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歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅 (第13回)松井田宿から坂本宿へ  前編

>平成28年6月18日、3年半をかけて東海道五十三次を旅し、
京の三条大橋に立ちました。
そして夫婦は旧中山道69次の旅、再び京を目指して歩いています。

 

>12月10日、午後4時17分、西松田駅前で12回目の街道旅を終えました。<

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寒気が流れ込み、16日は西日本各地で初雪が観測された。

家周りも雪が降ったか、と思わせるほど畑は真っ白な霜が降りていた。

明けて17日早朝、再び今年の〆となる街道旅へ出発。

予報では風も収まり日中は平年並みになる由だったが・・。

高速道を走り、前回の旅でも使用した、群馬県松井田町・JR西松井田駅・駐車場へ。

青空が広がるもまだ朝の厳しい冷え込み、そして強めの西風。

AM7:50、14回目の旅立ち。

真後ろに雪帽子の浅間山と左手に妙義山。そしてほんわり浮かんでるお月さん。

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 200mほど北へ行く東西に延びる旧中山道、県33の駅入り口十字路。

向う側へ渡ると数本の赤松下、墓地入口付近に、大小たくさんの庚申塔

馬頭観音などが並んでます。

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向かいが曹洞宗・補陀寺(ふだじ)。

(補陀寺・概要)市資料より抜粋

 補陀寺の創建は応永年間(1394~1428年)、無極慧徹禅師(肥前国出身、

室町時代曹洞宗の高僧)によって開かれたのが始まりと伝えられています。

歴代の領主である安中氏、武田氏から庇護され、天正10年(1582)からは

小田原北条氏の北条家三家老とも言われた、大道寺政繁が当地に配されると自らの

菩提寺としました。

天正18年(1590)、秀吉の小田原征伐の際し松井田城を一大要塞に大改修し、

寺も城郭に取り込み補陀寺郭と称されました。

小田原の役が始まると前哨戦の碓氷峠の戦いで敗退し、大道寺政繁は松井田城に

1ヶ月にわたり立て籠もりましたが前田利家上杉景勝真田昌幸が率いる

35000人の軍勢の前に屈します。

その後、政繁は豊臣軍に従軍し忍城や武蔵松山城鉢形城八王子城攻防戦などに

参加し大功があったものの小田原城が落城し北条家が滅ぶと切腹させられ、

松井田城も廃城となります。

「政繁の豊臣軍に対する貢献は非常に高いものでしたが、結果的には切腹になった為、江戸時代に加賀藩前田家の大名行列が通過すると政繁の墓が「悔し汗」をかくと噂されました(政繁と前田家には密約があったが反古にされ怨まれたとも)。

その後、補陀寺は現在地に再興された。

山門は切妻、桟瓦葺、本堂は寛政8年(1796)に再建されたもので寄棟、銅板葺、桁行9間。境内には政繁の墓碑と伝わる宝篋印塔が建立されています。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来准胝観世音菩薩

本堂

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大道寺政繁の墓所は訪れませんでしたが、本堂裏手にあるそうです。

境内内には由緒書きが無かったような・・・

尚、大道寺政繁の曾孫にあたる大道寺友山が、客分として会津藩にいたとの

説があるようです。

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中仙道に面した山門前に大道寺の墓があることを示す石碑と、寺域が松井田城跡の

説明板が立ってます。

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正面に浅間、左手に妙義山の異様を見ながら少し足を進めると、街道は左手下りの道へと入ってゆきます。

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右手に二基の石塔。一つは道祖神とあるが、もう一つは読めません。

後ろの溜池に氷が張っている。気温はかなり低いです。

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少し先、民家と民家との間に江戸から32番目になる、新堀の一里塚跡の案内板が

立ってます。

10m奥の民家の庭に、塚が残されていると記されてました。

少し先の道を左手に回り込むと、石灯籠のある庭が見えましたが、

ここが塚の名残かもしれません。

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そういえば、中山道分間延絵図:新堀の一里塚の画に溜池が描かれてるそうです。

先ほどの道祖神の後ろに溜池がありましたが、それが江戸時代からあった溜池??

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坂を下りきったところでJR信越線突き当り、そこで右手に街道をはなれ、

国道18号を切通しにかけられた橋を山側に渡ると、諏訪神社の小さな鳥居。

荒れた参道が奥へと続いてゆきます。

200mほど山奥の神社付近が、先の補陀寺山門そばにあった案内板、松井田城址

西郭(くるわ)の場所だそうです。

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神社には寄らず、右手に下ると金剛寺

(市資料より)

金剛寺安中市松井田宿)概要: 金剛寺の創建は長元年間(1028~37)、碓氷峠が毒蛇の棲家となり村人達が困り果てていたところ、源頼光の家臣碓氷定光が

弘法大師が自ら彫り込んだと伝わる十一面観音に祈願しました。

すると観音様の化身が現れ見事毒蛇を退治する事が出来た為、定光は観音像を

本尊として堂宇を建立しました。

その後、一時衰退しますが応永元年(1394)に慶秀僧都が中興、何度か火災に

あい貞享2年(1685)と享和3年(1803)にそれぞれ再建しています。

境内は広く整備され、東国花の寺百ヶ寺や関東八十八ヵ所霊場第三番霊場、十一面観世音菩薩、としても信仰を集めています。

山門は単層、切妻、桟瓦葺、三間一戸八脚門。

本堂は寄棟、銅瓦棒葺、平入、桁行8間、梁間6間、正面1間向拝付、

外壁は真壁造、白漆喰仕上げ。 

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街道に戻り線路に突き当り。本来の旧街道は踏切を渡て南側へ延びてゆくのですが、

現在は先が消滅していて、今の旧中仙道は線路に沿って西へ向かいます。

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300mほど進むと、第10中山道踏切を南側に渡り、街道は西へ向かいます。

まだ気温は低く、時折吹き付ける北西の風が冷たい。

線路沿いに何台かの車が止めてあり、線路柵側に、大きな三脚が数台。

なにか特別な列車が走るのかな。

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踏切を渡り緩き坂を下りながら、右に左に街道はカーブしながら続きます。

上りになったところに、大きな岩を台座に安置されて、地蔵尊

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傾斜道を行くと、国18号との出会に、丸太道標や、文政10年(1827年)立てられた、二十三夜塔、明治になってからの山灯篭があります。

街道は国18号を横断ですが、信号のある交差点は50mほど先。

車の行き交い安全を確認して、ガードレールの切れ間を「それ!!」と横断。

ははは・・よい子の皆さんはマネしないでね!のテロップが流れるところですね。

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高速上信越道を抜けて進むと、間の宿でもあった松井田・五科集落。

理容店脇に庚申塔、二十三夜塔。

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松井田付近から塔が大きいわね、てカミさん。

そうです、割と大きい塔が多いんです。

街道らしい五科集落を行くと、→茶屋本陣の木柱標識。

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右手に道に入ると民家の庭に、五科村高札場跡の板案内。

奥JR線の踏切を渡ると、茶屋本陣跡。

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JR信越線を「お東踏切」を渡ると二軒の茶屋本陣(跡)

「お西」が本家、「お東」が分家のともに中島家が勤め、名主も兼ねていた。

文化3年(1806年)の大火で焼失したがすぐ再建され、お西は昭和48年(1973年」)お東は平成4年(1992年)、それぞれの中島家から市に寄贈

され、現在は公開されている。

(お西)

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(お東)

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お西の2階は資料展示室となっていて、生活道具、古文書また地域出土の

古代土器などなど大変貴重な品々が展示されています。

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管理されていた女性との話の中で、今日はSLが走ると、教えていただきました。

撮鉄さんが並んでいたのが納得です。

ゆっくり拝見し、帰りにはいろいろなパンフも頂きました。

ありがとうございました。

東本陣をでて隣に、杉木立の中に石塔や石祠が建ってる所がありました。

近寄ってみると石畳みが敷かれた参道らしきものが、線路方向へ延び、

脇には石塔も数基ありました。

先に小さな鳥居が建っているので、線路が分断する前は神社として祀られていたんでしょうね。

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 街道に戻り旅を続けます。

天徳4年(1714年)立てられたと言われる男女双体道祖神

街道案内には、村境に立つとありましたが、横川村との境だったのでしょうか?。

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街道は道なりに進んで榎踏切で信越線を横断、山裾の道、丸山坂となって

上って行きます。

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丸山坂の道端の草むらに丸石の道祖神、坂道山側に数基の庚申塔、石仏。

左手崖上にも道祖神

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そして坂を上り切った小さな峠上に、妙義山を背景に夜泣地蔵尊と大きな石。

*昔、ここを通った馬方が荷のバランスをとるために脇に落ちていた地蔵の首を乗せて

深谷まで行き、首をそこに捨ててしまった。

その後、夜な夜な「五料恋しや」と泣く声が聞こえるので、深谷の人が哀れに思い、

この首を拾い五料まで運んで、胴に乗せてやったという*

そういえば東海道の浜松宿だったかな、やっぱり泣き地蔵さんが居たね。

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手前に小石が乗ってる大石が、案内板に石で 叩くと空の茶釜のような音がすると

書かれていた「茶釜石」

カミさんが何か所かたたいたら、あら音が変わったわ!

確かに一か所だけ鈍い音から、軽い金属音のような響き。

こんな大きな石、どこから来たんでしょうね。

 

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坂道を下るとのどかな里山風景が広がってます。

大きな桐の木が三本、空を突くように立ち、桑畑には観音像の立つ馬頭観音

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少し先にも文政十年と刻まれた馬頭観音さん。

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一段高い傾斜地に常夜燈と二十三夜塔。

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 のどかな里山集落を抜け坂道を下ると、丸太道標。

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 馬頭観音を見ながらさらに道を下ると信越線路わきの道へ。

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さっきから里山の 細い道を何台ものも車が行き来してました。

少し先に街道歩きの方々の話題になる「御所平踏切」があります。

信越線は伏線で手前が上り線、踏切を渡ると一段下がって国道との狭い間に

下り線が通ってますが、ははは・・・・話題のように下り線に踏切が見当たらない!

国道側はガードレールで切れ目もないんです。

きちんと整備もされてる踏切ですが、何のための踏切なんでしょう?

下り線の手前側が幅は狭いが畑の様です。まさかその畑へ行くだけの踏切??

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謎の踏切から300mほど行くと高墓踏切という変わった名の踏切で線路横断します。

線路の南側に広がる里は御所平地区。

踏切手前、山斜面の杉木立の中に雨覆(屋根)を載せた赤い両部鳥居と石段奥に

碓氷神社。

創立年代は不明ですが、碓氷峠熊野神社の里宮だそうです。

ご由緒によると、建久年間(1190-99)には源頼朝の信州浅間の牧狩りの際,当社に

祈願し境内に御所を置いたため,以来この地を「御所平」と呼ぶようになった。

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神社前の線路沿い道は何台もの車が行き来し、路肩駐車もしています。

SL運行目当ての撮影スポットのようです。

神社横に石積みで一段高くなったところに墓地があります。それで高墓踏切?

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踏切を渡り国道18号を横切って、リンゴ畑や石仏石塔を見つけながら、

どかな御所平集落を歩きます。

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 街道は国道18号に当たり、少しの間合流しますが、18号の右手にコンビニが

あったので、トイレをお借りし、Caféタイムで足休め。

SLが来たよ!の声に表に飛び出すと,D51蒸気機関車に引かれ列車が通過中。

う~ん、味がありますね・・・思いがけないプレゼントだ。

 

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 Caféタイムを終えて国道を10mほど行き、右手に石の祠がある

小山沢川を歩行者用橋で渡ると地名は横川。

すぐに小沢山信号で旧中山道は国道から離れ左手へ坂を下ってゆきます。

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100mほどの短い旧道歩き、再び国道との出会い手前、欅の木脇に

百合若大臣が妙義山を射抜いた伝説の「百合若大臣の足跡石」

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妙義山中には二つの穴が開いた星穴岳という岩峰があり、それが射抜かれた

穴なんだとか。

百合若大臣が射たと言われる弓矢が、妙義山麓の妙義神社に奉納されているそうです。

どこかで似たような伝説話を耳にしたような・・・

同じ場所の右手に、謂れは不明の龍を掘った石碑が立ってました。

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左手に石の祠に石仏、両脇に石灯籠。

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 旧中山道は国道18号と合流、

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 400mほど進み下横川信号で国道を横断、さらに第15中山道踏切を渡って、

線路右側を横川集落へと向かいます。

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 集落が近づいた土手には早春の花がもう咲いています。

名が可哀そうな小さな青い花は「オオイヌノフグリ

ピンクの「ホトケノザ」に「冬知らず」の黄色い花。

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街道の面影を残す緩く蛇行する道は、横川集落へと続いてゆき、丸太道標には

、⇒坂本宿2.5km。

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旅はさらに続きます。

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