「歩いて再び京の都へ」
旧中山道、夫婦歩き旅も美濃の国最後の旅になった。
大田宿、加納宿 間を飛び越えて、9月の33回旅は加納宿~垂井宿。
前回10月初の35回旅で、太田宿~加納宿を歩き、なんとか中山道旅を
1本線で継なぐことができた。
垂井宿は江戸から437km、旅の残りも100kmを切り、
美濃の国から近江の国、そして山城の国で「京の都」へです。
11月には3連休があるから、と10日間天気を見ると旅はOK。
即、宿の手配も何とか確保、で11月2日(土)~5日(火)の三連休を
絡めて3泊4日の街道旅へ。
令和元年11月2日(土) 第36回の旅へ。
早朝AM5:00、家を出発し圏央道、中央道、名神道と走り養老SAにて
昼食、休憩を取り、養老SAスマートICで高速を降り、向かうは旅の寄り道、
岐阜県垂井町南宮山麓の美濃一宮「南宮大社」へ。
寄り道を終えて、大垣市駅北口に近いホテルへ投宿。
11月3日(日)、明けて晴れの夜明を迎え、朝食後早めに宿を出て
スタート地点の垂井宿へ電車で向かいます。
歩いて再び京の都へ、第35回の予定旅路は、
江戸, 57番・垂井~ 58番・関ヶ原 1里14町 5.5Km
日本橋より 112里24町 442.55Km
58番・関ヶ原~59番・今須 1里 0町 3.9Km
113里24町 446.44Km
59番・今須 ~60番・柏原 1里 0町 3.9km
114里24町 450.3Km
60番・柏原 ~61番・醒ヶ井 1里18町 5.9Km
115里24町 454.2Km
61番・醒ヶ井~62番・番場 1里 0町 3.9Km
116里24町 458.1Km
62番・番場 ~63番・鳥居本 1里 1町 4.0Km
117里25町 462.1Km
27.1km
1日目の進み具合などによっては、
63番・鳥居本~64番・高宮 1里18町 5.9Km
119里7町 468.0Km
33.0km
AM8:30 垂井駅着、駅前では垂井ゆかりの竹中半兵衛像が迎えます。
駅前から北へ150mほど行き、前回足止めの中山道垂井宿入口の桝形路へ。
11月3日(日)AM8:50 無風、薄雲り、日差し有り
第35回の旅路へ。
江戸から57番目の垂井宿
天保14年(1843)に発行された宿村内大概帳によると、
垂井宿は宿人 1179人、家数は315軒、本陣1、脇本陣11、問屋場13、
旅籠が27軒。
(広重画 垂井宿)
桝形から少し行き、街道から左に細い路地を入ったところが「 垂井の泉の清水を利用して紙を漉いた 」といわれる 紙屋塚 。
「古来紙は貴重品であり奈良時代には紙の重要な生産地を特に指定して国に出させた。国においては、戸籍の原簿作成に重要な役割をはたした。ここの紙屋も府中に国府がおかれた当時から存在し、室町頃まで存続したと考えられる。
又当初は国営の紙すき場と美濃の国一帯からあつめられた紙の検査所の役割をはたしてものと考えられる。一説には美濃紙の発症地とも言われている。
街道にもどり、その先で左に湾曲していて、二つ目の枡形である
枡形道の右側に、かつての旅籠・亀丸屋旅館がある。
「安永6年(1777年)に建てられ、間口五間・奥行六.五間の母屋と離れに上段の間を
含む八畳間が三つあり、浪花講、文明講の指定旅館であった。
当時は南側に入口があり、二階には鉄砲窓が残る珍しい造りである」
垂井町(説明版)
県内の中山道、美濃路で江戸時代から営業を続けていたのは、細久手宿の大黒屋との
2軒であったが、現在は残念ながら亀丸旅館は廃業したようです。
亀丸屋から少し歩くと、右手におもてなし処・たるい庵(写真左)があり、
街道書には、向いに問屋場跡、と記されてますが、
案内板や標板が建っていないが、調べてみたら左手の家屋のようです。
街道書によれば、金岩家は代々「彌一右衛門」といい垂井宿の問屋、庄屋などの
要職を勤めていました。
問屋には年寄、帳付、馬指、人足指などがいて、荷物の運送を取り仕切り、
相川の人足渡の手配もしていました。
当時の荷物は必ず問屋場で下ろし、常備の二十五人二十五疋の人馬で送っていました。
通行が幕末になると荷物も多くなり、助郷の人馬を借りて運送したようです。
右側に立派な玄関屋根の丹羽屋(松井家)がありました。
丹羽屋から少し行くと左側に安田歯科医院があり、先隣りに本陣跡の標板が建ち、
栗田本陣のあったところで、栗田家は酒造業も営んでいました。
本陣は寛政12年の記録によると、建坪178八坪の大きさで、門構えや玄関など
あったが、明治維新後、学習義校(小学校)になり、その後役場になり、
現在は個人病院になっている。
本陣跡から約40m歩くと十字路があり、左側にここから2kmほど南に建つ
美濃国一宮・南宮大社(南宮山の麓に鎮座している)の大鳥居が建っていました。
「寛永19年(1642年)、将軍徳川家光が南宮大社の社殿を再建した際、石屋権兵衛が約4百両で造った」といわれる明神型石鳥居で、鳥居の横幅(内側)は4m55cm、頂上までの高さ7m15cm、柱の周りは2m27cmある大きなもので、
鳥居のまわりでは、月に6回、5・9日の日に市が立つ六斎市が立ち、近郷から集まった人々で賑わったようである。
(南宮大社へは前日2日に車を走らせ拝観しました)
南宮大社 ブログ
大鳥居を潜り少し歩くと右手に開創1628年の臨済宗臥龍山・玉泉寺があり、
寺境内に隣接して、樹齢800年、幹回り8.2mの欅(けやき)の大樹根元から
湧きでていた「垂井の泉」があります。
(大ケヤキは残念ながら2015年(平成27年)その長い一生を終えたそうです)
垂井の地名の起源とされる歴史に残る泉で、岐阜県名水50選にも選ばれている。
木曾名所図会の垂井清水の項には、「垂井宿玉泉寺という禅刹の前にあり、清冷にして味わい甘く寒暑に増減なし。ゆききの人渇をしのぐに足れり」と記されている。
清水は古代より枯れることを知らず、中山道を旅する人々の咽を潤し、地元の人々の生活に利用されてきた。
古くから和歌などに詠まれており、元禄四年、芭蕉もここで詠んでいる。
葱白く 洗ひあげたる 寒さかな
この水が曳かれ美濃紙が漉かれたということです。
(左側に倒木と追記されてます)
隣にある 專精寺 は、関ヶ原合戦に西軍に参加した平塚為広の 垂井城(1万2千石) が
あったところだそうで、碑があったようですが見過ごしてしまいました。
再び大鳥居を潜って街道に戻り、すぐ左側にふれあいプラザがあり、街道書には
金岩家が勤めた脇本陣があった、とありますがなんの標示もありません。
門と玄関が、このさきにある本龍寺に移築されてるそうです。
その先には、「垂井宿お休み処」の看板を出す「旧旅 籠・長浜屋」がある。
平成10年までは酒屋として営業していたらしい。
旧旅籠長浜屋から約50歩くと左側に、文化年間末期(1817頃)に建てられた油屋卯吉家跡(小林家住宅主家)がありました。
幕末頃に建てられたとされる国登録有形文化財「小林家住宅主家」である。
油屋だった宇吉家から明治14年(1881)に小林家が譲り受け、「亀屋」の屋号で旅籠を営んできたとのこと。
「切妻造瓦葺つし二階建平入りの建物で、二階には両側面に袖卯建を設け、庇下には防火用の濡れ筵掛けが残っている」そうだ。
約10m先の右側に創建は不詳ですが、浄土真宗大谷派・東光山本龍寺が有り、
山門前が高札場跡だったようです。
本龍寺の山門と書院玄関は明治時代初期に中山道の宿場町である垂井宿の脇本陣の
表門と玄関(奥)を移築したものです。
江戸時代初期の住職は松尾芭蕉と親交のあり、元禄4年(1691)芭蕉は当寺
で冬籠りしたとされ、、境内内に句碑や時雨庵には芭蕉翁木像が安置されている
そうです。
本龍寺から街道らしい曲がりくねった道を200mほど行くと、
街道に戻り少し先は宿場のはずれは西の見付です。
左側に垂井宿京(西)口の西見附跡があり、解説標板が建っていました。
冒頭にアップした広重描く垂井宿は、雨が降る中山道の松並木の中を
大名行列が西の見付へ入ってくる垂井宿の様子を描いているそうです。
愛宕神社を出て大谷川に架かる前川橋の手前左側に、八尺堂地蔵尊道道標が建って
いました。
八尺堂地蔵尊は少し川筋を南に進んだ先にあるらしい。
大谷川沿いに右奥に行くと八重垣神社があった。
祭神は素盞嗚尊と稲田姫命である。 南北朝の争乱で土岐氏に守られて当地に来られた後光厳天王が南郡追討を発願し成就したので、山城の祇園社を勧請し、牛頭天王社と称したのが創建の謂われだそうです。
春5月には例祭、曳山祭りが開催されるそうで、大きな曳山蔵が学校グランド脇
に建ってました。
(垂井曳山祭り・曳山 パンフレットより)
街道に戻り大谷川を前川橋で渡ると、かつての松島村で、右側に地蔵尊が祀られ、
地蔵尊の先には、左側に松島稲荷神社が祀られていました。
松島稲荷神社から約500m歩くと東海道本線が現れ、出屋敷踏切を渡ると
鉄道と並行した国道で塞がれ、日守交差点を歩道橋で渡り街道へと出ます。
道の四つ角に、南宮神社近道八丁と表示した道標がありました。
京側から来た場合、この道を行けば宿場を通らず、南宮神社に近道していける。
八丁、約900m弱、確かに近道だ。
日守交差点を渡り約200m歩くと右側に、日守の茶屋跡があり、
建物の前に解説標板が建っており、地蔵堂が祀られていました。
もともと江戸末期に関ヶ原山中に建てられた庵で、明治になって当地に移され、
昭和の初めまで休み場として利用されたそうです。
また、大垣新四国八十八ヶ所弘法の札所でもあったとのこと。
すぐ隣が日本橋から112番目の、国指定史跡「垂井の 一里塚南塚」が現存し、
標柱と説明板があります。
「浅井幸長は五奉行の一人である浅野長政の長男で、甲府府中の10万石の領主だった。 石田三成と犬猿の仲だったことから、関ヶ原の合戦では東軍に属し、池田輝正等と岐阜城を攻略。 戦い当日は、南宮山の西軍に備え、この付近に陣を構えた」と、
書かれていた。
関ヶ原の戦いの折、ここに東軍の浅 野幸長の陣があり、南宮山の毛利秀元と対峙した
と石碑が立っているそうで、以前は一里塚を登ることが出来る、と旅人に人気だった
ようですが、鎖が張られていたので登るのはやめにしました。
中山道では板橋宿の志村一里塚とともに2か所だけの国指定遺跡。
大事にしたいもんですね。
一里塚跡から約200m歩くと日守西交差点となり、右折して交差点を横断し、
左方向に曲がって進みました。
日守西交差点からしばらく行くと左側に、「ここは垂井宿」板が建ち、
さらに先には「これより中山道 関ヶ原宿野上 関ヶ原町」の標柱があって、
関ヶ原町に入る。
関ヶ原宿入口碑から関ヶ原バイパス上を渡り野上の集落をしばらく進むと
右側に、「縣 社伊富岐神社」の石柱、伊富岐神社の石鳥居が建っていました。
鳥居からしばらく進んだ垂井町伊吹に美濃国二宮・伊富岐神社がある。
伊吹山のふもとにあたり、伊福氏の祖神である多々美彦命(伊富貴神)を祀った
古い神社で、713年(和銅6年)には存在したともされる。
ちなみに、一宮は南宮大社です。
(この付近後方からすでに関ヶ原戦場になるのか、遠くの山中腹に陣跡であるよう
に幟が立つ台地が見えました)
平木川に架かる平木川橋を渡ったりしばらく行くと、
右側に「野 上の七つ井戸」があり、そばの説明板には
「野上は間の宿で、僅少の地下水を取水して多目的に利用されてきた」とあり、
休息所を兼ねて修復・再現したもので、井戸の釣瓶は実際に使えるようでした。
井戸の左側にしゃもじ塚の案内標識が建っていたので、分岐を右折して路地を
進みました。
路地はクランク形に進むと東海道本線の線路沿いの道となり、踏切を渡らずに
線路沿いを進むと、草道の左側に五輪塔が建っているしゃもじ塚がありました。
※平忠常の墓で、長元4(1031)年に平忠常の乱で捕えられて京に護送される際、
病に倒れ、里人が出した食物をしゃもじごと口に入れ息絶えてしまったそうです。
(平忠常とは、平将門の乱の約100年後に関東で反乱を起こした人物なんですね)
しゃもじ塚から街道に戻り約130m歩くと、左側に岩田家の豪邸が建ち、
静かな野上集落を楽しみながら足を進め、
野上の間の宿を出ると松並木に代わり、いよいよ関ヶ原戦場の色合いが濃くなって
きました。
これは? 防火用ホース格納庫でした。
徳川と石田の家紋が並び、徳川の家紋が上には位置しているが、
石田の家紋のほうが大きく描かれてるところが面白いですね。
側面には「一筆啓上火の用心」と書かれてるが、徳川の家臣・本多重次の逸話という
説がありました。
陣所跡から少し先左側は小公園に整備され、六部地蔵が祀られている。
「六部」とは「六十六部」の略で、全国の社寺を巡礼しながら修行する者のこと。
宝暦11年(1761)頃、この地で亡くなった行者を祀ったものであるとのこと。
六部地蔵からも松並木は続き、右側に解説標板が建っていました。
樹齢300年松並木が両側に十数本残っていて、岐阜県内で唯一残る松並木で、町では
天然記念物に指定し、防虫対策や補植で保存に努めている、と記されてます。
松並木の解説標板から約200m歩くと、左側山の中腹に徳川家康最初の陣所跡が
眺められました。
※桃配山は壬申の乱の際、大海人皇子がここに布陣し、兵士に桃を配って勝利を得たところで、故事にならって家康の最初の布陣を行ったそうです。
(それにしても「立ち入り禁止」とはなぜでしょうか??)
脇から登る道がありましたが・・
初陣所跡から約210m歩くと、いったん国道21号に合流して、
すぐにまた右手へ分かれる。
(渡る手前の左側は車関係の会社ですが、「トイレ有ります」の矢印付案内板があり
利用させていただきました。老老旅人にはありがたいですね)
国道から左側にくだると、
「ここは中山道」「この家は築100年無料休憩所 関ヶ原町非公認」の看板がある
民家があります。
このまちは戦場の町で全国的に知られ、中山道の旧宿場町としての知名度は低い。
(街中を歩いていてよくわかりましたね)
続きます。