歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第23回)       奈良井宿~藪原宿 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

2017年11月25日、

雪の降る前にと、江戸から34番目、奈良井宿へ到着し、

その先は峠越えになるので冬ごもり。

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年が明け春になって長い間の冬眠から覚め、峠、山登りに備えて

スクワット100回で足腰強化。

その合間には検査で腎臓に危険信号がともり、う~ん、前途多難・・・

気力を絞って4月12日に旅の再開へと車を走らせるも、

木曽路へ入ったすぐに携帯が鳴り、お義母さんが高熱で緊急入院の知らせ。

高齢もあり万が一の心配もあって、急遽Uターンし旅は中止に。

 

その後容体も安定し一昨日退院となったので、一安心で仕切り直し。

19日(木)早朝再び車を走らせ、「旧中山道夫婦歩き旅」の再開です。

 

圏央道、中央道、長野道と高速道を走り、みどり湖PAで朝食を摂り、

AM8:10、木曽路・藪原の道の駅「木曽川源流の里きそむら」着。

ここに車を置かせていただき、AM9:20の電車で奈良井宿まで戻り、

鳥居峠を越えて再び藪原宿へと旅をしてきます。

(あれ、「道の駅木曽川源流の里きそむら」の写真を写してない!)

 

電車「はAM9:20、時間まで間があるので近くの極楽寺と、

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桜咲く藪原神社へ立ち寄り、旅の安全を祈願。

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9時20分、松本行の電車に乗り込みます。

藪原駅では、トレッキング姿の外国の方のグループが下車しました。 

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車内の乗客も、半分くらいは欧米系の方々が乗っており、

数名は奈良井宿で下車します。

下車したカップルの男女。

低予算で国外を個人旅行する旅行者(バックパッカー)でしょうかね・・

凄い大荷物!前、後に大きなバックパック(リュックサック)が・・

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昨年、11月25日以来の奈良井駅

初夏の様な日差しの中の旅再開。

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まずは前回の到着時に、道が悪いと聞いて寄らなかったところへと足を向けます。

奈良井駅の少し先、右手に戻るように山側の坂道を登ると,

左手に八幡宮へ上がる石段があり「旧中山道杉並木」「二百地蔵」の案内板が

建ってます。

石段を少し上ると、右手が老杉が17本ほど残る江戸時代初期の杉並木。

現在は途中で消滅しているが、前回の贄川からの旅で歩いた

奈良井川の左岸を通って、橋戸一里塚~平沢に通じていたと言われます。

寄って良かったな、の旧街道の面影を残した杉並木です。

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杉並木の先左手に「二百地蔵」。

地蔵堂の前に,聖観音をはじめ千手観音・如意輪観音などの観音像が

194体祀られている。

明治期の国道開削,鉄道敷設の折に奈良井宿周辺から集められたという。

f:id:hansui:20180421062719j:plain二百地蔵の横、桜咲く石段の上は、建立年代は江戸時代と推定されている

八幡神社」。
奈良井宿丑寅の方向にあたり、鬼門除けの守護神として崇敬されたといわれる。

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江戸時代宿場町の風情たっぷりの奈良井の街並みを通り、宿外れの鳥居峠口へ。

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平日のせいか街並みを散策していたのは、ほとんどが外国の旅行者ばかり。

 街並みが終わった宿の南端(京方)に、奈良井宿の鎮守・鎮(しずめ)神社が

祀られてます。

元和4年(1618)疫病がま蔓延した時,それを鎮めるため下総国香取神宮から

勧請して祀ったとされ、本殿は、江戸時代初期を示す一間社流造り・こけら葺きで

全体に漆が塗られているそうです。

ただし、拝殿一体の覆屋がかけられているので、祭りの時以外は見ることができない。

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旅の安全を願ってお参りし、左手の楢川歴史民俗資料館を過ぎると、

いよいよ木曽路難関と言われる鳥居峠への上り口の石段です。

石段前で中山道第23回目、旅立ちツーショット。

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AM10:30、がんばんべ~・・・

石段を上るとすぐに「右上 鳥居峠 左下 奈良井宿」の道標石塔や,

鳥居峠まで2.3km」の案内表示板が建ってます。

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少し草道を上るとあっけなく車道に出て、右に進むみ「ならい荘」入口を過ぎると

右手に、信濃路自然遊歩道中山道マップの看板と、昭和47年に復元された

石畳の登り街道が現れ、歩きずらい石畳を踏みしめながら山道へ。

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ボタンネコノメソウを見つけたりで、草におおわれた石畳を上って行き、

渓流を二回木橋で渡り、木立の中の歩きやすい登り道になってきます。

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さらに高度を上げると「木曽駒展望台入口」の案内板。

路傍に積まれた石に囲まれて、小さな道祖神がひっそりと佇んでいる。

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展望所では期待していなかったが、樹の間から雪をかぶった

中央アルプスが姿を見せました。

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中央アルプス木曽駒ヶ岳も登ったことがあったね~

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展望所から下り街道へ戻ると、藪原方向からの5人連れの外国人ファミリィー。

道祖神を見つけて、歓声を上げてましたね。

言葉からイタリアの家族かな?

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明るい日差しを受けながら、緩い草道のアップダウンを繰り返し、

いつの間にか高度を上げて行ってます。

山は春待ち、まだ新芽も芽生えが見られません。

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2つの木橋を渡り進むと、鳥居峠1.65kmと刻まれた

信濃路自然遊歩道」の道標、「本沢自然探勝園(葬沢)」と書かれた標柱が建ち、

そばに落書きだらけの「中の茶屋跡」の小屋が建ってます。

茶屋跡のある辺りは, 天正10年(1582年)木曽義昌武田勝頼の古戦場で、

武田方の戦死者500余名で、この谷が埋もれたといわれ,

これを葬った場として「葬沢(ほうむりさわ)」と呼ばれるようになったと云う。

付近の沢は埋葬地(墓地)なんだね・・・こんな所になんで「茶屋」??

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 茶屋跡から ジグザク登り道になり、二体の道祖神を見送り、

ふうふう登りきって、さらに木橋や石橋を渡って緩くアップダウンを繰り返して

ゆくと、

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日本橋から65番目、鳥居峠の一里塚跡石碑とともに、鳥居峠の説明板が

建っている。

鳥居峠は標高1,197メートルで、和田峠よりも低く、ほぼ碓氷峠と同じ高さ

である。そして、鳥居峠犀川千曲川信濃川となって日本海に注ぐ奈良井川

太平洋につながる木曽川分水嶺をなしている。因みに、この峠は古くは奈良井峠

あるいは藪原峠と呼ばれていたようだが、戦国時代に木曽義元が松本の小笠原氏と

戦った時に、戦勝を祈願してこの峠の頂上から御嶽を遥拝したところ、見事に勝利

を得たため、峠に鳥居を建てたことから「鳥居峠」と呼ぶようになったという。」

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一里塚は面影もなく、地図や文献などなどにより、「このあたり」としたとか。

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実際の鳥居峠はここではなく、もう少し登ったところにあるようです。

 一里塚跡を過ぎ橋を渡り、鳥居峠0.98kmという実に細かい距離道標を

見送って山道を行きます。

山道を女性ガイドさんに引率された、10人ほどの外国の方が下ってきます。

こんにちわ・・コンニチワ

藪原駅9時20分で下車しましたか?」

「ええ、下車してここまで来たんですよ」

「やあ、私たちは藪原でその電車に乗って奈良井駅で降りて、

  藪原へ向かってるんですよ」

ガイドさんが皆さんに通訳してます。

「オオ、ガンバッテ!」

お互い手を振りながら別れました。

出合うは外国の方ばかり!

「まるで、海外の山道を歩いてるようね」てカミさん。

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草道になったり石畳になったり、さらにジグザグに急登すると道標の建つ林道へ

飛び出します。

林道は旧国道であったようです。

自然石の道標(右)と二基の馬頭観音(左)がありました。f:id:hansui:20180422204046j:plain

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林道を左へ曲がり100m程が、かつては「中利茶屋」があった

「峰の茶屋跡」でした。

現在は昭和44年復元された、トイレ付の立派な休憩小屋が建ち、

脇に清水が流れる水飲み場もありました。

ここでも聞こえる言葉は外国語。

単独の日本男性のほかは、外国のトレカーばかりだね。

小屋の北側からは奈良井宿や、遠く平沢の集落が見渡せました。

(写真は何故か?ピンボケだった)

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丁度お昼の時間。

綺麗に掃除もされている小屋に入り、いつもの栄養補助食品でお昼に。

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この付近が美濃と信濃の国境であった標高1197mの「鳥居峠」の近く。

また、木曽川奈良井川の源水峰で、木曽川は太平洋へ

奈良井川犀川千曲川信濃川と名を変えて日本海へと分水嶺をなしている。

(実際の峠はもう少し先)

 

休憩を終えて、切通しになった旧国道脇の登り草道へと足を進めます。

この辺が峠の頂ではなかったのかな?

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 登ってすぐに左上に、御嶽信仰の御岳講明覚霊神碑が建っている。
傍らの説明板には、「御岳を信仰する講社が建てた霊神碑と伝えられている。

当時の御岳信仰の盛大さが伺えます」とあります。

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すぎて緩く曲がると下は峰の切り通しで、奈良井方向は見えなくなり、

藪原方向が開けてきます。

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その先が旧国道切通で少し狭くなったが開けた台地で、

鳥居峠頂上(1,197m)ではなかったのかな?

往時は3軒の茶屋があったといわれてますが、御嶽山を背景に描いた

栄泉画・奈良井宿はここにあった茶屋がモデルでしょうか。

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そこから少し下ったところに、明治11年の北陸東海御巡幸の際に

一時休まれたという、明治天皇駐蹕所碑が建っている。

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その先はほとんど通行不能状態のため、先の短な丸太階段を下ると、

旧国道、林道、明治道明治などがの交差する開けた場所になり、

峠道案内図が建ってます。

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おっ、遠くの山越に姿を見せるあの白い山は!!

やあ、感激!木曽の御嶽山(3063m)でした。

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御嶽山は夫婦の思い出の山です。

初めての山小屋泊りで、あの白い頂の左から右方向へと峰々を縦走したことが

ありました。つい最近ではあの痛ましい噴火遭難がありましたね。

しばし足を止め御嶽山を二人で見つめて、山行き談義。

 

自然石や木標の道案内があり、左手の遊歩道へと向かいます。

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おっ、出た~・・熊鐘。

さっきも数回聞こえていたね、外国のハイカーも鳴らしてたんだ。

大きく数回鳴らして、熊さんに警告」!

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我々も鈴を鳴らしながら歩いてます。

カミさん曰く、

「鈴音が聞こえたら餌?が来た!で、

  熊さんも学習能力向上で、かえって合図しちゃってる??」

ははは・・言えてるかも。

なだらかな山道を行くと付近はトチノキの巨木群。

木祖村天然記念物だそうで、碑が建ってます。

そして子宝伝説「子産の栃」

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栃餅というのを知ったのは、風林火山だったかな。

武田信玄の病体力回復に献上された、とあったような。

トチノキ古木と言えば、贄川宿近くの樹齢千年という巨木がありましたね。

贄川トチノキ

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トチノキ群を過ぎて少し先に二つ目の「クマよけ鐘」

御嶽にとどけ!とばかりに鳴らします。

栗に似たトチ実は、熊さんの大好物かな??そんなら熊が多いはず!

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この先に自然石の道標があり、「右中山道 左明治道路」 とあり、

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左手に道標や不動明王の石像があり、右手に石碑、石段で鳥居がある。

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 峠の名の由来となった鳥居をくぐり、大きな供養塔を過ぎると

その先に御嶽神社です。

境内には、たくさんの霊神碑と石像が安置されていて、御嶽山眺望所がある。

鳥居峠一塚のところに建ってあった案内板に書かれていた

「木曽義元が松本の小笠原氏と戦った時に、戦勝を祈願してこの峠の頂上から御嶽を遥拝したところ、見事に勝利を得たため、峠に鳥居を建てたことから「鳥居峠」と呼ぶようになったという。」の鳥居ですね。

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木曽の御嶽山が初夏のような空にポッカリと、今は静かに顔を覗かせてます。

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PM1:00、後半へ続きます。