歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第33回    1日目 前編 加納宿を抜けて~ 河度宿へ

残暑の残る9月も、朝晩は過ごしやすくなってきました。

9月は連休が2回、まだ暑いけど連泊で思い切って出かけない?
のカミさんの誘いにのって、よ~し、行くか!

美濃路16宿も8宿をたどり、歩いて再び京の都への夫婦歩き旅は、

令和元年5月25日(土)PM3:05、中山道51番 太田宿にて足止めをして

ました。

前回の歩き旅から早4ヵ月・・・・、
(足止めの太田宿・中山道会館前)

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さっそく宿の手配に入ったが、3連休の岐阜は宿の調整がなかなか難しい。

 「旅の歩き順を後先逆にしたら」のカミさんの提案で再度調べると、

太田~加納間を次回に回せば調整できそう。

てなことで、再開街道旅は、太田宿~加納宿岐阜市)約25kmを次回に回し、

今回の9月13日~16日は、その先の加納宿岐阜市)~垂井宿約26kmを

2日間かけて歩くことに。

関東直撃の台風15号も去って、猛烈な残暑もなんとか収まりか、

朝晩は過ごしやすくなった9月13日(金)、

カミさんの仕事終わりを待って、PM1時マイカーにて自宅発。

4か月振りに圏央、中央道をひた走りし岐阜県入、PM7:10 岐阜羽島

宿へ到着。

翌朝、ホテルの朝食済ませ、JR岐阜駅南口か200mくらい離れた

中山道加納宿岐阜市)近辺の駐車場へ車を走らせ、AM8:30駐車。

ウォーミングアップも兼ねて、岐阜駅まで歩きトイレなどを済ませて、準備OK。

再開旅は、江戸から53番目、105里2町412.5Kmの加納宿中心を抜けたところから、

西へ足を進めます。

 (岐阜駅)

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加納宿・広重画 

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 岐阜市域が歴史に登場したのは旧石器時 代。最初は岐阜市の北部から東部にかけて の台地上に、そして、縄文・弥生・古墳時 代には、ほぼ全域に先人たちの営みは広 がっていた。戦国時代には、不  世  出  の英  傑  ・織田信長が岐阜を天下統一の拠点とし たことから、全国にその名が知られること になった。その後、江戸時代には「岐阜町」 は尾張徳川領に、「加納町」は加納藩の城 下町として、また、中山道の宿場町、商工の街として発展していった。
(市岐阜市の歴史より) 

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令和元年9月14日(土)AM9:00 快晴、微風、吹く風は爽やか。

岐阜駅から南へ約200mの中山道・信号の無い交差点にて旅立ちショット。 

「旧中山道69次夫婦歩き旅  歩いて再び京の都へ」 第33回 旅立ち。

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日中の気温は予報31℃。朝の内は秋はすぐそこの風も爽やかな旅立に。

涼しいうちにどこまで足を伸ばせるか・・・

まずは、1里半約6km先の江戸から54番目「河渡宿」を目指します。

JR岐阜駅を右に見ながら、加納宿中心街並みを抜けた、加納本町5丁目から

交差点を西へ渡って加納栄通り3丁目へ進んでゆきます。 

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渡って右手に加納本町の秋葉神社があり、宿場に火事は大敵と加納宿は町ごとに

秋葉神社が祀られているようです。 

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左手、駐車場越に見える伽藍は西方寺。

川端康成の初恋にちなんだ作品「篝火(かがりび)」に登場するお寺だそうです。

(小説は読んでないので・・) 

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加納本町の秋葉神社から約200m歩くと、右側に加納本町七丁目の秋葉神社

祀られていました 

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更にしばらく少し足を進めると、左手に加納本町八丁目秋葉神社があった。

その境内入口に「加納宿西番所跡」の石碑があり、ここが加納宿京口

ここから先は本荘村になるようである。

境内のさらにその奥左手に小屋があり、手前に愛宕神社の碑があった。

愛宕神社は関西の防火の神だそうだが、小屋が神殿なのか?(写真左下)

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江戸から53番目の加納宿を後にし、現在の地名で加納本町から南本荘になる。

西番所跡から県道151号の加納本町9交差点を渡ってしばらく進むと、

左側に阿 賀多神社が祀られている。

失焚を逃れて阿賀多の地に滞在した一条兼良が、河水氾濫で漂着した「御神体」を

応仁2年、この地に祀ったとされる。

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街道書には少し歩くと、黒板塀に囲まれた秋葉神社が祀られている、とあったが・・・通り越したかな? それともこれか?

さらに、秋葉神社から少し先の十字路を左折しすぐ右の民家の前に、

一里塚跡ありと記されてるが・・曲がってみたが見当たらない?

と、先を見ていたカミさんが「ず~と先に何か案内板らしきものが??」

ごく最近移設したのか、ありました!左側の塀脇に「加納一里塚跡碑」と案内板。

元々の塚は、大正元年の暴風雨で崩壊してしまったそうで、日本橋から106番目の

一里塚跡。

案内場には「三里一里塚」と記されてるがなぜ??、

「さんり」ではなく「みさと」かな?まあ、帰ってから調べてみよう。

(まだ解明できてませんがね)

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 一里塚のすぐ先で、東海道本線の高架にぶつかり街道はふさがれて、

高架に沿って左方向に進み、清本町2交差点で右折し東海道本線のガードを潜ります。

ガードを越すと高架下沿いにゆく細い道、中が街道幅の道、さらに右手の車道と

三又になっていて、中の道右手に中山道の標識板がありました。

(ただ、持参の街道書では一番右手の車道を示していたが)

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 この標識が無かったら一番右手の道を行ったのですが・・

この先の六差路で、しばしうろうろ・・

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約200mくらい進むと幅広の道に出、すぐ右手が六差路の清本町10交差点。

方向的に交差点向う側のV路のどちらか街道かな??

ちょと案内標識が判別し難い図でしたが、目印の八幡神社そばを北側へ抜け、

なんとかV字の右手の中山道での目印、本荘小学校前信号へ復帰出来ました。

(写真左上、道のもう一本V字の右手の道が中山道なんです)

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 小学校前信号から約300mほど行くと、左へ緩くカーブし、

街道書にも記されたCaféが営業してました。

この付近から先は、かっては多羅里(だらり)と呼ばれた「多羅野立場」で、

茶店などで餡をまぶした「だらり餅」が名物だった、と案内板に記されてます。

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しばらく歩くと鹿島町8西交差点で、渡った先に「多 羅野(だらり)八幡宮」。

天満神社秋葉神社も祀られていました。

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 先は鏡島となり、多羅野八幡宮から鏡島大橋南交差点、さらに鏡島前川南交差点を

横断し、さらに足を進めると諭田川に架かる追分橋があり、橋を渡った右側に

岐阜街道との鏡島追分碑が建っていました。

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追分橋を渡りT字路を左折して小社を見送り進むと、右側に乙津寺の入口となる

寺標が建っています。

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乙津寺は現在は臨済宗だが、「行基草創、空海再興」の伝承を持ち、

別名鏡島弘法「かがみしまの弘法さん」と親しまれ、京都の東寺、川崎大師

と並び日本三躰厄除弘法大師の一つだそうです。

国指定重要文化財の本尊は、平安前期作の「千手観世音菩薩立像」の秘仏

毎年4月のご開帳のため拝観はできませんでした。

先ほどの多 羅野八幡宮付近に建っていた案内図によれば、広い境内の裏手は

長良川で土手で、今も弘法大師の命日日に運行される「小紅の渡し場」がある

そうです。

境内の木陰をお借りしてベンチで一休み、水分補給とトイレ休憩。

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中山道に戻り足を進めると、右側には鵜飼で有名な長良川が迫り土手が見えてきます。

「すこし涼しくって助かりますね」と言葉を交わし、京方面から江戸を目指す

今日初めての旅人とすれ違いました。

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古民家を利用したカフェを過ぎ、右側に拝殿が寛政6(1794)年に建立された

神明神社、さらに約300m歩くと、祭神が菅原道真の北野神社が祀られ、

この付近は旧湊村の鏡島湊があって賑わっていた地域であったそうです。

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 しばらく先分岐の右側の南無地蔵尊を過ぎ 長良川土手道に出て上る先右側に

「鏡島湊跡」標柱と解説パネルが建っている。

「湊村は伊勢湾に通じる舟運があり、対岸の「河渡の渡し」も控えており

大変賑わった」と記されてます。

享保14年(1729年)の鏡島村差出帳によると、
家数297軒、人口1345人と記録されていて、長良川対岸の河渡宿よりは
規模の大きな集落であったようです。

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江戸時代には「河渡の渡し場」があり、長良川を越えて江戸から54番目の河渡宿

入ったのですが、明治14年(1881)に橋が架けられ、現在の中山道は、

土手道へと登って行き、河渡東の交差点を横断し長良川に架かる河渡橋の左側を

渡ります。

(先の遠い山並み一番奥は、伊吹山か!)

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右手加納宿岐阜市)方面の三角山は金華山

やあ、岐阜城が見えている!!

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長良川の中間付近で下流の川面を見ていたカミさんが「なにか水鳥がいる」と。

デジカメをズームしてみると「鵜」が一羽漁をしていましたが、突然橋桁の下から

グループを組んだ鳥の大群が次々飛来! 

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岐阜の長良川の鵜飼いは有名ですが、あの鳥は「ウミウ」だそうですが、

これだけの野生鵜はカワウでしょうね。

付近が漁場なのか着水とともにすぐ潜水のくりかえし。

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かなり魚影も濃いのでしょうか、アオサギ、シロサギも後追いで飛来し、

おこぼれ漁をするのか鵜の漁を見守っている。

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長良川は昔から川漁も盛んで、鮎の放流などにも力を入れてるようですが、

う~ん、難義なことですね~

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しばらく漁を眺め、鵜も移動し始めたので旅を再開です。

橋の中ほどの標識は市境と思ったら、「これより岐阜北署管内」とあり、

逆側は、「これより岐阜中署管内」とある。

警察の管轄縄張り標識?? なぜかな~

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400m強の橋を渡り、街道書ではフェンスの切れ目から土手下へ下る、とあるが

鎖が張られ降りられない。

(旅人の紀行文を読むと、結構鎖を越えて下ってる記述が多いです)

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と思ったら今は少し先に鉄骨階段が設けられ土手中腹へ降りられる。

階段を下り進むと、左土手にフェンス切れ目から降りてくる草道跡が残っていた。

進んで土手上の道へ上がり先へ200mほど行くと、

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小社が祀られた左手の長良川付近が「河渡の渡し」跡へで、中山道はで右手へ

今は石段を二つ下って河渡宿へと続いてゆきます。

江戸時代、中山道は対岸の「小紅の渡し」付近から長良川を渡って、

現在の河度橋のすぐ下流河渡宿の河渡の渡し」場へ向かっていたようです。

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 石段を2回下り、土手下の道を横切り道なりに約40m直進すると

右角に「三面六臂馬頭観音」を祀る堂、河渡大燈籠が建つて十字路へでます。

(像や灯篭は新しそうでした)

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十字路を左折し進むと再び土手下道となり、土手下道を約140m先の小社を祀った

五差路を、再び現れた緑色の中山道標識にしたがって右折しまします。

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右折して約80m歩くと少し鄙びた家並み、左側に「中山道河渡宿」碑、

碑左側面に「一里塚跡」と刻まれここが日本橋から107番目の一里塚跡。

正面奥の小社「松下神社」が祀られていました。

長良川と糸貫川にはさまれ何度も洪水に苦しんだ河渡宿だが、1815年(文化12年)の

大水で宿の大部分が流され、幕命により美濃郡代官・松下内匠堅徳が5尺(1.5m)の

土盛し防水対策を講じたのを 宿の者が感謝し、松下神社として祀ったという。

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(英泉画・河渡宿は長柄川(長良川)の鵜飼船を描く「河渡 長柄川鵜飼船」。

鵜匠たちは捕獲した鮎の大半を尾張藩に上納させられ、尾張藩はその一部を

鮎鮨にして、何と!、東海道をたったの”4日間”で、江戸まで運んで将軍家に

献上したそうです。

4日間!!う~ん、我が旅は・・・・・ 

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河渡宿は江戸から百六里二十七町、54番目の宿で、
宿人272人、家数64軒、 本陣1軒、脇本陣無し、旅籠24軒、
家数は安中宿とともに中山道の宿場では最も少なく、人口も鵜沼宿細久手宿
次ぎ3番目に少ない小規模な宿場である。
長良川の渡しを控えた宿場であるため、小規模の割には旅籠数は24軒と平均の27軒に近い軒数を有している。川留めのときには旅人が宿泊して賑わったというが、それ以外の時は宿泊客も少ない鄙ひなびた宿場であったという。しかし、長良川の船着場であったため、コメ、塩、木材等の物資の集積地として栄えたそうである。幕府領の宿場であり、天保14年(1843年)の記録では、商店が35軒余あり、旅人にわらじ、草履、菓子等を売っていたという。
残念ながら第二次大戦による焼失や長良川河川改修によって、往時を偲ばせるような
旧家は一軒も残っていませんでしたね。

河渡宿案内文より)

こんなほほえましい河渡宿の紹介板がありました。

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一里塚跡から約270m歩くと河渡2交差点で枡形があって、この付近が

河渡宿の京(西)口跡となり、その先天王川(旧柚木川)を往時は徒歩で渡り、

(現在は慶応橋で)河渡宿を後に、正午12時に岐阜市から瑞穂市に入りました。

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旅は続きます、