篭だそうです。

ここが細久手宿の西の出入り口(京方)に当たり、

PM12:10、

次の宿場は約12km先、江戸から49番目の御嵩宿。

空は青空、さあ、がんばんべ~・・・

(神社には立ち寄らづに足を進めました)

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街道書には、道標の右手斜面に「大塚由来」と記してあり、「皇女和宮の用便を

埋葬し「おくそ塚」として敬拝した等を地名由来としている」とだけ記され

てます。

他の案内書では、長寿クラブの案内板も立ってる由ですが、見当たりません。

それにしても変な地名由来ですね。

 (写真を整理していたら、この場所に建てられていた、顔出し写真パネルの

 後ろに倒れてるのが、長寿クラブの案内板だったようです。

調べた細久手資料に、

「宿並の少し先に大塚という地名があります。昔、高貴な方が旅の途中で亡くなりここに埋葬されたことから王塚と呼ばれ、後に、大塚になりました。和宮降嫁の際細久手宿で休憩し、用便を重箱に入れてここに埋めたことで「おくそ塚」とも呼ばれています」

とありました。

やっぱり、変な塚史跡ではありますね。

不動明王パネルは右手道を挟んだ南蔵院のところに有ってしかるべし、とお思いましたが、こっちの方が傾斜が緩やかだから?案内板が倒してあるのは??

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細久手宿を抜けると、中山道は広い舗装道路の下り坂道になります。

さよなら、細久手宿。今一度振り返り。

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続きます。

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第32回 大湫宿~御嵩宿 (一)

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

10月19、20日の街道旅、

旅の最後に思いがけない激しい雷雨。
アンハッピーの〆になるところでしたが、温かな人情に触れ合った、
なんとも心がほわ~とした、いい旅路の終わりになりました。
重ね重ね、ありがとうございました、嬉しかったです!!
また、いつの日か旅の続きは大湫から、訪れるのが楽しみです”

と、第31回の旅が終わっています。

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11月に入ってすぐに、9日(金)の午後から11日(日)にかけて都合がつき、

天気もよさそう。

うまい具合に金、土の宿も空きを見つけ予約も入れたが、なんとその後

歩く10日に雨マークが・・・・

様子見と宿はキャンセルしないでいたら、田舎の高校同級生二人の訃報。

「元気なうちに、歩けるうちにでしょう、小雨くらいだったら行きましょう」

とカミさんが宣い、予定とおり雨でも今回は行くぞ~と大決心?・・

  ”旅立ち決定!!”

 日がたつにつれて、10日は嬉しいことに雨マークがなくなり、

曇りから晴れ、降水確率0%に。 

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 9日(金)、カミさんの午前のパート仕事を終えて、時折の小雨降る中央高速で

一路岐阜県土岐市のホテルへ走り投宿。

開けて10日、ホテルの窓からみえる周辺の山並みは濃霧の中。

地元TV天気予報は終日の快晴、気温は高くなりそう。

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 ホテルの朝食をしっかりいただき、土岐駅から釜戸駅へ。

釜戸駅には、事前に配車頼み済のタクシーがすでに待機していて、

山道を上り、突然の大雷雨に襲われ、慌ただしかった前回足止めの、

杉の緑と銀杏の黄に彩られた大湫・神明神社前到着。

 

 11月10日(土)AM8:37、32回 中山道歩き旅立ち。 

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あらためて参拝し旅の無事をお願いして、芳名録にも記入させていただきました。

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樹齢1300年といわれる県指定天然記念物「大湫神明神社の大杉」の神々しい

までの姿を、あらためてじっくりと見上げます。

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こちらの案内では、幹回り約10m、直径約3.2mとある。推定60mだった樹高は

3度の雷にあい40mとなり、落雷の傷跡が残ったような柱の梢の姿となってます。
「杉」が大きすぎてカメラにゃ収まらない!

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鳥居の横に「文化四年(1807)」の文字が見える灯篭があり、
大杉の根本には、水不足の際に掘って水が湧き出たという二つの泉があります。

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神社隣の、前回の旅の終わりに大変親切にしていただいた方の家に向かって、
ありがとうございました、と心のあいさつをして足を進めます。

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神社の向い左手に、屋根に覆いをかけてたのが旧森川善章家住宅(通称:新森)で、

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向かい右手、が西森川家(通称:西森)で、 前回立ち寄った大湫宿の観光案内所、

お休み処のとして活用している、「旧森川訓行家住宅(通称:丸森)」と新森との

本家になるそうです。

 

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前回立ち寄った、通称:丸森 大湫宿の観光案内所

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西森川家(通称:西森)についての大湫宿資料によれば、

「森川家は、江戸時代の天保年間には名字帯刀を許された家柄で、幕末からは大湫

 宿領主のひとつである千村家の御用商人として酒造りや販売を行うほか、塩の

 専売も行って発展した。現在、母屋は取り壊されていますが、離れや複数の土蔵

 が残されており、これらの建物は、幕末から明治、大正時代までに建てられたも

 のとみられ、旧大湫宿の歴史的な景観を伝えています。
 今はひっそりしたこの街道と、この大湫に活気を取り戻そうと、地元では
 いろいろな取り組みが始められている。
 その一環として、「丸森」の整備を行い、今はこの西森川家住宅(通称:西森)

 と 旧小木曽家住宅(通称:米屋)の活用方法などの活用事業を始めてる。
 また、特産物づくり、女性による企業グループの育成、高齢者による土産物づく

 り、都市生活者とのふれあい等々も始まっている。」とあります。

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神明神社から約20m歩くと、左側に山車蔵が建っていました。

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大湫から今日の足止め予定地「御嵩宿」までは約18kmと長距離のうえ、
中間に適当な鉄道接続駅がなく、この時期の日の短さもあって、日のある内に

たどりつけるかで、我ら亀足旅人にとっては難所の一つなんですが、今日の旅は

秋雨後の快晴の空の下、いい旅のなりそうです。f:id:hansui:20181112100416j:plain

真っ赤な紅葉の 右手に上がる石段があり、台上に大湫観音堂がありました。

街道書には、道中安全、病気全快ご利益などと信仰され「大湫に過ぎたるもの

二つあり、神明社の大杉と観音層と謳われた」とあります。

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古記録には、

「かつては東方に所在する神明神社の境内に観音堂が建てられていたこと、

享保6年(1721年)に現在地へ移されたこと、文政7年(1824年)の大火で焼失した

こと、弘化4年(1847年)に再建されたことなど」が記されているそうです。

案内板には、

「弘化4年の観音堂が再建された際に、恵那郡付知村(現・中津川市)出身の画人

 で、美濃・飛騨をはじめ尾張三河信濃など広範囲にわたって活躍した

 三尾暁峰が絵を描いた」とありますが、外が明るすぎるため光がガラスに

 反射し、 薄暗い天井の絵柄はよく見えません。

 お盆の時期には、人数限定だそうですが、扉が開かれ見ることできるようです。

 (パンフから拝借では、こんな絵だそうです)

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境内にはたくさんの石仏石塔が立ち並び、芭蕉句碑も文字は風化して読めませんが、

   「花ざかり 山は日ごろのあさぼらけ」とあるそうです。

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観音堂のすぐ先右側には、平成10年に歴史の道整備事業の一環として往時の姿が

再現された高札場が建ち、大湫宿の出入り西口(京方)になります。

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(尚、現存する10枚の本物の札は宿内の市役所大湫連絡所に掲げてあるそうです)

 AM8:56、美濃国中最高所の宿場でもある大湫宿を離れ、次の宿場町

 「細久手宿」1里18町(6.5km) へ足を進めます。

 

 高札場の先でY字路分岐になり「琵琶峠・1.4km」と記された東海道標が建ち、

街道は右方向に向かい、左手は前回タクシー利用で山を下って向かった釜戸駅

続きます。

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分岐から少し進んだ左側に、「嘉永7年(1854)に土橋から石橋に架替えられた」

と記された標柱と、道の両側に石の欄干のみの「紅葉洞の石橋」が一部が残されて

いました。

なんの由来かと思ったら、皇女和宮もここから紅葉を愛でたという、

紅葉の綺麗いな所だったうですが・・紅葉はいずこ?

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 紅葉洞の石橋から約10m先の左側に、二つの大石の上それぞれに

「小坂の馬頭様」が祀られてます。

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先で道は県道を少しだけそれて右手に入ると、

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先には四阿のある休憩所があり、「中山道大湫宿 大洞・小坂」と刻まれた碑、

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右手は木々の奥に「大洞の馬頭様」が祀られてます。

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中山道大湫宿 大洞・小坂」の碑には、

安藤広重画木曽街道六十九次の大湫宿の絵はここから東方を描いたものである」

 と刻まれている。 

浮世絵の左手に描かれているのは、「大湫の二つ岩」でこの休息広場の少し先に

あります。

(昔は大久手と書いたのでしょうか。「湫」、「久手」とは低湿地の意味の

 ようです)

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その先に大湫の二つ岩があります。

安藤広重の絵にも描かれた、手前が母衣岩(ほろいわ)、先にあるのが烏帽子岩

(えぼしいわ)の順で並び、間に太田南畝「壬戌紀行」描写の石碑が建ってます。

資料によると、

「道の左にたてる大きなる石二つあり 一つを烏帽子石といふ 高さ二丈ばかり幅は三丈にあまれり また母衣石といふは高さはひとしけれど幅はこれに倍せり いづれもその名の形に似て 石のしましまに松その外の草生ひたり まことに目を驚す見もの也 大田南畝 壬戊紀行」と記されてるそうです。
 また岩の形から「夫婦岩(陰陽岩)」とも呼ばれ、中山道で有名だったそうな。

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 「大湫の二つ岩」を過ぎると左手が大湫病院で、右手の使用されてないような

建屋の前に、うん??福沢諭吉・・

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右手の雑木林の岩石は、スッパと切り取ったような巨大な一枚岩のように

見えました。

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ゆるい坂道を行くと、

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この先ので、新しそうな「琵琶峠」パネルや道標が建つ石畳の上り道が

右に分岐し、これが中山道「琵琶峠」の東上り口です。

(ウォーキングイベントが催されるのか、赤い道表示パネルやパラソルの下に

 数字のスタンプが置かれ、その後も何か所かで見かけましたが、それらしき方に

 は 会いませんでしたね。 終わった?明日かな? )

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「琵琶峠は標高558m、全長約1km、高低差は西側83m、東側53mで、

中山道の難所の一つに数えられていました。
峠からの眺望は良く、太田南畝(おおたなんぽ)の「壬戌紀行」や他の多くの

文献にも書かれています」と街道書にあります。

 石畳に入ると、琵琶峠石碑があり、石碑を挟んで文化11年(1814年)に

建立された「馬頭観音」「-身代わり観音」が祀られています。

瑞浪市資料には、「身代わり観音は、大垣の大店の娘が、琵琶峠を通った時、

山賊に襲われそのとき身代わりに なって斬られ娘を救ってくれた。 その話を

聞いた娘の父が、もう一体寄進し、斬られた観音は傷跡を補修して 二体ならんで

祀られている」とあります。

昔は山賊の出るような峠だったんですね。

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手前に琵琶峠の解説パネルもたてられてます。

「約730メートル続く石畳は日本一長いといわれており、往時の面影を残す

 道標・石仏・一里塚も現存しています。

昭和45年には江戸時代の石畳が約500メートルにわたり確認され、

平成9年度~12年度に「八瀬沢一里塚」などとともに整備が行われ、江戸時代

の姿に復元されています」など記されてます。

「琵琶峠」の名前は、昔、京都へ琵琶の修業に出ていた法師が、
修業がままならず、失意のうちに帰国する際、この峠に吹いて
いた松風の音で奥義を悟った事に由来するとか。

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石畳は平たく実に歩きやすいが、登り坂、雨後でもあり滑らぬように一歩一歩、

足を進めると、すぐに汗ばむくらいになり上着を外します。

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 しばらく登ると、ベンチが置かれた休息所がありました。

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もうしばらく足を進めると、石畳道は右手に切通しを抜けて行き、峠の頂に

差し掛かったようです。

左手に道標を兼ねた標柱が建ち、琵琶峠見晴らし台へを示してます。

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 街道を離れ見晴らし台へ上がる途中右手に文学石碑があり、資料によると碑は
中山道琵琶嶺 千戌紀行 木曽路名所図会 秋 里離島 著
中山道琵琶峠 新撰美濃志 岡田文園 著 1830~1860年
中山道琵琶坂 打出浜記 烏丸光栄 卿 1746年
の三基だそうです。f:id:hansui:20181112203659j:plain

 琵琶峠の見晴らし台は、樹木が茂り遠くは霞がかかっていて望遠は利きません。

周りをさっと見渡して、文学碑を右手に回り込んで別道で琵琶峠へ下ります。

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峠頂上へ下ると、ちょうど細久手・大黒屋へ宿泊したという、欧米系ハイカーに

出会い、峠には宝暦13年(1763年)に建立された馬頭観音像と、
皇女和宮の歌碑、
「 住みなれし都路出でてけふいくひ いそぐもつらさ東路のたび」

    があり道はここから下り坂の石畳道となってゆきます。

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下り坂の前方に見えていた丸い小山は、瑞浪市の史跡に指定されている

江戸へ91里、京都へ43里の「八瀬沢一里塚」、「琵琶峠の一里塚」とも

呼ばれ、両塚を残しています。

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一里塚のあるこの琵琶峠は、けわしい反面景色にも恵まれ、江戸時代の旅日記にも

峠からのことが多く書かれて中山道の名所の一つにも数えられていました。

瑞浪市には、八瀬沢一里塚のほか、通ってきた権現山一里塚、この先にある
奥之田一里塚、鴨ノ巣一里塚と連続して4つの一里塚が往時の姿で残っている。

(歴史の道案内板記載)

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石畳を下っていくと、右手から岩清水が石の小さな水受けに流れ落ちてます。

水場?動物の水場かな・・

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すぐ先で左手にトイレが設置された舗装道路と交差し、石畳が埋め込まれた道を

横断します。

脇の苔むした石に「中山道案内図」「解説文」や「木曽路名所図会」の琵琶峠を

写した金属板が貼り付けられてます。

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 下りると大きな石の石畳はざれ道に替わり、さらに下ると前方が明るく民家が

見えてきます。

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立場であった旧やせ沢村(八瀬沢集落)に入り、民家の庭先を通り過ぎると

道標が建ち、その先車道への合流地に石碑が建ち「中山道・琵琶峠西上り口」と

あり、碑には琵琶峠に関係したらしい三首の句が刻まれていました。

* 琵琶峠 足の調子は あわれなり

* ゆく春の うしろ姿や 琵琶峠

* 雲の峯 加えつ 四っの 糸にしき

 (街道資料より)

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中山道の美濃・近江両国のうちで一番高い峠は終わり、道路両側の田圃の緑が

美しい県道65号に合流して、緩いアップダウンはあるもののほぼ平坦な道となる。

おや、ソバの花、違うかな?

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 八瀬沢集落を抜けて行くと、遠くの林の方から「あれ、鶏の鳴き声!」

だんだん県道65号は山道へ入って行くと、けたたましい大合唱。養鶏場が右手に

ありました。

時の声?腹減った?・・カミさんは、「腹減った!」に・・

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 少し先で変則四差路があり左手に道標、右手に北野坂の廻国記念塔と記された

標柱が建ち、木々の奥に日本全国66カ国を巡礼し、1国1カ所の霊場法華経

1部ずつ納める行脚僧、廻国行者「六十六部」の安永6年(1777年)建立の

記念塔がありました。 八瀬沢集落に行者が住んでいたのでしょうか?

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変則四差路は道標に従って左手に道を取り進むと、開けた両側にログハウス風の

「国際警察犬訓練所」というのがあり、ドスの利いた何匹もの大型犬の吠え声が

 鳴り響いてます。

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 枝垂れサクラの立つ北野バス停を過ぎ、道標を見ながら登ると、

右手に一っ家茶屋跡の標識だけが建ってました。一軒だけ茶屋があったそうな。

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さらに5分ほど明るい道を行くと天神前バス停があり、木造のバスの待合所脇に

享保13年(1728年)建立の「天神辻の地蔵尊」がありました。

街道書にによると「浄信妙清信女」と刻まれているそうです。

戒名を持ったお地蔵さん?

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気持ちのいい焼坂と呼ばれる街道を、しばらく淡々と進みます。

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坂を登り切った右手に、三面六臂の「焼坂の馬頭観音像」が祀られていました。

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ほぼ平坦な雑木林の明るい街道を、木々の秋を楽しみながら足取り軽く進みます。

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右手からの東海自然道を合わせ、その先左手に天神坂標柱標柱を見送り、

ゆるゆる坂を下ります。

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坂を下りきると大きく開けて、右手街道脇に池が現れます。

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案内板には「弁財天の池」とあり、

「山丘でありながら、いつも水をたたえているこの池は、古くから旅人にも

 愛されていました。

 蜀山人も「左の方に小さき池あり、杜若生い茂れり、池の中に 弁財天の宮あり」

 とその旅日記に書いています。」とあり、丘陵にありながら

 いつも水をたたえ、カキツバタジュンサイの自生地でもあるようです。

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池には小島へ石橋が架かり、天保7年(1836年)に再建されたという石祠内に

天文5年(1536年)建立の弁財天像が安置されています。

通常は琵琶を持った弁財天だが、なんと、祀られtるのは

「一面八臂(はっぴ)の弁財天」でした。

一面八臂(はっぴ)の弁財天は、東京上野の不忍池にお祀りされてるのが、

よく知られてますね。

年に一度しかご開帳がなく、なかなか拝顔できないそうですが。

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池傍の紅葉のしたで、水分補給で小休憩。 

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続きへ、

センブリの花に会いに、東京都薬用植物園へ

先日の中山道街道旅で出会った小さな花、それは「センブリ」の花でした。

咲いていたのは一か所だけでしたね。

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旅の写真を整理していて、「 センブリには紫もあったはず」と思い出し、

近場では、ここなら栽培してるだろうと調べたのが、

時々訪れる「東京都の薬用植物園」。

今咲いていると確認でき、近くの大型ホームセンターへも用があったので

27日に寄り道をしてきました。

植物園には春、夏はよく来たのですが秋は初めてでした。

 

園に入ってすぐに目に入ったのは、「ヤマジノギク・キク科」とありました。

野菊と総称されてるには「ヨメナ」や「ヤマシロギク」「ノコンギク」など

知られてますが、ここに咲いてるのは綺麗な色合いの野菊でした。

解説資料には、

「今、ここで咲いているヤマジノギクは。東海地方以西に分布する野生の

ヤマジノギクを、大分県農林水産研究指導センターの花き研究所にて、

50年以上の年月をかけて品種改良し、園芸化した花です。
10月から12月にかけての切花として関東・関西を中心に全国へ出荷されています。
公益社団法人東京生薬協会が平成27年より大分県杵築市において生薬栽培指導を

行っている関係で、昨年に引続き、展示用として特別に同センターと譲渡契約を

結んで植栽しております」

と記されていました。
原種分布は本州(中部以西)、四国、九州、朝鮮半島、中国大陸東北部で、

原種は都道府県によっては、絶滅危惧種に指定されてるそうです。

京都府などで指定されてるそうです) 

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白花のフサフジウツギ(フジウツギ科)

有毒植物、誤って食べると胃痛やけいれんを起こす。魚毒成分を含む。

よく見るのは房状の紫色の花です。明治中期に観賞用として中国より渡来し、

一部野生化しているのがみられる。

園芸品種に白花や赤花があるそうです。
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お目当てのセンブリ、紫花は鉢植えで咲いてました。

ムラサキセンブリ、(紫千振 リンドウ科 センブリ属 )準絶滅危惧種

野生のムラサキセンブリは自生地の開発などにより減少し、準絶滅危惧種に指定されています。
花はセンブリよりも大きく、イブニングスターの流通名で、切花などの観賞用花卉としても栽培されています。

近年は薬用には使用されていないようです。

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センブリは日本のほか、朝鮮半島から中国にかけて自生する二年草で、

古くから健胃剤などの民間薬として利用されています。

名前は「湯の中で千回振り出してもまだ苦みが残る」ことに由来し、

一説に「千回身震いするほど苦い」ともいわれます。

山野に生育する2年草で、生育2年目の秋に開花します。
植物全体に残留性の苦味をもち、わが国では室町時代から健胃、腹痛などの薬用にされてきました。
消化不良、食欲不振に苦味健胃薬、整腸薬として熱湯中に浸して振り出し、または煎剤として服用される。

センブリは地植えと

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鉢植えで栽培されてました。

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 チコリ キク科 別名 キクニガナ

ヨーロッパでは利尿薬などの民間薬として利用。

根は炒るとコーヒーの代用になる。 f:id:hansui:20181030193433j:plain

セキヤノアキチョウジ(シソ科)

セキヤ(関屋)とは関所の建物のことです。ここでは箱根の関を意味しているとされ、本種が関東・中部地方の山地に分布することと関連があると考えられます。
西日本には類似種のアキチョウジが分布します。花はとてもよく似ていますが、

アキチョウジは花柄が短く、やや太いという違いがあります。

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スズムシバナ(キツネノマゴ科)

近畿地方以西の、林の下などに生育する多年草です。
草木図説(嘉永年間)ではスズムシソウの名で図解されていますが、ラン科の植物にもスズムシソウがあって名前が重複していたため、本種の標準和名はスズムシバナになりました。

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ヘビウリ ウリ科 インド地方原産

明治時代に渡来。

秋にできる、にょろにょろの ヘビみたいな実がなる。

実はスープ、炒め物など食用になる。

花はカラスウリの花に そっくり。

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ノゲイトウ ヒユ科 インド原産

中国では、まれに漢方処方に配剤されます。

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サラシナショウマキンポウゲ科

低山、山地や高原の落葉樹林や草原に生育する多年草です。
山地や高原では8月から咲き始める。
サラシナとは晒菜の意味で、若葉をゆでて水にさらして食用としたことによる

といわれます。

漢方処方用薬:発汗作用、解熱作用(升麻葛根湯、辛夷清肺湯ほか)

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リンドウ(リンドウ科)

朝夕の冷える季節、リンドウが咲くと、本格的な秋の深まりを感じます。
花は、晴れた日の日中にのみ開き、夕方や曇天の日は閉じています。

漢方処方用薬:尿路疾患(竜胆瀉肝湯ほか) 
    粉末は苦味健胃薬として配合剤の原料

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ミセバヤ(ベンケイソウ科)

絶滅危惧IB類
和名は「見せばや」で「見せたい」という意味の古語にちなみ、花の美しさを表しているといわれます。
自生個体は、小豆島と奈良県の限られた川沿いにのみ分布し、もともとの個体数が少ないことに加え、護岸工事や園芸目的の盗掘によって絶滅の危機に瀕しています。

分布、本州(奈良県)および四国(小豆島)

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ノゴマ(食用(ピクルス) ツノゴマ
原産地、北米南部〜メキシコ
果実は鉤状に湾曲。内果皮が木質化し、熟すと二股に裂け、種子を散布する。 

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サフラン(アヤメ科)

柱頭(めしべの先端部)を薬用とするほか、料理の色味と香味付けにも用いられます。
観賞用のクロッカスは同属、ただしそちらは薬用にはなりません。

欧州では鎮静、通経薬、日本では冷え性など
原産地、地中海沿岸からインド

名前の似ているイヌサフランは、有毒植物です。

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リュウノウギク(キク科)

里山にみられるキク属の植物です。乾いた斜面を好み、10月から11月に開花します。
「野菊」と俗称されるキク科植物の中では開花期が遅い方で、この花が咲くと秋の深まりを感じさせます。
和名は、匂いが竜脳(樹木由来の薫香料)に似ているということに由来し、両者は共通する精油成分を含んでいます。

民間療法で冷え性、神経痛、凍傷、浅い切り傷などの治療に浴料とする。
分布、福島県以西

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リョウリギク(キク科)金唐松

キクの園芸品種から、味や香り、歯触りのよいものを選別した栽培品種です。
食用(酢の物、和え物など)
原産地、中国

山形県の特産品に赤い花の「もってのほか」の名がありますね。

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ラッキョウユリ科

中国原産で、日本へは平安時代頃にもたらされたと考えられています。
他の野菜の育ちにくい土壌でも生育でき、海岸砂丘などで栽培されています。
新しい分類体系であるAPG III体系では、この仲間(ネギ属)はヒガンバナ科

分類されています。

去痰作用の目的で漢方処方に配剤されることがある
原産地、中国

四国の高知を訪れた折、海岸線に一面の紫絨毯模様で咲いてるのを

見たことがありますね。

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フジバカマ(キク科)

秋の七草のひとつに数えられます。奈良時代のころ中国より渡来したと考えられています。
生花店などに流通する濃いピンクの「フジバカマ」は、同属のサワヒヨドリとの雑種と考えられます。
自生のフジバカマは川の土手などに生育しますが、河川の護岸工事などにより個体数が減少し、準絶滅危惧種となっています。
生薬名をランソウ(蘭草)といいます。葉が半乾きのとき「桜もち」に似た芳香を放ちます。
薬用以外では、衣類の消臭、香り付けなどに用いられました。
「蘭」は、古くは芳香のある植物を意味し、その後、特にラン科植物を指すようになったといわれます。

民間療法として、皮膚のかゆみに浴用剤として用いる。

また軽度のむくみ解消に煎用
原産地、中国原産とされる。日本には関東以西に分布

2000kmにもなる渡りをする「蝶・アサギマダラ」の食草です。

フジバカマの蜜に含まれている成分が、アサギマダラにとって大事な成分に

なっているようです。

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昨年9月に、目当てで訪れた赤城山自然園でのアサギマダラ

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お目当てのムラサキセンブリも咲いていて、いい花巡りで

学習もさせていただきました。

 

 

10月27日(土)

東京都小平市

東京薬用植物園

花の解説は、付けてあった花札、パンフレットから引用です。

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第31回 大井宿~大湫宿 後編

そして道標のところは市境、恵那市から瑞浪市へと入りました。
 PM1:40

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後編です。

道は舗装されたゆるい坂道となり、道なりに上り、数分先の分かれ道は

右手の坂を上る。

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右手の坂を上り切ると、大久後(おおくご)の立場の有ったところです。

左側に白い木柱の「大久後の向茶屋跡」標柱があり、付近を「茶屋が原」と

呼ばれたようで、左手木々の奥に少し草地や畑地が見えました。

向茶屋とは原の向こうにの意味かな?向かい合う2軒の茶屋があったのかな?

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しばらく進むと左手が開け

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先の道標などの建つY字を左側へ回り込み、街道は観音坂と呼ばれる急坂を

山の中へと登って行きます。右手に白い観音坂標柱がたってます。

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Y字の右手への舗装された坂道は、観音坂の急坂を避けるため、
 江戸時代後半に「新道坂」が造られたそうで、こちらも白い標柱がたってます。

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カミさんが小さな可愛い花がいっぱい咲いてるわよ、と呼ぶので駆け上がって

左手を見ると、「おっ、ウメバチソウ?、いやセンブリかも」

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バシャバシャ写しましたが、小さい花でちゃんと写っていたのは2枚だけ。

大湫のお休み所で「センブリ」と教えてもらいました。

咲いていたのは、この付近だけでしたね。

さらに砂利道を上ると、左手に大きな「大久後観音坂」石柱がありました。

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その先の草道を行くと、大きな「歴史の道・観音坂と馬頭様」解説板があり、
右手林の中の大岩上に、一見お地蔵さんとも見える馬頭様(馬頭観音像)

が安置されていました。観音坂は馬頭観音からなんでしょうね。

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馬頭観音から約50m歩くと、木立の中に東屋風の観音坂休憩所があり、

右手の段上に天保2年(1831)建立の観音坂の霊場巡拝碑がありました。

街道書に、霊場巡拝は、奉納 西国、四国、秩父、坂東供養塔と記して
 ありますが、すべての霊場を巡礼したということでしょうか。

われわれも、各霊場のうちの何か所かずつは街道旅の合間に訪れてますね。

秩父は身近なので、何回かに分けて全札所巡りをしましたね。

それが街道旅を続けているきっかけの、一つにもなりました。

先で坂を下って観音坂は、先ほど分岐していた新道坂に突き当たります。

 

f:id:hansui:20181028100911j:plain 新道坂と合流し左手の東海自然歩道道標、青色歴史の道道標を見送り進むと

大久後の集落入って行きます。

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下り坂を進むと街道書に「灰くべ餅の出茶屋跡」という標柱が建ち、

灰に直接くべて焼いた餅が名物と有りましたが、通過してしまったようです。

さらに右手に「大久後立場跡」も記されていましたが、こちらは何も示すものは

ありませんでしたね。
坂を下ると大久後村に入り東海自然歩道道標を見送り進むと、集落外れで、

右手の石段上に祠がありました。

街道書には観音堂があり、弘法石造座像も安置されている、と記されてます。

弘法像は屋根部分を新しくしたような祠に座してますが、観音堂が判りません。

(跡で調べたら、石段を上がって弘法大師像の右手にすこし離れて建っていた、

 新しそうな小さな普通の小屋に見えたのが、観音堂だったようです)

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ここから急な上りの権現坂で、一歩一歩ゆっくり足を進めます。

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坂は鞍骨坂と呼び名が変わり、右手に標柱を見ながら上ります。

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鞍骨坂を上り詰めると、右手に刈安神社への参道階段口があります。
社殿は石階段を300m以上上った、権現山の頂上に鎮座しているそうです。

東濃十八砦の権現山城跡で、戦国初期に小牧からこの地に移り住み、刈安城とも

萩之島城とも呼ばれる城の城主となった西尾式部道永を祀っている。

城主が合戦に敗れ自刃すると、明暦3年(1657)里人が城主を刈安権現と称し

創祀した、と資料に有りました。

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「参道奥の脇に大きな石碑が二つ見える」てカミさんが指さした方に、

確かに石碑が二基有りました。

アップで映してみると「秀覚霊神 」「松覚霊神 」と刻まれ、一つには

出雲大社教 」と読み取れます。

調べると、出雲大社教という団体があるようですが、刈安神社との謂れは

わかりませんでした。

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カミさんが足止めして見ているのは、地面に這うように一輪咲いている、

ホホトギスの花。そして右手石垣の上にミセバヤが咲いてました。

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その先に中山道解説板があり、炭焼き立場跡と記されてます。

眺望が良く、十三峠の中では特に旅人に親しまれた立場だったそうで、

蜀山人が享和2年(1802)に記した紀行文に「俗に炭焼きの五郎坂というを

くだれば、炭焼きの立場あり・・・」とあるそうです。

(遠くからも見えていた左手の樹が奇妙な伸び方をしてます。

 4mくらいうえで5本ほどに枝分かれをして、真っすぐに伸びてます。 

 切ったところから、再び新梢が伸びたんでしょうね)

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 炭焼立場の西外れ、季節はづれのユリの花を見つけて進むと土道になり、

林の中の上り坂へと入って行きます。

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東海自然遊歩道の標識の有る坂は、

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吾郎坂とよばれる標柱があり、やがて左手が開け畑地に出てきました。

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その先で再び山に分け入るように森の中へと道は続きます。

野アザミが一輪ぽっと咲いてます。

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丸太の車止めの置かれた山道は樫ノ木坂と呼ばれ、やがて石畳の道になりました。

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樫ノ木坂石畳道の上り坂は、「中仙道ゴルフ倶楽部」の敷地内を通り抜けるようで、
進むと道の両側にこんもりとした小山が見えてきます。

江戸日本橋より九十里目、権現山の一里塚の両塚が現存していました。

慶長八~九年(1603~4)十三峠の新道敷設にともなって築かれ、

樫ノ木坂の一里塚とも呼ばれてるそうです。(瑞浪市史跡資料にて)。

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さらに続く急坂道は「巡礼水の坂」と呼ばれるそうで、中仙道ゴルフ倶楽部の

カート道(舗装路)を横断し、両側のゴルフコースに挟まれた道を進みます。

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カート道を過ぎて少し上った右手に、歴史の道案内板が建ってます。

ここは「十三峠の助け清水」として旅人たちから大切にされてきた「巡礼水」

 と呼ばれる水場がありました。

 昔、旅の巡礼が丁度八月一日にこの地を通りかかりました。そして具合が悪く

 なり倒れてしまいました。病気になった巡礼の母娘が

 念仏を唱えると目の前の大岩から清水が湧き出し、その水を飲むと病が癒された、

 というお助け水で、、八月一日には必ず湧き出たといいます。
 段上には宝暦7年(1757)建立の馬頭観音像が祀られています。
 巡礼水の傍らに自然石の中山道順礼水碑があります。
 碑面には太田南畝の壬戌紀行「坂を下りゆくに 左の方の石より水流れ出るを

 巡礼水という 常にはさのみ水も出ねど八月一日には必ず出するという むかし

 巡礼の者此の日此所にてなやみ伏しけるが この水を飲みて命助かりしより 今も

 かかることありといえり」が刻まれているそうです。

(赤丸 馬頭観音 黄枠 お助け水場)

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石畳の一部残す巡礼水の坂を進み、2っ目のカート道を横断し自然道、歴史道、

びやいと坂の標柱を見送って坂は下りになます。

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ゴルフ場内を縦断する街道ですから、ボールが所々に見られ、時々バッサ、

コンコンと飛弾の音が聞こえるので、音に注意しながら進みます。

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「びやいと坂」と呼ばれる坂道をを下ると、自然石の中山道曽根松坂碑があります。

太田南畝の壬戌紀行

「少し下りて また芝生の松原を登りゆくこと四五町

 あやしき石所々にそば立ちて赤土多し 曽根松の坂という」

 が刻まれていたそうですが、写真写りが悪く割合いします。

ゴルフコースの間の曽根松の坂を注意しながら下ると、車止めの杭が立ち、

少し開けた一角に出て、「中山道十三峠阿波屋の茶屋跡碑」があります。

おつる婆さんが営んだ茶屋跡だそうで、先の木々の間にベンチなどが

置かれてます。

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右手奥に、天保11年(1840)に建立された「三十三所観音石窟」があります。
 石窟内には道中安全を祈る、三十三体の馬頭観音が安置されています。

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これらの観音は十三峠を往来する大湫宿の馬持ち連中と助郷に関わる近隣の

村々から寄進されたものです。
石窟前の石碑には定飛脚嶋屋、京屋、甲州屋を始め奥州、越後の飛脚才領、

松本や伊那の中馬(ちゅうま)連中が、出資者として名を連ねています。

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坂道は地蔵坂と名が変わり、少し砂利道を下ると左手に十三峠尻冷やし地蔵の

案内板と、太田南畝の壬戌紀行「地蔵坂という坂を上れば右に大きな杉の木あり

地蔵菩薩たたえ給う」が刻まれた自然石の中山道尻冷やしの地蔵尊碑があり

ます。

案内板は擦れて読みずらいですが、街道書によれば、
「宝永八年(1711)伊勢の豪商熊野屋の夫人が十三峠で急病になった時

 この湧き水で助かり、それに感謝して地蔵を建立しました。

 以来お助け清水と呼ばれ、旅人はもちろん、参勤大名も愛飲したといいます。
 お地蔵さんの後ろから清水が湧き、まるで尻を冷やしているように見える

 ところから、尻冷やし地蔵と呼ばれました」と有ります。
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地蔵坂を下り切った所で車道を横断し、向いの旧道に入ります。

この横断点には東海自然歩道道標や青色歴史の道道標がありました。

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荒れた舗装の坂を上ると砂利道になり、

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左手に自然石の太田南畝の壬戌紀行

「曲りまがりて登り下り 猶(なお)三四町も下る坂名を問えばしゃれこ坂という

 右の方に 南無観世音菩薩という石を建つ 向こうに遠く見ゆる山はかの

 横長岳(恵那山)なり」が刻まれた、中山道しゃれこ坂(八町坂)碑があります。

ここから恵那山が見えるんですね。
 碑の横に「十三峠八丁坂の観音碑」の石柱があり、後方に南無観世音菩薩が

 建っていました。

しゃれこ、てなんでしょうね?しゃれこうべ、という説もあるようですが・・

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鬱蒼とした木立の中を進むうち、明るく開けた道になり、左手の斜面には茶畑が

広がります。
再び木立の中に入り坂を上ると、ここが山之神坂です。

往時は右手の段上に、里に実りをもたらす山之神の小祠があったそうですが、

現在は自然石碑が建ってます。

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山之神坂碑の先から赤土の坂を進むと、右手に自然石の中山道十三峠童子ケ坂碑が

あり、十三峠最後の上り坂童子ケ根坂の暗い林の中を行くと、東海自然歩道道標があり、標高は約540mで十三峠の中で最も高い地点に到着です。

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しばらく前から、かなり遠くの様ですが雷鳴が聞こえ、周りは薄暗くなってき、

青空は見えていましたが、ぽつんぽっつんと雫雨が降り出してきました。

ここからは下りになり、大湫の宗昌寺にちなむ「寺坂」で、この寺坂から

西行坂までが十三峠になりました。
私達も十三峠をクリアーして、大湫宿の宿場の手前に辿り着いたようです。

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 急な寺坂を下ると大湫の宿並が望め、右手の段上に馬頭観音像や

南無阿弥陀佛名号碑が並んでいます。

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石仏石塔の急坂を下った左手に「大湫宿碑」が建ってます。

正面「中山道大湫宿 右 京へ四十三里半 左 江戸へ九十里半」、

左面「西方 細久手宿へ一里半 宿中安全 東方 大井宿へ三里半」、

右面「是より東 十三峠 道中安全」と刻まれています。

十三峠におまけが七つといわれた美濃路の難所もここ迄です、

PM3:30、大湫宿に到着です!。

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右手には太田南畝の壬戌紀行「十三峠碑」が有ったのですが、

なぜか写してませんでした・・・・。

 左手枝垂れ桜の下に、中山道大湫宿碑があります。

碑面には新撰美濃誌の「中山道の宿駅にて京の方細久手宿より一里半余江戸の方

大井宿より三里半の馬継ぎなり 尾州御領 名古屋まで十六里あり 十三嶺は宿の

東方大井宿との間 琵琶坂は細久手に至る大道の坂を云う 西に伊吹山も見えて

好景なり」が刻まれているそうです。

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江戸から47番目、91里9町(358.3Km)大井から3里18町(13.7Km)

大湫宿は慶長九年(1604)十三峠に新道が開設された際に、海抜510mの

高地に新設された宿場です。

東に十三峠、西に琵琶峠を控え大いに賑わいました。
天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によれば、大湫宿の宿内家数は

66軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠30軒、宿内人口は338人で尾張藩

でした。

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だいぶく雲が広がって薄暗くなりく、雷鳴も大きく聞こえるようになってきました。

時折、お天気雨が降りそそぎ、雨具を身に付けます。

左手に臨済宗妙心寺派金城山宗昌寺(そうしょうじ)があります。

本尊は釈迦如来で美濃瑞浪三十三霊場第五番札所です。
天正年間(1573~91)に大湫村を開村した保々宗昌が慶長五年(1600)

に開基した寺で、本陣、脇本陣に次ぐ控え本陣でした。

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寺坂を下り切り、左折(白色矢印)すると大湫の宿並に入る枡形です。

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この枡形を直進し先を右折すると、街道書では尾州藩大湫白木番所跡の標石があり

と記されてますが、寄らないことにし桝形を左折。

左手に宿場の雰囲気に溶け込んだ「大湫簡易郵便局」で「陶都信用農業協同組合

 釜戸支店大湫営業所」で「岐阜県収納代理金融機関」であり、

「 こどもみまもり隊JA110番」でもある家屋が建ってます。

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その先隣は、国登録有形文化財の指定を受けている旧旅籠三浦屋跡があり、

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連なって、江戸末期の建築で国登録有形文化財で問屋丸森跡(森川訓行家住宅)

案内資料によると

「旅屋の他に尾州藩の許可を得て塩の専売も行い、繁盛を極めたとされています。
建物は江戸時代末期の建築と推察され、江戸の町屋形式をそのまま有し、

当時の旅籠商家の雰囲気をよく残しています
昭和20年代まで住居として使用され、一部は現代様に改修されているものの、

建物は建具類を含めてよく保存されています。
平成18年には国登録有形文化財に登録されました。平成26年に所有者から寄贈を

受けたことから、大湫宿の観光の拠点となる施設へ整備しました」とあり、

つい最近 に中山道観光案内所「丸森」となり無料休憩所ともなったんですね。

通りかかると声を掛けていただき、おいしい昆布茶を頂きながら、

いろいろと大湫の話や街道の話をお聞きしました。

天気の急変もようなので短い時間の滞在でしたが、お世話になりました。

ありがとうございました。

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天気予報が当初より急激に変わってきて、雷雨の予報になって来たそうです。

まだ青空も有り日差しが注いだりしてますが、遠く頻繁に雷鳴が聞こえ

時折天気雨がある状況になってきました。

予定では大湫宿の西外れ高札場まで行き、そこで足止めとして約4kmの山道を

下って中央線の釜戸駅へ向い電車で恵那へ戻る予定でしたが、

くだり途中で降られる可能性大の為、タクシー利用で下ることして高札場まで

とりあえず足を進める事に。

向いには注連縄をさげた大湫公民館があり、公民館横から裏手に回ると

廃校にった大湫小学校校庭後が保々本陣跡だそうで、案内板によれば、

大湫の開村に尽力した保々家は慶長九年(1604)に開宿されると本陣を勤め

庄屋、問屋を兼ねました、代々保々市左衛門を襲名し、明治まで続きました。

 本陣は間口二十二間(約40m)、奥行十五間(約27m)、部屋数二十三、

 畳数二百十二畳、別棟添屋六という広大な規模だったようです。

跡地までは行くかずに足を進めます。

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駐車場奥の本陣石垣の上に皇女和宮(中央)の陶製人形が飾られています。

(さきほどからデジカメの調子が悪く、不鮮明が多くなってしまいました

    写真はパンフレットからのスキャンです)

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大湫の「くて」とは低湿地を意味し、良質な飲料水の確保に難渋しました。皇女和宮の大通行に際しては、今にも残る筧水が掘られました、 皇女和宮の大通行は二十七日からの四日間で大湫宿の継立ては人足延べ二万八千人、馬延べ八百十九疋であったといいます。 水戸天狗勢一行は大井宿を出立し、十三峠を越して大湫宿で昼食を摂りました。

(大湫資料)

振り返った街並み。左手公民館、右手休憩所

雷鳴が絶え間なく聞こえるようになり、すこしずつ近くで鳴り響くようになって

きました。雨がパラパラ降ったり止んだりです。

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次いで右手の丘上に白山神社が鎮座しています、大湫宿産土神です。

参道の左手が宿役人が毎日詰め、宿の業務全般についての指図や業務を行っていた
問屋場跡で、案内板があります。

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すぐ先右手の板塀を回した立派なお屋敷は、「面高屋(おも だかや)」。

閉まってましたが現在も無料休憩所として旅人に開放されていそうです。

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先の右手奥、階段をあがると、本陣の分家の保々脇本陣跡があり、

門が見えてます。
 部屋数十九、畳数百五十三畳、別棟六という広大な建物でした、今は半分程度の

規模になっています、母屋は江戸中期の建築で国登録有形文化財です。

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雷鳴大きくなってきたので 先を急ぎます。

進む右手に、慶長十三年(1608)の再建で、白山神社と共に大湫宿産土神

神明神社」が鎮座し、県指定天然記念物「大湫神明神社の大杉」が聳えてます。

案内板によれば、
「御神木の大杉は樹齢千三百年で、樹高60m、幹回り11m、直径3.2mの

大樹で岐阜県天然記念物指定です。

3度の雷にあい推定60mの樹高は40mとなったそうで、平成24年度に本格的な

維持保存工事をして いるそうです。

太田南畝は壬戌紀行に

「駅の中なる左の方に大きい杉の木あり、木の元に神明の宮たつ」と著し、
 大杉の前に神明元泉と呼ばれる清水が湧き出ています、貴重な飲料水でした。
 道中安全、病気全快の観音として知られ、宿内、近郷はもとより旅人からも

 篤く信仰されました」f:id:hansui:20181029065202j:plain

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一瞬明るさが見えたが・・f:id:hansui:20181029065425j:plain

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大杉に感嘆してるうちに、突然に猛烈な雷鳴がとどろき渡り、周りは闇に包まれ

滝の様な豪雨になってきました。

この先少し下ると、大湫宿西方(京方)の宿高札場ですが、神社を足止め地とし

タクシー会社へ連絡。

神社前の道路をへだてたところに、屋根付きの駐車スペースがあり、お借りして

雨宿り。

激しい雷雨の中、タクシー待ちをしていると、道を隔てた神社隣の駐車場持ち主

らしい家から、ご婦人が傘をさして出てこられ、声を掛けてきました。

「この後はどうなされるんですか、駅へ行かれるんでしたら車を出してあげますよ」

窓からでも私達を見られたんですね。

この激しい雷、雨の中、わざわざ家から出てこられて、声を掛けてくれたのです。

「有難うございます」、駅までのタクシー呼んだ話をし、車庫の軒下を

 お借りしたい旨お願いすると、「傘はお持ちですか、ここにある傘、

 お使いになっていいですよ」とまでいっていただきました。

 折り畳み傘を持参しことをお話すると、ご婦人は一旦家へ戻られました。

なんともご親切で温かい思いやりを頂き、「嬉しいね、有りがたいわね」と

感謝いっぱいでタクシー待ちをさせていただいてました。

ところが、しばらくするとご婦人が再び傘をさし、お盆の上に茶碗を載せて

車庫へきてくれたのです。

「雨で冷えてきましたね、熱いお茶を一杯飲んでください。

 家に来てもらうとタクシーが来た時にわかりませんからね」

いや~、本当に驚きました。

一瞬、眼がしらが熱くなるほどの感動でした。

 

ご婦人は話しながらタクシーがくるまで付き合ってくださり、

手を振って見送っていただき、大湫を後にしました。

 

旅の最後に思いがけない激しい雷雨。

アンハッピーの〆になるところでしたが、温かな人情に触れ合った、

なんとも心がほわ~とした、いい旅路の終わりになりました。

重ね重ね、ありがとうございました、嬉しかったです!!

第31回、歩いて再び京の都へ・・

アンハッピーがベストハッピーで終わりました。

また、いつの日か旅の続きは大湫から、訪れるのが楽しみです。

 

おわります。

 

秋ばらの咲く狭山都市緑化植物園へ

前に教えていただいていた、隣り街、狭山市の県立公園に併設の

智光山公園都市緑化植物園。

園内にある「ばら園」にて、まだ秋ばらが綺麗とのことで、10月26日に

近くの園芸店へ行ったので寄り道をしてきました。

バラ園は大きくは有りませんが、まだまだ見ごろに秋ばらが咲いていて、

けっこう多くの方が散策を楽しんでました。

フジバカマが咲いている。

渡りの蝶、アサアギマダラも立ち寄るかな。

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 園に入ってすぐ右手に、よく手入れされているばら園が有りました。 

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アロマテラピー

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ミラマーレ・ハイブリットッティー系

色は薄いピンクから濃い赤に、また黄からローズ赤に変化するときもあるそうです。

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ウラワレッドダイアモンズ サッカー「浦和レッズ」のバラ。

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アブラカダブラ 花色はクリーム~ローズピンク

開花につれて花色が変化し、淡い香りが有ります。

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八重の酔芙蓉

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なんと、ミヤマキリシマが咲いている!

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一輪咲いていたハイビスカス

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温室に咲いていた、サンパチェンス、ツリフネソウ科

初めて見る花です。インパチェンスの仲間でしょうか?

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開催されていた山野草盆栽展、ヤマラッキョウ

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ヤマギリンドウ

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ヒラトジマイトラッキョウ

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ヒラトジハマギク

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左上 ミントッブシュ 右上 八重桔梗

左下 オイランソウ  右下 チコリ

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そして最後はクレマチス シルホサ・ジングルベル

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1時間30分の散策。

園のほんの一部を回った、花の一部のアップ・ブログでした。

春の季節に、また訪れたい植物園でしたね。

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アップしたフォットを10月のBGMにのせて、デジブックアルバムに。

無料ですが、登録が必要になります。

www.digibook.net