歩いて再び京の都へ 中山道69次夫婦歩き旅 第28回    野尻宿~三留野宿、妻籠宿、馬籠宿 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

*角を右折し野尻駅にて、PM3:20、第27回の歩き旅は足を止めました

 関東甲信越はすぐに早めの梅雨入りとなりました。*

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早1ヵ月を過ぎ短い梅雨も明け後の夏日続き。

大変な災害を引き起こした豪雨。

被災地の皆様へ、心からお見舞い申し上げ声援を送る日が続いてます。

この間に1年経過、腎臓、心臓、腹部動脈、3年経過、肝臓と、経過診察が続き、

7月の10日にて、ありがたいことにすべて経過良好で決着。

 

天気予報はどうかな?

三連休は猛暑様相だが、「木曽路は山の中、足を進めてみましょうか」の

カミさんの決断?で急遽宿の手配。

当初は3泊4日で歩きは中2日、約30kmを計画したが、猛暑を考えて

2泊3日で足を進めてみて、歩く距離は当地で判断に切り替え、

急ぎ一部宿を手配しなおしをして、14日~16日へ ”行くぞ~”

 

ここまで和田峠越え以外は、早朝マイカーにて出発し日帰りの繰り返しで

足を進めてきましたが、さすがに300km越え往復10時間では、

日帰りは難しくなってきました。

 

7月14日(土)、いつものように早朝出立。

圏央、中央道と走り、伊奈から権兵衛峠越へをして前回足止めの野尻駅前へ

AM8:30到着。  う~ん、朝から猛烈な暑さです。

すでに国道19号の温度表示は27℃でしたね。

 

江戸から40番目、野尻宿を旅立ちし、足を進めるのは、

 41番目、三留野宿(2里21町10.1Km)

 42番目、妻籠宿(32町3.5Km)

 43番目、馬籠宿(2里0町7.9Km)

 44番目、落合宿(1里5町4.5Km)

 45番目、中津川宿(1里0町3.9Km)

 まで、約30km(約8里弱)だが、さて、どこまで足をすすめられるかな?。

 

AM9:00、野尻駅前にて恒例の旅立ちショット。

いざ、出立。

ガンガンに凍らせて持って来たペットボトル飲料と水を三本、腰とリックに。

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野尻宿は、江戸日本橋から79里24町(312.9Km)

天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によればは家屋108軒。

うち本陣・1、脇本陣・1、旅籠19軒で、宿内人口は986人でした。

宿並は明治27年(1894)、昭和18年(1943)の大火で焼失し、

江戸の遺構はほとんど残ってはいませんが、防備上に設けられた「野尻の七曲り」

と言われる曲がりくねった道筋や道幅に街道らしさが残されています。

駅前から坂道を少し上ると、正面に「旧旅館庭田屋」があり中仙道に入ります。

大桑村の案内によると、昭和53年公開の第22作

男はつらいよ、噂の寅次郎」のワンシーンに出ている旅館だそうです。

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正面の風情ある庭田屋を見て、右手の西方向へ足を進めます。

14日、15日は野尻宿の西、山の手方向に鎮座する、須佐男神社例祭があり

赤い祭提灯が街並みを飾っていました。

 須佐男神社の総本山は、京都市東区祇園町の八坂神社と言われてるようです。

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宿の入口に東の「はずれ」がありましたが、宿の終りもやはり「はずれ」で、

 七曲りの最後の左手に建つ西村家は、屋号を「はずれ」といいました。

ここが野尻宿の西のはずれ(京口)です。

(屋号札は掛かっていなかった)

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宿場を出、道は橋を渡りY字路を右手、下在郷旧道へ入ります。

f:id:hansui:20180718105853j:plain先を行ってたカミさんが、指さし呼んでいた玄関わきに

珍しい綺麗な変化咲き朝顔の鉢がありました。(変化朝顔だと思います)

変化朝顔の栽培は江戸時代にブームとなり、盛んに栽培が試みられていた

そうですが、今は絶種寸前で非常に貴重なもの、と何かで読んだ記憶がありました。

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足を進めると、左手下在郷公民館の所に江戸日本橋より七十七里目、

「下在郷一里塚跡碑「」がありました。

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渡った左側に野尻宿碑が建つ、下在郷橋を過ぎると、おや!前方からピピッピ

とワッツショイの楽しそうな子供の声が聞こえてきます。

いや~いいですね~、夏祭りです。

わっしょいワッツショイ・・しばし足を止めて掛け声を上げました。

 

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神輿を見送ってすぐ左手に、奥に秋葉常夜燈が建つ小屋掛があり、

神輿はここから出たようでした。

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正面に三角おむすび・飯盛山を見ながら足を進めます。

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道なりにしばらく歩くと分岐があり、いったん国道に接近し右手は

<旧第3中仙道踏切>で、ここでは踏切を渡らないで山のへりに沿って、

国道と線路の間の道を100m程進みます。

 

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線路左手沿いをしばらく行くと、<第13仲仙道踏切>があり、

ここで線路を木曽川側に渡ります。

(あら、さっきは第三仲仙道踏切だったわよ?てカミさん。なぜでしょう?)

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本来の中山道は踏切を渡らずまっすぐ(しらなみ坂)を行くのだが,

いまは消滅してる由。

JR中央線の特急が猛スピードで通過し、ひと時の涼風が吹き抜けます。

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 右手は木曽川の「読書ダム」ですが木々に遮られ見れません。

「どくしょ」ダムではないのね?「よみかき」ダムというのね。てカミさん。

そうなんです、学問の謂れというのではなく、なんと

「よ」かわ(与川)「み」どの(三留野)「かき」ぞれ(柿其)が合併し、

地名を併せて「よ・み・かき」と称し漢字を当てはめた、街道書に在りました。

対岸に今回満室で泊まれなかった、阿寺温泉フォレスパ木曽が望めます。

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先でJR中央本線を第14仲仙道踏切で横断します。

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踏切を渡り勝井坂を国道19号へ向かって上っていく。

この時間帯、1時間に1本くらいしかない普通電車がカタコト過ぎて行きました。

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先は「新茶屋」と呼ばれていた集落があったと街道書にはありますが、
古い集落は残っておらず、大きな家が一軒建っていた。

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しばらくすると旧道は国道19号線に突当ります。

ここを右折し、街道は国道の向こう側に見える白いフェンス沿いの坂道へと

続いてゆきます。

この分岐点には中山道道標「左 野尻宿/右 三留野宿」があります。

この少し手前で失われた中山道と合流していたようですが、

痕跡を感じることは無かったですね。

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八人岩沢を下横橋手前で南木曾町(標高489m)へ入り、

ガードレールの切れ目から国道を渡り、

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十二兼の上り坂を進みます。国道との出会いが右下に見えてます。

本来の旧道は江戸方面から出会を直進し、八人石沢の左岸を進み先で沢を高巻し、

このヘアピンカーブに戻ってきていたそうです。

沢からの風の通り道かな、さ~と涼しさを運んでくれますね

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坂を上り切って左に回り込むと、かつて立場であった十二兼集落へと入っていく。

左手の石垣段上に「八人石の二十三夜様」と呼ばれる、石仏石塔が祀られています。

文政2年(1819))建立の馬頭観音、宝暦10年(1760)建立の観音像、

弘化3年(1846)建立の廿三夜塔等の石仏石塔などがあります。

かっては何らかの祠もあったかな?

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十二兼村は立場で、牛方の往来で大いに賑わいていたといわれます。

こんな小さな流れ落ちでも回るのね~・・てカミさんがしばし見入ってます。

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そうそう、木曽路でよく家の出入り口の軒下に掲げてる札「立春大吉」て

なんでしょう?と、ちょと調べてみると

立春は節分の翌日、かっては新たな年の始まりとして、禅寺で曹洞宗のお寺で

立春の日に「立春大吉」と書いた御札を門に貼り、厄除けにすることがあります。

そのお寺の檀家となっている家にも『立春大吉』の札が配られます。

厄除けの習慣なのですが、なぜ「立春大吉」が厄除けになるのか?

立春大吉」の文字を、縦書きにしてよく見ると左右対称になっています。

表から見ても裏から見ても、同じように読めます*
*昔、鬼が玄関から入ろうとした時、立春大吉の御札を見かけました。

 門をくぐって振り返ると、同様に立春大吉の文字。

 鬼は「まだ門をくぐっていなかったのか」と勘違いして、外へ出てしまいました。
 この言い伝えから、立春大吉の御札を貼っていると、一年を無事に過ごすことが

 できるという意味を持つようになったと言われています*

とあって、1年の厄除けお札だったのです。 

なるほど、木曽路は禅寺が多かったですね。

ちなみに、伊勢の赤福では「立春大吉餅」というお餅を販売してるそうです。

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先に進むとスグ先の左手に天保13年(1842)建立の天照皇大神宮常夜燈が

あり、村内を先に進むとY字路になり右の下り坂に入り、この分岐点には手造りの

案内標識「木曽路→」がありました。

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下り坂を進むと左脇に鳥居が見え神社の脇に出、「八釼神社」「熊野神社」の

石碑が立ち、石段段上に熊野神社が鎮座しています。

集落は牛方の崇敬が篤く、社殿には牛方が奉納した牛の絵馬を残しています。

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さらに十二兼旧道の急坂を降りると、先ほどの神社の石階段参道があるが、
危険なのか通れないようにとしてあり、その先で国道19号線の十二兼北交差点に

出ます。

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 ここで旧中仙道は国道と鉄道を越えて、木曽川沿いへと続く十二兼集落へ

でるのですが、国道は信号があり渡れても、鉄道は厳重に封鎖されていて

越えることが出来ません。

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持参街道書には、左側に見えるトタン屋根の所から水路のトンネルに仮設された

歩道を通るとあります。

沢の水を国道、と線路下に逃がすためのもので、その中に仮設通路を作ったものです。

(増水時などは潜るのが難しい時には、国道を右折して100m位戻る方向へ

 歩いた所に踏切があり、迂回しても街道へ合流できるようです)

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水路のトンネルを出て国道、線路を潜った先は、立場で賑わったという十二兼で、
近くにはバス停や公民館も見られ、そのまま鉄道に沿って左に進むと、
左手にはJR「十二兼駅」がありました。

丁度松本方面行きの電車が到着し、数人のハイカー姿の方々が降り立ちました。

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付近には十二兼の一里塚があったそうですが、国道及び中央線の敷設に伴い

消滅してしまい、街道書では駅の向こう側の国道19号線側に一里塚の跡碑が

あると記されています。

駅構内の跨線橋でJR中央本線を跨ぎ、国道19号線に出、京方面に進むと

十二兼南交差点手前の左手に一里塚の跡碑がありました。
 かっては南塚の塚木は榎二本、北塚は松一本の江戸日本橋より七十八里目です。

気温は30℃を越えました。

こまめに水分補給と塩飴を口にします。

そして少しでも日陰を選んで足を進めます。

熱風の中にもす~と、涼風が吹き抜けます。

川の近く水の有るところはやはり、涼しさがありますね

(つかの間ですが有りがたい)

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 右下の旧中仙道を先ほどの電車で着いた親子3人の旅人が、西へ向かって行くのが

見えました。

駅での会話で、親子たちはこの先は妻籠宿までむかうそうです。

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一里塚の先のフェンス切れ目から、線路沿いを戻り再び旧中山道を西へ向かいます。

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JR中央本線に沿って木曽川沿いをしばらく進むと、右手に柿其(かきぞれ)橋が

見えてきました。

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右に木曽川に架かる柿共橋からは、「名勝南寝覚」と呼ばれる景観が広がっています。

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すぐ近くは中川原立場跡で、秋葉神社碑があり、明治天皇が巡行の折り休んだ、

明治天皇御小休所跡」や「中川原御膳水碑」碑が建てられている。

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旧道は道なりに進むと柿其交差点にて、国道19号線に合流し、

左手に津島神社碑があります。草陰にゲンノショウコかな?

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国道に合流した街道は、左手山裾の鉄道、右手は木曽川沿いとなり、

日は頭上高く熱射を遮るものがありません。

時おりに木曽川を渡る川風はありますが、舗装の輻射熱もあって、かなりの暑さです。

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かっての木曽川沿、島崎藤村の「夜明け前」の冒頭部分

木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたひに行く崖の道であり、

 あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり・・・」

 というのはこのあたりを描いているといわれる。

羅天から与川渡間は、山間も狭い断崖が木曽川に垂直に落ち込んだ、

木曽路最大の難所といわれた「羅天の桟道跡」で、慶安元年(1648)に

開通しましたそうです。

木曽路名所図会には

「野尻より三留野までおよそ二里半、道は深き木曽川に沿い、せまき所は木を切り

 渡したかずらにてからめて、その巾をおぎない馬にも乗りがたき はなはだ危うき

 ところあり」

   と記されています。

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現在ではそんな険しい道だったとは想像もできないような、整備された国道を

木曽川を見ながら歩いて行きます。

後で三留野で休んた時に聞いたのですが、先日の超豪雨の際は、

木曽川は水嵩が道路ぎりぎりまでになり、注意報が出されていたそうです。

(来し道を振り返り)

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この難所は大雨が降ると水害で度々通行が出来なくなったので、野尻から山中を通り三留野に至る「与川道」が迂回路として造られてます。

街道を進むと木曽川に注ぐ与川があり、この与川の上流で高巻きした与川道が

三留野に通じていました。

国道を横断しJR中央本線ガードをくぐると、左手の段上に

与川度(よかわど)の石地蔵が祀られています。

天保15年(1844)に発生した蛇抜け(土石流)で犠牲になった人々の霊を弔う為に尾張藩が弘化二年(1845)に造立したものです。

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 国道に戻り先に進むと、右手に牛方の集落だった金知屋(かなちや)村があり、

短い砂利道の旧道に入ります。

村内には江戸日本橋より数えて79里目、金知屋の一里塚が有ったそうですが、

今は位置が不明になってるようです。

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国道19号線の歩道を進むと、妻籠5.5kmと書かれた標識があり、

さらに先で国道を左手に横断し、30分ほど歩いた国道から、

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県道264号南木曽(停)線の三味坂に入ります。

(国道の気温計は32℃を示してました)

三味坂右手の眼下には木曽川の景が広がります、これにて木曽川とはしばらくの

お別れです。

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坂を上って左手に馬頭観音を見て、JR中央本線ガードをくぐり、道なりに左に曲がると三留野宿にの入口です。

宿場と反対方向左手から下ってくる「与川道」が合流した与川道追分で、

馬頭観世音文字塔があり、左の上に神社があります。

 神社の日陰で一休みし、下って江戸から41番目、三留野宿に入っていきます。

(12時12分、宿内の街道筋は食事処が無いようなので、神社の木陰石段を

 お借りして、いつも持参の健康補助食品にてお昼タイムに。

 吹き下ろす風が意外に爽やかで、涼しい)

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 この地には木曽氏の館があり御殿(みどの)と呼ばれ、「三留野」の地名由来と

しています。

天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によると、

三留野宿の宿内家数は77軒、本陣、1、脇本陣、1、旅籠32軒で、

宿内人口は594人でした。

街道書には、

木曽路屈指の難所羅天の桟道を控えて旅籠は多かったものの、宿場の規模は

 それほど大きくなく、「宿悪しく、わびしき所」といわれました。

 宿並は度々火災に見舞われ宿長は当初より25間も短くなり、

 明治14年(1881)にも火災に見舞われましたが、国道から外れている

 ために 古い家屋を今に残しています。* 

 とあります。

宿並には出桁造りや卯建をあげた旧家を残し、家屋には旧屋号札を掲げています。

祭礼の幟が立ち、道筋には祭り提灯が飾られ、三留野も東山神社の祭礼日でした。

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宿並を進むと左側に宮川家が勤めた脇本陣跡があります。

宮川家は本陣の鮎沢家、問屋の藤野家と宿の指導的役割を担い、

三留野村の庄屋を兼ねました。

(現在も宮川家の方がお住まいのようです)

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次いで右手は鮎沢家が勤めた本陣跡です。

皇女和宮は十三日目の夜を鮎沢本陣で過しました。

 明治天皇は明治13年(1880)巡行の際、中川原で休息した後、

鮎沢家(旧本陣)を宿泊所(行在所)としました、明治天皇行在所記念碑が

あります。

旧本陣建物は三留野大火災で焼失してしまい、今は南木曽町森林組合

事務所となっていて、庭木であった枝垂梅(町の天然記念物)を残すのみです。

(白い建物の左)、

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 本陣、脇本陣などがあった宿町中心を過ぎると、道路わきに唐突に現れる

右手ガードレール切れ目の細い階段を旧中山道は降りていきますが、

寄り道の為階段は下りないですこし先へ進みます。

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先に進むと左手に曹洞宗日星山等覚寺への道標があり、坂道を上って立ち寄りします。

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 風格ある仁王門をくぐると

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境内の左手に円空堂があり、円空作の韋駄天像、弁財天座像、天神像の三体が

安置されていると資料に在り、自由に拝観できるとありましたが、

、残念ながら堂内は見ることが出来ませんでした。

円空は美濃の生まれの江戸初期の行脚僧で、一生に十二万体の仏像を造ることを

発願し、貞享の頃三留野に滞在し造像に励んだと言い伝えられてるそうです。

(右仏像はパンフより)

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 等覚寺の側を山側に上る参道があり、奥に祭礼の三留野鎮守・東山神社がありました。

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一説では、三渡野(三留野)として広重が描いたのはこの付近からといわれ、
左手に宿並、右手の小山の上に東山神社の鳥居、そして手前に麦畑を描いています。

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等覚寺への坂道を下り、街道へは戻らず左手に祭りの太鼓台?が置かれた

路を進むと、細い階段を下っての街道と合流しました。

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街道へ戻って50mほど行くと梨子沢を渡りますが、ここは平成26年7月、

記録的な大雨により梨子沢川で蛇抜け(土石流)が発生し、大きな被害が出で、

2年前に復興竣工したところです。

先日来西日本を中心に、記録的豪雨による災害が各地で発生していますね。
一日も早い復興を心から念じるばかりです。

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  新しく架け替えられた梨子沢川に架かる梨沢橋を渡り、斜め左方向に進むと、

左手に南木曽小学校入り口の石段で、4段ほど上ったところに中仙道⇒の案内板

があり、街道は右手に民家と蔵の間を通って行きます。

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 長閑な旧道は大沢田川のT字路に突き当たり右折し、さらに先を左折して

大沢田川を渡り、先に進み北沢を北沢橋で渡ったY字路を左に進みます。

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しばらく街道を進むと右方向に入る道がありますが、左手に路を取り、

右手の眼下に三殿貯木場の遠景を見ながら行くと、左側に園原先生碑が

建っていました。

側に建つ解説板によると、

*園原旧富(ふるとみ)は三留野村和合の東山神社の

 神官の家に生まれ、 長じて京に遊学し、吉田兼敬(かねゆき、神祗管領長)

 に師事して神学を学び神学則を著し、尾張、美濃、信濃に門人多数を擁する

 大学者に なりました。

 この碑は師の死後五年目の天明元年(1781)に、学徳を慕う門人たちに

 よって建立された*

    とありました。

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園原先生碑前の変則Y字路を右に進むと、右下に南木曾駅が見え、右へ下り

跨架橋を渡るって行くと南木曾駅になります。

中山道道標は「左 妻籠宿」「右 三留野宿・与川経由野尻宿」とあります。

道標は中山道の文字はありますが、「歴史の路」案内になってます。

街道書では三留野宿の出入り口と書かれてますが、道標では確認できませんでした。

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 現在PM1:30です。

野尻宿から約11km、4時間30分を掛けて歩いてきました。

 

さて、足を進めるか、足止めして野尻へ電車で戻り車で宿の中津川へ向かうか。

電車は1時間後、2:44があるが。

気温は33℃くらいの様です。

お互いに「足は大丈夫かな?」 「体長はいかがかな?」

所持してきたガンガンに凍らせた水は1本、ほぼ氷のままに残ってます。

途中補給もOK。

この先は山道に入り妻籠宿まで約3.5km。

2時間30分を見ればいいだろう。

妻籠からの戻りのバスも大丈夫。

 

「進みましょう!」「よ~し、行こうか!」

 気力体力、まだOK、

 

旅は続きます・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 中山道69次夫婦歩き旅 第27回    須原宿・野尻宿へ 後編

 定勝寺をでて隣の水船庭のベンチでお昼としました。

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歩き旅の後編。

 

12時、20分ほどの昼食タイム後旅の足を進めます。

向かいの板塀を回した、大きな屋敷の角を右手入り足を進めてますが、・・・

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??、ここまでブログを記してきましたが、街道書と写真を確認していて

気が付きました。なんと、桝形・「鍵屋の坂」を通っていなかったんです。

直前に二人の旅人が、街からやってきてこの角を曲がっていたんです。

「あ、あそこを右だ」と桝形のことをコロッと忘れて、全く疑わずに足を進めて

いたわけです。

正しくは、定勝寺から少し戻って、写真に残してたこの「蔵」のところを

曲がるんでした。

そして「真中に用水が流れ、左右に家があるという宿場の原風景をとどめるという

中を下って行く」と記されてる道、歩きたかったな~・・

定勝寺前の水船案内図、ちゃんと見てたんだけど・・・、

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赤枠、曲がる桝形 青線、誤った道筋

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坂を下ると突き当りを左へ曲がって、大きな屋敷前を通って行きます。

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街道はゆるやかな左カーブになり100mほど先で、須原の街並みから真っすぐ来る

県道265号線に合流して、右方向に進んだ二股を左の道へと歩きます。

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二股の左手脇に、「左、野尻宿」の石柱が建ってます。

補足のように⇒で指す道筋板もありました。

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県道265号・須原大桑停車場線の緩い上り坂を行くと、中央線の第9中仙道踏切

を渡ります。

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眼下に木曽川と中央線を眺めながら長い、その名も長坂を歩いていきます。

福沢諭吉の娘婿、福沢桃介が造ったと言われる、須原水力発電所も見えてます。

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長坂が下りにかかる付近の、昔茶屋が二軒あったと言われたところは、

なんの印もありませんが、民家が一軒ありましたね。

まだバイカウツギ(写真右)が綺麗に咲いてます。

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ゆるい下り坂も線路が近づくほどに下ると、旧橋場村の案内板があり、

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穏やかな里山集落、橋場へと入って行きます。

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大桑村公民館橋場分館と、赤いポストのある所で左折し山裾を行くと、

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左手崖上の中腹に、高いやぐらの上に御堂がある懸崖造りで、本尊は馬頭観音

木曽の三大馬頭観音の一つである岩出観音堂でした。

この懸崖造りの景観から木曽の清水寺と呼ばれているそうです。

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案内パンフによると、

文化10年(1813)に焼失,須原の定勝寺19代住職により再建された。

堂内には沢山の絵馬が奉納されていてこの地方の人々の暮らしや文化を伝えている。

山側の崖に多数の石像が建ち,馬頭観音三十三観音が集められている。

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右はウツボ草、中は?? 公民館分館の十字路に戻り南へ進むと、

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伊那川渓谷が流れ、伊奈川橋を渡ります。

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英泉の木曽69次野尻宿「伊奈川橋遠景の図」はこの橋を描いたと言われます。

伊奈川は暴れ川であったため、橋桁が架けられづ刎ね橋であったことが,

この絵で分かりますね。

左手上の奥には、ちょっと判りづらいですが、岩出観音堂も描かれてます。

(旧橋場村は、この橋の築造保守担う職人衆が居住していた集落だったそうです)

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現在架けられている橋 にも橋杭が無く、往時の姿を残しているよう。

橋を渡ったT字路を伊奈川にそって、擁壁側の歩道を右手へ向かいます。

 

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しばらく坂道を上がって擁壁が石積で低くなったところで、

足元に「どっさ」と何かが落ちてきて、

 「うわ~、蛇だぞ!」えっ、と言ったきりカミさんは近寄って来ませんでした。

なんと太い大きな蛇がぎょっろと睨みつけて、素早く道端の草むらへ

動き出しました。

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普通に見られる青大将か、と思ってましたが、帰宅して写真をよく見ると、

ちょっと違う様子。

調べてみると、並んでる赤い文様などから、なんと「ヤマガガシ」の様です。

昔は飼っている人もいたようで、50年くらい前までは毒蛇と思われていなかった

ようですね。

いや~、危ないところでした。

中山道で蛇にも何回か出会ってますが、こんな足元近くに上から落ちてきたのは

初めてでしたね。

 

坂を上り切ったところで、Y字路を左へ入ると中北道標が現れ、大島という

集落へ入ったようです。

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Y字路を左方向に約220m歩くと、「初期の中山道」との分岐点へやってくる。

左側に大桑村消防団第二分団があり、その約30m先が十字路になっており、
街道書には、ここを直進する道は「江戸初期の中山道」といわれ、木曽川畔を辿る

道筋だったが、度重なる水害に遭い現在の大回りの道に付け替えられたと

記されてます。

代わりに左折する道が造られ、十字路右角に中北道標、右手須原宿(京から来て)

の石柱が建つここを左折する。左折角に水船があります。

 

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曲がって進む道は街道書を見ても、木曽川から大きく離れた山を回り込む道で

載ってます。

左折してしばらく歩くと緩やかな上り坂となり、東集落へと入って来たようです。

自転車の少年が「こんにちは!」と大きな挨拶を残して追い抜いてゆきました。

ほっと、心が微笑みますね。

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田植えも終えたのどかな里路を行きます。

左手の用水路には、こんな幟もありました。

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一気にすべての蕾が開花しような、カルミア、このブルーの花は?

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家々に巨大な葉の朴木が、1本は植えていますね。

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神社の幟柱を見てしばらく行くと分岐があり、八幡神社入口標石が建っていました。

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八幡神社入口を右手に送り、ゆるく曲がる道へと進みます。

八幡神社入口標石から100mほど歩くと、T字路になり、手前左手の段上に

大正十二年(1923)の土石流で二十六名が犠牲になった水害記念碑が

あります。碑によると土石流のことを「蛇抜け」というようです。

旧道分岐から800m程、分岐の道の左手には中北道標と「右 中山道 野尻宿へ」

「左 中山道 須原宿へ」の標石があり、右手に足を進めると東集落から西集落へ

入ります。

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右手は山裾、左手に田畑や民家が点在する、山々に大きく囲まれた、のどかな

広々とした里が広がっています。

持参街道図を見ると、何本かの川が里の中を流れ、木曽川にそそいでいるようです。

その河川が大洪水を引き起こしたのでしょうか。

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心地よい里風に吹かれながらのんびり進むと、田畑の中に寺院の屋根が見えて

きて、左山裾に道標と案内板が立つ、天長院への道が分岐してます。

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街道から左手に折れて、天長院へ向かいます。

山門石段下にいろんなポーズのお地蔵さんが迎えてくれます。

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 天長院は、もとは真言宗であったと云われているが現在は臨済宗妙心寺派

室町時代に木曽家祈願所として、伊奈川大野に創建され広徳寺と称したが、

天文年間(1540~)に武田軍の兵火で焼失。

その後文禄年間(1594~)須原の定勝寺の第7代住職により開山され,

寛文年間(1662~)に現在地に移転された。
境内山門脇に、子供を抱いた子育て地蔵があり、抱いた紐が十文字になっている

ところからマリア地蔵とも呼ばれています。

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奈良井宿にもマリア観音がありましたね。

木曽谷には隠れキリシタンが住んでいたのでしょうか。
山門下には、ばんざいをしたお地蔵さんなどユニークなお地蔵さんが並び、

思わず頬が緩みます。

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街道に戻り、山裾の道を少し行くと、道下に山からの豊富な湧水を利用した、

水場や池が見られます。

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カミさんが、わあ、面白いわよ、て手招きする先に、山裾道脇に水場から流れ出る

小さな水溜まりが見え、カミさんが草むらをトンと足踏みすると、何かが

ぴょんぴょん飛び込みます。

何匹ものカエルでした。トノサマカエルかな?

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水溜まりの草陰からのっそりと出てきたのは・・

おっ、イモリかな??いや、もしかして「サンショウウオ!!」

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(判別はつきませんね)

中山道に戻り、

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下り坂をグングン進むとY字路が現れます、左に進みます、

 

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やがて左手からの上田沢がすぐそばへ寄ってくる。

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下りきると分岐に中北道標があり、左手の道へ進み、すぐ先の斜めT字路を

左折し、上田沢を長野宿橋で渡ります。

T字路を右手へ行く道が本来の中山道で,この先で道は土石流災害で埋まり

消滅しているという。

周辺は「弓矢」という集落があり,当時は間の宿として「弓矢茶屋本陣」が

あったそうです。

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橋を渡った50mほど先の十字路を、右折し下ったた突きあたりが、
JR中央本線大桑駅で、左手に行くと大桑役場があり、大桑村の中心かな。

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そのまま直進し、ししご沢に掛かる長野橋を渡り黒塀の大きな家を見送り進むと、

 右手、田圃越に大桑駅ホームが望めます。

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JR踏切手前左側の山裾に、奉燈と記された常夜燈が2基があり、

「第10中仙道踏切」を渡って国道19号に合流します。

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国道を横断し、右折して大桑駅のところから木曽川方面へ下り、道なりに進むと

古中仙道の「大桑の一里塚」が残っているようですが、寄りませんでした。

江戸時代の中山道としての一里塚は築かれなかったのでしょうか。

国道19号線に出て横断し、左に緩やかに坂を上って行きます。

大桑の道の駅案内板が見えてきました。

もう少しだ、頑張ろう、ソフトが待っているぞ!

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振り返れば中央アルプスの山並みも見えるはずですが、雲に隠れてますね。

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坂を上り切ると右手裏手は木曽川の崖となっていて、片欄干橋(桟のようなもの)

が架けられた難所だったという。この狭い通路を利用して木曽義仲が関所を置いた

といわれるが、詳しい経緯はわかりません。

関所跡には廃墟のホテルと手打ちそば関山が並びに、奇妙な関所跡碑があります。

碑には関所跡・モーテル関山と。モーテルが独自に建てた物なんでしょうね。

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関所跡先の国道19号線右側の歩道に架かるニガ溝橋橋側歩道橋を渡ります。

「橋側歩道橋とは河川、湖沼、海峡、運河などの水面を越えるため、あるいは水の

 ない谷、凹地または、建築物や他の交通路等を越えるために桁下に空間を残し、

 架設される 道路構造物で橋長2.0以上のものをいう。」

国土交通省資料)

要するに「かけはし(梯)」に類した橋ということかな。

 

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関所跡の下をトンネルで抜けた、特急電車が駆け抜けてゆきます。

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関所跡から500mくらい国道を進み、ガソリンスタンドの手前で、

国道を左手に横断し、道の駅大桑(木楽舎)で一休み。

PM2:15

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日陰で食したリンゴソフト、気温の高い中の歩き旅の疲れを

スーッと取り除いてくれたような。

20分ほどの足休めをして街道へ戻ります。

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 のぞきど森林公園の大きな標識先を、右の国道と中央線の間の

下り坂へ入って行きます。右手草むらの中に中山道の石柱がありました。

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 線路わきは大きくはなってますが、ワラビがいっぱいです。

「頭の部分なら、まだまだ食べられるわね」てカミさん。

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 第11中仙道踏切で右手に渡ると林集落で、ばったんばったんと機械音が聞こえ、

賑やかなお喋りが、右手の建物から聞こえてきました。

集落の方々の集会所兼作業所の様です。

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先が大きく開け、中北道標の建つ分岐を、左手へとゆるやかな坂を進みます。

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振り返ると、・・もう少し前のなら雪を頂いた中央アルプスの峰々が見られる

そうですが、ちょ雲がかかってしまってます。

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第12中仙道踏切を渡って、倉坂の少し急な道を上ると、

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斜めT字路で、左・野尻宿と刻まれた道標が立ち、右手坂下には煉瓦造りの

洋館が見えてました。

左手へ行くとすぐに、右・野尻宿の道標があらわれ、さらに坂道を右手へ登ります。

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Y字路分岐から約40m歩くと、左側に南無妙法蓮華経髭題目碑があり、

台石が、触るとイボが治ると言われるイボ石で説明板がありました。

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すぐ先が野尻宿の「東のはずれ」といわれる江戸口の様で、どちらかの家が

「はずれ」という屋号札を掛けているそうですが、見落としたかな?

(さっきの「いぼ石説明板」のところが高札場だった、との説あり)

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立ち寄りませんが、野尻の七曲りの道を行くと、左手に上る細い参道の国道を

横断した山側に、「妙覚寺」があります。

資料によれば、

臨済宗妙心寺派の古刹で須原定勝寺の末寺。 およそ700年前の創建とされて

 いるが,火災で焼失後,寛永元年(1624)に再建された。「鐘楼門」は

 1726年の建立,「本堂」は天保3年(1813) の建立,「観音堂」は

 安政3年(1856)の建立。 観音堂の左手奥に 天保3年(1832年)

 建立の「マリア観音」が安置されている。

 千手観音の右手には錫杖(しゃくじょう),左手に持った宝激(ほうげき)に

 紛れて十字架のようなものを高く捧げている。石仏の裏には「天保辰年」の

 銘が刻ま れていて,キリシタン禁制の時代にひそかに造られたものである。

 木曽川右岸の「野尻向」に在ったものを昭和46年(1971年)に現在地に

 安置された。」

(次回、野尻宿旅立ち時、寄ってみたいと思ってます)

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参道角の右手に常夜燈と祠がありました。

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中仙道の石柱を左手に見て、野尻宿の宿場街並みへと入ります。

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野尻宿は左右にくねくねとうねる街道筋に家々が軒を連ねる町並み。

この宿場を貫く道は「七曲がり」と呼ばれ、先を見通せないようにすることで

外敵の進入を防ぐ目的があった。 

真っ直ぐに通りを約30m進むと、左側に本陣碑と明治天皇御小休所碑が建って

いました。

本陣は森本家が務め問屋も兼ねていましたが、建物は明治27(1894)年の

大火で焼失しまったそうです。

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本陣から約30m先の右側に問屋と庄屋を兼ねた脇本陣があり、現クリーニング店の前に跡碑が建っていました。

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野尻宿は、江戸から77里6町47間,日本橋から40番目の宿場。

古くから集落が形成されていて,以前は「野路里」と書いた。他の宿駅と同じく

駅伝制度が出来た慶長6年(1601)に宿場として整備された。

宿は現在の大桑村南端にあり,木曽川左岸の段丘上に位置し,上町・仲町・下町・

荒田町となっており,荒田町の端に「はずれ」という屋号をもった家がある。
宿建人馬は25人,25頭で,不足の場合は下4宿(野尻・三留野・妻籠・馬籠)

共有の助郷制度で賄われた。

江戸時代に2回(1791・1824),明治27年(1894)に大火で,

宿場の大半が焼失し,さらに昭和18年(1943)の火災で追い打ちをかけられ

,昔の面影はほとんど残っていない。
街道の姿をわずかにとどめるのは,格子窓と低い軒並み。「七曲り」と呼ばれる

曲がりくねった街道筋(現県道261号)と「枡形」で外敵から町を守る町並みが

特徴的である。

 人口986人(男:490人 女:496人) 家数:362軒 本陣:1 脇本陣:1  問屋:2 旅籠:19 

(以上街道解説より)

 

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交番(写真右)を過ぎて,御大典記念碑から約30m歩くと、

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左側に宿場の雰囲気が漂う旅館庭田屋があり、

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倉本駅から約14km(3里半)、夏日になりましたが、木陰は爽やかで
今日もいい歩き旅。

江戸より77里6町37間(303.1Km)、京都より58里26町55間(230.7Km)、

一歩一歩京の都が近づいてます。

 

角を右折し野尻駅にて、PM3:20、第27回の歩き旅は足を止めました。

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帰りは権兵衛峠は通らずに奈良井を通り、塩尻から高速道へ入り、

多少の渋滞は有りましたが、8時30分帰宅で、旅はおわります。

 

帰宅後すぐに関東甲信越は梅雨入りでした。

次の旅路は天気予報と睨めっこしながらかな。

 

 

 

歩いて再び京の都へ 中山道69次夫婦歩き旅 第27回    須原宿・野尻宿へ 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

途切れていた信濃の国・和田宿、下諏訪間の中山道最大の難所と伝えられる

和田峠を5月25日、無事越えることが出来、街道を一本に継ぐことが

出来ました。

旅というより山登り、で翌日は足はパンパンに張ってましたが、

こんな時は、もっと歩いたほうがいい、と変な理由をつけて、

余勢を駆って、木曽路の街道旅へと出かけます。

6月2日(土)

目覚まし無しでも予定時刻に起床、洗顔を済ませ即マイカーを駆って出発。

中央高速諏訪SAで諏訪湖を眺めながら、ワンタンメンで朝食に。

そのとき、衝撃的な事が起きました。

湖畔を眺める窓際に腰を据えていたのですが、軒下に燕の巣があるらしく、

数羽が飛び交い出入りしていて、そこへカラスが一羽やってきて

フェンスに止り、軒下を見上げてました。

突然カラスが飛び上がり、軒下へ・・なんと、巣からヒナを咥えて飛び去ったのです。

すぐ燕も数羽追いかけて行きましたが、・・・

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AM8:55

長野県、木祖の野尻駅前到着。

イカーを置かせていただいて前回足止めの二駅戻った倉本駅を目指して

AM8:26発の電車に乗りました。

なんと、ホームで出会った東京の御夫婦も、倉本から野尻までを旅する方でした。

前日、木曽福島から歩いて、上松の目覚め床の宿に宿泊したそうです。

ご夫婦も継ぎ足し歩きで中山道を歩いてるそうで、私達と同じく難所の峠越え、

碓氷峠和田峠は飛ばしたりしていたそうでした。

碓氷峠越えの話しでは交通や宿の問題から、某社の街道旅ツアーを利用されたが、

大雨に有ってしまい下着までずぶぬれで、えらい目に合った難儀な旅だった

と話してましたが、これも思い出峠越え、楽しそうに語っていたのが印象的でしたね。

 

(5月5日第25回足止め)

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お気をつけて、と倉本駅でご夫婦は先行し、私たちは前回足止め地にて

出発ショット。

今日の道筋、倉本駅前から約6.5kmの江戸から39番目、須原宿
その先7.5kmの40番目、野尻宿まで約14km(約3里半)です。
AM8:50、27回目の街道旅に足を進めます。

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 中央線を潜り東側へ抜け、ヘアピン状に曲がりながら、緩い坂道を上って行きます。

左手に先ほど下車した倉本駅にホームが見えてます。

曲がり角の標識は「←登山道 空木岳・木曽殿」で中山道の文字は有りません。

中央アルプスへの登山口だったんですね。

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鉄道で分断され大きく迂回してしてますが、本来の中山道へは倉本駅

福島寄りを通ってくる、左手(写真右)からの道に出会い旧中山道が復帰します。

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消滅していた旧中山道が復活し、少し先は左手に道筋も見えない、草茂る空木岳

の登山道が有りました。

空木岳は、木曽駒ヶ岳の南方、中央アルプスのほぼ中央に位置する百名山

中央アルプスでは木曽駒ヶ岳に次ぐ高峰で、標高は2864m。

ここから約10時間以上かかるそうですが、ちょっと厳しいコースですね。

下山に使われることが多いのでは。

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雪の下が可愛い顔を覗かせてます。

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屋号らしき札が掛かってますが、意味が??

屋号でなく表札?上の矢高さんもあるのかな?

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旧道らしいのどかな道を行きます。

竹林のところで左に曲がると、斜面上に天王様の石仏群とも呼ばれている

牛頭天王」と刻まれた文化6年(1809年)建立の常夜燈、その後方に

享保12年(1727年)建立の「除三尺之罪」と刻まれてた庚申塔が建ち説明板が

ありました。

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「除三尺之罪」の判りやすい解説板ですね。

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その先で道標に導かれ、右の心地よい草道を下りて行くとすぐに、大沢川の

ほとりに出ます。f:id:hansui:20180604061014j:plain

旧道は30m程左から大沢川を跨いで、国道19号線のももやま商店付近に直線的に

あったが、今は橋もなく通れないので、右に行って鉄道鉄橋下を潜り国道へ出る。

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交通量が多くて、向こう側には渡ることが出来ませんでしたが、暫らく行くと

国道右手の家の脇に、木々に囲まれれて江戸より74番目、倉本一里塚の跡碑が

確認できました。

ここも地域は上松で、上松内で北から四番目の一里塚。

一つの町村で四つも一里塚がある(沓掛・上松・萩原・倉本)のは上松だけ。
もともとは現在地より南へ20mほどの地点に左右両塚があったそうです。 

白色壁の民家が資料にあった「一里塚」を屋号とした家の様です。

ちなみに、この辺は皆屋号が残っているそうで「上の茶屋」「下の茶屋」という

屋号の家が残っているそうです。

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すこし先の池の尻信号で国道と分かれて、右斜めに通称、金吾坂下りて行く。

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 右に入ると池の尻集落で往時「池の尻立場」があった場所です。 

家々は屋号札をさげていると街道書に在りましたが、これも屋号かな、

「梅のぼく」「一家」「池尻の大屋」「すみれ」

何を商っていたのでしょうか???

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右手遠くに白い桃山発電所を眺め、f:id:hansui:20180604110011j:plain

少し進むと街道は左手へ分岐し、やがて坂の草道を上がって行きます。

左手の小さな畑に植えられていた花は「なんの花」かな??
ラッキョウにも似てますね。 行者ニンニクかな?f:id:hansui:20180604110440j:plain

右下に養殖池を見、廃墟となってるドライブインの脇を抜けると国道19号線に

合流します。

直ぐに境の沢橋があり、右側に標高(588m)標柱が建っていて、

この橋が上松町と大桑町の境で、沢橋を渡るとここから大桑町に入ります。

和田峠の1600mから、1週間ごに1000m下って歩いてるんですね。

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 のんびりと境の沢橋から、合流した国道右手を約200mほど行きます。

この付近からくるみの樹が多いですね。

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右側に木曽のお酒木曽路の大きな看板

(なぜか西向きで、京側からしか見えません)

   が建ち国道左手に細い道が通っています。

その道が街道書にある、エドヒガン桜旧道の東口痕跡のようです。

街道書では、

*左手へ国道を渡り、中央線を跨ぐ、草道にから・・うんぬん・・進む・・

と「エドヒガン桜旧道」のことが記載されてますが、

「但し、JR中央線の横断は禁止されてます」との記載はあり、実際に線路際に

 禁止看板も建ってます。

(線路がカーブしているため運転手からも見えないそうで、本数は少ないとはいえ

 確かに危険な道筋ですね。旅人は結構渡ってしまうようですが)

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エドヒガン桜旧道へは入りませんでしたが、線路の東側には上郷集落があり、

養殖池などがあるようです。

ちなみに資料によれば、

大桑村天然記念物 樹齢 不明 樹高 13.5m 幹周5.8m、

「国道からはずれた旧道は、木橋で沢を渡り往時の旅が偲ばれる。その街道脇に

エドヒガンの古木がある。昔からこの木の下を行き来する旅人を見てきた古桜だ」

とあります。

(資料写真)

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国道にコミュニティーバスの停留所がありました。

この路線にも大きそうな病院名があります。

乗合タクシーバスもあるようで、今日は土曜日、運休日でした。

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バス停から200m程行き、阿寺渓谷標識の建つところからの右手の道が

街道です。

木曽川沿いを5分ほどで国道へ合流すると

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道の左右が擁壁状になっていて、両側の擁壁の高さからして国道19号線は

堀切道で、右手の擁壁上の土道が本来の旧道痕跡の様ですが、草が生い茂っている

ため、止むなく歩道のない国道端を歩きます。

すぐ先、左手の擁壁上に見事な枝垂れ桜が聳えています。

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歩道がなく日差しも強まったので、日陰の多い左手に渡り、車に注意しながら

足を進めます。

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道端にはクルミの樹が多く見られ、手の届きそうなところに実がなってます。

実りの時に旅したら、くるみ拾いをしながらあるけそう。

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こんなの探しながらの旅歩き、楽しいですね~

何故かオダマキ、もの凄い花付き、ナルコユリマムシグサかな、いい姿

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国道を800m程進むと名古屋119kmの距離表が現れ、

左手に「神明社、夫婦杉」の小さな看板とが鉄路を潜るトンネルがありました。

距離とタイムを目的にした旅でしょうか、単独行の旅人が、わき目も振らず

急ぎ足で去って行きました。

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トンネルを抜けると左手に神明社の石の鳥居が建ち、右手に巨大な杉が

立ってます。

さらに鳥居をくぐり境内の石段左手に、これまた超巨大な夫婦杉がありました。

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大きいですよね~、夫婦杉を含め3本の大杉を見ることが出来ました。

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 夫婦杉入口から100mくら行くと、左手土手上に車道のガードレールが見え、

「糸瀬山登山口」の看板が建っています。

看板下の草道を上がって車道に出ますが、車が入れるのは40mほど先からです。

現在、先ほどのエドヒガン桜を見るにはこの道から入って行くそうです。

(相当の戻り道にになるので、立ち寄りしません)

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すぐ先が猿沢橋。橋の側の温度計は28℃・・わあ!渡った瞬間、29℃表示に!

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猿沢付近から須原宿手前までかっての中山道は、エゲ坂の旧道と言われる道が、

山道として僅かにその体裁を保っているそうですが、長い期間ほとんど人が入って

いなため藪に阻まれ、廃道と化してるのだそうです。

猿沢橋から200m程国道を行くと、歩道案内板が建ち、左手中央線と国道の

間の側道へ街道は続いて行きます。道脇に中山道石碑も立ってます。

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右下に国道、さらに右下は木曽川の流れ。

鉄道線の擁壁や木々の茂りもあって日差しが遮られ、ちょっと嬉しい側道です。

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 側道を500mほど行き、民家の先の宮の沢橋を渡り国道へ合流し、

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さらに 約100m進むと国道から左手に分かれる分岐があり、

「左 中山道 須原宿へ」 と刻まれた標石が建ってます。

その後ろの伸び放題に繁った草木の中に隠されて、「須原宿の街並み案内」や、

「水屋の里・須原」等の案内板が建ってます。

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ちょっと左側に回ると、草に埋もれて、江戸より75番目の「須原の一里塚跡」碑が

ちょこんとありました。

「あれ、街道書はもう100mくらい国道を進むになってるわよ」のカミさん。

たしかに、この分岐を左に上って行くと須原宿須原駅へ行くようですが、

持参街道書では、
「江戸方面からは左の県道へはいらず、国道を直進する」
さらに「国道19号線を少し進んだところで、左へ上がる細道が旧道であり、
入り口に小さな 「中山道」 の道標がある。この旧道を進むと民家の間を通って
須原駅の少し先に出てくる」と記されてます。
事前の下調べの4年ほど前の資料には、「一里塚跡碑は須原駅正面にある」
とも記載があるのです。

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 左か、右か、ちょっと迷いましたが、トイレ休憩もしたいので、

カミさんの「一旦県道へ入り須原駅前行き、国道からの細道を確認しましょう」

との意見に従うことに。(素直だな~)

と県道へ入り、100m程行くと駅前に出ました。

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駅前広場の手前、金網フェンスに後ろにに建てられている石碑は

幸田露伴文学碑」。 文学碑によると

「明治22年、木曽路を旅した幸田露伴須原宿に泊まり、その縁で出世作

風流仏』を著し、文中には桜の花漬のことも記されている」とか。

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駅正面に、露伴の分中にも出てくる、名物「桜の花漬け」を商う大和屋があり、

街道書では一里塚跡木標識があったはずですが、なさそうです。

(ただし、分岐のところが本来の一里塚があったところであり、

 元のところに碑を立て直した、との説があります)

なにか分岐のところの方が合ってる感じがしますね。 

それにしても碑の有ったところは、草ぼうぼうだったね。

(街道書も書かれた時期がちょいと古くなったかな?)

桜の花漬て桜茶のことかな。

中山道を歩く旅人に人気の秘密は

   「すばらしいぞえ須原の桜、つけてにえ湯の中で咲く」

 と唄われた「桜の花漬」を売っているからである、と。

 桜の花漬はどこでも売っているが、大和屋の花漬は江戸時代からの

須原名物で、しかも自家製。

桜花漬は八分咲きの八重桜を梅酢と食塩だけで漬け上げ、色あざやかで香りも

豊かで、お湯の中に花が美しく咲き開くため「桜茶」として、お祝い事によく用い

られますね。

むかしむかしまだ若かったころ、何かの折に上司に「二回ほど桜茶を飲んだ」と

話をしたら、 「お見合いしたんだね、どうだったかな」とからかわれたことが

あったけ。(カミさんは私は一回だけよ!て)

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なんてじゃれ話をしながら行くと、右手に高札場跡の立て札だけが立っていて、

後ろは石垣で一段低くなっていて、先ほどの分岐の国道をもう少し辿り、左手へ上ってくる須原宿への道筋は、この付近に出てきて旧中山道須原宿江戸口だったようですね。(この付近から方々に旅籠行灯があって、いい風情です)

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高札場跡のすぐ先に「大桑民族資料館」の道案内標識があり、右下へ階段を行く

案内になってます。持参街道書の道筋はここへ出るように書かれてました。

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階段を下りて道筋を逆にたどってみると、国道から斜め左へ来る廃屋?前の

草道になってしまった道筋があり、その道が本来の中山道須原宿への道だった

ことが判ります。

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宿場の街並みへ戻ります。

須原宿は、一つ手前の上松宿から、3里9町(12、67km)あります。

木曽路案内によれば、

須原宿は江戸戸日本橋から39番目の宿場で、天保14年(1843年)には

人口748人、家数104軒、本陣1、脇本陣1、旅籠24軒。

須原宿は正徳5年(1715年)に木曽川の氾濫で流失し、

享保2年(1717年)に現在地へ移転し、木曽谷の中ででは一番古くに栄えた

歴史ある宿場町です。

広々とした街道に面して格子戸の家が連なり、宿場情緒を携えた静かなたずまい。

宿内には丸太をくりぬいて作られた水舟という水場が点在し、今も昔と変わらず

清水がこんこんと落ちている。

宿場の京側外れには桝形跡である鍵屋の坂があり、道の中央に用水路が配され

宿場町の原風景を残している* とあります。

大きな川沿いの宿場町は洪水を避けるため、ほとんど一段高い所に営まれて

いますね。

左手空き地のところが、木村本陣の跡地で、木札が建ってます。

(ほんのつい最近まで家屋があったようですが、今は空き地になってました)

う~ん、時代の流れは速いんだね~・・・

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 本陣跡の先には、旧脇本陣の西尾家があり、塀の前に板碑が建っている。
西尾家は木曽義仲の家臣であり、中山道の宿場が出来るのに伴い須原宿脇本陣

問屋、庄屋を兼ねてきた家柄です。
酒造業は江戸時代から続いている銘酒 「木曽のかけはし」 を生み出している

蔵元でもあります。

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脇本陣の向かい側には水船があり、その後ろに正岡子規の歌碑が建っている。

正岡子規は明治24年(1891年)に須原を訪れた。
歌碑には、「寝ぬ夜半を いかにあかさん山里は 月いつるほとの 空たにもなし」 と

刻まれている。

明治20年代は鉄道もなく、露伴も子規も長旅をしてきたんですね。

須原駅前を過ぎると、街並みのいたるところに水船(水場)が見られるように

なります。

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脇本陣の先に清水医院跡がある。
黒板塀の前の立札には「島崎藤村の ”ある女の生涯” の舞台となった清水医院跡。

建物は愛知県犬山市明治村の中心地に移転、保存されている」 と記されている。

藤村の姉 園も入院したことがあるのだとか。

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医院跡の板塀前に、ミュージック仕掛け?がありました。

観光案内によると、大桑村指定無形文化財「須原ばねそ」(はね踊り)で

*須原ばねそは古くから伝わる郷土民謡盆踊りとして

唄い踊られる地唄で、はね踊るところから由来。 嘉慶年間より京都から伝承した

庶民文化です。 「よいこれ」・「竹の切株」・「甚句」の三種があり、いずれも

楽器を用いない地唄でこれを称して「須原ばねそ」と呼んでます* ありました。

水色の3っのボタンは左から押すと、まずは「ご挨拶」二つ目は「唄」

三っ目は律儀に、「お別れの御挨拶」結構な音量で静かな宿場街に流れます。

はあ~~・・・

長そうなので唄は一節だけ拝聴し、ちゃんと最後の挨拶も受けました。

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と、民謡を楽しんで、清水医院跡の少し先左手に文化10年(1813)の常夜燈が

建ってます。正面には秋葉大権現、横に金毘羅大権現と刻まれていて、常夜燈の

側の幟柱のところを左へ入ると、須原宿の鎮守、鹿島神社仮宮がある。

鹿島神社須原宿の鎮守ですが、鉄道線を越えて600m程の山裾にあるようです)

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広重画・須原宿は、右手に大杉が描かれてることから鹿島神社門前の様子を

描いてる、と言われてるようです。(他説もありますね)

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右手に大きな石門柱が建ってます。

白い札には「昭和二年建立」と「大桑村立須原小学校」と読めました。

この村も小学校は今はなくなり、村立の保育園がありました。

平成15年、野尻小学校・大桑小学校・須原小学校が統合し、野尻に「大桑小学校」

が開校してるそうです。

えっ、野尻まで7キロ以上も通学してる!

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その向かい側は、下松田屋の屋号が掲げられた家の前に立派な水船がある。
この水船の覆屋の軒には木札があり、「水船の水のきをめぐりて」 と歌われている

ように須原は中山道に面して数多くの井戸があり、生活の場として親しまれたこの

水船もその面影を残す」 と記されている。 

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旧旅籠吉田屋明治2年(1869年)の建物で、ここにも水船があります。 

(近年は民宿すはら、でしたが民宿も廃業したそうです)

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街道左手の桝形手前に、旧旅籠柏屋がある。

軒下には、大阪を講元に京都・江戸を世話方とする 「三都講」 、御嶽講の一つ

宮丸講の 「宮丸北之組」 の看板が下がっており、江戸期の指定旅館と

いうわけですね。

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旧旅籠柏屋のすぐ先が桝形で、中山道は(鍵)の屋号紋をつけた蔵が建つ家の

角から、右手に曲がり「鍵屋の坂」を下りますが、坂道は何か改修のような

工事をしてました。

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その少し先にある、永享2年(1430年)創建、臨済宗妙心寺派

木曽三大寺の中でも最古刹の定勝寺へ立ち寄りします。

桝形を過ぎてすぐが定勝寺へです。

f:id:hansui:20180605043626j:plain「山門」「本堂」「庫裏」の三建築が国の重要文化財に指定されています。

山門

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本堂(なぜか、本堂を撮影してなかったのでパンフより)

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庫裡

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定勝寺には、国の重要文化財指定の木曽家縁の資料等が保管されており、

その中には日本で最初の「そばきり」についての文献、天正2年の定勝寺仏殿事

記録があるそうです。

戦国時代木曽谷を支配した戦国大名木曽義昌」の位牌が安置されているほか、

東洋一の木曽ヒノキダルマ座像があるそうですが、覗けませんでしたので、

パンフから(左上)

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「鶴亀蓬莱庭園」奥が亀、手前が鶴のようですね。

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山門を出て、AM11:40

朝食が早かったので、まだ昼前ですがいつも持参の補助食品でお昼タイム。

宿内では食事処が見られなかったので、門前脇の水船の花壇前のベンチを借りして。

水船の里の図がありましたが、宿入り口付近にもあったかな?

図によると水船は宿内に六ケ所あるようです。

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休憩してる間にも、西から東から何人もの旅人が、声を掛け合い挨拶を交わして、

通り過ぎて行きました。

外国の方は二人だけでしたね。

と、ここまで旅の記録写真を整理しながらブログを書き進めてきて、

あれ!!写真が無いが・・・

この後、おおきなミスをしていたことに気が付きました・・・・・

 

後半へ続きます。

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅  第26回      和田峠越え 後編

*峠越えは後半へ

 広重画 和田t宿・和田峠 峠は切通しで描かれてますね・

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薄曇りで遠くは霞む空模様ですが吹く風も心地よく、雲間から薄日挿す峠です。

それでも、朝の天気予報にあった山沿いでの雷雨注意報を意識して、

30分ほどの休憩で記念写真を撮って、峠を下ります。

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 和田峠といえば、険しいことで知られた中山道でも一二を争う名うての難所です。

参考資料などによれば少し長いが引用します。

「参勤交代といった往昔の峠道の往還には、荷物の運搬のための人足や馬が必要に

 なる。所謂人馬継立とも伝馬が宿に置かれその用に供した。助郷と呼ばれる

 人馬継立 の負担は大変であったようで、宿だけでは対応できず、近郷の村にも

 応援を求めた。

(常任を定助郷、臨時を代助郷と呼ぶ)
 人馬継立・伝馬は公用の場合は無料で奉仕することになる。宿はその負担の代償

 と して年貢を免ぜられた、とのことであるが、それでも伝馬の維持は大変で、

 しばしは幕府からの下渡金が支給されたようである。和田宿の脇本陣である

「翠川家文書」には享和3年(1803)には1300両(現在の価値で1億三千万円程度)

 を10年の無利子で借り受けたりもしている。
 和田宿通過が幕府から公認されている大名は美濃加納、美濃苗木、信州松本、

 信州 飯田の4大名。そのほか、彦根の井伊家、大垣の戸田家など本来は東海道

 筋 を進む 8大名が中山道通過も認められていた。公式にはこれだけの大名が

 参勤交代で和田峠を越えることになる。とはいうものの、実際は天竜川や大井川

 などの川止めを嫌った多くの大名が参勤交代に中山道を利用し和田峠を越え

 ている。 参勤交代で和田峠を越える大名家はほとんどが3月から9月に集中し

 て いる。 冬には積雪3mとも言われる峠の往還を避けたわけである。とはい

 う ものの、積雪 期に峠を越える大名もいたわけで、そのときには和田宿他か

 ら 人足が出て雪踏みを することになる。文政8年1月8日(西暦1861年

 4月6日)の尾州様御帰国に は24ヶ村から人足1800名が動員され、

 峠茶屋 より峠までの雪踏みを行っている。積雪が残っていたのだろうが、

 とも あれ大変なる 負担である。 また、和田峠を皇女和宮が越えたのも冬季

 である。下諏訪宿を 出立したのが1861年12月7日。積雪の時期ではある。

 ただ、和宮のお供は3万名とも言われ、雪の吹き溜まりもあろうが、なにせお供を

 先導する人足が大勢 出て雪を踏み固め、筵などで道を整備するので心配ない、

 と宿からの回答がある。

 ともあれ、冬の峠越えは宿にとって大騒動ではあったのだろう」

   とありました。

 驚くのは和宮の行列が、日の短い旧暦11月6日冬季に峠越をしたことですね。

下諏訪を夜明けの朝7時に出発して、日が暮れた峠道を松明を掲げて、夜6時に

和田宿に到着したと言う記録が残っているそうです。

約6里弱(22.5km)の山道を、11時間で走るように上り駆け下った!!


さよなら~和田峠、再び足を運ぶことはあるかな??

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左手は賽の河原と名付けられた岩ゴロゴロの傾斜地で、

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和田側登りは街道らしい道幅の草道が続いていましたが、街道書にも記されてる

「賽の河原七曲り」と呼ばれる、所々ガレ場の狭い急下り険路が始まるようです。

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ここからが和田峠西坂下り急坂です。

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さらに下っていきます。大きく曲がるところには「七曲り」、「六曲り」と名称が

書かれた白い杭が立っています。

枯れてしまった水場脇には苔むした地蔵尊が静かに見守って、

急坂七曲りも終わりですが・・・

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とにかく中山道は峠越えの連続ですね。

このアップダウンの激しい山道を、皇女和宮の御降嫁の大行列は通っていったとは。

七曲りが終わって少し下ると右手に石小屋跡の案内板が建ってます。

今は石垣場が残っただけの岩の塊ですが、ここにあったに石小屋は、雨や雷、風雪を

防ぐための避難小屋で、安政2年(1855年)、下原村の名主・勝五郎によって造られた

もので、高さ2メートルの石積みをした上に片屋根を掛けた構造をもち、

長さ約55メートルという非常に大きい施設で、人馬の待避所や荷置場には絶好の

施設であった。その後慶応3年に修理したが、現在は、石垣の一部を残すのみ、

と案内板には記載されています。

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 石小屋跡から少し緩やかなカラマツ林の中を、ケルンに小石を置いて下がって

行きます。

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林を抜けると広々とした草場にでてきます。

和田峠からは1kmほど下って来たようですが、約25分かかてますね。

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草場は植林された若木が筒の中で鹿などの食害から守られてます。

今頃歩かれた方の資料では、蕨摘みが出来る、と記されてましたね。

草場の縁を回り込むようにして道は続き、狭い急坂を一気に下って行くと、

国道142号線の旧道との出会いです。

左手の丸太道標には、「←矢印和田峠0.9km諏訪大社秋宮11.1km→」

和田宿、下諏訪宿間は約22,5km、やっと中間までたどり着いたようです。

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国道142号線を斜めに横切り、道標に従って再び草道を下って行きます。

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雪融け時期や雨が降ったら、小川になりそうな狭い道を下って行くと、

再び国道の横断です。

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道標に導かれてジグザグに曲がる国道142号線の旧道を一気に貫くよう
に横断してゆきます。

すぐ下が次の国道横断。大型トラックがうなり声をあげて登って行きました。

ガードレールの切れ目から再び草道の急下りです。

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 しばらく下って行くと、ヒノキ林の下に文字道祖神牛頭天王碑が立ち、

石垣の奥には古い墓地がみえ、草原の広場へと降りてきました。

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右手にこんな注意看板!

(でも6月だと最近じゃないわね?てカミさん)

最近じゃなくとも生息地だぞ、持参の熊鈴を盛大に鳴らします。

資料によればこの付近で瓢標高は約1300m。

和田峠から1.5km、標高差300mを1時間強かけて降りて来たんですね。

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かつてここは西坂の立場(休憩所)で、西餅屋茶屋(跡)があったところでした。

建っている案内板によれば、

「茶屋本陣の小口家、それに茶屋の武居家、犬飼家、小松家という4軒の茶屋があり

 ました。東餅屋同様たいへん賑わっていたそうですが、明治の時代に入って

 交通機関が整備されるとともに中山道を歩く人が激減し、急激に寂れていき、

 大正時代に離村してしまった」とのことです。
街道書や資料によれば、

*名物は「氷餅」で、重湯のようにしたうるち米を、氷点下の中で自然乾燥させた

ものです。*

和田峠道で出会った方の何人かは、下諏訪の宿から此処まで車で送ってもらった

様でした。

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 「あら、この花はなんの花なの?」

てカミさんが覗き込んだには、おっ、白花のオドリコソウではないかな・・

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再び国道142号を横断し、ガードレールの切れ間から石ゴロの草道を

下って行きます。

案内書によっては「雨降り時などは国道を進むように」とのアドバイスもある、

渓流沿いの道が始まります。

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いいオブジェだね・・太い蔦の絡まりが独特の雰囲気を演出してます。

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国道142号の土手下坂は垂木坂と呼ばれるようです。

少し下ると右土手に江戸日本橋から53番目の一里塚(跡)がありました。

現在では塚らしきものは見当たらず、大きな石でできた一里塚碑のみが置かれている

だけです。

塚の上は国道が走り、あいかわらずのハルゼミの大合唱と、バイクの轟音が木々に

響き渡てます。

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一里塚から先は、左下が和田峠の南方面に連なる車山(1925m)に源を発する

「砥川(とがわ)」で、右上方を国道が走るガレ場の連続する荒れた山道になり、

(垂木坂と呼ばれている)、倒木の下をくぐりフタリシズカを「5人静」だねなん

 ておしゃべりしながら進むと、左下は切り落ちた崖上のごく細いガレ場道になって

 きました。

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右手には黄色と黒の通称“虎ロープ”が張られ、危険地帯と教えてくれます。

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「出来るだけ右側を歩きなよ!」と言うほど、道下はえぐられて、

梯(かけはし)のようになった所もあらわれます。

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ぐんぐん下り渓流の流れが近くなってきます。

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石の囲いに守られてクリンソウが一本、

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おや、この小さな白花は・・ワダソウか!違うかな?

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谷底を流れるせせらぎの音が大きくなり、さらにら道を下って行くと、

再び国道に合流です。

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この国道142号線に合流するあたりは、地形が焙烙に似ていることから

「焙烙(ほうろく)平」と呼ばれているそうです。

焙烙とは素焼(すやき)の平たく浅い土鍋のことです。

そういえば焙烙地蔵尊が、八百屋お七絡みでありましたね。

合流地点に建つ道標には、

「これより先下諏訪方面中山道は国道の拡幅等により、道筋が確定しておりません。

是より先は国道を1.7km下り、左手に浪人塚に向かいます車にご注意ください」

とあります。

土曜日とは言え、有料道路も合流した国道142号は結構大型車も多く、諏訪方面へ

の下りは一車線、和田峠への登りは登坂車線があって二車線です。

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 難所と言われたピークは過ぎましたが、びゅんびゅん行き交う歩道帯の取ってない

国道歩きは、これまた現代の難所ですね。

街道書のアドバイスには「歩道帯の無い交通量の多い坂道は、登坂車線のある方を

歩くように」とあります。

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先行していたカミさんが右上を指しながら呼んでます。

レンゲツツジが咲いてるわよ~

レンゲツツジの季節になってきてるんですね。

和田峠に連なる高原や、美ヶ原に連なる高ボッチ、鉢伏山

レンゲツツジの大群生が良く知られ、私達も何度か足を運んだことがあるんです。

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(以前に訪れた、鉢伏山レンゲツツジ

 うっすらと最奥に霞んでる峰が和田峠方面の山並みです)

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資料ではこの付近で標高は1100m、和田峠から1時間40分ほどかけて、
500m程下ってきたことになります。

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歩道のない国道をしばらく下ると、左手の側道への道標が建っており、

行き交う車両を確認してそれっと渡り側道を下って行きます。

”芙蓉パーライト工業”の工場に突き当たり、道なりに右に国道下をくぐり抜けた先に

道標と「浪人塚」への案内板が建ってます。

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資料によれば、

パーライトとは黒曜石や真珠岩などのガラス質の火山岩を1,000℃ぐらいに焼いて

膨張させた球形の小さな砂利のことで、重量が普通の砂の10~20%ほどで、セメントと混合してパーライトモルタルを作ります。このパーライトモルタルは軽量であるうえに断熱性、吸音性にすぐれ、断熱材、軽量骨材、軽量プラスターなど建築用材として用いられます*

大型ダンプが2台、側道を下ってきて、トンネルを抜けてゆきました。

原料を運ぶダンプなんでしょうね。

左手に「浪人塚」と書かれた石碑が建ち、その先が「浪人塚」でした。

解説によれば

「浪人とは「天狗党」と呼ばれた水戸藩士を中心とした千余人の浪士達のことです。

ここ和田峠で幕末の元治元年(1864年)11月に「天狗党の乱」と呼ばれる一連の戦いの

1つが繰り広げられました。ここはその天狗党が高島(諏訪)藩・松本藩両藩の藩兵との

間で激戦が繰り広げられた跡です」とあります。 

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案内板を読んでたカミさんが、「なぜ高島藩が敵対した天狗党のために

浪人塚を造ったのかしら??」て、ごもっとも。

 「きっと、明治になって恭順の意志と尊王の態度を示すために、ではないかな?」

なんて自己流解釈を。

でもこのことにより水戸市との交流が生まれ、下諏訪町に対する水戸市長名の

御礼の木碑とともに、水戸の名木梅が植樹されているそうです。

浪人塚から再び国道下のトンネルを抜け、工場前を通って砥川を渡り、

右手に砥川、さらに右に国道を望みながら進みます。 

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砥川を樋橋で渡り国道142合流手前に注連縄をさげた鳥居が建ち、

杉林の中に、蠶玉(かいこたま)神社と山の神が祀られてます。

蠶玉神社は養蚕が盛んだった地域での守り神なのかな。

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神社の先で国道142号に合流すると、火の見ヤグラのところで左に国道を挟んで

S字状に曲がる旧道に入ります。

ここが樋橋立場跡で国道側には樋橋茶屋本陣跡碑があります。
樋橋(とよはし)村は寛永11年(1634)立場として開村し、茶屋本陣は

小松家が代々勤め、数軒の茶屋があったそうです。
茶屋本陣には御殿と呼ぶ小建築があり、文久元年(1861)皇女和宮はここで

休息しているとありました。

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樋橋集落は下諏訪コミュニティーバスの折り返し地点です。

今、PM3:03です。3:07発の下諏訪行きがすぐにありますね。

西餅屋付近で追い越して行った若い方が。バス停で待ってました。

雷雨や何かのアクシデントがあったら、ここからのバスを利用することに

してましたが、有りがたいことにこのまま歩き続けられそうです。

すぐに国道に合流した右手に、小さな墓地の一角があり、 つい最近までここには

茶屋本陣を勤める小松家の者が全国巡礼達成後に建立した地蔵堂があり、

延命地蔵尊が安置されていましたそうです。

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先を側道にちょこっとだけ進み、再び国道142号線に戻ります。

小さく標識もあったので、この極短い側道が旧中山道で、桝形であったようです。 

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国道142号線に合流した地点に「標高1,000メートル」の標識が立っています。

和田峠の頂上は標高が1,600メートルだったので、あそこから一気に約6km、

600メートルも下ってきたことになります。f:id:hansui:20180530085608j:plain

再び先の分岐点に中山道道標があり、国道142号線と分かれ、国道と並行して

延びる側道を歩きます。このあたりは「深沢越え」と呼ばれてるそうです。

そのまま国道下の草道進むかと思いましたが、道標が建ってるところで、逆戻りの

上りをすると、やっと歩道帯の分離された国道に合流し、やれやれです。

f:id:hansui:20180530090340j:plain樋橋茶屋本陣から先の本来の中山道は,国道の右手下砥川の間を通っていたそうです。

現在はそのほとんどが失われているため、国道の歩道を進みます。

まだニセアカシアが咲いてますね。

(この先も何枚かの撮影をしたのですが、露出や絞りの調節ダイヤルが効かず、

 残念ながら真っ白け!予備のコンデジを忘れていた・・・)

カミさんが取り扱いが乱暴すぎない!!・・て。はい、ごもっともです・・

(なんと左足のふくらはぎが、攣りの痛みが出始めた・・)

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軽くストレッチ気味に動きながら、足を進めます(しばらく撮影無し)

国道の右手、砥川との間は工業地帯で、大きなリサイクルセンターや産業廃棄物の

処理工場が続いてます。

消滅している中山道は、工場の敷地の川側の淵を通っていたようです。

国道142号から分岐し、右手の産業廃棄物の処理工場の敷地へ通じる道に

「一里塚碑」の案内看板が立っています。

これはここから急坂を下った敷地内に、江戸の日本橋から数えて54里目の、

「樋橋一里塚」の跡碑があるそうですが、パスしました。

 

(かちゃかちゃカメラをいじりながら歩いてるうちに、カメラの不調が復帰した!

やれやれです。そのうえ、なんと左足の不調も回復、連動してるぞ!!)

樋橋立場から1.5kを30分もかかって下って、道路標識には標高930mと

ありました。かなり下ってきたので、気温が上昇27℃の表示です。

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右手のドライブインの自販機に立ち寄り、アイスコーヒーが美味い!

歩道帯のある国道はまだまだ下り坂です。

さらに500mほど下ると、左手山側に町屋敷集落、右手国道下川沿いに下屋敷集落

が見えてきて、さらにくだると左手に「木落し坂」の立て看板と、諏訪大社秋宮へ

標識があらわれました。

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中山道は国道の左手の道へ通じて、町屋敷集落へと入りますが、交通量の多い

国道なのに信号も横断歩道もありません。

右手に「中山道」の標識が出てきて、「地下道を渡る」と書かれています。

国道右下から上ってくる階段先、小屋掛けのところが国道横断地下道でした。

資料の中には、先ほどの一里塚を通る消滅してる旧中山道は、この階段に繋がり、

左手山側へ通じていた、ともありました。

この地下道が、中山道そのものだということのようです。

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 地下道は渡らず、それっ!と国道を横断し、町屋敷集落へと入ります。

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 道路に面して花々の植えられた静かな里路を300mほど進むと、

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左角地に、さすが諏訪大社のお膝元ですね、御柱に守られた道祖神が建ってます。

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道祖神の先の二股を右手の下り坂へと下りてゆきます。

坂道のマンホール蓋

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坂を下ったT字路右手角に、見事な苔庭を見て、左手の上り坂を100mほど

登ると・・

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諏訪大社、秋宮春宮の御柱木落し坂上です。

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上った右手に木落し坂広場があり、広場には

諏訪大社下社御柱街道天下の木落し坂碑」、「模擬御柱「」等があります。

偶然居合わせた地元の木遣保存会の方から、いろいろ説明を頂きや資料なども

頂きました。

そして木落し坂を覗き込むと、急勾配の下に国道142号線が望めます。

*『御柱祭』、正式には「諏訪大社式年造営御柱(みはしら)大祭」と言われる

 諏訪大社のお祭りです。この祭りは、七年に一度の寅と申の年に行われ、社殿の

 造営 (現在は宝殿のみ)と「御柱」と呼ばれる直径約1メートル、

 長さ約17メートル、 重さ約10トンにもなる樅(モミ)の木の巨木を山から

 切り出し、それを大勢の人々の 力で山から里へ曳き、最後に上社、下社の

 各社殿の四隅に建てます。

 現存する最古の記録では、平安時代桓武天皇の御代(在位西暦781年~805年)

 から、信濃国一国をあげて奉仕がなされ、盛大に行われたとなっていますが、

 それよりも以前から諏訪地方では大木を建立する祭りが行われていたとされて

 いて、明確な 起源は判っていない*

 ということです。  (資料より)

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 諏訪大社下社の春宮と秋宮に立てる御柱(樅の大木)八本を奥山から切り出し、

曳行の途中、この坂から御柱を落とす神事が「下社山出し祭」最高の見せ場

「木落し」と呼ばれる奇祭です。

氏子達は滑り落ちる大木に跨り

  「男見るなら七年一度諏訪の木落し坂落し」

                  と唄われてきました。

*実は私たちは前々回(9年前)に上社、下社の御柱祭り里曳きの日に来たこと

があり、下社の日はこの坂を下った先の、木落し後御柱を里曳まで安置する

「注連縄掛」広場からの御柱の坂落とし、里曳きに訪れたことがありました*

 

御柱木落し坂上からの下り道を教えていただき、急坂を国道へと向かいます。

木落し広場内の外れに「←和田峠8.5km 諏訪大社下社(秋宮)3.5km→」の

中北道標があり、ここから歩行者用の舗装路を下ります。

下る右手に落合発電所の送水管があり、先は階段になっています。

 

 

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約400m程下ると国道142号に出、手前右手の斜面に道祖神や馬頭観世音等が

祀られ、左手には芭蕉句碑がありその隣が「落合発電所」でした。

芭蕉の句「はゆき散るや 穂屋のすすきの 刈残し」とあるそうで、

 元禄3年(1690)四十九歳時の句で、 甲州道中の御射山祭りの神事の様を

 描写していると街道書に記載されてます。

「落合発電所」脇の標柱には「諏訪地方電気発祥の地 明治三十三年(1900)

 運転開始」とありました。

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砥川にそそぐ東俣川を一つ目の落合橋で渡り、二つ目の落合橋の手前で落合旧道に

入ります。

この分岐点には中山道道標や中北道標「←諏訪大社下社(秋宮)3.1km 

和田峠8.9km→」があります。PM4:12

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砥川を左手に何軒かの工場を見ながら、木落しされた御柱が曳かれる道を下ります。

おや石仏、あっ、ニッコウキスゲが咲いている!

えっ、なぜ工務店の壁に「小売りします」が??

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左手に御柱の里曳きまで安置される、「注連縄掛」広場への道を分けると、

国道142と合流し左手へ曲がって行きます。

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合流して回り込んだところが、9年前に訪れた「注連縄掛」広場からの

御柱坂落しと里曳き祭りの出発地です。

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(2010年5月8日)

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車の流れは142号バイパスへと流れるため、わりと静かな国道になり、

国道142号線の右側は砥川の谷になって、せせらぎの音が心地いいです。

諏訪湖が見え、下諏訪宿はまもなくです。

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先の左手擁壁上に馬頭観音など六基が並んでいます。  

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 右手砥川の川棚はのどかな畑です。

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 左手に山之神があります。
 山之神の背後の山は宝暦の頃(1750年代)白鷺が巣をかける瑞兆があったと

ころから白鷺山と呼ばれ、山頂には石尊大権現と白鷺稲荷大明神が鎮座し、山中には

三十体に及ぶ神仏碑が祀られています。 

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 「山の神」の前を通り過ぎたところで、一度右の側道に入ります。国道142号線から

一段下がったところに民家が立ち並んでいて、ここが昔の街道だったってことが

 偲ばれます。民家の屋根越しに諏訪湖が目の前に見えてます。

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 ここが中山道だったことを物語るように、道の傍らに道祖神が祀られています。

「木落し坂」のところにあった道祖神もそうでしたが、この諏訪地方の道祖神

特徴は周囲に4本の御柱が立っていること。

さすがに諏訪大社のお膝元って感じですね。f:id:hansui:20180531051521j:plain

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道祖神から約270m歩くと、国道142号線のほうも徐々に高度を下げてきて、

再び合流します。
右側に中山道道標がたっており、道標のところでR142に合流し、右方向に進み

ます。

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合流したR142を約180m歩くと、諏訪神社下社・春宮方向に右折する分岐が

あり、斜め右の道に入ります。

 しばらく歩くと右手に旧道入口があり、諏訪大社の「春宮」が見えてきます。

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右側には杉並木が続き、木立の隙間から諏訪大社 下社春宮が見えてます。 

諏訪大社には諏訪湖を挟んで南に「上社(かみしゃ)」、北に「下社(しもしゃ)」が

あり、さらに「下社」には「秋宮(あきみや)」と「春宮(はるみや)」という2つの

お宮があります。春宮はJR下諏訪駅から少し遠いためか、秋宮ほど参拝者は多くない

のですが、鬱蒼と茂る静寂な森の中に社殿が建ち並んでいて、歴史の深さが偲ばれる

神社です。 

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 春宮の境内を右下に見て歩いていると、縄で仕切られた場所があり、

そこは里曳きにおいて最後の難所とされる「春宮上(はるみやうえ)」
と呼ばれる地点です。御柱を境内に直接落とす、落し口でした。

ここまで運ばれてきた御柱はこの急傾斜を使って木落しが行われ、一気に春宮の
境内に運び込まれます。

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( 2010年御柱祭り落とし口の様子)

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御柱落とし口から約50m歩くと左に曲がるり、曲がり角右手の石段から

春宮の境内に直接行くことも出来ます。
左に曲がって急坂を下ると、春宮に繋がっている道路の分岐があり、分岐点に道標が建っていました。

右にUカーブの坂を下ると、春宮の正門鳥居と万治3年建立と言われる最近人気の

パワースポット、万治の石仏へとつながってます。

旧街道は春宮に繋がっている道を横切り、真っ直ぐに進みます。

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(春宮や石仏へは御柱祭りの折に拝観してるので寄りませんでした)

万治の石仏 参拝方法 】
「万治」は、本来は年号である。しかし何時の頃からか、「万(よろず)のことを

 丸く治(おさ)める」という意味に変わってきたそうで、石仏近くの説明版には、

 お参りの作法が書かれていて、
1.正面で一礼し手を合わせて「よろずおさまりますように」と心で念じる
2.石仏の周りを願い事を心で唱えながら時計回りに三周する
3.正面に戻り「よろずおさめました」と唱えてから一礼する

(以前の御柱里曳で寄った万治の石仏です)

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坂をおりて約70m歩くと、左の石段を上った先に慈雲寺という寺院があります。

その境内に「矢除石」と呼ばれる岩があるようで、

慈雲寺の境内には寄りませんでしたが、街道書には、

武田信玄が慈雲寺に立ち寄った際、慈雲寺中興の祖と言われる天桂和尚に戦勝祈願を

問うと、天桂和尚は境内にある岩の上に立ち、信玄に「弓で射よ!」と告げました。

信玄が数本弓を射ると、矢はことごとく岩に弾かれて、天桂和尚には1本も刺さる

事はありませんでした。天桂和尚はこの岩には矢除けの霊力がある…と信玄に告げ、

それ以降、武田信玄はたびたび戦勝祈願に訪れるようになった、と記されてます。

その慈雲寺の入口には「龍の口」と呼ばれる湧き水が流れ落ちている、龍頭水口の

石像があります。この龍頭水口の石像は寛政年間に山田金右衛門という職人の手に

よって作られた物と言われ、参拝に来た人だけでなく、中山道を旅する多くの旅人の

間でも評判だったとのだそうです。

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 慈雲寺の前を過ぎると、一気に風景が変わってきます。土蔵造りの家屋や旧旅館などが建ち並んでいて、宿場の雰囲気が漂ってきます。

昔からの温泉宿の風情が残る湯田坂を抜けて、下諏訪宿の中心部へと向かいます。

 

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右手の民家の前の板葺き屋根の軒下に小さな石碑が立っています。

これは江戸の日本橋から数えて55番目、「下諏訪(下之原)の一里塚」跡でした。

 

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一里塚碑の隣が伏見屋邸で、150年ほど前に建てられ、近年、復元修理された

「歴史的風致形成建造物」でした。

伏見屋は信玄の諏訪統治と共にこの地に移り住み、代々名主・年寄役を勤めた

そうです。
現在は休憩所として無料公開されているますが時間外でした。 

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 少し先の左手に御作田神社があり、境内に柵で囲われた小さい水田があります。

この水田は諏訪大社の水田で、春宮の「御田植神事」はここで行われます。

また、収穫された稲は春宮の神供として捧げられます。

(今年は田植えはこれから?雑草生い茂る田になっていた)

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御作田神社から200m程歩くと右側の角に番所跡石碑が建っていて、下諏訪宿

江戸口であったようです。

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街道資料によれば、

下諏訪宿は、江戸・日本橋から29番目の宿場で、五街道の1つ「甲州街道」の

 江戸」・日本橋から39番目の終点にあたる宿場です。
 下諏訪宿は現在の長野県諏訪郡下諏訪町の中心部にあたり、難所であった

 和田峠の西の入口として、また、諏訪大社下社の門前町として大いに栄えた

 ところでした。

 天保14年(1843年)の中山道宿村大概帳によると、下諏訪宿の宿内家数は315軒で、

 人口は1,345人。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠40軒、この他、茶屋が2軒、商屋が

 15軒あり、さらには宿の外れには木賃宿もあって、巡礼者や下級の旅芸人などが

 利用した。

 古くは鎌倉時代から温泉の利用が確認されており、中山道唯一の温泉の

 ある宿場として知られ、ともに難所である和田峠塩尻峠の間にあり、旅人に

 とって格好の休憩地だった」とありました。

 旧称は「下ノ諏訪」と言ったようです。

 写真左上に鉄鉱泉本館、下は鎌倉時代、慈雲寺を訪れる修行僧達の為に建てられた

と いわれる旦過寮の湯で、湯口は52度という高温で、戦いで傷ついた武士も入浴し

たと言われます。

下諏訪温泉はかつては各旅籠に引き込まれておらず、共同浴場でした。

古くから「綿の湯」、「児湯(こゆ)」、「旦過の湯(たんかのゆ)」などの湯があり、

今でも共同浴場が営業されています。

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鉱泉本館からすぐ先の右側に、今井邦子文学館がありました。

今井邦子文学館は茶屋「松屋」の建物を復元したものです。

案内板によれば、

「今井邦子は、四国・徳島市出身の「アララギ」の歌人で小説家。後に女流短歌誌

「明日香」を創刊したことで知られています。四国・徳島の生まれではありますが

 2歳の時に下諏訪町の祖父母の家に引き取られ、ここで育ちました。結婚、出産を

 経てアララギ歌人の島木赤彦と出会い、短歌の新境地を開いた」とありました。

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おっ、宿場町にクラシックカー、合うわね~てカミさん。

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 宿場の入口から坂を少し上った左に、天文10年(1541年)創建の来迎寺があります。

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 寺院の境内には平安中期の歌人和泉式部の供養塔があり、傍らに

「あらざらむ この世のほかの 思い出に 今ひとたびの 逢うこともかな」

という和泉式部の歌碑も立ってます。

和泉式部の幼少の頃にまつわる伝説の守り本尊の「銕焼地蔵尊」があり、

毎年4月中旬にご開帳供養が行われるそうです。

また、写真左下は、「かな焼地蔵尊」というそうで、

「平安の昔、顔に大けがを負った「かね」という少女が、普段から信仰厚くお参りし

 ていたこの地蔵様に拝んだところ、不思議なことに傷は地蔵様の顔に移り、傷はた

 ちどころに治ったという伝説があります。そして美しく成長した少女「かね」の噂

 は都にまで聞こえ、時の帝に召し出され、のちにかの平安の歌人和泉式部

 なったとの言い伝えもあることから、立身出世にもご利益があると言われて

 います。とありました。 

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中山道を挟み来迎寺の反対側に、諏訪大社の神陵とされた諏訪地方随一の

前方後円墳青塚古墳」があったそうですが、気づかずに通り過ぎたようです。

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「遊泉ハウス児湯」の前あたりからが下諏訪宿の中心部となり、

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左に本陣跡の標識が見え、向かいに真っ白い漆喰の壁が印象的な大津屋が建ってます。

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公開時間は過ぎていましたので、はいることはできませんでしたが、

左手に格式高い門構えの岩波家本陣跡があります。(PM5:20)

岩波家本陣は本陣問屋役を元禄元年から明治維新まで務めていた家で、

現在の当主は28代目にあたるのだそうです。

この岩波家本陣は諏訪大社下社秋宮の境内を借景とし、ここの広大な庭園は

中山道随一の名園としても有名だったそうです。

現在も一部が一般公開され、皇女和宮が御降嫁される際に、また明治天皇が宿泊した

際に利用された奥の座敷を見学することができます。

また、玄関には、参勤交代の際、大名家が宿泊している時に掲げる関札を展示して、

徳川御三家や井伊家などの関札が残されているのだそうです。

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 本陣の少し先に「綿の湯」の跡があり、当時の「錦の湯」の様子を描いたタイル絵が

飾られています。

江戸時代、各旅籠には温泉は引き込まれておらず、宿泊客も一般開放されていたこの「錦の湯」を利用しました。

他の湯は地元の人以外は入れず、温泉は混浴が普通だったのだそうです。

*広重画 下諏訪宿、客が風呂に入ってますね。この宿は温泉ではなかった?

(広重は当地を訪れていなかった、の説もありますね)

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直進する道は甲州街道で、ここには「甲州街道中山道合流之地」と刻まれた碑が

立っています。

ここで江戸の日本橋からやって来た中山道と、甲斐国(山梨県)経由でやって来た

甲州街道が合流しました。

埋め込まれているタイルには、
 「旧甲州道中・江戸53里11町、旧中山道・江戸55里7町、京都77里3町」

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そのまま真っすぐにたどれば、諏訪大社秋宮の門前を通り甲州街道が江戸へ続き、

中山道は直角に右に折れ、元脇本陣丸屋、旅籠だった「桔梗屋」の間を真っすぐに

笠取峠越えと向かいます。

歩き残していた難所、和田峠をなんとか超えることが出来て下諏訪宿へ到着し、

念願の「中山道歩き旅」を継なぐことが出来ました。

(PM5:25)

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すこし急ぎ足で駅へ向かいます。

予定の列車にも間に合い、下諏訪PM5:40発、

初めての中央線 特急あずさ30号乗車、PM9:20帰宅、旅を終えました。

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いや~登れました、下れました。歩き旅というより、登山旅でした!

下諏訪宿の先は、昨年11月に下諏訪を旅立ち、現在は木曽路を歩んでいます。

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おわり

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅  第26回     和田峠越え 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

なんやかんやあったが何とか乗り越えて、

2017年10月26日に和田宿を過ぎ足を進め、和田峠口下の唐沢下バス停に
て足止めをし、中山道最難関の和田峠越えは、来春の雪解けを待っとして
中断してました。

そして和田峠は飛ばして、碓氷峠に挑戦。

なんとかつなげて中山道の旅も木曽路へと入り、5月5日には江戸から

38番目上松宿を通り、倉本集落へと達してます。

 

GWも過ぎ、医大での定期検査が終わり、「そろそろ残してる和田峠越えはいかが」

とカミさんの誘い。
6月に入ると一日掛かりの心臓、腎臓検査が2回あるため、

「今月中に越えてしまおうか」と 、いよいよ長丁場の和田峠越えへ挑戦することに。

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 (2017年10月26日、足止め)

 

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 和田峠は長野県のほぼ中央部に位置しする筑摩山地の峠で、今は日本の

代表的な山岳道路「ビーナスライン」が車山、霧ヶ峰、八島湿原、美ヶ原といった

観光地を結んでいますが、かって江戸時代には和田宿と下諏訪宿を結ぶ中山道

鞍部を越えて通じていた、中山道最大の難所と言われた峠です。

 日本橋を起点とする、,五街道の全ての峠の中で最高の、標高は約1600m。

登りは和田宿から標高差730m、下りは下諏訪へ約800m、

和田宿~下諏訪宿間は約22.8kmの私達にとっては、挑戦ともいえる長丁場です。前回峠下近くまで足を進めていたのですが、それでも今回歩くのは峠道約18km。

中山道では碓氷峠、笠取峠、和田峠塩尻峠、鳥居峠、馬籠峠、十三峠など
多くの峠を越えますが、和田峠は旅人にとっては最難所と言われてました。

現代の旅人にとっても、かっては有ったバス便もなくなり、この間を結ぶ交通手段

がなく、一旦歩きだしたら目指す下諏訪宿へたどり着くしかありません。

しかも和田宿手前の長久保宿を出てしまうと、下諏訪までの間には宿も無し。

(かっては和田宿に一軒ありましたが、最近廃業となってます)

いままではマイカー往復、日帰り歩きで旅を重ねてきましたが、

今回は、中山道旅の初めての前泊、家からの行き帰りは鉄道を利用して

1泊2日の旅程で挑戦です。

旅で挑戦と言うのも可笑しげですが、ここを越えなきゃ京へ繋がらない!

 計画は、行は上越新幹線利用、 バスで長久保宿へ入り宿泊。

よく日、バスにて前回足止めの地へ向かい峠越えをし、下諏訪からは

中央線特急列車で帰路へと、乗車券や宿の手配をばたばたと済ませ、

5月25日(金)、午前中のカミさんの仕事帰りを待って、北陸新幹線

長野県上田市へPM3:40着。

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上田駅からJR関東の路線バスに乗り、今夜の宿の有る長久保(宿)に

向かい、中山道沿いの角にある浜田屋旅館へPM5:35草鞋を脱ぎました。

浜田屋旅館は、江戸末期から長久保宿で旅籠を営んできた老舗の宿です。

建物は建て替えしリニューアルもされてますが、宿場の宿の風情を残してます。

正面が今宵の宿浜田屋旅館。

浜田屋の前、左手からきて曲がって右手へ通じてるのが中山道の道筋です。f:id:hansui:20180527135653j:plain

真新しい青畳の3階の和室へ通され、襖絵や床の間の掛け軸やニリンソウ

フタリシズカの生け花など、心休まるいい風情の部屋でしたね。

襖絵は屏風絵を切り貼りしたものだそうです。

お風呂もお湯はあふれんばかり、さっと汗を流し楽しみの乾杯へ。

食事も豪華と言うわけではありませんが、一品一品すべて作り立てのようで、

美味しい!揚げたての山菜や野菜の天ぷらが、これまた美味しい!

(うっかりで、天ぷらのフォット忘れ、残念)

ビールで旅ができることに乾杯!地酒もいただいて、カミさんも、

いい宿だわて喜んでいたので、この宿をえらんで、ああ、よかった!!

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5月26日(土)、昼用のお握りを受け取り、「お世話になりました」

「お気をつけて、いい旅になりますように」の見送りを受けて出発です。

長久保バス営業所7時38分発の、男女倉行長和町コミュニティーバスにて

和田峠方面へ向かいます。

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バスは懐かしい道筋を走り和田宿を過ぎて、AM8:09、国道142号の

前回足止めをした唐沢下バス停にて下車。

軽く準備体操をして、旅立ちツーショットを撮り、

AM8:15、いよいよ中山道最難関と言われた和田峠越えへ挑戦です。

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空は薄曇り日差しも弱く、風は強くもなく弱くもなく、和田の最高気温は28℃の

予報でしたが、高度の有る和田峠越えには最良の天気です。

ただ気懸りは午後には梅雨前線の南下で、山沿いは所によっては雷雨のところも

ありとの朝の予報で、状況をみて判断しようと下諏訪側のバス便やタクシー会社を

下しれべはしています。

国道を右に折れて旧唐沢村集落へ向かいます。

唐沢集落は立場跡で、かっては5軒の茶屋がありました。

 左手に羽田の表札を下げた大きな屋敷があり、その真向かいに「本陣」の札を掛けた

家のところが羽田家が務めた茶屋本陣の跡の様です。
(茶屋本陣とは大名や公家が休息したところ)

和田宿の脇本陣家にも羽田家がありましたが、和田宿を通った時の参考資料には、

羽田家のルーツは飛鳥時代にまで遡れる、古い歴史を持つ羽田一族の様です。
かって首相を務めた方もいましたね。

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途中で落とし物に気づいて、探しながら後戻り。

左手に巨大な葉、巨大な花、ホオオノキが咲いてます。

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15分ほど時間をロスして集落を抜け、国道に合し100mほど進むと、

左手に「中山道唐沢一里塚」の標柱が現れ、階段を上り山中へ入ると左右に塚が

残されてます。

日本橋から51番目(約200km)の一里塚です。
江戸初期に造られ、天保2年(1831年)以前の街道の付け替えにより、

廃道となった古中山道に残された、日本橋より51番目の一里塚。

現在の唐沢集落を通る道筋から外れ山中に取り残されために、国道改修の際ににも

取り壊されることなく、ほぼ原形をとどめて現存している。

 唐沢一里塚のある古中山道は、現在の国道を挟んで唐沢集落の逆側を通って

いたんですね。

私達は唐沢集落の立場茶屋跡を訪れるため、江戸時期の中山道を辿りましたので、

一里塚へは途中の立ち寄りです。

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ここで単独行の男性二人が、追い越してゆきました。

長久保、和田の間にある民宿へ泊り、和田宿まで送迎で来て旅立って来たそうです。

国道に戻り緩い坂を上って行くと、歴史の道「笠取峠16.3km東餅屋4.3km」道標

を見て、二ノ橋で依田川を渡ると右手に観音沢分教場跡碑が建ってます。

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さらにすすんで観音橋手前に、コミュニティーバスの折り返し地点・男女倉バス停。

左手に「新和田トンネル・信州長和町標高1100m」標識が現れます。

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すぐ先で国道142号は二手に分かれ、左手に進む国道は男女倉沢に沿って進み
新和田峠有料道路」を通り諏訪に抜け、右手への道は信号による片側交互通行と

なっている和田峠トンネルを抜け下諏訪に抜ける国道で、中山道は右手の国道へ

進みます。
(右手の道へは車で前に二度ほど通ったことがありました)

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国道を少し進むと「国史跡・歴史の道 中山道」碑や中山道解説板などがあり、

和田峠観音坂口」で、いよいよ長丁場・本格的な峠越えの道へ入って行きます。

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う~ん、この重たそうな体で長丁場耐えられるかな??!

AM9:20、峠越えへ踏み出します。

カエルの鳴き声のようなハルゼミの大合唱、これじゃ熊鈴も響かない!

熊注意の立て看板が結構多いんですが・・・

所々に中山道を示す「青い道しるべ」が立っている。

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登り始めて幅広の草の道を100mも進むと、すぐに雑木林の中に休み茶屋跡で

今は避難小屋が建ち、横手に三十三体観音が祀られてます。

 かつては山の中腹に熊野権現社前に祀られていたそうで、中山道の衰退とともに

荒廃し放置されていたものを、昭和48年(1973年)の調査によりこの地に

移したもの。

千手観音 13体,如意・輪観音4体,馬頭観音10体,など29体を安置している。

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おや、宿でも活けてあった「二人静」だね。

うん?三人、いや五人静まであるぞ(そんなのあるかな?)

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左手に和田川の渓流。和田川へ注ぐ沢水の流れる丸太の小橋を二つほど渡り、

観音坂と呼ばれる新緑の清々しい歩きやすい草道が、延々と1kmほど続きます。

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少し高度を上げると、右手の傾斜に赤い花がポツンポツンと咲いてます。

あら、クリンソウ!の声に近寄ってみると咲いてます咲いてます!

流れる小川に沿って、草道に沿って、クリンソウが咲いています。

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傾斜はきつくはないけれど、ず~と登りばかりの山道を花々に癒されながら

えっちらおっちら上がって行きます。

深山幽谷いい感じ!でもハルゼミの大合唱はますます大きく響き渡ります。

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山道はいつしか唐松林に変わり、和かな鮮やかな唐松の新緑の下を歩き、

男女倉口から40分ほどで、前方が開け一旦国道に出て広場になってます。

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国道の山側、右手に茅葺屋根の人馬施行所跡(国史跡)が復元されてます。

この人馬施行所を作った人物は、江戸の豪商・かせや与兵衛で、

調べた方の参考資料をお借りして、

「文政7年(1824)、江戸呉服町加勢屋の与兵衛は東海道の箱根と山中の二カ所に

人馬施行をおこ なった。4年後の文政11年(1828)には、与兵衛は80歳となり

隠居となっていたが、碓氷峠和田峠にも人馬施行を行いたいとの与兵衛の意志を

孫達が 叶えた。河内国の八尾村出身の与兵衛は関東と関西の間を往復するに際し、

峠で生死を彷徨う体験があったのでは」とありました。

中山道では幕府に金千両(現代換算で約1億円か)を預けその利子百両で、

碓氷峠とここ和田峠に施行所を建て、11~3月の冬季間に峠越えの旅人には

粥と焚火を、通年で牛馬には桶一杯の煮麦を与えたそうです。

 その後山抜けにより流出したが、嘉永5年(1852)に再建され、明治3年まで

続けられたといわれます。

そんな縁を語りながら、ひと時足休め。(AM10:05)

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「永代人馬施行所」の横奥に馬頭観世音。

左手には名水かな?水飲み場も有りました。

広場の一角には「ゴミ無し童地蔵」が建ってます。

長久保宿(長和町)を出て国道に合流したところにも建ってましたね。

ここはまだ長和町に範囲なんですね。

皆さん、ポイ捨てはダメですよ!!

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この地点で標高1254m、峠入口からもう標高差150m程登ってきましたね。

国道は急坂のカーブ道、バイクや車が呻りを上げて通過します。

すぐ右手に石段の上に石灯籠が建ち、明治22年(1889)護送中に逃走を図った

強盗犯と格闘し殉職した警察官を祀る「殉職警官の碑」がありました。

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おや、このヤマボウシは随分シャープな咲き方ね、

カミさんが指さすヤマボウシ

そうだね、スリムで薄緑で咲いている。

ヒマラヤヤマボウシ、ていうことあるかな??

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すぐ先で、国道が大きく右に曲がる第37カーブ標識辺りで、再び山道に入ります。

ミラーに撮影者をちょっと映り込ませて・・

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山道は和田川の渓流を左手に、長く長くその名も長坂で続き、丸太の小橋が

何か所かにかかってます。

右手に石灯籠が建ってますが、元は嘉永4年(1851年)建立の常夜燈が建って

いたそうでが、常夜燈は山抜けで流失してしまったそうです。

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左手に沢をみながら木橋を渡り、木漏れ日の山道を進むと、先ほどの巡査殉職の地に、

石碑が建ってます。

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さらに少し上ると、イチリンソウ(右)に出会いだします。

こっちは何の花?

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さらに小橋を渡り、朽ち果てた様相の避難小屋を見送ると、苔に覆われた石畳?

ごろ石を並べただけ?荒れた石畳道になってきました。

いつごろ敷かれた石なのかしら、箱根の石畳はかなり丸みが有ったわね?

てカミさんが呟いてます。

大きさも箱根より大きいね。

ここで標高は約1360mくらいだそうです。

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歩きずらい石畳、木橋を渡りしばらく足を運びます。

この花はなに?のカミさんの声の方を見ると、青い花の群生です。

あとで調べてみるとラショウモンカズラの様でした。

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避難小屋から200m程で、江戸から52番目の広原の一里塚(東餅屋一里塚)が

塚木は有りませんが、山中にポッコリと丸い塚を残しています。

AM11:10、標高は1400mくらいらしい。

(レンズに花粉のようなものが付着していたようです)

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一里塚のすぐ先は、明るい広場のようなところにズミの花(とおもいますが)が

満開で、道沿いには朽ちかけた炊事場などがあり、かってはキャンプ場だった

様子です。周辺の若緑が本当に綺麗です。

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先から道は整備した石畳風の石を敷いた道になり、二人の旅人が和田村へ向かって

降りて行きました。

下って来た旅人に出会うのは4人目ですが、みなさん下諏訪からではなく、

途中までの送迎を利用された方々でしたね。

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石道になってすぐ国道に合流し、近年に 廃業した「東餅屋ドライブイン」が

廃墟になって建ってます。

「昔、寄ったことがあるんだよ」とカミさんに教えますがあまり覚えていないみたい。

最初は十数年前にマイカーで長野・乗鞍、上高地へドラブしたときに、

諏訪方面から国道142号を登ってきて、自販機に立ち寄っていたんです。

二度目は車中泊を始めたころに、長久保宿近くの道の駅で車中泊し、車山、霧ヶ峰

八島湿原などのトレッキングをしたときに、この上のビーナスラインへの合流道と

して、通っていましたね。

 

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右手に建っている案内板によれば、

ここが旧東餅屋村で往時は茶屋が5軒あり、幕府の援助を得て設置され名物の

餅を商い、寛永頃より1軒につき1人扶持(1日米五合) を幕府から給されて

いたという。

 長丁場の和田峠越えで難渋する旅人の救助に当たったりの、人馬の休息所とも

なっていたそうです。

幕末には大名の休息のための茶屋本陣も置かれ、土屋氏が務めていた由。

明治維新後は交通機関が発達して中山道を歩いて旅する人が減り、5軒の茶屋は

すべて廃業してしまた。とあります。

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その後茶屋跡にはドライブイン東餅屋が復活して、名物だった力餅も売られていた

そうなのですが、近年残念ながら営業を止め今は自販機も停止しているので、

今旅人は喉を潤すこともかないません。

峠越えの途中に、旅人のための避難所や茶屋が設けられていたのが、

これらの茶屋の跡は「東餅屋「西餅屋」「接待」などという地名になって

残っているんだそうです。

別資料によれば、

「この東餅屋は武田耕雲斉率いる千余の水戸天狗党を迎え撃つ松本藩350余名が宿泊したところ。天狗党が望月宿に入ったとの報に接し、長久保宿まで進軍していた松本藩士は一旦、和田宿に戻る。和田宿に宿泊し、和田宿を焼き払い和田峠で迎撃をとの計画に和田宿は宿泊を遠慮願った。松本藩と共に水戸天狗党を迎え討つ諏訪高島藩もこの松本藩の策反対した、と。諏訪高島藩は和田宿を焼かれることにより宿泊地失った水戸天狗党が、和田峠越えを避け、大門街道から大門峠を進むことを恐れた、とか。その道筋をとれば、直接に諏訪高島城下町に進撃し城下を攻撃する恐れがあったから。

そうなれば、天狗党の通過を黙認、見過ごす、という基本方針が崩れるからである。
で、和田宿での宿泊を諦めた松本藩士は、結局、東餅屋に宿泊。東餅屋の茶屋3軒を焼き払って引き上げた。11月19日といった冬季故の作戦ではあろうが、対する水戸天狗党は和田宿に宿泊。本陣、脇本陣はじめ50戸に分宿し、和田宿の人は宿を焼き払おうとした松本藩士より、水戸天狗党に好意をもった、とか。大砲15門、砲弾、火薬などの人馬継立に協力し、天狗党もその謝礼を払った、とのことである」と記述されてます。

 

また和田峠では、旧石器時代の石器の材料とされた黒曜石が多く産出し,
キャンプ場から一里塚にかけての一帯にもの露頭が10カ所ほど確認され,
後期旧石器時代の遺跡が集中して発見されている遺跡もあるようです。
(和田宿に立ち寄った、黒曜石の資料館がありました)

東餅屋辺りは標高は約1,470メートル、山登りでいえば九合目になるかな。

標高1,600メートルの和田峠まではさらに、標高差130メートルの登りだ!

今はAM11:27、峠でお昼にするよ、さあがんばんべ~・・!

ヘアピンカーブで九十九折に上る国道を、串刺しするように中山道は登って行きます。

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この付近にて国道142号線の旧道は、 和田峠トンネルへ向う分かれてゆきます。

今は石碑が建っているだけの和田嶺神社碑をのところを曲がります。

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なんども横断したり石段を上ったりしてきましたが、案内表示がしっかりと

建ってるので、周囲を見渡して確認すれば迷うことはないですね。

このあたりから白樺湖と美ヶ原を結ぶ元は有料だった旧長野県営観光道路

ビーナスライン」が蛇行してがら中山道を寸断して通っています。

少し進むと上はビーナスラインが通っている「コールゲート」と呼ばれる造りの

少々大きな排水溝といった感じの小さなトンネルを抜けてゆきます。

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トンネル内を流れていた沢を渡り、しばらく山道を歩きます。 

この沢はまだ和田川への流れかな。

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この後、持参街道書ではビーナスラインを3か所横断すると記載されてますが、

人がほとんど通らない中山道は、横切るところに横断歩道などは有りません。

風光明媚な観光道路のビーナスラインは、カーブ道であまり見通しの良くない上、

スピードアップのクルマの交通量も多くあり、横断には注意が必要です。

車の爆音で判断しながら、それっと横断、次の山道へと入って行きます。

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4度目のビーナスライン横断をすると、草の茂る美しい峠へのアプローチと

なりました。

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前方が明るくなり、空が近くに寄って来た感じのカラマツ林、ズミも花咲く草道を

僅かな距離ですが、休み休み15分ほどかけて一歩一歩上ります。 

ここまでの道は、旧街道らしい道幅が続いてきましたね。

う~ん、難所かな・・・

正午、12時8分、ついに標高1,600メートル、中山道最高地点であると同時に

五街道最高地点でもある和田峠の古峠に到着しました。

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唐沢下でバスを降りてから、うん、亀足旅人には予定通りの約4時間。

頂上には「案内標識」「賽の河原地蔵」「御嶽遥拝所跡」碑、「御嶽山坐王権現像」、「本尊大日大聖不動明王像」、「馬頭観音」などが祀られた鞍部になりますね。

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この付近は、冬場には積雪が3メートル近くになり、木曽名所図会には

「西坂ケワシ東坂ヤスラカナリ三月ノ末マデ雪アリテ寒シ」と著されてるそうです。

峠に建つ案内表示によると、

「明治9年紅葉橋新道が開通し、峠の役目を終え、今は古峠の名を残してます」

と記載され、別資料によれば、

紅葉橋新道も、国道142号線和田峠トンネルの真上を経由するルートとして

現存しているようです。

(江戸時代の旧中山道とは最大300メートルほど離れて通じている様子)

さらに明治29年(1896年)には、峠の頂上の勾配を緩くするために、切通しを深く

掘り下げる峠の大改修が行われ、標高が1,531メートルにて開通してます。

江戸時代の旧中山道の峠は「古峠」、明治9年の峠は「旧峠」、明治29年の峠は

「新峠」と呼ばれているそうですが、峠の案内図を見てもきちんとした表記は

無かったですね。

和田峠の標高は、1600m、1531mなど表記がありますが、ここ古峠は

1600mと言うことになるのかな?)

「古峠」を通る江戸時代の中山道は、現在は国の史跡としての指定を受け、

一部は散策路として整備されています。

地図によると,ここは峠の南東の駒ヶ岳(標高1657m)と,反対側にある浅間嶽と

いう標高約1,645mのコルに挟まれた鞍部に当たるようです。

この和田峠も中央分水界にあり、峠の北側は千曲川を経て信濃川水系で、

日本海に注ぎ、峠の南側は諏訪湖を経る天竜川水系で水は太平洋に注ぎます。

薄曇りで日差しも弱く、吹く風が爽やかな峠の草原で、宿で用意していただいた

お握り弁当を広げ、至福のランチタイム。

到達した満足感が一層味を引き立て、うまいうまいで平らげて

果物はバナナでした。

霞んではいますが諏訪側には山裾に集落も眺められ、御嶽遙拝所の大きな

石塔越しに霞んでいるが遠くの山は、もしや木曽の御嶽山では??

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数人の方が諏訪側から和田側から上ってきて、みなさんお昼を摂られてました。

記念写真を撮って和田峠を後に、12時45分下諏訪に向かって下ります。

今の様子なら天気の崩れはまだなさそうです。

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旅は後編へ続きます。

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅  第25回     福島宿~上松宿~倉本駅 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

平成30年4月29日(昭和の日)12時10分

来たぞ~来れたわ~の感激「中山道中間地点」。
江戸からも京都からも六十七里三十八町(268km)。

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そして木曽福島宿へ到着して第24回を終えました。

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GW後半、

 「5日のお天気の崩れはなさそうよ、もったいないから歩き旅はいかが」

とハッパ?が掛かり、急遽旅立ち決定。

5日(子供の日)、あい変わらずの早朝マイカーで出立。

いつものようにみどり湖PAで塩ラーメンで朝食。

塩尻より国道19号を走り木曽福島入り。

駐車予定の福島駅への途中に迂回して、前回の旅で立ち寄りしなかった

家並みを見に。

明治末期頃から木曽谷の狭い土地を有効に使った、床を川に張り出して造られた

崖屋造りと云われる家です。

町の通り側では1階・2階建ての家が川側へ回ると3階・4階建てとなっている。

積み木を重ねたような多層にせり出しているところが迫力満点で、

独特の風景を醸し出している。

わ~すごいわね~・・・でも怖い・・てカミさん。

(せっかく行ったのに写した写真はピンボケ・・アップは拝借写真)

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寄り道しながら、AM7:35木曽福島駅駐車場着。

駐車の手続きやトイレを済ませ、少し風は冷たいが快晴の空の下での

AM8:00、25回目の夫婦歩き旅の旅立ち。

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旅の予定は中山道・江戸から37番・福島宿~38番・上松宿、2里14町9.4Km

そして39番・須原宿・3里9町12.8Kmへの中間、街道沿いの倉本駅前までの

約16kmです。

中山道木曽川左岸の段丘上を通っていたようですね。

駅前広場の右手、宿や食事処、観光センターなどの立つところは、建物の裏手は

きり落ちた崖でそこにコンクリートや鉄骨の土台を築いて建てられてます。

一部が表は2、3階建てですが、木曽川沿いは4.5階建てになっている建物も

みうけられます。

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写真、正面奥の方へ中山道は通じていて、すぐ下ったところに建つのは御嶽神社

中山道は左手の坂道へ登って行き、途中から細い側道をすすみ木曽町役場方行へ

向かいます。

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左の舗装道路を行っても役場へ出ますが、案内は右の側道になってます。

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 役場に突き当り、旧道は木曽町役場に沿って右に、そして左へと曲がっていく。

中山道は役場の敷地内を通っていたのかな?

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段丘上の草道を下り、合流の街道らしい細い道を左手に向かうと段丘の中腹の

塩淵集落です。

木々に阻まれ右手は見えませんが、かっては急斜面で下は木曽川の淵が

あったようですね。

塩淵地名の由来板が建ってます。

f:id:hansui:20180507062049j:plain左側のところに、江戸から70番目の塩渕一里塚跡を示す石碑と白い木柱、

中山道と記された標識が立ち、壁に木曽路十一宿の案内板がありました。

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庭に大きな藤棚、白藤があさのひかりに綺麗です。

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山の傾斜地中腹に石仏石塔群。

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この先、道は下りとなり塩淵交差点で、福島駅から直接下ってくる沿道に合流し、

すぐ先で県道461(旧国道)に合し、先に中部北陸自然歩道道標が建ち、

左手へ分岐しのての脇道坂へと道筋を変えていきます。

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徐々に高度があがり、旧国道、さらに右手はとうとうと流れる木曽川

堰堤ダムが眼下に見えてます。

資料によると、なんとずっと下流の「関西電力寝覚発電所」で使う水を取水するためのダムだそうです。

道の山斜面には、所々で群落を作って雑草のようにニリンソウが咲いてます。

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右下に並行する県道461号線、木曽川。左手山側の上の方には国道19号、

JR中央線が通っているんですね。

300m程坂を上りきると比較的広い道路に出て「中平立場跡」の案内板が

建っています。

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広めの車道を4.5分ほど行くと、左右への分岐になり、

左手の国道19号の陸橋下を抜けて行く道への、道標がありました。

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陸橋下を抜けを抜けた正面に、どっしりとした石積み造りの中央線の廃線トンネルが

現れます。

煤焼けの黒ずんだ石積みは蒸気機関車時代から、そして電化されていた時代の

架線柱も残っていますね。

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旧線は中平集落の山手側を通っていたようです。

(ちなみに新線は木曽福島を出てすぐに、長いトンネルでこの山腹を抜けてます)

本来の旧中山道は左手に山側へと続いていたそうですが、今は消滅のため

右手に陸橋下を回り込んで先の階段を上り、一旦国道19号へ合流します。

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国道19号を少しくだると右手(写真では左手)に冠門のようなものが建ってます。

先ほど消滅していた旧中参道はここへ通じて、国道を横断して右側の山の方面へ

続いていたのでしょうか??

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19号に合流して100mほど下ると、県道461が左手から登ってきます。

(振り返って、左、県道 右、国道)

木曽福島の街並みへは県道を行くの標識が立ってます。

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さらに300mほど下るって左手を見ると、山側を下ってくる道がありました。

道の入口に「中山道を歩く方はこの先通行できません。

   国道19号線沿いをお進みください」 との標識がありました。

あのトンネルがあった付近からの、消滅した旧中山道の京方面の道が、

ここに出てきていたんですね。(写真、振り返って)

f:id:hansui:20180507182134j:plainすぐ先が木曽川を渡って木曽の御嶽山へ向かう分岐、本橋交差点になります。

右手に橋を渡ってゆくと、あの木曽の御嶽山への道筋です。

三度ほど、この橋を御嶽山登りで渡ったことがありました。

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本橋交差点で左手へ渡ると、すぐ先で左折して中央線のガードを潜り

「神戸(ごうど)」というのどかな里山集落へ入って行くと・・・

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花園の里路へとなって、ゆっくり楽しみながら歩きます。

カミさんが、わ~綺麗!と声を上げたのは、ツツジ?アザレア?

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花園里の集落を抜けて杉林に入り右側の階段を上ったところが、村人や旅人が

はるかに御嶽山をお参りした「御嶽山遥拝所」

遥拝所は御嶽山の東西南北4ケ所に設けられていて、ここ神戸(ごうど)は南の

遥拝所で、鳥居は寛永9年(1631年)以前からあったといわれ、現在の石製の

鳥居は文政4年(1821年)に建てられたもののようです。

木曽路御嶽山を仰ぎ見ることができる場所は、ここと鳥居峠だけだそうですが、

鳥居峠では眺望できたが、ここでは木々が生い茂り今は見えなくなってしまった。

 

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少し先になると崖の中腹の道となり、崖下に中央線、その右手が国道19号、

さらに右手下には木曽川と展望が開けてきます。

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下には国道と木曽川の間に「道の駅・木曽福島」が見えてます。

足休めとトイレ休憩で寄りたいのですが直接下る道筋が判らず、街道書に記載されてる

少し先の国道合流地点まで行き、戻って立ち寄りすることに。

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少し進むと右手がますます開けて「あら、あの雪山は!!」とのカミさんの声に

すこし振り返ると、みえた~!!ど~んと「木曽の御嶽山」の雪山の姿!!

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しばし足をとめて眺めましたね・・

先の広くなった草原に「あらあら、蕨がいっぱいよ」カミさんの声。

ははは・・街道は山菜の宝庫でもありましたね。

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すこし下って央本線のガード下を潜り、国道19号線に合流。

車の途切れを見極めて、それ!と小走り横断して「道の駅」方向へと戻ります。

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 木曽川の対岸に新しそうな神社風の大きな建物が見えてます。

御嶽神社?いや、違うね~・・

御嶽信仰のを御嶽教として結成された、教団としての本宮のようです。

奈良県に里宮本宮もあるそうですが、詳しいことは割合。

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AM10:15、

道の駅は、さすがGW中、大変な賑わいです。
トイレを済ませ、建物脇の御嶽展望所のベンチでしばし足休め。

 私達にとっては、十数年前になりましたが、夫婦で初めて山小屋泊りを体験した

懐かしい山もありました。そのご紅葉時期や、山頂まで直登コースでなど

三度ほど登ったことがありました。

雪を残した泰然とした山容を眺めながら、しばし思い出山談義。

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(思い出写真・宿泊の五の池小屋へ下る)

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御嶽山は最近では、あの痛ましい大噴火ががありました。

被災された方々へ心で祈り、しばしの休憩を終えて旅へ戻ります。

さきほど中央線のガードのところで、再びそれ!と左手に渡ると、

名古屋・133kmの表示があり、その先で左手への分岐が見えてきます。

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分岐の道標とおり、坂道を上ると板敷野集落(旧沓掛集落)で数軒の家があり、

すぐに分岐で道標が有り右手へ進み、さらに分岐で右手は国道へ下って

しまいますが、街道は家屋の建っている左手へと進んでゆきます。

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 カーブを描いてゆるく登て行くと、すぐに中央線の線路沿いになって、

舗装道はすぐに線路とはなれて右手へ坂を下ってますが、

  「お~い、そっちじゃないよ~」

くだりかけたカミさんを呼び留め、進む街道は線路沿いの狭い草道。

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草道を下ると、車の停まってる先に木立を乗せた小高い塚のようなものが見え、

小さな祠が木曽義仲が祀った「沓掛馬頭観音堂」でした。

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案内板によれば、旧中山道は観音堂の前(左手)の線路側を通り南の旧観音坂を

下っており、現在のお堂はなんと江戸から71番目「沓掛の一里塚跡」の

南の塚跡の上に、鉄道工事の際に移設されたよすです。

木曽義仲の伝説)

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古道の観音坂は消滅で、新観音坂とでもいうのかな?舗装道路に戻って

道を下ると、木曽川の崖上を並行する旧国道に合流です。

 

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合流地点にも、取り壊された西側の「沓掛一里塚跡」の石碑と案内板がありました。

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道は木曽川側の切り立った崖上で、木々の隙間から木曽川の青い流れが垣間

見えてます。

旧国道は今は車の通行も少なく、川音、木々を揺らす穏やかな風音が
心地よく耳に届きます。
(持参案内図によれば、現国道19号は少し福島寄りで木曽川
  「かけはし大橋」渡り、木曽川右岸を通ってます)

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10分ほど行くと前方に赤いアーチ橋が見えてきました。

木曽八景のひとつ木曽の桟(きそのかけはし)があったところです。

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このっ付近は、木曽川の流れが削った深い断崖絶壁に、川に沿って木や藤蔓などで

作られた木の桟道が架けられ約100m程に渡って続き、中山道一の難所と

言われていたそうです。

(付近の住民の手でかけられ、渡り賃を徴収したともいわれてるようです)

断崖上にテラスのように架けられた桟(かけはし)は、旅人の松明(たいまつ)で

燃え落ちてしまったが、後に尾張藩が石垣積みにして築造し、現在は旧国道の下の

石積みにその一部を残して、街道の面影をとどめています。

先ほどの沓掛馬頭観音堂の謂れ、

木曽義仲が木曽の桟で対岸までの距離を目算して、人の言葉が理解できたという

 愛馬に「七三間とべ」と命令したが実際には74間あり、馬が谷底に落ちてしまい、

 その供養として金の観音堂を作り、堂を建てさせた」

 はこの付近の木曽川の物語なんでしょうね。 f:id:hansui:20180508160648j:plain

 

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赤い橋を渡った対岸には、桟温泉旅館が建っており、明治天皇聖蹟馬頭観音

松尾芭蕉が訪た「かけはしや 命をからむ 蔦かつら」の句碑や、正岡子規

種田山頭火の句碑も建っているそうです。

(対岸には渡っていません)

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桟を過ぎると左右が開け、ひたすら旧国道を歩いてゆきます。

木曽川花崗岩の岩々を賽の河原と擬して、賽の河原地蔵が祀られていました

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山並みもひくくなり、空が大きく広がってきました。

右手には木曽川が流れ、心地よい風を受けながら街道旅は上松へ続きます。

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街道旅は後編へ。

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅  第25回     福島宿~上松宿~倉本駅 後編

5月5日、AM11:20

 山並みもひくくなり、空が大きく広がってきました。
右手には木曽川が流れ、心地よい風を受けながら街道旅は上松へ続きます。

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後編を始めます。

この先で歩道帯が急に狭くなてしまいます。

今は木曽川沿いに、♭狭いながら~も~嬉しい歩道~♬、で、

一人通れるくらいにの幅を、ガードレールで確保してありますが、

国道19号が対岸に通じる前は両側に歩道が無く交通量も多く、よく旅人の記録に

「しばらく歩道がなくなり、危険を感じながら・・」と記されたり、

街道書によっては「危険を避けて、対岸の国道を行くことを薦める」と記してあり

ました。

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少し先左手に、見落としそうな小さな名札を付けた、新茶屋橋があります。

かっては厳しい崖を避けての高巻き道があって、蕨餅が名物の弥生茶屋があった、

と街道書に記されてます。

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しばらく右側を流れる木曽川を下に眺めながら、心地よい川風を受けて歩むと。

左手山沿いを上がる道があり、中山道の標識が立ってます。

ここも昔の高巻き道かな??、4、5分で旧国道へ下りました。

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道は少し上った様で木曽川が、かなり下に見えるようになり、右岸、左岸を結ぶ

国道19号の橋が架かっています。

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歩行者道の看板が建つ側道を行き、国道19号の橋桁下をトンネルで抜けて

、左手に階段を上がって国道19号へ出ます。

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国道は歩道がなく、幸い大型車の通行は少ないですが、JR線のガードを

用心して抜けて笹川交差点に出て、

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笹沢交差点で右に分岐するのが旧道(中山道)へ入り、大きく左へ回り込むと、

上松の街並みが見えてきます。

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中央線を右下に見て10分ほど歩いて十王橋交差点を渡り桝形に左折すると、

十王橋の橋詰に「上松宿入り口」の標柱が迎えてくれ、高札場跡がありました。

日本橋から38番目、かっては木材の集散地として賑わった上松宿の江戸口に

出ました。

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上松(うえまつ)宿は、江戸から72里3町24間(約283.1km)

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、

家数は362軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒で、人口2,482人。

 江戸口は十王沢(昔は小野川)に架かる橋詰に、地蔵尊を祀った十王堂が

建っていたが、慶応3年(1867年)の大洪水で流失してしまったいう。

しかし、75年後の春の彼岸に地蔵尊が発見され、ほかの場所にあった馬頭観音

など石仏石塔群とともに、この高札場跡に祀られた。

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説明板は高札場を現わしたのかな?

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十王橋を渡ってすぐに左手へ桝形の曲がり(家と家の間の道)左手へ進むと上町です。

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 上松宿はたびたび火災にあっているが、特に昭和25年(1950)の大火では

上町以外の上松宿がほとんど焼失してしまったという。

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火災からまぬがれた上町には出梁造りの古民家が並び、曲がり道が街道宿場らしい

風情を残しています。 

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町並みに入って100mほどの、左の路地を入ると八幡神社があります。

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楽殿、拝殿と一体になった覆屋の中の本殿は、正徳4年(1714年)建立と

言われ、江戸時代中期の代表的な社殿建築で、上松宿の文化財に指定されている。

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街道に戻りまた100mほど行くと、左手に路地を入ると「玉林院」の裏門が

ありました。

なぜか表山門からはおとずれなかったのですが、街道書によれば、

「玉林院」は木曽義元の次男「玉林和尚」が天正10年(1582)に創建。

裏山に天神山木曽氏館跡があり、十九代木曽義昌の弟、義豊が居館を構えていた。

明治26年の12月に火災に遭い本堂と庫裡は失われましたが、

土蔵と明和3年(1766年)に再建された山門は、火難を免れて今も当時の姿を

保っている。本堂は昭和33年に再建されたものですが、山門や黒松の老木と

整えられた庭に、往時を偲ばせるものがあります」、と記されてます。

 

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上松のシンボル赤沢自然休養林の「森林鉄道」と「オオヤマレンゲ」があしらわれ,「ひのきの里・あげまつ」とあります。  

「上松は、江戸時代初期より尾張藩の保護を受けた、古くからの木曽ヒノキの集散地。
その歴史は今もなお、木材工業の町としてその名を馳せています。
戦後の数回にわたる大火により、古い町並みは上町にわずかに残るだけですが、
木曽駒ケ岳を望むこの町には「赤沢自然休養林」「木曽の桟」「寝覚めの床」などの
木曽路を代表する名勝を有し、人から人へ受け継がれ守られてきた自然美を
四季折々楽しむことが出来ます。」
木曽路パンフより)

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どっしりとした建物は置き屋根になっていて、倉を利用した住宅のようですね。

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日の丸が掲げられた交番、「子供の日」祝日だったね。

今日、国旗を掲げた住宅は見かけなかったような・・・

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男女双体道祖神と右隣りは、水の女神「水速女命(みずはやめのみこと)」だそうな。

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この辺りは本町で、 問屋、総庄屋を兼ねた原家が勤めた脇本陣跡。

門扉脇に「といや」の木札が架けて在りました。

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文久元年(1861年)皇女和宮一行も宿泊した、藤田九郎左衛門が勤めた

本陣跡はなにも印無し(街道書に記載あり)

ただ裏の土蔵には、焼け残った資料が保存されている由。

現在は歯科医院が建ってます。

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本陣跡の先で、街道はクランク状に曲がって行くようですが、右曲がりの角に

江戸日本橋から72番目の本町の一里塚跡(移設)の碑がありました。

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一里塚あとで右に曲がり緩い坂をちょいと下ると、右手にカフェ&ダイニングがあり、時刻も昼過ぎで立ち寄り、ランチメニュー・パスタセットで昼食。

(12:20)

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あら!面白いわね~、てカミさんが喜んだ、砂糖&ミルク入れ容器

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ごちそうさま、と店を後に20mくらい下って、桝形跡をで左手へ仲町で、

旧国道に合流します。

先きほどの一里塚は、元はこの付近にあったようです。

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おっ、鉢植えだけど黒百合では??

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100m程あるくと広小路交差点で、右へ行く突き当りがJR上松駅

左角にはよく旅人が宿泊する「旅館田政」(江戸時代から続く旅籠)を見送って、

下町交差点もわたり、

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 100m程先の歩道橋手前、旧国道と左手に分かれる、中山道寺坂と呼ばれる

坂道となり、曲がりながら細道を入って行くと、

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左手曲がり角に駒ヶ岳大明宮や、駒嶽開山神明霊神などの石塔群が建ってます。

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その先車道になり、十字路の左土手の上は上松小学校で、

角の土手に「斎藤茂吉の句碑」がありました。

「駒ケ嶽見てそめけるを背後にし小さき汽車は峡に入りゆく   茂吉」

と刻まれてるそうな。

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 小学校校門に入る上り道の右側に、藤村文学碑が建ってるはず、

あれ、あの像は二宮金次郎では?

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すっかり風化してしまってますが、手に持った本、金次郎さんですよね。

(藤村文学碑は写し損ねてました)

 

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小学校のグラウンド下の街道側土手に、「尾張藩直轄材木役所跡碑」があります。

案内板には、「尾張は、木曽総山検見を行い、に山村代官から管理権を取り上げて

藩直轄とし、この向かいに材木役所を置いた」とあります。

(何らかの不正事があったのかな?)

土手上の小学校の広いグラウンドが、上松材木役所陣屋の敷地であったのでしょうか。

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陣屋跡碑の少し先の土手にも石段があり、諏訪神社の鳥居が建っている。

上松宿の鎮守の神様として古くからこの地にあった由。

諏訪からではなく、京都から勧請しため、御柱は立っていない。

石段を上ってみると、グランドのフェンスに阻まれ、なんと本殿は広いグランドの

向こう側に鎮座しています。

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グラウンドではサッカーの試合中だ!

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緩い下る坂を上松小学校のグランドが終わる処まで来ると、十字路の左角に建つ

庚申塔を見送り、

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住宅街の中を通ってくだって行くと、中沢橋。

上松宿から頻繁に出ている、「目覚の床→」への距離道標がも建ってます。

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坂下で木曽駒ヶ岳の雪山並みを見ながら、街道らしい静かな佇まいの

「見帰(みかえり)」集落を抜け、県道266を歩きます。

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上松第一トンネルを抜け出て来た国道19号の上を渡って下ると、
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左側に、常夜燈など多数の石仏石塔が祀られていました。

花は、忘れな草ですね。

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街道は立場茶屋の有った、寝覚集落へと入ってきました。

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見えてくる古民家が手前が、江戸時代の「寝覚立場」の茶屋本陣で、築300年の

建物、上段の間や囲炉裏があるという、「たせや」。

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赤いポストの向こう側が創業寛永元年(1624年)で、寿命そば(蕎麦切り)の

老舗「越前屋」。

「越前屋」は国内で3番目に古いといわれる蕎麦屋だそうで、参勤交代の諸大名が

必ず休憩した所として、立派な造りの建物です。

十辺舎一九「続膝栗毛」や藤村の「夜明け前」にも出てくるそうな。
 現在はそれぞれ民宿・旅館を営んでいる。

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(越前屋の蕎麦は、今は寝覚め床近くの 国道沿いで営業を続けている )

「たせや」と「越前屋」の間の急坂を、木曽川の方へ300m程下り、

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国道19号を横断した先が、寝覚の床の入口で臨川寺の庭園でもあり、見晴台から

眼下に寝覚の床の全景が見えます。

木曽川の奇石と水面の美しい名勝で、1923年(大正12年)3月7日に国の名勝に

指定された。

中山道を訪れた歌人等によって歌にも詠まれ、長野県歌「信濃の国」の4番にも

「旅のやどりの寝覚の床」とうたわれている。

臨川寺はあの昔話し「浦島太郎」伝説があり、寺の縁起によれば、
「龍宮城から戻った浦島太郎は全国をめぐり歩いて、

ここ木曽川のほとりの地にたどり着き、釣りをしたりして楽しく暮らしていた。

天慶元年(938年)に里人に竜宮城の話をしたときに、玉手箱の蓋を開けて

しまい、齢300歳の老人になってしまったという浦島太郎伝説が残っている。

言い伝えでは、浦島太郎が今までの出来事は夢で、夢から覚めたようだと思い、

この里を寝覚、この岩場が床のようであったことから、「寝覚の床」と呼ぶように

なった。その後、いつのまにか太郎の姿はなくなり、立ち去った跡には弁才天

像が一体残され、寝覚めの人々は祠を建てこの弁才天を祀った」と伝えている。

 

寝覚め床は御嶽山登山の折に寄ったことがありましたので、今回は立寄りは

しませんでした。

(昔の思い出フォット)

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 越前屋を後に100mも行くとY字路で、分岐点に津嶋神社があり、

脇に大カツラが聳えています。

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幹の周囲が4.1m、若葉が何とも美しいんですね。

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付近からは左手に迫るように中央アルプスが聳えてます。

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 旧中山道はこの先の郵便局前を左に曲がり、左手に石塔を見て坂を行くと、

台地にでてバックに中央アルプスを据えた、花々咲く集落の墓地がありました。

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黄色い花は(写真右)はセンダイハギですね。

カミさんが気に入った様で、庭に植えような~。

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立派な上松中学校と、これまた立派な県営集合住宅が。

上松駅前から随分歩きてきたと思ってましたが、地図で確認したらまだ2km位

なんですね、地番も上松でした。

そのまま真っ直ぐ行くと、先は森に突き当り??

旅人が一人、コンニチワ、の声を残して足早に追い越してゆきました。

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中学の敷地端から左手に、街道は復元された石畳坂を下ります。

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緩く曲がりると木曽川にそそぐ、中央アルプスより流れ出る清流の滑川。

橋の上からは、山間にアルプスの嶺も望まれます。

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木々の芽生え新緑の美しさが、何とも言えない安らぎを感じますね。 

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滑川橋を過ぎて少し先の道標は、左手・木曽古道となってます。

 

木曽福島から足を進めているとき、道標に良く「木曽古道→」と記されてます。
調べたところ、「 駒ケ岳山麓木曽川にそって、留野(現在の南木曽) から

木曽福島に通ずる中山道整備以前からの道があり、江戸 時代以降の中山道

区別し「古道」と称するそうです。
 木曽古道集落として、倉本・東野・吉野・徳原 ・川上・原野があり、

 原野と木曽福島の間、上松から倉本までの間の山道は、地元にて中央アルプス

 への登山道やハイキング道として整備もされている」とありました。

中山道の古い道の意味ではなかったんですね。

此処の道標には「3.2km先の吉野地区~東野地区~倉本地区へ」と記載されていて、古道が通っていた地区への案内なんですね。

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深紅のツツジ、紅サラサドウダンなどの咲く荻原集落を抜け

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線路沿いの道となって

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御嶽山講中碑を見送り、 中央線をガードで抜けて右手へと道は曲がって行きますが、

f:id:hansui:20180512203608j:plain畑で農作業をしていたご婦人から

「右へ行ってはダメだよ! 左に下って家の前を通って行くんだよ」と

指さして教えてくれました。

ありがとうございます。

なんと、中山道は庭先を通って草道を進み国道へ合流していたんです。

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f:id:hansui:20180512204137j:plain国道と合流して100m程行くと、左手の中央線の鉄橋奥に木曽八景の一つ、

小野の滝が飛沫を上げて落下してました。

「あら、いい滝だわね」てカミさん。

以前に滝巡りと称して、長野、群馬をドライブしたこともありました。

「日本一の落差、富山、立山麓の称名の滝、隣なりの雪解け時のみ現れる、

落差500mのハンノキ滝、凄かったわね~」てしばし滝談義。

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中山道、広重描く「上松宿」は、この「小野の滝」を題材としてますね。 

渓流滝は山間の街道沿いで見ますが、本格的な落差の滝を見るのは久しぶりです。

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国道沿いの細い歩道を10分(600m)ほど行くと、中山道は左手に山側の

上り坂道へと分岐します。

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そこに江戸から73番目の荻原一里塚跡で、石碑や案内板が立っている。

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石碑の横にお互いの幹が接して成長した、榎と紅葉の合体木が枝を伸ばしている。

モミジの合体と言えば、間の宿・茂田井で梅の樹に寄生したモミジを、見たことが

ありましたが、合体ではなく梅の枝分かれ二股にモミジが生えてしまってましたね。

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坂道を上りくねくね曲がった道を行くと立場のあった旧萩原村の集落で、

常夜燈も建つ、静かな家並みが続きます。

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集落の南の入口に「二十三夜塔」などがあり、「高札場」が在ったという。 

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 200mほど行った先左手に入ると、
「風越山(かぜこしやま)の湧き水(和水なごみ)」があり
 標高1698.5mの風越山の自然水で,柔らかな口当たりとても美味しい。

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すぐ先1分ほど萩原信号交差点で国道19号に出会い、

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 萩原沢の橋を渡って100mほど進んだ左手に<串ケ下>バス停があり、

此処にも中山道と木曽古道の道標が建ってます。

左手の山の中へ向かう、草道の踏み跡がありました。

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道標から約300mほど歩くと、右側に阿寺渓谷(16㎞)、柿其渓谷(24㎞)

などが記された案内標識が建っている左側に、斜め左側に入る道があり、

左に入ってすぐにJR線路を串ケ下橋梁を潜り抜け右折し緩い坂道をゆくと、

次第に高度が上がって行きます。

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 道の両側草むらにはここでも蕨がいっぱいです。

旅の途中でなければ、しばし山菜取りをしたいところですが・・

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木立の間から木曽川沿いの河川敷に大きなサッカーグランドがみえ、なにか大会が

開催されてる様でした。

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左側にある擁壁の上に、道路整備などで移設したのか、石仏石塔群が集められてます。

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木立の覆いかぶさる山道を、まがりくねって少し進むと、4.5軒の宮戸集落です。

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さきに進むと民家の前側壁に、

木曽古道「〇〇方面は庭を真っすぐ通りください」とあり、中山道も合しての

道筋のようで、古い土蔵の脇を通って草道へと入って行きます。

うん?家からカラオケが聞こえてる!集会所になってるのかな?

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脚に優しい草道を歩き、右下の中央線の土手下へ「くるみ坂」を急降下し、

道標の建つところで、正面の石段を上らずに右手の立町橋梁を潜って

国道へとさらに降りてゆきます。

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坂を下った左手に鳥居が建ってます。

神明神社の鳥居で、上松の立町地区と倉本地区の鎮守の神社として、

300年以上の長い歴史を有する神社ですが、急な石段の参道は途中で

JR中央西線で分断されていて、国道筋から直接参詣することができない。

(さきほどのくるみ坂を下った正面の石段が、神社へと続いてるそうです)

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すぐに左の線路下の道に入り2,3分で再び国道へ,立町横断歩道橋で国道の

西側に渡ると、立場の有った立町集落へと入ります。

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「坂口屋」とか「つたや」といった屋号を掲げる家、水神碑と水場など

かっては旅人で賑わっていたと、ちょぴり思わせます。

 

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空沢橋の先右手に入ると、木曽川に架かる木造の吊り橋の「諸原橋」が

ありますが、今は老朽化が進み渡ることはできません。

(撮影はピンボケで失敗、アップは拝借フォットです)

f:id:hansui:20180513111915j:plain集落を抜けて再び国道19号へ。

中山道は、中央線線路側を越えで左手へ倉本集落へと続いていたようですが、

国道、鉄路で分断されて消滅です。

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国道をおよそ600m,

PM3:30、今日の中山道歩き旅の足止め地点「倉本駅下」到着です。

木曽福島より、4里、約16km、お江戸日本橋より290km

中山道は、写真右端の中央線ガードを潜って続いてゆきます。

 

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国道のバス待合所で持参のオヤツタイム。

PM3:52、コミニティーバスに乗り、木曽福島駅へ。

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高速道事故渋滞に合いましたが、PM10:30帰宅、

中山道夫婦歩き旅、第25回目の

           「おわり」