5月19日(日)、カミさんが50年来の仲良し組と1泊2日の短い旅へ
行ったので、久しぶりに一人での外出。
春先に教えて頂いていた都立小金井公園内に併設されている
「江戸東京たてもの園」へ行ってみました。
小金井公園は都西部の小金井市、小平市、西東京市、武蔵野市にまたがり、
北側は有名な小金井CC,南側は名勝の指定を受けてる玉川上水沿いに位置し、
面積約80ヘクタール、上野公園の1.5倍といわれる広大な公園です。
この公園の前身は、昭和15年の紀元2600年記念事業で計画された小金井大緑地。
戦後、東宮仮御所にも使用された地の半分強を、29年に都市公園として
開園してます。
武蔵野の面影を残した、緑豊かな西一角に併設されてるのが
1993年(平成5年)開園した歴史系野外博物館、「江戸東京たてもの園」です。
敷地面積は約7ヘクタール、園内には江戸時代から昭和初期までの歴史的建造物を
移築し、27棟の復元建造物が建ち並んでいます。
案内文によれば、
「江戸東京たてもの園ビジターセンター」となっている「旧光華殿」から入園。
旧光華殿(きゅうこうかでん)は、1940年(昭和15年)皇紀2600年
記念式典の会場として、現在の皇居外苑に建設された仮設された式殿です。
式典終了後は、仮設の建物である光華殿は解体され、翌昭和16年7月に現在地に
移築し、一時期には学習院中等科小金井校がこの地に置かれ、
西隣りに東宮御仮寓所が設けられ、跡地には記念碑があります。
同園への入場口として使われると同時に、特設展示室や売店、Caféなどの施設が
あります。
ビジターセンターを北側に抜けると園内へと入ります。
エントランス広場には、皇居内旧本丸跡にあった江戸時代の「時の鐘」に替わり、
空砲により正午を通報した「午砲」が据え付けられてます。
夕刻に所用があるため、次回カミさんと来た時に各館の室内見学をすることとし、
今回は外観をじっくりと楽しむ回り方に決め足を進めます。
広場から正面に目につく建物は、
【都有形文化財】旧自証院霊屋(きゅうじしょういんおんたまや)
3代将軍徳川家光の側室お振の方の霊廟。
慶安5年(1652年)、尾張徳川家に嫁いだ家光の長女千代姫が生母お振の方の
霊屋を自証院境内に建立した。
建物は禅宗様と和様の折衷様式で、柱・組物・桟唐戸さんからとや須弥壇
などには禅宗様が、蔀戸や高欄の擬宝珠、板張りの床などには和様の意匠が
用いられている。
明治になると荒廃してしたが、昭和32年西武鉄道によって霊屋は買収され、
赤坂プリンスホテル内に移築され、平成7年、江戸東京たてもの園に移築・復原された。
(解説文)
隣りには将軍徳川家の菩提寺である寛永寺に、八代将軍徳川吉宗の没後、
寛永寺灯篭の向いには、1902年(明治35年)港区赤坂七丁目に建築さてていた、
高橋是清邸(たかはしこれきよてい)。
共立学校(現・開成中学校・高等学校)の初代校長、特許局の初代局長、貴族院議員
日銀総裁、大蔵大臣、農商務相、第20代 内閣総理大臣など歴任。
「だるま宰相」とも愛称され、明治から昭和のはじめにかけて日本の政治を担った
高橋是清の住まいの主屋部分です。
解説文によると、
総栂(つが)普請で、洋間の床は寄木張り。
2階は是清の書斎や寝室として使われ、1936年(昭和11年)の
2・26事件の現場になりました。
回り込むとせせらぎの音も心地よい庭園です。
和風邸宅に窓ガラスを使った初期の段階の家屋。
暗殺の舞台となった2階部分。
ふんだんに使われてる窓ガラスが初期のころの手造りの口吹きガラスで、
表面が微妙に波打っているように見え、“ゆらめき”映り込みが風景が一味違った
風情を醸し出してます。
以前に訪れたことのある、旧日光田母沢御用邸で体験したのを思い出しましたね。
大正期の実業家西川伊左衛門が隠居所、宗徧流の茶人、山岸宗住(会水)が建てた
大正期の茶室を見送ると、伊達家の門(だてけのもん)が目に入ってきます。
奥州伊達家の一族、旧宇和島藩伊達家が、大正時代に東京港区白金二丁目に建てた
屋敷の表門です。
起り屋根(むくりやね)〉の片番所を付けるなど、大名屋敷の門を再現したような
形をしています。
片番所
総欅(けやき)造りで、門柱の上に架けられた冠木(かぶき)には、
宇和島藩伊達家の木彫りの家紋が施されています。
両端に伊達家の先祖に当たる伊達朝宗が、源頼朝より下賜されたと
言われる家紋「三つ引き両紋」
そして中心の家紋は伊達家の象徴家紋「竹に雀」を模した家紋です。
解説によれば、宇和島伊達家の竹に雀紋は、とくに「宇和島笹」と称されている。
竹笹で象られた丸形のなかには口を開けた「あ 阿」形と口を閉じた「うん 吽」形で
向かい合う二羽の雀が配される。
「あうん 阿吽」は相対する二つのもの、あるいはそれらを包摂する万物の根源の
象徴であるとされている。
「竹に雀」紋は、デザインは少し違いますが、明治維新後に奥州伊達亘理藩が
我が懐かしき母校「北海道伊達小学校」の校章紋でした。
ここで目にするとは・・・
センターゾーンから昔の下町の風情を楽しめる東ゾーンへと足を進めます。