*ひょいと歩き出した東海道五十三次。
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*
9月17日、18日に所用がなくなり、天気もいいからと、
いつものように「じゃ、ゆくか!」で急遽の旅立ちをし、
美濃の国へ第一歩を印し、美濃路、2宿目の中津川宿到着。
当初から旅への予定していた9月23日、24日も、天気が良さそうで。
予定道理に旅立ちです。
彼岸の墓参りは22日に済ませて、
23日、いつものように早朝に出立し、マイカーを走らせAM8:50、
車だけ駐車させてもらい、恵那の駅から電車で中津川へ向かいます。
恵那市は、22日(土)23日(日)と実りの秋を楽しむ恵那市の一大イベント
「みのじのみのり祭り」の真っ最中。駅までのメインどおりははビッチリと
露店が並び、広場広場はいろんなイベント会場となり、大勢の人が準備で大賑わい。
夕刻にたどり着く予定の恵那市(大井宿)を後に、電車で出発地の中津川市へ
向かいます。
恵那駅でも大勢降りましたが、電車はそれでもほぼ満員状態。
中津川駅へ着くと、ど~っとほとんどの方が下車!
えっ、まさか馬籠、妻籠への観光客??それにしては若者ばかりだね??
聞いてみると、かっては東京武道館で開催され、今は中津川公園内特設ステージ
に移って開催される、3,4万人くらい集まるという大ロックフェスティバルへ
向かう人波でした。
前回足止の中津川橋の袂へやってきました。
広重画 中津川宿・中津川橋
9月23日(秋分の日)AM10:30、
あらためて出立ショットから、第30回目の旅のスタートです。
雲多けれど青空も広し。気温は高め予報ですので夏日姿。
やはり秋、吹く風の心地よさで今日もいい旅になりそうです。
中津川を中津川橋の歩道橋で渡ります。
中津川は恵那山に源を発し、下流で四ツ目川を合し、流末は木曽川に落合います。
中津川橋を渡ると右・柳町、左・駒場町(こまんば)に入ります。
緩やかな上り坂を進むとY字路に突き当たり左の坂道へに進みます、
この分岐点には津島神社参道道標と歴史の道青色道標「←中山道↓」があります。
上り坂の右手段上の竹林下に彼岸花彩られて、石塔群があります。
右から明治37年(1904年)建立の馬頭観世音文字塔、
文化12年(1815年)建立の奉納西國巡拝供養塔、文化三年(1806年)
坂道を上り切ると駒場(こまんば)の集落をすすみます。大きく左に曲がった先で
Y字路となり、街道は右手に進みます。
右折して100m程左手に高札場を示す石柱が建ち、屋の板壁に高札3枚が
復元掲げられています。駒場村の高札場跡でした。
う~ん、なんて書いてあるのかな~??カミさんと判読をこころみましたが・・
緩やかな上り坂を進みます。ハイハイ、右見て左見て、もう一度右を見てね・・
次いで右手にいろいろ趣向を凝らした小庭造りがあり、
右端に東山道自然石道標が建ってます。
「左 大井駅(おおいのうまや)/坂本駅/右 阿智駅」とあります。
駒場村は古代の道、東山道の坂本駅があった場所と推測されているそうです。
ここから西へ向かえば大井駅、東は神坂峠を越えて阿智駅へ至る。
しかし、坂本駅の位置については諸説あって、その場所は特定できていない
とも言われてるようです。
街道書には左手に、中山道自然石道標「左 江戸/右 京都」と有ったのですが、
見落としたようです。あとですらべ手見ると蔓性の木に覆い隠されていたようです。
次いで左手に中山道駒場村自然石道標「左 中津川宿/右 大井宿」があります。
前川を上宿橋で渡ると、正面にこんもりとした小手の木坂が立ち塞がっています。
正面に着くと、左りの石段、その下に草道を上る道に分岐し、小手ノ木坂石碑と
白板の解説パネルが建てられていました。
パネル解説では、左手に上る道は小手ノ木坂(コデノキサカ)といい、
坂の上に大きな「こでの木」があったからの由ですが、
カミさんが、どんな木かしら??、う~ん、判らん!
石段下の草道を登ります。
旧道を上るとスグに車道に突き当たり、横断して左上に行く石階段を上ります。
石段を上ったら、Uターンする感じで車道を右方向に進みます
Uターンして車道を進むと正面に石仏石塔群ののある分岐、
苗木道追分に出てきます。
そのまま直進する道筋は苗木道で、遠山佐渡守一万三千石苗木藩の苗木城下に
通じるそうです。苗木城は木曽川右岸に聳える城山に築城されていました。
追分にの右手には、道標「右中山道/左苗木道」、
道標「こでの木坂/左ひだみち」、そして津島神社常夜燈があります。
中山道は追分を左折してゆきます。
右手、小高い土手上に、曼殊沙華咲く石仏石塔群があります。
一角に双体一身道祖神の石柱が建ち、文化13年(1816年)建立の
双頭一身道祖神が祀られてます。
カミさんは一体ではなく「しっかり抱擁道祖神」の気がするわ!ての賜った。
先に進むと右手に上宿の一里塚は、江戸日本橋から85里目(約334km)。
南側の塚は消滅し、北塚が規模を縮小して昭和9年(1934年)の復元。
塚上に立つ石柱には「史蹟 中津一里塚址」と刻まれている。
塚の前(右端)には明治天皇御鳳輦前駆奉仕蹟碑があります。
小手の木坂は急峻で明治13年(1880)明治天皇の巡幸の際、駒場村の
青年達が待ち構え、懸命に馬車の先引きを行って通過させた由。
一里塚の傍らに祠があり、地蔵尊が安置されています。
台上の駒場村上宿集落を行くと、左側にトイレも備えた上宿休憩所があります。
寄りませんでしたが、こうゆう施設は今旅人には有りがたいですね。
中津川宿内の旧中山道はほとんどがカラー砂利が混じった舗装になっているので、
街道ウォーカーにとって道を間違えることがないので助かります。
カミさんが、右の実を見つけて、♬この~実、なんの実、気になる実~♭
ハイハイ、宿題だね・・
(オキナワスズメウリでした。秋深まると真っ赤になるんだとか)
左右に大きくうねる急な上り坂を進みます。
上り坂が緩やかになると幅員の広い車道を横断します。
先にコンビニが有ったようですが、建物のみ(白い建物)
元コンビニ前、左手に小石塚の立場跡(石柱)があります、。
この地は山村甚兵衛等木曽衆の領地であった千旦林村(せんだばやし)と手金野村
との境に位置し、数軒の茶屋があり、恋し塚立場とも呼ばれていたそうでっす。
向かい側に、寛永3年(1626年)建立の嵐讃岐(あらしさぬき)供養碑が
あります。嵐讃岐は木曽家の有力武将の一人で、千旦林に居を構え、千旦林八幡宮
の再建に尽力した人、とパネルに記されてます。
旧中山道は、先の国道257号線、国道19号線、中央自動車道の敷設で消滅して
います。
中山道案内解説横の階段を下り、千旦林地域へ入って行きます。
左右からくる国道19号と257号が合流の手前に出て、
国道257号線を横断歩道で横断して、国道257号線の歩道を左に進み、
JR中央本線の踏切を右に見て、国道9号とJR中央線に挟まれた道を行きます。
先の歩道橋を過ぎると線路沿いに右手に曲がって、中央高速インターの下を
回り込む道を行く、と街道書に有ります。
バイパス脇の出たところで、遠く先に食事処らしい看板が見えてました。
デジカメで拡大してみたら、チェーン店の牛丼店でした。
カミさんが、お腹が空いた~て言ってたので、少し早めですが立ち寄ることに。
何軒か店があるようなので、国道バイパスの向こう側へ行ける抜け道が
あるだろう、と、インターチェンジ下の道を回り込むと、消滅していた旧中山道に
復帰した付近で、国道バイパスを向う側へ抜けるトンネル有りました。
牛丼店で昼を摂るのは中山道旅では初めてではないかな?
大盛りを頼んでいた体格のいい若者が居ましたが、そのおおきさにビックリです。
ゆうに2倍以上は有りましたね。牛肉がどんぶりからこぼれんばかりでした。
12時20分、昼食を済ませ、またトンネルを抜けて旧街道に戻ります。
街道角にあった道案内板(青線を道が中山道、右手に現在地)
千旦林地域の集落を進み、木曽川水系の六地蔵川を六地蔵橋で渡ると、
おっ、ハナノキとシデコブシ。
中津川「岩屋堂シデコブシ群生地」、国指定天然記念物「坂本ハナノキ自生地」が
あるそうです。ハナノキて見たことないな~です。
右手の板塀先に、明暦3年(1657)の建立と言われる、六面に地蔵が
六体刻まれた石灯籠の形をした、六地蔵石幢(せきどう)があります。
その傍らには 宝永六年(1709)建立の南無阿弥陀佛名号碑も建ってます。
六道を巡って衆生を救い、極楽往生へと導いてくれます、中山道を行き交う旅人が
道中の安全を祈り、心の安らぎを得ました。
どこかでも見たな・・と記録を辿ってみたら、六地蔵石幢は中山道を歩き始めた
初期のころ、武州・浦和宿(埼玉)の真言宗豊山派の尼寺「成就院」で見たことが
ありましたね。
しばらく千旦林集落を進みます。
バス停先の右手に式内坂本神社八幡宮の参道口があります。
明治6年(1873)開校、松風義校(後の千旦林学校)跡、が有るそうです。
大宝2年(702)創建の古社で、天平2年(737)八幡宮が勧請され、
後に、先に供養碑のあった、嵐讃岐が再建に尽力したと言われる神社ですね。
本殿は参道を進み、JR中央本線を横断した250mほど奥に鎮座しており、
頭を傾けて通過です。
次いで右手に千旦林村の高札場跡(石柱)があります、千旦林村は立場で
この辺りは札の辻と呼ばれたそうです。
先に進むと左手の民家前に秋葉大権現常夜燈と小さな秋葉神社が祀られています。
高札場から230m、東巣川に架かる東巣橋を渡ると、
馬頭観音から約240m歩くと、Y字路分岐となり、街道は左方向に進みます。
この分岐点には手差し道標左「旧国道 大井町ニ至ル」、
街道の正面に、笠を置いたように見えるところからに由来する、
笠置山(かさぎ、標高1128m)が遠望出来ます。美濃路に入り、
進み行く先にけっこう目立って見えている山です。
田園風景の中を進み、右手に常夜燈が見えてきます。
弘化三年(1846)建立といわれる秋葉山常夜燈で、竿石には「秋葉大権現」、
「常夜燈」、「町内安全」と刻まれているそうです。
先へ進むと、常夜燈は右手に伸びる道端に建ってました。
鮮やかな色合いの植え込みを楽しみながら・・、
秋葉山常夜燈から約50mほど行くと、街道脇左に「弘法大師七十七番」の石碑が
建ち、草道を進むと段上に中平弘法堂があり、祠の中に石造弘法大師坐像が
二体安置されています。
太子堂から200m程、緩やかな上り坂を進むと左手に中平神明神社案内板が
建てられ、草道の参道を登った森の中に神明神社、他に津島神社と妙見社が祀ら
れているようです。神明神社は坂本神社八幡宮の境内社だったとか。
先に進むと下り坂になり、右手の段上に地蔵と石塔が祀られています。
再び上り坂になると右手に将監塚のパネルが建ってます。
大久保長安の後を継いで慶長18年(1613)より18年間美濃代官を勤めた
岡田将監善同の墓だそうですがどれが、塚であるのかは判りませんでした。
当時大井村には名古屋築城の際の材木番所が設置され、木曽材持出奉行として
当地に駐在していましたそうです。
将監塚から約200m強ほど緩い坂道を上ると、右手に三ツ家の一里塚跡の
石柱のみが建っていて、遺構は残されていません。
江戸日本橋より数えて86番目です。
一里塚跡の先で2車線道と交差し、街道書では千旦林横断地下歩道で車道を
横断するとなっていましたが、交通量も少なかったので車道を横断して進みました。
横断して道を下り再び急な上り坂を進むと、右手の石の祠の中に
さらに急坂を上ります。
美濃路に入ると短いですがアップダウンの連続です。
木曽路の比ではありませんね。
上り詰めると十字路に出て、街道書では手前に「馬の水飲池」と記されてるが、
見た目池らしいのが見当たりません。
左手を覗いていたカミさんが「水が見えるからここね」て。
すっかり水草などに覆われていた中に、確かに水が有りましたね。
池脇に歴史の道道標「←中山道→」があり、馬のマークが書かれてます。
街道は十字路を横断し、右手に坂本立場跡で石柱が建ってます。
千旦林村と茄子川村の境界だった場所で5軒の茶屋があったそうで、古くは東山道
の宿駅だったそうです。
立場跡から可成り急な坂本坂を下っていくと、左手に綺麗に並べられた石塔群が
現れます。ガードを潜ってさらに下って行とと、
くぐった先で街道は坂本川に突き当たり、ここを左折しさらにすぐ右折して、
坂本橋を渡り旧茄子川村に入って行きます。
橋を渡ると右手のちびっこ広場に、坂本観音様由来碑が建ち、奥に坂本観音堂が
あり、延享二年(1745)建立の馬頭観音が安置されています。
いい雰囲気を感じる、茄子川の集落に足を進めてゆきます。
ゆるく登り坂道を行くと分岐となり、分岐左手段上に茄子川村の高札場跡(石柱)
があり、茄子川(なすびがわ)村の東口です。
昔、この地の殿様が亡くなると鳴り物禁止の触れが出ました、
村人は鳴り物と生り物を勘違いし、収穫間近の茄子を川に捨ててしまった
といいます。これが地名の由来となりました。
落語みたいな由来が資料に有りました。
村内を進むと右手の田の前に尾州白木改番所跡(石柱)があります、木曽産の
白木材の抜荷を厳しく取り締まりました、明治四年(1871)廃藩置県の
措置によって番所は廃止されました。
千旦林川を渡ると、左手の所に長連寺薬師堂解説があります。
この辺りに織田信長の家臣森蘭丸が天正十年(1582)岩村城主になった際に
建立した薬師堂がありましたが後の兵火で焼失しました、と案内板にありました。。
大井宿から1里(約4km)、中津川宿から1里23町(約6km)の地点にあったので、
茄子川村は間の宿として、茶屋本陣がありました。
少し行くと左手に、茄子川茶屋本陣篠原家があります、
篠原家は加賀前田家の重臣篠原一孝の子弥右衛門が十七世紀の初め頃、当地に移り
住んだことに由来し、酒造業を営み、参勤交代の大名の休息所も勤めてきました。
篠原家の当主は代々長八郎を名乗り、茄子川村の村方役人、尾張藩の庄屋、戸長等
を歴代にわたり勤めたそうです。
建物前に明治天皇茄子川御小休所附御膳水碑があり、皇女和宮、明治天皇が
休息した部屋、厠(かわや)、表門等は当時のままに保存されているそうです。
追分の両側には秋葉大権現常夜燈があります。
手前の常夜燈は享和三年(1803年)、向いの常夜燈は安永五年(1776年)
の建立で、「是よりあきはみち」と刻まれています。
秋葉大権現は、いわずと知れた火伏火防の守護神です。
先に進むと左手の畑の前に歴史の道中山道茄子川解説があります。
江戸時代初期の茄子川村は、御三家筆頭の尾張徳川家給人の山村氏(木曽方)、
千村氏(久々利方)、それに旗本馬場氏ら八名の入相支配地であり、
村高1368石余はこの付近では大きな村の一つでした。
名産の茄子川焼は天正6年(1587)の頃から始まりといわれ、飯田方面から
物資を運んできた帰り馬が茄子川焼を信州に運び人気を博しました。
スグ先の十字路を直進します、この十字路には道標標識「←この道は中山道→」
があります。
ここから先は上り坂の里路を、しばらく心地よい秋風を受けながら足を運びます。
道路は古い家並みを抜けて、上り道となり、
民家の庭先の地蔵尊をなどを観ながら 田んぼの広がる道を抜けてゆくと、
左手に江戸時代から陶磁器の生産をしていた茄子川焼窯場跡が有りました。
中山道道標と茄子川焼解説パネルが建っています。
標板には「茄子川焼は天正10(1578)年頃、瀬戸の加藤吉右衛門が諏訪の前窯場に来て、施釉陶器を焼いたのが始まりで、木曽飯田方面からの帰り馬が茄子川焼を信州に運び人気を博した」と記されていました。
坂を下り、左右に実りの田園が広がります。
右手に市境の標識が立ち、左手に「中山道 是より大井」と刻まれてた大きな
中山道碑が建てられてます。
中津川市茄子川から恵那市大井町に入り、江戸から336.9kmになるそうです。
続きます。