甲州街道44次 歩き旅 1

新年の幕開けは、快晴の穏やかな夜明けで開きました。

初日の出、初富士、家から自転車で10分ほどのスポット農道には、

例年以上の大勢の方々が見え、特に若い方が多かったですね。

2023年(令和5年)、今年は春に83才、カミさんは76才を迎えます。

令和5年初富士

昨年は春にコロナで5年がかりの中山道69次の街道旅を終え、11月には3年掛りで

日光街道を完歩。

2013年2月に東海道53次へ一歩踏み出してから9年がかりでしたが、

江戸幕府道中奉行管轄の5街道のうち、3街道、計293里・1178kmを

歩き終えました。

東海道53次 京都三条大橋到着 平成28年6月18日 (2016年)

中山道69次 京都三条大橋到着 令和4年年4月7日(2022年)

日光街道21次 栃木県日光市神橋到着 令和4年10月30日 (2022年)

すっかりライフワークの街道歩き旅だが、年と共に足腰の衰えは如何ともしがたく、

「来年も歩き旅続けられるかな・・・」とつい弱気の一言も。

正月も3日になって、カミさんが「明日、甲州街道旅立ってしまわない!」

と、なんと急遽4日、4街道目の甲州街道へ旅立ちすることに。

「前にさえ足を出せれば、よたよたでも旅は続けられる。あとは気持ち(気合)次第」

「旅立ってしまえば、気持ちも動くだろう」と、あれこれ弱気になったのを

と読まれたような?

 

令和5年1月4日(水)世は仕事始め。ならばこちらは老々旅始め。

なんて意気込んだ訳ではありませんが、ラッシュを避けてゆっくり電車へゆられ、

街道出発点「お江戸日本橋」へ。

AM11:00 東京・日本橋、4度目の旅立ち。

東海道中山道日光街道甲州街道の起点は江戸川(今の日本橋川)に

架けられた、日本橋

日本橋川は東京都千代田区中央区を流れる荒川水系一級河川です

徳川家康が幕府を開き、直後の早くに町地として開発され日本橋が架けられ、

ここが江戸と全国主要都市とを結ぶ五街道の起点。

交通の要所として定められてからは、江戸時代の越後屋(現在の三越百貨店)をはじめ

大店が集まり、また付近には金座や銀座が置かれるなど金融の中心でもあり、

江戸を代表する場所として大いに繁栄を極めたところでした。

現在でも日本橋界隈は、日本銀行本店や東京証券取引所など日本を代表する金融街

あり、また老舗の百貨店を含む商業施設や問屋街、製薬会社が連なる地域となって

います。

また築地から現在豊洲の新市場へ移転した市場も、元々は日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿い一帯にありました。

三越日本橋に面した建物の壁面に掲げられているエンブレム(社紋)の周囲には

多数の魚が描かれていて、その魚はこの日本橋魚河岸にちなんだものなのだという。

日本橋の手前に東京市道路元標、さらに日本国道路元標の複製が飾られています。

(実際の日本国道路元標は日本橋の中心の橋の上の路面に埋め込まれている)

甲州街道は、関東地方(武蔵国)の江戸に幕府を開いた徳川家康が、

慶長8年(1603年)に諸国を結ぶために整備した5つの主要な5街道、

(東海道中山道奥州街道日光街道甲州街道)の一つです。

甲州街道は正徳6年(1716年)正式名称は「甲州道中」となったが、甲州道中と甲州街道の表現が併用され、一般的には「甲州街道」と称することが多かったという。

江戸の日本橋を起点とし、八王子、甲府(山梨県)を経由し、諏訪湖畔の諏訪大社下社

秋宮付近にある中山道との追分、下諏訪宿を終点としています。

総距離約53里24町(約211km)。

その間に44の宿場があり、終点の下諏訪宿が45番目。

江戸から甲府までの37宿を表街道、甲府から下諏訪までの7宿を裏街道と呼んだ。

甲州街道終点兼中山道との追分)

江戸の日本橋から下諏訪宿というと中山道があり、当時はこの中山道のほうを使うのが一般的で、参勤交代の際に利用した藩も信濃高遠藩、高島藩(諏訪藩)、飯田藩の僅か

3藩だけで、それ以外の藩は中山道を利用していました。

中山道ルートは、途中に碓氷峠(標高約1,200m)、和田峠(標高1,600m)という難所と

言われる険しい峠あり、一見、甲州街道ルートと比べ随分と遠回りをする印象を

受けますが、中山道下諏訪宿までは総距離約56里約217km)、

甲州街道ルートと比べ僅かに6km遠いだけで、甲州街道にも笹子峠小仏峠という

難所の峠があり、甲州街道は将軍徳川家が軍事的目的で重要視したことが強く、

警備が厳しく、短い街道であるにもかかわらず、小仏と鶴瀬の2箇所に幕府直轄の

関所が設けられ、また、街道沿線の整備の状況も中山道に比べて悪かったという。

軍事的側面の強い街道だったのですが、太平の世になると信濃〜甲斐〜武蔵の流通が

盛んになり、甲州街道も大いに栄えるようになったという。

日本橋を後にし東海道と同じく銀座方面へ向い、50m程先で日本橋交差点を

右折して永大通りを西方向(JR東京駅の方向)に進みます。

この日本橋交差点は東海道との追分(分岐点)になっていて、直進する西方向銀座方面が国道15号線の旧の東海道

日本橋交差点を右折して、永大通りを西方向(JR東京駅の方向)に5分ほど行くと

「呉服橋交差点」で左右に交差するのが、かってはお濠の有った外堀通。

昔は江戸城の外堀があり、今は埋め立てられたが、呉服橋、一石橋、常盤橋、、鍛冶橋とか、多くの橋が架かっていた。

交差点を渡って右折し、すぐ先が高架下日本橋川に架けられた「一石橋」。

この一石橋は、旧江戸城外濠と日本橋川の分岐点に架橋され、

名の由来は、北橋詰の本両替町には幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰の呉服町には

幕府御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、橋損壊の折りこれらの両後藤家の援助に

より再建されたことから、後藤の読みから「五斗(ごと)」、「五斗+五斗で一石」と

もじった洒落から「一石橋」と名付られたという。

現在の橋は平成12年(2000年)に架け替えられたものですが、その前の橋は大正11年(1922年)に架けられた鉄筋コンクリートRC花崗岩張りの見事なアーチ橋で、

橋長43m、幅員27mで親柱は4本、袖柱は8本。市電(路面電車)も通っていて、

関東大震災以前のRCアーチ橋としては都内最古のもので、平成14年(2002年)に

南詰の親柱1本を、中央区が区民有形文化財建造物に指定し保存されています。

南詰親柱の左手には安政4年(1857年)に建てられたという石標

「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」なる碑が建っています。

江戸時代~明治時代付近はかなりの繁華街で迷い子が多く出、当時は迷い子は地元が

責任を持って保護するという決まりがあり、“しるべ”の左側には「たづぬる方」と

彫られた窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、右側の「志(知)らする方」

の窪みに、それを見た心当たりがある場合は、その旨を書いた紙を窪みに貼って、

迷子、尋ね人を知らせ合った伝わっています。

この「満よひ子の志るべ」は浅草寺境内や湯島天神境内、両国橋橋詰など

往来の多い場所に数多く設置されたが、現存するものはこの一石橋のものだけという。この一石橋の「満よひ子の志るべ」は東京都指定有形文化財に指定されているという。

呉服橋交差点を過ぎ、まもなくJR東京駅という丸の内トラストタワーの手前のところで左折し、路地裏のような細い道が甲州街道

この細い道を少し進んだところにあるのが御存じ“TVドラマの

「北町奉行・遠山左衛門尉様、ご出座ぁ~!!」の遠山の金さん,名奉行・遠山金四郎景元で知られる「北町奉行所」があったところで、碑がありました。

南町奉行にはあの最後には大名となった大岡越前も、徳川吉宗の時代に就任している。

ちなみに、初代北町奉行徳川幕府開府の翌年、三河以来の譜代の米津勘兵衛が、

家康直々の命で初代北町奉行に任じられたという。

甲州街道丸の内トラストタワーの敷地に沿って右折し、そこから江戸城(皇居)の

和田倉壕に向かってほぼ真っ直ぐ延びていましたが、

現代の街道は日本を代表する巨大ターミナル駅東京駅の駅ビルの1階、

「北自由通路」が、八重洲北口から丸の内北口を繋ぎ、この「北自由通路」が

「東京駅の中の甲州街道」でした。

何度か通ったことにある通路ですが、街道として意識して歩くとは思っても

いなかったですね。

東京駅の丸の内北口に出てきました。

丸の内は徳川家康天正18年(1590年)に江戸城を居所とする前までは東京湾

一部で、日比谷入江と呼ばれていました。

天正20年(1592年)から入り江が埋め立てられ、新たに外堀が作られ、

「御曲輪内(おくるわうち)」と呼ばれるようになり、さらに堀で囲まれた内側という

意味で「丸の内」とも呼ばれていました。

さらに、親藩譜代大名江戸藩邸が24もあったため大名屋敷が立ち並び、

大名小路」とも呼ばれていたという。

現代は三菱の手でオフィス街が築かれ三菱グループ各社の本社や三菱地所所有の

オフィスビルが集中しています。

甲州街道は丸の内の北側を江戸城和田倉壕に向かってほぼ直ぐ延びていました。

そんな高層ビルの谷間に桜が咲いていた!!

十月桜のようだが、まだ咲き残っていたんですね。

丸の内北口から和田倉壕に向かって150m程、右手の豪壮な雰囲気のビルヂング

日本工業倶楽部で、このあたりは「伝奏屋敷(てんそうやしき)」があったという。

伝奏屋敷は武家伝奏または勅使の宿舎として江戸に設けられた屋敷です。

武家伝奏は朝廷に置かれた役職で、江戸幕府との各種交渉がその主な仕事でした。

その武家伝奏たちが宿泊することから伝奏屋敷と名付けられました。

伝奏屋敷は広さが坪数にして2,530坪もあったと言われています。

赤穂義士忠臣蔵と言えば発端は江戸城内の松の廊下が有名ですが、そもそもの発端は

この伝奏屋敷で、浅野内匠頭吉良上野介から勅使接待の指導を受けていたことから

発してたといいます。

伝奏屋敷の北隣には評定所がありました。評定所は幕府の最高裁判機関で、

当時は各種政策の立案や審議もここで行われていて、三奉行(寺社奉行町奉行(北町&南町)、勘定奉行)が対応していたそうです。

更に150m程進むと横切る大通りは日比谷通りで、横断歩道で渡ります。

渡ると皇居の内濠で日比谷通りに沿って左手へすすみます。

皇居(江戸城)を取り巻く一連のお濠(堀)が内濠(内堀)でそれぞれ名称が付けられ、

ここはその1つ、「和田倉濠」。左手濠に木橋の面影を残したコンクリ-ト橋の

和田倉橋が掛り、橋を渡ると和田倉門が有ります。

日比谷通りに沿って130m程で和田倉門交差点。

その先からは馬場先濠となり、和田倉門の交差点で行幸通りの広い道路が交差し、

その先は馬場先濠に沿って日比谷へ向かいます。

和田倉門の交差点の行幸通り左手奥、突き当りに見えるのは赤レンガの東京駅です。

丸の内にある歴史的建造物と言えば、東京駅丸の内駅舎で、この建物は辰野金吾

設計により大正3年(1914年)に竣工した鉄骨レンガ造駅舎。

関東大震災でも大きな被害は受けなかったのですが、昭和20年(1945年)の空襲で損壊。戦後、3階建てを2階建てとする応急的な復興工事が行われました。

2003年に国の重要文化財に指定され、2012年に元の3階建てに復元されました。

西奥は皇居前広場へと向かってます。

行幸通りを横断し日比谷通りを南へ進みます。

右手の馬場先壕に渡り鳥の水鳥が十数羽。もう来ていたのか、キンクロハジロ

あまり見かけないな~君の名は?幼鳥なのかな・・

たしか、バンだったね。

左手のローマ風円柱の立派な建物は明治安田生命保険相互会社の本館

(略称:明治生命館)です。

第2次世界大戦後は、進駐してきた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、

昭和31年(1956年)に返還されるまで、アメリカ極東空軍司令部として使用され、

平成9年(1997年)、国の重要文化財の指定を受けました。

皇居二重橋へ続く406号道、馬場先門交差点。

右手奥に馬場先門が有ったそうです。

奥へズームしてみると二重橋が見えました。

馬場先門交差点を横断し、右手壕は日比谷濠で、左手に帝国劇場、

そして、左手にの方柱10本が立ち並んだギリシャ風の豪壮で美しい建築館は、

平成16年(2004年)には東京都選定の歴史的建造物に指定されてた第一生命館。

この建物は第二次世界大戦中は陸軍により東部軍管区司令部が置かれ、屋上に高射砲陣地が設置されていました。

終戦後の昭和20年(1945年)にGHQに接収され、総司令部本部として使用され、

昭和27年(1952年)7月に返還されるまで連合国最高司令官総司令部として使用されて

いました。館内には連合国軍最高司令官を務めたダグラス・マッカーサー元帥の

執務室がそのまま保存されているのだそうです。

平成元年(1989年)から平成7年(1995年)にかけて再開発保存されてます。

その先は日比谷通りと晴海通りが交差する日比谷交差点です。

昔から交通量が多く、昭和5年(1930年)に日本初の電気式信号機が設置された。

お濠と甲州街道はここで右折し、晴海通りに入ります。

路は右折しますが、左手は日比谷公園が広がっていて、日比谷交差点渡って

50余年振りに公園内へ足をいれました。

まだ婚約中にカミさんとデートで歩いたことが有ったんですが、まるで初訪問の

感じでしたね。

おや、新春の紅葉景色?

日比谷交差点からの入り口から入ってすぐに「日比谷見附跡」の碑が建っています。

「見附」とは、街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所のことです。

この石垣は江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部で、城の外側から順に、

高麗門(こまもん)、枡形、渡櫓、番所が石垣で囲まれていたが、石垣の一部だけが

ここに残っているという。

江戸時代は石垣の西側は濠となっていましたが、公園造成時にその面影を偲び造成した

「心字池」がありました。

全体を上から見ると、「心」の字を崩した形をしているのだそうですが・・。

池端のムラサキシキブの実がまだ綺麗な色合い。

池の岩陰のアオサギ君、君は何を見つめてるのかな?

江戸時代の日比谷公園は、仙台伊達藩三代藩祖綱宗まで、仙台藩桜田上屋敷

あった所で、伊達政宗は江戸参勤の折、寛永13年(1636年)この地で70年の生涯を

閉じた、と「仙台藩伊達政宗 終焉の地」という案内看板が立っていました。

街道へは戻らず、そのまま日比谷公園内を歩き、日比谷交差点から10分ほどの

祝田門から甲州街道へ戻ると二重橋へ通じる祝田交差点。

甲州街道である国道20号線(国道1号線と重複)は、この祝田橋交差点で晴海通りから

内堀通りに変わり、祝田橋を過ぎて内濠も日比谷濠から「凱旋濠」に変わり、

内堀通りをお濠に沿って桜田門へ歩いています。

左側は官庁街で江戸時代は大名屋敷が並んでいた所。

資料によれば、左手レンガ造りの旧法務省本館は東北米沢藩跡地でした。

この建物は明治28年(1895年)に竣工し、基本設計は明治政府が招聘して建築顧問官を

務めていたお雇い外国人のドイツ人建築家で、実施設計と工事監理は河合浩蔵が行

いました。

戦災の空襲により全焼し、昭和25年(1950年)ころほほぼ建されたが、

平成6年(1994年)の改修工事では文化財としての観点から、創建時の外観に戻され、

法務総合研究所及び法務図書館として利用されるようになりました。

本格的なドイツ・ネオバロック様式の外観に特徴があり、都市の景観上貴重で、

平成6年(1994年)12月27日には国の重要文化財に指定されました。

ちなみに奥の桜田門交差点に建つ建物は、御存じ、桜田門の警視庁で、

元は豊後杵築藩邸でした。

TVドラマなどでもお馴染みの警視庁正面

桜田門交差点のお濠の右手奥は江戸城桜田門で、幕府大老井伊直弼の暗殺事件、

桜田門外の変の門で、正式には外桜田門

昭和36年(1961年)に「旧江戸城桜田門」として国の重要文化財に指定されています。

桜田門から壕は日比谷壕から桜田壕。

桜田門交差点で国道1号は左手に南へ向かい、桜田壕沿いの道は甲州街道国道20号の内堀通り標識が現れます。

弓なりに左手に曲って正面は国会前交差点で奥に国会議事堂です。

現在の建物は昭和11年(1936年)に帝国議会議事堂として建設されたものです。

建物は鉄骨鉄筋コンクリート造り、9階建て。

左右対称の形を成しており、正面に向かって左側に衆議院、右側に参議院が配置されています。

甲州街道(国道20号線内堀通り)は国会前の交差点のところで、内濠(桜田濠)に沿って

緩やかに右にカーブしていきます。
国会前の交差点を渡ったところの地名は「千代田区永田町1丁目1番地」。

内濠(桜田濠)側を歩いて行くので立ち寄りませんでしたが、

街道書によれば交差点を国会側に左手に渡るとちょっとした公園(国会前庭)に

なっていて、江戸の名水「櫻の井」があり、付近一帯は近江彦根藩35万石・井伊家の

上屋敷が置かれていましたとあります。

この井伊家上屋敷跡はそれ以前は加藤清正邸跡で、この「櫻の井」は加藤清正

命じて掘られたものだと伝えられています。

現在の井戸は昭和43年(1968年)、道路拡張のため国会前の交差点内から原形のまま

約10メートル離れた現在の地に移設復元されたものですとも記されてました。

内濠通りは緩い上り坂となってきて三宅坂

坂両側の並木はユリの木の大木が続いてます。

緩い傾斜の三宅坂を進むと右壕端に「柳の井」の案内板が立っていました。

桜田壕の土手下に柳の木にちなむ井戸があって名水として知られたという。

お堀に下る石段がかすかに見えるが立ち入り禁止の様でした。

さらに上ると三宅坂交差点です。

三宅坂交差点は、右手に国道246号(通称:青山通り)の起点となっています。

坂の名前は、江戸時代この坂の途中に譜代大名三河田原藩1万2千石、 三宅家の上屋敷があったことに由来します。

明治維新以降、陸軍の中枢参謀本部三宅坂に沿って置かれ、戦前戦中には「三宅坂」と言えば参謀本部の代名詞でした。

大戦後は付近は米軍に接収されて、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の将校が住む

パレス・ハイツになり、土地が返還された後の昭和40年(1965年)からは国立劇場最高裁判所が相次いで建設されました。

写し方が悪いですが、三宅坂交差点を右手に渡ったところが最高裁判所

坂上国立劇場でした。

三宅坂交差点から街道はお濠に沿って少し急坂の上り坂に成って行き、お濠の土手も

かなり高くなってきました。

街道書によると、このあたりに日本橋を出てから最初の甲州街道一里塚「隼町一里塚」があったが、所在地は不明とありました。

登りつめたところが右手に半蔵門

江戸城西端に位置する門で、大手門とは正反対の位置にあります。

この門内は、江戸時代には吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍や、将軍継嗣などの

住居とされていました。

現在は吹上御苑と呼ばれ天皇のお住まいに一番近く、天皇及び内廷皇族の皇居への

出入りには主にこの半蔵門が用いられているという。

そのため警護は厳重で門前には交番が設置され、一般人の通行は認められていません。

半蔵門の名称については、徳川家の家来服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来するといい。服部家の与力、伊賀同心がこの門外に組屋敷を構えていました。

甲州街道はここから左手にお濠を離れ、ほぼまっすぐ西に延びているのですが、

半蔵門から壕に沿って先は桜の知られる千鳥ヶ淵が続いてゆきます。

西へ向かう街道沿は麹町一帯が旗本屋敷が建ち並んでいたといわれ、有事の際には

将軍家脱出経路と考えており、半蔵門江戸城の搦手門にあたると言えるそうです。。

半蔵門交差点で、甲州街道(国道20号線)は左折し、内堀通りから分かれて新宿通りに

入り、麹町を抜け四谷駅、さらに新宿駅方面へと向かいます。

(50年ほど前、親戚の悲しい出来事の確認をしたことが有った麹町警察署

此処でした。)

警察所から100mほどで麹町1丁目。

街道書では、左手に坂をすこし下ると疱瘡に関わる霊験が伝えられる

太田姫稲荷神社の分社が有り、麹町地域における疱瘡などの病気平癒祈願の稲荷、

とあったのでちょいと寄り道。

更に少し下って右手へ入ると平河天満宮が有ります。

菅原道真を主神に八幡宮東照宮徳川家康)を相殿の神として祭っています。

文明10年(1478)に大田道灌が江戸城本丸内の梅林坂上に勧請したのが始まりと

言われ、徳川家康入城後、本丸修築のためこれを平川門外に移り、慶長11年(1606)

現在の地に遷座しました。 
 徳川幕府に特別な格式で待遇され、紀州藩徳川家、彦根藩井伊家の祈願所でもあり

ました。天保15年に氏子町により奉納された銅鳥居や、力石、狛犬千代田区

文化財に指定されています。

 梅が天神様のシンボルであるのと同様に、牛(神牛)も天神様のトレードマークです。平河天満宮にも撫で牛が1体、石牛が4体鎮座しています。

街道へ戻りさらに15分ほど行くと麹町6丁目、右手に心法寺。

浄土宗で、三河国の秦宝寺から天正18年(1590)に徳川家康といっしょに江戸に来た然翁聖山和尚が創始者です。

墓地には下野皆川藩松平家の墓や酒樽の形の墓などいろいろ面白い墓石がありが

あるそうですが墓地内へは入れません。

境内に、自分の体の治してほしい部分と同じお地蔵さんの体に塩を塗って

お祈りするとご利益があるとされる塩地蔵がありました。

塩を塗られて水分が抜けたため、お痩せになったのか、細身のお体ですね??

すぐ先は四ツ谷、左手は良く知られるのが上智大学です。

現在は地上17階、地下1階建ての白亜の近代的な建物に大変貌を遂げている。

50m程先はJR中央線と総武線東京メトロ丸ノ内線南北線という4つの路線の

四ツ谷駅で、右手に駅東側に回ると「四谷見附」の跡があります。

江戸城の西の玄関にもあたる要所のひとつで、実質的な甲州街道の出発点。

見附とは街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所のことです。この四谷見附は両側を高い頑丈な石垣で固められ、そこに黒々としたガッチリ構えた見附門があったと言われています。この門は六ツ時(午後6時頃)には容赦なく扉が閉められたのだそうです。

甲州街道は四谷見附橋を渡って続いてゆきます。

時間はまだ午後の2時半過ぎ、日本橋からわずか5km強旅をしただけですが、

老々夫婦歩い旅の一日目はここで足止めにしました。

JR中央線で新宿駅へ向かい、かって通勤で通いなれた西武新宿線で帰路へ。

降り立った自宅最寄り駅前では、夕暮れ月が「おかえり」

躊躇していた街道歩き旅、始まってしまいました。

よろよろ亀足、ペンギン歩きでも、足さへ前に出せればいつかは目的地にたどり着く。

さ~て、次はいつの日か・・・。

東京都薬用植物園

久しぶりに電車を乗り継ぎ、東大和市の東京都薬用植物園へ。

園内は秋の色合いを濃くし始め、花は少ないがゆっくり4時間も滞在していた。

鮮やかな紫色系の発色が美しく品の有る「ヤマジノギク」、キク科シオン属。

東海地方以西の草原に咲くヤマジノギクを、大分県農林水産研究指導センターにて、

50年以上の年月をかけて品種改良し、園芸化したという。

例年は10月が見頃だったそうですが、今年はこれからの様子。

隣には鉢栽培デサフラン

園内には藁敷きのサフラン畑もあった。

一番のお目当てだった「センブリ」は少し遅かった様子。

何鉢か栽培されてるが、花がごく小さく、数もちらほら。

山野に生育する二年草で、室町時代から健胃、腹痛などの薬用にされてきたという。

花はセンブリよりも大きく青紫色が鮮やかな「ムラサキセンブリ」

主に中部地方以西に分布する二年草で、野生のムラサキセンブリは自生地の

開発などにより減少し、準絶滅危惧種に指定されている。

そして紫の花は「ハナトリカブト

トリカブト類は山地の林等に自生し野山でよく見かけることが有る、

キンポウゲ科多年草

ハナトリカブトは中国原産のトリカブトで、薬用植物として栽培されています。

特に塊根は猛毒とのことで、鉄柵囲いの中に咲いていた。

ハマナス(ハマナシ)の実

北日本の海岸(北海道から、太平洋側は茨城県日本海側は島根県まで)に生育する

落葉低木でバラ科バラ属のバラ原種のひとつ。

故郷の海岸にはたくさん群生し、花後のトマトのような実はよく口にしたもんです。

ちょと変わったひょうたん型のカボチャ。

ニホンカボチャ・品種名:鹿ヶ谷(ししがたに)」とあった。

濃い緑色から熟して今の茶色のカボチャ。

鹿ケ谷南瓜は京の伝統野菜で、江戸時代の文化年間(1804~1818)の頃山城国粟田村(現・京都市東山区粟田口)の農夫が旅先の津軽から持ち帰った南瓜の種を。

愛宕郡鹿ヶ谷村(現・左京区鹿ヶ谷)の農家にあげ、それを栽培し始めたのが

ルーツだという。

当初は普通の日本南瓜型だったものが、栽培を繰り返すうちにひょうたん型になった

とされ、鹿ケ谷でこの南瓜が作られるようになり、京都では、「おかぼ」と呼ばれ

親しまれてきました。しかし、現在では極僅かしか作られなくなってしまい、

一般市場にはほとんど出回らないとい。

、その形の面白さや季節感から、お茶席などの飾物として飾られるそうな。

鮮やかな紅い小さな実を付けた樹木は「ハナヒョウタンボク」とあった。

赤い実は2つの実がつながって、瓢箪(ひょうたん)形になっていることから命名

秋風にゆらりとそよぐは、少し背丈の低い「ヤクシマススキ」

屋久島原産のイトススキの仲間という。

ロックガーデンに咲く「リンドウ」

根および根茎を漢方処方用薬などに利用。

ホトトギスは終わっていた。

大きな木に今年も鈴なり。

中国原産の落葉高木「オオモクゲンジ(ムクロジ科)」の実。

花の開花期は短く、最盛期には木が黄金色に染まるというが、

花期は9月らしいが、まだ来たことはないんです。

秋の袋状の果実もピンク色に染まって、その光景も花が咲いてるよに美しい。

これも鈴なりの鮮やかな赤い実はいかにも美味しそうな「ガマズミの実」

梅干し並の酸っぱさで、酸味のせいか鳥も好まないらしい。

隣には、おやもうマンサクが咲いている。

アメリカ原産の落葉高木「アメリカマンサク」。

開花期が早く、葉の黄葉とともに糸状の花を咲かせる。
葉や樹皮にタンニン等を含み、民間薬としてきた植物で、現在は化粧水などに

用いられているという。

山ぶどうのような蔓植物はすエビヅル(和名:海老蔓または葡萄蔓)。

ブドウ科ブドウ属で、ヤマブドウや野ブドウもエビヅルの仲間ちう。

実はぶどうの味だそうで、ワインにもなったという。

前方に大木が有り、何やら花が咲いてるように見えた大木は、

中国原産の落葉高木で「カンレンボウ」。

白い球状の花が夏の暑い盛りに咲くようで、訪れたことは無し。
成分は抗がん剤などとして実用化されているという。
秋になる多くの実をつけることから、子孫繁栄・喜びの木として、

別名をキジュ(喜樹)という。

小さな可愛らしいバナナの実のようなカンレンボクの実

鮮やかな赤紫の実は、アジアやアフリカの熱帯原産のローゼルアオイ科の実。

花はオクラによく似ていて、実はハイビスカスティーの材料として利用される。

食用になるのは萼(がく)および苞(ほう)と呼ばれる部分で、上側の赤い部分が苞、

下側のトゲトゲした部分が萼で、どちらも赤くなった頃が食用に適しているという。

(花は昨年訪れた時の写真です。)

青空の下、大きく咲いていたのは、アフリカ原産のアオイ科ケナフ

麻の仲間で、ジュート(黄麻)の代用繊維として、また木材繊維に代わるパルプの原料としても利用され、エジプトのミイラを包んだ布もケナフが使われているという。

近くにまだ花の残ていた「ラッキョウ」の花。

珍しかったのは「クロホウズキ」の実

ナス科、 オオセンナリ属、 オオセンナリの園芸種、

花後にはホウズキのような袋が出き、中には黒い実。

葉には、ハエや虫を寄せ付けない成分が含まれているという。

そして最後は、園内で遠くからも見えてる大きな樹が紅葉している。、

大木はムクロジ科の「ハナノキ」
日本固有種で、愛知県北東部から岐阜県南部・長野県南部にかけての丘陵地などに

自生する落葉高木。
花は残念ながらまだ見たことはありませんが、春、葉に先がけて咲く紅色の花序が特

徴的で「花の木」の和名があるという。
晩秋には鮮やかな紅葉を見せるが、個体群の存続が危ぶまれるため、

絶滅危惧植物に指定されています。

中山道の歩き旅の折り、岐阜県の山中で群生を初めて知り、近江(滋賀)路では

お寺などの境内で、綺麗な紅葉を見たことが有った。

来春には、ぜひ花を見たいもんだと思ってます。

中山道、近江路(滋賀)で出会たハナノキ紅葉

薬草園の花木、実りはまだ沢山ありますが、またの機会に。

日光道中二十一次 第15歩 完歩編 

平成4年10月30日、日光街道最後の歩き旅へ向かいました。

早朝の電車を乗り継ぎ、前回足止め地の第20宿今市へ。

 駅前旅立ちショット

天気予報は冬型だったが、予想より暖かく。ジャンパー類は腰に。

 駅より300m程行き、小倉町交差点で国道19号の日光街道へ復帰。

右手にはに追分地蔵見守る、日光街道と例幣使道との追分。

交差点を左折して、街道(国道119)を少し先の道を右手へ入ります。

100m程左手の二宮報徳神社に沿いながらさらに100mほど行った右手が、

浄土宗・如来寺の別院玄樹院(埋葬など墓地の為の別院のようです)。

入り口右手の如意輪観音像は寛延2年(1749年)の建立。

左手には弘治3年(1557年)造立の今市最古の地蔵尊像が祀られてます。

頭部は失われたと聞いていたが、最近新しく付け替えされたそうです。

同じ道を戻り、二宮尊徳を祀る報徳二宮神社へ。

鳥居前に建つモニュメント?

どちらも尊徳さんのようだが、良くわからない。

木の一本彫りのようだが・・

説明板には、

嘉永6年(1853年)徳川幕府の命を受け旧日光神領八十九カ村の復興に入村し、

農村復興指導中、安政3年(1856年)報徳役所にて70歳で逝去、とあり、

遺言通りの質素なお墓おはかです。

かっては学校には必ずありましたね。

神社を後に右手に行くと、左手に最近できた様子の道の駅があった。

あとで寄ることにし少し先へ足を進めると浄土宗如来寺がある。

街道書によると、

室町時代中期に創建で、江戸時代には東照宮御造営の際、徳川第三代将軍家光が

宿泊するために壮大な御殿が境内に建てられた。

1665年には御殿の建物が如来寺に下附されたが、1742年には火災で焼失し

御殿が再建されることはなかった。

また、安政3年(1856年)には二宮尊徳翁死去の際、葬儀が行われた寺、とある。

境内の観音堂

如来寺を出て開業7年目という道の駅へ寄り道。

朝が早かったので、ベンチをお借りして早めのお昼に。

うん、美味しかったです。

国道側向かいには創業天保13年(1842年)という銘酒「日光誉」の蔵元

渡邊佐平商店があった。

隣の信金場所が、天保14年(1843)焼失した今市高橋本陣跡。

今市も江戸時代の面影を残す建屋は全く残ていない様子。

街道は街灯のみで電柱無しの街並みです。

更に200m程行くと、右手の細い通りが旧会津西街道で会津若松まで

28里約112km。

100m程先春日町交差点が現会津西街道、越えて100m程先左手にある

「今市宿市緑ひろば」には明治天皇御小休之蹟碑。

街道書では脇本陣跡とあるが、別説では高橋本陣跡とは別の年代に運営されていた

岸本陣跡ともあり、幕末には〝天狗党〟の仮宿として使用された記録もあるという。

10mくらい先右手参道を入ると浄泉寺。

家光の日光山移葬のおり安置されたと街道書にはあった。

(立ち寄り無し)

すぐ先は左手に天応2年(782年)創建という古刹、今市の総鎮守瀧尾神社。

社宝は山岡鉄舟の大幟と正宗の太刀と街道書のある。

社前が今市宿の北木戸で、今市宿を後にし、街道は再び杉並木(中)となり日光山へ

向かいます。

鬱蒼とした3.5kmほどあるという杉並木。

杉並木の右手には杉並木公園が並行して続いています。

公園には水古民家や風車が回っています。

今市市は杉線香の生産日本一を誇っていて、かつては杉線香生産の動力として

水車が利用されていたという。

一角には「朝鮮通信使今市客館跡」を示す大きな石碑が

あった。使節は12回来日し、3回ここに宿泊して東照宮の参拝を行ったという。

杉並木にもちょいと分かれて、公園内を散策で進みます。

おや、この倒れた象はなんだろう?

杉並木街道へ戻ります。

杉の大木には個人名や企業名の札が付いた樹があり、調べてみると杉並木オーナー制度というもので、杉並木保護に賛同された人が、杉1本につき1000万でオーナーになる

という。は~自分的には無理だな・・・・

右手林の中にあるのは高龗神社(たかおじんじゃ)。

境内の石灯籠は嘉永7年(1854年)建立で、寒念仏供養塔などがあった。

車両通行止めではないので入って来た車があった。

そろそろ両塚を残す、と街道書にあり北塚は切株を残す「瀬川の一里塚」があるらしいが、良くわからない。

左手の竹藪がそうかな?

あとで調べると南塚は国道側へ出ないとわからないらしい。

杉並木がいったん切れ、集落の中を抜けて行きます。

民家の庭には十月桜が咲いていた。

再び杉並木になる左手細い道入り口に、大日如来堂の標識が有った。

境内には十九夜などの石仏石塔があるというが、立寄らずに先へ。

杉並木道は再び特別保存地域の杉並木となり、左手の古そうな杉の大きな切り株は

街道書に七本杉の切株とある、七本の杉が密着して生えていた株跡と思うが。

(ここも示すものは何もなし)

別資料によれば、

7本の杉が1つになった巨大な杉で、2本は強風によって倒れ、本は老朽化による

倒木の恐れがあるということで、1968年に伐採されてしまった、とあった。

街道には側溝があり、きれいな水が音を立って流れて行きます。

すぐ先で再び杉並木が途切れ2,3軒の民家が現れ。

内1軒は日光彫工芸店作品が何点か展示されていた、

再び杉並木へ入ります。

10分ほど行くと右手に砲弾打込杉との案内板があった。

戊辰戦役の激戦地で、杉の幹に官軍が放った砲弾が当たって破裂した痕跡が残る、

とある。

後の杉のこれかな?

10分ほど杉並木をゆくと右手草むらに石碑が見えた。

街道書にある神道系の「代々馬力神」だった。

すぐ先右手の木々の中に石柱が建っている。

旧幕府軍の陣地後で、旧幕府軍と官軍との日光を戦場とすることで、

日光寺院の要請により官軍参謀の板垣退助が停戦を決断した、などの経緯が

あるそうです。

杉並木を15分ほど行くと、廃屋現われ、5分程先に何軒かの民家が有りました。

5分ほど先右手に街道脇に釣鐘が置かれたお堂は元龍蔵寺跡の野口薬師堂で、

境内には如意輪観音像等多数の石仏が残されていた。
道端の釣鐘は明和5年の造立だが重みで龍頭が壊れて以来放置状態というが、

よく見るとなんと石造りの梵鐘でビックリ。

普通は青銅製まれに鉄製と言われてるが・・・

”ゴーン”と鳴り響いたでしょうか???

なぜ石造りなのか、詳しいことは判らないままです。

5分程先で街道はY字路形になり、右手に分岐道は日光古道だそうだが、

先は洪水で失われたと街道書にある。

左手に回り込むように街道は続き、左手には石仏石塔群があった。

先で杉並木は途切れ、右手を併行すtる国道とに挟まれた集落内の道となり、

街道は今風石畳道になっている。

200mほど程行くと国道119(日光街道)と合流。

合流国道左手に、寛政3年(1791年)建立という常夜燈が建っている。

この常夜燈は近くの日枝神社のもので〝日光型〟と呼ばれている少し形の変わった

角型の常夜燈です。

合流した国道は杉並木は途切れ、左右に民家が数軒立ち並び、スピードを出す

車の行きかう国道119号。

周辺は七里村と呼ばれていたようだ。

おや、ホトトギスが咲き残ってるね。

その先は杉並木に成ったり途切れたいの国道だ続きます。
歩くのは路肩ぎりぎりの白線内でかなり注意が必要。

5分ほど行くと右手に墓地が現れ、街道書には「元泉光寺後で、戊辰戦争宇都宮

の戦いで戦死した隊士の墓がある」とある。

小さいが白い木柱付近の墓石だろうか。

集落のある付近は、少しは歩き幅もあって有難い。

かわいいオブジェ。

左手に現れたのは、七里村の鎮守・生岡(いきおか)神社への道標。

草道らしきものもなかったが、かっては参道があったのかな。

再び杉並木道が始まり、歩道帯は極わづか。

ビュンビュウン行き交う車にびくびく歩く。

並木太郎」とか「銀杏杉」と名の付いた大きな杉があるようだが、ゆっくり探しながら歩く余裕がない、

並木太郎、これかな? 銀杏杉は根元が似てるけど?

歩道帯の無い杉並木道を20分ほど行くと左手に明治天皇七里御小休所の碑が有った。

少し歩きやすい幅になった歩道帯を、10分ほど行くと右手にレトロは洋館が見えた。

全11室という人気の宿泊施設という。

更に200m程行くと宝殿交差点で二股となり、街道は右手へ入ります。

交差点付近に、江戸日本橋より35番目の最後の七里の一里塚が有ったそうですが、

現在は一不明と街道書にある。

更に200mほど狭い歩道帯を行くと、二股で左手に車のほとんど入らない

旧道杉並木を歩きます。

旧道を50m 進むと左側に椅子のような石があり『異人石』と呼ばれるいうそうです。
明治初期に来日し、東大医学部の前身である東京医学校で長年教鞭をとり、

『日本近代医学の父』と称されるドイツ人医師『エルヴィン・フォン・ベルツ』が、

日光杉並木を大変気に入り、いつまでも座って眺められるよう職人に頼んで

加工してもらった石、という。

200m程で杉並木は抜け、東武日光線のガードを潜り、すぐに右手の細い草道へ

登るのが旧街道。

杉並木道は特別保護地域として120mほど続いてます。

国道へ合流出口には、数基の石塔があり、街道書には馬力神、馬頭観音、勝善神等が

祀られてる、とあった。

国道から一旦普通地域になるがすぐに杉並保護地域に。

最後の杉並木道をゆっくり200m程歩くと相生町交差点で、

左手に史跡・日光並木街道普及並木寄進碑と、

特別史跡特別天然記念物日光卯木並木街道碑とが建ってます。

相生交差点を街道(国道)から折れて右手へ回ると、JR日光駅

すぐ先には東武日光駅があり途中に享和2年(1802年)男体山出羽山講中

建立したという日光常夜燈が建っている。

その先すぐに東武日光駅の駅舎で、すぐ先が街道(国道)で、日光山へと続きます。

街道(国葬119)へ出ると左手が杉並木最後の出口で、

日光街道最後にの宿場・21宿目の鉢石宿の入り口木戸があったと街道書にある。

鉢石宿は日本橋から21番目、日光街道最後の宿場である。

宿場町鉢石宿は1843年時には、本陣 2 脇本陣 1 旅籠 19 人口 985人。

徳川家康東照宮に祀られると、日光街道のゴールである神橋までの間は、日光東照宮門前町として栄えた。

電柱は地下化され道幅も広くなり、かっての宿場町としての面影は全く見られない。

木戸口跡から10分ほど右手に天台宗・龍蔵寺。

源頼朝の忠臣、畠山重忠の息、重慶が健保元年(1213年)創建と街道書にある。

畠山重忠は〝坂東武士の鑑〟と称された武将でしたが、頼朝死後の実権を掌握したい

北条氏の謀略により【畠山重忠の乱】を誘発され嫡子と共に討れしまい、

難を逃れていた重慶も、8年後に3代将軍源実朝の命で鵜tれていまったという。

境内には重慶供養碑や、戊辰戦役で戦死した芸州藩士の墓があった。

裏手には西行に謂れある西行戻石があるという稲荷神社がありますが、

立ち寄りはなし。

300mほど右手の蕎麦屋は入江家本陣跡。
往時は本陣を兼ねて菓子屋を営み、日光御宮御用達を務めた、と街道書にある。

向い左手には創業天明7年(1787年)創業、羊羹の老舗「綿半」があります。
日光山輪王寺御用で、寺門章「鎹山(かすがいやま)」を看板に使用してます。

5分ほどの右手現「さんフィールド」は高野本陣跡で、日光山の僧が建屋た松尾芭蕉

句碑が庭に有ったと、街道書には記されていた。

若いお二人さん、いいですね~

高野本陣跡から10分ほど、左手の瀟洒な建物は旧日光市役所庁舎。
大正時代、訪日外国人旅行者を対象として建築されたが、実際にはホテルとして

営業したことはなかったという。登録有形文化財、近代化産業遺産、

周辺は公園として整備され、今年の春に開園したそうです。

道路向かいの建物左手脇の坂を下れば、宿場地名の由来のなった

「鉢を伏せたような石」があると街道書に有り、明日寄るつもりでいて

立ち寄りを忘れてしまった。

5分ほど行くと、左手に観音寺の大きな石寺標。

弘仁11年(820年)弘法大師の開基。

急坂を登るため、立ち寄りは翌日31日でした。

急坂の参道脇に咲く大文字草、隣はなんでしょう?

山門を入った正面に千手観音を祀る観音堂

山門右手の崖階段道は観音道あとあり、多くの観音石仏が見守てます。

宿入り口から、ず~と緩い上り坂。
いよいよ夕暮れ迫る、日光山の二荒山神橋、日光街道の終点が近づいてきたようです。

左手に現れた建物は「国重要文化財」の金谷ベーカリー。

建物前の植え込みの中に建つ像は官軍総督府参謀・板垣退助像。

旧幕府軍と官軍との戦いに日光を戦場とすることで、日光寺院の要請により

官軍参謀の板垣退助が停戦を決断し、日光を戦火から守った由来によって

建てられたという。

右手に日光山に向かって、日光山の貫主となった天海大僧正銅像

令和4年10月30日(2022年) PM3:50

日光街道終点へ到着です。

(神橋周辺は日曜ともあって大混雑で、到着記念ショットは、翌日改めてお互いに

 写し合い)

思えば、2013年2月に東海道五十三次日本橋を旅立し、

(二人とも若いね~)


東海道53次    約127里   約496km
中山道69次  約136里 約526 km            
日光街道21次 約 36里 約144km
江戸期、徳川幕府が制定整備した5街道の3街道。
計293里・1178kmを、9年余ヵ月で歩いたことになりました。
う~ん、我ながら夫婦二人で、よく物好きに歩いたもんだな~と・・・・

さあ、このあと夕暮れの日光山輪王寺へ山を登り庭園、「逍遥園」の夜間拝観へ

向かいます。

お付き合いありがとうございました。

日光街道二十一次、旅を終えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鉢石宿の街並み
「鉢石宿」。 東照宮に向けてゆるく連続する坂道の両側には、日光名物の湯葉や羊羹の老舗が並ぶ

 

地名の由来となった「鉢石」が残る。 地表に露出した岩盤で、鉢を伏せたような形をしていることから「鉢石」と称された。

 

金谷ホテル入口には板垣退助の像が立つ。 戊辰戦争の時、幕府方の大鳥圭介と官軍の板垣退助が話し合い、日光を戦火から守った功績により像が立てられた。

 

 

日光道中二十一次 第14歩 (二日目)

明けて10月22日、朝食を済ませ駅前8:25のバスに乗り小一時間。

昨日足止めの山口バス停に降り立ち、AM9:20二日目の旅立ち。

いまは空は白い雲に覆われてるが、わりと暖かい朝。

予報では日中は陽が出て、昨日より気温は上がりそうで服装を改めてパチリ。

(三脚がないので路面から、露出を誤まったね)

路肩に綺麗な黄色いオシロイバナがまだ咲いていて、おや、紫陽花も返り咲きかな。

左手垣根越しに立派な蔵が見えている。

大谷石より色合いが薄い感で、この蔵も徳次郎石造りかな?

バス停から10分ほど進むと、道の左手は路肩歩きになるため、街道書では右手の

草道を行くとあるので、車の行き来を見計らって右手へ渡り、車道より一段高い

畑脇の草道を歩きます。

サザンカ?椿?

おや、アケビでは。

杉の花芽だね、花粉の時期は日光街道は要注意だ。

この実はヤマユリではないかな・・・、

そろそろ弥勒堂跡で地蔵尊など石仏や石灯籠と街道書にあるが、それらしきは

見当たらない。

歩道帯は一段高い所だったので見えなかったかな。

バス停より1km強ほど歩き、車道へ下ると先の道は二股になり、

右手が旧日光街道(国道119号)、左手に向うは国道119号バイパスとなる。。

ここから本格的に日光杉並木街道が始まり、全国で唯一国の特別史跡

特別天然記念物指定されてます。

日光街道に入り、100m程行った左手に建つのは「杉並木寄進碑」。

碑は日光杉並木の完成を記念して慶安元年(1648年)に立てられ、植栽された当時は

2万4000本ほどあったようだが、年間100本ほどが寿命で失われているという。

今は日光街道(大沢〜日光/16.52km)、例幣使街道(小倉〜 今市/13.17km)、

会津西街道(大桑〜今市/5.72km)の総延長35.41kmの間に、1万2500本もの杉並木が現存するという。

日光杉並木はこの3街道の並木の総称ということです。

寄進碑は、他に日光の神橋・例幣使街道小倉・会津西街道大桑の計4ヶ所に

建てられているそうな。

街道書によると、

東照宮に通ずる街道の杉並木を徳川家康、秀忠、家光の三代に仕えた

武州川越藩主・松平正綱が、寛永2年(1625年)から約20年の歳月をかけ杉を

植栽し、家康23回忌に東照宮へ寄進。

碑は日光神領との境にある所から『境石」と呼ばれた、とある。

日光杉並木街道は、「世界一長い並木道」として1992年にギネスブックにも登録。

バイパスによってクルマの通行もほとんどないが、車は通行止めではないので、

観光らしい車がたまに走ってくる程度で、静かな杉並木は実にいい雰囲気。

杉並木も現状により、普通地域と特別保護地域に区分されている

幹回りが7m以上高さ30~40mもの巨大な杉が続く様は圧巻で、延々続く並木道に、

街道時代を偲ぶ風景を見ることができます。

松でなく、杉を植えた理由は!?
なぜ松並木でなく杉並木なのかは、比較的温暖な東海道と異なり、冷涼で杉の生育が適していることだそうです。
東海道でも、山越えの箱根・芦ノ湖湖畔部分は杉並木となっている。

江戸時代、並木は日光奉行が厳しく管理し、枯れた際には速やかに補植されていました。
明治政府は財政再建のために杉並木の全伐を計画しましたが、日光を愛した

イギリス公使バークスの進言で断念という歴史があるそうです。

碑から10分強程で杉並木を抜け、150m先の大沢交差点でバイパスと合流し、

大沢宿へ到着。

大沢宿は江戸から19番目の宿場町で、日光街道歩きも残す宿場は2宿となりました。

元和3年(1617年)の規模は人口278人、総戸数43軒(本陣1軒、脇本陣1軒、

旅籠19軒)。

地名の由来は、鎌倉時代源頼朝がこの地を訪れ、家来に開墾居住させた。

頼朝の御恩を地名にし「御恩沢村」としたが「恩沢村」から「大沢村」となった,由。 

大沢交差点を渡ると右手の民家前えはお花畑。

コスモスなどが色鮮やかに咲いていて少し立ち止まり。

シュウメイギクとダリアの白花

白花キキョウ、ほうづきは網掛けに、

花談義をしていて、右手にある王子神社へ寄るのを度忘れで足を進めてしまった。

王子神社は大沢宿の鎮守で、創建は正治2年(1200年)。

推定樹齢250年の大銀杏が良く知られてる、と街道書にはあった。

少し先で歩道橋で左手に渡ると、歩道橋上から左手奥に、大沢小学校のグランドの

一部が見え、運動会が開催されていた。

大沢小学校は元竜造寺跡で、寛文3年以降歴代将軍日光社参の際、休憩所となった、

と街道書にある。

その先150mほど行くと再び道は二股となり、左手が杉並木街道(国道119号)で大沢宿の北口、右手は国道119号線バイパスとなる。

再び鬱蒼と聳える杉の大木。

ほとんどの車はバイパスへ流れるので、安心して足を進められます。

すぐ左手に石塔があり、小さな池がある。

その後ろの大杉は、杉並木造成いぜんからあった杉と街道書にはあった。

ここに大沢の木戸があり維新戦役で大沢の斎藤縫蔵らが幕府の間諜をを働いたと、

官軍より斬首され、この木戸に首級がさらされた、ともある。

すぐ先、右手杉並木の中に小さなお社は八坂神社。

手前の切り株は二本の杉の根元が癒着した二股杉の切り株、お堂の右手の御神燈は

文政5年(1822年)建立と街道書にある。

2,3分程先左手の地蔵さんは「交通安全地蔵尊

まだバイパスが出来る前、見守ってたんでしょうね。

さらに10分ほど歩むと右手に、六ケ所残ってる接合井の第三接合井が建ってます。

唯一機能してると、街道書にはあるが今も機能してるか?

5分ほど進むと街道書に両塚を残してると記された「水無の一里塚(東塚)」が

あり、江戸日本橋から32番目の一里塚。

塚木柱には御成街道の記されてるが、御成街道は江戸・本郷追分で日光街道と分かれ、武州幸手宿にてに日光街道と合流している将軍通る街道です。

西塚は多分これらしい。

一里塚は「特別史跡特別天然記念物」指定とある。

杉木立の少し薄暗い日光街道では路肩に、赤く染めた実のマムシ草、

まだ花盛りの様に、サラシナショウマの穂咲きの白い花が、あちこちに咲いてました。

一里塚から15分程、並木を抜けたところ左手に建つお堂は延命地蔵尊と街道書に

ある。堂内暗く地蔵尊は拝めない。

境内に享保15年(1730年)建立の念仏供養塔や六地蔵燈籠、十九夜塔、

庚申塔等があった。(レンズが汚れて見苦しいですが)

ここは右手から国道119バイパスから左手方面へ並木道を横断して通ているため、

杉並木道へも車が入り込んでくる。

ほとんど歩道帯を確保してない並木道は、我々老々には危なかしっくて歩けない。

さいわい並木道と平行して一般道が続いてるので、しばらくは利用することに。

並木で見れなかった空は大きく広がり開放感がいっぱい。

路には秋らしさもいっぱいで、路肩には馬頭観音や石仏もあった。

15分のほど行き、再び杉並木に戻るとすぐ先から杉並木は車の乗り入れ禁止道に。

すぐ右手にあった墓地は街道書にある「山伏千手院跡」の様子。

山伏は日光山の「里山伏」として、東照宮渡御祭り行列の供をした。

跡地には如意輪観音像十九夜塔や男女双体道祖神が残されている。と街道書にはあり、

墓石枠の手前に小さく石仏が見えていた。

さらに5分ほど先き119号バイパスから国道119号が分岐して杉並木を横断し、

杉並木に並行して続いています。

左手に大正4年(1915年)建立という馬頭観音があった。

更に10分ほど杉並木道を歩み、

再び平行する国道119号へでて解放感を味わいます。

しばらく行くと右手杉並木の向こう側の茂みの中に、第二接合井がみえた。

すぐ先で杉並木は途切れ、左手からの国道119と合流し、

振り返ってパチリ。

森友交差点をわたります。

50m程先、右手に永正14年(1517年)創建という浄土宗「來迎寺」
わが家の宗派なのでお参りへ。

参道には如意輪観音十九夜塔が四基ならんでいた。

初めて出会った観音像でした。

来迎寺から200mほど右手の整備された植え込みの中に常夜燈が建っている。

常夜燈は寛政9年(1797年)建立で、旧漢字体で「男体山」と刻まれている。

300m程行くと会津街道と呼ばれた道との森友交差点。
渡ると再び杉並木に入るが、右手へ会津街道を国道119号バイパス方面へ足を

向けます。

300m程先のコンビでのトイレ拝借。
はや1時近くでイートインが有ったので、いつものサンドイッチとコーヒーランチ。
(老々にコンビニトイレは大変ありがたいです)

コンビニ前から日光方面への車両交通の激しい道は、令和3年に開通された整備された、国道119号水無バイパスでした。

車両の多くはバイパスを通り日光方面へ向かうようです。

街道へ戻る途中すぐの左手空き地に庚申塔など数基の石塔がのこされていて、

歩いてる路が会津街道だったことが分かります。

50m程先左手に瀧尾神社。

建長4年(1252年)大己貴命(大国主命等を祀ったされる神社を、

1916年に現在地に遷座したという。

社殿には縁結び子宝の大きな注連縄が掛けられていた。

再び杉並木街道へ戻てきました。

此処から先は、水無バイパスと旧道(日光杉並木街道)を結ぶ連絡道(往復した道)

が整備され、これにより、沿道アクセスに影響のない森友交差点から先、800m区間について 、地域の安全・安心の確保のほか、杉並木の生育環境の改善等が図られた

車両通行止め区間です。

一般国道119号は左手に分離して、旧街道杉並木とほぼ並行して通ています。

杉並木はここから先は車両通行の無しの一方通行となり、歩きやすい街道です。

入って200m程先の標識には、10km余の車両通行止めと記されてました。

通行止めはこの部分のほか何か所かあるようです。

杉並木の杉には、植栽以前からの古木もあると街道書には記されていたが、
大木も多く、判別は難しいですね。

なかには杉の切り株から山桜の木が生えている珍しい「さくらすぎ」がある、

と街道書にあるが、見つけられなかった、

通行止めから約15分、右手に根元が空洞がある老杉のところは江戸から33番目

「七本桜の一里塚」の北塚と街道書にあり、空洞には大人4人程度ならば入れるとか。両塚を残してるとあるが東塚は判別がつかなかった。

その先5分ほど行くと七本桜交差点で、一旦車両通行止めは解除になり、

杉並木は日光方面からの一方通行道になり、道幅も狭く車両も多く入り込んでくるようで並木歩きは止めて、平行する国道119号へ。

5分ほど行くと東武日光線のガードをくぐると今市(日光市)は近いようです。

ガードを潜って7,800m程先の交差点から、車両は入り込むようでなので、

交差点で国道を右手に横断し、再び杉並木道を歩きます。

杉並木を300mほど行くと、変則五差路の小倉交差点手前で、日光街道と左からの

例幣使街道が合流した追分になり、今市宿に入っていく。

振り返って、左杉林の下が日光街道、中、国道119号、一番右手が日光例幣使街道

例幣使街道は、旧中山道歩きで通った倉賀野宿に追分が有り、中山道から別れ、

太田、栃木、鹿沼を経て、ここで日光街道と合流している

両街道合流地点、街道に挟まれて高さ2m90cm、北関東でも一、二を競う大きさの追分地蔵尊が見守ってます。

一説には、江戸期の頃には地蔵尊の裏手で高麗人参の栽培が行われ、今市宿の名物に

成ったという。 

追分地蔵尊には多くの伝説が残されており、日光市文化財に指定されています。

立ててある説明文によれば、                
「 江戸時代初期に石工が、大谷川(だいやがわ)の川原の砂に埋まっていた石を
割ろうとしてノミを打ち込んだところ、真っ赤な血がにじみ出てきて、 驚いた石工が

掘り起こしてみると、この大きなお地蔵様でした。

左肩から背中にかけて、石割りクサビ用のノミ跡が幾つも、今もくっきりと残る石

地蔵です。  

それを村人達が運んで行くと、現在地で動かなくなったので、 ここに安置したが
後に如来寺という由緒あるお寺に移したところ、お地蔵様の泣き声が聞こえる様に

なった為、  村人達は「このお地蔵様は日光の大谷川含満ヶ渕の親地蔵で、

洪水で流されて来たのだろう」と、日光の見える元のここ追分に戻して、

日光に向けてここに安置したという。

ふつうは地蔵の手印は錫杖と宝珠であるが、この地蔵尊胎蔵界大日如来
法界定印という手印を結んでいるそうです。

制作年代は明らかではないが、享保13年(1728)徳川8代将軍吉宗の日光社参の時に、すでに現在地にあったと記録が残されているそうで、地蔵尊はその以前から

この地に安置されていたとみられている。
日光含満ヶ渕には並び地蔵があるが、明治35年(1902)の大洪水でも、親地蔵と

他の地蔵の幾つかが流された、との記録が残っているそうです。
            

ノミで傷ついた跡という。

追分のすぐ先は小倉交差点で渡ると江戸から20番目の今市宿へ入り。

日光街道も最後の21宿目鉢石j宿まで残すとところ約8・5km(2里余)で、

時刻もまだ早いですが、私たちの旅第14歩はここで足止めで、

交差点を左折してJR今市駅へむかいました。

電車を乗り継ぎ早めの帰宅。
日光街道夫婦二人旅 第14歩はおわります。 完

 

 



 

 

 

 

日光道中二十一次 第14歩 (一日目)

庭の花などを見ながら、一里塚から 1kmほど行った頃、カミさんが左足に

痛みを感じると言う。

以前にも同じ症状が出て通院したが、はっきりしたことはわからなかったことが

あった。

そうなれば暑さもあるし無理は禁物、調べるとすぐ先に弁天橋バス停がある。

一旦車道帯に降りて、釜川にかかる弁天橋を渡り、少し先の交差点で右てへ渡り、

バス停へ。

10月1日、まだ日も高く7kmほどの歩き旅だったが、

第13歩、今日の旅は終わりに。

日光街道旅も残すところ約30余km。
我々の旅の歩きでは、日帰りではあと3回の日程。

11,12月は諸々あって出かけられないので。10月中に街道旅を完歩しようと、

第14歩は1泊旅にして再び旅へ。

天気予報と睨めっこして、10月21日に早朝電車で宇都宮へ。

バスを乗り継ぎ、

10月21日 AM10:15、前回終了の弁天橋バス停から第14歩の旅を再開。

気温が上がり服装の調整をして、心地よい秋晴れの街道旅。

見上げるッ道端の柿の木、大きな柿だね~

 

500m程行くと左手に、多くの旅文に竜宮門と書かれてる鐘楼門がある。

徳川将軍が日光参詣時の休息所となったという「宝珠山玉塔院光明寺」の山門。

山門は唐風で、門を潜ると唸り声お経が自動的にテープから流れてきてビックリ。

鎌倉時代に建立された玉塔院が寺のはじまりとされ、寛文11年(1671)僧・早開が

現在地に移建し光明寺に改めたといわれる。
寺の前には立場があった、とのこと。

鐘楼門上には観音像が見守っていた。

ご本尊は大日如来、関東三十三観音霊場、関東八十八ヶ所霊場の番札所でもある。

本堂へ向かって左手にビルマの鐘が建てられていた。
太平洋戦争に宇都宮の部隊のビルマ戦での戦病没将兵慰霊の鐘で、

ビルマミャンマー)を訪れた宇都宮仏教会慰霊法要団が、シングッダヤの丘に建つ

壮大なパゴダ寺院から贈られた鐘、と説明文があった。

その左手に庭園が有り、「静桜」との案内板が立っ桜の若木が植えられていた。

街道書では静桜は街道(国道119)の右手奥の民家の敷地内に原木があると、

記されていて、光明寺にも子孫桜が植えられたようである。

源義経を慕い奥州下向の静御前が塚を築き、携えた桜の杖を挿して武運を祈り、
後にこの杖に根が生じ大木となり珍花を咲かせたといわれ、一重と八重との花が咲く

珍しい桜だそうで「日光道中図絵」にも描かれているそうです。

静桜は何か所かに子孫が植えられてるようで、一説のには12代目ともある。

桜の季節に眺めて見たいもんですね。

光明寺を後に街道をお城のような建屋や道端の花、おっ、ムクゲ?おや、紫陽花だ!

と足を進めると、

街道(国道119号)は最近植樹されたか、若木の杉並木となり、ここでも両側に

車道寄り高い歩道があり歩行者、自転車、一部地域住民の車道を兼ねていて、

車の心配なく歩けるのが有難いが、旧日光街道は逆に掘り下げて通されたのか?

あれ、パンダ??

トランクに結わえ付けられて、手作りかな、でもなんで???

光明寺から3、40分ほど歩くと、前方に東北自動車道宇都宮IC入口道への高架

が見える。

高架下を過ぎ10分程行くと桜、杉混在の並木になり、同じように両側に一段高い

歩道がついている。

この後も、国道より高くなった歩道帯は建屋があるところで一旦下る為、

上ったり下ったりの繰り返しが続くことになる。

並木にはいってすぐに、後ろから「コンチワ」と挨拶を残して旅人が足早に追い抜いて行った。

杉の根元にお地蔵さん。

街道書には印が無く、っ比較的に新しく祀られた地蔵尊のようだった。

交通安全見守りかな?

おっ、モミジモ少し染まりだしてるよ。

並木を20分ほど行くと、街道書には「高谷林一里塚」が記載。

この一里塚は、宇都宮城下と徳次郎宿の間に位置し、江戸日本橋から29里目。

東塚は昭和58年(1983年)補修され塚木は杉。

西側は原型をとどめ塚には桜とヒノキが生えている、と記載がある。

道路越に東塚。

50m程先で東北自動車道のガードをくぐる。右側が東北方面になる。

5分程先、右側のレンガ造り建屋は「第六接合井」と街道書にある。

これは大正4年建設で、今市浄水場から26km、標高差240mのある戸祭配水場まで送る際に送水管にかかる水圧を弱めるための施設、とある。

標高が約36m下がるごとに設けられ、全部で6ヵ所設けられたが、

昭和24年の今市地震で大半は倒壊、この第六号接合井だけが当時の姿を残こし、

六角形の赤レンガと大谷石造りの上屋(うわや)上屋は国登録有形文化財

指定されてるという。

100m程先、山王団地入口交差点を左手角の植え込みの中に隠れて、

街道書にある大谷道道標(おおやどうひょう)が埋もれるように立っていた。

道標には「大谷道下徳次郎」と刻まれて、大谷観音寺への道が有ったが廃道に

なっているそうな。
大谷寺本尊千手観音)は、平安時代(810年)弘法大師の作と伝えられ高さ4m。

大谷観音は、鎌倉時代に坂東19番の霊場となり、多くの人々から尊崇されたという。

大谷観音へは、10年ほど前に大谷石地下採掘場跡と併せて、

日光方面へドライブの折り、立ち寄ったことがあった。

更に並木道を10分ほど行くと富屋小学校前バス停で並木は終わり、この辺りが徳次郎宿の江戸口(南口)であったと街道書にはある。

日光街道江戸から第18宿:徳次郎宿。

天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、

本陣2軒、仮本陣1軒、脇本陣3軒、仮脇本陣1軒、旅籠72軒、人口653人。

宿場は、日光に近い方から、上徳次郎、中徳次郎、下徳次郎の3宿に独立していたものの、宿場としての業務はひと月に10日ずつの交代だったという。

(本陣は上徳次郎宿と中徳次郎宿に1軒ずつあった)

徳次郎 人名のような地名かつ難読。

徳次郎(とくじろう、と読むんじゃないんです、「とくじら」なんですね。

徳次郎(とくじら)の地名の由来は、日光に大きな勢力を持っていた久次郎(くじら)一族が、奈良時代末期に日光二荒山神社から御神体を「智賀津(ちかつ)神社」に勧請して、日光の宗家久次郎氏に対して外久次郎と称したことによるという。

フェンスにはこんな横断幕があった。

1954(昭和29)年に、この地が宇都宮市編入された際、

河内郡富屋村徳次郎(とくじら)から宇都宮市徳次郎町(とくじろうまち)に変更された経緯がありましたが、平成に入り、難読でも昔の呼び方に戻すと好判断。

一時は道路や標識や案内板に「とくじろう」「とくじらと」と混合されてつかわれていたようすです。

「見たまま読める地名」から難読でも由緒にある地名に戻す、自治体に拍手です。

すぐ先に新規店らしいドラッグストアが有り、トイレ借用で立ち寄ると、

綺麗な休憩コーナーがあり、食品類もある様子。

12時も過ぎてるしお腹も空いたと、場所をお借りして質素に昼中食に。

30分ほどの足休めをして再び街道へ。

道路拡張で新しい区分帯に逞しく昨ド根性花はその名も「悪なすび」かな?

いや、葉が違うようだが・・・

調べてみるとイヌホウズキらしい。

野の花でイヌがつくと役に立たないという意味があるそうで、全草に毒がありますが

薬草としても用いられるという。

5分ほど先左手に大谷石の門柱、脇に明王院の説明板が建っていた。

私塾明王院、江戸末期から大正10年まで開塾されていたらしい。

道路向う(右手)側にも同じような案内板と縦型の標識が見える。

デジカメを拡大してみると、下徳次郎宿の案内板と、向かいの家が徳次郎宿本陣の

一つ下徳次郎仮本陣跡。

50m程先左手に大谷石に屋根を載せた山門が建ち、街道書には下町薬師堂とある。

山門は宝暦元年(1751年)建立という。

山門を入るとお堂右手覆い屋に、六地蔵石憧、如意観音像十九夜塔、三面六臂馬頭観音
などが安置されている。

薬師堂の回りには、馬頭観世音像や道標などの石像が集められ、並べられていた。

街道へ戻り、まだ綺麗に咲いていたオオムラサキツユクサ

5分ッ程行くと先に徳次郎交差点が見えてくきて、街は中徳次郎に。

電柱の案内板に左2km、道の駅の案内板が有った。

この道の駅にも、先ほどの静桜の子孫樹があるという。

往時は徳次郎宿本陣や問屋場があった付近だが、今は全く面影はない。

徳次郎交差点手前にあり、「神社入り口道約五丁 田中道」と彫られた田中道道標が、

ひっそりとあった。500m程辿るとの神明宮は今は無いという。

少し先左手の大谷石造り塀の建屋があり、案内板が建っている。

店蔵壁や奥の蔵は、きめ細やかな今は希少な徳次郎石が使用されてるそうな。

徳次郎交差点から約600m、実りに実った紫式部の実を見ながら行き、歩道橋で

街道(国道119)の右手に渡ります。

前方にこんもりとした森が見えてきた。

100m程先の鳥居脇に大木が聳えるは智賀都神社(ちかつじんじゃ)。

鳥居左右、二本の欅は樹齢700年、高さ40mという巨木。

700年ということは、日光東照宮より300年以上も前から立っていて、

徳川歴代将軍の日光参拝を全て見てきたのでしょう。

智賀都神社は宝亀9(778)年に、日光三社の分霊を勧請したのが始まるといわれ、徳次郎六郷の鎮守である。

一対のあの欅は今までの出会ってきた中でも、流石に見ごたえのある大樹だった

神社を後に150m程行くと中央分離帯に木が植えられている。

街道書によれば「徳次郎六本杉」とあるが、実際には杉は二本しか残っていない。

往時の杉並木の再現と言われるようだが、ちょいと意味不明かな。

六本杉から10分ほど行くと再び並木になり「大網道」と彫られた大きな石道標が

立っていて、街道の右手奥を流れる田川の向こうに大網道という道があるようです。

右の奥の方には田川から二宮堰で分水して徳次郎、宝木地区を経て宇都宮市中心部を流れている宝木用水があるようだが寄り道は省略。

江戸時代の末期に二宮尊徳、弟子の吉良八郎と村々の手で完成した人工の川とのこと。

並木はなくなり、15分ほど行くと上徳次郎宿の案内板が立ち、

側に上町屋台庫があった。

上徳次郎宿は3宿の中でもっともはやく開け、本陣、脇本陣問屋場などが有り

旅籠も多かったようだが、いまは全くその面影は見られない。

20分ほど行くとバス停名も一里塚で、先に江戸から30番目、北塚を残して

石那田の一里塚があった。

塚は修復整備されたもので、塚には樹木はなく石の標柱だけが建っている。

六本木一里塚とも言われるようだ。


街道書では「国道を渡った道の左側の祠内に、如意輪観音像十九夜塔が安置され、

側に馬頭観音像等がある」と記されてるが、見渡しても祠などそれらしきものは

見当らない。

信号で左手に渡たり再び国道より一段高い歩行道へ上がると、

土手上に石仏らしき石があり、文字も彫られてるようだが判別は出来なかった。

左手は、収穫の終わった田んぼで、ひこばえ稲が勢い良く伸びている。

日光13kmの道路標識を見送り行くと、右手家並越しに大きく山が迫て来たのは、

奥日光中禅寺湖畔の男体山か。その隣に連なるは女峰山か、

更に5分ほどの左手に後ろ向きで石碑が有り、かろうじて「馬」の字が読めるが、

移設された馬頭観音だろうか、何故後ろ向きかな??

そのすぐ先左手に、これも後ろ向きで馬頭観音

建立は平成30年とあるが、建て替えられた馬頭観音の様子。

道を隔てた右手に「二宮尊徳先生遺跡石那田堰」と書かれた白い標識が

たっている。

標柱から右に坂を下ると二宮尊徳が設計した石那田堰がある、と街道書にあった。

尊徳さんか・・・あちこちでご活躍ですね・・

5分程先道路右手には煉瓦造りの第五接合井戸があった。

街道書には接合井の少し先に神道系の馬頭観音、馬力神が祀られtるとあるが、

うん?これかな? 茂った草木に埋もれるように石塔らしいものが見えてるが・・・

少し先で並木が途切れ歩道帯は一旦下り田川大橋を渡る。

右手に立派な門構えの家、塀は大谷石よし明るい感じだが、徳次郎石が使われてる

のかな。

田川を渡り100m程行いった左手に石那田八坂神社御仮屋が建っている。

八坂神社は本殿と仮殿の2か所あり、街道沿いの社殿はお旅所になるようです。

社伝によると、
「明暦元年(1655年)疫病退散のため山城国八坂神社より分霊を勧請して

創建された旧石那田村の鎮守である」とあり、

資料では、日光街道沿いにあるのは「仮殿」で,本殿は2,30分離れたところに

鎮座している。

享保7年1722年)に再び疫病の流行に際し、ご本殿石宮を造営し、

合わせて天王祭も厳重に執行するようになった。

天王祭は京都の八坂神社祇園祭の流れをくみ、夏の疫病退散を祈願して7月下旬に

1週間かけて行われます。

祭典は神社本殿から御神体を神輿に乗せて「お仮屋」(八坂神社仮殿、日光街道沿い)に移す「下遷宮」(げせんぐう)から始まります。

1週間、お仮屋でお守りをして最終日に御神体を本殿に帰還させる

「上遷宮」(じょうせんぐう)で締めくくりとなります。

付け祭りは、上遷宮がある最終日に行われます。町内の6台の屋台などが、

仮殿に向かい、その後、御神体を乗せた神輿と共に約1Km離れた八坂神社本殿に

向かいます。

八坂神社御仮屋を後にすると再び国道より一段高い歩道帯を行きます。

すぐ右手木の根元に、小ぶりの観音石仏が。

街道書にも記載はないが、移設された庚申様かな?

左手はりんご園の様子。

街道沿いには何軒かのりんご売り小屋があったが、今まで街道沿いでは

リンゴ園らしい畑はほとんど見かけなかったな。

早いな~サザンカがもう咲いている、秋も深まったか・・

八坂神社御仮屋から10分ほど、左手に三基の石塔が建っている。

中央は青面金剛庚申塔と街道書にあるが、左右の二基は文字不明だが馬頭観音かな?

左手に田んぼが広がってるが、稲穂が見えるいえる。ひこばえの実りかな?

だいぶ日も傾いてきた、並木道も薄暗い。

秋だね~、つわぶきが綺麗に咲き始めてる。

御仮屋から4,50分、左手お堂にお地蔵さん。

街道書によれば、享保15年(1730年)の造立で、

台座に3個の丸い石が置かれ、願をかけて内の1個を持ち上げて、

軽ければ願いが叶うというとこから、「占い地蔵」とも呼ばれるそうだ。

傍らには庚申供養塔なども並んでる。

お地蔵さんは大谷石造りらしい。

おや、くさぼけかな?

さらに10分ほど行くと道を隔てて右手に新渡神社(にわたりじんじゃ)。

街道書によれば石造不動尊で、参道口の御神燈は文化7年(1810年)の建立で、

境内には「二十六夜塔」や石の祠が数基建ち並ぶとある。

車道を横断しなければならないし、夕暮れも近いので立ち寄りは無し。

その先の左手に、南塚の痕跡を残す小さな塚「上小池の一里塚跡」がある筈だが

見渡しても見つけられななく足を進める。

すぐ先に街道書に民家の庭内に頭部の欠けた地蔵尊と、如意輪観音十九夜塔がある、

と記されてるのは、この石塔らしい。

すぐ先の民家の入り口に馬力神

国道をっ隔てては、宝永7年(1710年)建立の「六十六部廻国供養塔」で、

宝永7年(1710年)の建立。

「奉納大乗妙典日本六十六部」と刻まれている、と街道書にあった。

中世から江戸時代にかけて、僧侶、修験、行者などが
大乗妙典(妙法華経)を書き写し仏像と一緒に厨子に納めて背負い、
全国(六十六国)を回り一国一箇所(国分寺などの由緒ある霊場)に

奉納することを無事に終わらせて、記念に建てられた石塔という。

数は少ないが、東海道中山道でも見た記憶が有りましたね。

PM4:05、宇都宮市とお別れ、いよいよ日光市入り。

夕焼け小焼けの赤とんぼ

シルエットの山は男体山、女鋒山か、

PM4:20 夕暮れもまじかで、山口バス停にて丁度PM4:35の宇都宮駅行き

バスが有るので足止め。すぐ先左手にに日光市街(今市)10kmの標識が

見えていた。

街道旅はまた明日。

日光道中二十一次 第13歩

すぐ先の左側に熱木不動尊が建つ。

熱木不動尊は、宇都宮城の乾の方角の守護であった
康平2年(1059年)、初代の宇都宮氏の祖「藤原宗円」が戦勝祈願して彫った

木彫りの不動尊を祀っている

また此の辺一帯は城下町特有の寺の多い一画となっている、と街道書にある。

宇都宮宿江戸口を過ぎて10分ほど行くと、西原バス停。

宇都宮宿へ入ったばかりだが、j時刻も午後の4時半。

JR宇都宮駅までは2km強あるようなので、今日の街道旅はここで足止め。

梅雨入り前に宇都宮宿は歩き抜けたいが・・・・またいつの日にか。

と、令和4年6月1日、第12歩の歩みを終了。

 

梅雨をへて、猛暑や不安定な天気続きの夏も過ぎ、早10月。

日中は夏日なれど、朝晩は涼し過ぎるくらいの陽気になり、

すっかり鈍った足腰だが、そろりと街道旅へ足を踏み出しに。

10月1日(土)、電車を乗り継ぎ、AM9:30 栃木県宇都宮駅着。

駅前からバスで前回足止めのバス停へ・・・ なんと下車停留所を間違えた・・・。

さあ~、見渡せど景色が違うような???

感覚的にはだいぶ手前の停留で降りてしまった様子。

西原三丁目・・いな、降りたのは西原二丁目〇〇だった・・・

確か路は南北道の「蓬莱大黒通り」だったはずが、この道は東西路だ。

回りの街並み風景を、遠い(自分にとっては)記憶を手繰りし「蓬莱大黒通り」を

見つけ、ようやく前回足止めバス停へたどり着き、やれやれお疲れさん。

(あとになって、カミさんが持ってるスマッホで調べられたね・・・て苦笑い)

と、年らしい凡失をしながらもAM10:30 日光へ向けて約34km。

さぁて、今日はどのぐらい歩けるか? 歩き旅を再開スタート。

気温はぐんぐん上がり、日向の歩きは厳しくなりそう。

道端のさく大きなアメリカ芙蓉。

 宇都宮宿は日光街道奥州街道筋の17番目の宿場町で宇都宮城の城下町でもあり

更に「二荒山神社」の門前町でもあった。

また奥州街道日光街道の追分で大いに賑わったとされ、

1844年(天保15年)の記録によれば、

人口15500人、家屋1693軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅館42軒。

宇都宮藩は慶長6年(1601年)奥平信昌の嫡子家昌が10万石で宇都宮藩が成立し、

以後宇都宮吊天井事件など芝居で演じられた本多正純など、譜代大名が代替わりし、

1868年(慶応4年) の   戸田忠友 代に  廃藩置県を迎えた。

維新戦争やこの大戦の空襲などの戦災で街並みは焼失し、当時の面影はすべて

失われて、今は県庁所都市として人口50万余の北関東最大の近代都市になっている。

 

「蓬莱大黒通り」を5分北上した左側に一向寺の大きな石柱が建ち、

参道が奥に伸びている。

街道書には、建治2年(1276)開山された時宗・一向寺とあり、

『汗かき阿弥陀』の記載が有った。

山門を歩入ると正面にご本堂、そして左手にお堂が建ち、『汗かき阿弥陀』の

青い説明板が立っていた。

『汗かき阿弥陀』で知られる阿弥陀如来坐像は、日曜日のみ拝観とあったが、

特別法要でもあるのか準備がなされており、お寺の方にお聞きすると

今日は特別に開扉され拝観できるというのでさっそくのお堂へ。

『汗かき阿弥陀』は【銅製阿弥陀如来坐像】で国指定重要文化財(昭和25年指定) 

旧国宝(大正3年指定) (入口の説明板)

 この仏像は第12代城主宇都宮満綱が願主となって、応永12年(1405)、

長楽寺の本尊として造られた。

明治2年(1869)、長楽寺が廃寺になったので、本尊は一向寺に移された。

 作者は、宇都宮を中心に活躍していた鋳物師泰景重で、鎌倉時代の作風を残した

仏像である。

本像は,高さ約1mの青銅製で,蓮台は鉄,置台は露岩の大谷石で作られています。

衣には,1105文字が刻まれています。

 えりもとから衣にかけて1,105の文字が刻まれている。
     今までに国の凶事の前兆に発汗していることから,汗かき阿弥陀

呼ばれています。
 太平洋戦争,関東大震災,日清・日露戦争戊辰戦争,古くは五十里湖の大洪水,宇都宮家の滅亡の時などにも発汗したという。

発汗は,阿弥陀像の衣をつけていない皮膚の部分が、しっとりと汗をかいたように

なったと言われています。

一向寺の山門を入ったすぐ左側に,幕末から明治時代にかけて,宇都宮を中心に活躍した画家菊地愛山の墓があります。

(写真は写してなかったので解説板)
 愛山は文政2年(1819年)茂破町(もやぶりちょう:現大寛2丁目付近)に生まれ,明治39年(1906年)に88才で亡くなる直前まで絵を描き続けました。
 人物や花鳥などの描写に優れた画才を発揮して,嘉永年間(19世紀半ば)の日光東照宮の修復のときには,師鈴木梅渓(すずきばいけい)を助けたといわれています。「釈迦三尊十六羅漢像」(一向寺蔵),「延命地蔵菩薩縁日著色絵図額」(延命院蔵)をはじめとして,多くの作品が県や市の文化財に指定されています。

長い参道を街道に戻ると、右手、道を挟んで鳥居は学問の神、菅原道真を祀り、

「都宮城西の守護神、天満宮」と、街道書にある。

すぐ先の道を左に入ると、茅葺の山門を持つ「報恩寺」がある。

寛永16年(1639)に奥平家昌の正室が開山したもので、本堂は戊辰戦争で焼失し、その後再建されたものだが、山門は創建当時のままと云われている。

境内に戊辰戦争で戦死した各藩の戦死者墓石等が建ってる。

薩藩戦死者墓石の揮毫は、大勲位侯爵・松方義方 と読める。

「蓬莱大黒通り」に戻り報恩寺からさらに先に進むと、クランク曲がりの変則交差点で

鍵の手の曲がり、かっては路地には柵、木戸が設けられ枡形をなしていました。

 ここは六道の辻と呼ばれ、戊辰戦争宇都宮城争奪を目指す官軍(新政府軍)と

幕府軍が激戦を行った場所で、官軍戦死者は報恩寺に葬られたが、

旧幕軍は賊軍として公に弔わられず、有志の方が建てた旧幕府軍の戦死者の墓、

六道口の「戊辰の墓」がある。

報恩寺から六道にかけては、宇都宮城下西端に位置する武家屋敷町であった。
江戸時代、楡木・栃木へ通じる六道口を警備する役人屋敷が置かれていたというが、

その面影は全く残されていない。 

鍵の手・六道の辻から少し広い通りを約10分進むと「裁判所前信号」で突き当たり

右折し「材木町通り」の大きなビルが建ち並んで賑わう大通りに入る。

3分ほど南へ行くと、江戸時代の町名を残す問屋場や本陣・旅籠が並ぶ、伝馬町と

呼ばれる一番賑やかな所で、伝馬町バス停の先に、本陣跡の青い説明柱が立っている。

2軒あった本陣のうち、伝馬町にあった上野家本陣跡で、200坪(661m2)近い大きな建物でしたが、今は、屋敷の庭にあったイチョウの大木が、わずかに当時の面影を偲ばせてくれます。

本陣跡の反対側、この伝馬町の交差点が日光街道奥州街道の追分で、

右手へ宇都宮駅方向に奥州街道で、左折する向かいのバスの停まってる道が

日光街道で清住町通りにはいる。

追分を左折して旧日光街道に入ると、狭い二車線道路で歩道帯が無いうえ交通量も多く

軒下を縫うように足を進めなければならなかった。

右手に蔵造りの旧家がある。油を商い副産物の油粕を肥料として農家へ販売している

商家、と街道書にはあった。

付近に伝馬町の一里塚跡の案内板が建ってるというが、見落としてしまったらしい。

清住町通りに入ってすぐ道の左手に小さな社。

天保3年(1832年)、武州秩父の三峰山の火防の神分身を祀ったという、

三峰神社(八坂神社)がある。

さらに5分ほど行くと左手に宝勝寺が見える。

鎌倉幕府御家人で宇都宮家7代当主の景綱が蓮池から拾い上げた
阿弥陀如来像を祀った草庵が起源という。

恵心僧都(えしんそうず)作と伝わる秘仏・日限地蔵尊が有名。

交通が激しく横断は危険と判断、立ち寄らず。

この先の交差点あたりの道がクネっと曲がりの枡形の跡で、

往時は日光方の木戸があり、ここまでが宇都宮宿であったそうです。

交差点を右手に戻るように入ると延命院がある。

山門の前に、この寺で蒲生君平が学問を学んだということで、

蒲生君平先生少年時代修学の寺」と長々と刻まれた碑が立っている。

蒲生君平は明和5年の生まれで尊王論者。忠誠義烈の精神を貫き、「山陵志」を著し、天皇陵を比定したことで有名だそうだが知識なし。

境内には享保年間(1716~36)建立で、宇都宮市最古の木造建築物の一つで、

木造の延命地蔵菩薩立像を祀る地蔵堂がある。

地蔵菩薩は堂内が暗く、拝観は輪郭だけ。

元木戸口へ戻りすぐ右手に桂林寺がある。
宇都宮満綱の開基で、あの蒲生君平の墓がある。 
明治維新時の宇都宮城の戦いで、長州兵と大垣兵がこの寺に篭った。
その為会津兵の焼き討ちにあい、その後再建されたという。

右隣りには四国金毘羅山の分霊を祀った琴平神社があり、清住不動尊も丸られてる由。

清住町通りへ戻り何軒かの風情を残す家屋を見ながら、相変わらず軒下を縫って

危ない道が続きます。

先は枡形の痕跡を残す鍵の手になり曲がり、木戸口から20分ほど行くと道左手に

石碑が建っているのが見える。

街道書には、神道の牛馬の守護神で、仏教道の馬頭観音にあたる

「勝善神」石碑とある。

一説には「名馬の誕生を祈願するもの」とも言われてるそうな。

更に10分ほど行くと、左手から来る国道119号に合流。

ここからは歩道帯も復活でやれやれ一安心・・・。

はや時刻もお昼になり、お腹もすいたね~・・と10分ほど歩いた食事処へ。

手打ちうどん・そばの讃岐、

うどんは讃岐うどんだが、そばを注文し美味しかった~

辛味おろしかき揚げぶっかけ蕎麦、(箸を付けちゃいましたが)

かき揚げは揚げたてアツアツ・・辛味の大根おろし、冷たい麺とつゆ、

葱と花かつおがたっぷり・・  

お店に飾ってあった魚拓、見事な大ヒラメの魚拓。

全長 85cm 重さ6.5kgとある。釣り人は宇都宮の方らしい。

街道に戻り背から陽を受け、日陰の少ない暑い街道を歩みます。

気温は30℃近くまである感じで、少ない日陰を求めながら、水分補給に注意し

足を進めます。

12,3分行くと左手に上戸祭公民館があり、敷地内に薬師如来を祀る薬師堂が建ち、

堂裏には、文政5年(1822年)建立の如意観音像や十九夜塔などの石塔石仏が

安置されていた。

更に約100m程足をた左手の細い路地奥に鳥居が建ち、街道書には高尾神社とある。

高尾神社には1387年に建てられた供養塔・宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建ち、

塔には「妙吉貞禅」の文字が刻まれていることから「妙吉塚」と呼ばれる。

妙吉貞禅は南北朝時代の宇都宮二荒山神社に仕えた僧だそうだが、

しかしこの塚については伝わる資料もなく詳細不明とのこと。

また、高尾神社の敷地内には、「妙吉安産子育高 地蔵尊」もあります。

昔、ここ戸祭(とまつり)村に、「新田の四郎」と呼ばれる大男が住んでいました。

四郎は、自分の背丈を後世に残そうと、同じ高さの石柱(地蔵尊の後ろ)を建てた

そうです。

街道へ戻ると電柱に標識が・・

5分ほど足を進めると、こんもり茂る樹々が見えだし、上戸祭交差点。

街道書には国道119号線の両側に桜の古木並木が始まる、とあり。

ありがたい、すこしは木陰の下を歩けそう。

中央に車道があり、両脇に桜と杉の並木、そして、更に
その外側の両方に車道よりも一段と高い歩道があります。

(歩道というより周辺の生活道で車も通ていた)

そしていつの間にか街道は桜並木から杉並木へと続いてゆきます。

歩道帯は少し少し高くなり、車道は一段低い所を通り、両側は杉並木が続いている。

今日の陽気は木陰は有難い、と1kmほど行くと大学のキャンパスが見えだし、

街道書には「上戸祭の一里塚」が記載されている。

江戸日本橋から28番目の一里塚で、1983年(昭和58年)修復整備され、

両塚が原型をとどめていた。(西塚)

日陰で暗いが東塚

庭の花などを見ながら、一里塚から 1kmほど行った頃、カミさんが左足に

痛みを感じると言う。以前にも同じ症状が出て通院したが、はっきりしたことは

わからなかったことがあった。

そうなれば暑さもあるし無理は禁物、調べるとすぐ先に弁天橋バス停がある。

一旦車道帯に降りて、少し先の交差点で右てへ渡り、バス停へ。

まだ日も高く、7kmほどの歩き旅だったが、老いの身には無理が禁物。

体長を整えて、いつの日か街道旅へ復帰を。

日光道中 第13歩の終り。

日光道中二十一次 (第12歩)

先月、5月19日に再開した日光街道歩き旅。

約2週間が過ぎ、カミさんの足も異常無しで6月1日 、再び旅へ。

早朝家を出て、AM8:45、前回足止めのJR宇都宮線石橋駅(栃木県)へ下車。

予定は石橋宿から雀宮宿、宇都宮宿へ  14.4Km  だが、まあ、行けるとこまで。  

  石橋駅前のグリムの塔 
石橋の街中には、「グリムの森」という公園もあるという。
「グリムの森」のHPによると、グリム生誕の地である、ドイツ・ヘッセン州にある

シュタインブリュッケン村と姉妹都市になっているそうで、

ドイツ語で、「シュタイン=石」「ブリュッケン=橋」から、和訳すると「石橋」と

なり姉妹都市となったようであった。

天気は晴れ風も少しあり、まずまずの歩き日和り。

駅前で旅立ちショット

この花、なの花? 多肉植物のようだが。

駅から西北へ5分ほど行くと、国道4号と交わる石橋交差点で日光街道

そして旧石橋宿。

石橋の地名は街道東にかつてあった池上明神に、当時としては珍しい石の橋があった

からとのこと。

石橋は幕府領で代官北条雄之助が支配し、日光道中の15番目の宿場石橋宿。、
天保14年(1843年)の頃、

宿内家数は79軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠30軒、宿内人口は414人。
すぐ左手に立派な煉瓦塀、煉瓦門構えの建屋は、左手の薬局の元母屋かな?

名産・大谷石消防団車庫など見ながら足を進めると、

右手に開雲寺。

おや、隣の塀越しに覗くは、穂咲きしてるが梅花空木のようだが?

真言宗石橋山・開雲寺は、天応1年(781年)東光寺として開山。

文亀2年(1502年)にこの地に移る。慶長9年(1604)幕府から寺領七石を拝領し、

徳川将軍家日光東照宮参拝道中の休泊所となり葵紋の使用が許された。

土塀には城郭様式で銃眼や矢狭間(やざま)がある。
寺の本堂・庫裡・山門などは安政年間(1854~60)の再建であるという。

(修復をしてるからかな、古色蒼然とはしてませんね)

(矢狭間や鉄砲狭間)

開雲寺境内のユニーク羅漢像

開雲寺をあとに、往年の宿場街風情は残していない石橋宿を後にして、

国道4号を少し行くと、右手路肩に新しい馬頭観音や十九夜塔と、すっかり風化が

進んだ庚申塔

東京から94km、95km。単調な国道(日光街道)を40分ほど行くと。

地名は鞘堂となり、左手に鞘堂地蔵尊(さやどう)で、奥に小さなお堂があった。

鞘堂自治会の由来案内板には、

南北朝時代(1380年)の戦での戦死者の鞘を村人が集めお堂を立てた、とある。

いまは安産に霊験あらたかとあり、巧化のために現在のお堂は、昭和53年に

新たに建てられ、厨子には地蔵尊の頭部が収められ、日本画地蔵尊像画が祀られた

ともあった。(頭部だけ祀られるのも珍しい)

 

鞘堂から5分ほど行くと、左手に赤い鳥居が建ち。創建年代は定かではないそうだが、鞘堂新田村の鎮守の星宮神社があった。

鞘堂新田村は日光東照宮の造営後に開かれた村で石橋宿の助郷村。

石の祠が参道右手に並び、裏手にも多数祀られてるという。

すぐ先で96kmを過ぎ「北関東自動車道」の高架をくぐる。

北関東自動車道」の高架をくぐってすぐ先で宇都宮市に入ったようで、

地名が宇都宮市茂原(旧宇都宮藩領)となり、右手に茂原正観音道と刻まれた石柱が

建っている。(市境標識は写し忘れ)

 茂原観音はここを右に入り、JR線を越えて、現在の道で1.6Km先というので、寄り道はパス。

おや、大谷石土台に木造の小屋が載った蔵。

さっきから自衛隊車両が頻繁に国道を行き来していたが、左手に自衛隊基地入り口門が

あり、広大な自衛隊の宇都宮駐屯地の敷地が広がているようだった。

98km99km、民家風の交番などを見送り、30分ほど行くと

安塚街道入り口交差点で、ここが雀宮宿江戸方の入り口で、かっては木戸や土塁が

あったという。

雀宮宿は 江戸から16遍目の宿場町で、日本橋から25里11町(99.4Km)、

 宿内人口:268人、総戸数:72軒(本陣1・脇本陣1 ・旅籠38)

 日光街道が整備されてから街道沿に人々が集まり雀宮村が出来た。

その名は雀宮神社から由来する。

宿場は南北に5町20間(約582m)と小さかった。

雀宮宿へ入り、左手に小倉家が勤めた雀宿本陣跡石碑と街道書にあるが、

石碑は見つけられず、雀宮駅入り口交差点差し掛かり、駅入り口角に門を構えた

建屋が見え、交差点を右手に渡ります。

建屋の門前には、「旧仮本陣芦谷家建物、高麗門」と標柱が建ち、

「雀宿仮本陣」記したの大きな木札が掲げられていた。

仮本陣は代々芦谷家が勤め、名主、問屋を兼ね、建坪は94坪余あったという。

門(高麗門)は、後世に伝えるべき歴史的建造物として、令和元年に「宇都宮市認定建造物」に認定されたそうです。

(仮本陣は小倉家本陣と交代で務めた本陣ということのようです。)

敷地内に植樹された樹は梨の樹の様で、品種名「にっこり}

紐で結ばれた樹が「にっこり」のようです。

説明板に「明治天皇東北巡幸の折り休息され、庭の梨を太政大臣三条実美が皮を

剥いて差し上げた」とあったことからの命名かな?

 「雀宮駅前交差点」から5分、の右側に祠があり、中に数個の石碑が納まっていた。

安政5年(1858年)の大きな馬頭観音石碑と、大正11年(1922年)建立の

馬の神を現す生駒神、勝善神(馬力神)が収められていた。

「馬の神様」は街道旅で初めてかな。

 すぐ隣は、宿場名の由来となった雀宮地区の産土神である郷社雀宮神社。 


雀宮神社、長徳3年(997年)八幡太朗義家によって創建され、雀宮村の鎮守。

正徳3年(1713年)東山天皇より金文字で雀宮と書かれた勅額(ちょくがく)が

下賜され、今でも社殿に保管されている。

この額が社頭にあるため日光社参の将軍や諸大名は参詣を常としました。

(正徳3年(1713年)に下賜されたという「雀宮」と書かれた勅許額。)

鎮守としての鎮めるから轉じて雀(’すずめ)とも、別の説文では、
百人一首歌人藤原実方(さねかた)が陸奥守として任地に赴任すると、

妻の綾女が夫の元へと向いましたが、この地で病死した。

夫の藤原実方も任地で死亡し、霊魂が雀となって飛来し、綾女塚の上まで来て

息絶えた。里人が憐れみ塚上に二人を祭り雀宮神社と称した、これが地名の雀宮の

由来になった。」ともある。

ご本殿はベンガラ塗り?

可愛いお願い

神社のすぐ先は、東京から100Kmの標柱が立っていた。

100kmか~・・・

すぐ先で旧道は左手に少しの間分岐し国道と平行に続く区間を通ります。

少し離れただけで国道の騒音から逃れての15分ほどの静かな街道歩きです。

101km、102km、大谷石倉などを見送りながら

30分ほど行くと、地名は台新田で左側に塗り替えたばかりのようなお堂は

縁起の良い名称の寿鶴(すず)薬師堂と街道書にはある。

地蔵尊如意輪観音像を安置とあるが堂内は覗えない。

案内板もなく由来は不明。

薬師堂から約10分弱、右手に学問の神菅原道真を祭る天神社菅原神社。

この辺りは台新田村立場跡で高札場があったそうで、領内の名主や町年寄は当社にて

宇都宮藩主参勤の送迎を行い、将軍社参の際は境内に仮の御茶屋が設けられたという。

15分ほど進み。国道わきのCaféですこし足休めを兼ねてコーヒータイム。
終えて20分ほど行くとバス停があり名が一里で、そばの交差点名も「一里」の表記。

往時はこの辺りに江曽島一里塚があったそうだが、ここも説明板などは無し。

一里交差点を過ぎてすぐからは電線地下化ですっきりとした国道に変貌。

15分ほど行くと「西原交差点」で、長いこと付き合ってきた国道4号線が

右に分かれ、日光街道は直進する国道119号線とのお付き合いとなり、

「国道119・日光街道・日光31Km」の道標が出てきた。

 国道119号に入り、時代を感じる大工場やJR日光線の越架橋など過ぎて

15分ほど行くと変則四差路のの不動前交差点。

江戸時代初期まで奥州街道追分だったが、その後付け替えられたという。

不動前からはマスク常着で10分ほど行くと、東武日光線のガードがあり、

過ぎたところが日光街道江戸口で、宇都宮宿の木戸や土塁、番所が有り、

明け六つから暮れ六つまで通行ができた、と街道書にはある。

宇都宮宿は 江戸から17番目の宿場で、11万石宇都宮藩の城下町、また日光街道

奥州街道の追分でもあったので、交通の要衝として賑わったそうだ。

本陣2、脇本陣1、旅籠42軒があったという。

すぐ右側に、屋根のかかった市指定史跡があり、街道書によれば、「維新期の尊皇家、蒲生君平勅旌(がもうくんぺいちょくせい)の碑で、明治になって維新に大きな功績があったとしてが追賞されたとあり、元宇都宮城主蒲生家の流れの人物ともある。

 街道から左に宿場の目印となっていた、樹齢は推定800年で根回りは20mほどもある「新町のケヤキ」があったそうだが残念ながら切り倒されたという。

この付近は、江戸時代には宇都宮城下の南端に位置し、元和5年(1619)、

宇都宮城本多正純により日光街道の付け替えがなされたとき、街道沿いに新しく

開かれたところで、町の名もそれに由来するという。

すぐ先右側に「一向寺旧地蔵寺参道」と刻まれた石碑が建っているが、現在の一向寺はもう少し先にあるそうです。

 左側に1605年(慶長10年)に開基された台陽寺の参門

戊辰戦争で戦死した宇都宮藩士の墓がある。また、境内には、子安地蔵尊も祀られている。

すぐ先の左側に熱木不動尊が建つ。

熱木不動尊は、宇都宮城の乾の方角の守護であった
康平2年(1059年)、初代の宇都宮氏の祖「藤原宗円」が戦勝祈願して彫った

木彫りの不動尊を祀っている

また此の辺一帯は城下町特有の寺の多い一画となっている、と街道書にある。

不動尊の先に西原バス停。

宇都宮宿へ入ったばかりだが、j時刻も午後の4時半。

JR宇都宮駅までは2km強あるようなので、今日の街道旅はここで足止め。

 

5分待ちで来たバスで、JR宇都宮駅へ出て家路へ。
郊外の街道歩きはほとんどをマスクを外しての歩き。

梅雨入り前に宇都宮宿は歩き抜けたいが・・・・またいつの日にか。