歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅 (第13回)松井田宿から坂本宿へ  前編

>平成28年6月18日、3年半をかけて東海道五十三次を旅し、
京の三条大橋に立ちました。
そして夫婦は旧中山道69次の旅、再び京を目指して歩いています。

 

>12月10日、午後4時17分、西松田駅前で12回目の街道旅を終えました。<

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寒気が流れ込み、16日は西日本各地で初雪が観測された。

家周りも雪が降ったか、と思わせるほど畑は真っ白な霜が降りていた。

明けて17日早朝、再び今年の〆となる街道旅へ出発。

予報では風も収まり日中は平年並みになる由だったが・・。

高速道を走り、前回の旅でも使用した、群馬県松井田町・JR西松井田駅・駐車場へ。

青空が広がるもまだ朝の厳しい冷え込み、そして強めの西風。

AM7:50、14回目の旅立ち。

真後ろに雪帽子の浅間山と左手に妙義山。そしてほんわり浮かんでるお月さん。

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 200mほど北へ行く東西に延びる旧中山道、県33の駅入り口十字路。

向う側へ渡ると数本の赤松下、墓地入口付近に、大小たくさんの庚申塔

馬頭観音などが並んでます。

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向かいが曹洞宗・補陀寺(ふだじ)。

(補陀寺・概要)市資料より抜粋

 補陀寺の創建は応永年間(1394~1428年)、無極慧徹禅師(肥前国出身、

室町時代曹洞宗の高僧)によって開かれたのが始まりと伝えられています。

歴代の領主である安中氏、武田氏から庇護され、天正10年(1582)からは

小田原北条氏の北条家三家老とも言われた、大道寺政繁が当地に配されると自らの

菩提寺としました。

天正18年(1590)、秀吉の小田原征伐の際し松井田城を一大要塞に大改修し、

寺も城郭に取り込み補陀寺郭と称されました。

小田原の役が始まると前哨戦の碓氷峠の戦いで敗退し、大道寺政繁は松井田城に

1ヶ月にわたり立て籠もりましたが前田利家上杉景勝真田昌幸が率いる

35000人の軍勢の前に屈します。

その後、政繁は豊臣軍に従軍し忍城や武蔵松山城鉢形城八王子城攻防戦などに

参加し大功があったものの小田原城が落城し北条家が滅ぶと切腹させられ、

松井田城も廃城となります。

「政繁の豊臣軍に対する貢献は非常に高いものでしたが、結果的には切腹になった為、江戸時代に加賀藩前田家の大名行列が通過すると政繁の墓が「悔し汗」をかくと噂されました(政繁と前田家には密約があったが反古にされ怨まれたとも)。

その後、補陀寺は現在地に再興された。

山門は切妻、桟瓦葺、本堂は寛政8年(1796)に再建されたもので寄棟、銅板葺、桁行9間。境内には政繁の墓碑と伝わる宝篋印塔が建立されています。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来准胝観世音菩薩

本堂

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大道寺政繁の墓所は訪れませんでしたが、本堂裏手にあるそうです。

境内内には由緒書きが無かったような・・・

尚、大道寺政繁の曾孫にあたる大道寺友山が、客分として会津藩にいたとの

説があるようです。

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中仙道に面した山門前に大道寺の墓があることを示す石碑と、寺域が松井田城跡の

説明板が立ってます。

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正面に浅間、左手に妙義山の異様を見ながら少し足を進めると、街道は左手下りの道へと入ってゆきます。

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右手に二基の石塔。一つは道祖神とあるが、もう一つは読めません。

後ろの溜池に氷が張っている。気温はかなり低いです。

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少し先、民家と民家との間に江戸から32番目になる、新堀の一里塚跡の案内板が

立ってます。

10m奥の民家の庭に、塚が残されていると記されてました。

少し先の道を左手に回り込むと、石灯籠のある庭が見えましたが、

ここが塚の名残かもしれません。

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そういえば、中山道分間延絵図:新堀の一里塚の画に溜池が描かれてるそうです。

先ほどの道祖神の後ろに溜池がありましたが、それが江戸時代からあった溜池??

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坂を下りきったところでJR信越線突き当り、そこで右手に街道をはなれ、

国道18号を切通しにかけられた橋を山側に渡ると、諏訪神社の小さな鳥居。

荒れた参道が奥へと続いてゆきます。

200mほど山奥の神社付近が、先の補陀寺山門そばにあった案内板、松井田城址

西郭(くるわ)の場所だそうです。

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神社には寄らず、右手に下ると金剛寺

(市資料より)

金剛寺安中市松井田宿)概要: 金剛寺の創建は長元年間(1028~37)、碓氷峠が毒蛇の棲家となり村人達が困り果てていたところ、源頼光の家臣碓氷定光が

弘法大師が自ら彫り込んだと伝わる十一面観音に祈願しました。

すると観音様の化身が現れ見事毒蛇を退治する事が出来た為、定光は観音像を

本尊として堂宇を建立しました。

その後、一時衰退しますが応永元年(1394)に慶秀僧都が中興、何度か火災に

あい貞享2年(1685)と享和3年(1803)にそれぞれ再建しています。

境内は広く整備され、東国花の寺百ヶ寺や関東八十八ヵ所霊場第三番霊場、十一面観世音菩薩、としても信仰を集めています。

山門は単層、切妻、桟瓦葺、三間一戸八脚門。

本堂は寄棟、銅瓦棒葺、平入、桁行8間、梁間6間、正面1間向拝付、

外壁は真壁造、白漆喰仕上げ。 

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街道に戻り線路に突き当り。本来の旧街道は踏切を渡て南側へ延びてゆくのですが、

現在は先が消滅していて、今の旧中仙道は線路に沿って西へ向かいます。

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300mほど進むと、第10中山道踏切を南側に渡り、街道は西へ向かいます。

まだ気温は低く、時折吹き付ける北西の風が冷たい。

線路沿いに何台かの車が止めてあり、線路柵側に、大きな三脚が数台。

なにか特別な列車が走るのかな。

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踏切を渡り緩き坂を下りながら、右に左に街道はカーブしながら続きます。

上りになったところに、大きな岩を台座に安置されて、地蔵尊

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傾斜道を行くと、国18号との出会に、丸太道標や、文政10年(1827年)立てられた、二十三夜塔、明治になってからの山灯篭があります。

街道は国18号を横断ですが、信号のある交差点は50mほど先。

車の行き交い安全を確認して、ガードレールの切れ間を「それ!!」と横断。

ははは・・よい子の皆さんはマネしないでね!のテロップが流れるところですね。

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高速上信越道を抜けて進むと、間の宿でもあった松井田・五科集落。

理容店脇に庚申塔、二十三夜塔。

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松井田付近から塔が大きいわね、てカミさん。

そうです、割と大きい塔が多いんです。

街道らしい五科集落を行くと、→茶屋本陣の木柱標識。

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右手に道に入ると民家の庭に、五科村高札場跡の板案内。

奥JR線の踏切を渡ると、茶屋本陣跡。

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JR信越線を「お東踏切」を渡ると二軒の茶屋本陣(跡)

「お西」が本家、「お東」が分家のともに中島家が勤め、名主も兼ねていた。

文化3年(1806年)の大火で焼失したがすぐ再建され、お西は昭和48年(1973年」)お東は平成4年(1992年)、それぞれの中島家から市に寄贈

され、現在は公開されている。

(お西)

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(お東)

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お西の2階は資料展示室となっていて、生活道具、古文書また地域出土の

古代土器などなど大変貴重な品々が展示されています。

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管理されていた女性との話の中で、今日はSLが走ると、教えていただきました。

撮鉄さんが並んでいたのが納得です。

ゆっくり拝見し、帰りにはいろいろなパンフも頂きました。

ありがとうございました。

東本陣をでて隣に、杉木立の中に石塔や石祠が建ってる所がありました。

近寄ってみると石畳みが敷かれた参道らしきものが、線路方向へ延び、

脇には石塔も数基ありました。

先に小さな鳥居が建っているので、線路が分断する前は神社として祀られていたんでしょうね。

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 街道に戻り旅を続けます。

天徳4年(1714年)立てられたと言われる男女双体道祖神

街道案内には、村境に立つとありましたが、横川村との境だったのでしょうか?。

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街道は道なりに進んで榎踏切で信越線を横断、山裾の道、丸山坂となって

上って行きます。

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丸山坂の道端の草むらに丸石の道祖神、坂道山側に数基の庚申塔、石仏。

左手崖上にも道祖神

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そして坂を上り切った小さな峠上に、妙義山を背景に夜泣地蔵尊と大きな石。

*昔、ここを通った馬方が荷のバランスをとるために脇に落ちていた地蔵の首を乗せて

深谷まで行き、首をそこに捨ててしまった。

その後、夜な夜な「五料恋しや」と泣く声が聞こえるので、深谷の人が哀れに思い、

この首を拾い五料まで運んで、胴に乗せてやったという*

そういえば東海道の浜松宿だったかな、やっぱり泣き地蔵さんが居たね。

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手前に小石が乗ってる大石が、案内板に石で 叩くと空の茶釜のような音がすると

書かれていた「茶釜石」

カミさんが何か所かたたいたら、あら音が変わったわ!

確かに一か所だけ鈍い音から、軽い金属音のような響き。

こんな大きな石、どこから来たんでしょうね。

 

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坂道を下るとのどかな里山風景が広がってます。

大きな桐の木が三本、空を突くように立ち、桑畑には観音像の立つ馬頭観音

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少し先にも文政十年と刻まれた馬頭観音さん。

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一段高い傾斜地に常夜燈と二十三夜塔。

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 のどかな里山集落を抜け坂道を下ると、丸太道標。

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 馬頭観音を見ながらさらに道を下ると信越線路わきの道へ。

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さっきから里山の 細い道を何台ものも車が行き来してました。

少し先に街道歩きの方々の話題になる「御所平踏切」があります。

信越線は伏線で手前が上り線、踏切を渡ると一段下がって国道との狭い間に

下り線が通ってますが、ははは・・・・話題のように下り線に踏切が見当たらない!

国道側はガードレールで切れ目もないんです。

きちんと整備もされてる踏切ですが、何のための踏切なんでしょう?

下り線の手前側が幅は狭いが畑の様です。まさかその畑へ行くだけの踏切??

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謎の踏切から300mほど行くと高墓踏切という変わった名の踏切で線路横断します。

線路の南側に広がる里は御所平地区。

踏切手前、山斜面の杉木立の中に雨覆(屋根)を載せた赤い両部鳥居と石段奥に

碓氷神社。

創立年代は不明ですが、碓氷峠熊野神社の里宮だそうです。

ご由緒によると、建久年間(1190-99)には源頼朝の信州浅間の牧狩りの際,当社に

祈願し境内に御所を置いたため,以来この地を「御所平」と呼ぶようになった。

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神社前の線路沿い道は何台もの車が行き来し、路肩駐車もしています。

SL運行目当ての撮影スポットのようです。

神社横に石積みで一段高くなったところに墓地があります。それで高墓踏切?

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踏切を渡り国道18号を横切って、リンゴ畑や石仏石塔を見つけながら、

どかな御所平集落を歩きます。

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 街道は国道18号に当たり、少しの間合流しますが、18号の右手にコンビニが

あったので、トイレをお借りし、Caféタイムで足休め。

SLが来たよ!の声に表に飛び出すと,D51蒸気機関車に引かれ列車が通過中。

う~ん、味がありますね・・・思いがけないプレゼントだ。

 

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 Caféタイムを終えて国道を10mほど行き、右手に石の祠がある

小山沢川を歩行者用橋で渡ると地名は横川。

すぐに小沢山信号で旧中山道は国道から離れ左手へ坂を下ってゆきます。

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100mほどの短い旧道歩き、再び国道との出会い手前、欅の木脇に

百合若大臣が妙義山を射抜いた伝説の「百合若大臣の足跡石」

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妙義山中には二つの穴が開いた星穴岳という岩峰があり、それが射抜かれた

穴なんだとか。

百合若大臣が射たと言われる弓矢が、妙義山麓の妙義神社に奉納されているそうです。

どこかで似たような伝説話を耳にしたような・・・

同じ場所の右手に、謂れは不明の龍を掘った石碑が立ってました。

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左手に石の祠に石仏、両脇に石灯籠。

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 旧中山道は国道18号と合流、

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 400mほど進み下横川信号で国道を横断、さらに第15中山道踏切を渡って、

線路右側を横川集落へと向かいます。

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 集落が近づいた土手には早春の花がもう咲いています。

名が可哀そうな小さな青い花は「オオイヌノフグリ

ピンクの「ホトケノザ」に「冬知らず」の黄色い花。

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街道の面影を残す緩く蛇行する道は、横川集落へと続いてゆき、丸太道標には

、⇒坂本宿2.5km。

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旅はさらに続きます。

後編へ

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第12回) 安中宿駅から安中、松井田宿へ  後編

*300m程進んだ左手「安中上野尻郵便局」の駐車場隅にポツンと石碑が建ってます。近寄ってみると「安中大木戸跡」で、上ノ木戸跡(京口)かな。
AM11:10、江戸から15番目、安中宿を後にします。

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旅の後半へ入ります。

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右手奥に愛宕神社。この神社も前方後円墳の墳丘上に鎮座しています。

 御祭神は火産霊命で火伏せの神様。例祭のなかに鎮火祭(2月13日)があるそうです。

神社の街道沿いに常夜燈が建ってます。しばらく出会わなかったな~・・

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過ぎて道の南側に大きな石碑、板碑、矢印標識が案内する、安中宿では頻繁に

名前が出てくる新島譲の旧宅入り口。

側に弘化4年(1847年)建立の道祖神もありました。

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これでもかと思われるほどたくさんの案内に導かれて、何度か曲がり行くと、

萱葺屋根の家屋が見えてきます。

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新島襄旧宅、市指定史跡。

元は100mほど離れた場所にあった建物を移築している。

郊外ともいえるこの地に武家地があるのは、廃藩置県の時に江戸から引き上げた

藩士のために急遽用意されたためでした。

同志社大学の創始者の新島襄は、江戸神田一ツ橋の安中藩邸で生まれた。  

新島の両親が住み,彼自身も米国から帰国したあと3週間ほど住み、

布教などをしたという。

「あら、住んだのじゃなくって滞在したということね??」て、カミさん。

ははは・・そうだけど両親がいたんだから実家なんだな・・・・

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裏には,安中藩主板倉勝明が殖産興業策として、漆100万本を植えさせたと言う

ことを記念した「漆園の記」石碑がある。

事業はうまくゆかなかったとの説があるような。

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新島襄といへば、2013年の大河ドラマ「八重の桜」の主人公、

山本八重の夫ですね。当時は安中もフィバーしてたかな。

*八重の桜*HP

http://yae.taigadrama.org/

ちなみに来年の大河ドラマは「おんな城主 直虎」

こちらは高崎城主でもあった、井伊直政を勇猛な武将に育て上げた、

義母?はとこ?の物語。中山道つながりだね。

(このブログを作成していたら、「直虎」は男との新資料がでたそうな)

おっと、街道旅でした。

館で教えていただいた道筋を通り、中山道に戻ると県125は

県48となってました。

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まだ、2kmしか歩いてない!

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右手に安中総合学園高前交差点で、交差する国道18号を案内書のとおり横断し、

原市地区に入りました。

「あれ、史蹟天然記念物安中原市ノ松並木碑を見てないよね?」

「案内書は新島旧宅入口のすぐ先、迂回道で街道に出たので通り過ぎてたね」

松並木は枯れちゃったって、いう説があったからな・・

すこし風はあるが、歩きにはいい気温、どんどん快適に足を進めます。

庚申塔もないね・・・なくなったのよ~・・」

そのまま足を進めてると、「よさそうなお店がある、お昼にするか」

で、今日はイートンコーナーでなく「お食事処」

当たりね、おいしかったわ、てカミさんもご満足。

食後のコヒーもいただいて再び街道へ。

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前方に見え隠れする妙義山

「安中と言えば、ずーと昔、梅を見に来なかった?」

「安中秋間梅林に来たことあったな・・」

「帰りに妙義山山麓の日帰り温泉のも寄ったね」

あれ、道祖神も見逃したか?なんて言いながらトントンと足を進めてしまいます。

まだしばらく、変だな?と思いながらもおしゃべりしながらすすむと、

「あれ?あれは資料にある、旧碓氷本社の建物では?」

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これは国道18号の左側にあるんだぞ!

はい、国18号と交差したところからは右手斜めに県48へ行くのに、

なぜか国道18へ足を進めてしまってた。

しかも2km近くも気が付かないで・・・・

ふふふ・・江戸の旅人なら行倒れね、・・なんてカミさんは面白がってるけど、

まじめにそうでした、行倒れ供養塔が東海道でいっぱいあったな・・・

参*旧碓氷本社、群馬絹遺産HP*

http://www.silk-mulberry.com/gunmakinuisan_usuisha.html

右手に交通安全観音様とこけし仏?おおきな事故があったのかな?

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「歩いたのは現代中山道だ、江戸時代からタイムスリップさせられたんだよ」

「交通安全観音様、なにかイミシン」ね、なんて言いながら、先を右折すると

県126となった旧中山道に合流で、間の宿原市をスルーです。

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もどった街道を少し進むと八本木の立場跡。

左手に、「御休所 山田屋卯兵衛」の八本木旧立場茶屋跡。

「志がらきお茶漬け」というのが名物であったそうな。

(表札があったので今もお住いかな)

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その向かい右手は、八本木地蔵堂。

本尊は,頭は剃った坊主頭で体には袈裟と衣をまとい、室町時代初期のもの。

秘仏としてご開帳は百年目ごとにする定め、とありましたが、お堂を覗くと

お姿が見えたので、100年ごとのご開帳はなくなった?

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 境内には,安中最古の庚申塔などが沢山並んでいる。

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八本木地蔵堂から道祖神などを見ながら、街道雰囲気の緩い上り道を約1km街道を進むと、郷原地域に入ります。

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さらに700mほど進むと、丸太道標、松井田3.4km安中5.7kmそして

文化9年(1812年)建立、馬頭観音

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もう蝋梅が咲き始めてる、早いですね・・・

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すぐ先に村社日枝神社

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拝殿の前に神楽殿が建ち、その神楽殿下をくぐって参詣するという珍しい様式。

創建年代不詳だそうで、社殿は明治44年再建。

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そうそう、境内には七福神。横一列も珍しいね。

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神社鳥居隣には立派な文字青面金剛塔や庚申供養塔群が建ってます。

おや、供養の「養」が見慣れない漢字?羊篇に良という字で、塔も違いますね。

大きいので気が付いた。

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隣は開かずの山門(薬医門)との噂の真言宗豊山派・自性寺がある。

開基は不詳。一説に保延元年(1134年)開創とする寺伝があるそうです。

本尊に大日如来を祀っています。あの新島襄の先祖の菩提寺だそうです。

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境内に宝篋印陀羅尼経を収めた宝篋印塔が2基あり、市指定重要文化財

向かって左側の塔は、応永3年(1396年)製作で総高95センチ、塔身四面に

月輪が刻まれ、その円内に胎蔵界四仏が陰刻されています。

右側の塔は、嘉吉3年(1443年)製作で、総高93センチ、基礎に「一結諸衆」の

銘があります。

いずれも相輪、笠、塔身、基礎からなる関東形式の宝篋印塔だそうです。

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境内左手の墓地を通り、街道へ向かう途中の墓地内に、「釈迦堂」がありました。

ちょっと覗いた感じではお堂というよりもの置き場。

野辺送りの葬送道具類置き場ではないかとの説がありました。

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正面に妙義山を望みながら街道をゆくと、右手に丸太道標 (松井田2・9km

安中6.2km)、そして安政3年(1774年)道祖神、百番供養塔。

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だらだら上りの県道216号てくてく進むと、磯貝雲峰旧宅跡。

跡というより表札が有るので、磯貝家ですね。

磯貝雲峰は、旧九十九村下増田の出身の明治時代の文人だそうで、

同志社を出、28歳の時渡米。帰国後は中央文壇で活躍したが、32歳で亡くなった。  、安中市松井田町に雲峰の碑があり、彼と交友があった徳富蘇峰の撰文や、

裏面には雲峰の詩 「 早蕨を 折りし昔よ 偲ばれて 恋しくなりぬ ふるさとの山 」

が刻まれているそうです。 

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持参の街道案内には、道路向かいが高札場跡で、木製標識があると記されてるが

見つけられない。(住宅の生垣の中にあったようです)

少し先右手に原市小学校郷原分校。

入口に新しそうな看板「イノシシ出没注意」!!!

先日もイノシシ被害が報道されていた、旅も要注意だ。

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街道案内には、分校先に江戸より31番目、郷原一里塚跡が記されているが、それらしき式景観は何もなし。

中山道一里塚研究」HPをお借りすれば、中山道分間延絵図というのに、

高札場の西先に描かれているのでこの付近にあったことになる。

(右〇・日枝神社、中下〇・高札場、左上〇・分校、左〇2・一里塚)かな?

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街道は、まだ緩く上り坂道がを続いてゆく。丸太道標は、松井田2.4km。

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先の左手民家前に祠の道祖神が祀られていて、少し先には丸石の道祖神

そして街道は緩く下りが始まってゆく。

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右側に、古そうな民家に「 荒木流山中秀次郎道場 」 と書かれた看板があった。 

道場らしくなけれど??

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さらに道を下ると丸太道標がり、街道はこの先で左手から延びる国道18号に

分断されます。

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「あら、道路標識に飛脚の絵」「ほんとだ、こりゃシャレてるね」

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国道18号を信号で横断し南側にわたると、郷原の妙義道常夜燈。

文化5年(1808年)郷原村の妙義山講が建立したもので、妙義神社参詣者への

道しるべ。

解説板には、ここから東50mほどの中山道から、妙義道への入り口にあったのが

昭和63年3月現在地に移転されたと記されてる。f:id:hansui:20161214103407j:plain

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妙義山妙義山は700万年前に形成されたと言われ、浸食・風化により険しい斜面となり、多数の奇岩石門群をみることができます。

おおきな道祖神の脇に、歌碑がひっそり置かれてます。

後ろの解説板によれば、

「山中貞輔碑、中後閑より郷原の山中氏へ養子に来て十二代目をつぐ、

剣撃の師範・山中秀次郎の父、板鼻の山中三郎の祖先である。

学問にたけており江戸時代から明治 の初めにかけて寺子屋を開き、

弟子たちが師を 偲んで建てた碑である。

「 月の入る 西の都を さして行ば 帰らぬ旅に 迷路もなし 」

先ほどの謎の道場跡、山中秀次郎は子孫でした。

そこから国道の土手沿いに東左手へ下るの道があり、脇にこんな板碑が。

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先祖の菩提寺は先ほど訪れた「自性寺」だった。

お寺の飛び地墓地があるのかな??

(あとで調べたら、下ったところに古そうな墓石が並ぶ墓地があるようだ)

再び国道を横断し北側へ合流地点へ戻ります。

中山道は、18号に合流する手前右手に、伸び放題の竹やぶが頭上を覆う

薄暗い急坂へ。

おっ、街道ランナー(安中安政の遠足か?)がとっとっとと追い抜いていった。

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このあたりが広重中山道69次の安中画地点と言われています。

 

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付近は上り下りの坂道になって居たようで、逢坂(大阪)と言われていたようです。

街道は国道18を大阪地下道でくぐり抜け、南側に抜け出る。

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景観を見るために、地下道を抜けて左手、国道18号から下ってくる側道を

戻るように上る。

眼下に碓氷川、右手に妙義山の偉容、いい眺めだ・・・

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街道へ戻る途中に、これが郷原木戸長役場跡の板碑かな?文字が薄れて全く読めない。

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右手生い茂る木々下にたくさんの石塔群。

並び方や型から古いの墓地のような気がする。

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二つの分岐をいづれも右手に取り進むと、国18と分岐し下って来た、

県33号渋川松井田線となり、松井田宿0.9kmの丸太道標が建っている。

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正面に雪を頂く浅間山を見ながら、傾斜を感じなくらいの坂道を下て行く。

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500mくらい行った右手のホームセンターで、トイレ休憩と足休め。

敷地土手に馬頭観音庚申塔、そして妙義、浅間の姿。何度見てもいいね~・・

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足を進めると下町地区で下町の交差点。

中山道松井田宿の丸太道標地が松井田下木戸(江戸口)跡。

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この付近には伝衛門脇本陣があったということだが、示すもの無し。

下町交差点を左折して進むとJR松井田駅

安中藩松井田宿、江戸から16番目、31里35町40間(約125km)

(天保14年(1843年)中山道宿村大概帳によれば、

宿道幅3間半~6間半(6~11m)

宿内、1009人,家数:252軒,本陣:2(両家が問屋場と村名主を兼ねる)

脇本陣:2,旅籠:14

松井田宿は、碓氷峠を控へ日があるうちに面倒な関所は越しておきたいと

坂本へ足を止めるため、通過する大名や旅人が多かったといい、

 「 雨が降りゃこそ 松井田泊まり 降らじゃ こしましょ さかもとへ 」 

と、馬子唄に歌われているそうな。

休宿泊こそ少なかったが、信州諸大名からの廻米の継立てや払米の取引など、

物資の中継地として重要な機能を果たした。

多くの藩の廻米が高崎倉賀野や江戸ま運ばれることなく、この地の商人に

売却されていたそうな。
各藩の廻し米は多額の取扱高となり,松井田は「米宿」と呼ばれていたと言う。

 

ほとんど行きかう人気のない街を足を進めてゆくと、左手に二階軒下に

「かんべや」と「妙義登山口」と記された袖看板を下げた家。

南に下る道が妙義道でここが追分。

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右手に間口の横広い蔵のある屋敷が徳右衛門脇本陣跡。

(伝右衛門脇本陣とも書かれてる)。玄関門構えは無しだが、建坪は73坪あった。

(案内板がフェンスに付いていた)

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100mくらい先を左手に入ると、幼稚園併設の臨済宗崇徳寺(すうとくじ)。

 

足利尊氏開基と言われ、精緻な彫刻された四脚門、聖観音菩薩像、千手観音菩薩像・

如意輪観音像が安置されてる観音堂。

本堂は入母屋、桟瓦葺。上野国順礼札所三十四ヵ所十四番札所。

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外郎の陳氏歴代の墓がある。(フェンス囲いが該当かな)

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街道に戻り200m位先右手の山城屋酒店は「ういらう屋跡」。

小田原の今もお城のような店を構える、ういろう屋の分家「外郎陳道斎」の店舗。

天正3年(1575年)前に武田や北条の関東宣撫的な政策で、この松井田に分家、店を開いたという。

(ここも間口が広い)

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持参街道案内では山城屋の先、仲町交差点の左手の現群馬県信用組合のところが

金井本陣跡だが、示すものは何もなし。(見逃したのかな?)

建坪171坪、玄関・門構えがあった由。

この周辺が松井田宿の中心街。

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下の本陣とよばれ、上の本陣は松本家が勤め,問屋場は金井・松本両家にて,

一ケ月交代で務めた。

仲町信号の右手角、時代を感じる家屋の下に、角ばった低い石碑は松井田町道路元票。

風格ある建物は畑中医院跡だそうな。

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左側にちょっと目立つ蔵造り風の建物があるが、ここは「伊勢屋」という屋号が掲げられた「辻中薬局」

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辻中薬局にすぐ先に、東屋みたいなコーナーが有、木の門付きの空き地がありました。門に取り付けた板看には「まちなかにぎわい広場」。

イベントなどが開かれる場?

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宿場時代の表示など無いが、古い民家がポツポツと見られ、「旧街道を歩いている」そんな雰囲気は味わえる。おっ、月が出てる。

下写真の左上は、旅籠で、同時に両替商・質屋・塩を商っていた。

建物は移築したものだしうだが、築300年は経っているらしい。

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仲町交差点から150mほど進んだ右手、電柱の後ろ右手一帯が

上の本陣・松本本陣跡に当たるようだ。

建坪174坪、玄関・門構えあり。部屋数23.裏門は非常時に開かれ、

奥の不動寺への通路でもあった由。

右手に入った奥に今も井戸と庭園が残っていると言われます。

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本陣跡から50mくらいに脇本陣が有ったと言われるが、確認できず。

さらに50mほど進むと右手に本照寺の駐車場、隣が「うまかんべえ」煎餅屋さん。

ここに松井田の高札場が有ったそうです。

当初は仲町交差点あたりに、次いで山城屋(外郎店)あたりに移され、さらにこの場に

写された由。

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すぐ先に歩道橋があり、橋下に丸太道標。

中山道松井田宿→」で、ここが上木戸跡(京口)でした。

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木戸口跡を右手に坂を上がって行くと、右手に信州大谷派の本照寺。

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そして正面に、創建年の詳細は不詳ですが、建久8年(1197年)に

源頼朝が参拝に訪れたとの記録がある、松井田八幡宮の鳥居と参道が見えてきます。

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祭神は誉田別命息長足姫命玉依姫命

江戸時代には幕府からは庇護され、慶安元年(1648年)には三代将軍徳川家光

により朱印地13石6斗を賜っている。

現在の本殿は寛永年間(1624~1644)に建てられたと伝わるもので、

群馬県重要文化財に指定、他の建物はその後に補われたものである。

本殿前の建物は拝殿のようですが、建物の真ん中に通路(土間)がある

独特の形態をしています。この形態は「割拝殿」(わりはいでん)と呼ばれるもだそうで、珍しいのでは。

 

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割拝殿の右側は神楽殿でもあった様子。

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本殿は桃山風の形式をよく伝えるといわれる、三間社流造りというものだそうです。

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八幡から街道に戻ると先左手に北向きのお堂があり、その名も北向千手観音堂。

お堂側に石仏石塔群が建ってます。

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少し先、左手に和洋折衷の建物が建ってます。(帝冠様式と言うそうです)

旧松井田警察署で、昭和14年(1939年)竣工。木造2階建、外壁はタイル貼りの

洋式建物に切妻、瓦屋根の建物です。

どこかで見たような建物と帰宅後調べたら、東京の九段会館に似ています。

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右手の民家の前に大量のネギが置かれてる。

太いから下仁田ネギですね。太く柔らかい、冬の鍋物には欠かせない。

下仁田はここから南へ12・3km位かな。f:id:hansui:20161215171059j:plain

夕暮れ気配の街道坂道を上って行きます。

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200mくらい先の新堀信号手前に、粋な黒塀、見越しの松・・

大きな屋敷がありました。

中山道石柱や街道図石碑、そして塀にこんな張り紙が。

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中山道分間延絵図は東京国立博物館が原本を所蔵している、国重要文化財

絵図です。復刻版を所蔵されてるんですね。

是非見たいところだが・・・残念、惜しい!

尚、中山道 新堀金井家とありますが、あの本陣を勤めた金井家の縁者の家?

(参考資料としてこのブログでも復刻版の一部を使わせてもらってます)

 

右手に2基の庚申塔。先は西松井田駅入口交差点。

右手に古刹・補陀寺 がありますが、左手に足を進め・・

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安中駅から約12.7km、日本橋より約31里36町(約130km)

上野国(上州)旅路も残すところあと1宿、坂本。

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夕日の浅間山を望みながら、

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 午後4時17分、西松田駅前で12回目の街道旅を終えました。

 

(反省追記)

松井田宿内には、旧跡史跡の案内標識がほとんど無い、との記述を

してしまいましたが、帰宅後に写真を整理していて、標識らしいのを見つけ、

写真を切り取り拡大してみたら案内標識がありました。

調べてみると、「松井田宿まち歩き」というパンフレットがあり、

パンフ図にNo、が記され、街中の街灯に連動してその番号が書かれており、

街灯の上の方に小さめの案内標識があったのです。

歩き中の目線が、つまずかぬよう下ばかりに向いてしまい、気づかなかた。

発見を旅の楽しみにしていますが、もうすこし事前下調べをしなければいけませんね。

反省!(パンフの入手先は観光案内かな?)

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歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第12回) 安中宿駅から安中、松井田宿へ  前編

>平成28年6月18日、3年半をかけて東海道五十三次を旅し、
京の三条大橋に立ちました。
そして夫婦は旧中山道69次の旅、再び京を目指して歩いています。

 

12月2日、高崎宿を立ち、江戸から14番目・板鼻宿を過ぎて、

次の安中宿へ向かいましたが、途中のJR安中駅前で足止めとしてました。

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12月10日(土)夫婦はまたもや旅に出ます。

早めに家を出て、関越高速・上里PAにて、久しぶりに持参「カップそば」

で朝食。

AM6:40、ちょうど朝焼けになってました。

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 上信越高速に入り、碓氷松井田ICで降りて、信越線、JR西松井田駅・駐車場へ。

ここには、広い無料駐車場あるんです。

平日なら通勤、通学など地元の方がたの利用でしょうから、

遠慮しなければならないでしょうね。

今日は前回の足止め地、安中駅前から松井田宿が目的ですので、街道沿いになる

この西松井田駅に駐車させていただきました。

調べておいた電車時刻まで、あと3分。間に合う、それ~・・・ 

すぐ来た電車で群馬県北西部、安中駅へ向かい、

AM8:10、第12回の旅立ちです。

天気予報では、最高気温10℃、北風多少強しでしたが、出発時は、足元から冷気が昇るを感じますが、無風状態でした。

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駅前を横切る国道18号の高架下を通り、街道へ戻って碓氷川を

久芳橋北側(右手側)を渡って安中市街地へ入ってゆきます。

(久芳橋は江戸時代「二つ橋」と呼ばれた)

昔は中州を挟んで仮橋や渡渉で碓氷川を越えました。

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碓氷川ではサギたちが朝の食事獲物を物色中。

左手に妙義山の異様な山並み、その左奥にはテーブルマウンティンの荒船山

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渡り終えて下野尻交差点を歩道橋を使って国道を渡り、旧中仙道は左手に

県125となって安中街中へと向かいます。

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300m位行くと右手に正龍寺。

上野国巡礼札所34か所第25番、本尊は千手観音。

石碑裏に書かれた由緒書きには、

応永年間(1394~1427年)に、関東管領山内上杉家家臣の松本将監が、

信州での合戦のおりに黄金の千手観音を授かり、それを当下の尻村(下野尻町)に

堂を建て祀った。兵かに焼かれ慶長2年再建され三百有余年、時代を経て老巧化のため

区民の浄財にて山門、お堂はともに平成に再建された由

(観音さまも?)。

お堂内には、33体の観音様、中央に千手観音様。

お堂前に大きな馬頭観音石碑。

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安中・下野尻はまだ静かなたたずまい。

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しばらく進んだ県121との十字路交差点角、手前の右手の軒下を何気なく見ると、

こんな石碑が。長野110kmとありますが、長野善光寺までかな?

そして交差点の向こう側、

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理髪店のある角に、「安中宿下木戸跡碑」が建ち、安中宿の江戸口(東口)。

江戸から15番安中宿に入ります。

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安中はその昔,野後という地名であったが,永禄2年(1552年) 越後新発田から

安中忠政がこの地に城を築き、安中城と称したことから安中と呼ばれるようになった、

江戸時代、安中藩3万石の城下町でもあった。

日本橋から29里19町40間,15番目の宿である。

人口348人,家数64,本陣1,脇本陣2,旅籠17軒。

また1783年 の浅間山大爆発で壊滅的な被害を受けている。

木戸口の右手の坂道を登ると、小高い丘陵突き当りに熊野神社

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安中城築城に際し、越後国新発田熊野神社をあらためて祀り,安中藩

鬼門の守護神・総鎮守として歴代藩主に厚く崇敬されてきた。

小振りの神社ですが、社殿の彫刻が見事で、市の重要文化財

本殿の七面の羽目板に鳳凰らしい鳥を中心に,梅,楓などの樹木や霞様の雲を廃した彫刻を施している.

また、市指定天然記念物、推定樹齢1000年の大欅がある。

これに祈願すると疣が取れる霊験ありと言われ、現在は落雷により大きく折れ、

支柱で補強されている。(一千年とはすごい!)

社殿前の両脇の狛犬をみて、「あら、ひょうきん顔!」

威嚇してるようで、どこか愛嬌のある憎めないペット顔。

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拝殿内の絵馬、推定樹齢1000年の大欅

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神社を出て右手に安中城東門跡板碑。後方一帯が安中城跡になるようです。

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すこし坂を下ると右手石垣上に真宗大谷派,本尊阿弥陀如来、西廣寺。

石段を上ると、樹齢300年という県指定天然記念物のツバキが蕾をつけてます。

境内に聖徳太子を祀る太子堂がありました。

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境内横からの坂道をに西に行くと、文安年間(1444~1449)創建といわれる、

大泉寺。(木柱や山門の屋根が・・傾いてる)

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山門を入ってすぐ左手に素朴な五輪塔風供養塔ありました。

その名も「ちゃんころりん」で、そばに面白い「チャンコロリン」由来板。

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この妖怪伝説?は、女優の市原悦子さんが語り部となり、子供たちに人気のあった

TVまんが「日本むかしばなし」に「大泉寺のころがり石」としてあるんですよ。

http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=664&cid=19

 

物語的には、「日本むかしばなし」のお話のほうが、優しい物語かな。

そういえば、旧東海道を歩いた時も、道端の「石」物語が有ったわね、て

カミさんがまた思い出話。

そうでした、静岡の金谷宿と日坂宿の間の、小夜の中山峠にて「夜泣き石」

伝説のお寺と供養塔がありました。

「伝説にまつわる水飴、お店が閉まっていて舐めなかったな・・」なんて石談義、

(夜泣き石伝説)

http://whitenoel.com/saigyou/notedplace/noted_place_sizuoka/noted_place_kuenji.htm

奥の墓地には,井伊直政の息、直勝が安中城主となり、

井伊直政正室の墓」「井伊直好生母の墓」があるそうですが、寄りませんでした。

県125に戻り先に進むと左手に安中郵便局があり、ここが須藤本陣跡。

建坪192坪,門構え・玄関。

本陣横で問屋場,人馬継立て一切を取り仕切っていたと言われますが、

残念ながら、石柱と木板の案内のみで解説板も無し。

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尚、 脇本陣2軒は,須田家,金井家が勤めていたそうですが、本陣に比して

狭いものだったというが、こちらも遺構も無く碑も何もないんですね。

郵便局先の伝馬町交差点を右に入り坂を上ると、突き当りが先ほど寄った大泉寺。

道なりに曲がって上ると、大名通りという道が台地を東から西に通ってます。

この周辺は南を碓氷川、北側を九十九川が流れる間の河岸台地。

 

一番高い所に安中小学校があり、昔は安中城があったのです。

名の通り、南側が大きく明るく広がる河岸台地は武家地。

下がって碓氷川に沿って東西に横長に、城下町兼宿場町が続いてたんですね。

左手が三社神社(石川忠房生祠)の裏手で、石川忠房生祠がありました。

安中宿の助郷の窮乏を、時の道中奉行石川忠房に訴え、救ってもらえたことから、

村民が感謝して生神様として祀ったと言われます。

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 生存中に祀るのも珍しいと思いますが、それだけ助郷に駆り出される周辺農民の

感謝の現れなんでしょうね。

助郷

*江戸時代,幕府が諸街道の宿駅の継立てを援助,補充させるため,宿場周辺の農村に

課した夫役。交通需要の増大につれ,宿場常備の人馬 (御定人馬) では不足のため,この臨時の人馬徴発が行われ,初めは臨時で行われる人馬徴発であったが、参勤交代など交通需要の増大に連れ、助郷制度として恒常化した。

村が人馬を提供できない場合、金銭で代納することになっていた。

安中は小さな宿場町であったが、碓氷川を控え交通需要の増大に連れ、徴発された

村民(農民)の負担が重く、農村それにもかかわらず、法定の報酬はわずかであり

村財政が窮乏し「幕府や藩に窮状を訴えて減免を願い、宿駅と助郷村の紛争も相次いだという。*

大名通り右手に 

明治11年12月開庁の碓氷郡役所跡の建物があります。

当初は伝馬町の旧本陣須藤国平氏宅を仮用していたが,明治21年6月,

現在地に移り、明治43年全焼したため、当初は白亜の洋館でしたが、

近代和風建築で明治44年9月再建されてます。

群馬県内で唯一現存する旧郡役所の遺構だそうです。。

 大正15年7月1日碓氷郡役所は廃止となり,同49年群馬県が土地家屋を

安中市へ贈与。

 地方自治の歴史を示す貴重な建物であるため,平成8年度から地域文化財保全事業により建物の改修を行い後世に保全することを目的に事業が進められ,平成10年4月より公開されている。(解説資料より)

館内にて、上野国宿場絵展が催されていたのでしばし館内見学。

(展は撮影ご遠慮下さい、でした)

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郡役所の前の通りは大名小路という

 (参、市観光資料より)

安中の地名は,戦国時代に原市の榎下城にいた安中忠正が,野尻と呼ばれていた

この地に永禄2年(1559)に城を築き野尻を安中と改めたことに始まると

いわれている。

この地域は,越後の上杉,甲斐の武田,小田原の北条という有力戦国大名が三つ巴の

戦いを繰り広げた場であり,安中氏は武田信玄と戦い,永禄7年に降伏した。

以後武田氏に属したが天正3年(1575)長篠の戦いで城主以下全員討ち死にし,

やがて安中城は廃城となり城地は農地となっていた。 

江戸時代に入り元和元年(1615年)に井伊直勝が近江彦根から分家、

初代藩主として安中に移り城を再建、町割りを行ない安中宿を開いた。

安中城は九十九川と碓氷川に挟まれた河岸段丘上に位置し,安中宿より一段高い

所にあった。お城といっても天守閣は無く,茅葺き平屋建ての御殿が本丸に、

二の丸は安中小学校のあたりで、東西750m,南北500m。

 明治維新の廃藩置県により取り壊され,城の遺構はほとんど残っていない。

 安中藩主は五家(井伊・水野i・堀田・板倉・内藤)十六代が勤め,中山道の関東への入り口に当たる為いずれも徳川譜代の大名が置かれた。

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旧碓井郡役所の道を隔てて西隣りに建つのが 「日本キリスト教団安中教会」

大谷石造りのゴシック様式の重厚な外観、この教会は有形文化財に登録されている.
大正8年(1919)竣工。

残念ながら日曜礼拝時なら旅人も入れますが、今日は土曜日か・・・

通常日の拝観は、3週間前に電話予約が必要だそうです。

(変な協会ね、普通は門戸開放でしょう!!て、カミさんが抗議口調)

*安中教会*

http://www8.wind.ne.jp/a-church/profile/index.html

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大名小路から南の街道へ下る道角に、門番所跡木碑。

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長い協会のフェンス沿いにしばらく行くと、右手奥は二の丸跡に安中小学校。

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すぐ先の信号機のある十字路手前角に,復元された旧安中藩の郡奉行役宅。

15代藩主板倉勝明の側近山田三郎(1804~1862)が住んでいたと伝えられ,文政年間(1818~29年)の建築された役宅だったそうです。

その後幕末から明治にかけて猪狩磯右衛門懐忠(1820~1883)が住んだ。

 

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道を隔てて武家長屋が復元・保存されていている。(修復工事中でした)

安中藩は3万石の小藩だったので,最も高禄の年寄り(家老)級でも300石未満で

多くの藩士は慎ましい暮らしをしていた。住居についても一戸建ての独立家屋に

住めたのは30名ほどの上級藩士だけで,ほとんどの藩士は長屋住まいであった

と言う。 この建物はそのうちの4軒長屋で,3軒だけ残っていたものを図面を元に

当初の姿に復元したもの。西側から八間・六間・六間・六間に区分されている。

それぞれ,台所(土間)・下座敷・上座敷・押入れ・床の間,前庭(実際は畑に使った)側に流し場・縁側・厠が並ぶ。武家長屋が建てられた正確な年代は不明,

幕末から明治初年の絵図に描かれている点や柱間の寸法(役1.82m)などから1800年代中頃といわれます。

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交差点を北側奥に進むと、本丸跡に建つ安中市文化センターに突き当たり、

その左手に、安中藩安政遠足之碑&日本マラソン発祥の地碑が建ってます。

碑には、

安政二年(一八五五年)ときの安中藩主板倉勝明公は
藩士の心身鍛錬を目的として五十才以下の藩士九十八名を
数隊に分け五月中旬より六月初旬にかけ安中城内より
碓氷峠熊野権現まで七里余の中山道を走らせた。
これを「安中御城内御藩士御遠足」という」

 と記され、まさに日本におけるマラソンのはじめですね。

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安中藩安政遠足は“とおあし”と読みます。

今も、市の行事として、毎年5月の第2日曜日に開催され、

毎回たくさんの仮装したランナーが走るそうです。

コースを見たら、なんと、いつの日か挑戦することになる、旧中山道

碓氷峠越えでした。

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大名小路への戻り道の右手は「旧邸地区」と呼ばれてるそうで、

広大な生垣に囲まれた敷地などが並でいました。

昔、学校があったと聞きましたが、詳細は不明。

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大名小路を横切り坂を下って、旧中山道へ戻ります。

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しばらく宿場の街中を左右の家屋を楽しみながら足を進めます。

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左手に、境内に石塔に刻まれた六地蔵があったので天台宗安楽寺」かな。

どんなお寺かは調べても??

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安楽寺の対面、街道右手の坂上に赤く塗られた山門は時宗碓氷山・長徳寺。

時宗のお寺とは珍しいですね。山門前に文字青面金剛塔(庚申塔)がありますが

ご由緒などは不明でした。

時宗と言えば総本山は、東海道の旅でもお参りした、東海道藤沢宿

遊行寺(ゆぎょうじ)」の名で親しまれてる「澤山 無量光院 清浄光寺

ですね。

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長徳寺を出て、右手の路地に入ってゆくと、そこは医院の駐車場でした。

道にでてすぐ右手に長徳寺から見えていた赤いお堂。

上り参道らしき道は、そばの民家の方が駐車場にしてる。

庚申塔道祖神が並び、廃棄物などが見られる荒れた参道?で冬桜が

ひっそり咲いてました。

参道を上ると、そこに祀られていたのは稲荷神社でした。

鳥居は普通のコンクリート造りだったので、稲荷神社とは気が付きませんでしたね。

 

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道に戻ってすぐ稲荷神社裏手は、明応年間(1492年~1501年)の開山で、

開基は安中忠親の母・法昌院と言われる日蓮宗・蓮久寺、安中鬼子母神

総本山は甲州(山梨)身延山久遠寺かな。

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道の突き当り、広々とした大地に大きな伽藍の久光山・妙光院。

由緒は不明だが、859年の開山ともいわれ、安中藩板倉家の祈願所であった。
墓地には、新島襄(後述)の祖父・弁治と弟・雙六の墓があるそうで、

新島家の菩提寺か?

なお、新島襄の両親(民治、とみ)の墓は、襄とともに京都にある。

新島襄はあの同志社大学の創設者ですね。安中宿では頻繁に名の記された史跡が

現れます。

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南へ坂を下り旧中山道・県125へで戻ります。

250m進むと右手に大きな石倉造が見えてきます。

天保3年(1832年)創業の老舗、醤油醸造の蔵元・有田屋です。

*有田屋HP*

http://www.aritaya.com/frame/frame_kuramoto.html

向かいに明治5年(1872年)有田屋当主が私財を投じて創設した、

日本初の私設図書館の便覧舎跡(市指定史跡)。建物は火災で焼失、碑のみ。

尚、明治11年(1878年)新島襄から地元住人が洗礼を受け、信者となったのも

この便覧舎で、安中教会発祥につながるそうです。

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有田屋から100mほど先、信号手前右に、おっ、狭山茶

田島屋本店の店舗でした。横の蔵がいいですね~。

狭山茶は埼玉が誇る、我が町の特産品、おいしいですよ~!!

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先の信号を左手に入り、すこし戻る感じですが、曹洞宗・龍昌寺へ。

龍昌寺は、明治7年(1874年)新島襄が宣教師として帰国後、初めてキリスト教

講演をした寺院だそうです。

ははは、お寺の住職は太っ腹!

その4年後に、便覧舎で地元の信徒に洗礼を授けたんだそうです。

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境内の参道の左右に(和合の鐘)と言われる、108の梵鐘が並んでいます。
備えの開運小槌で「過去・現在・未来」と3回撞いてお参りするんだとか。

備え付けの小槌は持ち帰りもできるんですよ。

解説板に書かれてました。

「開運小槌は一年間各家庭の仏壇、または床の間におまつりし、おかえしください。

その一年間に煩悩生づる時小槌で頭をたたいて下さい。心身の病を癒やすことが

できます」 お返しに1年後これればな~・・・・・これたらお礼参りだね。

順番にたたいてゆくメロディーが流れる・・なんて、どうかしら、てカミさん。

おっ、それもまた楽しだねなんて、失礼しましたお住職様。

 

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龍昌寺を後に旧道に戻ります。おや、こんどは田島商店です。

田島とついたお店が何軒か見かけたので、一族かな?

f:id:hansui:20161212183054j:plain300m程進んだ左手「安中上野尻郵便局」の駐車場隅にポツンと石碑が建ってます。近寄ってみると「安中大木戸跡」で、上ノ木戸跡(京口)かな。

AM11:10、江戸から15番目、安中宿を後にします。

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 旅は江戸から16番目、松井田宿へと足を進めます。

少し風は強くなったようです。帽子を深めにかぶりなおして歩きます。

 

後編へ

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 
 
 

 


 

 

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅 (第11回) 高崎宿~安中宿入口へ 後編

12月2日、中山道、高崎宿を後に旅は続きます。

橋の手前から左へ少し戻り、横切る国道17号高架下を回り込んで、
君が代橋を渡ります。

高崎市役所展望所21階からの君が代橋)

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君が代橋から国道18号豊岡バイパスとなる橋を渡ります。

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橋を渡り終えて左手の階段を戻るように下り、橋下をくぐって右手に回ります。

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回って橋の右手に抜けると、そこに萬日堂があります。

元は旧道の南側にあったけど、国道18号の拡幅工事、君が代橋の改良工事ため

昭和56年現在地に移され落慶法要されたお堂です。

ご本尊はみかえり阿弥陀像。「おもしろひ夢見る顔や涅槃像」と刻まれた

白井鳥酔句碑が市指定重要文化財

阿弥陀仏像はパンフより拝借)

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街道は橋の袂から18号と分岐し、右手に国406へ進みます。

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碓氷川と烏川にはさまれた豊岡地区はだるまの里。

だるま製造をしている民家やお店が点々と見受けます。

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高崎といえば「だるま」。この豊岡が発祥の地だったんですね。

達磨製造組合HPより、

http://www.takasakidaruma.net/history01.html

 

国道406を進み右手に石神社。

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下豊岡西交差点で、左手に県26号を分けた先に大きな食品スーパーがあり、

足休めを兼ねてランチタイムに。

近年はスーパーやコンビニにイートインコーナーが有るので便利ですね。

店内パン工房で購入し、100円コーヒーで昼食。

旅でよくやる定番スタイルです。チーズ系が多いかな。

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再び道を進むと、また二股になり中山道は国406と別れ、左の道へ向かいます。

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分岐には、自然石の道しるべ。

道標には「右 はるなみち/くさつみち」と刻まれている。

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10m位先、左に祠だけの八坂神社、そして市指定重要文化財の下豊岡の道しるべ。

正面に「榛名山/草津温泉 かわなか/かわらゆ/はとのゆ 温泉」、

右面に「従是 神山三里/三ノ倉五り半/大戸九り半」、

左面に「左中山道 安中/松井田/横川」と刻まれている。

 

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解説板によれば、往時は八坂神社のあるこの場所が信州道の追分だった。

そういえば、東海道五十三次膝栗毛の弥次さん喜多さんも、帰りに善光寺へ行き、

帰りに草津温泉いて疲れを癒したから、江戸への帰りはここを通ってるんだ!

なんて、面白いですね。

国道406と別れ街道は分岐を左に進みます。

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左手に、永承6年(1051年)奥州の安倍氏鎮圧に向う源頼義・義家父子が

戦勝祈願のために建立したという若宮八幡宮

ご由緒に寛文2年幕府代官が社殿の大改修を行ったとあります。

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この一帯は高崎宿と板鼻宿のほぼ中間に位置し、若宮の立場があった様子。

八幡宮から街道に出ると、上豊岡の茶屋本陣への標識が建ってます。

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しばらく民家の連なる街道を進みます。

右手奥に立ち寄りしませんでしたが、武田家の家臣で、豊岡領主・祢津政直が

慶長元年(1596年)創建した常安寺が見えてます。

本堂は平成19年に改築されてるそうです。

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自然石の庚申塔や達磨製造所など見ながら足を進めると、茶屋本陣の案内標識が

見えてきます。

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左手に飯野茶屋本陣跡で県指定史跡。大名や日光例幣使の休憩用に使われていた。

敷地内に今もお住いの様子でした。

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右手に石仏石塔群。昔からあったのか、道路改修などでここに集めたのか不明。

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左手に不動明王を祀る金ヶ崎不動尊の印標識で道路側はお堂の裏。

お不動さんは堂内が暗くて見えません。

狭い境内に道祖神庚申塔の建ってます。

 

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右手に瓦葺きの屋根で、吹き抜けが2つ出ている独特の「上州の櫓づくり」という

大きな民家がありました。養蚕農家だったのでしょうね。

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その先で中山道は右にうねった細い道へ入り、上豊岡交差点から国道18号に

接します。

f:id:hansui:20161206163052j:plain一旦右に曲がって18号から北へ延びる高崎環状道路を横断、垣根の草むらの中に

辛うじて読める馬頭観音、先の湾曲道を進み国18号に接します。

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18号の左手は碓氷川が流れています。地は豊岡から藤塚町になりました。

右手に赤い鳥居の浅間神社は藤塚の北の一里塚跡。18号の道路拡張に伴いここに

移設され、地名の藤塚の由来となった富士塚と呼ばれているそうです。

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そして国道18号を挟んだ向かい南側に、江戸から28番目の藤塚一里塚。

18号を横断できないため、浅間神社からパチリ。

群馬県内で現存する唯一の一里塚で、塚の上には樹齢400年といわれるムクノキが

茂っている。県指定史跡。

(慶長9年(1604年)年 に大久保長安が築いたという説があるようです) 

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この辺の旧中山道は街道案内書によって、国18号南側の碓氷川土手道と北側の

18号側道と解説がまちまちです。

季節によっては土手道のほうがいい気分かな。

まばらに民家や工場などが続く道。

おっ、大根干し!懐かしいね、鰊漬け沢庵漬け、子供のころ手伝いさせられたけ。

ベランダで干して鰊漬けを作ったこと有ったわよ、なんて大根談義。

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浅間神社から5分ほど右手に天照皇大神宮。立ててある由緒書を見なかったので

謂れは不明、伊勢からの御分霊を奉遷?

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ここから約1・3km位、18号を横断し碓氷川を鼻高橋で渡って行くと、

高崎名物縁起だるま発祥の地:達磨寺がありますが、今回は寄りません。

次回の時に寄り道したいと思ってます。(土手へ上がる歩道橋より)

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200mほど行くと八幡大門交差点に朱色の大鳥居。

八幡宮」の額の文字は弁慶が書いたと伝えられているが、

あっ、「八幡宮」の扁額が無い!(塗装補修かな?)

上野国一社八幡宮の鳥居で、本殿は先のJR信越本線をこえて700m向こう。

長い参道は八幡大門通り、地名は八幡町。

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参道へ足を進めます。

右に小学校、中学校。やっぱり「挨拶」大事ですよね・・・・。

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信越線を渡ります。

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踏切を渡るとやっと境内の丘が見えてきます。

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麓に神門があり、神門の前には「上野國一社八幡宮」と刻まれた社号標。

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う~ん、擦れて読めないね・・・

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たぶん、

「八幡の八幡宮(やはたのはちまんさま)

天徳元年(957)山城国の岩清水八幡宮を勧請しての創建。

源頼義、義家父子が前九年の役(1051年)で東北に向かう途中に戦勝祈願をし、

大役を果たすことができたので社殿を寄進した。

その後も、源頼朝新田義貞武田信玄などが信仰するなど、清和源氏一族の崇拝を

受けてきた。

江戸時代には三代将軍徳川家光から社領100石の朱印地を与えられた。

通称は八幡〔やわた〕の八幡〔はちまん〕様である。

1754年から復活した「太々神楽〔だいだいかぐら〕」は市の重要無形文化財

指定されている。」

 

石段を登ると隋神門が建っている。

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狛犬がいない境内に、慶応3年(1867)に奉納された、市指定重要文化財の唐銅燈籠。

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本殿・幣殿・拝殿などの社殿も市指定重要文化財で、本殿は宝暦7年(1757)に新築されたもの。

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ほかにも、県指定重要文化財の算額、市指定重要文化財の胴丸、市指定重要無形民俗文化財太々神楽(だいだいかぐら)などがあるそうです。

長い参道を中山道に戻ります。

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街道(国18号)に戻って八幡大門交差点を過ぎると高崎市から安中市板鼻地区入り。

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さらに国道を西へ進むと、 板鼻東の信号の先、板鼻堰(用水路)石橋があり、

脇に寒念仏(かねつ)橋供養塔が建っている。

板鼻宿の念仏講中が、寒中に念仏を唱えて回って得た浄財を、石橋を架ける費用に

充て、 その後破損したため享和二(1802)年、木嶋七郎左衛門がさらに改修し、

供養記念塔を建てた。

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交通量の多い国18号側道をたんたんと進みます。木柱道標が次の板鼻宿、1km。

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 板鼻下町交差点で国道は左カーブするけど、旧道は右折へねじ曲げられて旧道は県道137号となる。

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中山道(県137)に入ると先に板鼻堰に架かる板鼻川橋が見えてきます。

橋そばに女神が瓢、男神が盃を持ち仲睦まじく肩を寄せ合っている、双体道祖心神

台座に街道の路程表が書かれいるというが摩滅していてよく見えない。

ここが英泉描く「板鼻宿」と言われてます。

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橋を越えると左の工場の一角軒下に、年代不詳ですが庚申塔やお地蔵さん。

う~ん、いいですね・・きっと古くから祀られ、大事にされてきたんですね。

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第九中仙道踏切を渡ると板鼻二丁目交差点で、踏切手前が見附跡、板鼻宿入口。

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板鼻宿は江戸から24番目、日本橋より28里24町40間(112.7km)。

天保14年(1843年)中山道宿村大概帳によれば、

本陣1、脇本陣1旅籠は54件、宿内人口1422人。

堅苦しい城下町の高崎宿を避けた旅人で大いに賑わい、茶店や商店も多数あり

上州・中山道7宿の中では最大規模の宿場で、幕末には幕府直轄地となった。

今は静かな、ちょっぴり宿場の面影の残る街並みへ足を進めます。

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板鼻2丁目交差点は榛名道の追分で板鼻宿木柱と、電柱側に文政13年(1830)建立の

石造りの八幡榛名道道標が建っている。

正面に「やはたみち」、右面に「はるな くさつ いかほ・川原湯 かねこ・澤たり

しぶ川 みち」と刻まれている。

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ここから街道標識は県137から県10号になりました。

先を左手に入ると、古い歴史を持ち代用本陣をも勤めた曹洞宗長伝寺。

およそ450年前(天文年間中期)に、安中市後閑の長源寺の九世為景春和和尚が

八幡宮高崎市)境内に開基し、後に板鼻に移転再建されました。

火災に遭いましたが、慶応4年(1868)に再建された寺院でした。

本堂内に入れませんでしたが、゛彫刻の寺″とも呼ばれる木造装飾彫刻は、

日光造営彫物師の流れをくむ工匠が、十数年かけて完成させたそうです。

 

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街道に戻り右手に手に、天保年間(1830~44)には旅籠として営業していた、

旧旅籠角菱屋跡に四代続く「かつ丼の老舗、板鼻館茶屋」

うん、なぜ、かつ丼?? 資料を見たらTVでも紹介されたとか。

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板鼻館左手路地奥に県26号を越えて、天台宗称名寺

本堂より高く堂々とそびえる梵鐘は、郷土鋳物師・金井兵部重久が宝永5年(1708)

に鋳造したもので戦時中の供出からも免れた。

板鼻城陣屋門を移築の裏門がある。

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板鼻宿信濃との境で武将や軍勢が良く往来したところだったそうです。

称名寺裏手には源義経伝説にまつわる、伊勢三郎屋敷があったという説が

ありました。

路地を戻り板鼻宿交差点の手前に、敷地504坪、門構え玄関付き建物の

福田脇本陣があったそうですが標識識もなく、資料からこの辺んかな?。

昭和20頃の大型台風で倒壊したとの説があります。

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板鼻宿信号を過ぎて右手に板鼻公民館が建つところが、先の寒念仏橋供養塔を建てた、板鼻宿の木島家本陣跡。 

公民館裏手に、皇女和宮が降嫁のため江戸へ向う途中宿泊した木島家本陣の書院を

移設した皇女和宮資料館があるが、閉まってる!(写すの忘れてしまった)

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隣にあるのが江戸末期に建てられた、ちょと変わった土蔵造りの

旧てうちん屋(ちょうちん)。屋根が二層の構造に見える。

(写した写真がピンボケで、拝借写真です)

 戸が土で出来ていて、昔は火事の時隙間に味噌を塗り防火したという。

今は使用されていないそうです。

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斜め前の駐車場になってるところが、牛宿跡であると資料にあるが、

空き地と公園になっている。

資料にには牛宿に道祖神があったと記されていて、公園の一角に道祖神が有るので、

どうも公園が牛宿跡のよう。 

牛宿とは荷物の継ぎ立て所の役割を果したもので、荷役の牛と牛方が宿泊した宿。

裏手には牛小屋があったという。一つ屋根の下じゃなかったのですね。

(もっとも荷役の馬や馬役人なども泊まったとか)

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*牛宿て、信州白馬付近で見たけれど、ここの牛宿とは違うわね、

てカミさんが思い出してました。

そうでした、信州白馬山麓小谷、白馬、大町で、日本海側から信州、甲州方面へ塩を

運んだ旧街道を歩く塩の道祭が5月に3日間開催されます。

数年前に小谷村の祭りに初めて参加、歩いたことがありました。

途中に牛方と荷を背に運ぶ牛が、こちらは一緒に泊まる「牛宿」があったんです。

アルバムに残してありました、懐かしいね~

 

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公園(牛宿跡?)の先から右手山側を通る県171号( 旧国道18号)への道へ

入りました。

途中に住宅街の中を、とうとうと流れる板鼻堰(用水路 )が見られます。

板鼻堰は慶長中期から後期に開窄され、鷹巣山麓の堰口から碓氷、九十九両川の水を取り入れ、安中東部と高崎西部に配水し烏川に流している延べ15kmに及ぶ用水で、

4百年前から水が流れ続けているんですね。
各家に引き込まれているので、昔は野菜などを洗ったり洗濯したりと、生活に使われていたそうです。

あの英泉が描いた板鼻宿画の流れも、この堰の下流だったんです。

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坂道になり上って行くと石段脇に大きな庚申塔が2基あり、左の塔には二匹の猿が彫られてます。猿は庚申の使いでしたね。

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石段の先は県道を挟んで南窓寺への登り参道で山門が見えてます。

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現在上毛三山パノラマ街道とも呼ばれる、県171号(旧国道18号)へ出ました。

群馬県内にある赤城山榛名山妙義山の3つの山を結ぶ道でした。

赤城、榛名は後方になり、妙義山が左手に見え隠れしています。

三山とも登ったことがあります。もっとも妙義山は中腹の横歩きでしたけど。

立ち寄りしませんでしたが、南窓禅寺には江戸後期、伊能忠敬のもとで

測量・天文学を学び、伊能図作成のための測量隊にも参加した和算家・小野良佐栄重

のお墓あるそうです。

また、南窓禅寺の小高い山は永禄年間(1567年頃)武田信玄が上州攻略時の

鷹ノ巣(板鼻)城址ともいわれてます。

街道に戻らず県道をそのまま合流地点まで進みます。

前方に逆光ですが、妙義山が名のとおり妙な姿を見せてます。

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先で宿内からの道と合さり、街道は碓氷川を鷹之巣橋で渡り、安中へと続きます。

橋手前の宿からの道右手、に鷹之巣神社入口碑と依田六郎なにがし・・と書かれた

石柱が建ち、その脇には常夜燈や御神燈などが立ってます。

歩いて来た県道右手の奥の山の途中に、慶長19年(1614年)以前の創建と

言われる板鼻の鎮守、鷹巣神社があるそうで、参道が国道に分断され、一部だけ

残っているようです。

依田六郎は信玄の家臣、鷹巣城の城主でした。

資料がありませんが、板鼻宿京口はこの付近だったのか・・・?

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中山道は県171と一緒になり碓氷川を鷹之巣橋で渡ってゆきます。

江戸時代は50mほど上流側で、夏は徒歩渡し、冬場は仮橋が架けられていた。

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写真 左上・板鼻宿方面 下・上流側、紅葉メタセコイアのところはクレー射撃

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橋を渡ると中宿交差点。

左手に、創建は安土桃山時代天正年間(1573~1591)と言われる、安中中宿の鎮守

諏訪神社。(諏訪大社を勧請を受けた神社でしょうね)

国指定重要民俗文化財・中宿糸操燈篭人形芝居が、保存会により神社祭礼に上演されるそうです。

明治天皇が北陸東海巡幸の際に休まれたという石柱と、大きな腰かけ石もあります。

町内子供会でしょうか、大勢の子と大人が境内の掃除をしてました。

都会では見かけなくなった風情ですね。

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*中宿糸操燈籠人形芝居*

明暦2・3年(1656・1657年)頃、始められたと言われる。昭和52年(1977)に国指定重要無形民俗文化財に指定された。燈籠人形は竹と和紙によって作られ、ロウと絵の具で描くものであるから、上演の度に新たに作られる。人形の胴体は中空で内部に回転するカンテラをつける。演目は4つあり、「三番叟」、「俵小僧の力自慢」、「曲馬かご抜け」、「安珍清姫」である。人形は1体16~9本の糸で操られる。人形に取り付けられた糸は舞台の天井に取り付けられた框の穴を通して下げて、舞台の「奈落」にいる操り手によって操られる。平成12年度には「中宿糸操燈籠人形展示館」が完成し、中宿糸操燈籠人形保存会によって管理されている。(安中市HPより)

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奥隣に鎌倉時代前期 寛喜3年(1231)栄朝禅師の創建と伝えられる、

臨済宗の開祖栄西の高弟、栄朝の開山の蓮華寺があります。

境内開山堂に祀られている栄朝禅師木像が、県指定重要文化財

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中宿交差点に戻り県171を横断して進むと突き当りで旧中山道に復帰します。

突き当りを右へ少し戻ると木柱の中山道道標、奥つき当り付近が中宿側の渡河地点。

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民家が点在する中の改装したような蔵のところに、江戸から29番目の中宿一里塚の

標識がありました。

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街道は車の往来も少なく、静かな(寂しい?)たたずまい。

左手に蔵を改装した新しい感じの公民館がありました。

400年余の歴史を持つ、大河原家が市に寄贈した、との石碑がありました。

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すぐ先に、享和2年(1802年)建立と言われる、庚申道標。

街道面の庚申塔、左面に「従是 一宮 大日 街道」と刻まれている。

一宮、大日はどちらも富岡市にあるのでここが追分でもあったのですね。

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100mほど先で道は二手に分岐し、右手にゆくと旧道は碓氷川の丸石の石垣堤防に

当たり街道は消滅です。

昔は中州を挟んで仮橋や渡渉碓氷川を越えました。

写真右、石積み土手側の木柱道標には、安中、1.2kmとあります。

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今様中山道は、寛政10年(1802年)建立の馬頭観音道祖神のところから

土手沿いにゆるく左曲がり。

 

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曲がった先で街道は土手から左へ入り、國道18号へ出る手前十字路を右に曲がり、

久芳橋を渡って安中宿へとゆきますが・・・・(写真右、久芳橋へ)

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今日の旅は直進し国道18号を横断して、突き当りの安中駅で足止めします。

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12月2日(土)PM4:00、JR信越線・安中駅で、高崎宿から約11km、

中山道歩き旅第11回目の足止め。

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日本橋から14番目、板鼻宿を通過、上野国(上州群馬)も、安中、松井田、坂本

約20km強を残すのみとなりました。

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JR信越線で高崎へ戻り、関越高速道を走ってPM6:40、旅を終えました。

 

雪の来る前に、碓氷峠口、坂本宿へたどり着けるでしょうか・・・・・

旅は続きます。

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅 (第11回) 高崎宿~安中宿入口へ  前編

>平成28年6月18日、3年半をかけて東海道五十三次を旅し、
京の三条大橋に立ちました。
そして夫婦は旧中山道69次の旅、再び京を目指して歩いています。

 

11月26日、江戸から13番目、高崎宿入り新田交差点で足止めとしました。

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 『髙崎宿』
 人口3235人(男:1735人 女:1500人) 家数:837軒。本陣:0,脇本陣:0,旅籠:15。
ここは古くは「赤坂」と呼ばれていたが,鎌倉時代になって「和田」,さらに慶長3年井伊直政によって城が築かれると「高碕」に改められ,城下町として栄えた。三国街道との分岐にもあたり交通の要衝でもあった。
城下町であったため,本陣,脇本陣は設置されず旅籠の数も少ないのが特徴。本町(3日・8日),田町(5日・10日),新町(2日・7日)とそれぞれ六斎で18回も市が立ち,絹(髙崎絹)・木綿・煙草・紙など近郷の産物が取引され,日用品,雑貨の店も並んだ。
 江戸と信越を結ぶ問屋,仲買の大商店ができ「江戸見たけりゃ,髙崎田町」と唄われたほどの賑わいを呈したという。

 

12月2日(土)、お天気 晴れ 微風 最高気温13度。

夫婦はまたもや歩き旅へ出かけました。

大まかな家事、朝食を済ませ、マイカーで出発。

関越高速を走り、高崎駅西口より徒歩5分の駐車場へ駐車。

徒歩5分内では調べた中では、1日駐車代金が一番安かったのです。

1分位ごとに駅近くなると100円アップですね。

 

今日の行程は10回目の旅で着いた江戸から13番目高崎宿から、

1里30町(約8km弱)の江戸から14番、板鼻宿へ。

そして少し足を延ばして15番、安中宿手前、JR安中駅(安中宿ではありません)

で、約2里半(約11km)です。

 

AM7:30、前回足止め新田交差点へ向かいますが、途中の道筋にある、

街道案内に記載されてる2寺院に立ち寄りします。

AM8:00

450年の歴史があり、寺領百石を持っていたという門扉に三つ葉葵が描かれた,

浄土宗・大信寺。

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三代将軍徳川家光の実弟(三男)である駿河大納言徳川忠長の墓がある。

駿遠甲の計55万石を知行したが、ご乱行があったとして咎められ髙崎城に幽閉。

寛永10年(1633)弱冠28歳にて自害させられた。

墓石である五輪塔は、家光の死後24年&忠長の43回忌にあたる延宝3年(1675)

に建てられた。

周囲に玉垣と呼ばれる石柵に囲まれていて、鎖でつながれていたので、

「鎖のお霊屋(たまや)」と呼ばれていたそうです。

祟らないように鎖で縛られていたのかな?

(今は鎖は見当たりませんでしたが、施錠はされてるような)

硯箱、自刃に用いた短刀、自筆の手紙などが位牌とともに同寺院に保存されているそうです。

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そして隣には秤座・守隋彦三郎の墓というのがありました。

秤座(はかりざ)は、江戸時代、江戸幕府の特別認可を得て、秤の製造、頒布、検定、修繕などを独占した座であったのですね。

徳川家綱の時代に承応2年令が発せられ、日本を二分し、東33カ国の秤は

江戸の守隨氏が、西33カ国の秤は京都の神氏が支配することになったそうです。

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守隨家は現在も守隨本店として盛業しています。

見つけたHPに記述されてる「守隨本店の歴史」を紹介します。

http://www.shuzui.jp/corporate/history/

 

大信寺を後に南に向かうと、1階が店舗、2,3階がアパート、その脇に寺院名を

彫られた石柱が建ち、アパートの裏に急坂を上って行く参道?

寺院名は浄土宗・安国寺です。

我が家の宗派でもあるので、街道案内には記載がありませんでしたが、

興味を惹かれ寄り道に。

裏の境内はアパートの2階部で、たぶん、アパート住民の駐車場?

その奥に本堂が。

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坂途中の解説石碑は、植木などで読みずらいですが、群馬箕輪村に創建された

寺院で、徳川家康より上野箕輪城十二万石を与えられた、徳川四天王井伊直政が、

正室の両親の供養のために荒廃していた安国寺を復興し、のち高崎に移り

高崎城築城時に、寺領4千予坪をもって当地に安国寺も移転させる。
関ヶ原の戦い後に井伊直政公は、石田三成の近江佐和山城の城主になるとともに、

安国寺も付近にと、彦根城のそばに高崎安国寺を分離させて宗安寺と改名建立した

ようです。)

また石碑には、明治9年群馬県発足時に初代群馬県庁がおかれたとありました。

(石碑には現在の寺院形態になったいきさつも記述されていましたね)

 

 まだ人通りの少ない高崎の街を行き、

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左手に高崎駅、右手奥に高層ビルの高崎市役所を望む広い通りに出ると右手に

豊田屋旅館本館がありました。豊田屋は明治17年(1884)の高崎駅開業の明治の終わり

に現在地よりも駅寄りの場所に創業。

本館は昭和7年(1932)に築かれたもので、国登録有形文化財となっている。

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旅館の右手道奥ににお寺が見えましたが、正面は回り込んだ一本西側の道。

手前の公園のモミジやサザンカが朝の光で綺麗です。

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公園の隣が赤門が建つ名刹、上野国高野山真言宗・延養寺。

延宝9年(1681年)上野国に滞在していた円空作・神像が祀られてる。

形の上では単なる「神像」なのですが、像の底に墨で「梅図」が描かれていることから、「天神像」と呼ばれています。

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延養寺を後に南に進むと第10回の足止め地、新田交差点です。

AM8:30、あらためて、新田交差点より中山道の旅は再開です。

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歩いて来た中山道・県134号(東国文化歴史街道)は、新田交差点で

西からの県25号(西上州やまびこ街道)と合い、旧中山道は県25号となります。

高崎城址へ寄るため、新田交差点で県25号を西に入りすぐ右手に

古刹、曹洞宗・興禅寺の山門がありました。

 

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 山門を入ると小公園で道路の向こうが正門、境内でした。

興禅寺は治承元年(1177年)新田氏の祖である新田義重の開基と伝えられ、

戦国時代の初期に、当時の和田城主・和田信輝が再興し、菩提寺とした高崎の

古刹で市内で一番古い創建と言われてるそうです。

興禅寺に伝わる「和田城並びに興禅寺境内古絵図」によると、鎌倉街道に面した

広大な敷地を持っていたが、井伊直政の高崎城築城時に境内を縮小され、その後

大河内氏が城主時代の天保11年(1840年)に現在地に移っているそうです。

上の写真、山門の天井にいまはシミにしか見えない画が描かれていて、

火災を消火したと言い伝えの龍だそうです。

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西側に曹洞宗・向雲寺。

1600年に井伊直政彦根に移封後、高崎城2代目藩主・酒井家継により開基。
本堂前には見事に手入れされた「サンゴジュ」の大木は高崎市の保存樹木で

知られています。

入口に「大行満願海遺跡」という大きな石製の標識が建っている

「大行満願海上人」(だいぎょうまん・がんかい・しょうにん)とは、

千日回峰その大行満となった高崎出身の僧の名です。

願海上人は文政六年(一八二三)に近くの鍛冶町、本見林兵衛家の生まれ。

父は煙草屋を営んでいた。

21歳で比叡山へ上って千日回峰を発願し、嘉永6年(1853年)、

31歳で千日回峰の大行を満行し、孝明天皇や祐宮(明治天皇)の安穏長久を

祈祷、「勤王僧」と呼ばれた。

*千日回峰*

平安時代に発する天台宗修験道で、1000日にわたり、比叡山の山中を回峰する。

260か所にも及ぶ神仏、社祠や一木一草に至るまで「悉く成仏する」として、

30~40kmを駆けるように一周を繰り返す。

700回を経過した後、九日間、不眠、不臥、断食、断水、断塩し、ひたすら坐した

まま不動明王真言を唱えるという、人間の生理の限界を超えた荒行の「堂入り」、

さらに60kmの「赤山廻り」、最後は比叡山から京都の街中を駆ける84kmに

及ぶ「京都大廻り」を加えて満行となる。

こうして回峰行者となった特権として、御所の紫宸殿に、わらじ履きのまま参内し、

加持祈祷をすることが許される。

 

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向雲寺を後に西に進んですぐに、堀があり一帯は旧高崎城址です。

道の左手が高崎公園、右手が高崎市役所で、一番西側に国道17号が通り、その向こうは烏川が流れています。

左手公園の奥に17号に面して頼政神社がある。

元禄8年(1695年),髙崎城主に封ぜられた松平輝貞(大河内松平)が,平安末期に平氏追討を図ったが敗れ,宇治平等院で自刃したを祖先・源三位源頼政祀るため

建てたもの。

あら、愛嬌のある狛犬ね!てカミさんが喜んでます。

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境内の烏川を望む地に内村鑑三記念碑があります。

内村鑑三札幌農学校(現北海道大学)の二期生で田舎町育ちの私でも

小学生のころから知っていましたね。

城主・大河内松平氏に仕えた家柄であり、江戸・小石川の高崎藩邸で生まれ、

幼児期この高崎の地に過ごした。

その縁でこの神社境内に碑ああるのでしょうね。

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内村鑑三

http://www.takasakiweb.jp/takasakigaku/jinbutsu/article/08.html

余談

高崎市若松町の日宮山光明寺に、大正3年(1914年)に内村鑑三が建立した

内村家5代の墓があるそうです。

 空を突くようにそびえるは地上100mの高崎市役所。

高崎市は裕福な自治体なんですね。

駅周辺のビル群や商店街など、城下町時代から活気があったのがよくわかりますね。

県庁のある前橋との競争心も旺盛なんだね。

*帰宅後チョと調べてみると「群馬県庁推移」 こんな資料がありました。https://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2015072900057/files/shiryou.pdf

 

高崎城。

この地は鎌倉時代の初期に、和田正信が築いた和田城で、1590年(天正18年)に

後北条氏が滅びると共に廃城となり、その跡地に慶長3年(1598)、徳川家康

命を受けた箕輪城址・井伊直政によって高崎城が築城されました

郭内だけでも5万坪を超える広大な城郭でした。

城の跡は、高崎市役所や図書館などが建っています。

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 時間は朝の9時を過ぎたところ、ちょうどいいころだね。

何か所かお寺巡りを先にしたのは、市役所の展望所へ上るためでした。

高速エレベーターで21階、約100mの展望所へ上ると、快晴の空、ぐるり

360度の大展望。

左上・奥に草津白根山、下・谷川岳連峰、右・浅間山と右のほうに榛名山連山

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左上・左、荒船山・中、妙義山・右、浅間山

左下・雪の八ヵ岳と高崎観音、右・真ん中の道が歩いて来た中山道

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夕刻まで眺めていたい大展望でしたが、30分ほどで、旅へ戻ります。

お堀端にかわいらしい像が建ってます。

あの長崎平和記念像の作者が制作されたようです。

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城址を後に中山道へ戻る手前左に、石造りの山車倉と建物に挟まれて窮屈そうに

お社がありました。 あら町の諏訪神社 です。

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社殿は一見二層にみえますが、裳腰(もこし)をつけた平屋で、軒下に直接鳥居を

造りつけています。
外壁は防火のためか、総漆喰の塗籠造りで、本屋根と裳腰の間には、

七賢人(しちけんじん)の手の込んだ漆喰彫刻がほどこされている他、内陣の扉、

欄間、鳥居などに見事な彫刻が見られます。

高崎市内でも数度に及び大火にみまわれていますが、神社も2度にわたって火災にあっています。 内陣をのぞいてみると扉は立派な彫刻がほどこされていますが、火災で焦げた跡が黒ずんで見えました。文化10(1813)年ころの社殿再建の際にそのまま使用されたんですね。

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裳腰の外壁の下半は海鼠壁(なまこかべ)でした。
台座は中世の宝篋印塔(ほうきょういんとう)の屋蓋(おくがい)を裏返しにして、耳を四足とし、。重さ2貫700匁(8.125キロ)の鶏卵型で、台座の重さ30貫400匁とあり、中央のくぼみに信州諏訪ゆかりの御宝石を安置しているそうです。

(見ることはできませんね)

なお、あら町は旧新町で平成18年の多野郡新町(あの新町宿)との合併に伴い、

あら町と表記が変わったそうです。

「新」を「あら」、と呼び変えたんですね。

「あら」のほうが街道街らしいわ・・・てカミさん。

あら町交差点を直進すると突き当りが高崎駅です。

 

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中山道は県25号、東国文化歴史街道として左折して、アーケードの有る商店街を北へ進みます。

1丁進むと連雀交差点。

あら町と連雀町の間が高崎宿の中心。宿場の中心といえば、大抵の宿場には本陣があるものだけど、高崎宿には本陣はない。はじめは連雀町の福田家が務めていたけど、何度か火事に遭って本陣職を辞し、その後本陣は設置されなかった

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連雀交差点の左手に県指定重要文化財、高崎城乾櫓、その隣りに高崎城東門(どちらも再建)がありましたが気付かぬまま交差点を通り過ぎてしまい、寄りませんでした。

(拝借写真)

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さらに1丁進み田町交差点の先を左へ入ってゆくと、南北に通る中央銀座商店街に

飛び出します。ポチポチ開店のお店がみられ賑やかになるのはこれからかな。

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商店街を横切って、細い路地を行くと

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 永正元年(1504年)当時この地を治めた和田信輝が和田城の鬼門除けの寺
として薬師如来を安置し、開山されたと寺伝は伝える玉田寺。

冬桜が綺麗でしたね。

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再び路地を戻り商店街を横切って街道25号へ出、そのまま街道も横切って進み

左に入ると天文9年(1540年)開山の浄土宗善念寺。

木造阿弥陀如来立像は本堂の拝顔窓から見ると、結構大きく見えましたね。

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善念寺のある元紺屋町、隣は創業以来430年と謳う「こうじや」の工場兼店舗の

裏でした。

初代糀屋藤平が永禄6年(1566年)に和田宿(現高崎市)に居を構え、

以来四百数十年にわたって醸造業を営み、現在22代目を数えるそうです。

室町時代末期から安土・桃山時代の頃、箕輪城主の長野氏に、醸造技術を持っていたことから武士にも取り立てられ、この元紺屋町の自宅から何かあれば館に参じていた

と言われます。

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こうじやの先は国道354号が東から西へ通っています。国道を横切って先へ進むと

高崎市を代表する日本画家、武居梅坡の「水墨雲竜の図」がある大雲寺。

絵は拝見できませんが、散歩されていた方に、

「お寺には武田信玄の軍師山本勘助の子孫の墓があるよ」と教えていただきました。

墓地を探すと、確かに墓石には「山本菅助入道道鬼七世孫 山本菅助菅原晴生」と刻まれてます。

帰宅後調べてみると

山本勘助はつい最近まで、架空の人物であるというのが定説となっていたようですが、
平成21年(2009年)、安中市原市で薬屋を営んでいた真下家から、山本勘助実在を証明できる可能性のある書状が見つかり、上毛新聞に記載されたそうです。

勘助の子孫、四代目山本菅助が大河内松平家の家臣となり、

松平家の高崎藩転封に伴い高崎へ移り仕えたと言われてるそうです。

歴史て、面白いですね・・・教えていただきありがとうございました。

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大雲寺を後に南に下ると東からの国道354(中山道)は本町三丁目交差点で南に向かう交差点でした。

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曲がり角手前に、天保7年(1836)創業の寝具店金澤屋。

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左手に蔵造りの店舗など広い道の両側にお店が続き赤坂通りとありました。

(ただ少し櫛抜け状態かな)

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右手奥に成田山高崎分院、真言宗智山派・光徳寺がありました。

本尊は不動明王ですね。

境内の内陣は高崎場内にあった藩主の祈願所だったと言われますが、。

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右手に安政4年(1857年)創業で、街道店舗の常の奥行きのある茶店水村園。

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過ぎると本町1丁目交差点で、三国街道の追分。

三国街道は北陸街道の寺泊へ至る街道で、上杉謙信の関東遠征に重用されたと

言われます。追分はまた高崎宿の京口(西口)であったそうです。

本町1丁目の交差点で345号線は右折するが、旧中山道は信号を渡り直進し

歩道のない細い道をへと西進してゆきます。

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 左手に 「高崎」命名呼称の発祥地で、大きな石柱が建てる恵徳寺。

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寺は井伊直政が城を築いた時、禅師との問答で「高崎」地名の生まれた寺と言われています。

映り込んでるは旅人二人・・

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お寺の隣が高崎神社。

寛元元年(1243年)に和田城主和田正信が、相模国の三浦より勧請した熊野社で、

慶長3年(1598年)井伊直政が高崎城を築城する際に、現在地に遷座し、

高崎の総鎮守とした。

明治40年(1907年)に末社と近隣の神社を合祀して、高崎神社と改称した。

社殿は2階建てで、下は駐車場となって居て、拝殿手前に重そうな大きな瓦葺きの

手水舎がある。

境内の右手に大國神社と美保神社が、一つの建物に祀られた社殿がある。

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街道に戻り赤坂をゆる~く右に左に曲がりながら下ります。

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すぐ右手にブルー瓦を載せた山門の曹洞宗・長松寺(ちょうしょうじ)。

1507年に創建され、本堂が火災にあい、1789年に再建されてます。

江戸時代は加賀藩の茶屋本陣を勤めたと言われます。

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向拝天井絵及び大間天井絵、涅槃画像が市指定重要文化財

本堂の向拝を見上げると向拝天井絵で、寛政元年(1789年)狩野探雲 作。

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書院(庫裡)は徳川忠長が自刃した約140年後、当時の部屋を高崎城から移築し

てるそうですが、残っているのは柱くらいらしい?。
法要で入れませんでしたので大間天井絵、涅槃画像ともに拝観しませんでした。

境内に調べても良く謂れがわからない狸の家が???

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山門近くに木造の校舎風の建物がありました。

参拝に来られた方にお聞きしたら、やっぱり学校があったとのことでした。

帰宅後調べてみると、1897年長松寺の仮校舎に 群馬県尋常中学校群馬分校が創立されたとあり、長松寺が旧制高埼中学校(現高崎高校)発祥の地でもあったのですね。

そして明治36年(1903)長松寺住職山端息耕が長松寺の本堂を仮校舎として、

「高崎私立樹徳子守学校」を創設し、校舎も校名も変わりましたが昭和19年まで

40年6か月も存続し、廃校までに3020人が在籍し、卒業生は933人であった、

との記述もありました。

あの静かな境内に、かっては子供たちの明るい声が飛び交っていたんですね。

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(追記、学校のことは解説板があるそうで、見落としたようです)

長松寺のすぐ前、赤坂町公民館の前に番所跡解説板が建てられていました。

昔は写真右、長松寺側にあったようですが、反対側に移されたとか。

ここの木戸は内木戸と呼ばれていたそうです。

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坂の途中にこんな標語板が・・いいね~・・自動運転頼りは???かな。

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赤坂を下り切ると、裏にはレンガの煙突がある醸造所がある、岡醤油醸造屋。

「日本一の直売所」の看板や、醤油あいす(ひらがな)幟が・・かかっている、

大間々宿で天明7年(1787)に創業した醤油醸造業の河内屋(現岡直三郎商店)の

支店で、明治30年(1897)に開設された。

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坂を下り常盤町交差点を右折する辺りが外木戸だったと言われ、往時は番所もあった。

常盤町交差点直進は、突き当り国道17号が烏川に沿って左右に通ってます。

右折するとたかさき都市景観賞、実業家で学者の夫婦が私邸を開放したの山田文庫。

立派なレンガの塀の奥に日本家屋が建ってます。

(入らなかったので内容はわかりません)

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おや、お米屋さんに時計屋さん!

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あら~・・お城が建ってる!てカミさんビックリ声.

なんと右手の住宅の中に忽然と天守閣!!

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回り込んでみると・・厳めしい門に〇〇会社の名が・・(社長さんはお殿様!)

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足を進めてゆくと右手に並榎町坂上公民館があり、その先で旧街道はいったん国354の合流し、烏川に沿ってきた国道17号と354号線が交差し、国354線は国18号(国道18号豊岡バイパス)となって烏川を君が代橋で渡ってゆきます。

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橋手前草むらの中に、君が代橋の親柱が残越されており、そばに、「明治11年9月、明治天皇が北陸東海御行幸のとき、馬車でわたられたことを記念して命名された」との君が代橋の命名碑がありました。その橋は現在の橋の前のものです。

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橋の手前から左へ少し戻り、横切る国道17号高架下を回り込んで、

君が代橋を渡ります。

高崎城下を後に街道の旅は続きます。

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 ここが広重描く高崎宿。シルエットの山は浅間山でしょうか。

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市役所展望所から見下ろした君が代橋。

左、碓氷川が右、烏川に合流し南下してゆきます。

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後編へ続く・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第10回) 新町宿~倉賀野宿さらに高崎宿へ 後編

11月26日、中山道新町宿~倉賀野宿入り。

倉賀野駅で足止めの予定でしたが、高崎宿まで足を延ばすことになりました。

旅の続き、後編。

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 倉賀野駅入口交差点に戻り、121号中山道に復帰。

 

県121号を150mほど戻り中町十字路を南に下ると烏川・共栄橋があり、

橋の上流側が倉賀野河岸跡で碑が立っているそうですが、先ほどの本陣跡

ベイシアの角にある路地が倉賀野河岸の入口だったそうで、往時は八幡宮の鳥居が

建ち、烏川沿いの井戸八幡宮の前を通る道が中山道と河岸場を結ぶ道だった

そうです。

それで井戸端八幡宮へ向かい、倉賀野河岸跡を境内から眺めることに。

細い坂道下ると右手から降りてくる道と出会い、さらに曲がりながら下ると、

右手の小高い所が井戸端八幡宮

そのまま河岸へ下ってゆくと倉賀野河岸跡へ行くようで、下てきた道や

先ほど合さった道は、荷を運ぶ牛街道とも呼ばれたとか。

正保3年(1646年)倉賀野城三の廓跡の古井戸から、一夜にして水が湧き出て

八幡大神が現れたのが起源と伝えられる神社。

町の人たちから井戸八幡宮と呼ばれ親しまれ、井戸は今も残りその上に神輿が

保管されている。(写真右、神輿保管祠の下が井戸)

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境内にはこんな碑も。

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境内から下に烏川が流れ、左手、橋たもと付近が河岸跡。

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倉賀野河岸は1561年ごろ、地元民10人ほどが船による回船業を開始したのが

始まりで、上信越地方の物産を江戸へ運んだ。

1648年には76業者になり、嘉永5年(1852年)には船数133艘、船持十数軒、

問屋十数軒が軒を連ねたと言われ、1884年の鉄道開通にともない使命を終えた。

井戸八幡の右手上流付近崖上が昔の倉賀野城址だそうです。

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倉賀野氏は武蔵七党の1つ児玉党の流れを汲み、有道(児玉)経行の四男・行高の

三男、三郎高俊にはじまるとされ、建久元年(1190)に源頼朝が上洛した際の

随行員として倉賀野三郎の名があるそうです。

その後幾多の変遷を経て、武田氏の武将金井秀景が新たに倉賀野城主となる。

天正十年(1582)に武田氏が滅亡し、秀景は織田信長の重臣滝川一益に従った。

しかし、同年中に本能寺の変が起こると、北条氏直が大軍を率いて北上し神流川

戦いとなり敗れ、倉賀野氏は北条氏に降伏し、倉賀野城は北条家傘下となる。

天正18年(1590年)の小田原の役に北条氏が滅ぶと、倉賀野城は廃城となった。

 

県121中山道倉賀野駅交差点に戻り、左手の倉賀野仲町山車倉前に、

中町御伝馬人馬継立場跡、中町問屋場跡です。倉賀野宿は、問屋場が下町・中町・

上町に1軒ずつ、計3軒もあって、それぞれ10日交代で問屋を務めていた

そうです。

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その先右手の連子格子の旅籠風2階建てで卯建の上がる家が、河岸問屋も営んだ

須賀喜太郎家脇本陣跡。

建物は明治23年の築造といわれるが、表門は江戸時代に建てられたもので

脇本陣の格式が感じられるそうです。

明治4年(1871)に宿場制度が廃止になると旅籠業を営んだようです。

(残念ながら門付近は修復工事中で、下写真は拝借しました)

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隣に須賀長太郎問屋場跡で、そばに高札場跡で高札が復元されてます。

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高札場のうしろに一本の木が立っていて、案内板が立っている。

安政3年(1855)宿は大火に見舞われ、焼け野が原の化した。しかし只1軒焼け残った旧家があった。どこからか大天狗が現れ防火に努めたからという。

家では古峯様を信仰していたので古峯の天狗が助けたのだそうな。

この樅の木はその伝説に由来すると言う。・・樅の木は枯れ植え替えられているが。

向かいに須賀庄兵衛脇本陣跡、碑だけが建ってます。

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須賀家は、倉賀野十六騎の中に須賀佐渡守の名前が見られる事から、後裔又は

一族と思われます。九品寺境内にあった須賀家墓苑は一族のかな。

左手にしめ縄の下がった赤い柱、倉賀野神社への参道入り口でした。

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倉賀野神社は,およそ2000年前祟神天皇時代に起源を持ち,「飯玉社」

といわれ,江戸時代は,近郷12ケ郷の総鎮守であった。

明治10年大国魂神社と改称,同43年に近隣の数社を合併して

倉賀野神社となった。

御祭神は大国魂大神(おおくにたまのおおかみ)で大国主神(おおくにぬしのかみ)

の荒魂。

わが国には古来、同一の神について荒々しく神意さかんな面を荒魂、柔和な徳を

備えた側面を和魂(にぎみたま)とたたえ、異なる神名で呼び分ける習わしが

あった。

御神体は「クニタマさま」と呼ばれる亀形の自然石だそうです。

本殿は一間社流れ造りで、正面及び背面に唐破風が付き,屋根は銅板葺きで

多種多様な彫刻が施されています。

境内には北向道祖神、冠稲荷、甲子大黒天などが祀られてます。

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13年かけて慶応2年(1866)に完成した本殿の彫刻は見事で、市指定文化財。 

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街道に戻る参道脇の民家に「水車」が??f:id:hansui:20161128135249j:plain

街道121号をさらに西へ200mほど進むと歩道橋手前右に、

安楽寺

境内には安永4年(1775)の庚申塔,身に甲冑をつけた勝軍地蔵尊

珍しい室町時代の将棋の駒型「異形板碑」があるほか,本堂裏手には安楽寺古墳が

ある。

 

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安楽寺付近が上の木戸跡で倉賀野宿もここまで、上町西交差点を過ぎた辺りが

倉賀野一里塚跡だったようですが跡形もなし。

この先は県121号旧中山道(東国文化歴史街道)ながら殺風景な車道が

続いてます。

道路造成時に植えたと思われる松並木が多少の風情を醸し出している。

丈夫に育って、立派な中山道松並木になってほしいもんですね

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400mほど行くと左手奥にこんもりした森が見えてきます。

国指定史跡浅間山古墳で前方後円墳。 4世紀後半に造られたそうです。

関東平野でも小規模ながらたくさんの古墳がありますね。

古墳巡りも面白そうね、てカミさん。

寄りませんでしたので、拝借写真

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右手に「倉賀野町交通事故犠牲者供養塔」の交通安全地蔵尊

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たんたんと500mほど、おしゃべりしながら足を進めてると

左手に、おっ、駅弁だるま弁当だよ!

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右手にこんなのも・・時間が合えば寄りたかったね。

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高崎粕沢橋郵便局付近が、粕沢の立場跡っと言われますが、判りませんね。

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殺風景な広い道路で風のないのがありがたいが、ただひたすら歩くと

先に国道17号(現中山道)のガードが見えきます。

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あっ、ネリネ、いい色合いね~・・ぱっと明るくなった弾んだ声

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17号を過ぎると県12号、先に上越新幹線のガード。

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新幹線のガード手前を左右に抜ける道は、紅葉した楓(ふう)の並木、そして

電柱のない街並み、県134号道標新田下後閑線に変わります。

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ガードを抜けるとやはり電柱のないスッキリとした銀杏並木。

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上信電鉄踏切手前右には高崎アリーナの巨大な建物が工事仕上げ中。

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すぐ側が上信電鉄踏切です。この辺りが高碕宿東入り口になるそうです。

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踏切を越えると高崎宿、江戸から数えて13番目。

慶長2年(1597年)井伊直政により城が築かれ高崎と命名され、中山道随一の

宿場町として、また物資の集散地・商業のまちとして大いに賑わった。

街道筋の田町、本町、新町などに市が立ち、その様子は

「お江戸見たけりゃ高崎田町、紺ののれんがひらひらと」と詠われたほど。

その代わり、宿場の機能としては貧弱で、諸大名が御城下での宿泊を敬遠した

ことから本陣、脇本陣は置かれていなく、旅籠が15軒あるだけだった。

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、高崎宿の宿内家数は837軒、

宿内人口は3,235人。

 

正面に高層ビルが空を突き抜けています。

方向的に高崎市役所のビルでは?

えっ、あんな高層ビルが市役所なの!!カミさんがビックリ。

地上約100mで高崎一、前橋の群馬県庁に次いで、役所としては群馬第二の

役所高層ビルなんですね。

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500mほど進みゆるく右カーブする南町信号の左手奥に鳥居が見え、

入ってゆっくと突き当りに愛宕神社があります。

この曲がった桝形の食い違い道は高崎宿の二つ目の東木戸口との説があり、

前は交番があったとか。

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愛宕神社は江戸時代、和田城(後の高崎城)の鎮護神として京都 愛宕神社の御分霊を

祭祀創建された。

その後高崎城となり、元和三年(1617年) 高崎城主松平信吉が火防の神として

再建されてます。(ご利益は??)

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街道に戻り新町交差点にて今回の旅は足止めです。

新町宿から2里弱(約8km)、倉賀野宿1里19町(約5km)

お江戸日本橋から13番目、26里31町40間(約108km)

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中山道上野国もあと4宿となりました。

雪の季節になる前に、旅に出れるのはあと何度かな?

 

中山道夫婦旅はまだまだ続きます。

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第10回) 新町宿~倉賀野宿へ 前編

>平成28年6月18日、3年半をかけて東海道五十三次を旅し、
京の三条大橋に立ちました。
そして夫婦は旧中山道69次の旅、再び京を目指して歩いています。

 

 11月12日、上野国日本橋から11番目、新町宿(群馬県)入りをしました。

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24日は関東平野部では観測史上最も早い、11月の初雪でした。

週末の土日の天気予報、群馬南部はうす薄曇りなれど晴れ。

少しでも先へ足を進めたい、とのカミさんの希望に引っ張られて

再び街道旅へ。

気温は低そうで冬支度ですね。

朝の家事や朝食済ませ一般道でマイカーを走らせ、新町駅周辺の駐車場へ。

浅間、赤城、など周辺の山々が雪を載せて見えてます。

赤城の右奥に見えたのは、谷川連山かな。

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AM9:14、 

前回足止め、新町駅入口より今日の旅はスタートです。

あつ帽子忘れた、バックに入ってない・・えっ、ここまで気が付かなかったの?

まあ、風はほとんどないから、

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(メタボ腹に見えますが、ウェストポーチをしてるから、言い訳ですかな)

気温は低いようですが、全く風がなく薄い日差しさえぽかぽかと暖かい。

歩き旅にはいい条件ですね、さあ、ゆくか~・・・(駅跨架橋より浅間山

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新町宿は上野国7宿の東口にあたり、神流川の渡しを控えて宿場がないと

不便と承応2年(1653年)、落合村と笛木村を合わせ、中山道の中で最も遅くできた

宿場街でした。

本陣2、脇本陣1、旅籠屋43軒、家数407軒、人口1473人であったそうな。

 

すぐ左手に旅籠・高瀬屋跡です。(今は駐車場で宿姿なし)

なのに中山道の史跡として残されてるのは、こんなエピソードがあったからです。

文化7年(1810年)に宿泊した小林一茶が、あの渡って来た神流川見透燈篭の

新町側の建立で、浄財寄付を”強要”され、12文寄付したと言われます。

強要とはちょっと言葉が悪いけど、宿場あげての建設事業、費用集めも大変だった

のでしょうね。本庄側との競合気分もあったのかな。

本庄側は豪農の寄進によるもののようですが、新町は町衆あげての事業だったよう

ですからね。

12文、ていまだといくらぐらいになるのかしら?て、かみさん。

落語にある「時そば」では一杯16文だったよね。

いま立ち食いそばのかけそばで平均して、300円前後かな。

そんなんで単純に計算すると1文=19円くらいのようです。

(江戸期も時期によって幅があり、18~25円くらい)

12文×19円=230円くらいかな・・昔の旅人は節約第一だったでしょうね。

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しばらく進むと、右手に皇女和宮が休憩した、久保本陣が有ったと言われますが、

遺構も印もありません。

先左手にポツンと一本の白い木柱。

寂しい風情ですが、建坪135坪あったと言われる、小林本陣跡だそうです。

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手前左に寺院の石柱。参道を行くと、突き当りが宝勝寺。

あの本陣を務めた小林家の墓地があるようでしたが、境内工事中のようで入りません

でした。

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しばらくゆくと先は温井川が流れている弁天橋で、左側に弁財天のある弁天島公園,

があります。

弁天橋付近は川床の改修工事中で、大きな建設機材や車両が工事中でしたね

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弁天橋が掛かる右側に、1976年11月に初の日本スリーデイマーチが

開催された記念碑。

あっ、東松山が発祥の地ではなくって、新町のここなんだ。

第一回第二回はこの地で開催され、昭和55年(1980年)第三回からが

東松山市に移ったんですね。

東松山市での日本スリーデイマーチが古くから知られており、

私達も10kmコースに、2度ほど参加した思い出がありました。

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温井川に架かる橋の手前右に、ここから見える山の案内図もありました。

浅間山、その左は妙義山、正面から右へ榛名山赤城山男体山などの山々が

見えるようでした。

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橋のたもとに丸太標柱が建っていて、ここが新町宿京口でした。

そして木曽街道六十九次の画新町宿はここを描いたと言われます。

(新町宿は栄泉ではなく安藤広重が描いたそうです。絵左の後ろ側の山並みは

富士山ではなく赤城山なんですね)

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江戸から11番目新町宿を後にし、12番目の倉賀野宿を目指します。

橋を渡ると高崎市から藤岡市び入りました。

あれ、順序的には藤岡の次が高崎市では?

そうだったんですね、新町は平成18年(2006年)までは旧多野郡新町。

なぜか藤岡市を飛び越えて、高崎市と合併して飛び地になって居たのでした。

市町村合併で、全国的には飛び地が結構できてしまったんですね。

 

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「飛び地合併」。

行政の効率化やスケールメリットを求めた合併のはずですが、国が強引に進めて

きた合併策は、自治体間でも、昔から「お隣さんとか気が合わない」」という

例はそれほど珍しくなく、どうせ合併するなら気の合うところと・・・。

うん、これは「分断して統治する」という徳川幕府がとった巧妙な政治手法が、

深く根付いてる!

ははは、ありうるわね、てカミさん。

橋を渡ると県道178号と分岐し、旧中山道の標識に従って斜め右の道へ進みます。

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この辺りは立石新田と呼ばれ桑畑が広がっていたと言われてますが、

住宅も立て込み面影はあまり感じません。

屋根の上に小さな屋根、上州特有の上州櫓(やぐら)造りの元は養蚕農家かなと

思われる、農家が所々に見られます。

 

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ほどなく右手に伊勢島神社で、元は稲荷神社だったのか狛犬ではなく、狛狐でした。

鳥居付近にに、天保5年(1834年)建立「常夜燈」、

境内には万延元年(1860年)の「庚申塔」や慶応2年「二十二夜搭」などが

祀られてますが、案内板などが見当たらず由緒不明でした。

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右手にある白壁や土蔵を備えた豪壮なお屋敷が、川端家でした。

江戸時代の豪農で、明治になると生糸の商いで財を成し、敷地内には、

住宅主屋木造2階建・別荘木造2階建・奥蔵・質蔵・大門・薬医門・味噌蔵・

穀蔵等等19棟が建てられ、全てが国登録有形文化財に指定されている。

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少し先に信迎庵。

宝暦13年に立てられた、烏川の洪水の供養塔(写真右)や観音堂、六地蔵やが

祀られてます。

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進んで先に関越高速道が横切り、トンネルでくぐります。

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トンネル手前に中山道道標、通り過ぎて振り返ってパチリの左、棒杭です。

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真っ直ぐに高架下を通って行くと、右手の土手に上がってゆく道があります。

中山道旧道はこの先あたりから消失して部分的にしか分からないという。

持参街道資料では土手に上らずまっすぐ進むとあり、そのまま進みます。

歩いた感想から旧中山道は、洪水で廃村となった伊勢嶋村があったころと

そのあとでは、道筋が変わったようです。

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資料の道案内の通り土手に上がらず、立石旧道との記述通り直進し、突き当りを

左折して立石の集落の中へ進みます。

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(写真右下にブロックの切れたところが見えますが、古い中山道はここを入って、

今の土手を越えた河川敷(旧伊勢嶋村)へ向かったようです)

曲がりくねった狭い道を進むと先が開け右手に土手、左手に県道178号が通る

ところに出てきました。

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県道と合流する手前の電柱のところから、踏み跡を頼りに土手道に上がります。

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烏川の土手に上に上がりました。土手上は高崎市浜尻町から伊勢崎市若葉町までの42.5kmの高崎伊勢崎自転車道となってます。

烏川も結構な川幅です。

土手道から右手後方の河川敷の中に、こんもりとした場所があり、そこが

中山道お伊勢の森と呼ばれるところのようです。

そこには昔し伊勢嶋村があり、伊勢大神宮を勧請して鎮守としてましたが、

烏川の洪水にて廃村となった跡でした。

祠や供養塔などが並んでいるそうです。

(先ほどの関越道をくぐって集落へはいらず、進むと昔はあの森付近の伊勢嶋村を通っていたと思われます)

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しばらく土手道、高崎伊勢崎自転車道を歩みます。

風がほとんどないので、遠くの山並みを眺めながら気持ちのいい街道を歩みます。

白い山は谷川連峰、浅間は頂上を雲に隠してます。

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街道は一旦、土手を左手へ下り旧中島村に入ります。

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旧中島集落を二度右曲がりして、大きな家のT字路を右折。

中山道標識先から土手道に上がる。

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この付近に中島立場があり、江戸日本橋から24番目・中島の一里塚が有ったと

言われますが位置不明となってます。

土手に上がると目の前の河岸には、往時、柳瀬の渡しの川会所があり 舟渡場が

あったと言われます。

(烏川は柳瀬川とも呼ばれていたようです)

今は雑草が生い茂って、歩ける状態じゃないですね。

宝暦9年(1759年)新町宿と倉賀野宿で馬船5艘、平田船2艘を用意し

渡し賃、一人十文、荷駄十四文、武士は無賃だたそうです。

(土手上にでも案内板があったらな~)

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しばらく景色を楽しみながら土手道を行き、突き当りは県道178が合流して

13号となり、右折して柳瀬歩道橋(約400m)を渡ります。

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赤い橋は上流側を渡る国道17号(現中山道)。

しばし足を止めて、シラサギや浅間山妙義山を眺めます。f:id:hansui:20161127181801j:plain

橋を渡ると再び高崎市に入るんです。

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橋を渡り終え右折し土手道を行くと岩鼻水位観測所。

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岩鼻樋管のある場所から草むらに隠れた石段を下りると、旧中山道の標識が立ち

中山道の復活です。

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上り坂を進むと銀杏の落ち葉に包まれて、北向子育観世音堂。

観音さまは半跏思惟像の如意輪観音

境内には文政3年(1820年)に伊香保村と草津村から寄進された常夜灯。

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坂を上りきると県道13号の岩鼻町交差点を横断、交通量の多い道を進みます。

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交差点を渡ると右手に真言宗観音寺。

本堂左手の大木の横を進み墓地中ほどまで行くと、

岩鼻代官所初代代官・吉川栄左衛門貞寛の墓があるそうです。

岩鼻刑場にあった「南無阿弥陀仏」と刻まれた刑場供養塔も建ってます。

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そしてつぎの路地を入ると、寛政5年(1793年)に設置された

上野・下野・武蔵、幕府直轄領50万石支配の岩鼻代官所(陣屋)跡。

そして、明治元年(1868)旧代官所が岩鼻県庁となり、3年後に群馬県

統合され、県庁は高崎城内に移された。(現在の群馬県庁は前橋市

跡地にポツンと天神山。 小高い山の上は天満宮で、眺めがイイ。

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また、代官所の入口付近は岩鼻の立場で、往時は高札場もあったようです。 

周辺の広大な敷地は現在日本化薬の敷地。

素晴らしい保養所風の研修施設や社宅などが並んでました。

街道に戻り旧中山道標識で左手路へ進み再び合流すると、先は国道17号にぶつかり

新柳瀬橋北交差点。

17号を渡るとここから県道121号(和田多中倉賀野線)が旧中山道

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街道は高崎線跨橋を二つ越えて倉賀野宿へ向かいます。

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坂を下ると右手にコンビニがあり、足休めを兼ねていつものサンドとCaféタイム。

朝食が早かったので、お腹ぺこぺこ、コンビニサンドが格別美味い!

 

しばらく行くと街道は少しだけ121号と離れ、三叉路の左の道へはいりすぐに

二股を右へ。

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さらに庚申塔や石塔が立ち並んだ二股を右に入ってゆくと121号に合さります。

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少し行くと右手に道を分ける下町交差点。

右、来た道、左、日光へ向かう道。(振り返り来た方向をパチリ)

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交差点は日光例幣使道との倉賀野追分で、例幣使街道の常夜灯及び道しるべが

建っている。

文化11年(1814年)建立の常夜灯は道標を兼ねていて、正面に「日光道」、

右面に「中山道」と刻まれている。

また、常夜燈は高さ3.37m、例幣使街道五科宿の高橋光賢が私財を投げ出して

建立したもので、不足分は相撲の雷電や歌舞伎の団十郎など312人の寄進によって

建てたと名が刻まれてました。

道しるべは「従是 右江戸道、左日光道」と刻まれている。

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文化3年(1806)完成の『中山道分間延絵図』に道印が描かれているそうです。

また追分には江戸時代は浄土宗阿弥陀堂であったが、明治初年に建て替えられ

阿弥陀の代わりに閻魔像を置いたので、閻魔堂と呼ばれるようになった真新しい

お堂が建ってます。

明治41年、倉賀野九品寺の飛び地境内となり、平成26年記録的大雪に屋根など

が破損、再建が始まり昨年平成27年落成を迎えたそうです。

天井絵が素晴らしいといわれますが、暗くて見えなかった。

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*例幣使とは、徳川家康の命日に、日光東照宮で行われる祭礼に朝廷から派遣される

勅使の事で、幣帛を運ぶことからこの様に呼ばれていました。
中山道を東下、倉賀野からこの道を日光に向かったようです。
例幣使は庶民にとって雲上人と同じで、神様同然に扱われていたことをよいことに、

無理難題をふっかけるものが多く嫌われていた様です*

 

この追分が倉賀野宿の入口で、下(東江戸口)の木戸跡になるようです。

中山道第12宿、本陣:1軒,脇本陣:2軒,旅籠:32軒,家数:297軒,

人口:2032人,

日本橋から25里12町(約103.5km)

日光東照宮に通じる日光例幣使街道の分岐点であり、同時に利根川の支流烏川の

川港としても栄えた。

上州、信州、越後などの名産品だった米、煙草、砥石、麻、大豆などが集まり

江戸に運ばれた。  下町、中町、上町から成り立ち、中心が中町でした。

英泉描く倉賀野宿は烏川を描いています。

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倉賀野宿を歩きます。県121号は東国文化歴史街道と呼ばれています。

左手に旧造り酒屋・屋号叶屋かな、下町町会事務所の家屋。

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先に黒塀・門構えで宿場らしい風情を見せる、たかさき都市景観賞の大山邸。

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卯建が立派な矢島邸。

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右手に2軒目となるたかさき都市景観賞の大山邸。(一族の方かな)

左側の壁がなまこ壁になっている「高崎市倉賀野古商家おもてなし館」として

復元されてます。

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しばらく進むと下町と中町の境に、川跡は小道として残っている太鼓橋跡。

昔は増水の度に板橋が流失し、これを見かねた宿場の「飯盛りたち」が2百両を

寄進して享和3年(1802年)太鼓石橋を架橋したと言います。

旅籠の飯盛りたちとありましたが、何百万円、いや千万単位か、凄い!!

 

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 少し進むと左手に道標と男女双代道祖神、常夜燈がありました。

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その先は現在大きなスーパーになっていて、駐車場に小さく勅使河原本陣跡碑。

倉賀野十六騎の勅使河原備前守の後裔、又は一族と思われる勅使河原八左衛門家が

本陣を勤めたと言われます。

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100mほど先十字路は右手、倉賀野駅

駅に向かって曲がり少し先、右手に浄土宗・九品寺。

山門前の参道両脇には、厳めしく門前を守る仁王像。

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延徳3年(1491年)玄誉上人が開山、倉賀野五郎行信の開基。

本堂には「菩薩寺三尊像、大黒天」、書院には人間国宝、故松久朋琳・宗琳親子作

の観音像が祀られてるそうです。

倉賀野宿脇本陣職や倉賀野河岸の河岸問屋などを営んだ須賀家一族の

墓苑や、倉賀野宿の時代を感じさせる飯盛女の墓石もありるそうです。

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九品寺を後に倉賀野駅への道に出、右に倉賀野駅が見えてます。

新町から約1里半(8km)。

当初の旅予定はここで足止めでしたが・・まだ時間も1時少し前。

「高崎宿まであと5kmくらい、まだ早いから歩いてしまわない、

足の指は?如何」てカミさん。

1か月ほど前に低い段差に足先をぶっつけていらい、10km位歩くと

足薬指に少し痛みが出るようになったんです。

きょうはまだ大丈夫そうで、ほんじゃ行くか!

と、旅は続けます。

後編へ。