一般公開 皇居乾通り通り抜け、と東御苑散策 (Ⅰ)

*2014年から続いていたJR東京駅(東京都千代田区)丸の内側の改修工事が

 完了し、様変わりした駅前広場が7日、オープンした。

 赤レンガ駅舎や、皇居へ続く「行幸通り」と調和した空間になるようにデザイン

 され、東京の新しい名所になりそうだ*

 新聞報道で知り、たまたま同じ紙面に「皇居乾通り、通り抜け一般公開10日まで」

を見つけ、そうだ、ちょうど所用もあって四谷まで行くから、足を伸ばして

行ってみようか、で9日朝の諸々を済ませて電車で東京駅へ。

地下鉄を利用して東京駅へ行ったため、ひょいと地上へ出たら丸ビル行幸通りで、

新装なった駅前を通り越してしまった。

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いつも工事用塀で囲まれていた正面が、スッキリとしてます。

しばらく写真を撮りあったりして景観を楽しんで、行幸通りを北へ皇居前広場

足を向けます。

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日比谷通を交差点で渡り、左手馬場先濠

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皇居前広場から左へ曲がり、内堀通りを西へ桜田門方向へ歩き、右に折れて

二重橋前から東にUターンして、皇居外苑を一周する感じで誘導されて

坂下門へと進みます。

広場前右手に巽櫓、左手は桔梗門、左端は富士見櫓f:id:hansui:20171211092047j:plain

皇居前広場

左手の人の列は二重橋へ向かう観光客。

通り抜けに向かう順路からは直接二重橋へは行けません。

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二重橋、何年、いや何十年ぶりかな、

右手に見える「伏見櫓」は、三代将軍家光の時、京都の伏見城から移築したと

伝えられている。 

立派な多聞を備えた現在3つ残る江戸城の櫓の中で、一番美しいと言われるが、

今回は坂下門へ向かう誘導路上なので、近寄れません。

手前の明治20年(1887)に、石造りのアーチ橋に架け替えられた、通称「眼鏡橋

とも呼ばれる「皇居正門石橋」を渡り、左手は西の丸大手門(現皇居正門)から

入り、桝形を右へ曲って奥の正面鉄橋を渡り皇居へ入るんですね。

 

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二重橋は、二つの橋のことを言うとばかり思ってましたが、
奥に見える正門鉄橋のことを指すんだそうですね。
「奥の鉄橋は、かつては江戸城の西丸下乗橋のあったところで、青銅製の擬宝珠の
欄干の付いた木造橋で、壕が深かったことから途中に橋桁を渡して、その上に橋を
架けるという、上下二段に架けられた二重構造であったことから、「二重橋」と
呼ばれるようになった」 

へ~、そうだったんだ、初めて知りましたね。
(最近は二つの橋で二重橋が一般的呼称となってるようですが)

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長~い行列が進む先にはセキュリティーチェックのテントが見えてます。

以外に簡単なチェックで通れました。

紅葉もほぼ終わったようなので、人出は少ないのかな。f:id:hansui:20171211083019j:plain手荷物検査、金属探知機でのボディーチェックを受けて、坂下門から

 一般公開された乾通りへと入ります。

坂下門は、西の丸大手門(二重橋の正門)と桔梗門(内桜田門)との間にあり、

宮内庁への出入り口となっています。
ここは西の丸の造営後、新たに造られたと伝えられています。

江戸時代は、高麗門と櫓門からなる枡形形式で、高麗門から入ると左に曲がって

櫓門をくぐる形であった。 

しかし明治21年に高麗門は撤去され、櫓門(西向き)の角度を90度変え、

正面(南)に向きを変えて建てなおされた。

文久2年(1862)1月、老中・安藤信正が登城途中に、この坂下門の前で6名の

水戸浪士に襲撃された「坂下門外の変」が起きてます。

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皇居の乾通りの通り抜け一般公開は、坂下門から乾門まで、蓮池濠と乾濠沿いの

750mを一方通行で歩きます。

乾通りには、イロハモミジ、ウカエデなどが植栽され、ピークであれば素晴らしい

紅葉が見られるそうですが、昨日の情報ではシーズン終了とありました。

 しかし両側には、さまざまな樹木が植えられており、石垣・濠と相まって

美しい景観を楽しめる並木道となってます。

途中の西桔橋から皇居東御苑へ抜けることもできます。

門を入り桝形を右手に曲がると、見事な松の木々、奥に万治2年(1659年)

再建の富士見櫓が優美な姿を見せます。

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左手に曲がるとすぐ左手一帯は江戸城西の丸跡で、現在は皇居新宮殿があり、

「長和殿」の一部が見られます。

「長和殿」は宮殿で一番長い建物で、長さが160m、中の廊下の長さは100m

あるそうです。

この場所で、新年1月2日と天皇誕生日の12月23日の年2回、

天皇皇后両陛下と皇族方が長和殿中央バルコニーにお出ましになり、

国民からのお祝いを直接お受けになるお姿はテレビでおなじみですね。 
「長和殿」の前の広場が「宮殿東庭」で、広さが約4500坪あり、

一般参賀などの多いときには約2万人が一度に参賀できるそうです。

写真右側の大きな塔は、「松の塔」と言われ、葉と葉の間から光が灯すように

作られた照明塔です。

先端にある輪は、ふしろという古代婦人の腕輪を形とってるそうです。

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隣りの石造りの重厚な建物は、昭和10年(1935年)に建築された宮内庁

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乾通り右手のお堀は、長さが約400m、深さが約80cmの蓮池濠。

毎年7月8月の夏の季節は、綺麗な蓮の花の蔽われ素晴らしい景観が見られるとか。

(ただし、残念ながらその時期は未公開ですね)

お堀の石垣は横一直線ではなく、幾重にも折曲がった構造をしています。

「ひずみ」という工法で石垣の直線が長く続くと、強度が落ちることを防ぐための由。

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宮内庁を過ぎて左手は山下通りです。

春の桜、秋のもみじのきれいな通りだそうです。

右側奥が「紅葉山」で江戸時代からほとんど人の手が加わっていない場所と

言われ、江戸城紅葉山東照宮があったそうです。

左手は宮内庁庁舎で、奥に大きな饗宴が催されるときに使われる、豊明殿がある

そうです。

(今日は入れませんが、事前申し込みの一般参観実施日は参観コースになってます)

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冬桜の若木が花を咲かせてます。

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その先には局門とありますが、名の由来はわかりませんね。

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蓮池濠の向かいは東御苑の富士見多門、城内なんだの風情がありますね。

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左手に長屋風入母屋造りで「門長屋」とありますが、先ほどの紅葉山への

通用門でもあった様で紅葉山下門といわれたようです。

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下道潅堀

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右手の橋は東御苑への西桔橋(にしはねばし)が見えてきます。

いったん橋を渡ってしまうと、乾通りへは戻れません。

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橋を渡らずに北の乾門へ足を進めます。

濠は乾濠、右手は西桔橋

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乾濠、濠の最奥は北桔橋の石垣で、右手石垣は本丸の有った東御苑です。

あとであそこを渡って、東御苑へ入ります。

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正面に見えてきた乾門

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坂下門から750m程、春、秋の一般公開時のみ通れる「乾門」を

抜けて「乾通り一般公開」は終わりです。

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門を抜けると首都高のインター入口道路です。

道を挟んで北側に立つ、赤レンガの優美な建物、

おっ、これは!ここに出てくるんだ!!

なんとも懐かしい建物です。

現在は東京国立近代美術館・工芸館で、戦前は近衛師団司令部でした。

懐かしかったのは、昭和30年代はこの建物の中に学徒援護会が有って、

地方からの学生の宿舎があり、また学生へ下宿屋さんの紹介、斡旋もしていたん

です。

上京して2年目に、教えられて来たことがあったんです。

・・もう60年も昔の話なんだな・・・

左手へ行くと桜で有名な千鳥ヶ淵戦没者慰霊苑がありますね。

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左手に続く代官町通り沿い、長く続く築地塀空堀イチョウの落葉、

う~ん、美ですね。

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首都高入口道を北へ横断し、北の丸公園へ少し足を伸ばします。

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ど~んと、日本武道館

前回の東京オリンピックの柔道競技場ですが、なんといっても1966年に

ビートルズのコンサートが行われてからは、アーチストの聖地とも呼ばれるように

なりましたね。

カミさんは子供の発表会などで何度か来たことがあるそうですが、

それも30年以上も前の話。

私は何の時に来たのか記憶があやふやですが、一度だけは来たことがありました。

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武道館そばのCaféでランチにし、一休みして東御苑へと再び南へ向かいます。

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北の丸公園を抜け、歩道橋を渡り、東御苑への北桔橋門へ向かいます。

右手は先ほど出てきた乾門方向。

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左、平川濠、右手乾濠

昔は跳ね橋で、本丸を控え厳重な警備体制が敷かれていた

北桔橋門(きたはねばし)から本丸の有った、東御苑へ入ります。

 

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続く

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第22回)  贄川宿~奈良井宿 後編

*「大雪になる前に、あと一回旅へでたいわね」のカミさんの一言があって、
帰宅後すぐに週間天気予報とにらめっこ。
よし、25日(土)なら歩けそう、と再び旧中山道夫婦歩き旅へ。*
 

の後編です。

奈良井宿へ到着です。

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奈良井駅」。
 明治42年(1909)12月1日中央東線塩尻~奈良井間延伸と同時に開業。
観光地の奈良井宿の玄関口ですが,特急は停車しません。

線路の東側は奈良井川が流れ、川を挟んで水辺公園側と国道19号から

直接入れる駐車場を大きな木製太鼓橋で結ばれた、「道の駅・奈良井大橋」が

あります。

ただし、道の駅は物品販売や食事処などは併設されてい、不思議な道の駅ですね。

f:id:hansui:20171130131242j:plain駅左側に大きな奈良井宿の看板、右手の乗り入れ禁止の立て札後ろに並んだ

樹木は、木曽谷を管轄していた尾張藩によって、伐採や持ち出しを厳しく管理され

ていた、桧・さわら・ねずこ・あすなろ・高野槇の木曽五木が植栽されてます。

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分厚い板柱と宿場案内板

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奈良井駅の少し先の右手に戻るように付いている坂道を山側上って行くと、

奈良井川の左岸を通って橋戸の一里塚から平沢へと通じていた、江戸時代初期の

中山道・杉並木の一部や、奈良井宿の鬼門除け八幡宮、観音像が194体ある

二百地蔵堂などがありますが、雪で足場が悪いと教えていただき、今回は寄らずに

次回の楽しみとして宿場内へ足を進めます。

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駅前を過ぎると、いきなりとゆう感じで、大勢の観光客の姿が見え始めます。

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中山道奈良井宿は、鳥居峠上り口にある鎮神社を京都側の端に、

奈良井川沿いを緩やかに下りつつ約1kmにわたって町並みを形成する、

日本最長の宿場です。

中山道木曽路十一宿のうち、北から2番目の難所:鳥居峠を控えた宿場町。

江戸側の板橋宿から数えても京側の守山宿(大津、草津東海道)から数えても

34番目に位置する中山道の丁度真ん中の宿場町です。

 昭和53年に国から重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

 

国土交通省重要伝統的建造物群保存地区規範事例集より抜粋)

*記録上では20回に及ぶ火災にあい、特に弘化4年(1847年)の大火により

 全焼し現在の街並みはそれ以降に形成されてます。

 一般的に伝統的街並みが失われる原因として、

 1)、火災、

 2)鉄道整備(街の空洞化により消失) 

 3)道路の整備(拡張により   消失) 

 4)建物の老巧化(建て替えにより消失) 

 5)人口r流失による過疎化

   などがあげられる。

 奈良井の場合は

1)定住率が高い(人口の7割以上が、明治前より定住し、地域への愛着が強い)

2)鉄道、国道が旧街道を迂回、

3)町を愛する住民の存在

4)外部の人たちや組織にプロデュースを任せず、日常生活をしながら身の丈に

  合った街づくりをしてきた。

というような幸運な条件が重なって保存されてきた。

昭和53年度から平成9年度に渡り、国庫、県、補助事業により210軒の

修理(建物全体)、138軒の修景(表層のみ)を行っている。

電柱は昭和63年に建物の裏側に移設させ、あたかも無電柱化を図ったような

景観を実現している。

自動販売機のクロス貼り、郵便ポスト自作など、手作りの街造りも行われている。

 と、記述されてます。

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江戸へ64里22町14間。宿場町並8町5間(885m)。
木曽路で最も標高の高い位置(940m)にある。
鎌倉時代から宿駅の体裁が整い,慶長7年(1602)徳川家康により
中山道の宿駅と定められ,街道にそって南側から上町・中町・下町に分かれ,
中町に本陣・脇本陣・問屋などが置かれていた。

近世,奈良井は檜物細工,塗り物,塗櫛などの木工業などが盛んとなり
「奈良井千軒」と云われたほど賑わった宿場である。 

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連子格子や二階正面に「袖うだつ」をもつものも多く、特徴のある町並みを作って
いる。
 

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天保14年(1843年)中山道宿村大概帳によれば、
 家数:409軒,本陣:1,脇本陣:1,旅籠:5軒、人口:2155人,
であった。

奈良井宿は他の宿場とは大きく異なり旅館業よりも曲げ物、櫛、漆の器など

木工細工を主な産業とした職人の町でした。
 (旅籠の数は天保14年の記録でも5軒と少ないが、商人の家が旅籠の役割を

 果していたといわれる)

 電柱や電線が無く、街並みをかくもすっきりさせ、軒の低い格子戸がはめ込まれた

町家がどこまでも続いてます。

f:id:hansui:20171130170256j:plain街道書では、右手山側、専念寺への参道分岐付近に、桝型という桝のように

四方形に石垣や土塁を築いた場所が設けられている、とあります。 f:id:hansui:20171130172907j:plain

桝形のすぐ先右手、奈良井宿にも水場があります。

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1条の水が枡に流れ込みそ、こからは2条で流れ出る奈良井宿の標準的タイプの

水場。柄杓もあり水を飲むことが出来ます。

奈良井宿には6か所の水場が設けられ、それぞれの水場に水場組合が作られ、

維持・管理を行っているそうです。 f:id:hansui:20171130173352j:plain

街道時代は油屋を営んでいて、昭和40年代から旅館「あぶらや」として営業。

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この奈良井宿には、十数年前に初めてマイカーで長距離ドライブをし、

上高地や、当時マイカー乗り入れが出来た標高2700mの乗鞍岳畳平などへ

行き、林道走りなどで遠回りしての帰り道で、道の駅利用の際に立ち寄った

ことがありました。

一部だけ歩いたような気がしますが、まだ街道や宿場などに感心もなく、

古色蒼然とした街並み、とだけの印象が残ってました。

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ゆっくりとした坂道の奈良井宿

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 個々の家でも独自のディスプレーを施して見る目を楽しませてくれます。

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 漆店の看板ですが・・山型積みは薬草?

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水場

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典型的な町屋造りは、創業寛政5年(1793年)銘酒「杉の森」蔵元

「杉の森酒造」です。

切妻、平入り、外壁は正面が真壁造り白漆喰仕上げ、腰壁と両面は

下見板張縦押縁押え、2階外壁は1階外壁より前に張り出し、伸びた椀木に桁を

流し、そこで外壁を支える出桁造。

中2階の建物で通常の2階建てよりは軒が低くいのが特徴です。

この宿場は雪国の為か軒の出は非常に深く、窓には千本格子を設え、隣家との

間には延焼対策と思われる袖壁があります。

袖壁は他の地域で見られるような土蔵で屋根上部まで伸びている形式と異なり、

簡易的なものですが、火事の延焼やプライバシーの確保などに一定な効果はあった

と言われます。

今は仕込みの時期かな、軒の下酒林(杉玉)はまだ提げられていませんね。

(残念ながら2012年頃から、酒造りはしていない(廃業?)、

  とのお話を頂きまし)

 

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杉の森酒造の向かい、右手に大きな 「楢川村奈良伝統的建造物群保存地区」の

標柱が建ち、樹齢400年と言われる松の根元に、津嶋神社庚申塔が立ってます。

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右手木枠門から細い参道を入ると、天正10年(1582)、当時の領主奈良井義高が自らの菩提寺として創建した「臨済宗妙心寺派 広伝山・大宝寺」があります。

裏山には開基となった奈良井義高の墓があります。

このお寺には十数年前に、寄った記憶がありました。

七福神めぐりの寿老人、隠れキリシタン信仰にまつわる、子供を抱き膝も頭部も

破壊され、わずかに胸の十字架だけが残っている、マリア地蔵尊や、

享保年間(1716~35)に作庭されたと言われる庭園、などを拝観した記憶がありました。

(カミさんも記憶を辿った様で、マリヤ地蔵尊を見たわね、て)

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大宝寺は覗いただけで後にし、宿内へ戻ります。

延宝3年(1675年)創業と言われる、脇本陣も勤めた旧旅籠「徳利屋」

島崎藤村正岡子規など文人・文豪が泊まったこともあるそうです。

現在は郷土館を開いてます。

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山駕籠かな?

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街道書によれば、この付近から右手に入ると、本陣跡とあります。

 

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奥が本陣跡で標柱と嘉永2年(1849年)建立の常夜燈がありますが、

現在は公民館、郵便局、駐車場などで、本陣としての遺構は何もありません。

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ある説では、規模も小さな本陣だったようで、行列は街道へ出て整えたそうで、

道が広くなってるそうです。確かに付近の道は広がってますね。

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 文政元年(1818年)創業、脇本陣を勤め下問屋も兼ねた「伊勢屋」

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寛政年間(1789~1801年)創業と言われる旅籠・越後屋(今も旅館盛業)

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手塚家が勤め庄屋を兼ねた「上問屋」、現在は資料館となってます。

建物は切妻平入りの中2階の建物で、典型的な町屋形式となっており、
平成19年(2007)に国指定重要文化財に指定されています。

奈良井宿の案内板によると、

「この家は慶長7年(1602年)から明治維新に宿場制度が廃止されるまで、

270年間、奈良井宿の問屋(伝馬と人足を管理運営)をつとめ、天保年間からは

庄屋も兼務して明治維新に至りました。

現在の建物は天保11年の建築で、その当時の記録が残されています。

明治13年6月26日明治天皇が御巡幸の際御在所となった、・・・(後略)」

とあります。

(手塚名は平沢でもありましたよね)

 

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上問屋のすぐ先右に入ると、創建は南北朝時代の貞治5年(1366年)との言い伝えがある、曹洞宗・長泉寺があります。
徳川家光の時代、茶壺道中の本陣で、拝領の茶壺の一つが残されているようです。
本堂入口の天井に描かれた「龍の大天井絵」は一見の価値があります。

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外国の男女三人が盛んにカメラを向けてましたね。

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街道へ戻ると先は桝形です。

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中町から上町への桝形は「鍵の手」と呼ばれ、碑が立ってます。

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そして、桝形に水場が設けられ旅人の喉を潤すとともに、防火にも活用され、f:id:hansui:20171201141303j:plain

荒沢不動尊は水、火とのかかわりから水場の守りと、火防の守護神として、

また男女双体道祖神が道の守りとして旅の安全を長い安置されているそうです。

f:id:hansui:20171201144730j:plain三つ目の上町へ入りました。

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古い様式の猿頭(屋根板を押さえたもの)をつけた家が3軒並んでます。

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上町の真ん中付近、街並みに溶け込んで、唯一の洋館が立ってます。

(カミさん曰く、きっと医院だったのよ)

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*帰りの道すがら地元の方に聞くと、つい最近まで奈良井診療所だったそうです*

上町外れ近く、中村利兵衛家。

木櫛の上に上質の漆を塗った漆櫛の創始者・中村恵吉家の分家で、

代々奈良井宿で塗櫛の製造販売を手掛けた櫛問屋を生業としてきました。

現在の中村家住宅は、天保8年(1837)の奈良井宿大火で類焼後の

天保10年(1839)頃に再建されたもので、現在は資料館として公開されます。 

奈良井の町並みを残そうと、住民が考えるきっかけになった家ですね。

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奈良井宿瓦版の記事を紹介。

奈良井宿の木櫛の歴史は大変古く、江戸時代初期に始まり、木曽の「お六 櫛 」

は全国的に有名です。

寛政年間、中村屋恵吉 けいき ちがこの木櫛に漆を塗り、中山道を通る旅人 に

大変もてはやされ、その後、吉野屋治兵衛  が苦心して蒔絵 ま き え を付け

奈良井宿の産業 として成立させました。

塗櫛は、江戸や京の都へ出荷され今も「江戸ぬり櫛問屋○ ○○」という立派な

金看板が残っています。 大正時代にはいると、奈良井で木地、塗りを 施し、

東京でつまみ細工をして仕上げました。 これが、島崎藤村の「初恋」で知られる

「花 はな 櫛 ぐ し 」 ですが、大正末期にはすっかり姿を消してしまい ました。

その後、昭和42年ころから塗櫛を復活させ、 現在でもつくり続けられています。

江戸時代初期から今まで350年余りも続いた、 木曽のお六櫛は、その永きに渡る

歴史において 数々の工夫技法が凝らされ、今日の美しい姿へ 変化してきました。* 
(お六櫛は<ミネバリ> というとても硬い木が素材だそうです)
(栄泉画 奈良井)
峠へと坂道を上ってきてます。栄泉の画はこの中村屋を描いたものでしょうか。

看板に「お六櫛」の文字があり、商い中の人々が描かれています。
旧東海道を旅していた時に、鈴鹿峠を越えた土山宿で「お六櫛」の商い看板を掛け

た店がありました。遠く木曽方面から仕入れしていた、と解説されてましたね。

はるか近江の国へ中山道を運ばれてきてたんですね。

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少し上り坂の傾斜がきつくなり、集落の西端が近いようです。

昭和48年(1973年)に復元された、奈良井宿高札場があり、

側に木曾谷の伝統的な板葺石置屋根の、宮の沢水場があります。

 

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高札場の先に、

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 PM3:00

奈良井宿の鎮守、12世紀後期創建と言われる「鎮神社」前に着きました。

町並みの西端の鳥居峠の上り口にあります。
今日の歩き旅は、いや、今年の旧中山道夫婦歩き旅はここで足止めし、

来春の雪解けまで休眠します。

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再び訪れ歩き旅を再開することが出来たときに、新ためて神前に参拝することとし、

鳥居前で黙礼して、すぐ先の鳥居峠口を確認し旅を締めくくりました。

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 木曽路は山に日が遮られ、夕暮れは足早に訪れます。

再び1kmほどの戻り道を歩き、駐車場へ、

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9月17日に,、再び歩き始めることができた旧中山道69次夫婦歩き旅も、

来春の雪解けまでの足止めです。

PM4:00、帰路へ。

途中で寄った諏訪PAから、夕暮れの八ヶ岳が綺麗に見ることが出来ました。

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中央高速は相変わらずの渋滞時間帯、PM8:00帰宅。

第22回旅、終わりです。

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第22回)  贄川宿~奈良井宿 中編

*「大雪になる前に、あと一回旅へでたいわね」のカミさんの一言があって、
帰宅後すぐに週間天気予報とにらめっこ。
よし、25日(土)なら歩けそう、と再び旧中山道夫婦歩き旅へ。*

 

の後編です。

ゆっくりと道の駅・木曽ならかわで足休めして、街道へ戻ります。

道の駅の手前で地区名は贄川(旧木曽楢川村贄川)から

木曽平沢(旧木曽楢川村奈良井木曽平川)と変わってます。

国道と奈良井川の間に、中山道は続いてます。

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魚は岩魚?鮎?

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ゆるい登り坂道が続きます。

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右手に馬頭観音の立つところで、今日初めて街道旅の御夫婦とすれ違いました。
 

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下りとなり、物見坂。

前方の建物は塩尻市「楢川支所」、元楢川村役場でした。

 平成の大合併塩尻市に編入されるまで、
贄川から奈良井に至る地域は、楢川村と呼ばれていた。

1889年(明治22年) 町村制の施行で、西筑摩郡奈良井村と贄川村の区域は、

改称して木曽郡となり、楢川村が発足。

贄川と奈良井が合併する際に、奈良井のナラと贄川のカワを合わせて
楢川(ならかわ)になりった。
そして楢川村役場は、贄川、奈良井の両宿の間にあり、
旧村内のもう一つの大字名である木曽平沢に置かれた。

さらに、2005年(平成17年)塩尻市に編入し楢川村は廃止に。

現在の地番、地域名や地図上では楢川は有りませんが、旧楢川村役場名が支所名で

残ってるんですね。 

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支所前に「お塗處・吉久屋」、う~ん、良いですね。

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左手は塩尻市楢川支所の敷地内に、木曽平沢の解説板と芭蕉の句碑があります。

貞享五年(1688)に芭蕉が木曽を訪れたときに詠んだと言われる。
   「送られつ送りつ果ては木曽の秋」

宝暦十一年(1761)木曽代官山村甚兵衛良啓が建立したものです。

「国選定重要伝統的建造物群保存地区」の解説板は、日本語、中国語、ハングル字、

英文で書かれてます。

今は冬、あたたかなシーズンになれば、外国の観光客も多いのでしょうね。

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そして旧中山道は、句碑の後ろで右手の草道坂に入ってゆきます。

これが旧中山道・諏訪坂です。

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短い坂を上りと左手に鳥居が立ち、大宝2年(702年)創建と言われる

平沢諏訪神社があります。

鳥居を入ると、正面は舞屋、その奥に覆屋を兼ねている拝殿は、柱や壁が赤と黒

塗られています。

本殿は後部が透かし塀の覆屋内に鎮座しています。

 (左、舞屋 右、拝殿を兼ねた覆屋)

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街道書によると、

天正10年(1582年)鳥居峠木曽義昌に敗れた武田勝頼は、敗走の途次

社殿に火を掛け全焼した。

現在の本殿は朱塗(総漆塗りだそうです)で、享保17年(1732年)の再建。

(覆屋の板塀隙間から覗くと赤い建物が見えました)

境内の左右には2本ずつの御柱が建てられていて、『楢川村文化財散歩』には、

木曽郡下では平沢諏訪神社贄川麻衣廼神社でのみ、御柱祭がおこなわれている。

この平沢諏訪神社御柱祭が木曽谷における南限地となる」とあります。

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境内右手から石段を下ると中北道標と二十三夜塔が立ってます。

傍らの説明板の二十三夜の伝承は、

 「神に願かけ叶わぬならば、二十三夜さまお立ち待ち」  月が出るまで飲酒談合して待つのだが「お立ち待ち」といって月が上がるまで腰を下ろさず立ち続ける」

とありました。

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坂を下ると、県道257号に合流する左側に中北道標が建ち、中山道と彫られた小さな石碑が立ってます。

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先に集落の街並みが見えてきました。

旅館、ここが??

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 向かい土手上は墓地です。土手に,石仏石塔群がありました

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道両側に漆器を扱うお店がずらりと軒を連ねている、400有余年の歴史を誇る

  「漆器の里 木曽平沢」へ入ります。

木曽平沢は海抜およそ900メートルの高地にあり夏は涼しく、冬は寒いという独特な
気候で自然豊かな大森林は良材を育み、漆を塗る作業に良く、漆器の里として

栄えてきた。 

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すぐの左手に、先ほど「木曽暮らしの工芸館」で見ることができた、

あの「長野オリンピック漆蒔絵入賞メダル」企画作成した「まる又漆器店」が

ありました。

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 町並み保存の家・まるやま

敷地前面の三角形の空地アガモチと呼ばれ、街道と斜交いに建物が立ってます。

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 創業300年の看板を掲げた店

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切妻出梁造りの旅籠風家屋

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「ちきりや手塚万右衛門商店」は寛政年間(1789~1800)創業で、

 向かいに古い漆器や作業道具を展示した「漆資料館」を併設しています。

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職人同士が軒を並べている町、木曽平沢
中山道奈良井川が南北に縦断する市域南部の中央に位置し、
谷あいを北流する奈良井川が大きく湾曲した河川敷に発達した集落です。

 

f:id:hansui:20171129120905j:plain慶長7年(1602年)に、奈良井川対岸にあった中山道を現在地付近に

付け替えた際、周辺の民家を集められて成立した。 

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宿場ではなかったが、檜物細工や漆器地場産業として発展し、
江戸時代中期以降になると、中山道沿いの集落の中では最大の漆器生産地として
発展し、何時しか「平沢塗物」として全国的にも知名度が広がりました。

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現在の木曽平沢の町並みは寛永2年(1749)の大火後に計画されたもので、
火災の経験を生かし、短冊状の敷地割にはアガモチと称する前面道路と主屋の間に

空地を設け、主屋、中庭、塗蔵(漆塗をする作業場、土蔵造りで、2階が乾燥場)、

離れ又は物置の順に配され、隣家の建物同士を離す為、敷地奥に設けられた塗蔵

へは外部の通路を通すなどの工夫が見られます。

木曽平沢は全国的にも少ない、漆工という伝統的工芸の職人町、漆器店が軒を

連ねる町として、平成18年(2006年)に、
重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。

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本通りと称される、中山道に面して、1軒だけ見かけた前庭を持つ和洋の建物。

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通りには漆店以外の飲食、土産物店など商店街風は全くなく、看板などもありません。

調和のとれた美しい家並みが、緩い曲がりを描き続いています。

漆以外の看板を掲げていた、唯一のようなお店・・

(店先には何故か果物が・・)

 

 

f:id:hansui:20171129121655j:plain明治時代に大火があり,江戸時代のものはあまり残ってはいないが,
縦格子をはめ込み,垂木構造の小庇を持つ出梁造り、切妻の出梁造りの旅籠風の
建築、大谷石の蔵などなど、ゆっくりと眺めて、漆製品を見せていただき、

お話をお聞ききしたりと、保存され残された町並みではなく、現在も生活の場、

活動する漆塗りの産業地、なんとも楽しい散策に名残を惜しみ、町を後にします。

(街外れの、国登録有形文化財の漆工房巣山、昭和初期の状態が保持されている)

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近世前期に「木曽物」で知られた木曽の漆器は、ほとんどが奈良井宿で生産されていましたが、
近世後期になると「平沢塗物」の名で流通するほどに発展します。
明治以降も技術革新によって成長し続けました。
木曽平沢は現在でも日本有数の漆器生産地として、

その地位を維持し続けているそうです。

町並みの南の外れ,右手からの道を併せたところに津嶋神社があり、

道祖神御嶽山三社大神が祀られ、奈良井まで1.7kmの標識と

「国選定重要伝統的建造物群保存地区」の看板も立ってます。

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その先で道は二股になり左側の細い道をゆき、すぐに元の奈良井川道に戻ります。

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奈良井川の対岸には「雀おどり」の屋根飾りを乗せた、木曽漆器館がありました。

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「笹良漆器会館」の先で道は二股に分かれ、中山道(県道258号)は左手踏切を

渡って国道19号に合流し、奈良井駅付近で奈良井川を渡り、奈良井宿

通じてるようですが、街道書は県道とは離れ右手の坂を下り、JR線のガードを

くぐり奈良井川の左岸沿いの道(信濃路自然歩道)へと記されてます。

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ガードを過ぎ堤防上の遊歩道に上がると,街道書に奈良井川の歩道橋を渡った対岸に

一里塚跡があると、記されています。

奈良井川の一本鋼桁の歩道橋を渡った対岸に案内板がが見えてます。

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橋は渡らず川沿いを行くと、対岸に「橋戸一里塚跡」と白い説明板が見えてます。

橋戸一里塚は,中山道の付け替えで残された江戸から64番目の一里塚です。

地区住民により中山道の歴史をしのぶ公園(橋戸一里塚パーク)として親しまれ、

周辺整備が行われているそうです。

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 奈良井川左岸の道を行き少し先の左手に,木曽の木材を多く使用して造った

「木曽楢川小学校」があります。学校名はそのままなんですね。

街道書では、「給食の食器は漆器が使われている」とありますが、今でもかな?

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小学校からしばらく進むと、右折して奈良井川を渡る道、左手に国道19号に

合流する道、直進した先でて国道に合流する分岐の三叉路となり、

街道書の通り、真っ直ぐ進み奈良井大橋へ出ると、

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国道から右手に分かれてきた県道258(中山道)と合し、奈良井橋を渡ります。

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渡った正面に馬頭観音、左手に中山道の石柱。

左手にとって川沿いを奈良井宿へと向かいます。

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 橋のたもとで、奈良井駅から来た、地域振興バスに出会いました。

「あら、朝のバスと同じ運転手さんよ!」の声で見ると、バスの運転手さんも

気づいたようで、手を挙げ笑顔で返してくれましたね。

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道の道路標識には「楢川村奈良井」のままですね・・

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左手は奈良井川、右手山側は鉄道路線に挟まれて、街道は緩く下って行き、

踏切を渡ると奈良井の集落へと入ってゆき、

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左先に奈良井の駅が見えてきました。

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 途中に石造りの3階建て蔵を持つ「丸山漆器店」という店がある。

街道書によると、

「栃木県宇都宮大谷に産し、土台石や塀などによく使われてる大谷造りで、

 木曽地方で大谷石とは珍しい」と記されてます。

遥か栃木県宇都宮大谷から運んだのでしょうか。

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 奈良井宿へたどり着きました。

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f:id:hansui:20171129205745j:plain続きます。

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第22回)  贄川宿~奈良井宿 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 11月3日に歩き残してた「碓氷峠越え」を果たし、街道は江戸から
28番目・和田宿へ一本線に継ながりました。

先にはこれまた難所の和田峠越えがあり、雪の季節となり

峠越しは雪融けを待ってとし、元気なうち歩ける内にと峠を飛ばして

足を前へと進めています。

 

先日の21回目、後半はとうとう雪降り街道旅(おおげかな?)となり、

江戸から33番目、贄川宿(にえかわ)手前の贄川駅で足を止めてます。

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帰りの車の中で、

「大雪になる前に、あと一回旅へでたいわね」のカミさんの一言があって、

帰宅後すぐに週間天気予報とにらめっこ。

よし、25日(土)なら歩けそう、と再び旧中山道夫婦歩き旅へ。

中央高速を走り、前回と同じくみどり湖PAで朝ラーメンで朝食。

塩尻ICから国道20、19と走りAM8:30、前夜降ったらしい新雪積もった

道の駅・奈良井木曽の大橋の水辺公園・駅東駐車場へ車を停め、地域振興バスで

前回足止めの贄川駅へ向かいます。

野山は雪景色、北国で過ごした子供のころを思い出し、なにかワクワクする

気分になるのが不思議ですね。

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AM9:30 贄川駅前から第22回目の旧中山道夫婦歩き旅の旅立ち。

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今日の歩き旅は、江戸から33番目「贄川宿」から約2里(8km)の

34番目「奈良井宿」までの短い距離です。

すこし雪道を歩くことになりそうですが、風もなく国道気温標識は4℃、

歩きやすい一日になりそうです。

国道19号、駅のすぐ先に「贄川宿」の大きな看板が立ってます。

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さらに駅から300mほど行くと、左手JR中央線の向こう側に、復元された

贄川関所跡」が見えてきます。(左端)

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国道から左折すると、関所橋でJR中央本線を渡ります。

関所橋は、大名行列の欄干飾りや、欄干に吊るされた金属パイプを連続して叩くと

「木曽節」の一節を奏でるところから、別名「メロディー橋」と呼ばれています。

(カミさんが演奏?したら、なんとも間延びした「木曽節」で大笑い)

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これはプリズム塔だね、

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当時の関所はいまの位置より西側にあり、旧中山道贄川駅の北方向から線路を渡り、駅舎の東側を通ってこの関所前へ続いていたそうです。
現在は鉄路敷設に伴い、失われた街道となってます。

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 左手に坂を下ると
明治初年に取り壊されましたが、昭和51年に古図をもとに”板葺き石置屋根”の
贄川関所(木曽考古館)として復復元され、一般公開されています。

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解説板によれば、

建武2年(1334)頃,源義仲7代の孫讃岐守家村が贄川に関所を設けたのが最初で,天正18年に豊臣秀吉が番所を置き、木曽材木の監視のため南の妻籠番所とともに取締りに当たり,関ヶ原の戦いの後、徳川幕府もこれを継承して、福島関所の副関所として木曽代官山村氏の配下が守り,鉄砲と女改めに加え木曽檜の加工品や木材などの搬出を厳重に監視し尾張藩の”北番所”とも呼ばれた。」

木曽路尾張藩領で本山宿の松本藩との領界。

(マンホール蓋も関所です、カラーでないのが、またいいですね)

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関所前が江戸方(東方)、関所から戻り贄川宿内へと足を進めます。 

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江戸から数えて三十三番目、62里27町14間(246.5km)

木曽11宿の最北端の宿場で、江戸からの木曽路の入口宿場です。

 

街道書に書かれている、

木曽路はすべて山の中である。

あるところは岨(そば)づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに

臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。

一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」
『夜明け前』島崎藤村、の有名な始まりです。

(高校生のころ一度だけ読んだかな?記憶があいまい)

 

贄川」の名は,古くは温泉が出たことから「熱川(にえかわ)」が,温泉が

枯れて現在の字が充てられるようになったとの説や,奈良井川で獲れた川魚を

諏訪大社の神事の御贄として奉納していたことから、神に供えるいけにえ(生贄)

の魚を捕る川という説の二説があるそうです。

宿は天文年間(1532~54)に開設され,桜沢から小野を経て下諏訪に到る

中山道の宿として,さらに塩尻峠の開通により,贄川から本山,塩尻を経て

諏訪に到る中山道の宿駅として整備された。 

昭和5年(1930)の大火で町の大半が焼失し往時の面影はほとんど残って

いない。

天保14年(1843年)、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒、人口:545人

(広重画、贄川

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ここにも  水場がありました。

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郵便局の向かいあたりが本陣跡、木曽家の子孫千村家が勤め,問屋,庄屋を兼ねて

いた、と街道書にはあるが印すものは何もありません。

立派な門を構えた家がありましたので、パチリ。

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郵便局の向こう隣りの民家。

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津島、秋葉神社

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神社の左隣り「麻衣廼(あさぎぬ)神社」の石柱と「観音寺」との案内板があり、

右手の細い道を入りJR中央線を橋で渡り、信号で国道19号を越えると、

大きな観音像の建つお寺がありました。

山門の前に大きな観音様、寛政4年(1792年)に再建されたと云う立派な

山門を持った、大同元年(806年)創建されたと言われる古刹、観音寺です。

高野山金剛峯寺を本山とする真言宗智山派寺院。

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f:id:hansui:20171127143422j:plain観音寺の左手奥に延びる参道に登ると、麻衣廼(あさぎぬ)神社の鳥居の前に

出るのですが、少し深そうな雪道となって足元が悪そうなので拝観は取りやめ。

このあとの街道旅の行き来で、近くを通る機会がありそうなので再訪したいですね。
街道書によれば 

「麻衣廼(あさぎぬ)神社は天慶年間(938~47)の創立,

諏訪大社の系列の長い歴史をもつ神社である。
天正10年の戦火により焼失,文禄年間(1592~96)現在地に再建された。
現在の社殿は延享4年(1747)建立,拝殿は慶応元年(1865)再建。

毎年春の祭りに加え6年目ごとの寅年と申年に御柱祭を行う。

この神社の御柱は4本並列配置である」とありました。

 来た道を戻り、宿場の街並みへ。

右手に贄川家が勤めた脇本陣あと。

街道書では今は酒店とありましたが、閉店したようです。

   (「たばこ販売店」と書かれた赤いプレートに、贄川の文字が見えました) f:id:hansui:20171127145017j:plain

街並みの中に漆塗店の暖簾をかけたり、屋号をつけた民家が何軒かありました。

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少し先右手に秋葉、津嶋神社

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隣りに水場があって、野沢菜を洗ってました。

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向かいの建物が、贄川宿に唯一残る江戸時代の建物、深澤家です。
 深澤家は屋号を加納屋と称し,行商を中心とする商家を営み

文化年間(1804~17年)には,京,大阪などから北陸・東北地方への

遠隔地商売を展開し贄川屈指の商人となった。
街道に西面した短冊型の敷地(564.47㎡)に主屋(2階建切妻造)が建ち,

その背後に中庭を挟んで北蔵と南蔵が並ぶ。

主屋は嘉永4年(1851年)の大火後の再建で同7年に竣工。

北蔵は文政4年(1821年),南蔵は文久2年(1862年)の建築。
 各建物の建築年代がほぼ明らかで,保存状態も良く江戸末期の木曽地方宿駅の

町家の姿を忠実に留め,主屋の規模・大きさ,独特な正面外観,整然とした架構,

洗練された重厚で落ち着いた室内が構成され,木曽地方の町家建築の到達点を

示す建物として価値が高く,国重要文化財に指定されている。

 

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 幕末に建てられた深沢家住宅三棟(国重要文化財)は実にどっしりしています。

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深澤家住宅から約60m歩くと、右側にひのきや漆器店があり、店の先を

右折し桝形状に進み跨架橋で鉄道を越し国道へ合流します。

街道書にも記載がありませんが、京方(西方)になるのでしょうか。

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国道を進むと右手に、推定樹齢千年というトチの木(長野県天然記念物)の

案内板があります。

贄川のトチ」

 推定樹齢千年,樹高33m,根元周囲17.6m。
1mの高さに瘤があり,その上3mから大枝が分かれさらに5本に分岐している。

元文四年(1740)の書物に、「栃の大木一本有り」との記述があり、280年前に

はすでに大樹であった。

枝張り,樹姿,樹幹の美しさは県下一のものとされ,地元の人たちから樹下に

祀られている小祠にちなんで「ウエンジンサマのトチの木」と呼ばれ大切に

されていると云う。

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樹高33m,一切の支え無しで堂々としてますね。

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根元周囲17.6m。

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後ろへも回ってみたかったが、結構な傾斜で雪もあるため

諦めて、右から左から飽きずに眺めましたね。

花の咲時期にもう一度訪れてみたいもんです。

国道(中山道)へ戻り先へ進みます。

中山道はこの辺は国道左下の鉄道敷地内を通っていたそうですが、今は消滅です。

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トチノ木入口より約200m弱歩くと右手に、地蔵尊観音菩薩馬頭観音などの

石仏石塔群が並びぶ傾斜地があり、奥には枝垂れ桜の古木や桜木が立ってます。

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街道書には、「桜の宮跡」とありました。

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200m程先で、国道両側には歩道帯がなくなり、土曜日ですが大型車両がびゅうんびゅん行き交います。

街道書では国道左手に木曽路民芸館があり、その先国道の擁壁上に設けられた

グレーチング(金網)を敷いた側道「旧中山道用の歩道」を行くとあり、

それ!と横断して国道の左側へ渡りました。

(TV的に言えば、よいこのみなさん、マネしないでね・・でした)

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擁壁上にグレーチングを敷いた雪道を進み、突き当りの仮設階段を上ります。

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階段を上ると落ち葉の積もった草道となり、お地蔵さんや馬頭観音を見ながら

しばらく行くと、

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 中山道碑や津島神社などが祀られる桃岡集落へ入ります。

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街道時代からの道幅と思われる桃岡集落を抜けると、ここにも水場があり

小屋の中には水神さんかな?

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その向かいの畑の中に日本橋から63番目の押込の一里塚跡で、石碑と解説標板が

立ってます。

江戸時代、押込村と云われた地籍があったが,国道や鉄道敷設などのため消滅した由。

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その先右手は国道19号、その奥山側は鉄道路線で、トンネルがありました。

丁度タンク車連結の貨物列車がトンネルへ入ります。

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撮り鉄さんが一人三脚を立ててましたね)

すぐ先十字路左手からくる道は、贄川駅付近から国道と奈良井川の間に通された

明治道で、右折してすぐに国道19と合流し、左手に進み桃岡橋を渡り

鉄橋下を進みます。

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 振り返り鉄橋、トンネル、列車来ないかな~・・諦めて歩みます。

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このあたり漆器店、工場が目についてきます。

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200mほど先で中山道は国道から左に分岐し、旧長瀬集落へと入ります。

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街道らしい道幅の集落を、およそ7,800m歩きます。

「あら、メジロよ」4,5羽もいましたね、柿を啄ばんでます。

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抜けると再び国道に合流し、さらに約500mほど歩くと平沢北交差点となり、

横断して右手の道、県道257木曽平沢線へ入ります。

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AM11:30、道の駅ならかわへ。

塩尻市に合併する前は楢川(ならかわ)村でした)

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おっ、二連重の貨物列車だ!

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お昼も近しで、併設のCafé、UーLIFE(フィンランド料理のお店だったようです)で、パスタでランチ。

コーヒーもいただきゆっくりと足休め。

(オーナーはフィンランドの方だそうです)

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暮らし工芸館を見学。

 お目当ては実物を見る機会が無かった、長野オリンピック時の、

金銀銅メダル(漆塗)でした。

目にしたメダル、素晴らしいです!!

単にオリンピックメダルというより、美術工芸品ですね。

(館内は撮影ご遠慮くださいになってます)

 

*木曽暮らしの工芸館、HP*

http://www.kiso.or.jp/info/post-1.html

 

木曽で作られている漆器類の展示販売や漆塗り体験学習なども開かれています。f:id:hansui:20171127205923j:plainゆっくりと時を過ごし。街道へ復帰し漆器の里集落「平沢」へ向かいます

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続きます、

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第21回)  塩尻宿~贄川宿 後編

*ぐ~んと冷え込み各地で降雪予報の19日(日)。
再び街道旅へと向かいました、

坂道をくだり、左手で国道19号との出会いです。
両側に山並みが迫り、信濃路からいよいよ木曽路へと近づいて来たようです*

 

の後編です。

 

本山宿を抜けて坂道を下ると、左手からの国道19号に合流し,

しばらくの間、国道とJR中央西線の間を歩きます

ほんらいは左手の山の高巻き道や、釜の沢越えと言われる捲き道迂回旧道があった

ようですが、今は通行不能となってるそうです。

(青く塗られた小屋前が出口かな?)

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中山道は先の右手、砂利道に入り、工場側へ第2中仙道踏切を渡ってゆきまし。

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踏切を渡ったところの工場横に、「日出塩の青木跡」の道案内板が立ち、貴人の塚

と言われる上に大桧があって,

「洗馬の肘松,日出塩の青木,お江戸の屏風の絵でござる」

         と唄われた銘木があったと記載されている。

  案内に沿って工場の裏へ回ると・・・若木と碑がありました。

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「あら、白いものが、雪じゃない!!」びっくりしたようなカミさんの声。

見回すとちらちらふわふわ、白いものが!なんと雪が降って来たんです。

降ると言うより、風に乗って舞ってるような・・

空には青空もあり、雲の流れで日差しが射したり曇ったりです。

少し先で,国道から分かれた日出塩(ひでしお)集落に通じる車道に合流,

再び右手に分かれ細い道を行くが,すぐに先ほど分かれた道に戻ると,

道の左手に江戸から61里,京へ71里、標柱のみの「日出塩一里塚跡」が

現れます。

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ここからは、本山宿と先の贄川宿の間に置かれた「立場茶屋」があった旧日出塩

集落になります。

熊の毛皮や熊の肝などを商っていたそうです。
左手に、洞宗秀永山長泉院。

門前に庚申塔など石仏・石碑,六地蔵などが並んでます。

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日が差してますが雪が舞ってます。

前方の木曽谷方向は山間が少し霞んでます。

f:id:hansui:20171123111211j:plain日出塩は地元の「節分草を育てる会」が、節分草を大切に守り育てているそうです。

日出塩駅の北側に「桜の丘公園」があり、公園内にも節分草を育成しているエリア

があるのだそうです。

咲く季節の通る機会があったら、公園へ寄ってみたいですね。

左手へ入るとJR日出塩駅、時刻はPM1:20でした。

今日の街道旅の「二番目」の目的足止め地にしていたのが、ここ日出塩駅前、

塩尻駅から約12kmでした。

第一の目的足止め地にしてるのは、ここから5km先の贄川駅前。

青空があるとはいえ、木曽谷方向の左側は雪降りか、霞んでいます。

雪も降ったり止んだりの気象・・さて進むべきか、足止めか・・・

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JR贄川駅からの塩尻駅へ戻る列車の時刻は、PM4:06、あと2時間40分

「雪は舞ってるけれど、ほとんど風はない」

「この分なら、先へ進めそう」とカミさんと意見も一致、小雪舞う街道旅を続けます。

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集落外れ下り道に道祖神・筆塚・秋葉大権現などの石塔群。

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坂を下り国道19号のガード下を抜けると、左手に線路ガードを潜る道があり、

日出塩の鎮守、熊野神社があるようです。

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街道はそのまま進んで国道に合せず、斜め右手の細道へ入り、国道19号の高架を

潜り国道右側の歩道帯に合します。

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いよいよ木曽路、木曽谷間の街道旅となって来たことが強く感じられます。

左手山裾にはJR中央線、一段下がって国道19号。

歩道右手は急斜面の落ち込みで、下には奈良井川、と山裾。

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600mほど進むと右手に江戸初期中山道の解説板が立ってます。

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先に見える建物の手前から、左手の山(峠)へ通じる県道254があり、
これが慶長6年(1601年)大久保長安によって整備された、下諏訪から

岡谷を経て三沢(小野)峠を越して小野へ出て、牛首峠を越してここに出た
「初期中山道(古中山道)」です。

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大きく左へカーブする右手はトンネル工事現場になってます。

いずれは谷沿いの国道はトンネルで短縮されるのでしょう。

大きな「木曽」の文字が入った看板が立ってます。

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急カーブを曲がると奈良井川に注ぐ旧境川(桜沢川)に架かる桜沢橋のたもとに

「是より南・木曽路」標識が見えます。

この境川の進行方向が木曽路、そしてこれまで歩いてきた部分の信濃路に分かれ、
古くは木曽と信濃、江戸時代には尾張藩と松本藩の境界になっていた場所です。

また現在では塩尻市と楢川村との境界になっています。

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橋を渡った右手の崖上の広場に東屋、地域案内板、そして昭和初期に建てられた

大きな石碑が立ってます。

石碑には「是より南・木曽路」とあり、石碑の裏側には
木曽路はここ桜沢より、神坂に至る南20余里なり」という内容が書かれています。

いよいよ信濃路から木曽路へと入ります。

この辺は標高812m。

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(15年か、わしの生まれた年だ!)

ここで危く街道を見失うところでした。

この辺から、奈良井川の浸食による断崖の淵を避けるため、高巻きの道が

設けられてるそうですが、街道書では

「江戸方面からは、木曽路碑向かいの坂道を上がる」としか記載されて

いません。

高巻とは沢や淵などの難所を避けるため、沢の上流側や山の上斜面に迂回する

道です。

国道の向かい側面には前方へ上って行く道が見当たりません。

それらしき道標も見当たらないんです。

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右手の奈良井川側は、かなり深い崖となっていて、

「ここから左手の山へ高巻になってるはず」と、

もう一度確かめると、向かいのコンクリート壁に沿って、フェンスも無しの

落ち葉の積もった狭い登り道らしいのが、戻る感じで左へと山の中へと続いてます。

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(写真、中付近に桜沢橋が見えてました)

少し上ると国道脇の石碑も見えてます。

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ジグザグにしばらく高度を上げると、国道の崖上を国道と並行する崖の

岨道(そばみち)です。

畑の有るところから、崖上道を南へと進むようになります。

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左手の斜面には厄除馬頭観世音文字塔と馬頭観音像が祀られ、この山道が街道である

ことを示していて、一安心ですね。

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右手を覗きこむと国道のさらに下方に奈良井川の清流を望む。

往時この辺りは断崖で街道は崖上を迂回する高巻き道となっていた。

村の人たちが自力で岩を削って道を作り、通行料を取っていたとか。

(なるほど、有料道路なんだ!)

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先に進むと左手の祠の中に、三面六臂馬頭観音像が安置されています。

傍らには道祖神、明和9年(1772年)建立の南無阿弥陀仏名号碑があります。

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「あら、なにかしら?」と、ちょっと奥の山側に登ったカミさんが「トンネルよ!」

旅の事前調べていた、昔の中央線のレンガ造り廃線トンネルでした。

内部は完全に埋まっている。
 塩尻ー奈良井間の鉄道の開業は,明治42年(1909年)。

昭和40年代から列車の増大に対応するため電化・複線化が進められた際に,

ルート変更が行われ,廃棄されたトンネルでした。

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軌道跡なんでしょうね、先へと延びていました。

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街道はトンネルしたから急降下で国道と合さります。

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小やみだった雪が、また舞ってきました。

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木曽路にはいって最初の集落が桜沢集落で、街道に沿って家並みが続きます。
この集落は江戸時代に本山宿と贄川宿の間の宿として、また木曽路の入口として

栄えていました。 

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桜沢立場で立派な門構えの風格のある屋敷が,藤屋百瀬家が勤めた茶屋本陣。

明治天皇櫻澤御膳水休碑、明治天皇櫻澤御小休所碑、明治天皇櫻澤御駐簾跡碑がある。

上段間と次の間を残しているそうですが、公開はされてません。

(あの「是より南 木曽路石碑」を立てた家ですね)

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街道書を見ていたカミさんが、

「洗馬宿の本陣の家も百瀬家だけど、ここの百瀬家と一族なのかしら?」て。

(帰宅してから調べたけれど、まだ不明)

国道下、奈良井川との間に何軒かの家があり、一部旧道があるそうです。

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左手傾斜地に、小さな祠があり小さな神社が鎮座しています。

何を祀ったのかな??

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国道を進むと右手の眼下に奈良井川の片平ダムの景が広がります、奈良井川木曽駒ケ岳北の茶臼山に源を発し、流末は梓川に落合います。

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先で奈良井川を片平橋で渡ると左手の林越に古い橋が見えてます。
本来の中山道は,現片平橋よりやや上流側を渡り、杉林の中を通過していたと云う。

旧片平橋は、昭和10年竣工の「日本近代化土木遺産Aランク」に選定されていて、

開腹部をアーケード・RC造りアーチ橋として美しい姿を残していると云う。

残念ながら現在は通行不可になっており、遠くから眺めるだけです。

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先50mほど進むと右手に階段があり、その上に白山神社の鳥居がありますが、

立ちよりはしませんでした。

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道筋が変わってしまったんだね、原の奥にポツンと庚申塔

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300mほどゆくと道は国道19号から右手の坂道へ分かれ、旧片平村へと入ります。分岐点には中北道標「←片平地区を経てJR贄川駅2.2km/

是より南木曽路碑1.3km JR日出塩駅3.0km→」がありました。

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ほんの100m程の集落ですが、旧家と思われる家々です。

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国道に出会い右手の坂道左が、永平寺の末寺で,境内が国道に削られこじんまりした

無住職の寺、「飛梅山鴬着寺」、「鶯が着く(来る)お寺かしら?」てカミさん。

街道書には(おうちゃく)寺とありました。

なんの変哲もないお寺ですが、あとで偶然みた贄川宿に伝わる民話に、こんな逸話が。

「参勤交代の加賀藩主前田候が中山道を通り、片平のある寺に立ち寄り休憩された。
 この時、和尚様が寺の名前が定まっていないことを幸いに、寺の名を請うた。
 折は春で、庭に鶯が飛んできて「ホーホケキョ」とさえずった。
 そこで前田候は鶯が着く寺と言う意味の「飛梅山 鶯着寺としたらよかろう」と

 申された。
 以後前田藩から毎年下げ渡し金が届いた」
(楢川村むらおこし農家組合)とありました。

カミさんの推測は正しかった!

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(でも前田候は、なぜ遠回のこの道を通ったりしたのでしょうね?)

鴬着寺の先の横断歩道で、国道19号を左手にわたります。

渡ると歩道橋脇に男女双体道祖神や供養塔などが並んでます。

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 再び歩道橋で国道の右側へ戻り、足を進めます。

木曽路の前方は右側は明るさがありますが、左側の山々は白く、遠くは

白く雲の中、雪が降ってるかな。

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国道沿いを300mほど行くと、右手擁壁上に国道に削られて小さく

西塚を残している、江戸日本橋より六十二里目の若神子の一里塚跡。

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その先すぐに国道から街道は右手に別れ、旧若神子集落へと入ってゆきます。

中北道標には「JR贄川駅・1.7km」とあります。

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 山は雪山になってます。チラチラ雪が舞い降りてます。

左手のコンクリート製品は何??

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 集落内には何か所かの水場があり、今も現役で使用されている様子。

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このオブジェは??

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集落の終りの左手曲り角に石塔群が残ってます。

f:id:hansui:20171123212015j:plain天文3年(1534年)建立の道祖神、明和2年(1765年)建立の廿三夜待供養の

そして馬頭観音などが祀られてます。

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みぎての上の方に参道を辿ると、若神子村の鎮守、諏訪神社が祀られてます。

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集落から一旦下り街道は国道へは出ず、再び標識に従って右手の上り道へ

入ってゆきます。

雪の舞が多くなってきました。

先の山では結構降ってるような感じです。

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青空も見えてますが雪は降り続いてます。

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谷間に下ると石造群

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道の整備などで移動され、ここに集められたかな?

無造作に沢山置かれたと言う感じだ。

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谷間から登ると、左手下に線路と国道が平行し続いてる展望が開けた道になり、

雪降りに煙る山々を見ながら進みます。

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その先で林の中への道を行く「JR贄川駅0.6キロ」と書かれた標柱が立ち、

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その先で道は国道へ下る道と、右へ山側の草道に出会いますが、

街道書には「山道は古中山道である」と記され、中山道は左、国道へ下るとあります。。

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前方左手にJR贄川の駅舎が見えてきました。

道路の温度計は2℃、雪の舞から雪降り街道となってきました。

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右から古中山道も下ってきて、本来の中山道はここで国道、JR鉄路を縦断して

川沿いに進み、先の贄川宿番所前へと続いていたそうです。

鉄道敷設、国道新設などにより街道は消滅し、今は国道を歩き贄川宿へ向かいます。

 

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駅手前、数軒の民家が建ち並ぶ道路沿、ここにも水場がさずけられてました。

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木曽路の山々は雪雲に蔽われ、見通せなくなくなってきました。

あの付近はかなりの降雪になってるんでしょうね。

左手が贄川駅です。

ここもJR贄川駅舎は、贄川の宿場から離れたところに設けられ、

駅周りには「そば処」が1軒あるだけです。

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時刻はPM3:20、5km強の道のりを、約2時間かけて歩いて来たんです。

(スタスタ歩いたつもりでも、人々の倍は掛かってますね)

 

 

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贄川宿はここから300m程先が入口の関所跡がありますが、21回の旅は

ここで足止めします。

電車時刻まで、駅隣りの蕎麦所で、あたたかいコーヒでくつろぎ、電車で塩尻駅へ。

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松本行きの車内では、登山スタイルの10名ほどの外国の方が居ました。

御嶽へ登ったかな?それとも、これから北アルプス方面へ向かうのでしょうか。

塩尻駅前から中央高速を走り、渋滞があって5時間ほどかけて帰宅。

「大雪になる前に、あと一回旅へでたいわね」のカミさんでした。

第21回旅、終わりです。

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第21回)  塩尻宿~贄川宿 中編

ぐ~んと冷え込み各地で降雪予報の19日(日)。

再び街道旅へと向かいました、の中編です。

 

*洗馬宿を後にし、JR中央線のガードを潜って中山道(県道304)次の本山宿へと向かいます。   

f:id:hansui:20171121164201j:plainガードを潜り尾沢川を渡ると、左手へ入る荒れた道があり、鳥居が見えてます。

道を入ってみると、川沿いに道は奥の山中へと続いてゆきます。

街道書では、

草道の参道を辿ると、国道19号を越えて尾沢川沿いに滝神社があり、

由来となった滝が落ちている、と記載がありました。

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尾沢川と言えば、宿にあった洗馬宿案内版に、「洗馬宿設立時、この尾沢川から

用水を引き入れ宿内に水を供給した」とありました。

上流の方から取水したと思われますが、滝神社と関係があるのかな。

街道に戻ると今度は登り坂となり、

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左の道路わきに新設された感じで「一里塚」の石碑と案内板が建ってます。

案内板には「牧野の一里塚跡、江戸より60里,京へ72里」とある。

塚の上?には旧牧野村公民館が建ってましたね。

 

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その少し上の斜面に馬頭観音や石塔が見えました。

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坂道を上ると平坦地となり、街道は穏やかなかっては立場茶屋が置かれたと言う、

牧野の集落を行きます。

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けっこうな頻度で中央線の特急電車が行き来してますね。

(各駅停は朝、夕中心に1時間に1本ですが)

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一里塚跡からおよそ1km,牧野信号で国道19号に併せ、しばらく

国道を歩きます。

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およそ約700mほど行き国道19号から離れ、ため池の有る右手へ道(県304)

に入ってゆきます。

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ため池の先、すぐの右手に「中山道本山宿 しののめのみち」と書かれた標柱が

あります。

「しののめみち」は塩尻観光案内誌には

「松本平の明け方の方向にある東山沿いの道。どこからでも美しい北アルプスを眺望できます。この道は塩尻市の本山宿にはじまり、延長50km。道沿いには多くの仏閣、神社をはじめ、温泉、史跡、宿場、高原などがあり、四季の彩りや鮮やかな自然と共に、訪れた人を魅了します」と記載されてます。

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そのすぐ先左脇に秋葉神社馬頭観音,お地蔵さんなど11体の

「石仏群」が並んでいます。(案内板によると、ここへ移設したそうです)

 

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軒下の飾り、いいですね~思わずパチリ、

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 畑の先に右へ入る細い道角に、池生神社社叢入口標識があり、

ここが本山宿の下木戸跡(江戸口)です

ため池近くにあった秋葉神社、石仏石塔群はかってはここにあったんですね。 

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手前に案内板、収穫の終わったそば畑奥に、本山そばの里(食事処)があります。

本山地域はそばの産地として知られ、宝永3年(1706)の雲鈴の隋筆[風俗文選]

に今風の細長い蕎麦になった「そば切り発祥の地」が本山であることが記載されているそうです。

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中山道を往来する旅人の舌を満たした蕎麦切りの技術は、ここ本山宿から全国へ

と広がりました。

時代の流れでその姿を消してい きましたが、その技術は家々に継承され、

平成3年、歴史ある蕎麦切りの里の復活を願う有志により、

地元産の蕎麦粉 100%を用いた蕎麦打ち体験もできる「本山そばの里」が

復活したそうです。

お昼も近いので、ここでお蕎麦を頂きました。

蕎麦掻もメニューにあったので、一人前だけとって食してみました。

(宿内のそば処はここだけだったような?) 

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付け合わせで出た、パセリの佃煮風が美味しかったて、カミさん。

(余談、蕎麦切りの発祥の地については山梨県だという説や、木曽の須原宿という

 説などもあるようですが、どれが正しいのか分からないようです)

さあ、宿内へ足を進めましょう。


本山宿は、江戸から数えて32番目の宿場。

天保14年(1843)に編纂された「中山道宿村大概帳」によると宿場は

松本平の出口、中山道木曽路の入り口として栄え、宿往還の長さ5町20間。
 人口:592人,家数:117軒,本陣1軒(小林家・下問屋と兼任)、

脇本陣1軒(花村家・上問屋と兼任)、問屋2軒、旅籠34軒が設置され京都からみると、松本藩最初の中山道の宿場町であったことから、口留番所が

置かれ人物改めや荷改めが厳重に行われ重要視されました

 

宿は南から上町・下町に区分され、中央には本陣・脇本陣問屋場がありました。
何度か大火に見舞われたが、現在残る建物は幕末から明治時代の建築で、
道に面して屋敷割りは、洗馬宿の3間間口に比べて4~5間の家が多く、
 各家には屋号が付けられ、当時をしのぶことができます。
比較的広い街道の両側に、倉や、「俵屋」など平入り出桁造り、千本格子窓の旅籠。

古民家にはそれぞれに屋号が付けられ、風情ある町並みが続きます。

(置き屋根造りの倉)

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古民家の左手、二本の木が立つ奥が、諏訪神社跡(合祀され本山神社となった)

 

 

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明治時代の大火でほとんどの建物が失われてますが、出梁造の町屋が点在し、

元旅籠の

秋山家(若松屋)(明治前期、木造2階建、切妻、鉄板葺、平入、出桁造)左奥、

田中家(池田屋)(明治前期、木造2階建、切妻、鉄板葺、平入、出桁造)中、

小林家(川口屋)(明治前期、木造2階建、切妻、鉄板葺、平入、出桁造)右手前

が国登録有形文化財に登録され、当時の雰囲気は感じることができます。

建物の並び方が斜交(はすかい)屋敷といい、家が道と斜めにのこぎり状に並んで

いるのがよくわかりますね。。

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向かいが、代々小林家が世襲した本陣跡。

文久元年(1861)の皇女和宮や明治13年(1880)の明治天皇御巡幸の際に

宿泊として利用され、特に皇女和宮が本山宿を宿泊した際には、松本藩が警備し

4日間で総勢8万人が宿場を通過しています。

(奥の雀おどり屋根飾りの建物は、子孫の方のお住いとか)

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左手は小林家が兼任していた下問屋跡

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本陣跡の宿場案内版

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案内板の隣には江戸時代からの水場が今もこんこんと流れ出ていました。

f:id:hansui:20171122162952j:plain 本山仲町バス停の左に、現在は公民館となっている「花村屋脇本陣跡」「上問屋場跡」

葉を落としたモミジがポツンと立ってます。

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街道は緩い下り坂となり、その先で大きく左手へ曲がってゆきます。

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右手に「口留め番所跡」
 本山は松本領としては木曽路入口の重要な場所であったので,番所を設け厳しく監視をしていた。年貢米が他領に流出しないよう,また関所同様,女人の通行手形改めもしたと云う。

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左曲がりの緩い坂道の左手土手上は廃寺となた 長久寺・常光寺の跡地で小公園に

なってます。

長久寺は慶応4年(1868年)、松本藩主がここで東山道軍(官軍)総督岩倉具定

に勤皇を誓うが、決定が遅いと藩主は謹慎、藩には軍資金、兵糧の献金と出兵が

命じられたと言われる歴史のお寺でした。

土手に沿って登って行くと、荒瀬不動尊があり石造群があります。

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f:id:hansui:20171122173313j:plain さらに奥の山へ、国道19号を跨線橋で渡った先に、本山宿江戸口近くにあった

諏訪神社と、八幡神社が昭和26年合祀された「本山神社」
社地には檜,松などの老木が多く,拝殿の後ろの神殿は本峰造り一間社流造りだ

そうですが、板格子囲いの建物に鎮座しています。

 

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本山神社から来た道を街道へ戻ると、石垣と街道の間に石垣に沿って入れる道があり、

すぐの石垣下に高札場跡、秋葉大権現、秋葉常夜燈があり、

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その先に大きな本山宿の看板が立ってます。

(この先は水路の橋で渡れないわよ!)

高札場跡が、本山宿の京方(西口)でした。
 

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坂道をくだり、左手で国道19号との出会いです。

両側に山並みが迫り、信濃路からいよいよ木曽路へと近づいて来たようです。

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 広重が本山宿として描いた場所の特定には諸説あります。

最も有力な説は本山宿の西(京口)の外れを、宿方向に向かって描いたというもの

です。

「街道は上りから下りにちょうど切り替わっています、本山宿の宿並は東(江戸口)から上り坂の中に構成されています。

これが宿の外れで下りに変わります、ここが正に広重が本山として描いた場所といわれる根拠です。

強烈な野分の後でしょうか、松の大木が横倒しになり、丸太で支えられています。

その奥にはすでに切り倒された切株があります、斧ではなく、木挽き(こびき)に

よって倒された痕跡を残しています」

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続きます。

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第21回)  塩尻宿~贄川宿 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 11月3日に歩き残してた「碓氷峠越え」を果たし、街道は江戸から
28番目・和田宿へ一本線に継ながりましたが、先にはこれまた難所の

和田峠越えがあり、雪の季節となって一再び中断。

峠越しは雪融けを待ってとし、元気なうち歩ける内にと足を先へと向けて、

11月12日、下諏訪宿から木曽路への入口塩尻宿へ到着。

 

ぐ~んと冷え込み各地で降雪予報の19日(日)。

再び街道旅へと向かいます。

今朝も早めに家を出て、中央高速をひた走り。

休憩したPAからは朝日を受けた南アルプス甲斐駒ヶ岳北岳が雪山となって

輝き、遠くには金峰山の五丈岩まで見渡せました。

(右、甲斐駒ヶ岳、左上、五丈岩)

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みどり湖PAで朝食は、カミさんがラーメンがいい、というので

いつも持参のカップ天蕎麦は止めて、食事処でラーメン朝食。

あれ、この辺は昨夜は雪が降ったんだ!

(食事処で聞いたら、初雪だったそうです)

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 塩尻駅前に車を停めて、トイレを済ませて前回足止めした、塩尻・下大門交差点

へ向かいます。

塩尻はブドウ栽培が盛んだったんですね。

駅前の観光協会の建物にもデザインされてます。

案内所で「木曽路イラストマップ」配布しているそうですが、まだ開いてませんね。

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駅より2kmほど東へ歩き、前回足止めの三叉路となっている下大門交差点へ。

中山道、伊奈街道(国道153)長野道が交わる追分の交差点では、

18、19日の2日間開催される、県北長野市から県南飯田市間、217.5m

全22区を走る、超長距離・長野縦断駅伝のコースで、関係者の方々が大勢準備を

してました。

間もなく選手が通過、私たちが通ってきた塩尻宿を走り抜け、東の追分から

伊奈街道(国道153)へと向かうそうです。

1952年(昭和27年)「若者たちの体力と精神力を養うのに役立つスポーツを」と、

長野県を南北に一本の襷を繋ぐ駅伝が誕生し、今回が66回と伝統の大会でした。 

選手の通過応援をしたい気持ちがありましたが、もうしばらく時間がかかるとの

ことで、居合わせた係りの方にシャターを押していただき、

AM8:30、第21回旧中山道夫婦歩き旅へ旅立ち。

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正面に日を受けて輝く雪山を見ながらしばらく西へ進みます。

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前方に巨大な木々が見え、そこは「大門神社」で、大木は樹齢300年の3本の

見事な大欅でした。

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大門神社縁起によれば、

「昭和37年中央線の再度の開発のため、二番町の若宮八幡神社と柴宮八幡神社

移転合祀し大門神社となった、大門地区の氏神
また,昭和35年,境内から高さ64cmの弥生時代の銅鐸が出土した。

長野県は,銅鐸文化の圏外と思われていたので注目され,考古学者の間では知られた

神社でもある」と。

f:id:hansui:20171120103507j:plain すぐ先右手に小さな祠があり、案内板は「耳塚」で、
耳の形に似た素焼の皿やお椀に穴を空けて奉納されている。

耳の聞こえが良くなるとの評判が立ち伊奈地方からなど多方面から

参拝者がいると云う。
 天文17年(1548年)5月,武田信玄小笠原長時との桔梗ヶ原合戦の際,

討ち死にした将兵の耳を葬った所とも云われている。

(カミさんが、どうして耳だけなのかしら??)

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右手民家の電信柱下に小さな男女双体道祖神

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新しそうですが、立派な長屋門ですね。

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左手に海鼠塀の倉と、大きな屋号(曲尺の中に文字、カネホンかな)。

たしか普通は「カネホン(屋号)〇〇商店」のような表示だと思うが、

あれで「カネホン商店」だ、何を扱っていたんだろう?

木塀囲いになってるので、今は廃業したかな?

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(他の資料に元は、「酒店」とありました)

私の父親の家の屋号がこの「カネ」で、本家がカネに桝形で「カネマス〇〇」

分家はカネに勝で「カネカツ〇〇」とカネに八で「カネハチ〇〇」と称してました。間もなくJR中央東線のガードが見えてきましたが、手前を右に少し入ると、

有明山御神燈と道祖神

有明山御神燈は、坂上田村丸が、安曇郡有明山の賊退治の平定後に祀った社が、

先の塩尻宿京方に鎮座する阿禮神社の奥宮との事。

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ガード上はJR中央線、操車線で、国鉄塩尻駅は,明治35年篠ノ井線開通時には,

ガード先の”昭和電工”の北隣りにあった。
明治39年中央東線,明治42年中央西線が開通。昭和57年(1982年)

塩嶺トンネル開通により中央東線が辰野を経由しなくなったのを機に,新駅が

西500mの位置に移された。旧駅は「塩尻大門」として主に貨物列車の退避場所・

操車場として残されている。
ガード先100m程の住宅地を行くと、右手は”昭和電工工場”の長が~い

コンクリート塀が続きます。

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ガードをくぐって約1kmほどの平出遺跡十字路のすぐ先に「平出一里塚」。

松は,武田軍軍師山本勘助が,赤子を拾った伝説にちなみ「勘助子育ての松」と

呼ばれ、宝暦6年頃には茶店も2軒あった様です。

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街道からは左側だけしか見ませんが、右側は民家の裏にありました。

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先ほどから左手と前方に広がる広大な畑が桔梗ケ原で、東西3km,南北5kmの

台地で、天文17年(1548)5月武田信玄小笠原長時の桔梗が原の合戦の戦場で

あった。

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一里塚の200mほど先左手一帯に「平出遺跡」の案内板が見えてきます。

このあたりは「うばふところ」と呼ばれる丘陵地帯で、「桔梗ケ原」に復元された

竪穴住居が何棟も見えている。
縄文時代から弥生時代平安時代にかけては大集落跡(175戸)であった。
遺跡は江戸時代から土器や石器が拾える場所として知られ,本確的な発掘調査は,

昭和25年から始まり,中でも古墳~平安時代の豊富な出土品は,当時の生活様相を

復元可能にするものとして貴重なものであると評価され、昭和27年国史跡に

指定された。

日本三大遺跡に数えられる大きな遺跡。

土器・石器など約2万点の出土品は隣接の平出博物館に展示されています。

また日本一大きな、奈良時代中期の瓦塔も展示されているそうです。

f:id:hansui:20171120150522j:plain 青森の三内丸山遺跡静岡県の登呂遺跡など有名な遺跡が有り、立ち寄ったことが

ありますが、こ平出遺蹟は殆ど知らなかったですね。

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この場所から北アルプスの山並みが見えるそうですが、雲がかかり姿を見せて

くれませんでした。

平出遺跡を後に、どこまでもつづくぶとう棚が広がる街道をさらに進んでいきます。
江戸時代にはこの辺りは畑以外何もない原野が広がっていたといいます。

このことからこの辺りを「桔梗ヶ原」と呼ばれていました。

甲斐の武田信玄が松本を根拠とした小笠原氏と合戦し、これを破った戦が行われた

古戦場です。
振り返へると、霧ヶ峰、美ヶ原の雪の山並みが大きく見えてました。 

f:id:hansui:20171120152220j:plain 付近のブドウ棚にはもう収穫はしないのでしょうか、たくさんのブドウが残され

てます。

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おっ、スイスへ行ったときに見た、木立式のブドウ畑。

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中山道は,中央西線の踏切を渡り,”中信農業試験場”,”野菜花き試験場”の前を

通過する。イチョウの木には銀杏が鈴なり!

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ブドウ畑やワイナリーが点在の道を行くと、間もなく国道19号への突き当たりが、

その名も。中山道一里塚交差点。

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国道を横断して右手下に旧中山道跡が残り、200m程先で国道19号に合流する

ようです。

f:id:hansui:20171120155120j:plain およそ1km先,コスモ石油手前から左の細い草道に入り、しばらく行くと国道に出,

<平出歴史公園>交差点で国道を斜めに横断し、右手の緩い坂道を下って

県道304号線を「洗馬」集落へと入って行きます。

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おっ、雀おどりの屋根飾り!

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坂道となり右手下に田畑が広がり、川も流れているようです。

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左手側に山が迫り、山裾の段丘上の国道から分かれておよそ500m,

右手に「細川幽斎肘懸松碑」と呼ばれる

一本の赤松が道にせり出して立ってます。

説明版では、「洗馬の肘松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる。」と歌われた

赤松の銘木だったそうな。
細川幽斎が「肘懸けてしばし憩える松影にたもと涼しく通う河風」と詠んだ

と伝えられ、また、江戸二代将軍秀忠上洛の時、肘を懸けて休んだとの説もある。

昔の写真も添えられており、大きさから現在の松は何代目?

坂道は「肱松の坂」と呼ばれるそうです。

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「あら、道標が、ここを下るのよ」

道脇草むらの中にちっちゃな道標が有りました。

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細い坂道を下ると、左手からの道と合流の桝形で、高さ4mの

旧分去れ(かわされ)の常夜燈が建ってます。

安政4年(1857年)の建立で、ここが北国西往還(善光寺西街道)追分。

(現県道294号)

右:桔梗ケ原を経て塩尻宿へ向かう中山道
左:松本,麻績を経る善光寺道  

ここからが洗馬宿の江戸方(東口)かな。

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50m程先で下って来た県道303との合いには、新「分去れ道標」や石塔群が

県道が出来たとき桝形の「旧分去れ」から移設されて建ってます。

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街道案内によれば、

江戸から59里33町(約235km)、31番目の洗馬宿 (せばしゅく)。
慶長19年(1614年)の中山道塩尻峠経路に付け替えられたのに伴い、

近くの村が集合して塩尻宿・本山宿とともに新しくできた宿場です。

左手の鳴雷山、霧訪山などの山裾段丘上に開かれ、さらに下がった右手平地には

奈良井川が流れています。

北国往還善光寺道との追分にあたり,善光寺詣り,御岳講の人々などの旅人の往来で

賑わった宿場。

当初は松本藩の管轄下にあったが,享保10年(1725年)幕府直轄領となる。

何度かの大火に見舞われたが、昭和7年(1932)の大火で、宿場のほとんどが

廃墟と化し,往時をしのぶことはできない。

天保14年(1843年)中山道宿村大概帳によれば、

往還の長さ5町50間。

家数:163軒,本陣:1,脇本陣:1,旅籠:29軒、宿内人口:661人,

 

案内木柱に従って、右の細い横道に入り階段を下った所に、「洗馬(せば)」の地名の

由来になったと言われる「邂逅(あうた)の清水」

欅の古木の根元から清水が湧き出していて、塩尻市ふるさと名水20選の

ひとつである。

伝わる故事によると、

 木曽義仲の重臣今井四郎兼平が,義仲の旗揚げを知ると直ちに馳せ参じて

この清水で邂逅した。義仲の馬は強行軍に大変疲れており,そこで兼平は馬の脚を

この泉の水で洗ってやると,たちまち元気を取り戻したという、

そこから「洗馬」と呼ばれるようになった。
(一説には、洗馬の地名の由来とも云われるが,平安時代に既に洗馬牧の名が

 あったといわれる)
下方の田畑の中を”奈良井川”が蛇行しながら流れています。

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*広重は洗馬として、宿の西を流れる奈良井川の夜景を、邂逅の清水辺りから
 描いたと言われます。
 川面には満月の明かりを頼りに進む、柴舟と筏を描き、 絵の中央には洗馬の

 宿並みが描かれています。
 この絵は、広重の最高傑作といわれています*

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(宿場が奈良井の流れる平地ではなく、山側の高台地上に開設されたのは、

 水害を避けたのでしょうか)

街道に戻り先に進みます。
昔の建物は大火で焼失してしまっているので,宿場の面影はなく,

道幅も大火の経験からか宿場町としては広く、人通りはほとんどありません。

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洗馬駅への入口で、奥突き当りから右手が駅舎の有る敷地は、本陣、脇本陣

名所案内にもうたわれた名庭園があったところだそうです。

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駅入口から50mほどのところに「宗賀農林漁業体験実習館」という比較的新し

そうな建物がありその壁に「洗馬宿」の街並みについて説明版が掲げてありました。

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 洗馬駅入り口を過ぎて,左手に
「百瀬本陣跡」

f:id:hansui:20171120204141j:plain問屋を兼ねていた「志村脇本陣跡」

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*「本陣」,「脇本陣」の庭園は,「善光寺名所図会」に「中山道に稀な・・・」と

紹介された名園であったが,明治42年(1909)中央線の開通によって

洗馬駅の敷地となり失われたそうです*

「荷物貫目改所跡」

「公用荷物の重さを計り運賃を決める役所」だったそうで、

中山道では、板橋、追分、洗馬の三宿に設置された。

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向かい側に朱塗り山門の、真宗大谷派正・徳山萬福寺

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さらに進むと、民家と洗馬公園の間から登る参道が裏手の山への「洗馬神明宮」の参道で、大祭に演じられる太神楽が塩尻市無形文化財だそうです。

JR中央線の線路をこえての林の中に見えてました。

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進むと、洗馬公園のフェンスの中の「芭蕉句碑」に
   つゆはれの わたくし雨や 雲ちぎれ   芭蕉

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そして「高札場跡」が続く。

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その先、洗馬宿の西のはずれの桝形(西の口・京方)は急坂となっていて、

そのさきでJR中央線のガードを潜ってゆきます。

その桝形坂手前の左に 新福寺跡と言成地蔵尊(いいなりじぞうそん)を安置する

地蔵堂の案内板が建ってます

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桝形を左に曲がったガード手前に案内標柱が立ち、上り200mほど山の方へ

行くと、新福寺地蔵堂(言成地蔵)が祀られてるようです。

なぜか立ち寄りはしませんでしたね、なんでかな??

街道書には

「元は西の桝形あたりに安置されていたが(案内板が建っていたところでしょうか)

あまりに落馬する人が多いので,ある時一人の武士が怒って地蔵様を斬って

しまった。

これでは縁起が悪いと村人たちが新福寺に移し、言成地蔵として地蔵堂に安置した。

その後、明治3年(1870)の廃仏毀釈により新福寺は廃寺となり、

地蔵堂は言成地蔵として境内の南方の一角に須弥壇とともに遷された。
境内には旅の途中で死んだ人など墓31基その他があり,今も参拝者が絶えないと

云う」とあります。

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 街道はこの先でJR中央線のガード下を通って右にカーブし、次の本山宿へと

足を進めます・・・後編へ。