歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅 (第11回) 高崎宿~安中宿入口へ  前編

>平成28年6月18日、3年半をかけて東海道五十三次を旅し、
京の三条大橋に立ちました。
そして夫婦は旧中山道69次の旅、再び京を目指して歩いています。

 

11月26日、江戸から13番目、高崎宿入り新田交差点で足止めとしました。

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 『髙崎宿』
 人口3235人(男:1735人 女:1500人) 家数:837軒。本陣:0,脇本陣:0,旅籠:15。
ここは古くは「赤坂」と呼ばれていたが,鎌倉時代になって「和田」,さらに慶長3年井伊直政によって城が築かれると「高碕」に改められ,城下町として栄えた。三国街道との分岐にもあたり交通の要衝でもあった。
城下町であったため,本陣,脇本陣は設置されず旅籠の数も少ないのが特徴。本町(3日・8日),田町(5日・10日),新町(2日・7日)とそれぞれ六斎で18回も市が立ち,絹(髙崎絹)・木綿・煙草・紙など近郷の産物が取引され,日用品,雑貨の店も並んだ。
 江戸と信越を結ぶ問屋,仲買の大商店ができ「江戸見たけりゃ,髙崎田町」と唄われたほどの賑わいを呈したという。

 

12月2日(土)、お天気 晴れ 微風 最高気温13度。

夫婦はまたもや歩き旅へ出かけました。

大まかな家事、朝食を済ませ、マイカーで出発。

関越高速を走り、高崎駅西口より徒歩5分の駐車場へ駐車。

徒歩5分内では調べた中では、1日駐車代金が一番安かったのです。

1分位ごとに駅近くなると100円アップですね。

 

今日の行程は10回目の旅で着いた江戸から13番目高崎宿から、

1里30町(約8km弱)の江戸から14番、板鼻宿へ。

そして少し足を延ばして15番、安中宿手前、JR安中駅(安中宿ではありません)

で、約2里半(約11km)です。

 

AM7:30、前回足止め新田交差点へ向かいますが、途中の道筋にある、

街道案内に記載されてる2寺院に立ち寄りします。

AM8:00

450年の歴史があり、寺領百石を持っていたという門扉に三つ葉葵が描かれた,

浄土宗・大信寺。

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三代将軍徳川家光の実弟(三男)である駿河大納言徳川忠長の墓がある。

駿遠甲の計55万石を知行したが、ご乱行があったとして咎められ髙崎城に幽閉。

寛永10年(1633)弱冠28歳にて自害させられた。

墓石である五輪塔は、家光の死後24年&忠長の43回忌にあたる延宝3年(1675)

に建てられた。

周囲に玉垣と呼ばれる石柵に囲まれていて、鎖でつながれていたので、

「鎖のお霊屋(たまや)」と呼ばれていたそうです。

祟らないように鎖で縛られていたのかな?

(今は鎖は見当たりませんでしたが、施錠はされてるような)

硯箱、自刃に用いた短刀、自筆の手紙などが位牌とともに同寺院に保存されているそうです。

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そして隣には秤座・守隋彦三郎の墓というのがありました。

秤座(はかりざ)は、江戸時代、江戸幕府の特別認可を得て、秤の製造、頒布、検定、修繕などを独占した座であったのですね。

徳川家綱の時代に承応2年令が発せられ、日本を二分し、東33カ国の秤は

江戸の守隨氏が、西33カ国の秤は京都の神氏が支配することになったそうです。

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守隨家は現在も守隨本店として盛業しています。

見つけたHPに記述されてる「守隨本店の歴史」を紹介します。

http://www.shuzui.jp/corporate/history/

 

大信寺を後に南に向かうと、1階が店舗、2,3階がアパート、その脇に寺院名を

彫られた石柱が建ち、アパートの裏に急坂を上って行く参道?

寺院名は浄土宗・安国寺です。

我が家の宗派でもあるので、街道案内には記載がありませんでしたが、

興味を惹かれ寄り道に。

裏の境内はアパートの2階部で、たぶん、アパート住民の駐車場?

その奥に本堂が。

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坂途中の解説石碑は、植木などで読みずらいですが、群馬箕輪村に創建された

寺院で、徳川家康より上野箕輪城十二万石を与えられた、徳川四天王井伊直政が、

正室の両親の供養のために荒廃していた安国寺を復興し、のち高崎に移り

高崎城築城時に、寺領4千予坪をもって当地に安国寺も移転させる。
関ヶ原の戦い後に井伊直政公は、石田三成の近江佐和山城の城主になるとともに、

安国寺も付近にと、彦根城のそばに高崎安国寺を分離させて宗安寺と改名建立した

ようです。)

また石碑には、明治9年群馬県発足時に初代群馬県庁がおかれたとありました。

(石碑には現在の寺院形態になったいきさつも記述されていましたね)

 

 まだ人通りの少ない高崎の街を行き、

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左手に高崎駅、右手奥に高層ビルの高崎市役所を望む広い通りに出ると右手に

豊田屋旅館本館がありました。豊田屋は明治17年(1884)の高崎駅開業の明治の終わり

に現在地よりも駅寄りの場所に創業。

本館は昭和7年(1932)に築かれたもので、国登録有形文化財となっている。

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旅館の右手道奥ににお寺が見えましたが、正面は回り込んだ一本西側の道。

手前の公園のモミジやサザンカが朝の光で綺麗です。

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公園の隣が赤門が建つ名刹、上野国高野山真言宗・延養寺。

延宝9年(1681年)上野国に滞在していた円空作・神像が祀られてる。

形の上では単なる「神像」なのですが、像の底に墨で「梅図」が描かれていることから、「天神像」と呼ばれています。

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延養寺を後に南に進むと第10回の足止め地、新田交差点です。

AM8:30、あらためて、新田交差点より中山道の旅は再開です。

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歩いて来た中山道・県134号(東国文化歴史街道)は、新田交差点で

西からの県25号(西上州やまびこ街道)と合い、旧中山道は県25号となります。

高崎城址へ寄るため、新田交差点で県25号を西に入りすぐ右手に

古刹、曹洞宗・興禅寺の山門がありました。

 

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 山門を入ると小公園で道路の向こうが正門、境内でした。

興禅寺は治承元年(1177年)新田氏の祖である新田義重の開基と伝えられ、

戦国時代の初期に、当時の和田城主・和田信輝が再興し、菩提寺とした高崎の

古刹で市内で一番古い創建と言われてるそうです。

興禅寺に伝わる「和田城並びに興禅寺境内古絵図」によると、鎌倉街道に面した

広大な敷地を持っていたが、井伊直政の高崎城築城時に境内を縮小され、その後

大河内氏が城主時代の天保11年(1840年)に現在地に移っているそうです。

上の写真、山門の天井にいまはシミにしか見えない画が描かれていて、

火災を消火したと言い伝えの龍だそうです。

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西側に曹洞宗・向雲寺。

1600年に井伊直政彦根に移封後、高崎城2代目藩主・酒井家継により開基。
本堂前には見事に手入れされた「サンゴジュ」の大木は高崎市の保存樹木で

知られています。

入口に「大行満願海遺跡」という大きな石製の標識が建っている

「大行満願海上人」(だいぎょうまん・がんかい・しょうにん)とは、

千日回峰その大行満となった高崎出身の僧の名です。

願海上人は文政六年(一八二三)に近くの鍛冶町、本見林兵衛家の生まれ。

父は煙草屋を営んでいた。

21歳で比叡山へ上って千日回峰を発願し、嘉永6年(1853年)、

31歳で千日回峰の大行を満行し、孝明天皇や祐宮(明治天皇)の安穏長久を

祈祷、「勤王僧」と呼ばれた。

*千日回峰*

平安時代に発する天台宗修験道で、1000日にわたり、比叡山の山中を回峰する。

260か所にも及ぶ神仏、社祠や一木一草に至るまで「悉く成仏する」として、

30~40kmを駆けるように一周を繰り返す。

700回を経過した後、九日間、不眠、不臥、断食、断水、断塩し、ひたすら坐した

まま不動明王真言を唱えるという、人間の生理の限界を超えた荒行の「堂入り」、

さらに60kmの「赤山廻り」、最後は比叡山から京都の街中を駆ける84kmに

及ぶ「京都大廻り」を加えて満行となる。

こうして回峰行者となった特権として、御所の紫宸殿に、わらじ履きのまま参内し、

加持祈祷をすることが許される。

 

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向雲寺を後に西に進んですぐに、堀があり一帯は旧高崎城址です。

道の左手が高崎公園、右手が高崎市役所で、一番西側に国道17号が通り、その向こうは烏川が流れています。

左手公園の奥に17号に面して頼政神社がある。

元禄8年(1695年),髙崎城主に封ぜられた松平輝貞(大河内松平)が,平安末期に平氏追討を図ったが敗れ,宇治平等院で自刃したを祖先・源三位源頼政祀るため

建てたもの。

あら、愛嬌のある狛犬ね!てカミさんが喜んでます。

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境内の烏川を望む地に内村鑑三記念碑があります。

内村鑑三札幌農学校(現北海道大学)の二期生で田舎町育ちの私でも

小学生のころから知っていましたね。

城主・大河内松平氏に仕えた家柄であり、江戸・小石川の高崎藩邸で生まれ、

幼児期この高崎の地に過ごした。

その縁でこの神社境内に碑ああるのでしょうね。

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内村鑑三

http://www.takasakiweb.jp/takasakigaku/jinbutsu/article/08.html

余談

高崎市若松町の日宮山光明寺に、大正3年(1914年)に内村鑑三が建立した

内村家5代の墓があるそうです。

 空を突くようにそびえるは地上100mの高崎市役所。

高崎市は裕福な自治体なんですね。

駅周辺のビル群や商店街など、城下町時代から活気があったのがよくわかりますね。

県庁のある前橋との競争心も旺盛なんだね。

*帰宅後チョと調べてみると「群馬県庁推移」 こんな資料がありました。https://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2015072900057/files/shiryou.pdf

 

高崎城。

この地は鎌倉時代の初期に、和田正信が築いた和田城で、1590年(天正18年)に

後北条氏が滅びると共に廃城となり、その跡地に慶長3年(1598)、徳川家康

命を受けた箕輪城址・井伊直政によって高崎城が築城されました

郭内だけでも5万坪を超える広大な城郭でした。

城の跡は、高崎市役所や図書館などが建っています。

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 時間は朝の9時を過ぎたところ、ちょうどいいころだね。

何か所かお寺巡りを先にしたのは、市役所の展望所へ上るためでした。

高速エレベーターで21階、約100mの展望所へ上ると、快晴の空、ぐるり

360度の大展望。

左上・奥に草津白根山、下・谷川岳連峰、右・浅間山と右のほうに榛名山連山

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左上・左、荒船山・中、妙義山・右、浅間山

左下・雪の八ヵ岳と高崎観音、右・真ん中の道が歩いて来た中山道

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夕刻まで眺めていたい大展望でしたが、30分ほどで、旅へ戻ります。

お堀端にかわいらしい像が建ってます。

あの長崎平和記念像の作者が制作されたようです。

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城址を後に中山道へ戻る手前左に、石造りの山車倉と建物に挟まれて窮屈そうに

お社がありました。 あら町の諏訪神社 です。

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社殿は一見二層にみえますが、裳腰(もこし)をつけた平屋で、軒下に直接鳥居を

造りつけています。
外壁は防火のためか、総漆喰の塗籠造りで、本屋根と裳腰の間には、

七賢人(しちけんじん)の手の込んだ漆喰彫刻がほどこされている他、内陣の扉、

欄間、鳥居などに見事な彫刻が見られます。

高崎市内でも数度に及び大火にみまわれていますが、神社も2度にわたって火災にあっています。 内陣をのぞいてみると扉は立派な彫刻がほどこされていますが、火災で焦げた跡が黒ずんで見えました。文化10(1813)年ころの社殿再建の際にそのまま使用されたんですね。

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裳腰の外壁の下半は海鼠壁(なまこかべ)でした。
台座は中世の宝篋印塔(ほうきょういんとう)の屋蓋(おくがい)を裏返しにして、耳を四足とし、。重さ2貫700匁(8.125キロ)の鶏卵型で、台座の重さ30貫400匁とあり、中央のくぼみに信州諏訪ゆかりの御宝石を安置しているそうです。

(見ることはできませんね)

なお、あら町は旧新町で平成18年の多野郡新町(あの新町宿)との合併に伴い、

あら町と表記が変わったそうです。

「新」を「あら」、と呼び変えたんですね。

「あら」のほうが街道街らしいわ・・・てカミさん。

あら町交差点を直進すると突き当りが高崎駅です。

 

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中山道は県25号、東国文化歴史街道として左折して、アーケードの有る商店街を北へ進みます。

1丁進むと連雀交差点。

あら町と連雀町の間が高崎宿の中心。宿場の中心といえば、大抵の宿場には本陣があるものだけど、高崎宿には本陣はない。はじめは連雀町の福田家が務めていたけど、何度か火事に遭って本陣職を辞し、その後本陣は設置されなかった

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連雀交差点の左手に県指定重要文化財、高崎城乾櫓、その隣りに高崎城東門(どちらも再建)がありましたが気付かぬまま交差点を通り過ぎてしまい、寄りませんでした。

(拝借写真)

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さらに1丁進み田町交差点の先を左へ入ってゆくと、南北に通る中央銀座商店街に

飛び出します。ポチポチ開店のお店がみられ賑やかになるのはこれからかな。

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商店街を横切って、細い路地を行くと

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 永正元年(1504年)当時この地を治めた和田信輝が和田城の鬼門除けの寺
として薬師如来を安置し、開山されたと寺伝は伝える玉田寺。

冬桜が綺麗でしたね。

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再び路地を戻り商店街を横切って街道25号へ出、そのまま街道も横切って進み

左に入ると天文9年(1540年)開山の浄土宗善念寺。

木造阿弥陀如来立像は本堂の拝顔窓から見ると、結構大きく見えましたね。

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善念寺のある元紺屋町、隣は創業以来430年と謳う「こうじや」の工場兼店舗の

裏でした。

初代糀屋藤平が永禄6年(1566年)に和田宿(現高崎市)に居を構え、

以来四百数十年にわたって醸造業を営み、現在22代目を数えるそうです。

室町時代末期から安土・桃山時代の頃、箕輪城主の長野氏に、醸造技術を持っていたことから武士にも取り立てられ、この元紺屋町の自宅から何かあれば館に参じていた

と言われます。

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こうじやの先は国道354号が東から西へ通っています。国道を横切って先へ進むと

高崎市を代表する日本画家、武居梅坡の「水墨雲竜の図」がある大雲寺。

絵は拝見できませんが、散歩されていた方に、

「お寺には武田信玄の軍師山本勘助の子孫の墓があるよ」と教えていただきました。

墓地を探すと、確かに墓石には「山本菅助入道道鬼七世孫 山本菅助菅原晴生」と刻まれてます。

帰宅後調べてみると

山本勘助はつい最近まで、架空の人物であるというのが定説となっていたようですが、
平成21年(2009年)、安中市原市で薬屋を営んでいた真下家から、山本勘助実在を証明できる可能性のある書状が見つかり、上毛新聞に記載されたそうです。

勘助の子孫、四代目山本菅助が大河内松平家の家臣となり、

松平家の高崎藩転封に伴い高崎へ移り仕えたと言われてるそうです。

歴史て、面白いですね・・・教えていただきありがとうございました。

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大雲寺を後に南に下ると東からの国道354(中山道)は本町三丁目交差点で南に向かう交差点でした。

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曲がり角手前に、天保7年(1836)創業の寝具店金澤屋。

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左手に蔵造りの店舗など広い道の両側にお店が続き赤坂通りとありました。

(ただ少し櫛抜け状態かな)

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右手奥に成田山高崎分院、真言宗智山派・光徳寺がありました。

本尊は不動明王ですね。

境内の内陣は高崎場内にあった藩主の祈願所だったと言われますが、。

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右手に安政4年(1857年)創業で、街道店舗の常の奥行きのある茶店水村園。

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過ぎると本町1丁目交差点で、三国街道の追分。

三国街道は北陸街道の寺泊へ至る街道で、上杉謙信の関東遠征に重用されたと

言われます。追分はまた高崎宿の京口(西口)であったそうです。

本町1丁目の交差点で345号線は右折するが、旧中山道は信号を渡り直進し

歩道のない細い道をへと西進してゆきます。

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 左手に 「高崎」命名呼称の発祥地で、大きな石柱が建てる恵徳寺。

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寺は井伊直政が城を築いた時、禅師との問答で「高崎」地名の生まれた寺と言われています。

映り込んでるは旅人二人・・

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お寺の隣が高崎神社。

寛元元年(1243年)に和田城主和田正信が、相模国の三浦より勧請した熊野社で、

慶長3年(1598年)井伊直政が高崎城を築城する際に、現在地に遷座し、

高崎の総鎮守とした。

明治40年(1907年)に末社と近隣の神社を合祀して、高崎神社と改称した。

社殿は2階建てで、下は駐車場となって居て、拝殿手前に重そうな大きな瓦葺きの

手水舎がある。

境内の右手に大國神社と美保神社が、一つの建物に祀られた社殿がある。

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街道に戻り赤坂をゆる~く右に左に曲がりながら下ります。

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すぐ右手にブルー瓦を載せた山門の曹洞宗・長松寺(ちょうしょうじ)。

1507年に創建され、本堂が火災にあい、1789年に再建されてます。

江戸時代は加賀藩の茶屋本陣を勤めたと言われます。

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向拝天井絵及び大間天井絵、涅槃画像が市指定重要文化財

本堂の向拝を見上げると向拝天井絵で、寛政元年(1789年)狩野探雲 作。

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書院(庫裡)は徳川忠長が自刃した約140年後、当時の部屋を高崎城から移築し

てるそうですが、残っているのは柱くらいらしい?。
法要で入れませんでしたので大間天井絵、涅槃画像ともに拝観しませんでした。

境内に調べても良く謂れがわからない狸の家が???

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山門近くに木造の校舎風の建物がありました。

参拝に来られた方にお聞きしたら、やっぱり学校があったとのことでした。

帰宅後調べてみると、1897年長松寺の仮校舎に 群馬県尋常中学校群馬分校が創立されたとあり、長松寺が旧制高埼中学校(現高崎高校)発祥の地でもあったのですね。

そして明治36年(1903)長松寺住職山端息耕が長松寺の本堂を仮校舎として、

「高崎私立樹徳子守学校」を創設し、校舎も校名も変わりましたが昭和19年まで

40年6か月も存続し、廃校までに3020人が在籍し、卒業生は933人であった、

との記述もありました。

あの静かな境内に、かっては子供たちの明るい声が飛び交っていたんですね。

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(追記、学校のことは解説板があるそうで、見落としたようです)

長松寺のすぐ前、赤坂町公民館の前に番所跡解説板が建てられていました。

昔は写真右、長松寺側にあったようですが、反対側に移されたとか。

ここの木戸は内木戸と呼ばれていたそうです。

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坂の途中にこんな標語板が・・いいね~・・自動運転頼りは???かな。

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赤坂を下り切ると、裏にはレンガの煙突がある醸造所がある、岡醤油醸造屋。

「日本一の直売所」の看板や、醤油あいす(ひらがな)幟が・・かかっている、

大間々宿で天明7年(1787)に創業した醤油醸造業の河内屋(現岡直三郎商店)の

支店で、明治30年(1897)に開設された。

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坂を下り常盤町交差点を右折する辺りが外木戸だったと言われ、往時は番所もあった。

常盤町交差点直進は、突き当り国道17号が烏川に沿って左右に通ってます。

右折するとたかさき都市景観賞、実業家で学者の夫婦が私邸を開放したの山田文庫。

立派なレンガの塀の奥に日本家屋が建ってます。

(入らなかったので内容はわかりません)

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おや、お米屋さんに時計屋さん!

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あら~・・お城が建ってる!てカミさんビックリ声.

なんと右手の住宅の中に忽然と天守閣!!

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回り込んでみると・・厳めしい門に〇〇会社の名が・・(社長さんはお殿様!)

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足を進めてゆくと右手に並榎町坂上公民館があり、その先で旧街道はいったん国354の合流し、烏川に沿ってきた国道17号と354号線が交差し、国354線は国18号(国道18号豊岡バイパス)となって烏川を君が代橋で渡ってゆきます。

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橋手前草むらの中に、君が代橋の親柱が残越されており、そばに、「明治11年9月、明治天皇が北陸東海御行幸のとき、馬車でわたられたことを記念して命名された」との君が代橋の命名碑がありました。その橋は現在の橋の前のものです。

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橋の手前から左へ少し戻り、横切る国道17号高架下を回り込んで、

君が代橋を渡ります。

高崎城下を後に街道の旅は続きます。

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 ここが広重描く高崎宿。シルエットの山は浅間山でしょうか。

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市役所展望所から見下ろした君が代橋。

左、碓氷川が右、烏川に合流し南下してゆきます。

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後編へ続く・・・