歩いて再び京の都へ、第34回も2日目の朝を迎えました。
今日も快晴のようですが、暑さはどうかな?
今朝は日曜日なので朝ドラはなし。
身支度をして早めにホテルを出て、JR美濃太田駅 、AM8:03発の
JR・岐阜駅行乗車し、昨日足止めの「各務ヶ原駅」前へ。
10月6日(日)AM8:30 第35回2日目の旅立、快晴夏日
1日目はここ各務原駅前で半分の13km強で、2日目はのこり約14km。
ただし、街道筋は国道、県道を含めかなり交通量が多く、その割には歩道は狭く
ガードレール無しも多い、との情報があり、歩きには要注意です。
激しい交通量の国道21号を1km強行くと、左右に郊外型店舗が続き、車で立ち
寄るための店が次々と並びます。
街道書には左手二十軒バス停付近は二十軒立場跡と記されてますが、探しても
周辺に示すものが何もありません。
直線の中山道は円蔵寺縄手と言われ、周辺三ツ池地域は鵜沼宿の本陣を務めた
桜井家一族が開拓し、三ツ池新田と呼ばれた、とも記されてます。
二十軒立場跡から約300m歩くと三ツ池交差点があり、ここは地下道で横断するようになってます。(地下道を利用しなくても横断は可能な様子ですが、なにせ交通量が
多く、年寄りは安全に、安全にと地下道を利用して斜めに右手へ渡りりました)
道路の右手には寄りませんでしたが、街道書に拝殿が伊勢湾台風で崩壊したと記さ
れてる神明神社がありました。
(現在も再建されてないのかな?)
地下道で斜めに交差して渡り階段を上がると、すぐ右手は曹洞宗長楽寺で、
大きな地蔵尊と祠に祀られた三面六臂の馬頭観音があり、境内には、
明和の文字彫られた観音石像や、平成に改築したお堂に、江戸末期ころに奉納された
といわれる三十三観音像が祀られてました。
長楽寺から約200少し歩くと左手に、地蔵座像、立像の二体が祀られてた。
地蔵祠からは、しばらく花などを眺めながら、たんたんと国道歩道帯を
700mほど歩いてるうちに左右は鵜沼川崎町で、先に蘇原三柿野駅前交差点が
見えてきて、国道21号は名鉄線を越す陸橋へ上がってゆきます。
交差点で国道左手へ渡り左手の側道を行くと名鉄三柿野駅がありますが、
街道書は国道右側の川崎重工の工場群が続く側道へ案内しています。
階段で陸橋へ上がり名鉄線を越えさらに100mほど行き陸橋下の側道へ
階段を下ります。
下りた側道で橋桁越の左手は航空自衛隊の岐阜基地営門、右手に航空機など手掛ける
川崎重工工場が続き、国道と合わさって更に300mほど先の三柿野交差点が近づいてきます。
国道の左手に自衛隊官舎が続き、国道21号はバイパスとなって左手に分岐して行き、中山道は直進で分岐右手へ進み蘇原六軒町へと入ります。
分岐から約300m歩くと、右側のブロック塀の角地に標柱が建って、
日本橋から103番目の六軒一里塚跡がありました。
六軒一里塚跡付近は茶屋が六軒並んでいたので六軒茶屋と呼ばれた立場跡で、
往時は「野をわけゆけば六軒茶屋の村はわびしき様也」と云われていた、と
街道書にはあります。
横の塀に有る標語、いいですね。
つたえたいな~・・でも人影は無し・・
(でも、むかしはこれが普通の生活の中での挨拶よね~、てカミさん、
そうか、こうしてみんなに思い出してもらわなければ・・の今世相なんだな))
真向かいに竹林寺、右手に白壁塀に門扉に三ツ柏の家紋を付けたお屋敷、
普通の民家のようだが、なにか由緒の家柄かな?
などを見ながら足を進めると、大きな幟、石の鳥居、灯篭も立派な秋葉神社が
祀られてます。 お祭りが近いのかな?
40mほど先右手の祠に祀られるは、お花を供されて地蔵尊。
地蔵祠から約120m歩くと右側に神明神社が祀られており、神社の参道入口脇にも
祠があり、馬頭観音が祀られていました。
街道筋の神明神社でも見られましたが、拝殿前に彫刻が施された立派な透垣
(藩塀)があり、幣殿に献燈と狛犬が本殿を守っています。
研究公開された方の資料に、下記の記述がありましたので参照させて
いただきます。
「蕃塀は、神社の一施設で、通常は参道上で拝殿の前に存在する短い塀で、
「不浄除け」、「透垣」、「籬」などとも呼ばれる。
正殿を直視しない(できない)ようにするとか、不浄なものの侵入を防ぐために
造られたと思われるが、正確な目的は不明とか。
尾張地域に多いといわれ、元々は伊勢神宮のものを指すようで、伊勢神宮で
起源は8世紀以前に遡ると思われ明治2年(1869)の第55回式年遷宮の際に玉垣と
共に蕃塀が再興されたという。
尾張地域の蕃塀の歴史をみてみる。これまでのところ、記録上最古の尾張の蕃塀は
承応2年(1653)に補修された「紙本著色真清田神社古絵図」に描かれた真清田神社の
蕃塀である。絵図の表現などの分析からみて、この蕃塀は安土桃山時代にまで遡る可能性もある。そして江戸時代には、少なくとも尾張大国霊神社(1714年以前の建立)、
熱田神宮(1752年以前の建立)、津島神社(1825年頃の建立)の3社にも蕃塀の
存在が確認され、尾張にはある程度広がっていたものと考えられる。
これらは「透垣」などと呼ばれ、「蕃塀」と記された事例はないようである。
この結果、尾張地域の蕃塀は、平安時代前後の段階に伊勢神宮の蕃垣の影響を受けて
成立した可能性が残されるものの、江戸時代に尾張独自に「透垣」が造られるようになったと考えられる」 とありました。
拝殿脇では来週のお祭りの準備が氏子の方々の手で進められてましたね。
神社のトイレを利用させていただき、相変わらづ狭い歩道帯の街道を進みます。
おや、「くねくね」てどんな食べ物??なって看板をみながら行くと、なじみの
Caféチェーンのお店があり、AM10:30Caféタイムの足休め。
(くねくねは、豚骨ラーメンのチェーン店だったようです)
Caféタイムを20分ほどで終えて住吉町表示の交差点を越えると、歩道帯は広く
なり、電線も地下化されたか、すっきりとした街並みになりました。
街道地図を見ると、面白いですね。
右手の町名が那加信長町で、次の街は那加織田町。奥の名鉄各務線近くには
織田信長公園が記されてますが、なにか所縁がある?洒落気の語呂合わせ?
交差点から200mほど行くと、右手の大きく立派な建物は各務原市役所のようでし
たが、移転したのか空きビルになっていて工事が始まる様子。
見える街道沿いには何の説明板も有りませんでしたが、地元の方のお聞きすると
高層ビルの新庁舎建設で工事が始まったようです。
一時期、各市町村の庁舎新築ブームとも言える時期がありましたが、
今の時期には珍しいのでは。
基地や関連企業なども多く、財政的に豊かなんでしょうか。
市役所から約400m歩くと門前町2交差点があり、先の右側は
旧岐阜大学の農学部敷地跡に造園された広大な各務原市民公園が続きます。
公園内を北側へ横切り300mほど先に神明神社があり、そこには鼠小僧治郎吉の
碑がある、と街道書には記されてましたが、寄り道せづに足を進めます。
鼠小僧治郎吉、といえば昔から歌舞伎、講談などで義賊としてもてはやされた
庶民の人気者ですが、最期は処刑されたようです。
私も昭和映画の全盛期やTV草創期、少年雑誌などでなじみの主人公でしたね。
モデルとなった実在の盗賊はいたそうで、一時江戸追放(江戸払い)になった頃に
でもこの地になにか逸話をのこしたのかな?
各務原で名を見るとの旅の面白味ですね。
たしか今年の前進座での秋の上演広告がありました。
公園の西は新境川が流れており那加橋で渡ります。
川上側河畔は桜の名所で、この地の出身の歌舞伎役者、市川百十郎が、新境川
(放水路)開削工事時の物故者供養のためにと、1931年から2年間に渡り
吉野桜を寄付したことに由来し「百 十郎桜」と呼ばれていました。
戦時中は燃料として伐採されたそうですが、市制施行記念として1千本を再植樹
した、と市資料に有りました。
街道書には新境川は戦国時代美濃、尾張の国境であった、とありますが、
調べた資料によると、「新」とはついてますが、
「現在の各務原市の西部地域は農業用水が慢性的に不足していた。そこで境川を現在の各務原市蘇原大島町より分流し、各務原市下中屋町にて木曽川に合流する放水路が計画され、1930年(昭和5年)に完成した。各務原台地を切り込み、放水路を掘った時に出た土砂は、陸軍各務原飛行場の拡張に使用された」とあり、
新境川は、旧境川部分と境川放水路部分(那加橋は放水路の川)があるそうです。
旅に当たって各務原の歴史を紐解いたときに、各務原市は我が町と意外な
結びつきがあり、似たような街の歴史があることにを知りました。
私達の住む街は、初めて日本の空に飛行機が飛んだ日本航空発祥の地と言われ、
戦中は 所沢陸軍飛行場や演習場などがあり、大正年代に各務ヶ原に設けられた
陸軍飛行場に所沢陸軍航空第2大隊を移したそうです。戦後は各務原と同じく米軍に
接収されていましたが、昭和34年ころに返還され、一部は広大な米軍の通信基地が
今も残っていますが、一部分の跡地は官庁街、住宅団地と県立「航空記念公園」となっていて、公園内には「日本航空発祥記念館」があり、復元された初飛行の機体「ファルマン機」ばどが展示されてます。
初飛行の滑走路跡は花壇となって残されており、隣接市の飛行場は現在航空自衛隊の
基地として運用されてます。
各務原市も、所沢の航空隊が移設して旧軍の基地となり、接収、返還、自衛隊基地の
歴史繋がりがありました。
橋を渡ると電柱が復活し、渡った橋の袂に大きな「なかモール21」と掲げたアーチ
が建ち、歩道には初期の航空機をモチーフにしたタイル画は埋め込まれた
那加地域商店街です。
「並木などのある遊歩道的商店街モール」の街づくりを目指してるということかな?
各務原市にも自衛隊基地に隣接して「航空宇宙博物館」がありますね。
時間が許せば寄り道したいと思ってましたが・・またの機会にです。
那加橋から電柱復活の道を100mくらいの右手に、栄町秋葉神社が祀られ、
さらに50mくらい先にも「なか21モール」のアーチがあり、右手へ入ると
名鉄那加駅になるようです。
さらび100mほど歩むと右手に赤い鳥居があり、神殿が秋葉神社の様に鉄扉を持った
西那加稲荷神社が祀られてます。
足をすすめてさらに100mほど行くと、先は二股分岐の加納町5差路交差点で、
街道は二股の右手へ進みます。
分岐には石柱「中山道間の宿新か納宿」があり、鵜沼、加納宿間は
4里10町(約17km)と長いため設けられた間の宿、新加納へと向かいます。
(あっ、コンビニへ寄るの忘れた!目の前の焼き肉屋の看板をみて思い出しました。
手前、150mくらいにコンビニが有ったのです。
今回の旅でも、いつもの非常用の健康補助食品(昼食代わり)を持参するのを
忘れていて、 この旅区間も食事のできるお店が殆どないようなので、食品店か
コンビニが有ったら 寄て食品をゲットする予定だったのです。
まあ、この先に新加納間の宿があるから、何とかなるだろうと、戻らず足を進めて
しまいましたが、・・ というのはちょいと甘かったんですね・・・)
( AM11:30)
交差点から200mほど右手のがっちりとした石積上には秋葉神社がまつられていて、先隣軒下に茶色の杉玉が下げられた建屋は、大正9年(1920年)年に創業の
「銘酒栄一」蔵元、林本店で、新酒の熟成を知らせてました。
すぐ先の左手住宅の角に自然石があり、中の文字が読み取れ、街道書では
中山道道標とあります。
道標から50mほど右手に鳥居と社標、蛙の親亀こけたら式の三代石造があり、
参道を50mほどに赤い両部鳥居が建ち、さらに100mほど奥に
滋賀県大津市にある日吉大社の分祀社の「日吉神社」が祀られてます。
案内板によると、
昔、この神社の境内には池があり、そこに住み着いた蛙と村人たちにまつわる伝承が
伝わっています。
「 むかし、日吉神社のひょうたん池に、いつのころか大きな蛙が住みつき、
村人にいたずらをするようになった。村の人は、かえるは腹が減って悪さを
するのだろうと、池にごちそうを投げ入れた。
すると、蛙のいたづらがなくなっただけでなく、薬を届けたり、日照り日には
雨まで降らせてくれた。
以来、福蛙として村人に親しまれるようになった。」
初午の4月の第1日曜日には「蛙まつり」、通称「げえろ祭り」が行われ、境内の池に
まかれた餅を食べると無病息災でいられるとされてます。 現在、池は埋め立てられて
いますが、祭りは行われているそうです。
日吉神社の境内には、狛犬の代わりに狛蛙が建てられ神社を見守っていますね。
この狛蛙は、子供蛙が背中によじ登ろうとしているよ!
日吉神社鳥居から50mほど行くと左手へ入る道があり、角にたてられた新しい
石柱道標の上にも蛙がちょこんと鎮座してます。
街道脇の空き地には秋の気配が漂ってますが、今日は暑い夏日街道です。
蛙道標から50mほど先から「新加納の立場」で、疝気(せんき)の妙薬が評判で、
皇女和宮が休息した梅村屋茶屋本陣跡が右手にある、と街道書に記されてますが、
標識などが無くどちらかな?
(この先に有った新加納宿宿絵図が示した場所から、写真左上の二軒の家屋の
前の家ではないかと憶測)
先は道がすぐに二股路となり、角に新加納案内図や蛙石像、一里塚跡の石柱があり
ました。
(AM11:55)
新加納の立場跡から桝形に入る二股の手前と角、二対の日本橋から104番目、
「新加納の一里塚」跡碑が置かれている。
(新加納宿の資料から抜粋記載)
「中山道は江戸の日本橋から京三条大橋までの、約532Kmで、この間に六十九(草津から東海道に合流、六十七宿が中山道)の宿場が設けられました。岐阜県内は落合宿から今須宿までで美濃十六宿といわれます。そのうちの鵜沼宿から加納宿までの四里十丁(約十七Km)間に新加納は位置し、両宿のほぼ中間です。まさに「間の宿」です。
宿場は一里(4Km)から二里の間隔が普通ですが、鵜沼、加納宿間は、中山道では二番目に長い間隔です。これは多分この間は地形が平坦で通行しやすく、また、各務原台地は水が得にくいため居住に適さなかったからでしょう。
新加納に立場(たてば)について、
立場は、宿場間に通行する人や馬が休息するために設けられた施設です。幕府が十九世紀初期に作成した中山道分間延絵図の新加納村に、立場の文字が一里塚の東に記されています。
立場がいつ頃から設けられてかわかりませんが、宝暦六(1756年)の「木蘇路安見絵図」にも一里塚に隣接して立バがあります。新加納の他に各務原台地には、六間茶屋と二十間茶屋が地名として記され、中山道筋で湯茶の接待がされていたようです。
分間延絵図作成のために享和元(1801)年に新加納周辺の村々が書き出した事項の中に、「往還立場、更木新田煮売茶屋渡世仕候」とあり、更木新田の位置は不明ですが新加納の立場では煮売茶屋が営まれている」
二股分岐の右手道は近年造られた道で、旧街道は左手の直進の道を行くと、
突き当り正面に高札場跡の石碑がこれも蛙を載せて建ち、中山道は桝形となり
右折して続いてゆきます。、
突き当り左手はこの地の領主旗本「坪内氏」の御典医だった江戸時代から続く
今尾家の広大な屋敷で正面は現在も医院を開業している今尾医院。
高札場跡を左手へ歩き30mくらいで右折し、街道書に有るお寺へ向かいますが、
その右手道筋は今尾家の黒塀に囲まれたお屋敷が続き、木戸口を付けた立派な
薬医門が残され「今尾醫院」の表札も掲げてあり、門や塀の瓦の上にある
「逆立ち獅子」「七福神」等、実に趣のある素敵な建物で文化庁「登録有形文化財」
の標識が掲げてありました。
(ちらりと覗いた庭も、よく手入れさた風情あるいい庭園でしたね)
門の向いの道を挟んでお堂があり、ここも今尾家が管理する「薬師如来尊御堂」で
重要有形文化財の指定されてました。
今尾家の西隣の道を入ると左手は、尾張徳川家が狩りの際に宿所とし、「葵の紋」が
許された真宗大谷派・善休寺あり、屋根瓦には葵の紋があります。
写真下右端、山門左手に「右きソみち 左京ミち」の道標がありましたが、
「なぜ、ここに?」
(道標の有る南北の道は、中山道の更に旧道の説あり)
善休寺の南側の道は、手前には狛狐から参道を歩くと赤い鳥居、各務原市重要文化財
の稲荷堂があり、突き当りには鎌倉時代に夢窓疎石が開山した少林寺で、
織田信長に属し、後に徳川家康に仕え関ヶ原合戦の後に六千五百石を領した坪内家の
菩提寺で、旗本・坪内家は新加納陣屋を構えて、代々続いて明治に至った由、
付近南側が坪内家の陣屋屋敷跡だそうですが、明治に入り解体されたため陣屋の
遺構は無く、現在は表門などの再建修復工事などが行われてました。
中仙道へ戻り今尾医院の前を通り、100m先を現代道標を見ながら桝形に左折し
加納宿をめざします。(12:30)
後半へつづけます。