「歩いて再び京の都へ」
旧中山道、夫婦歩き旅も美濃の国最後の旅になりました。
令和元年11月2日(土) 第35回の旅へ。
早朝AM5:00、家を出発し圏央道、中央道、名神道と走り養老SAにて
昼食、休憩を取り、養老SAスマートICで高速を降り、向かうは
PM1:00 南宮大社門前着。
なにか開放的な空の広がる社前と感じましたが、大きな社号標や石灯篭は
建ってますが、普通建てられている鳥居が建っていないんです。
中山道の歩き旅の街道書には、2か所の南宮大社の大鳥居が記されてますが、
鳥居はその2か所だけということになりますね。
今日来たルートでは鳥居は一か所もないので、鳥居無しの神社になってしまいます。
大鳥居の一つは、旧中山道から南宮参道への入り口(垂井本町の四つ角)にある
石鳥居で、これも寛永十九年の築造。
花崗岩を使った明神鳥居型と呼ばれる様式でできている。
地上から最上部までの高さは約7メートル。柱の直径は約70cmある。
造営文書の記録によると、柱の半分は地下に埋まっているそうで、地震などに耐える
堅固な造りになっているそうです。
鳥居の中央部には社格を表す「正一位中山金山彦大社」の額がかけられ、
両側には一対の石灯籠と南宮道の道標がある。
(写真は翌3日に通った時の垂井宿の石鳥居)
南宮山近辺は戦わずして趨勢を決した吉川広家をはじめ、安国寺恵瓊や長束正家、
長宗我部盛親ら西軍の主戦力が布陣した場所。
南宮の呼称は「美濃の国府の置かれた地の南に位置する宮」の意で、
社殿の南西にそびえる南宮山(419m)はその御神体に当たるようです。
岐阜県には約3,200余社(神社本庁包括下)の神社が鎮座しています。
古くから交通の要所として栄え、美濃国と飛騨国で構成されていました。
また岐阜県は昔から672年 壬申の乱、1600年 関ヶ原の戦いなど、歴史上重要な
合戦が多く起こっている地域でもあり、8世紀には美濃国府が垂井町府中に
おかれました。
南宮大社の名は国府の南側に位置することから起こったといわれ、927年(延長五年)成立の延喜式神名帳には「仲山金山彦神社」として記載されている。
社伝によれば、神武東征に功のあった金山彦命を美濃国府近くに(不破郡垂井町府中)に祀ったのが始まりといい、崇神天皇の治世(前97-前30年?)に現在地へ移ったとされる。
金山彦命を主祭神に、旧国幣大社で美濃国一の宮として、また全国の鉱山、金属業の総本宮として、今も深い崇敬を集めています。
現在の建物は、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の際、西軍方の安国寺恵瓊の
陣地となり焼き払われたものを、寛永19年(1642年)、春日の局の願いにより
三代将軍徳川家光公が寄付した7千両(約21億円)をもとに、造営奉行、岡田将監の指揮によって建築・造営された。
春日局は美濃の国にて幼少時を過ごしており、その強い勧めがあったといわれ、
春日局が没したのは寛永20年(1643)年、南宮大社の再建が成った翌年のことだった。
境内には本殿・拝殿・楼門などが、朱塗りの華麗な姿を並べ、江戸時代の神社建築の
代表的な遺構18棟が、「 国の重要文化財」に指定されています。
(記載写真建造物はすべて国重要文化財になります)
建築様式は、和様と唐様を混用した独特の様式であることから、
南宮造と呼ばれている。
本殿と弊殿だけは素木造りで、その他の社殿は鮮やかな朱塗りになっていることも
特徴の一つと言える。
社殿の軒回りは、すべて刳抜蟇股という社寺建築独特の装飾が施されている。
その形が蟇の股の曲線に似ていることから蟇股と呼ばれる。
中でも高舞殿の蟇股にある十二支の動物の丸彫りが特に名高い。
楼門の表には右大臣、左大臣の木像、裏には狛犬がそれぞれ門番のごとく配置され、参拝の人々を見守っている。
屋根を葺き替える式年遷宮は、51年目と定められていて、最近は昭和48(1973)年に行われた。
宝物館には名刀など多くの宝物が保存され、毎年、文化の日(11月3日)に
公開される。
(ということで、残念ながら宝物館に収蔵されている品々は見ることが
できませんでした)
このほか三重塔、本地堂、鐘樓などの仏教関係の建造物も同じ時期に建てられたが、明治維新の神仏分離のとき、これらは近くの真禅院(朝倉山)に移築された。
門前に建つ、斎館
参道脇に鎮座する、美濃国総社・数立神社
石輪橋 楼門
築地塀に囲まれた境内。
風格ある楼門の前には川が流れ、正面に架かるのが花崗岩の「石輪橋」、
寛永19(1612)年架橋。
輪のようなアーチを描いていることから「そり橋」とも呼ばれ、
高い円弧の神橋は神様専用の神橋です。
築地塀に沿って献納された石灯篭が整然と並んでます。
楼門から高舞殿
楼門の外側には右大臣、左大臣木造が鎮座し、内側には狛犬が守りについている。
広い空間、正面に高舞殿、奥に拝殿と廻廊が巡らされて神域です。
高舞殿の軒下の蟇股に十二支の彫像が刻まれてます。
高舞殿から相対して立つ拝殿はすぐ近くで、間には普通見られる狛犬や石灯篭などは
ありません。
拝殿
拝殿前より楼門を振り返ってみる。
拝殿、弊殿
神域ではありますが、廻廊越しに覗かせて頂きます。
廻廊の向こう側には本殿の鎮座する神域ですが、大社では右側には樹下社と隼人社、
左側には高山社と南大神社、本殿の奥には七王子社と5つの、摂末社が鎮座している。
ご神殿は素木造で造営されてます。
廻廊に沿って左手に回ると、屋根の庇の下に鋸、鏝、鋏などを収めた箱が並んでいる。
主祭神の金山彦命が金属の神であるところから奉納されたものだろう。
奉納された刃物が軒下に据えられた木造の大きな建物は神輿社。
5月5日の例大祭で活躍する神輿が安置されている。
この神輿は寛永19(1642)年に社殿が再建された際に家光が寄進したもの。
欅造りで金具には三葉葵の御紋があしらわれているそうだ。
神輿殿の北軒下には時代物の金物をあしらった奉納絵馬が掲げられてます。
南門近くから見る北門、神官殿方向。
高舞殿、楼門、手水場
内側には木々もなく大きく広がる空、すっきりとした空間、、朱色の建造物が
実に綺麗に映えてます。
南門を抜けて南宮山ハイキングコース方面へ。
聖武天皇大仏建立勅願所・湖千海社への鳥居。
社殿に使用されてていた古い瓦を集めた「瓦塚」
さらに参道を行くと、南宮稲荷神社の千本鳥居、そして稲荷社殿へとたどり着きます。
先は南宮山ハイキングコースがあり、山頂付近(左手山)には関ヶ原合戦時の
毛利家陣所跡の碑が建つそうです。
朝倉山真禅院(あさくらさんしんぜんいん)は、
元は南宮大社の神宮寺で、開祖は行基、創建は天平11(739)年。
当初は象背山宮処寺という名で、延暦12年(793年)桓武天皇の勅命を受けた
伝教大師最澄により南宮大社と両部習合、神と仏が一体化され、
同時に現在の南宮大社の鎮座地に移転し、寺号も神宮寺となり天台宗の寺院となった。
明治初(1868)年、明治政府の神仏判然令により南宮大社と袂を分かち現在地へ移転。
寺号も現在の「真禅院」に変更した。
神宮寺も関ヶ原の戦いで炎上した後、南宮神社と併せて家光が再建。
これらの仏教建造物も同時期に建てられた。
社号碑の建つ緩やかな石段を登り山門をくぐると、
国重要文化財である現在の本地堂は、約380年前の再建です。
一重の入母屋造妻入り造り 桁行4間(9.9㍍) 梁行3間(7.6㍍)
明治の移築時に 棧瓦葺(さんがわらぶき)屋根に改められ、平成の大修理時に
屋根を銅板葺に変更された。
観音堂は元宝珠院の建物。
堂内には秘仏・十一面観世音菩薩像を安置し、堂の前には賓頭盧尊者像が置かれている。
秘仏ご開帳は10年に一度。
次回は2020年4月18日(土曜日)予定
鐘楼は同じく1643年(寛永二十年)の再建。
吊るされている梵鐘は、国重要文化財。
うん??
国重要文化財 三重の塔
当寺にはじめて三重塔が建てられたのは741年(天平十三年)と伝えられるが、
関ヶ原の戦いの際に焼失し、現存の建物は1643年(寛永二十年)の再建。
高さ約25メートルの優美な三重塔には大日如来が祀られてる。
秋も深まれば、素敵な紅葉三重の塔が見られそうです。
なかなか寄ることは無いと思われる古刹。
いい旅の寄り道が出来ました。
車を走らせて今宵の宿地の大垣市へ。
大垣市駅北口近くのホテルに投宿し、日暮れまで少し間があるので再建城ですが、
大垣城までそぞろ歩き。
4層の天守を持ち、「城下町・大垣」のシンボルとして市民に親しまれている大垣城。
慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは西軍・石田三成の本拠地にもなり、本戦部隊が
関ケ原に移動した後も壮絶な攻防戦が繰り広げられました。
戦国の世が去った江戸時代、寛永12年(1635年)以降には戸田家11代が十万石の城主を
続け、戦火で焼失したものの、昭和34年(1959年)に再建されました
(写真左上は戦前は国宝に指定されていた艮隅櫓(うしとらすみやぐら))
天守からの西、夕空に眺める山塊。
大垣は、松尾芭蕉の俳諧紀行「奥の細道」の終着点で、地下水が豊富に湧き出る
ことから別名「水都(すいと)」とも呼ばれているそうです。
お城からの帰路は芭蕉の句碑のある水辺を少し歩いて、ホテルへ戻ります。
さあ、明日は街道へ、