歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第18回)  長久保宿~和田宿 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*

 

2017年10月17日 江戸から27番目、長久保宿へ着きました。
現在の長野県小県郡長和町長久保

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 10月25日(水)、台風が過ぎても雨が続いています。

この週末は天気が崩れ、台風の襲来も予報されていた。

10月28日の土曜に予定していた街道歩き旅も、可否が怪しくなってきました。

天気予報を見ていたカミさんが、

「土曜はダメそうだけど明日木曜は晴天だそうよ、思い切って行かない?」

カミさんのパートも休みということもあって、

「行っちゃうか、思い切って」と急いでバス時刻を再確認して街道案内書を

コピーして旅立ち準備。

10月26日(木)、バス連絡時刻もあるので、

いつもより早め、AM3:30頃に自宅をマイカーで出立。

関越、上越高速を走り、先日越えた笠取峠を走り抜け、

冷え込み厳しい、長野県長和町和田の道の駅・和田ステーションへ

AM6:20到着。

いつものカップ蕎麦で朝食、支度をして歩いて5分ほどのバス停へ。

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ここは本来ならば、歩いて到着するはずの和田宿のど真ん中のバス停。

ここから一旦長和町巡回バスにて前回の足止め先、長久保宿へ向かい、

再びこの地を通って和田峠方面へ向かいます。

横断木橋歩道は、冷え込みで凍りつるつるでした。

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長和町巡回バスは、なんと運賃は全線100円。

年齢割りもあって、私は半額で、二人合わせても150円とは!!

通学の中、高校生と一緒に、20分ほどバスに揺られ長久保バス停着。

 

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AM7:40、長久保宿・竪町と横町の曲がり角L枡形の角より、

第18回目の旅立ち。奥へ延びる中山道へと歩みます。

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左手に、出桁造りで総2階建ての母屋は江戸時代末頃の建築,

元旅籠辰野屋(竹重屋)が有ります。

f:id:hansui:20171027173522j:plain旅籠辰野屋を過ぎたところで、宿場内の旧道は横町バス停を過ぎ、

桝形(長久保宿京方)となって右に曲がり、

 

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すぐに左に折れて長久保横町交差点で、笠取峠から下って来た国道142号に合流。

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合流手前の太い丸太に「是より久保宿」と書かれている。

(ありゃ、文字の方から写してないや!)

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しばらく国道142をの緩いくだり坂を行くと、

左手土手に文化10年(1813年)に立てられたという「馬頭観音」と石仏。

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長久保交差点で国道152号線の大門道に合流する。

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和田宿までおよそ8km。

長久保宿の標高は680m,和田宿が850m,標高差およそ170mの

長くゆるい上り道となって行きます。

f:id:hansui:20171027181611j:plain畑の広がる長閑な道を歩きます。

 

f:id:hansui:20171027181740j:plain進行方向右手にある「中山道」という屋号の食堂。

店前に道祖神と謂れ版

f:id:hansui:20171027181928j:plain併合国道142号、152号線をおよそ400mほど行った、右分岐の道を下ると、

日本橋から48番目,碑が立つのみの失われた「四泊一里塚跡」。

昭和35年(1960年)の道路改修以前は榎の大木が植えられていたそうです。

f:id:hansui:20171027182927j:plain畑の中の道を進みすぐ国道に戻り、すこし先の右手に、

明和11年(1774年)建立と言われる道祖神が在ります。

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その先交差点で国道142号は右に分岐し、依田川と大門川の合流点の「大和橋」を

渡りますが、旧中山道は橋を渡らずに川沿いの国道152号(大門街道)へと

150mほど進み(写真左下)進み、落合橋で川を渡ります。(写真右)

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 大門街道(現国道152)は、

長野県上田市から、この先大門峠を経て白樺湖を通って甲州(山梨)へ縦断して、

静岡県の天竜川や支流の水窪川に沿って浜松市街に下る国道路線です。

武田信玄が京をを目指した街道でもあったのですね。

大門川を同じ名の”落合橋”で渡り、渡ってすぐの右手傾斜地の草に埋もれるように、すっかり風化してますが庚申塔百万遍供養塔が建ってます。

街道書に記載がなかったら、見逃し通過してしまいますね。

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そのさきで依田川を"和田橋”で渡り、川沿いに進んで土手を上がると

再び国道142号に合流します。

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中山道は、新青原橋手前の青原交差点を右折して、国道142号線から

分岐してゆきます。

青原交差点角に「水明の里」の大きな石碑が立ち、旧中山道に立っていた石仏群や

休憩所や休憩所などが整備された公園となってます。

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国史跡「歴史道中山道」指定碑が立ってます。

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日差しが強くなり、地面からは蒸気霧が発生しはじめてます。

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 のどかな道を進むと、藁葺屋根の深山口バス停が現れる。
和田宿への道沿いは、この様な凝った形のバス停が次々と現れる。

和田宿を通る中山道が国指定遺跡となったことから、それに相応しいバス停を、

と造ったのだとか。

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しばらく進むと左手道路わきに数個の石碑が在ります。

燈篭には「天王夜燈」と彫られ、後ろには宝暦2年(1752年)の銘がある

「西国三十三**」の石碑もありました。

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右手の会社敷地の建物脇に小社と石碑は馬頭観音

小社は安全操業を祈るための神社かな?

(街道書にも謂れ記載なし)

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そのすぐ先の製材所の脇に地蔵尊や石仏石塔が有ったようですが、通り過ぎて

しまったようです。

下和田中組バス停後ろに「馬頭観世音」

説明板は紙の印刷なので、読めない!

バス停脇に「ながわ半時散歩道」の道標、なにかな?

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すこし先に、鳥居が彫られた奇妙な石碑碑が立っている。
和田宿の資料では、ミミズを「蚯蚓大権現」として祀た蚯蚓神社で,

この周辺は「蚯蚓」と呼ぶ地の様で、住む人々の希望によって建立されたものだと

いう。
蚯蚓地区では,「ミミズの干物(はらわたを出して板の上にはりつけてた)」を

つくり,解熱剤として煎じて使ったらしい。

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すごい!モミジを横に這わせてるよ!

紅葉したの見たいわね~・・・てカミさん。

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道の左側には、「のみ水」と刻まれた石柱があり、湧水が流れ出ています。

旅人ののどを潤したであろう、水場だったのですね。

街道では何か所かに見かけましたね。

(ただ用心のために、飲みませんでしたが・・)

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この付近は茶屋などがあった立場跡と街道書にはありました。

残されている相馬家の門のようです。

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水場の道路向かい側に、立派な長屋門も在ります。

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少し先の農道の奥に大日堂があり五体の大日如来像が安置されてます。

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みみず道祖神から500mほどのところに、三千僧接待碑がある。

案内書によると,和田宿・信定寺の「別院慈眼寺境内に建立されていたもの」で、

「寛政7年(1795年)この地にうつされた」とあり、諸国遍歴の僧侶に対する

一千僧接待達成を発願して建立され、達成後に改めて三千僧接待を発願し、

「一」に「二」の字を書き加えた、との由。

ははは・・手抜きをしたんだね。

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 上立場バス停は神社造り

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街道書には道祖神とありました。

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左手商店のシャッターの前に、福寿と刻まれた石柱と福と刻まれた招き猫(福猫)が

並んでいるが、何時のものかは不明である。

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右手民家の塀下に地蔵尊が祀られてます。ありゃ植木の陰だ・・(左下)

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 街道右手に不動明王や、新しそうな獅子舞と子供たちの碑が並んでいます。

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気温がだいぶ高くなってきた街道を歩みます。

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おっ、この真っ黒い実は!栽培した?? それとも雑草??

調べてみると、

「牛尾菜(シオデ)はユリ科シオデ属の多年草

若い茎や新は山菜とされる。
根茎を乾燥させたものを生薬で馬尾伸筋(ばおしんきん)といい、

関節炎やリューマチに効く」  らしいが。

その後に民家の庭で鉢植えされtのも見かけましたね。

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柳亦上バス停の先に、馬頭観音、福大大士(なんのことか不明)がある。

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少し進むと「道祖神」「奉納西国秩父坂東百番観世音」「馬頭観世音」

「水供養 水道之碑」などの石仏石塔群が在ります。

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石仏石塔を過ぎて少し先に、左手の鎮守の森の手前に、地下横断の出入口が

道路の左右に設けられえます。

信号機や横断歩道はなく、プレート道標には「←笠取峠⤵東餅屋・和田峠」とあり、

中山道(旧国道)を横断するための地下道と思われる。

ただ旧中山道は、横断して何処へ行くようになるのかは??です。

今はほとんど車も見かけませんが、現国道142ができるまでは相当な

交通量があって、設けられたんでしょうね。f:id:hansui:20171028122710j:plain

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地下道出入り口の左先に、大きな杉・ケヤキの木々に囲まれ,石造の明神鳥居が

建てられている「若宮八幡神社」が鎮座します。

杉・ケヤキは推定樹齢五百年と言われてます。

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鳥居奥の入母屋の拝殿(舞台)は壁が無く,一枚ごとに間を空けた板張りに

なっており、その奥に「本殿覆屋」があり、この中に享保8年(1721)に

建立されたという本殿が収められている

「本殿覆屋」は茅葺屋根と街道書に在りますが、茅葺屋根はつい最近修復された

ようで、茅葺は失われてましたね。

 本殿は,一間社流造.正面と側面に回り縁が設けられ,高欄は隅組擬宝珠柱混用

脇障子には,輪違文といわれる幾何学模様に,六弁花の彫刻が施されている

という説明があるが、薄暗くほとんど見えなかった。

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本殿覆屋の横に、天文23年(1555)の矢ケ崎合戦で武田信玄に敗れ自害した

和田城主大井信定父子の首級が埋葬されたといわれ、元禄6年(1693年)

その回向の為、信定寺第六世来安察伝和尚が、当境内にを建立した墓碑が立ってます。

ただ、右の石柱は「和田領主の墓」とありますが、左の石柱には

「羽田家先祖の墓」ともあり、和田宿の庄屋・羽田家かな??

ちょと意味不明。

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そのの先に江戸日本橋から49番目の一里塚「中山道上組の一里塚跡碑」があります。

塚は昭和35年(1960年)道路改修で失われてしまってます。

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さらにゆるい上り坂道を行くと左手に「きのこ種菌センター」の看板。

松茸菌は・・ないんだろうね。

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左に曲がり、右に曲がり手前は、トンガリ屋根の芹沢バス停

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 振り返ったカミさんが、

「雪山が見えてるわよ!」 冠雪の浅間山でした。

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少し傾斜が増した街道を行き振り返ると、青空に雪の浅間山、綺麗ですね~

方々の高い山々の冠雪が、報道されてましたね。

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そして和田宿が近づいて来たようです。

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気温がぐんぐん上がり、朝との温度差は予報のように10℃以上になりそうか!

大きな石碑が現れました、ここから和田宿へと入ります。

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続きます。

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第17回)  望月宿~長久保宿 後編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*

10月17日(火)長雨の隙間、次第に晴れる予報を頼りに、
 簡易雨コート着て、AM8:30、第17回の旅立ち。

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笠取峠頂上(標高は約900mかな)で、北佐久郡立科町から小県郡長和町

入りました。

後編です。

やれやれ、笠取峠の下りに入ります。

素朴に響く「峠」の言葉とは全くイメージが違う、大型トラックがびゅんびゅん

行き交う幅広い国道。

それでも茶屋を見て、ほっと一息したであろう、昔の旅人気持ちを感じます。

 

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道路の反対側には「学者村」?という興味を引く名称の石碑が立っています。

「学者村」とはこのあたりの長野県長和町の町営別荘地の名称のようです。

別荘地のためか、ログハウス専門の建築業者があります。

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道を下って行くと、峠乃茶屋、笠取峠と書かれた常夜燈、長野県知事吉村午良書の

笠取峠石碑が建ち、「ふるさと交流館 芦田宿」に展示されている笠取峠立場図の

レリーフが斜面の擁壁に埋め込まれている。

レリーフに描かれている立場茶屋は、国道142号線の笠取峠よりも数メートル

南に位置していたようで、峠の坂道を走る飛脚、峠の平地に建つ数軒の茶店で

休憩をとる旅人、武士、駕籠かきなどの姿が描かれている。

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とんとんと下ると、えっ、こんな所に?の「ペットショップ」

ああ、付近は別荘地帯だから・・f:id:hansui:20171020155950j:plain

さらに下ると「中山道」の案内標識があり、ここからは国道142を離れて、

右側旧国道に入っていきます。

この旧国道は、結構な急坂で、右に左にとヘアピンカーブを繰り返します。

(だいぶ前になりますが、一度だけ車で登りを走ったことが有ったね)

中山道は旧国道を進むのではなく、急坂のヘピンカーブで下る旧国道を
串刺しするようにショートカット下りの、中山道源道と言われる山道になります。

 

資料を見ながらカミさんは、さっさと旧国道の方へ。
つられて老いては妻に従え、後をついて二人とも道を下ります。

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だいぶ下った曲がりふきんで「変ね、左の源道標識が無いわよ!」ともう一度
街道書を確認。
見落としたようだな、でもすぐに合流するからこのまま行こう。

(後で写真を見ると・・赤〇源道標識 赤線進路方向へ入るんでした)f:id:hansui:20171020161123j:plain

 

 

ヘアピンカーブを曲がると下ってくる源道と合流。

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中山道笠取峠原道」と書かれた木柱が立てられ、樹齢150年といわれる

桜の大木。

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ここから、つづら折りになった旧国道を少しだけ下り、再び源道の標識に従って、

踏み跡感じの草道を下ります。

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朝まで降った雨ため小川のせせらぎ状態の道を下り、再び旧道に。

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いったん国道142号線と合流し、すぐに右の旧道へ入っていきます。

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しばらく旧道を行き、

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現れた標識に従って旧道から脇道へと入って行き、更にガードレール切れ目から

すとんと石段を下ってショートカットでぐんぐん下りが続きます。

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民家前の土手道を下り、再び旧道を横断、「松尾神社 長久保宿」と書かれた

標識に従いガードレールの切れ目から石段を下ると、長久保宿松尾神社の境内に

出ました。 

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1時間少し掛かって登った笠取峠も、源道のショートカットで直線的にぐんぐん下り、30分ほどで裏から松尾神社に入ります。

中山道は裏から境内を通って続いて行くようです、なぜかな??

松尾神社は 拝殿の由緒書きによると、

以前は、長久保の町裏、大欅の森にに鎮座していたが
小学校の拡張のため、昭和33年に現在地に移転したようです。

中山道が通っていたところに、後から神社が移って来たと言うことか。

これで、旧中仙道の境内通り抜けが納得です。

f:id:hansui:20171020175953j:plain松尾神社は、京都の松尾大社の祭神「大山昨命(おおやまくいのかみ)」を分霊し、

酒造の守護神として近隣の酒蔵家の信仰を集めているという。

(茂田井宿の酒造元なども笠取峠を越えて参拝したのではないでしょうか)

文政10年(1827年)に再建された拝殿。

左には樹齢200年と推定される御神木の保存樹、椹(さわら)の大木が、

頭上高くそびえ立っています。

(最近上の方は枝払いをしたようです)

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本殿

拝殿の後方、斜面に廊下があり、少し高い場所に垣に囲まれて流造の本殿がある。

諏訪の宮大工・三代立川和四郎富重の建築で万延元年(1860年)再建。

沢山の彫刻が彫られてるそうですが、薄暗くて見えません。

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松尾神社の創祀年代は不詳だそうですが、ちょっと調べたところ、
正親町天皇弘治3年(1557年)に再建された記録があると言われ、

数百年の歴史のある古社であろう。との記述が有りました。

社殿の右手に境内社が並んでおり、その横に塞神などの石祠。
境内社は左から、市神社、産泰社、伊雑皇社、金比羅社、八幡神社、白山社、

白山神社

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境内社の鳥居手前にちょと変わった注連縄が架けられた、2本の「御柱」が立って

います。

木札に「注連縄掛木建立 平成25年 松尾神社皇大神宮 式年遷宮御柱」と

記載されてます。注連縄をかけるための御柱なんですね。

御柱などの行事についてはよくわかりませんでした。

鳥居の原型なのでしょうね。

(前々回の、上、下の諏訪大社と小川村の御柱祭りの里曳に行ったことがありました)

 

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本殿の左手石段のうえには山神社と社名未確認の境内社

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五十鈴川を松尾橋で渡ります。

「あら、伊勢神宮のところを流れている川も五十鈴川だったわ、」て思い出す

カミさん。

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長久保宿本陣の石合家から寄進された、赤い鳥居を潜ります。

鳥居を抜けた先に、常夜灯と松尾神社の案内表示板が立っています。

このあたりが長久保宿の江戸方の出入り口でした。

 

 

 

 

 

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 長久保宿へ入って行きます。   

長久保宿長窪宿)は、慶長七年(1602)の中山道制定にともない、小県郡

領した真田氏の配下で、本陣・問屋を勤めた石合氏、問屋を勤めた小林氏が

中核となり、当初は現在の位置より西下の依田川沿いに宿場が設けられました。
しかしながら、寛永8年(1631年)の大洪水により宿場が流失したため、

段丘上の現在地に移り、本陣・問屋を中心に東西方向に「竪町」が形成され、

後に宿場が賑わうにつれ、南北方向に「横町」が形成されていき、特異なL字型の

町並みとなりました。

(資料館のパンフより)

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お江戸日本橋から27番目47里24町(187.2Km)、
       京へ88里10町 (346.7Km)
 天保14年(1843年)中山道宿村大概帳によれば、

総家数187軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋43軒、人口721名、
最盛期には旅籠の数は43軒となり、信濃26宿のなかで塩尻に次ぐ宿場でした。

江戸方に笠取峠、京方に和田峠、更に茅野に向かう大門道の大門峠などの

難所を控え、大内道、北国街道の分岐する交通の要衝に位置していたことから

大変賑わったといわれます。元々は長窪宿と表記していた。

広重画 長久保(大門川の落合橋と言われてます)

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木梯子でのぼる納屋の二階、軒下の藁、なにか懐かしい気持ちになります。

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 けっこう急な坂道を下ると、昔の屋号を掲げた家々が見られます。

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右手に丸木屋です。

江戸時代末の旅籠を改修し、現在は地域交流センターとして開放されています。

f:id:hansui:20171020213915j:plain竪町に入るとすぐ左手に、旅籠建築に多く見られる、総二階建て出梁造りの大きな

建物があり、一福処「濱屋」です。

明治時代の初期に旅籠として建てられたが、中山道の旅人が減ったため開業に

至らなかったという。

旅籠建築の歴史的建造物として後世に伝えるべく、町に寄進され

現在は無料の休憩所を兼ねる「長久保宿歴史資料館」になっています。

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中に入ると入り口に、来訪者記名簿があったので、記名。

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一福処「濱屋」長久保宿歴史資料館を出て、長久保宿の中心部へと入っていきます。

右手に、寛永年間(1624~)の建築とされ、中山道最古の本陣という

石合家本陣。

表門や大名の泊まった御殿の間が今も昔のまま現存するという。

当時の当主石合十蔵道定は周辺を支配した土豪で、真田家の家老職を勤めたが、

関ケ原敗戦後帰農したと言われます。

石合家が本陣そして問屋場も勤め、四代目当主石合十蔵には真田信繁(幸村)の

娘が嫁いでいる。

長久保宿歴史資料館には、慶長20年(1615年)石合十蔵あてた真田信繁(幸村)

の手紙が展示されてました。

要約では

「私ども籠城の上は必死の覚悟でおりますから、この世で面談することはもうない

かと存じます。 この「すへ」いろいろと御心にかなわぬことがございましても、

どうかお見捨てなきようお頼み申し上げます」。
死を覚悟の親の、娘への愛情・・いいですね。

 

本陣御殿は上段の間、二之間、三之間、小姓部屋などが今も残り、格調高い内装も

含めて、現存する中山道最古の本陣遺構と言われている。

現在も石合家の住まいで、公開はされていないです。

写真の門は江戸時代末期の建築だそうです。

 

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本陣の隣には高札場が復元されている。

大きいですね。

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高札場を過ぎて街道はもう少し下って行きます。

左手に古久屋の看板を下げた家屋が有ります。

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江戸時代、天保年間(1830~43年)頃の建築と推定される

旅籠「古久屋」(羽毛田家)です。

この時期の標準的な規模の旅籠建築として唯一現存する建造物で、

側面の壁の上部には旧主君・真田氏との関係を示す「六文銭」が描かれています。

二階の格子、屋号の吊ってある庇といい、江戸時代のその風情を伝えています。

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旅籠「古久屋」の手前の空き地と家屋の立つ敷地には脇本陣跡で、

示す標識が立てられてました。

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脇本陣の向かいは、江戸時代初期に酒造業を始め、長久保宿の役職も勤めた

釜鳴屋の竹内家です。

竹内家の建物は享保16年(1731年)以前の建築と推定される町家建築で、

屋根 には大きな「本卯建(うだつ)」をあげた風格ある構えの建物である。

このような卯建は“火煽り”とか“火返し”と呼ばれているそうです。

(卯建(うだつ)も街道旅や四国周遊で多く見かけましたが、この形は初めてでした)

 

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長野県最古の建屋と言われます。

敷地はなんと1500坪、建坪約百坪(330平方㍍)、もあったそうです。

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看板右手の縦格子戸中は、坪庭のような庭になってるようでした。

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釜鳴屋の斜め対面の建物は「問屋・小林家」。

宿場の草創期から代々「九右衛門」の名で問屋を勤めてきたのだとか。

建物は明治3年(1870)の大火で焼失しその後再建されたものだが、

2階の出格子が昔の面影を伝えている。

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宿場内の道が竪町から直角に左に曲がって横町に入る角に、現在も旅館を営業する

濱田屋が有り、今でも中山道を旅する人々に大変重宝されています。

中山道はこの先左に折れて、南北に通る横町を南へ進み和田宿へと向かいます。

(写真右)

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T字路の右折角には「中山道 長久保宿 左ぜんこうじ」と書かれた

道標が立っています。

このT字路の場所が善光寺へ通じる上田道との追分(分岐点)でした。

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今日はこのT字路が今日の歩き旅の足止めで、バスで上田経由で帰る予定でしたが、

長久保発のバス時刻に時間余裕があったので、濱田屋角を左折し長久保宿の外れ

ちかくのお寺まで足を伸ばします。

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横町をしばらく行くと旅籠・辰野屋竹重家の出桁造り総二階建ての建物が、

格子窓の重厚な佇まいを残し、江戸時代の旅籠建物の様子を伝えています。

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旅籠・辰野屋を過ぎたところで、宿場内の街道は桝形となって長久保宿の京方の

出入り口に当たり、右に曲がりすぐに左に折れて長久保横町交差点て国道142号と

合流します。

きょうはここで辰野屋手前を左へ入り、細い坂道を上り、峠から下って来た国道142を横断し、長安寺へ向かいます。

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創建は元和4年(1618年)依田川辺にあった宮昌庵(阿弥陀堂)を曹洞宗

道場としたのが始まりと伝えられています。

寛永4年(1627年)に当時の小諸城主松平憲良が開基となり

於大の方」(徳川家康の生母)の位牌を安置、さらに寛永7年(1630)

洪水で大破した堂宇を現在地に再建し、長安寺と改称しています。

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現在の経蔵は、江戸時代末期に建てられ土蔵平屋建て、外壁は白漆喰仕上げ。

明治4年(1871年)の火事で本堂他多くの堂宇が焼失する中、唯一当時の

建物として残されています。

経蔵の天上は格天井で、狩野派絵師の武重桃堂など多くの絵画で彩られ内部には

朱塗りの八角輪蔵で内部には大般若経600巻が収められているそうです。

残念ながら覗き窓もなく、中は見ることはできませんでした。f:id:hansui:20171021144023j:plain

長安寺をあとにして街道を戻り、長久保バス停へ。

長安寺境内から、この先足を進める山並みの先、和田宿方面を眺めます。

難所と言われる距離の長い和田峠越えが待ってます。

日本橋から北上し、高崎から西へと辿り、旧中山道はここから、

南へと向かうんですね。

 

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バス事務所で、長久保の駐車場について、アドバイスをいただき、

PM3:00発上田行バスに乗って

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 大屋駅で乗換、しなの鉄道、JR小梅線と乗り継ぎ、佐久平からマイカー

で帰路へ。

真田家つながりの宿場町、

昨年は街道沿いに、大河ドラマの幟が林立していたのかな~・ふっと思いましたね。

またいつの日か旅へ・・

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第17回、おわります

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第17回)  望月宿~長久保宿 中編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*

10月17日(火)長雨の隙間、次第に晴れる予報を頼りに、

 簡易雨コート着て、AM8:30、第17回の旅立ち。

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ここから坂を下り、しばらく歩くと芦田川が流れていて、その芦田川を橋で渡ると長野県道40号諏訪白樺湖小諸線に出るのですが、その交差点を渡ったあたりが芦田宿の入り口になります。

続きです。

 

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交差点は中居の交差点。

宿の入り口には「中山道芦田宿」と書かれた案内標識と、常夜灯が立っています。

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中居の交差点を渡り、芦田宿へと入って行きます。

芦田宿は、日本橋から26番目、46里8町(181.5Km)、
       京へ89里26町 (352.4Km)
天保14年(1843年)の中山道宿村大概帳によれば、

人口326名、総家数80軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋6軒。

宿長は約700メートルあったようです。

現在の長野県北佐久郡立科町芦田で、すぐ手前の望月宿よりもさらに規模の小さな

宿場町でしたが、難所であった笠取峠の東の入り口にあることから、

ここで休憩をとる旅人が多かったと言われています。

皇女和宮も降嫁の際にこの芦田宿の本陣で休憩をとっています。

芦田宿は、芦田村の浪人・岩間忠助と茂田井村の土屋右京左衛門重郷が、

神官の今井曽五郎とともに、慶長2年(1597年)に蓼科神社に納めた文書(願文)により、

新駅の設立を願い出たことが伺え,江戸幕府による街道整備事業(慶長6年)

よりも早い時期に設置され,北佐久周辺では最も古いといわれている宿場です。

 (広重画 望月宿  笠取峠ですが、松ではなく杉では、と言われてます)

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緩い坂を上り古町バス停の側に、道祖神が有りました。

バス停をお借りして、お茶タイム。

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道は緩い下り坂となり、芦田宿の中心へと入って行きます。

途中の民家に芦田宿の行灯。垣根下には道祖神もたってます。

f:id:hansui:20171019182623j:plain「芦田宿」と書かれたパネルが掲げられた街灯の並ぶ道筋は、

芦田宿に入ったことを示している。

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次の立科町役場入口交差点を過ぎたところで、道は東方桝形となり左に曲がります。

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まがって右手が「ふるさと交流館 芦田宿」です。

立ち寄りしませんでしたが、この施設では中山道の歴史や町の偉人、近隣の豊かな自然など、芦田の町の文化・自然・歴史をパネルや映像、ジオラマ等を用いて様々な角度から紹介しています。

また、平成29年4月に移住サポートセンターも併設され、地域の方々や旅人、

移住者等多くの方々の交流が生まれる場所として利用されてるそうです。

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隣りが町区コミュニティセンター

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あら、「町」?町名が「町」なら、ここは立科町・町町??て首を傾げたカミさん、

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隣りの立派な門構えのお屋敷が 芦田宿の「土屋家本陣跡」です。

当時の本陣は問屋も兼ねていたそうです。

本陣は宿場開設に尽力を尽くした土屋右京左衛門家が代々勤め、

往時は客殿、主屋、問屋場、荷蔵、酒造蔵、長屋など多くの建物があったそうで、

幕末の文久元年(1861年)には、皇女和宮が昼食を摂るために立ち寄っています。 

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現在も寛政12年(1800年)に改築された、唐破風(からはふ)の玄関、
京風の造りの本陣御殿が残っており、江戸末期の本陣建物の姿、間取りを伝えている。

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土屋家資料によると、

「この芦田宿本陣の初代当主となった土屋右京左衛門重郷は、あの甲斐武田家の

二十四将の1人、土屋昌続の長男で武田信玄の死後、信玄の跡を継いだ

武田勝頼が天目山の戦いで自害し、甲斐武田氏が滅亡したため、

芦田城主・依田信蕃を頼って落ちのび住まいし、その後は芦田宿の開設に尽力し、

芦田宿で本陣を勤める土屋家の初代当主となりました。」

「かつては「ふるさと交流館 芦田宿」までをも含む広大な
敷地があり、このあたりは“町(まち)”と呼ばれる集落だったそうです。」

これで、先ほどの「町」の謎が解けました。

土屋家には歴史を物語る数々の貴重な資料、道具などが残されているそうです。

本陣の見学は事前の予約が必要だそうで、個人では無理かもしれませんね。

 

本陣の対面には、芦田宿開設の中心人物のひとり、岩間忠助の分家である

山浦家の脇本陣跡でしたが、昭和52年(1977年)の火災で主家が焼失して

しまい、今は駐車場の隅に脇本陣跡を示す小さな「芦田宿脇本陣」と記された

標柱が立っているだけです。f:id:hansui:20171019205345j:plainそのすぐ先、芦田中央交差点の左向こう側に7枚の街道絵図を掲示してる建物角に、

脇本陣跡」と刻まれた案内標柱が立って、その右隣の空き地までが、

これも問屋を勤め、庄屋を兼ねた山浦家が務めていた もう1軒の「脇本陣跡」です。

江戸初期の建築様式が残っていた建物は、老朽化により取り壊され、

跡地の奥に土蔵が残っているのみです。

この山浦家にも多くの古文書が所蔵されているのだそうです。

 

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道の向かいには、古い造りの木造2階建ての建物があり、

味噌・醤油の蔵元、酢屋茂(すやも)がある。

昔は酢を醸造・販売していたが、明治の半ば頃から味噌・醤油の醸造・販売を

はじめたそうだ。。

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酢屋茂の斜め向かいに、現在も金丸土屋旅館として営業している、

旧旅籠の「津ちや」がある。

文政元年(1804)頃よりの旅籠屋で、軒下の庵看板には東側に“土屋”と書かれているが

西側は“津ちや”と書かれている。

江戸に向かう上方の旅人には“津ちや”のほうが馴染むのでしょうか。

建物は往時のもので、「津ちや」の、出梁(だしばり)造り、腕木(うでぎ)に施された

雲形の彫刻、煙出しを持つ大屋根など、奥行きが深い町屋家屋で、間口も広く

客室を襖で仕切る、昔ながらの旅籠の間取りを残しているそうです。

 

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さらに街並みを進み、

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芦田の信号を過ぎて、左手に“枝垂桜”や“紫雲の松”で知られる「正明寺」がある。

天和8年(1622年)開山、楠木一本彫の阿弥陀如来立像を本尊とする

真言宗智山派「正明寺」。
庫裡などの建物が無く、今は無住職のお寺のようですが、地元の方々が境内を
綺麗に整備されていているようです。

本堂の大屋根、素晴らしいですね。

トタンを除いたら、素晴らしい絵になりそう!

(かやぶき屋根をトタンで覆ってるようです。)

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 正明寺の桜は左右二本あり、樹齢が300年くらいかと思われる見事な枝垂れ桜です。

春の季節は素晴らしい光景が出現するんでしょうね。

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よく手入れされ、美しい枝ぶりの紫雲の松。

由緒などは説明板もなく、判りません。

根元を見ると根が繋がっています、根元で枝分かれ?

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正明寺境内には古墳もあったようですが、確認できませんでしたね。

街道へ戻る参道の垣根に蔓を巻き付け、そばの電柱にまで蔓を伸ばして、

紫いろの小さな花が咲いてます。葛?アケビ?ムベ?

 

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道は左手に曲がって行きます。

こらのあたりが芦田宿の京方の枡形だったようで、芦田宿西の出入口です。

付近には双体道祖神が旅人の安全を見守っていたようです。

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先は結構急な上り坂で、笠取峠へ向かって高度を上げてゆきます。

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上り切ると「芦田宿入口」碑があって国道に突き当たるところが石打場公園で、

「芦田宿」の案内標識や道路標柱など立っています。

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 「石打」は「石内」が本字で、「石内」とは「境界」や「災害除け」の意味が有って、       旧芦田村と横鳥村の境にあたる場所だったそうです 。

国道を横切り、「笠取峠松並木」の標識と「新しい常夜灯」との間の道へ向かいます。

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(そういえば、ここは春に通ったわね、とカミさんが思い出してました。

 そうです、花桃の季節に武石へ来た帰りに峠越えて帰ってたんです)

街道はすぐに旧道は登り坂の道となり、「笠取峠のマツ並木」と書かれた石柱が立つ

石畳の道となります。

ここから笠取峠を越えとなってゆきます。

松並木の入り口付近には、大日如来石仏や菅笠を持った旅装姿の「母娘の道祖神

も立っています。

ここからが、歩くのを楽しみにしていた、長野県天然記念物に指定された

「笠取峠の松並木」です。

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立科町公報によれば、

「長野県指定天然記念物。

笠取峠のマツ並木は、近世五街道の一つ中山道芦田宿の西方1キロメートル地点から

笠取峠にかけて約2キロメートルにわたっている。

言い伝えでは慶長七年頃、公儀より赤松苗753本を小諸藩に下付され、

近隣の村むらへ人足が割り当てられ小苗を植え付けたとされ、幕末まで

手入れ・補植等管理されていた。

現在総本数68本の松は、いずれも樹齢が150~300年以上経たもので、

その景観は往時の中山道をしのばせてくれるみごとなものである。
立科町では平成五年に、「松並木公園」として整備し松の保護に努めています。」

 笠取峠は標高は約900mで、長野県北佐久郡立科町(芦田宿)と長野県小県郡

長和町長久保宿)との境にある、旧中山道(及び国道142号線)の峠です。
笠取峠の名称由来には、

 

「余りにも勾配が急な坂だったことから、旅人が夏の暑い時など大量の汗をかき、

頂上付近になるとついつい頭に被っていた笠を取って汗を拭いたから」とか、

「峠の辺りは強い風が吹いて、旅人の笠を吹き飛ばすことがあったことから」

とかのイソップ物語風から

「旅人が峠通った途中、頭の笠を取って浅間山の絶景を眺めたから」とか

いろいろで、みんなそれらしいから面白い。
現在は国道142号線を迂回させ、この貴重な松並木を保護しています。
途中に道祖神や歌碑が幾つも並んでいます。

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途中に国道142号(現中山道)と交わると手前に、東屋、トイレなど設置された

松並木公園が有ります。

昔、ここにはちょっとした出茶屋が置かれていたそうです。

お昼も近いので、東屋で昼食を兼ねて一休み。

お昼は相変わらずの機能食品です。

この休憩所には「和宮東下の行列」や「笠取峠の茶屋風景」などのレリーフ

さらには「松並木説明板」や「歌碑」などがあります。

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しばしの休憩、足も休まったところで、峠へ向けて出発です。

すぐ先で国道142号線のバイパスに当たり、街道は横断して先へと延びてゆきます。

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の国道に当たった中山道左右には、文化3年(1809年)小諸藩が建た、

小県領(上田藩)と佐久領(小諸藩)との境界を示す「従是東小諸領」の領界碑や

道祖神、常夜灯が復元されてます。

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 国道142号線の笠取バイパスは、和田峠を越えて長野県の軽井沢町下諏訪町を結ぶ

主要道路で、北関東と東海・関西を結ぶ最短経路として大型トラックの通行が多い

国道です。

中山道はここを横断しますが、信号機はおろか横断歩道すらありません!

今日は平日なので、ビュンビュン大型車両が行き交います。

(右を見て、左を見て右を見て、それっ、渡れ~・・ああ、渡れたね)

 

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再び松並木が続きます。

この松並木は江戸初期に753本植えられ、調査では大正13年(1924年)に

229本、昭和46年(1971年)には129本が確認され、

最近平成22年(2010年)の調査では70本の古木が現存しているのを確認してます。激減してしまった松並木ですが、街道にはやっぱり松並木、いいですね~。 

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300mほど進むと国道142と合流し松並木は消滅してしまい、大型車などが

轟音をあげて行き交う国道の歩道を峠頂上へと上って行きます。

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 国道142号線の登り坂の勾配は、緩るそうで結構きつく足が進みません。

いつものように周りの風景を楽しみながら、ゆっくりゆっくり進みます。

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「あら、排水の管が上向きなのに水が流れ出てうわよ」てカミさんが指さす方を

見ると、確かに排水管は上向き方向、でも水は流れ出てる。

目の錯覚じゃないね~

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左奥の方に民家が木々に隠れて在ります。

道路沿いのお墓や田んぼは、あの家のでしょうか?

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なんて亀の子足でも進んでゆくと、勾配がゆる峠に近い傾斜地に、江戸のから47番目の一里塚「笠取峠一里塚」の北塚のみが残っています。

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登り坂で続いていた車の登板車線の終わり表示が見え、峠頂上が近いことがわかり、

先で長和町の標識が見え、笠取峠の頂上へ来たようです。

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北佐久郡立科町から小県郡長和町に入りました。

 

後編へ続きます、

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第17回)  望月宿~長久保宿 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*

 

秋の長雨とはよく言ったもんです。

3日ほど前から降り続く秋雨。

何気なく天気予報を見たら、あれ、長野の佐久、立科地方は明日は晴れるぞ。

すかさずカミさんが、「明日は仕事が休み、行ける時にいきましょうか」

で、急きょ17日(火)中山道夫婦歩き旅の第17回目へ旅立ちへ。

旅は日帰り継ぎ足し旅なので、街道への行き帰りまではマイカー利用。

駐車場、電車、バスの時刻を確認し、

今回の旅は16回足止めの、望月宿を出発地にし

望月宿~芦田宿(現立科町)  5.6km

芦田宿~長久保宿        5.7km

   計          11.3km

場合によっては芦田宿で足止めし、寄り道するかも。

雨の高速道を走り、AM7:10、前回も駐車した長野県・佐久平駅前駐車場着。

そろそろ雨が揚がる予報だったが、まだまだ雨脚が強い。

ここから千曲バスを利用して、足止めした望月宿へ向かい、望月資料館前から

旅立ち予定。
 バスはAM7:51発、次がAM9:01発。

しばらく様子をみるか、望月へ着くころには上がっていることを期待して、

予定通りバスに乗って向かうか・・・・

「雨は上がるの予報なんだから、最初は傘さしでもいいんじゃない」

とのカミさんの言葉で予定通りのバスへ。

バスが出る頃には雨脚はかなり弱まり、望月へ着いた頃には嬉しいことに

止んでます。

念のため傘を持参してましたが出番はなさそうでした。

 

 

【望月宿】 日本橋から25番目45里(176.7Km)、京へ90里34町 (357.2Km)
 天保14年(1843)で人口360名、総家数82軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋9軒。

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簡易雨コート着て、AM8:30、第17回の旅立ち。

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前回少し歩いた街並みを抜けると、望月宿のはずれに建つ大伴神社。

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階段を登ると境内には江戸後期の道祖神が沢山集められている。 

延喜式内社 景行天皇四十年(古墳時代)の鎮座と伝えられ、現在の本殿は

延宝5年(1677年)に建てられたものですが、今は覆屋に収められて見ることが

できません。

この辺りを支配した望月氏の庇護を受けた神社である。

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 街道書によれば、

祭神である天忍日命(あめのおしひのみこと)は、望月の御牧を管理していた大伴氏の

祖神で、大伴武日命(おおともたけひのみこと)とも呼ばれています。

祭神が馬に乗ってこの地へ来られ鎮座したとされており、乗って来た馬を種馬として

駒の改良繁殖をはかリ、この地は多数の馬を産する地となって、望月の駒が

有名になったことから、大伴氏は朝廷より「望月」姓を賜り、

信濃国最大の望月牧へと発展したといわれます。

毎年8月15日に奉納される例祭「榊祭り」(佐久市指定無形民俗文化財)は

信州の奇祭とも称される特殊神事で、松明山から松明を揚げて望月橋まで一気に

駆け下り、その松明を橋から鹿曲川へと投げ込み五穀豊穣や無病息災を祈願します。

 

*鹿曲川(カクマガワ)は蓼科山に源を発し、上流部には紅葉で知られる春日渓谷が

ありますね。流末は信濃川と落ち合います。

 

神社から少し進むと、ここが望月宿の京方のはずれ.。

望月宿を出ると旧中山道は、青木坂と呼ばれる鹿曲川の河岸段丘を登る

坂へ向かいます。

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御桐谷(おとや)西交差点を渡り、50mほど進んで、

左り大きくカーブ(奥の左斜めのガードレース)して分岐の急坂を登ります。

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坂を登り曲がり角に小さく馬頭観音

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さらにだらだら坂を上って行くと右手に「中山道→」の案内表示があり、

細い急坂道に入っていきます。

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けっこう急勾配の坂道です。

カミさんは後ろ向きで、景色を眺めながら上って行きました。

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振り返りの田園風景

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 途中に延享年間(1744~1748年)に建てられたと伝えられる、寒念仏供養塔が

立っています。でも、なんでここに??カミさん。f:id:hansui:20171018170249j:plain

坂を上り切り、国道142号線のガード下を左手に潜り、

右折してしばらく国道142号線と並行して進みます。

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曲がりくねる道を行くと交差点となり、左手に廃校となった小学校土地に、

「売地」の看板が立ってます。過疎少子化の波ですね。

旧道は望月宿西入口交差点から長野県道148号牛鹿望月線と合流すると、

道路右手に「御巡見道標」石標が有りました。

巡見使は江戸時代、幕府が諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した

上使のことで、天領及び旗本の知行所を監察する御料巡見使と、諸藩の大名を

監察する諸国巡見使があり、ここから中山道と別れ上田・松代・長野方面の監察に

向かったものと思われます。 

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右手に割と大きな開発造成住宅地を見ながら、しばらく坂道を上って行くと

峠の頂上に着いたようで、

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その先は県道から右に分岐した下り口に、「中山道茂田井入口」の説明板が

ありました。

下り道は、望月宿と西の芦田宿の間に設けられた間の宿・茂田井宿に入って

行くようです。

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道端に咲く草花を見ながら、道を下っていきます。

前方に“間の宿”茂田井宿が見えてきました。

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坂を下り茂田井宿の集落へと入って行きます。

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右手の山きわ斜面に小振りの神社が見え、街道書には神明社とありました。

10数段ほどの石段を登ったところに本殿があります。
案内板によると,

神明社の祭神は天照大神,雨乞いの霊験として崇拝されている。

宝永6年(1709年),茂田井村初代名主となった大沢茂右衛門が願主となり

建立された。
本殿はこの地方では珍しい神明造りとなっているため、神明社と呼ばれている」

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神明社を過ぎると、縫うように下る坂道の家並に、ハッと足が停まります。

街道書に書かれた
「道の両側に用水が流れ、漆喰壁の白さが町並みを美しく際立たせ、
民家、造り酒屋の建物が連なる坂道に、江戸時代の面影を色濃く残す
茂田井の街並みが続きます」

 

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間の宿は本宿の機能保護のために、旅籠をもつことを禁じられ休憩するだけでした。 寛保二年の大洪水で、望月新町が道ごと流されたり大きな被害を受けたため、

茂田井村を望月宿の加宿にしようと、江戸幕府に願い出たが却下された経緯がある。

 

茂田井地域は良質の米の産地として名を馳せていて、小諸藩主やその家臣達は

茂田井産の米のみを、わざわざ毎年江戸まで輸送させたほどだったといわれています。

今も豊かな水が音を立てて勢いよく道端の側溝を流れています。

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蓼科山の伏流水と地元の良質な米。

茂田井宿には造り酒屋が2軒あるんですね。

右手に重厚なたたずまいの門構えの建物が「武重本家酒造(叶屋)」です。

江戸時代末期の慶応元年(1865年)に建てられた住宅と

明治初期に建てられた酒造施設など、30棟もあるという現役の建造物が、

歴史的景観を伝える貴重な建造物であるとして、国の登録有形文化財に指定されて

います。

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杉玉(すぎたま)

スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物です。

酒林(さかばやし)とも呼ばれています。

日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを

知らせる役割を果たします。

「搾りを始めました」という意味でもあります。

吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としていますが、やがて枯れて茶色がかって

きます。

この色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を物語ります。

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その武重家の道を隔てて用水路傍の蔵の敷地に、若山牧水の3首の歌碑が

立っています。

一句に、

「人の世に たのしみ多し 然(しか)れども 酒なしにして なにのたのしみ」

資料によれば、

「明治、大正から昭和初期にかけて歌人として親しまれた若山牧水は、

旅と自然とともに酒をこよなく愛した漂泊の歌人として知られています。

その酒量たるや1日に1升以上を飲む大酒豪だったのだそうです。

しかしながら、酒と歌で人生の悲哀を昇華しながらの生涯は、43歳で肝硬変により

幕を下ろすことになりました。

若山牧水が生涯に残した約七千首に及ぶ和歌のうち、酒を詠ったものが二百首に

及ぶと言われています。

若山牧水は望月に歌友が多く、吟客としてこの茂田井の“間の宿”に長期間逗留したと

言われています」

岩村田にも歌碑が建てられてましたね。

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おや、凄い紅葉した樹、モミジでは?

歌碑の左側小路奥左手に、燃え立つように紅葉した樹が見えます。

近寄ってみると、見事に紅葉してる「モミジ」でした。

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すごいね、鮮やかに紅葉してる!!早すぎる!

なんて言いながら街道へ戻りかけると、

歌碑の側に植えられてる梅の古木を見上げてカミさんが、

「赤い葉、モミジじゃないかしら?」

なんと、確かに紅葉してる「モミジ」

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いや~ビックリです!

梅の古木の幹から紅葉が生えてるんです。

少し上の方にはまだ緑のモミジも葉を茂らせて生えてるんです。

何らかの理由で、空洞や幹の腐れなどのところに、風に乗って飛ばされてきた
種が発芽したのでしょうね。
それとも誰かが、モミジの種を空洞に植えた??

珍発見!!かな??それとも・・・

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少し歩いたところで、地元の方にお会いしました。

”酒蔵奥の真っ赤なモミジ見たかな。

あのモミジは何かの映画の撮影の造りもんだよ。

先日、撮影があって古井戸やモミジのセットを作ったのがまだ残ってるんだ”

いや~、見事に真っ赤な紅葉は造り物だって・・・

そうか、赤が鮮やか過ぎたもんな~・・・

ただ地元の方でも、梅ノ木のモミジは気づいてなかったね。

謎のモミジです。

 

左手に急流の流れ落ちる用水、右手に武重家の白塀。

けっこうな急坂を曲がりながら進みます。

この美しい景観から茂田井の地には2002年に、時代小説家藤沢周平さんの

短編小説を原作として作成された、山田洋次監督、真田広之さん主演の映画

たそがれ清兵衛』のオープンセットが「武重本家酒造(叶屋)」の裏手の敷地に

作られて撮影された、と武重本家酒造の資料にありましたね。

この茂田井の美しい景観も、映像の中に残されてるんですね。

藤沢周平さんの作品の文庫本は、ほぼ全巻読んだけど映画は見てないな~)

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 その先を左にカーブしたところに、元禄2年(1689年)に酒造りを始めた

「蔦屋・大澤酒造」が建っている。

重厚な長屋門には大きな杉玉がぶら下がり、敷地内には酒造りや街道文化に関連する

資料等を展示する民俗資料館、名主の館、書道館、美術館が設けられている。

(平日、朝も早いため資料館などは見ることができ来ませんでしたが、

敷地内に少しだけ入らせていただきました))

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大澤家は名主を勤めていて、元冶元年、幕末に京都に上る水戸天狗党を追ってきた

小諸藩兵士の本陣となり、400名の兵士の宿となったという。

間の宿で旅籠はなかったけれど、400名もの兵士を宿泊させるだけの建物と

経済力があったことを示してます。

(左手白壁の連なる大澤酒造(蔦屋)。まだまだ上手に続いてます)

 

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今回は見学できませんでしたが、大澤酒造の民俗資料館に展示されている品々は、

全て大澤酒造の蔵の中に眠っていたものだそうで、代々伝わっている鎧兜など、

貴重な品々が多くあり、街道旅人の間では是非見学を、とお薦めです。

いつの日かの寄り道をして、立ち寄りたいと思ってます。

(あの謎のモミジも様子をみたいですね)

 

茂田井宿は戸数が多かったので、高札場は二か所あって、名主の大澤家の

土塀前に下組高札場が有り、西寄りの坂の途中に茂田井村上組の高札場が

設けられていた。

(大澤家前の高札場跡)

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 坂道の小さな公園には、清掃の行き届いた「雪隠(トイレ)」も設置されてます。

 

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白い漆喰壁の建物が建ち並ぶ登り坂の道の家並みを、堪能しながら歩いて行きます。

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なんどもなんども登っては振り返り、登っては振り返り繰り返しながら

心に残る街並みをカメラに収めて坂道の街道を進みます。

 

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今も大きな門構えの屋敷や土蔵造りの町並み。

時計の針を戻したかのような、昔の雰囲気を感じながら足を進めています。 

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木造では少ない、三階建てですね。

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ちいさなちいさな秋、こぼれ種から生まれたかな?

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薪がが摘まれた、懐かしい風景です。

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左手に高さが2メートル以上もある、大きな馬頭観音がありました。

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この付近の坂は勾配もきつく大きな石が有ったため、その大石を割って中山道

通したと言われます。それで坂の名は「石割坂」

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坂の途中に上組の高札場が有った、と案内板が建ってます。

f:id:hansui:20171019060742j:plain「石割坂」と呼ばれている急坂道も少し勾配が緩くなってきました。

 

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さらにもうひと登りして曲がると、

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江戸から46番目の「茂田井の一里塚跡」がありました。

現在は南塚跡が公園になり、小さな祠が建っています。

きれいに整備され、塚は残っていないが説明板も立てられており、

茂田井宿の保存に尽力していることがわかりますね。f:id:hansui:20171019060933j:plain

 

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左に茂田井の田園。右手山の斜面に祀られてる水神や庚申塔を見て、

さらに緩い坂を上ると、 

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茂田井上の変則十字路で、「中山道茂田井間の宿入口」の標識と案内表示板が

立っています。ここが茂田井間の宿の京方のようです。

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道標に従って緩い坂を少し上ると、パット視界が開け田園地帯が眼に飛び込ん

できて、一帯は少し高台の高原になるでしょうか。
あいにくの曇り空で、景観は望めませんが、晴れていれば北の方角(写真左上)には

浅間山山魂が連なり、その山裾あたりが戦国時代末期、真田昌幸が築城した

上田城の有った上田市になるのかな。

 

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ゆるく坂をくだって芦田川を渡り、上り返して旧中山道は、次の宿場へと

繋がって行きます。

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 周囲の山々が低くなってきたように感じるのは、

今日のこの先の峠越え、笠取峠か近づいてるから?

 

続きます・・・

 

 

 

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第16回)  岩村田宿~望月宿 後編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*
 
10月9日、岩村田宿を立ち、第16回目の旅が始まりました。
 岩村田宿塩名田宿 1里11町 5.1Km
塩名田宿~八幡宿  0里27町 2.9Km
八幡宿~望月宿   0里32町 3.5Km
岩村田宿~望月宿 2里32町 11.5km

 

*すぐに道は突き当たってしまい、旧中山道は藪の中に消えてしまう。

ここは右に曲り、国道142号を横断して・・

 後編

PM2:20、国道142号を横断し、望月宿へ通じる瓜生坂入り口へ到着。

中山道は消滅してるため、しばらく迂回路になる*中部北陸自然歩道を

進みます。

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*中部北陸自然歩道

「多くの人々が、自分の足でゆっくり歩きながら、中部北陸地域のすぐれた風景地を歩くことにより、沿線の豊かな自然環境や自然景観、さらには歴史や文化に触れ、親しむためのみちで、中部北陸地域の各県(群馬県新潟県富山県・石川県・福井県・長野県・岐阜県及び滋賀県の8県)を結んで整備された長距離自然歩道です」

長野県内の旧中山道は、県内に6本設定されている「中部北陸自然歩道」の

一つ道で、街道書などの道標とし記載されてるのも「中部北陸自然歩道道標」に

なるようです。

所々で旧中山道が消滅してしまってるところが有りますが、そのとき歩いてるのは

中部北陸自然歩道なんですね、

だらだらと坂道をのぼり、二股を左へ曲がり小さな道祖神を見送って、

みぎへ曲がると、・・・

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前方、切通しのようなところに、

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藪に消えた旧中山道に合流した気配もなく、江戸の日本橋を出てから45番目

「瓜生坂の一里塚」の碑と案内板があります。

こちらは南塚で、北塚は道路の造成で半分削られてしまったようです。

それでも左右両塚とも現存のは、貴重な一里塚と言えますが、

草木が生い茂っていて、小さな標柱では気づかなかったでしょうね。

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 カミさんが

「一里塚が有ったと言うことは、消滅していた旧中山道に合流してると言うことね」

中山道はゆるく曲がっていて上って行き左に曲がると・・

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瓜生坂の峠のようで、曲がったところに「瓜生坂百万遍念仏塔」「中山道瓜生坂」と

刻まれた石碑が立っています。

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昔は望月宿に通じるこの瓜生坂は大変に急だったため、往来が困難であったと
伝えられています。
安藤広重が浮世絵で描いた望月宿の絵はこの瓜生坂の光景を描いたもので、
名馬の産地として有名だった望月を意識して、馬と満月が描かれています。

木々はは赤松と言われてます。

(えっ、赤松並木・・・信州信濃は松茸の名産地、旅人も賞味で来たかな?)

でも赤松並木は朽ちてしまったのでしょうか。松の木は全く見当たらなかったな~

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百万遍念仏塔、中山道瓜生坂碑を見ながら、少し進んだ先に

「茂田井宿 4.1km 塩名田 5.4km」と中部北陸自然歩道標柱があります。

「道はここから土手を斜めにくだっていた」と説明があり、左に長坂旧道と

呼ばれる段丘崖の急坂道を下っていきます。

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土道は舗装路に再び合流し、逆S字に急坂を下ると分岐点に

道標「茂田井宿 3.3km 笠取峠 9.1km 塩名田 6.2km」があり、

斜め右の長坂旧道(写真右)に入ります。

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枡形状に曲がった坂道を下ると、石尊大権現や道祖神御岳神社百万遍供養塔、

馬頭観音など多くの石仏石塔群がまとめられていて、これらは「長坂の道祖神」と

呼ばれています。

坂の途中に「大応院」があったが、明治5年に廃寺となった名残だそうです。

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長坂を枡形状に進み、千曲川の支流である鹿曲川まで下ってきました。

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中山道長坂分岐点案内板によると

江戸時代前期の中山道は、鹿曲川で右折し、望月新町があった鹿曲川右岸を下流に進み西(左手)に折れて中之条橋を渡って、望月宿に通じていた。

寛保2年(1742年)に大洪水が発生し、望月新町が道もろとも流され壊滅したため、

新町は左岸にある現在地に移転した。

そのため中山道は鹿曲川の左側の長坂橋を渡り、現在のようなコの字形に

宿内へと通じるようになった。

ここは初期中山道と変更後の中山道の分岐の場所ですね。

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長坂橋で鹿曲川を渡ります。ここのあたりが望月宿の江戸方入り口になります。

長坂橋を渡ったら道なりに小さな道祖神を見ながら坂道を上ります。

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突き当たったら右に曲り、旅館島田屋の先「望月宿入口」交差点を右折すると

望月宿に入ります。

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望月宿は、現在の長野県佐久市望月にあたります。

中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて25番目の宿場です。

天保14年(1843年)の中山道宿村大概帳によると、

望月宿の宿内家数は82軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠9軒で

宿内人口は360人でした。

手前の八幡宿との間の宿間距離も約30町(約3.3km)と、中山道で2番目の短さです。

特に大きな宿場ではなかったのですが、馬を売買する人でたいそう賑わったのだ

そうです。

平安時代からこの地を収めていた豪族・望月氏や、馬の産地として名高い

「望月の牧」から、「望月」の名が付いたと言われています。

 

宿内は古民家も多く、街道街の風情を残しています。

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 大正5年(1916年)木造三階建の旧旅籠井出野屋旅館があります。

横溝正史原作で石坂浩二さん主演の映画・金田一耕助シリーズの

第1作『犬神家の一族』(1976年公開)』の中で、主人公・金田一耕助が投宿する

那須ホテル」は、この「井出野屋旅館」で撮影されたのだそうです。。

 

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旅館「山城屋」です。

江戸時代に旅籠として創業し、今でも現役の旅館として営業しています。

外観は昔のままですが、内部は近代的で、設備もいいそうです。

今街道旅人にも人気の宿のようですね。

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望月宿の本陣跡です。

宿場中心部の立派な門がある望月歴史民族資料館の敷地は、本陣跡の一部で、

玄関脇に“御本陣”の看板が掛けられている、隣の小児科医院が本陣を務めた

大森家。

両方合わせた広大な敷地が本陣だったのです。

 

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 脇本陣兼問屋を務めていた鷹野屋です。切妻造りですが、2階がせり出した

出梁(だしばり)造りと呼ばれる建築様式。

脇本陣の看板は、現在、歴史民俗資料館に展示されています。 

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本陣跡の斜め向かいは、真山家住宅、旅籠・大和屋と問屋を兼ねていました。

当時を偲ばせる「出桁造り」。

くぐり戸の脇、軒下が板の間になっていて、

問屋として荷が置かれた造りがよく分かります。
幕末には庄屋も務めた。

明和三年(1766)に建てられたもので、望月宿最古の建物であり、

国の重要文化財に指定されている。

(国重要文化財としての案内板は、なかったような?)

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向かいの家は昔は下駄屋の香美屋跡。

下駄型看板が軒下に吊っている。

あら、屋号は井桁屋かしら? てカミさん。

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少し戻って区切りとして、佐久市立望月民俗資料館前で第16回の旅の足止めです。

向かいの商工会館前バス停より、千曲バスにて佐久平駅へ戻ります。

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PM3:20 すこし時間が有るので、

バス時刻まで、佐久市立望月民俗資料館を見学へ。

「ご案内」

中山道望月宿の本陣跡に位置している望月民俗資料館は、平成3年8月1日に

開館しました。歴史的景観を損なわぬよう配慮された外観と内部には、江戸時代の解体民家の梁を使うなど、趣のある造りとなっています。

  ・・・・      ~~      ・・・・

当地に残るさまざまな歴史資料をもとに、

「郷土の歴史と文化」「中山道・望月宿」「人々の暮らしと伝統」の

3っのテーマに分けてわかりやすく展示しています。

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岩村田宿~望月宿 2里32町 11.5km

日本橋から45里(176.7Km)、 京へ90里34町 (357.2Km)

PM4:10 定時にバスに乗り、第16回の旅は無事、おわり。

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また、いつの日か旅に・・・・・

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歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第16回)  岩村田宿~望月宿 中編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*

 

10月9日、岩村田宿を立ち、第16回目の旅が始まりました。

 岩村田宿塩名田宿 1里11町 5.1Km
塩名田宿~八幡宿  0里27町 2.9Km
八幡宿~望月宿   0里32町 3.5Km

岩村田宿~望月宿 2里32町 11.5km

中編

岩村田宿から塩名田宿を過ぎて、千曲川を渡り旅が続きます。

f:id:hansui:20171011084612j:plain千曲川旅情の歌 」   島崎藤村

(一)

小諸なる古城のほとり          雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず          若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ) 日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど          野に満つる香(かをり)も知らず
浅くのみ春は霞みて           麦の色わづかに青し
旅人の群はいくつか           畠中の道を急ぎぬ

暮行けば浅間も見えず          歌哀し佐久の草笛(歌哀し)
千曲川いざよふ波の           岸近き宿にのぼりつ
濁(にご)り酒濁れる飲みて       草枕しばし慰む

 

千曲川は、

甲州山梨県武州・埼玉県、信州・長野県の3国境の奥秩父山塊の主脈の中央に

位置する日本百名山甲武信ヶ岳(2475m)、その麓を源流とし、

なぜか、上流である信濃国域(長野)では「千曲川」。
そして下流越後国域(新潟)では信濃川と呼称が変わる

長野県と新潟県を流れて日本海に注ぐ、全長367kmで日本で一番長い川です。

 「信濃川」の名称のほうが全国的には知られてるかな。

わしも「千曲川旅情の歌 」を知った高校生のころは、千曲川信濃川は別々の

川だと思ってましたね。

 万葉集の歌や島崎藤村の「千曲川旅情の歌」、五木ひろしの「千曲川」など、

 風情のある緩やかな流れの川のように思われがちですが、

実際には、幾重にも曲がりくねったの「千曲川」の名前の通りの急流でした。

江戸時代には川幅は120メートルほどもあったそうで、

ひとたび大雨が降って水嵩が増すと難所に一変し、旅人を苦しめました。

様々な方法でこの千曲川の急流を渡っていたのですが、明治6年1873年)、

9艘の舟を浮かべ、それらを繋いだうえで舟の上に板を敷いて橋とし、

人馬を渡す「舟橋」方式が採られるようになりました。

その際、舟を繋ぐために使われたのが「舟つなぎ石」で、舟橋は明治26年1893年

まで使われた。(案内板より)

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川に沿って左に曲り、橋下を抜けて左へ坂を上って県道へに出て、

歩行、自転車専用の中津橋を渡ります。

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 千曲川を渡り、坂を上ると御馬寄(みまよせ)集落に入リます。

馬を寄せ集める場所であり、その馬は朝廷に献上するものであったことから、

「御馬寄」という地名で呼ばれるようになったと言われます。

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 緩やかな坂が続く道の両側に、古い家並みが残る。

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集落を抜けて、御馬寄小学校入口の歩道橋下で右へ分岐する短いのぼりの旧道に

入ります。

視界が開け、千曲川西岸段丘の上にで様です。

元の道との合流点手前で街道から少し高くなった場所に、

白い頭巾と白い前掛けをしている、明和8年(1771年)建立と言われる、

大日如来の石像が立ち、「大日塚」と地元では呼ばれているようです。

大日如来像の後方に雄大な浅間山が望め、像の横に松尾芭蕉の句碑が立っています。

「涼しさや 直(すぐ)に野松の 枝の形(なり)」 松尾芭蕉

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街道筋と合流し、その先左手に「御馬寄一里塚跡」の標柱がありました。

江戸の日本橋を出てから44番目の一里塚です。

(後ろの石碑は関係なさそう)

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緩い登り坂の一本道を先に進みます。

しばらく歩くと下原と呼ばれる集落に入ります。

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御井大神(みいのおおかみ)と刻まれた石碑です。

御井大神は万物の生育に欠かせない水を司る水神、水霊であり、

古くは井戸の神様としても祀られました。

このあたりにも浅間の美味しい湧水が出ていたのでしょうか。

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さすがに美味しい米を産出する集落、立派な門構えの民家が幾つもあります。

f:id:hansui:20171011113035j:plain下原の集落を通り過ぎて緩い下り坂。

文政5年(1808年)建立の小さな石仏、観世音菩薩が見られます。(右)

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さらに坂を下ると、

なぜか街道に背を向けて(街道が付け替えられた?)、ここにも

井戸の守護神・生井大神と馬頭観音の石碑が立っています。

馬頭観音は文政12年(1828年)の建立だそうです。

 

f:id:hansui:20171011114324j:plain坂道を下ると、前方に次の八幡宿の集落が見えてきました。

(左の標柱は?)

f:id:hansui:20171011120456j:plain真っ赤になったコキア。

左隣りに神社の社殿のような形をした千曲バスの「八幡神社前」のバス停。

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そしてその横に「中山道八幡宿」と書かれた標柱が立っています。

このあたりが八幡宿の江戸方の入り口です。

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 吾妻鏡鎌倉時代)にも記述がある、宿場の名前の由来になった八幡神社です。

創建年代は、定かではないが貞観元年(859年)、御牧の管理をしていた

滋野貞秀によるものと言われています。

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境内には国の重要文化財である高良社のほか、本殿、拝殿、端垣門、随神門があり、

なかなか歴史を感じさせる趣きを放っています。

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天保14年(1843年)、小諸藩主・牧遠江守康哉 により造営され、

精巧な彫刻が彫られた、ずっしりとした風情の随神門。

f:id:hansui:20171011135058j:plain進むと随神門よりも130年前、宝永5年(1709年)に建てられた、端垣門からが

神域です。 

f:id:hansui:20171011135752j:plain本殿(左上)と拝殿です。

 本殿は天明3年(1783年)、拝殿は天明4年(1784年)に再建されたと言われます。

当初は、極彩色を施していたと思われる彫刻は経年劣化して、

かなり剥がれだしていますが、それが古い歴史を感じさせますね。

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 国の重要文化財に指定されている旧本殿の「高良社」です。

三間社流造りで、屋根はこけら葺、室町時代の神社建築の特徴を

伝えているそうです。

八幡神社の境内にある棟札の墨書名から、延徳3年(1491年)に
滋野遠江守光重によって建立されたものだそうです。

浅間山が大噴火を起こした、天明3年(1783年)に現在の本殿が建てられた時、

旧本殿を高良社として移築したものです

高良社は元々は高麗社と呼ばれていて、高良玉垂命を祀っているのですが、

朝鮮半島から渡来して、望月の牧を指導した高麗人を祀っているのだとも

言われています。 

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 (我が県にも秩父地方に、先般天皇、皇后両陛下が参拝された高麗神社が有ります)

 

神社を後にし八幡宿の宿内に入っていきます。

 

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八幡宿は、現在の地名は長野県佐久市八幡。

江戸・日本橋から24番目の宿場です。

千曲川の西岸にあたり、対岸の塩名田宿との距離は1里も離れておらず(約3km)、

宿間距離は中山道一短い距離です。

天保14年(1843年)の記録によれば、八幡宿の宿内家数は719軒、うち本陣1軒、

脇本陣4軒、旅籠3軒で宿内人口は719人、総家数は143軒でした。

f:id:hansui:20171011145021j:plainこの八幡宿は小さな宿場であったにも関わらず、脇本陣が4軒もあった。

荒ぶる千曲川や、この間の道が名うての悪路だったため宿泊・休憩する大名が

多かったと言われます。

八幡宿の本陣だった「小松五右衛門家」の跡です。

小松五右衛門家は八幡宿の本陣・問屋を代々務めた家です。

皇女和宮の宿泊地となったところです。

今は表門のみが残されていて、この表門は馬に騎乗のまま通過することが

できるように、かなりの高さがあります。

この門は中山道の宿場本陣の門のうち、現存する最古の門と言われています。

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(本陣跡門塀は、資料写真などの古色感と違い、最近リホームされたかな??)

f:id:hansui:20171011145557j:plain本陣門の向かいには、脇本陣・問屋の「依田太郎兵衛家」のようです。

依田太郎兵衛家は脇本陣と問屋のほか、八幡村の名主も務めていました。

(案内板は有りませんが、街道書に写真記載あり)

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右手の民家も脇本陣「半三郎家」が有った所、と記載されてますが

案内板もなく不明です。

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 脇本陣はそのほかに2軒置かれていたのですが、残念ながら不明でしたね。

「南御牧村道路元標」が立っています。道路元標が立っているところは各村々の中心と言うことです。

f:id:hansui:20171011160404j:plain古い町並みが続きます。

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宿場町の中心部を抜けて、八幡入口バス停の先から旧中山道は右下へ入り、

約200メートルほど進みます。

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三基の馬頭観音

f:id:hansui:20171011161546j:plain古い小さな小さな地蔵尊さん。

ちゃんとお供え物も置かれていて、地元の人達に大事にされているようです。

f:id:hansui:20171011161758j:plain地蔵尊の先に「中山道八幡宿」と書かれた案内標識が立っています。そこで再び県道と合流し、ここが八幡宿京口(西方)。f:id:hansui:20171011162134j:plain

 歩いてきた県道は信号で国道142号線と合流します。

ここからはしばらく国道142号線の歩道を歩きます。

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国道142号に合流した辺りから右手を見ると、広大な「御牧原(みまきがはら)」

が見渡せる。

この辺りは奈良時代から平安時代にかけては御料牧場で、旧暦8月満月の日に

朝廷へ馬を献上していたことから「望月の牧」と呼ばれ、

多くの歌人が望月を題材にした歌を残している。

この「望月の牧」を指導したのが渡来の高麗人だったのでしょうか。

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しばらく国道142号を進みます。左手に持参街道書に記載の食事処が有りました。

調べると、昼はPM2:00までの営業のようです。

 

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実はこの食事処は、街道では大変貴重なお店なんです。
今朝、岩村田宿を離れると、ここまでは食事処が街道筋には全くありません。
食品を売っていそうなお店も、コンビニないんです。
通ってきた塩名田宿千曲川沿いに、川魚料理の看板を掲げた家が何軒かあり、
ちょうど昼時ででしたが、なぜか暖簾が掛かった家は無かったですね。
街道案内などで、有ると記載が有っても、よもすれば現在は閉店とゆうことも
多く見受けます。
うっかりすると、昼食抜きの歩き旅になってしまうので、要注意区間ですね。

そんなときのために私たちは、健康機能食品と言われるものを常に持参してます。

かさばらず、軽いのでウエストバッグに入り、消費期限も長いので重宝してますね。
たまたまここは国道で、交通量も多く、ガソリンスタンドなどもあった地域でした。

 

 緩くしばらく下って行くと布施川に架かる百沢橋を渡ります。

 

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安藤広重が描いた「木曽海道六拾九次」の中の「八幡宿」は布施川に架かる

百沢橋のあたりから見たこの風景を描いたものではないか…との説が有ります。

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すぐの百沢橋交差点で、道路の右下に下るこの細い道が旧中山道です。

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ここから旧中山道の雰囲気を感じながら、百沢と呼ばれている集落の緩い登り坂を

登っていきます。

国道から離れているため今も昔の風情が色濃く残り、落ち着いた家並みが

続いています。(ただ、まったく人影を見ません)

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「百沢の双体道祖神」です。

珍しい衣冠束帯(いかんそくたい)と十二単(じゅうにひとえ)という宮廷貴族風の

衣装をまとった男女が祝言を挙げ、酒を酌み交わす様子を表現の双体道祖神です。

地元では「祝言道祖神」とも呼ばれています。

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布施温泉入口交差点で国道142号線を渡り、そこから把握長野県道150号百沢臼田線を

ほんの少し歩きます。

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少しゆくと「仲仙道(中山道)牧布施道標」です。

この道標は元禄10年(1697年)に建てられた古い道標です。

擦れていて判別しがたいですが、石には“中山道”のことを“仲仙道”と表記して

彫られています。

中山道”、“中仙道”、“仲山道”、“仲仙道”…と同じ“なかせんどう”でもバラバラの

漢字表記だったこの街道の名称を、“中山道”に統一したのは

正徳6年(1716年)で、この道標はその19年前に立てられていたんです。

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右の旧中山道は民家の裏手山で「金山坂」に入ってゆき、

瓜生坂入口へ上って行きます。

(やぶ蚊苦手のカミさんは、走るように上って行きます)

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すぐに道は舗装道に突き当り、本来はまっすく道を横断して、その先の藪の方に

続いてるはずですが消滅してしまってるようで、道角にはこんな標識が立ってます。f:id:hansui:20171014085533j:plain

右に曲がるとすぐ国道142号線と出会い、中山道はそこを突っ切って先に進みますが、

横断歩道帯は有りますが信号が有りません。

車両通行も多く、車の流れを見計らって手を挙げて停車してもらい

なんとか渡れましたね。

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ここから先は「瓜生坂・うりゅうざか」と呼ばれ、

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瓜生坂の頂上を越えて坂を下り、25番目の宿場である望月宿へと入っていく。 

続きます・・・

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第16回)  岩村田~望月 前編

 *ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*

 

早いもんでもう10月です。

前々から行ってみたいと思っていた、東北奥羽山脈栗駒山

9月29日~10月1日で、思い切って車を走らせた。

素晴らしい紅葉に出会えて、来て良かった!の旅でしたね。

デジブックアルバム

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山頂へは登らなかったけど、登山はできた。

これで中山道旅で、歩き残してる軽井沢への碓氷峠越えもやっと自信が出てきた。

11月初旬、雪の降る前に歩く計画です。

 

と前置きが長くなりましたが、9月19日(火)第15回で沓掛宿から歩きだし、

岩村田宿で足止めでした旧中山道夫婦歩き旅。

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10月9日(体育の日)

中山道夫婦歩き旅、第16回へ進みます。

岩村田宿塩名田宿 1里11町 5.1Km
塩名田宿~八幡宿  0里27町 2.9Km
八幡宿~望月宿   0里32町 3.5Km

岩村田宿~望月宿 2里32町 11.5km

 

時間的に可能ならば、さらに足を伸ばして

芦田宿(望月から1里8町、5.1km)までたどり着けるかな。

と、早めに家を立ち関越高速で走ります。

横川SAで朝食休憩時、エンジントラブルでJAFのロードサービスの手を

煩わしたが、小一時間遅れでAM9:00、長野県、佐久平駅前駐車場着。

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トイレを済ませて佐久平駅より1kmほど南へ行くと、前回足止めした

岩村田交差点で旧中山道へ復帰。

途中に大きな自然石の「若山牧水歌碑」
「 白珠の歯にしみとほる秋の夜の 酒はしずかに飲むべかりけり」

が有るようですが、見落としたようでした。

 

AM9:30、第16回の夫婦歩き旅の再開で、岩村田宿の中心街へ

足を進めます。

(わぁ、肥満体だ!デジカメ置いたのが低すぎたね)

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岩村田宿は江戸から22番目の宿です。
岩村田藩内藤家1万5千石の城下町であり、商業の町でした。
城下町であったので、堅苦しい城下町の雰囲気が嫌われ、大名や公家は泊まらず、
旅人もあまり寄りつかなかったと言われています。
本陣、脇本陣はなく、旅籠も最盛期で8軒のみと小規模の宿場でした。
本陣、脇本陣の代わりとして龍雲寺、西念寺、法華堂などがが利用されたようです。

岩村田、古の旧中山道は、江戸時代に一度、大火に見舞われて復興時に、

今はアーケード街となっている、現在の旧中山道に付け替えられているそうです。

綺麗なアーケード街ですが、佐久平駅周辺や、佐久ICへの整備された道路周辺の
大型店やショッピングモールの出現で、御多分に漏れづ商店街の活気が

失われてしまったのか人の姿が・・・ないんですね。

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ところで、渓斎英泉が描いた岩村田宿浮世絵は、なんとも変わった絵ですね。

犬が吠え、座頭同士の喧嘩?

 街道画では珍しい描き方、なぜ岩村田宿がかな??

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中山道の画は版元の要請で、途中で安藤広重との共作になったようですが、

そのいきさつ(売れ行きが芳しくなかった)ことで、栄泉のプライドを刺激し

反骨精神の現れを描いたともいわれてるようです。

(左の高みの見物人は広重だとか)

右手の大きな数珠の下がった道へ入ると、前回お参りだけで寄った

浄土宗西念寺が有ります。

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武田信玄ゆかりの寺院で、昔は広大な敷地を持っていたといわれています。

戦国武将で織田信長豊臣秀吉徳川家康に仕た小諸城初代藩主の仙石秀久

岩村田藩主の内藤家の菩提寺です。

仙谷秀久は、鴻巣で死去し、この西念寺で火葬されたといわれています。

 

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山門や鐘楼も堂々としており、12本の柱の上に立った楼門の天井を見上げると、

笛や琵琶を奏でる天女の絵が描かれている。

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f:id:hansui:20171010112449j:plain街道へ戻り、商店街の中ほどに「日本一小さい酒蔵」と染め抜かれた暖簾の

酒店がある

銘酒寒竹の蔵元「造り酒屋の戸塚酒造店」

承応二年(1653)創業、文政四年(1821)に現在地で再興したそうです。 

300年の歴史があり、今は15代目が暖簾を守っている。

「少量でも品質の良い酒造り」 を目指した結果、

日本一小さな酒蔵になってしまったのだそうだ。

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昭和歴代の総理大臣の揮毫が厳重なショーウィンドウに飾られている。

古くは芦田。最近では、鳩山、管、野田、そして安部

 

 

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歩道に、招き狐プレート??

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旅籠も少ない小さな岩村田宿は、 相生町交差点で右折し塩名田宿へと向かいます。

交差点を直進する道は「佐久甲州街道」で、百名山八ヶ岳南麓の野辺山を経て

甲州街道に繋がる道です。

この交差点も追分です

武田信玄はこの道を通って甲斐国甲府から信濃佐久平一帯まで来ていたのです。

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相生町交差点を右に曲がり、塩名田宿目指して歩き始める。

すぐ右手に小さな西宮神社があり、過ぎて道祖神馬頭観音が祀られ

街道を示しています。

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右手奥に、プラネタリュームが有る「佐久市こども未来館」という

ドームを見ながら進むと、小海線の先踏切を渡ります。

小海線は小諸と中央本線の小渕沢を結ぶ路線で、八ヶ岳の麓を通っています。

八ヶ岳高原線」の愛称が付けられ、若い方に人気の清里リゾートや

JRで日本最高地点にある鉄道駅・野辺山駅がよく知られています。

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小海線中山道踏切を渡ったところに若宮八幡大神社標、

すぐ先に御嶽神社が有り、御嶽講の人達が長年かかって建ててきたものだろう

石塔が並でます。

f:id:hansui:20171010123747j:plain御嶽神社の突当りY字路を右に、県道154号塩名田佐久線を進み、

浅間総合病院の紅葉の綺麗な門前を左に回り込んだ突当りに、

相生の松があります。

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 赤松と黒松が一つの根から生えた松で、縁結びの象徴とされているそうだ。
皇女和宮がここで野点をして小休止している。

 初代は樹齢200年以上の赤松と黒松だったそうだが、現在の松は3代目。

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国道141号線の浅間病院西交差点を横断した街道は、

秋の実りの豊かな佐久平田園風景が広がる、のどかな道を進みます。

右手後方に浅間山、そして佐久平駅周辺の街並み。

浅間降ろしの風でしょうか、多くの田んぼの稲が倒れています。

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左手前方には、日本百名山蓼科山(2530m)、左に広がる山並みは

北八ヶ岳の山魂。

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佐久平は、北は浅間火山群、東は関東山地、西は蓼科山に囲まれた盆地です。

佐久平の標高は650~800メートルと日本の盆地としては高く、北部は浅間山の火山噴出物が堆積した台地で、南側は千曲川の沖積地となっています。

街道の左右は水田だけではなく、リンゴ畑も増えてきます。

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 ところどころに、石仏や石塔が建ち旧中山道らしい風景の中を歩むと、

田んぼの先に荘山(かがりやま)稲荷神社が見える。

近くへは行きませんでしたが、ここに「芭蕉句碑」(左)があるそうです。
 野を横に 馬引きむけよ 郭公(ほととぎす)   芭蕉

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中部横断自動車道ガードをくぐります。

この辺りに日本橋から四十三里目の「平塚の一里塚」があったそうですが、

まったく痕跡もありません。

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中部横断自動車道は、静岡市の新清水JCTから山梨韮崎を通り、

長野県小諸市の佐久小諸JCTに至る総延長約132kmの高速道路で、

現在は一部開通しし無料開放されてます。

平塚の集落を進みます。

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道の左手に百万遍供養塔が立ち、その先の石垣上に石仏石塔群があります。 
百万遍(ひゃくまんべん)とは、集落の人々が講を作り、人々が円陣を組んで座り、

大きな数珠を送りながら南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と念仏を百万遍唱えて

疫病退散などを祈り、全員の念仏が合わせて百万回に達したのを記念して建てられた

ものです。

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実りの秋

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平塚、塚原の集落を通って下塚原まで来ると、道が二手に分かれます。

このうちの左に入る細い道のほうが「旧中山道」です

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塚原に入ります。諏訪神社参道口に二体の男女双体道祖神

境内奥にも多くの石塔がたってます。

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佐久市塚原根々井塚原という集落の中を進んでいきます。 

如意輪大士碑(左下)が建ってます。

如意輪大士とは如意輪観音の別名ですが、旧中山道沿いには馬頭観音が多く

如意輪観音は珍しですね。

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その先のY字路を右に進み、溶岩上に庚申塔があります。

集落を抜けると雄大な佐久平の風景が広がっています。

後ろには雄大な浅間山

f:id:hansui:20171010175424j:plain前方には蓼科山、左手には八ヶ岳連峰の山々が見えます。

次の難所、五街道最高地点(標高1,600メートル)の和田峠はあのあたりかな?

空気の澄んだ季節には、正面に北アルプスが見えるとか。f:id:hansui:20171010174326j:plain

街道沿いの大きな石(浅間山の溶岩と言われる)の上に、3つの石塔が立つ。

庚申塔かな?文字擦れて判読できない。

(ある方の道中記では御嶽講碑とありました)

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方々で見かけましたね、休日は関係なし。

コンバインが収穫の時期は大活躍。

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 下塚原の集落に入ると、左手に名覚山妙楽寺の石門が立っています。

妙楽寺はここから続く参道の奥にあるのですが、門前で参拝して先へ進みます。

妙楽寺は、貞観8年(866年)の創建で「信濃の国に五ヶ寺を定額に列する」と

日本国史に明記された、信濃五山の1,000年以上続く名刹なのだそうです。

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秋ですね~

面白い作り方、ミニトマト。ブドウ棚作りかな。

カミさんが、来年はこの方式で育てたい、て。

カキも色付き、アケビも収穫頃かな。

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集落を過ぎると右手に、こんもりとした森があります。

橋を渡り参道を登ると、丘の上には文明18年(1486)の再建と云われている

駒形神社」が鎮座しています。

 

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石段を上って左手にひっそりと見られるのが社殿で、そのの中にある本殿(右)は
国の重要文化財に指定されています。

中には騎乗の男女二神像が祀られていて、この先の「望月の牧の守り神」と

伝えられています。

源頼朝が当社前を騎乗のまま素通りしたところ落馬したと言い伝えられてるそうです。

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 街道資料によると、「望月の牧」とは奈良時代から平安時代にかけて、

天皇へ献上する馬を飼育していた牧場のことです。

 カミさんがお腹が空いたと言うので、神社裏手の集会所?の庭先木陰で、

持参の健康サプリメントで早めの昼食と、しばしの休憩。

中山道沿いは岩村田を出ると、全くお店が見当たりません。

少し離れた国道へ出るとあるようですが。

 

駒形神社を出ると、道は舗装道路の駒形坂を下ってますが、

街道図ではこの先で、ガードレールが切れるところを右崖下に下るのが

中山道になってます。

坂を下り終わったところで今度は坂を登って、200mほどで舗装された道路に

戻ります。

下には廃屋のような家、夏草ぼうぼうで、踏み跡も見分けつかない状態。

やぶ蚊が苦手のカミさんが「ダメ!」のクレームで舗装道路を下ります。

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坂を下りきると 右手に製材所が見えてきて、民家が増えてきます。

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しばらく歩くと、桝形の大きな五差路になった塩名田交差点になり、

「笠取峠 15.3km 追分 15.3km」、「中山道塩名田宿標柱」や道祖神が建ってます。
 

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PM12:05、岩村田宿から1里11町 5.1Km、2時間30分もかかって到着です。

塩名田宿は、江戸から数えて23番目の宿場です。

街道資料によると、現在の長野県佐久市塩名田にあたり、

天保14年(1843年)の記録によれば、宿内家数は116軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、

旅籠7軒で宿内人口は574人だったそうです。

(街道絵 塩名田宿は広重画に替わります)

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平成17年(2005年)に佐久市に合併される前までは北佐久郡浅科村でした。

(浅科とは浅間山蓼科山の間に位置していることから、それぞれ一字ずつとって

浅科という名前になった)

そうか、ちかくに「道の駅ホットパーク浅科」が有るんだな・・・

真っすぐ伸びる宿場の道を歩みます。

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 宿は千曲川の東岸にあり、旅籠が10軒以下の小さな宿場にも拘らず、

川止めに備えて2軒の本陣と1軒の脇本陣が用意されていた。

その1軒は、現在は食料品店となっている大井屋の場所にあった、

「丸山善兵衛本陣」で、延宝年間(1673年~)から本陣を勤めたそうです。

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丸山本陣跡の斜め先の切妻・大屋根の建物も「本陣・問屋跡」で、

こちらは丸山新左衛門家。

新左衛門家本陣の建物は宝暦6年(1756)に再建されたもので、

改装されながら、現在も住居として使われている。

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ちなみに脇本陣は丸山文左衛門家と、丸山一族が本陣・脇本陣を務めていた。

隣が「高札場跡」で、一部が復元され今は掲示板として使われている。

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 高札場跡の斜め先にある 「佐藤家住宅」 は、

塩名田宿で最も古式の町屋の様式を伝える建物。

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“うだつ”を備えた白壁・土蔵造りの建物は最近のものかな?

看板は昔の屋号が書かれた酒屋の「大和屋」です。

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さらにその先の「えび屋豆腐店」の建物は、江戸時代末期に建てられたもの。

半分土蔵造りになっていますね。

天然のにがりで豆腐を作っているそうで、その味は極上。

午前中には売り切れてしまうのだとか。

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塩名田宿の宿内の建物には昔の屋号の看板が掲げられていて、味があります。

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 えび屋豆腐店から数十メートル先で県道と別れ、旧中山道は右側を下って

「河原宿へと向かって行く」。

f:id:hansui:20171010213350j:plain 坂を下った左側に東屋があるが、ここは「瀧大明神社跡」。

かつて、傍らのケヤキの大木(今は枯れている)の根本から、

大量の清水が湧き出ており、旅人の喉を潤していたそうだ。

この場所には十九夜塔や道祖神も建てられている。

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 東屋の隣は「角屋」と呼ばれた休み茶屋跡で、建築年代は不明だが

木造の3階建てである。

ここには木造3階建ての建物が沢山有る。
道路(県道)より低い位置に有るので、3階建てにして道路と高さを合わせのかな。

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 この辺りを「お滝通り」と呼んでいるが、この先を右に曲ると、

川魚料理の看板を掛けた旅籠風の建物が何軒かあり、かつての宿場の面影が

残っている

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 突き当たりが旅人泣かせの千曲川。江戸時代から明治にかけてはここから川を渡っていたのだが、今もその痕跡がある。

 橋を架けては流されを繰り返した千曲川。明治6年(1873)、6艘の舟をつないだ舟橋を架けたのだが、その際、舟をつなぐために使われたのが「舟つなぎ石」(左)。明治26年(1893)まで使われたそうだ。

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今はこの先には橋が無いので川に沿って左に曲り、県道に出て「中津橋」を

渡って街道は続いてゆきます。

それにしても快晴、気温もぐんぐん上がっている様子。

川風が気持ちがいい~・・

 

続きます・・・