地下道を抜けると直ぐの左側に道標が建ち、安土町東老蘇へ入ります。
続きです。
道標から約400m歩くと、安土町東老蘇集落で、奥石神社(おいそ)の大きな社標、鳥居が建ち、右前方に鬱蒼とした「老蘇の森」へ東参道が続いてますが、
表参道から入ることにし、5分ほど集落を進むと、奥石神社の大きな社標石、
大鳥居、そして後ろ神社を取り囲む大森林は「老蘇の森(おいそのもり)」と
呼ばれ、万葉の昔から歌に詠まれてきた名高い森で国の史跡に指定されている。
「今から約2300年前 孝霊天皇の御世に石辺大連(いしべのおおむらじ)という人が
神の助けを得て松、杉、檜などの苗木を植え祈願したところ、たちまち生い茂り
大森林になったと伝えられている。
後にこの石辺大連は100数拾才迄生きながられたので人呼んで「老蘇」(老が蘇る)
と云い、この森を「老蘇の森」と呼ぶようになった。」 (老蘇の森 説明板)
森の中には、藤原氏の祖である天津児室根命(あまつこやねのみこと)を祭神として
祀る奥石神社((式内 奥石神社 鎌宮)があります。
大連翁が社壇を築いたといわれ、繖山を御神体とする延喜式内社の古社で、
安産の神ともいわれて、広く信仰されているそうです。
本殿は天正9年織田信長が家臣柴田家久(勝家の一族)に命じて造営せしめたもので
三間社流造で、桧皮葺の豪華の中に優美な落ち着きを持った建造物で、
本殿は国の重要文化財に指定されています。
参拝を済ませ街道を行くと、左側に「根来小路」の標石が建っており、
真向かいの小路を入り進むと、突き当りに根来陣屋跡で、標石と解説板が
建っていました。陣屋跡後方は老蘇の森です。
「根来寺の僧だった根来家始祖・盛重は、鉄砲の根来衆で知られ、秀吉の根来寺焼き
討ち後に家康家臣となり、多くの戦功から大和・近江・関東に領地(知行地)を拝領。
大旗本として寛永10年(1633)当地が根来家知行所となり、元禄11年(1698)領地替えの際、ここに陣屋が設置され代官所が置かれました。」
(解説板)
(さすが都に近い近江の国、戦国話がぞくそく出てきますね)
街道へ戻り少し行くと、右手に土壁も綺麗なお屋敷があり、覗かせて頂き、
向い左手板塀に、福生寺。轟地蔵の表示板をみて150mほど行くと、
轟川に架かる轟橋があり、手前右側に轟地蔵跡碑と解説板はあります。
かつてここに、五個荘に伝わる小幡人形の千体仏地蔵があったそうで、
「轟地蔵は明治になってから福生寺境内に移設された」と書かれてます。
轟橋を渡った左側には、金毘羅大権現常夜燈が建っていました。
街道書に、福生寺の本堂が根来陣屋の書院を移築した、と書かれており、
道を少し戻って路地に入り福生寺へ寄ってみました。
(なぜか地蔵堂は写してなかった、なぜかな??)
街道へ戻り轟橋を渡った左手に杉原医院があり、勝本宗益(通称鈍穴)が江戸末期に
作庭した名勝の緑苔園、と案内板が立てます。入口から覗いてみましたが、
人気が無く、少しは見えるかと路地へ入ってみましたが、手入れさてた木々が
塀越しに見えただけでしたね。
杉原医院から約200m行くと、信号のある十字路へ出で、用水手前に小祠があり、
用水を渡った脇に「右・観音正寺、左十三仏」などと彫られ中山道道標が立てます。
交差点を渡ると西老蘇地区になり、左側は老蘇コミニュティーセンターで、
元は老蘇の農協や郵便局があった跡との標石が立ち、その先には奥石神社御旅所が
あり、標石が建っていました。
御旅所から先右側に、鎌若宮神社があり、祭神は大己貴命(オオナムチノミコト)で、
創建は不詳で、老蘇村が東西に分裂したときに「奥石神社 鎌若」の若宮として
勧進したともいわれてるそうです。
神社を出て街道を歩くと、ベンガラ塗の豪壮な建屋や長屋門を備えたお屋敷、
右手に浄土宗の東光寺があり、門前に寺標石碑と、歌舞伎「菅原伝授手習鑑」の
モデルになった豊臣秀吉の祐筆、「建部伝内遺跡」の石碑、伝内堂が有ります。
もと五個荘清水鼻にあった佐々木六角氏ゆかりの寺院で、滅亡後「寺号」と
平安時代後期の作「木造阿弥陀如来立像」(安土町文化財)を譲り受けたと
伝わっている由。
東光寺から街並みを眺めながら10分ほど行くと、亀川の交差点に出て、
交差点を真っすぐ渡り50mほど行くと田園が大きく広がり、右手花壇に花が咲き、
「中山道 西生来 どうぞごゆっくり」の木製板を吊り下げた小公園があり足休め。
青い機械は田園の用水ポンプでしょうね。
すぐに西生来の集落に入り、水路のような川の端に「泡子延命地蔵尊御遺」跡の碑と
解説標板が掲げられている。地蔵尊は移設されてます。
近江八幡市、マンホール蓋。
中央に八幡山を描き、八幡堀、白壁の蔵、近江商人のそろばんの玉柄ののれん、
市の木サクラが描かれるそうです。
右側に西福寺があり、山門右側に移設された泡子地蔵堂が祀られていて、道を隔てた
向かいに不動明王道標が建っていて「これより二丁半」と彫られてます。
泡子地蔵は、茶店の娘が客の僧に恋をし、僧の飲み残しの茶を飲むと懐妊した。
三年して再び僧が現れ、子に息を吹きかけると泡となって消えたという、板があり、
はて、どこかで聞いたような、醒井宿だったかな。
不動明王道標から約5分強歩くと右側街灯下に日本橋から124番目の一里塚跡の
標石が建っていました。(写真右)
一里塚跡から、側溝が整備された街並みの家々を眺めながら足を進めます。
おや、これは??
双体道祖神では。
壁に立てかけてるだけですが、ちゃんとお花を供されている。
(木曽路までは多くの道祖神、馬頭観音、庚申塔を道端に見かけたが、美濃路、近江路
入ると、ほどん目にすることが少なくなてる。
なかんずく庚申塔は全く見かけなかった。 何故かな??)
左手の家並みが途切れて、田園が大きく広がり、先に橋が見えてきます。
一里塚から約250m、5分ほど歩くと、蛇沢(いざ)川に架かる西生来大橋を
渡って進むといよいよ武佐地区へ入ります。
蛇沢(いざ)川は「どんどん川」とのプレートがつけられてましたが、いわれは?
西生来橋を渡って50mほどの十字路先に泡子地蔵・200mの標識があり、
下のガードレールに隠れて、数個の石仏が祀られ、ここにもちゃんと花が供えられ
てました。中には道祖神の様に見える石仏もあったが、判然としませんでした。
十字路先の空き地の道端に、ここでは武佐学区まちづくり協議会が建てた
「武佐宿 大門跡」の木札が立ち、街道書にはここは武佐宿東の見附で江戸口(東口)と記されてます。
(まちづくり協議会が、ここでもか活動してるんですね。案内板の作成は武佐小学
卒業記念だそうです)
武佐宿は江戸から66番目の宿場で、
愛知川より、2里18町 9.8Km
江戸日本橋より、123里25町 485.7Km
街道書によれば、
武佐宿は近くに近江商人の町である近江八幡があり、物資の往来が盛んに行われ、
伊勢に通じる八風街道の追分を控え、塩や海産物の往来で賑わいました。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、
宿内家数 183軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠23軒 宿内人537人。
大門跡から約30m歩くと、右側に牟佐神社の鳥居が建っていました。
創立年代不詳で,火災や兵火にあうが、元禄五年に社殿、明和四年に拝殿が造営される。
ご祭神は都美波八重事代主命
武佐宿の氏神様で、元々「市神大明神」とも呼ばれ、境内では古くから盛大な市が
立った。
ご本殿は覆屋の中に鎮座してます、
真ん中に市神神社でご祭神は都美波八重事代主命(つみはやえことしろぬし)。
境内社は金毘羅宮と稲荷神社、とである。
(ご本殿の後ろに社務所が有りましたが、珍しいのでは)
参道を戻ると右手にど~んと大木が立ってます。
御神木かな?注連縄のかけられた、ケヤキの巨木。
幹周囲4.46m,樹高30m,樹齢は300年以上経ているそうです。
神社を出て鳥居の直ぐ先の右側、ごみ集積所箱前に高札場跡があり、
標板が建っていました。
向かい側の鉄筋コンクリート建てに瓦屋根を載せた、瀟洒な建物は「武佐小学校」。
神社を後に秋の花々を愛でながら行くと、
左側に明治天皇御聖蹟碑が建っていて、右手には広済寺で、推古天皇2(597)年
聖徳太子が創建したと記されたとの案内看板が有りました。
約40m歩くと、右側に大きな冠木門の木戸風黒い門構えは、
かって奥村家が勤めた脇本陣跡で、後に武佐村役場となり、今は「武佐町会館」で、。
建屋左手には、これも大きな馬頭観音碑(文字塔)が見えました。
脇本陣跡すぐ先、左側に明治19年(1886年)に建築され国登録有形文化財に
指定されている旧八幡警察署武佐分署庁舎が有ります。
現在は、隣接する明治初期創業の古い料理屋・魚友楼の洋館という扱いになっている。
庁舎跡から約80m歩くと国道421号、と交差する、武佐町交差点で、
渡る手前右側はポケットパークで常夜燈モチーフの武佐宿碑と、将軍吉宗に献上された象が一泊した時の様子が描かれている絵図が建っていました。
常夜燈モチーフには「右はちまん約4km、右京都約48km、右いせ約120km、
右東京約460km」と書かれてました。
国道421は、中山道・武佐から鈴鹿山脈をトンネルで越え、東海道・桑名を
結んでいるそうです。
・・旧東海道と接触が近いことを伺がわせてるな・・
国道421を武佐町交差点を渡ると、右側に虫篭窓を今風に残し、可愛い暖簾を提げた
民家があり、左側に「いっぷく処」の袖看板を付けた虫篭窓の家がありました。
「いっぷく処」は店名のごとく武佐宿の交流館的な場所で、かつての和菓子屋だったとか。
いっぷく処から空き地をはさんで左側に、補修したばかりのような真っ白い漆喰壁、
虫篭窓の建屋が有ります。
標識が建っていませんでしたが、大橋家役人宅跡と思われます。
街道書には、400年以上の歴史を持つと云う宿内最古の建物で、十五代目、金左衛門は伝馬所取締役を務めた、とあります。
役人宅のすぐ先右側に、かつて駄馬・人足を常置した「伝馬所」だった跡の、
宿場風情に合わせた現武佐郵便局があり、古い黒「書状集箱」を模した
現役の郵便ポストが置かれてました。
隣は、白漆喰も綺麗な代々下川七左衛門が勤め建坪262坪だった本陣跡があり、
本陣門と土蔵が残っていました。
本陣跡の斜め向かいに空き地が有り、宿内で良く見かけた武佐小学校の卒業記念制作の
標識がフェンスに掲げられ、旧旅籠・中村屋跡がありました。
現代まで営業していたそうですが、残念ながら平成23年に火災が起き全焼した由。
約20m歩くと十字路があり、左角に八風街道道標があり、
石碑には「いせ ミな口ひの八日市道」「文政四年七月・・・)」とあります。
八風街道は東海道を経て鈴鹿山系の八風峠を越えて八日市至る道で、
近江商人もよく利用していた中山道と東海道を結ぶ通商路であった。
十字路を渡った右角にも道標が建っていて、安土浄厳院道道標と読めました。
(帰宅後調べてみると、「浄厳院は、天正5年(1577)信長により建立された寺院で、佐々木六角氏頼が建立した慈恩寺跡地にあり、同7年(1579)、信長の命で浄土宗と
日蓮宗の僧による仏教論争が行われたことで知られている」とありました)
道標の真向かい建屋の窓格子に「武蔵川越藩松平家の陣屋跡」との標識があります。
なんと武佐は、はるか関東の武蔵の国川越藩の飛び地、2万石だったんです。
(川越は家から車で30分くらいの藏造り街並み小江戸と呼ばれる城下町で、
国指定有形文化財の絢爛豪華な山車が行く祭りなど、関東有数のの観光地です。
柳沢吉保が城主の時代も有りました)
陣屋跡の先隣の左側に愛宕山常夜燈が建っていました。
陣屋後の先隣りの家前に、5段の鉢棚が有り鉢植が沢山おかれてます。
窓格子に「近江八幡の花、武佐りんどう」のプレートが有りました。
そういえば、武佐交差点のポケットパークにも「武佐りんどう」の説明板が
ありましたね。
むしゃりんどう(武佐竜胆)
武佐竜胆(武者竜胆)はシソ科 ムシャリンドウ属で、リンドウというより
タツナミソウに似た花で、武佐町で発見されたことから名付けられたといいます。
6月から7月にかけて茎の上部に淡い青紫・白・桃色の花を咲かせ、
近江八幡市の夏の花に認定されてるそうです。
現在では、北海道に少々自生している程度で、環境省のレッドリスト
(絶滅の危険が増大している種)の絶滅危惧Ⅱ類(VU)に登録され、
中仙道・武佐宿の地域ぐるみで、武佐では街を上げて「むしゃりんどうを守る」の
取り組み活動を行ってる由。
(帰宅後調べるとこんな花でした)
足を進めると、左手に向かう小路があり、白塗りの「←長光寺」と記された案内板が
立ち、向こう角には「従是三丁」と読める道標があります。
街道書には、徳太子が建立した49院の1つである元武佐寺(現、長光寺)に至る
道標と書かれてます。
立ち寄りませんでしたが、
「長光寺は,中世の紀行文にも登場する昔から近江の名刹であった。
寺の縁起によれば推古天皇の時代に聖徳太子が武川綱に命じて建立した寺で
「武佐寺」と呼ばれたと云う。本尊は聖徳太子の持念仏と云われる「千手観音」。
また境内には聖徳太子が当寺建立の証として植えたと伝えられる樹齢5~600年と 推定されている「ハナノキ」があり、参道の左手に「千体地蔵」がある」
と近江八幡資料にありました。
ここにも聖徳太子手植えハナノキがあるんですね。
きっと見事な紅葉になてるでしょう。
道標から約100m、右側に愛宕常夜燈と、その隣には注連縄を掛けた石碑が有り、
石碑は木の蓋がしてあるように見えるのが、火防の神「愛宕大神」だそうです。
常夜燈先の小路を越えて右側に、卒業記念で制作された「高札場跡」標識があり、
街道書では、武佐宿の西目付(京口)、とありました。
高札場跡から2,3分歩く、と街道は桝形の様に右手に曲がり、
近江鉄道八日市線の武佐駅です。
2019年11月24日(日) PM3:30
鳥居本から武佐宿へ、約24km。
歩いていて再び京の都へ、第37回、2日間の旅の足止めです。
駅は無人駅でホームで待つと、懐かしさを覚える塗装の電車が入線してきました。
懐かしいはずです、昭和の終わりくらいまでは利用していた、西武鉄道カラーでした。
近江八幡駅コンコースからの夕景
翌日 11月25日(月)は前日の予報では雨天で、少しくらいの雨なら寄り道、
と決めてたが、嬉しいことに青空も見える薄曇り。
寄り道は紅葉で知られる湖東山の二院、金剛輪寺、西明寺と多賀大社。
錦秋の古刹を堪能し、いい旅の締めくくりでした。
写真は、愛知郡愛荘町の金剛輪寺駐車場で写したマンホール。
「中央に町の鳥『きじ』を配置し,下方に町の花『つつじ』と町の木『うばめがし』,上方は稲と麦を配置して豊かな郷土を象徴し,バック全面に町章を置き,
町の限りない発展を表現したものです」との解説文が有りました。
(秦荘合いは愛荘町と合併)
紅葉模様はデジブックアルバム
金剛輪寺
西明寺
街道旅は初春までお休みです。
おわり。