59月14日(土)AM9:00、江戸から53番目の加納宿を旅立ち約6kmm。
正午12時、54番目河度宿。
天王川をゆるく右カーブしてる慶応橋で渡り、河度宿を後にします。
橋を渡る少し前に工場などでサイレンが鳴り、正午に。
橋を渡って食事処が有ったらお昼にしよう、と話していたすぐ先に牛丼店。
朝飯が早かったのでお腹も空いた、でお昼を兼ねて一休み。
さあ、スタミナも付いたぞ!といても当然並盛ですが・・旅の再開。
店の前付近から直線道路が続く生津縄手呼ばれる地域で、
生津縄手は、慶応橋を渡った処から県道23号が交差する生津交差点の先きまで
700m強続いています。平安時代には荘園があったといわれるそうです。
慶応橋から縄手の中間くらいまでは、道路の北側が岐阜市、南側が瑞穂市で、
縄手の中間くらいから瑞穂市へ入ります。
右手にカーブして縄手は終わり、
工場や民家が続く歩道のない路は、生活道路のようで結構車の往来が多く、
注意しながらたんたんと足を進めます。
右手に生津小学校を見て縄手の曲がりからさらに700m強足を進めると
突き当たるようなY字路分岐で石碑と現代の道標があり、小さな祠の馬場地蔵堂が
あり、持参街道書には「墨俣街道との馬場追分と呼ばれていた」とありました。
馬場地蔵堂からしばらく行き、糸貫川を渡ると本田の集落に入る。
街道書には「糸貫川は流末で天王川に落ち合って長良川に注ぎ、
かつては「鶴の名所」で和歌の歌枕として詠まれていた」とあります。
糸貫橋を渡った左に、南無延命地蔵尊が安置されている文化6(1809)年に
建立され本田地蔵堂があります。
本田の集落へ入ると右手民家の庭の一角に、現代風門扉の本田仲町秋葉神社が
祀られてます。
旧本田村は東町、仲町、西町で構成された立場があったそうです。
左手に緑の中山道道標と「中山道街並み」と記した木柱標識が立てられ、旧家らし
家屋が残されてます。
路の右側には、これも立派な門扉の本田西町秋葉神社が祀られていました。
秋葉神社の立派な鉄製門扉は加納宿から良く見かけたわね、この辺の風習かしら?
て、カミさん。
本田バス停の脇は本田代官所跡で、
「本田は初期江戸幕府の天領で、寛文10年(1670年)野田三郎左衛門が
初代幕府直轄地代官に任ぜられ、この地に代官所(陣屋)が設けらた」
との解説パネルが建つています。
代官所跡から約100m歩いた先の水路を越えた右側に、
なぜかな?京方面向きに高札場跡の解説パネル(赤丸)が建てられていました。
約100mほど歩くと本田松原交差点で、街道書には「右側に大エノキ」とあるが、、
伐採された切り株が残る(歩道信号機右下)だけで、一角はつい最近整地された
ようです。
本田松原交差点を過ぎて左手は田畑と民家、右手は用水路に沿って大きな工場や
研究所が続き、左手ては従業員用の広大な駐車場。
そして道は相変わらづ歩道帯の無い道が続き、車の往来が激しく路肩ぎりぎりを
歩き約400m、工場の終わったところに流れる川が五六川。
橋の手前左手川沿いに少し入ると、造園されたばかりのような小公園で、
こぎれいなトイレがあり、利用させていただきました。
街道に戻り五六川を五六橋で渡ります。
街道書には、「この先の美江寺宿が、江戸日本橋から56番目の宿場であることに
由来して名付けられた」と書かれてる。
本田の集落はここまで、川を渡ると農村地帯になる。
とカミさんが、美江寺宿が56番目、55番目では??
はい、ごもっとも。これはお江戸日本橋を1番目と数えたから、なんだそううな。
右手の用水路はルコウソウに覆われ、左手に「富有柿と花の街 瑞穂市」の大きな
丸看板があり、美江寺観音 1km、本陣跡 1.3kmなどと記され、
少し先左手に「この道は中山道」の縦看板が見えてきます。
富有柿は良く知られる柿ですが、この地が発祥の地だったのですね。
市の案内 によれば、「富有柿は、1857年(安政4年)に美江寺宿の北西・瑞穂市
居倉で栽培されていた柿の木を、接ぎ木栽培が成功したことから、
1898年(明治31年)に「富有」と命名され、全国に普及した」とされてます。
美江寺五六町交差点を渡ると左手に並ぶ巨大なビニールハウス群があり、
街道書では「さ ぼてん村」とあり、すべてサボテン栽培のハウスだそうで、
また、交差点の先には松並木が続いてたそうですが、戦争で松根油を採取するため
全て伐採された、と記されてます。
美江寺五六町交差点から少し歩くと美江寺宮前町交差点で、
すぐ先は大垣から谷汲口を経て樽見に向かう、樽見鉄道美江寺駅の踏切があり
宿街へ入ります。右手に美江寺駅ホームが小さく見えました。
踏切を渡って30mほどのところが、北方向にある華厳寺に向かう谷汲街道の追分と
なっていて、丁字路右角に、「左北方谷汲ニ至ル」「右岐阜加納ニ至ル」の道標。
(写真はなぜかボケボケでなし)。
左角に美江寺宿名所・遺跡の案内板があり美江寺宿の東(江戸)口になるようです。
東の長良川「河渡の渡し」と、西の揖斐川「呂久の渡し」の中間にあり、
徳川幕府の中山道整備される前から、豊臣秀吉の命で宿場として重要視され
「問屋場」が設けられ、往還(5街道以外の脇街道のこと)の荷駄中継ぎの業務に
当たっていた。
江戸時代になって中山道が整備され、1637年(寛政14)に昇格し公式に
宿場として開設した。
美江寺の地名は、奈良時代(719年)建立の美江寺観音から由来している。
間の宿的な立地のため、本陣が建てられたのは1699年(寛文9)と遅く、
脇本陣は置かれることはなかった。
宿場は、濃尾大地震(明治24年)で全壊してしまった」とあります。
天保14年(184年)の宿村大概帳では、家数136軒、582人。
本陣 1、脇本陣無し、旅籠11軒で天領(大垣藩預かり)。
広重画 みえじ(美江寺)
宿場内の道幅は狭く人影はほとんど見かけませんが、結構車の往来が多く
路肩ぎりぎりを注意しながら歩きます。
少し進むと美江寺大門交差点があり、すぐ先右側に石碑だけが残る、
日本橋から108番目の「瑞穂市指定史跡 美江寺一里塚跡」(写真下左)と、
鎌倉時代後期の禅僧で美江寺で亡くなった自然居士(じねんこじ)の墓所を
示す石碑(写真下右)が立っている。
碑の先左手には、うだつの上がった「酒の布屋」と看板にあるこの店は、
元禄9年(1696年)創業の造り酒屋で、明治24年(1891年)の
濃尾地震ときに宿場内で唯一被害を免れた建物だそうです。
(現在は酒の小売店かな)
ちょっぴり昭和レトロの風情を残す町並みを行くと、美江寺交差点で右手に
美江神社があり、手前に右折の道角に美江寺観世音道の道標が建っています。
市案内によれば、
この地には、もともと719年(養老3年)から「美江寺」「美 江明神」があり、
1549年(天文8年)に斎藤道三により岐阜市内に移築された後、
1566年(永禄9年)からは新たに熊野権現社となっていたものが、明治以降に
美江神社と改称されている。
神社の奥には、1567年(永禄10年)に織田信長の命により再建された
「美江寺観世音菩薩」が今も美江神社奥に祀られている。
(そういえば、宿で見た岐阜城のパンフに金華山山麓に美江寺がありましたね)
美江寺交差点を街道は左折して進みますが、交差点の少し手前右側が美 江神社。
鳥居の脇の案内板には、「ここに高札場がありました」とあり、
右側奥に復元高札場、手前右側に宿碑が建てられていました。
神社の奥には、1567年(永禄10年)に織田信長の命により再建された
「美江寺観世音菩薩」が祀られています。
美江寺神社を後に、交差点を街道は桝形で左折して進みます
直ぐ右側に虫篭窓を備えた、旧美江寺城主の和田氏の末裔が庄屋を勤めた
和田家があり、左手にうだつを上げたちょと旅籠風の家?
和田家から約160m歩くと左側に幟を立てた、山本金兵衛が勤め問屋を兼ねた
本陣跡があり標石が建っていました。
本陣跡の道路隔てた斜め向かい側に、明治6年に当時の美江寺村が創立した
小学校・開蒙学校跡碑が建っていました
学校跡碑からしばらく行き、商人宿の看板を見ながら進むと農家風の家の前の
分岐を右に曲がりると道標石碑が建っていて、後ろに屋根付きのベンチが
置かれてました。石碑はここも墨俣道の道標で、
「左 大垣墨俣ニ至ル 右 大垣赤坂ニ至ル」と彫られてます。
あの秀吉の(当時は藤吉郎かな)の一夜城のあった墨俣へ向かう道なんですね。
そして、ここは美江寺宿の京(西)口でもあるんだそうです。
PM2:20、
江戸から55番目美江寺宿を後に、56番目垂井宿を目指しますが・・・
続きます