文月 7月の日々徒然 梅雨入りもはや1ヶ月経過、

久しぶりにブログ。

昨年は梅雨明けしてましたね~・・

七夕が過ぎ、はや梅雨入り1ヵ月経過、肌寒い感じの日が続いてます。

日差しの少ない中でも、花々は咲き変わりながら季節は進んでる様子。

久しぶりに花のお寺多門院へ寄り道してみました。

 蓮鉢のハスはまだ蕾でしたが、開くのは時間の問題ですね。

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蓮鉢水辺には小さな可愛い白い花は、水面上に花茎を伸ばして咲いているので、

原産地は南米の、水草オオカナダモの花では?

侵略的外来種とも指定されてるようですが、メダカなどの飼育草として

利用されてるようです。

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春の花は実りを進め、紫陽花はそれなりの姿でも、はい お疲れさんかな。

 

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この実、なんの実、気になる実?

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梨にそっくりですが、この花の実なんですね。

ハンカチの木です。

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ピンポンくらいの大きさの赤い実。

地面を赤く染めてる丸い赤い実、山モモの実です。

花は地味ですが、実は美味しいんだそうです。

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 まが初々しい緑のイガグリ君、

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きちんと整った種は? シャクヤクですね。山シャクヤクだったかな。

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 山百合はまだ蕾だったが八重のユリ、薮萱草(ヤブカンゾウ)が咲いている。

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何種類かの山野草が楽しめる境内の一角に足を進めると、

愛らしい、小さなシャンデリアの姿を見つけました。

早いですね、レンゲショウマが二株、一輪づつ花を咲かせてました。

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白と淡い紫色が印象的な可憐な花、

森の妖精の愛称で親しまれるレンゲショウマは、
日本原産 キンポウゲ科、レンゲショウマ属の多年草

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 レンゲショウマといえば、東京都多摩の御岳山が日本一といわれる、

5万株の大群生が有名ですが、シーズンは大変な人出。

ここは株数は少しですが、ゆっくりと落ち着いて鑑賞できるのがありがたいです。

 

狛犬ならぬ狛寅君。

誰かが、願いをかけて身代わり狛寅を奉納したようです。

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そうそう、梅雨明けは何時かな?


 

 

写真保存を兼ねたブログ 5月徒然 風薫る 都立小金井公園 江戸東京たてもの園(2)

5月19日の「都立小金井公園 江戸東京たてもの園 」の続きです。

中山道の歩き旅などへ出かけ、前編をアップしたままでした。

前編はこちら

 

hansui.hatenadiary.jp

 

センターゾーンから昔の下町の風情を楽しめる東ゾーンへと足を進めると

石橋を渡ります。

 

その石橋の手前右手にに、「皇居正門石橋飾電燈」があります。

解説によれば、

明治20年代に、木橋から鉄骨、石橋に架け替えられたときに、

橋の欄干両側に男柱石j上に計6基設置されていた。

長年使われてきた6基の飾電燈は、昭和61年9月、鋳型を取って新しく鋳造された

ものと交換され、取り外されたもののうち1基です。

明治村などにも移設されてるそうです。

(現男柱石は、移設の際に復元)

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石橋を渡ると右手に、万世橋交番(まんせいばしこうばん)。

正式名称は須田町派出所で明治後期造館。

神田の万世橋のたもとにあり、移築の時にはトレーラーでそっくり運んだそうです。

万世橋中山道歩き旅の初日に見に行きましたが、その袂に有ったのですね。

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交番の先、左手にあるのが、「上野消防署(旧下谷消防署)」の望楼上部
建築年 1925年(大正14年)
台東区上野5丁目に建っていたものです。

解説文
望楼は火の見櫓の近代版です。

ここに昇って周囲を見渡していたんですね。

故郷の町にも屋根付きの望楼があったのを思い出しました。

1970年(昭和45年)まで使用されました。

三脚四層式外廊型で、旧所在地では約23.6mの高さがありました。

展示しているのは丈夫、約7mの部分だそうです。

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都電7500形
製造年 1962年(昭和37)
渋谷駅前を起終点とし、新橋・浜町中ノ橋・(神田)須田町まで走っていた車輌です。

交通量の急激な増加にともない、都電は荒川線を除いて1972年(昭和47年)

から順次廃止されました。

旧都電は学生時代は結構乗りました。

銀座も走っていて、まだ柳が健在だったと思いますね。

札幌勤務を経て東京勤務に戻ったころには、ほとんどが廃線になってましたね。

 (そうそう、札幌も当時は足はバスか市電でした。今は市電もほんの一部だけ)

 都電の左手に顔を向けると、3階建ての瀟洒な店舗が建ってます。
化粧品問屋を営んでいた「村上精華堂(むらかみせいかどう)」
建築年代は1928年(昭和3年)
台東区池之端二丁目に有ったそうです。
解説文
台東区池之端不忍通りに面して建っていた小間物屋(化粧品屋)です。
昭和前期には、化粧用のクリーム・椿油や香水等を作って、卸売りや小売りを行っていました。正面は人造石洗い出しで、イオニア式の柱を持ち、当時としてはとてもモダンな造りとなっています。

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少し進んで左手には、昔の商家・銭湯・居酒屋などが立ち並ぶ、

ふっとなにか懐かしさを覚えるレトロ感を持った街並みが、目に入ってきます。
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 手前右手の、正面が緑の建物は、丸二商店(荒物屋)(まるにしょうてん)
建築年代は昭和初期、千代田区神田神保町三丁目に有った由。
解説文
昭和初期に建てられた荒物屋です。

小さい銅板片を巧みに組み合わせて模様をかたち作り、

建物の正面を飾っているのが特徴です。

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建物は、江戸期の街道の宿場街並みでよくみられる、間口は狭くとも奥行きがある

構造になってますね。

江戸期は間口幅にて課税されたようで、名残りでしょうか。

店舗の奥は2階建てで住居と、

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2階建て棟割り長屋になってます。

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小路を挟んで奥隣りに並ぶは三階建ては、

右から、

建築年代は1972年(昭和2年)千代田区神田淡路町一丁目に建っていた、

  花市生花店(はないちせいかてん)。
解説
昭和初期に建てられた〈看板建築〉の花屋です。建物の前面は花屋らしくデザインされています。店内は昭和30年代の花屋を再現しています。

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真ん中は、

千代田区神田須田町一丁目に建ってた建築年代197年(昭和2年)の

  武居三省堂(文具店)(たけいさんしょうどう)

解説文
明治初期に創業した文具店です。当初は書道用品の卸をしていましたが、

後に小売店に変わりました。
建物は震災後に建てられた〈看板建築〉で前面がタイル貼りになっていて

屋根の形にも特徴があります。

何故か正面が斜った建物になってます。

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そして奥となり、提灯を掲げたは、たべもの処「蔵」(2階にあります)

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道を挟む対面に二店舗があり、左手にちょっと目を魅かれる3階建ての

「植村邸(うえむらてい)」があります。
建築年代 1927年(昭和2)  中央区新富二丁目にて建っていた由。
解説
建物の前面を銅版で覆ったその姿は、〈看板建築〉の特徴をよくあらわしています。
外観は、全体的に洋風にまとまっていますが、2階部分は和風のつくりとなっています。

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植村邸の裏手へ回ってみました。全体が正面の銅板色に合わせて緑色で、

今でも珍しい塗装ではないかな。

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隣は前面は木造3階建、大和屋本店(乾物屋)(やまとやほんてん)
建築年代 1928年(昭和3) 港区白金台4丁目に建っていたそうです。
解説
港区白金台に1928年(昭和3)に建てられた木造3階建ての商店です。

3階の軒下を伝統的な〈出桁造り〉にする一方、間口に対して背が非常に高く、

看板建築のようなプロポーションを持ったユニークな建物です。

いまでいえば、ペンシルビルというところでしょうか。

戦前の乾物屋の様子を再現しています。

f:id:hansui:20190524051215j:plain奥行きも有り、奥は木造2階屋の住居になってます。

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通りに戻り、蔵隣の空き地を挟んでさらに北側奥には、

万徳旅館(まんとくりょかん)
江戸時代末期~明治時代初期の建造物で、青梅市西分町に有りました。
解説文
青梅市西分町の青梅街道沿いにあった旅館です。建物は創建当初に近い姿に、室内は旅館として営業していた1950年(昭和25)頃の様子を復元しています。

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父親の実家本家は、田舎で唐破風屋根の玄関をもった旅館を営んでいました。

通り面の構造は少し違いますが、家内の雰囲気はまったく同じですね。

街道旅でもよく目にした旅籠風の旅館ですね。

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その向かい側、写真の左端の建物のは、川野商店(和傘問屋)。
建築年代は1926年(大正15) 江戸川区南小岩八丁目に建てられていたそうです。
解説
傘づくりが盛んであった江戸川区小岩に建てられた和傘問屋の建物です。内部は1930年(昭和5)頃の和傘問屋の店先の様子を再現しています。

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そして向きを変えた写真右手、蔵を従えたどっしりとした商店は、

建築年代 1933年(昭和8)  港区白金五丁目に建てられていた、

小寺醤油店(こでらしょうゆてん)

解説
大正期から、現在の港区白金で営業していた店です。味噌や醤油、酒類を売っていました。
庇の下の腕木とその上の桁が特徴の〈出桁造り(だしげたづくり)〉がこの建物のみどころです。

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そして通りの正面、突き当りは、

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東京の銭湯を代表する建物、「子宝の湯」です。

1929年(昭和4)建築で、足立区千住元町で営業されていた。

神社仏閣を思わせる大型の唐破風(からはふ)や、玄関上の七福神の彫刻、

脱衣所の折上格天井など贅(ぜい)をつくした造りとなっています。

(中へは入りませんでした)

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街中の銭湯でこれだけ間口の大きな銭湯は、あまり見る機会はないですね。

ふつうは奥に長い建物が多いと思うのですが。

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子宝の湯の右手には、

1897年(明治12年)文京区向丘一丁目に建てられていた、

出桁造りの町家、仕立屋(したてや)です。 

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そして左手は、

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台東区下谷言問通りにあった居酒屋、鍵屋(かぎや)です。
震災・戦災をまぬがれた鍵屋は、1865年(安政3年)に建てられたと

伝えられています。

安政2年に江戸大地震が有ったそうで、震災後に復興されたと言うことでしょうね。

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鍵屋の前を西へ足を進めると、木立の中に藁ぶき屋根の大きな平屋が、
豪農天明家(てんみょうけ)です。
建築年代は、江戸時代後期で、大田区鵜ノ木一丁目に建てられていた。

解説
江戸時代、鵜(う)ノ木村(現在の大田区内)で名主役を勤めた旧家です。
正面に千鳥破風(ちどりはふ)をもつ主屋・長屋門枯山水庭園などに高い格式が

うかがえます。

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がっちりとした長屋門

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長屋門を通り、正面は千鳥破風(ちどりはふ)をもつどっしりとした主屋。

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左だりてから一周してみます。

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最後は表へもどり長屋門の全景。

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天明家を後に、右手に樹林帯を見ながら、西ゾーンへと向かいます。f:id:hansui:20190612064351j:plain


西ゾーンへ、続きます。





 

水無月 六月の徒然 多門院のタイサンボクの花

6月の声を聴いて、はや5日。

小雨の時もありましたが、日中はほぼ夏日で推移。

5日、久しぶりに紫陽花の様子見を兼ねて、いつもの多門院へ

車を走らせてみました。

紫陽花はほのかな色づき始め。

柔らかな色合いが、また優しくっていいですね。

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名残り花ですね、ヒメヒオウギ、白花、赤花、そして白花ホタルブクロ

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境内毘沙門堂脇に大きなタイサンボク(泰山木 )は白い花を咲かせてます。

 

 タイサンボク(泰山木 ) モクレン科 タイサンボク属

アメリカの東南部原産で、明治初期に日本へ渡来した。

「泰山木」のネームは、 花、葉、樹形などが大きくて 立派なことからや、

 花の形を大きな盃に見立てて「大盃木」。それがしだいに 「泰山木」になった。

今は、街路樹、公園樹としても多く見かけますね。
背丈がかなり高くならないと花が咲かないといわれ、大きな白い「おわん」形の

花は芳香あり、と聞きますが、いままで感じたことはないな~・・。

ふつうは樹の見上げる高さに咲いてることが多いのですが、

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多門院でも樹高も高いですが、傘型に大きく枝を広げていて下がっていて、

目下にも花を観ることが出来るんです。

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タイサンボクの裏手では、猛烈な密集度緑色のヤマボウシが開き始めてます。

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ホンコンシエンス・月光かな。

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通路を隔てて、柏葉紫陽花。

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赤く色を添えるのは、キョウカノコ(京鹿の子)

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そして明日へと、梅雨入りは来週かな?











 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第33回 御嵩宿~太田宿 後編

 5月25日(土)中山道歩き旅の後編へ入ります。

 

遊歩道の土手道中山道を降りて左り弓なりが、街道書には記されてませんが、

江戸時代後期に渡し場が移動してからの、太田宿江戸口の桝形という説もあります。

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神明堂交差点は変則的六差路になっていて、真ん中を通るのが県道207。

(県道207は旧国道21で、2018年県に移管され県道に変更)

左手で県道と分岐した左の道が中山道、太田宿の街並みが西に向かって伸び

てゆきます。

令和元年(2019年)5月25日 PM2:20

江戸から51番目の宿、太田宿へ到着です。

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街道書によれば、太田宿の宿長は6町14間(約680メートル)。

  家数   118軒 (うち、本陣1、脇本陣1、旅籠20)
  人口   505人 (うち 男259人、女246人)

飛騨高山道と郡上街道が分岐する交通の要衝にあたり、近くには太田の渡しもあり

木曽川の舟運も盛んな宿場であったとあります。

江戸初期には徳川家康に重用された大久保長安が奉行として統治していたが、

長安が没した後、大湫宿御嶽宿と同じように尾張藩領となった。
太田代官所天明2年(1782年)に設置され、恵那から鵜沼まで約五万四千石の

村々を統括し、政寺・経済・文化の中心地であったそうです。
(広重画 太田宿 太田の渡し)

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(参照資料より)

当初の御嵩宿から鵜沼宿までの中山道道筋は、御嵩宿ー伏見宿ー土田(どた)宿ー

木曽川内田の渡し(愛知県犬山市内田町=犬山城付近)ー鵜沼宿であった。
 記録的には伏見宿は、元禄七年(1694)土田宿の廃止により新しく宿場と

して設けられたとあるが、慶長七年(1602)の「御嶽宿駄賃定」には、

御嶽より伏見までとあり、明暦二年(1656)の文書にも「此宿中山道御伝馬所・・・・大通之時ハ御嶽宿と一所に成、伏見宿御伝馬役仕候、・・・」とあり、

当初より伏見は宿場であったと見ることが出来る。
 しかし、太田宿の創設がはっきりしない。

 寛永十七年(1640)には、土田宿と太田宿が合宿で可児郡内二十五カ村

木曽川南)、加茂郡内二十七カ村(木曽川北)の助郷が付けられていることから、

この頃が太田宿が創立された時期と考えられる。
 またそれと同時に太田の渡しが開設され、観音坂・うとう峠の改修が行われ、

新しい中仙道が成立した推測できます。

(写真左下、水車の回る米問屋小島屋)

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神明堂交差点から少し先の民家の前に、写真は写し忘れましたが、中山道太田宿と

刻まれた石碑が立ってました。

さらに先左手に休憩所やトイレがある神明水神公園があり、暫し足休め。

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公園から100m弱先、右手塀に太田宿碑が建っていました。

中山道太田宿 右御嵩伏見宿三里 左太田脇本陣宿三丁」と記されてます。

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その左手向かい側すぐ先に、独特の字体で「南無妙法蓮華経」と彫られた法華経塚。

案内板には、飛騨街道への追分があるとのこと。
先ほどの少し東の神明堂交差点にあった、道標のことが記されてます。

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法華経塚から100m強ほど左に太田宿の江戸(東)口、木戸番が詰めていた

新町木戸門跡で、標柱が建っていました。

標柱の後ろには木曽川の土手が見え、太田宿が木曽川の河畔に立地していることが

わかります。

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木戸門からレトロな街並みを200mほど行くと、十字路になり右手へ道は

美濃加茂駅へ通づる道になり、左手に太田宿の案内標柱が照ってます。

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(標柱にライン街道とあるのは堤防の遊歩道?)

マンホール蓋デザインは、渡し? or ライン下り? 

(正解は、かって人気の木曽川日本ライン 船下りでした)

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標識から先白壁が続き、左手に太田稲荷がありました。 

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稲荷の先50mほどに太田宿の上町桝形(跡)があり、白い塀は祐泉寺の

中山道側で、曲がると秋葉神社が祀られてました。

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祐泉寺は500年を超える歴史をもつ臨済宗妙心守派の寺で、寺伝によれば

文明6年(1474年)に大道真源が湧泉庵という寺を建立したことに始まるといわれて

います。

松尾芭蕉北原白秋坪内逍遥などの歌碑や数多くの石仏 槍ヶ岳の開祖として

知られる「播隆上人墓碑」と、美濃加茂から犬山までの木曽川の景観を

日本ライン」と命名した「志賀重昴(しげたか)墓碑」があると街道書には

あります。

祐泉寺は木曽川に面して山門があり、今度の渡し、太田の渡し、中山道と来た道は

境内のお裏手を見せてますが、木曽川の流れの変化に伴い、太田の渡しに変更に

なったということから、元々木曽川のこの辺りに渡し場があったため、

と思われますね。

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祐泉寺から街道へ戻ると右側に明治40年(1907年)に建築されたという

十七銀行旧太田支店跡がありました。

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向いには、国の有形文化財に登録されている旧旅籠の小松屋(吉田家住宅)が

あります。お休み処になっていて無料で入場でき、ちょいと覗かせて頂きました。

この建物は江戸末期の建築と言われ、一階と二階の窓には格子戸がはめられており、

町屋建築の面影を今に伝えています。

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桝形から先が太田宿の中心になってきます。

永楽屋、辰巳屋などや卯建(うだつ)を上げた家屋など、街道宿場であったことを

伝える風情のある街並みが続いてます。

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明治時代に本陣「福田家」から酒造権を譲受け醸造をはじた「御代桜」酒造が

あります

江戸時代は茶屋と酒の販売を営んでいたそうです。

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対面に、江戸時代の脇本陣建物を残す林脇本陣が建ってます。

明和6年(1769年)に建てられた主屋は卯建が設けられ、格子戸と連子窓が

美しい建物で、国の重要文化財に指定されている。

天保2年(1831年)に建築された表門とそれに連なる袖塀も含めて、

間口25間(約45m)の屋敷構え。

脇本陣のほかに太田村の庄屋、尾張藩勘定所の御用達を勤め、さらに味噌の醸造

質屋などを営んでいたそうです。

因みに、祐泉寺にお墓のある江戸時代に槍ヶ岳を開山した播隆上人は、

天保11年(1840年)にこの脇本陣で病に倒れ、この地で生涯を終えている。

明治時代には、板垣退助が岐阜で暴漢に襲われる前日に宿泊しているそうです。

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写真、脇本陣門の右手の家屋は、脇本陣林家隠居家で脇本陣は公開されてませんが

こちらは公開され見ることができます。(覗いてません)

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脇本陣の対面の斜め左に、福田本陣跡がある。

現在は本陣の面影を偲ぶ建物は残っていないが、文久元年(1861年)

皇女和宮の下向の折に建てられたといわれ、幅1間、両側に半間の脇袖塀を持つ

表門が往時の本陣を伝える遺構として保存され、美濃加茂市有形文化財

指定されている。

本陣には大老井伊直弼、水戸天狗党武田耕雲斎などが宿泊しているそうです。

明治時代には太田町役場が置かれていた。

建築以来、長い年月を経て痛みが激しくなったため、平成14年10月に解体修理を

行いました。    (現地説明板より)

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本陣跡の向い、脇本陣の西隣に、2006年に開館した、太田宿中山道会館が

あります。そして、

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 歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第32回 御嵩宿~太田宿

令和元年5月25日(土)は、 PM3:05 ここで足止めとしました。

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太田宿中山道会館には、江戸時代の中仙道や宿場町の様子や「太田の渡し」、

御降嫁で太田宿に宿泊した皇女和宮等の資料が展示などがあり、1946年から

亡くなるまでの2年間を美濃加茂市下古井に住み、文芸活動や芸術活動を展開した

岡本一平の居宅の部材の一部を使用し再現した、ゆかりの家「糸遊庵」も同じ

敷地内にあります。

( 会館のHPです)

館内をさっと見学し、日陰のベンチで缶コーヒーを飲みながら一休み。

私しより大先輩、八十代後半のご夫婦のご主人が、話しかけてきました。

「どちらから、遠くからですか」

リックを背負ったすこし疲れたような私たちの姿を見かけ(?)気になったようです。

街道旅の話をすると、大変興味を持たれ

「ご夫婦で元気に歩かれてるとは、幸せですな、うらやましいですよ」

とおっしゃってました。

老境に入ってから、ご夫婦で方々へ観光されていたそうですが、

奥様が二度の脳梗塞を患い、二度ともなんとか回復されたが、

やはり無理はできず、それでも一緒に出掛けたいと今はマイカーで

近場へ出かけられるそうです。

街道旅や、観光旅のいろいろの話で、話が弾み、

「お互い、元気で、またどこかでお会いできることを願って、」

とご婦人をいたわりながら、去って行きました。

本当に、またどこかで!ですね。

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 会館の中央にドンと構える榎の大木があり、その枝に大きな丸いボンボンの様な

ものが沢山ついているのは、ヤドリギ(宿木)ですね。

この榎に冬場ヒレンジャク(緋連雀)がやってくると、案内板にありました。

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 ヒレンジャク(緋連雀)は、シベリアから冬を逃れて渡ってくる、体長約18㎝の

渡り鳥です。木の実を食べに飛んで来るヒレンジャクは、宿木の実を食べますが、

宿木の実には粘り気のある物質が含まれており、消化されずに種のまわりに

残っているため、硬い種はそのまま糞と一緒に出されます。その種は、地面に

落ちる途中で枝や幹にくっつき、根を食い込ませることで成長します。

寄生植物である宿木は、鳥のおかげで高い梢に根を下ろすことができ、

ヒレンジャクは、種をまくという大切な役割を担っているのです。

美濃加茂市広報より)

昨年、2年ぶりにこの木にやってきたそうです。

大変希少な渡り鳥だそうで、野鳥マニアの追っかけ鳥なんだそうですね。

数年前、自宅近くの公園へ飛来したとの情報が流れ、大勢のマニアが

カメラの砲列を敷いていたことがあり、私もデジカメ持って待機しました・・が、

 残念でした、の思い出がありました。

(広報の写真拝借 ヒレンジャク

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太田宿を後に、JR美濃加茂駅へさらに1kmほど、重い足をいたわりながら歩き、

JRへ乗り継ぎ、PM4:30、可児市の宿へ。

宿近くで「あら、八重のドクダミよ!」とカミさんが見つけた。

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明けて5月26日(日)、恒例の帰り寄り道は、当初はわりと近い【国宝犬山城

でしたが、旅の直前に可児市に素晴らしい広大なフラワーガーデンがあることを

知り、さらに宿で見たTV報道でも、バラの見ごろとあって、最終決定。

「天気良し!バラへ」と立ち寄り。

いや~広かった!綺麗だった!暑かった!で、寄れてよかったね。

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 ほんの一部だけど、デジブックアルバムに、


街道歩きの旅としては、昔の旅人に笑われそうな距離しか歩けませんが、
「それもまた良し、物見遊山のんびり旅」

帰りの高速道SA、で中央アルプスが見送りだ・・・・

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またいつの日か旅へ、

    おわり。

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第33回 御嵩宿~太田宿 中編

35月25日(土)中山道歩き旅の続き編へ入ります。

 

一面には太田の渡しを経て岐阜に至ると刻まれ、もう一面は多治見、犬山に至ると

記されている犬山道道標の分岐を右手国道21号の旧道へ足を進めます。

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上恵土交差点から約500m弱、右手に四国西国巡礼碑が建つ弘法堂

(なぜか撮影無し)を過ぎ、続いて寛文6年(1666年)に再建され

神明神社白山神社を合祀した上恵土神社があります。

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私たちは旧国道21の左側歩道帯を進んでますが、250mほど先に分岐があり、

左手に大きくカーブしてバイパスの現国道21へ合する道と、右手へ下って行って

300mほど先での国道へ合する二股になってます。

二股の手前右手に「またのおこしを・・中山道歴史の町」の看板がありました。

ここで御嵩町伏見がおわり、この先街道は可児市となってゆくようです。

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街道書では二股は右手への指示になってますが、分岐手前からはガードレールに

切れ目がなく右手には渡れないため、左カーブで国道(21号バイパス)へ

合流しました。

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国道21号の右手歩道帯を1km弱行くと、横断地下道のある中恵土交差点で、

中恵土交差点の手前にあるバイパスの地下道入口のところに、

江戸から97番目、恵土一里塚跡を示す石碑が建っています。

石碑には、江戸時代の一里塚はここから東に約30メートルのところにあったと

刻まれてます。

(「恵土」という地名の読み方は「えど」で、鎌倉時代には「荏戸」と表記され、

 「江戸」、「江渡」とも書いた由)

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時刻もお昼直前。気温も30℃越えたかな?

国道の左側にコンビニ、さらに先に、Macの赤いマーク見えたのでどちらかでお昼にと

横断地下道で国道左手に。

コンビニにイートインコーナーがなさそうなので、久しぶりにハンバーガでの昼食。

結構席数の多い店舗で家族連れで大賑わい。

こうしてみてると、一人っ子なんていないようなんだがな~・・

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 小一時間ほど体を休め、再び炎天下?の街道jへ。

街道書では先で右手へ分岐するとあるので、手前の川合口交差点で国道右側へ

移動します。

街道(旧国道21)は、愛知用水の大東橋を渡ったところでバイパスから右に

分岐し、右手に可茂公設市場を見ながら進むと、JR太多線の中仙道踏切に

当たります。

街道書には、踏切手前に辞世を刻んだ数基の「辞世塚」があると記されてるが、

撤去された周辺何も無し?

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踏切を渡り少し行くと、右手石垣台上に開運北辰妙見大菩薩碑が建ってます。

街道書には簡単に「北斗七星、または北極星を神格化した神」と記されてますが、

ある書では、

「昔から太陽・月・星の運行を神秘的なものとして崇め、

 仏教では日蓮宗や、真言宗天台宗などに取り入れられ、妙見大菩薩と呼ばれ、

国土安穏・五穀豊穣・除災招福、開運隆昌の守護神として信仰されてきた」

とありました。

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碑から今度大東交差点を渡り、お世話にならないようにの「JAF」を見送り

約300m歩くと、左側に東住吉自治会館があり、秋葉神社が祀られていました。

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住吉交差点で現国道21号と交差、現国道は新太田橋で木曽川を渡ってゆきますが、

街道は住吉交差点を直進し、国道248の旧道となって

今度の渡しを控えた立場で賑わった今度村へ入り、 

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300mほど行くと、右手に村の鎮守今度神社の鳥居が建ち、奥の木曽川沿いに

今度神社が鎮座しています。

神社は、昭和になって住吉神社八幡神社神明神社の三社を合祀した新しい

神社だそうです。

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今度神社から150mくらいに、天正年間1609年に開山といわれる

臨済宗妙心寺派金剛山龍洞寺があり、龍洞寺起縁の名石と伝わる(街道書記述)

「龍の枕石」が祀られてます。

その昔、この近くに雌雄の龍が住んでいたそうで、その龍の寝枕なんだそうです。

枕を使って寝ていた?? 日本昔話だね。

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先から道は右へ曲り始め、やがて道は二股に分かれ、旧国道248は

現在は「太田橋」を渡るため右折をして行くが、真っ直ぐ進む道が中山道で、

当初は先にあった「土田宿」から対岸のへ渡って行っていた。

その後現在の「太田橋」の西100mの所へと渡し場が変っていった。

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分岐の右手前に参道があり、元禄年間(1688~1704年)に創建された

富士浅間神社が鎮座します。

境内の木陰をお借りして水分補給と足休め。

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一休みして分岐左手の渡しへの道へ入り、「別格今渡弘法大師旧蹟」の石碑が建ち、

「卍南無弘法大師」と染め抜かれた幟が立ち並び、庚申塔の建つ小道へ右折すると、

木曽川に向かって石段があり、それを降りていくと弘法堂が建っている。

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弘法堂の脇から木々の間に青い川面が見え、池の赤い橋を渡て左手へ下ると

護岸された木曽川の川辺の石畳道へ出ます。

護岸された石畳道は水面からかなり高く、渡し場跡は??と青い太田橋方向へ

進んでみましたが、崩れた場所などがあり先へは進めません。

崩れた付近が渡し場だった石段跡のよう見も見えましたが、わからないままに

戻りました。(史跡としての保存に力が入ってない?)

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中山道の三大難所、「木曽のかけはし、太田の渡し、うすい峠がなくばよい」と

詠まれた、木曽川の渡し場跡。

この対岸の呼称が太田の渡しですが、木曽川の出水ごとに船止めとなったので、

旅人のため宿屋・茶屋などが立ち並び、今渡地区も湊町として繁栄したと

伝わってるそうです。

昭和2年(1927年)に太田橋が運用されるまで利用されていたという。

(太田橋は大正15年末に完成しましたが、 大正天皇がご逝去されたため昭和2年に

 渡橋式を行ったそうです)

なにか史跡としての残し方に物足りなさを感じながら、再び弘法大師堂前を通り、

ゆるく坂道を100mほど行くと、旧国道への太田橋袂へ出てきます。

(後のかくにんで、渡し場跡の石畳道を下流方向へ遊歩道的に整備されてる様でした)

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道の右手は小公園になっていて、ここに渡し場のモニュメントがありました。

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さあて、今旅人は延長218m、2008年にできた新しい太 田橋歩行者用橋を

渡ります。

車道橋は1927年(昭和2年)完成で、土木学会選奨の土木遺産に登録されている。
歩道橋の無いころの太田橋は歩道帯が無く、つい最近まで今旅人にとっても

東海道天竜川と並ぶ恐怖の難所だったと言われてたそうです。

(2008年前の旅人日記にも必死に駆け抜けた、とありましたね)

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5分ほどかけて木曽川を渡り青い橋桁が終わったところで、右手に下る道が

分岐し、道の左手に「リバーボートパーク⇒」の案内板が建ってます。

下ると木曽川美濃加茂川河川敷で、従来からあった中之島公園をリニューアルし、2018年4月に開園したばかりの中之島公園「RIVER PORT PARK INOKAMO」

でした。

かつて観光客でにぎわい、2012年に廃止された木曽川日本ライン下りの出発地

を整備したようですね。

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先で河川敷上を渡る橋となって、可児市から美濃加茂市へと入って行きます。

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橋を渡った先は右手上流にかけられた新太田橋を通て来た現国道21号に

突き当たりますが、国道21へは合流せづ、一旦橋を渡ったところで、

ガードレール切れ間から左側へ渡り、少し戻った形で、木曽川沿いの堤防上が

遊歩道になっている中山道へと向かいます。

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木曽川の右岸美濃加茂側河川敷は太田の渡し場跡があり、太古の森林の樹木が

土砂などに埋まって化石(珪化木)となったものが多数発見された「化石林公園」が

整備されているそうですが、土手上からの眺めで良し、として遊歩道を西へ進みます。

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日陰のない堤防上遊歩道ですが、さすが川沿いは風も爽やかで、るんるん気分で

 足を進め500mほど行くと、街道書に案内されてる文化会館側の階段があり、

堤防下に建つ美濃加茂市文化会館の敷地に、江戸から98番目の

「古井(こび)の一里塚跡」を示す標柱のみが建てられてました。

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あら、いい色合いね、とカミさんの指さす方に咲いていた花。

  初めて見た花 なんの花♬。

(桔梗草 (ききょうそう)、別名 段々桔梗(だんだんききょうというんですね)

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敷地内を回り込んで再び遊歩道を行くと、右手にあの大阪万博太陽の塔

岡本太郎の父親で、漫画家の岡本一平終焉の地碑が建っていました。

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 (写真、上の左から右)岡本一平碑から約80m歩くとY字路分岐となり、

  右側の道に進み、約80m先のポンプ場前を右折し、

(写真。下の左から右)その先の神明堂交差点を左折しました。

  交差点右向いに飛騨高山道と中山道の追分道標が立っている。

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後編へ続きます、 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第33回 御嵩宿~太田宿 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

平成30年(2018年)11月10日、PM4:55 

第32回の旅はここで足止めとしました。

願興寺前が桝形となって街道は続きますが、正面が名鉄広見線御嵩駅。

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 次回の旅は翌春に再開と思ってましたが、2018年暮れになって、

なんとこんどは右下腹部ヘリニアの症状がでて、大学病院の診断で手術を

受けることになったが、ただし、大変に混んでるため手術は4月に。

年は明け、平成31年(2019年)を迎えます。

4月16日無事手術は終えましたが、術後のリハビリなどもあって
街道旅はしばらくお預け。

そんななか平成は終わりをつげ時代は移り変わり、新たな令和の新時代へ。

5月中、術後の一か月診察にて完治診断があり、旅は何時でもOKとなったが、

 足が重いとか・・なにか愚図愚図していたら、・・・

なんと、21日になって、カミさんの兄から「東海道完走」のメールが写真とともに

送られてきた。
前々から私たちの街道旅に関心を寄せていたが、数年前に起こしてしまった

バイク転倒で、長距離歩きや激しい運動は無理なんだ、と残念そうに言っていた。
その後、日頃使ってる自転車でならと訓練を始め、新たに折りたたみ式を購入。

この5月に挑戦していたのが、10日間での完走を果たしたそうです。

再開を躊躇していた街道でしたが、義兄の刺激をうけて?、

よ~し、こちらも再開するか!
来週はカミさんの内職仕事が入りそうなので、そうとなれば善は急げ、

カミさんに声をかけると、あっさりOK。

ばたばたと宿を探し、まだ長距離には自信は無いが、無理はしない、

途中ギブアップOK。まずは動いてみよう、で街道旅の再開へ。

 

令和元年5月24日(金)、快晴の夜明け。

夏日がしばらく続く予報。炎天下の街道旅になりそうだ。

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カミさんの仕事終えを待って、12時半マイカーで出立。

中央高速を休憩を挟みながら341km、約6時間を走り、夕闇の迫る前に

 岐阜県可児市の宿へ投宿。

 

令和元年5月25日(土)快晴、真夏日の予報になってる!

少しでも涼しいうちに一歩をと、名鉄新可児駅AM8:008発の電車で、

 前回足止めの御嵩駅前へ。

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再び立つことのできた、懐かしき中山道日本橋から49番目、御嵩宿。

(右手の道を歩み來し、街道は左手へ曲がって進みます。前回はこの場所で足止め)

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出立ショットを収め、令和元年(2019年)5月25日(土)AM8:30

再び歩いて京の都へ! 中山道夫婦歩き旅、第33回の旅立ち。

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 今日の歩き旅、目標は

50番目、伏見宿 御嵩宿より1里余 4.6Km 日本橋より 96里27町 379.9Km

51番目、太田宿 伏見宿より約2里 7.5Km 日本橋より 98里27町 387.8Km

御嵩宿~3里 約12kmです。

前回寄れなかった、旧脇本陣跡の「中山道みたけ館」はまだ開館前でパスし、

1里余(約4.5km)先の伏見宿へ向かいました。

 

 駅前は桝形になっており角に、現在、本堂解体修理が行われている

願興寺があります。

創建は平安時代初期の弘仁六年(815)に最澄薬師如来(国重文)を彫り、

小堂に安置したのが始まりといいます。
平安末期と戦国時代に二度の兵火に遭っていますが、幸いにも本尊の薬師如来像は

じめ諸仏像は焼失を免れ、天正九年(1581)近在の農民の発願により

再建されました。

本尊仏「薬師如来座像」は秘仏であり、子年4月にご開帳となります。
蟹薬師の由来は近くの池から一寸八分の薬師如来が無数の蟹の背に乗って現れた

という伝説により蟹薬師と呼ばれる天台宗名刹です。
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一旦境内へ入り、覆われてる本堂周りを一回り。

仮本堂(写真右)の小さなお堂)にお参りして、願興寺を後に。

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お寺の西側に出、先に進むと左手に神明神社があり、

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おっ、いいね~、食事処のようですが看板は無し?

金、土、日の三日間だけの営業??

暖簾が下がってるから朝からやってる様ですね。

f:id:hansui:20190529070806j:plain中山道は、時計塔を持つ洋館風の「宝石・メガネの原」と原写真館(両館は親戚?)

の信号交差点を左折して行くと・・

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街道らしい雰囲気の道へ変わりますが、西へ向かう街道は日陰がなくなり、

じりじり背中から暑い日差しが照り付けてきます。

持参飲料はガンと凍らせたペットボトルに水と、レモン水。

水分補給はこまめに、今日の旅の合言葉ですね。 

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しばらく進むと左角に、文政4年(1821年)建立の「笠と火袋」が木でできた

常夜燈が建つ十字路を右に曲がり、

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さらに進んで、右手に秋葉山常夜燈を見ての先、西屋敷交差点で国道21号に入り

左折して西へ向かいます。

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擦れてほとんど読み取れない自然石道標(街道書記)をみてすこし西へ行くと、

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蟹薬師に関係する逸話が残る鬼の首塚がある。

塚の上に建つ木造の社には、「鬼首塚」「関ノ太郎首塚」と刻まれた新旧の石碑が

祀られている。鎌倉時代に「関の太郎」あるいは「鬼の太郎」と呼ばれる悪人が

この地に住み着き、その悪業に手を焼いた住民が地頭にその退治を懇願する。

地頭が蟹薬師に悪人退治の祈願をしたところ、関の太郎が女装して祭礼にやって

来るとのお告げがあり、見事にその首を討ちとることができたという。

その首を京に運ぼうとしたが、急に重くなって持てなくなり、そこに塚を造って

その首を葬り鬼の首塚と呼ぶようになったという。(解説板)

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 鬼の首塚の隣には、

草枕 むすぶまもなき うたたねの ゆめおどろかす 野路の夕立」

と刻まれた正岡子規の歌碑が建っている。

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首塚から少し進むと大庭交差点。その手前右手に「御嶽神社」が祀られてます。

大きな石碑や灯篭に挟まれたお堂には「御嶽神社御分霊」の額が下がってます。

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 大庭交差点を過ぎて、150mほどで旧道は右に分岐し、

田圃に水が張られた車もほとんど通らない道はすぐに国道21号に合流する。

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左手の可児川沿いの国道21を200mほど行くと顔戸(ごうと)の信号。

付近に応仁の乱時代の顔戸城址があるようでしたがパスして進みます。

信号を左手に可児川を渡って行くと、名鉄顔戸駅があるようです。

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さらに可児川を見ながら400mほど行くと再び旧道が右に分岐し、

中山道と彫られた石碑があり、側面には比衣(ひえ)の一里塚跡と彫られてます。

単なる盛土になってるだけですが、お江戸日本橋から96番目の一里塚(跡)です。

f:id:hansui:20190529120214j:plain石碑の分岐から右手へ行き、東海環状自動車道の下を潜って

「右御嶽宿 左伏見宿」と刻まれた道標を過ぎると、国道21号に合流する。

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 国道へ合流し、3,400mほど進むと右側に可児警察署伏見駐在所があり、

中山道の方向を示すものはありませんが、街道書では、国道から分岐して右手への

道筋になってます。

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右に入ると街道書には駐在所裏手の森は「高倉山古墳」と記されてますが、

なにも案内が無く判別がつきませんでしたね。

少し先で左手へ曲がった田圃沿いの道地面に、江戸へ向かっての中山道

プレートが描かれていてました。

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 両側が田圃の道を行き、少し坂道を上がると国道に合流します。

江戸方面からは樹の陰で見えませんが、国道合流地には江戸くだり方向の

中山道標識が建ってます。

合流地が伏見宿入口の桝形という説もあるようですね。

ここから伏見宿に入ったようです。

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国道21号は御嵩入り口で新国道21可児御嵩バイパスが分岐してるので、

伏見宿街中を通る国道は車も少なく、静かなたたずまいの街並みです。

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左側に伏見公民館があり伏見公民館前の植え込みに、

代々岡田与治右衛門が勤めた、伏見宿の本陣跡の標石、尾張藩の領界石が

建っています。

御多分に漏れず、1848年(嘉永元)年の大火で本陣は焼失し、

あと再建はなかったそうです。

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 伏見宿は江戸から50番目の宿場で、御嶽宿と太田宿の間に設けられた間の宿で

あったが、御嶽宿が開宿してから約90年後の元禄7年(1694年)に、

木曽川の流れの変化から、渡し場が太田と今戸に変更になったのに伴い、

太田の対岸にあった土田宿が廃止されたため、中山道の宿場として新設された。

兼山道と犬山道が分岐する交通の要衝にあたり、更にすぐ近くを流れる木曽川

水運を利用して新村湊から多くの物資が運び出され、賑わいを見せたという。

尾張藩領だった1843年当時、

  家数    82軒 (うち、本陣1、脇本陣1、旅籠29)
  人口   485人 (うち 男230人、女255人)

f:id:hansui:20190529144957j:plain街中は歩道部分が茶褐色に彩色されて歩き易く、本陣跡碑から約140m歩くと

伏見交差点で、交差点右側はトイレが備えられた一本松公園になってます。

街道に面した処に「右御嶽」、「左兼山 八百津」と刻まれた兼山道道標が

建っている。(写真の左石柱)

兼山道というのは、ここより北東方向にある、斎藤道三の養子斎藤正義が築いた

兼山城に通じる道であった由。

美濃路へ入ると、とたんに戦国時代の武将の名が頻繁に出てきますね。

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伏見交差点を左へ行けば洞興寺があり、伏見には宿場時代、数多くの飯盛女が

働いていたが身寄りの無い人も多く、懇ろに葬ったといわれる多数の石仏が

祀られた「女郎塚」と呼ばれる塚があるのですが、寄らずに足を進めます。

伏見交差点をすぎて100mほどに、旧伏見郵便局舎(建物左)を利用した

ミニ観光案内所と、連なって卯建つのある旧旅籠の三吉屋で、

文政7年(1824年)に伏見宿に駱駝が来た事に因み、建物には

お休み処「らくだ」の表示が掲げられています。

ラクダは、オランダ商人が幕府献上品として輸入したが、幕府が受け取りを辞退

したため、興行師の手に渡り文政7年(1824年)伏見宿にやってきた。

興行師が病になり三吉屋に二日間滞在し、滞在中の二日間に2千人もの人びとが

見物に集まり、大盛況を呈したという。

旧旅籠三吉屋は建築年代不明ながら、旅籠のほかに生薬「感応丸」を商い、

近江の日野商人が取り扱ったことにより、全国規模で販売される人気商品となった

という。 

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三吉屋はお休みどころとなっていたので、覗こうとしたがカギが掛かっていて

「入れないね」と話してたら、隣の案内所から女性が出てきて、

開けますから是非寄ってくださいと進められて、中へ案内されると、

旅籠つくりの建物内では、展覧会などにも出展されてるという同好会の

お二方の、素敵なパッチワークキルトの作品展をされていたんです。

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裁縫関連の2級技能士の資格を持ち、最近着物帯を利用したバック造りを始めた

カミさんは素敵な作品に大喜び。

作品を一点、一点説明をいただきながらゆっくりと拝見させていただき、

見終わって隣の旧郵便局(観光案内所)でお茶やお菓子をいただきながら、

さらに作品の話、旅の話と盛り上がり、いいひと時を過ごしました。

帰路についた車の中でも、カミさんは「素敵なパッチワークキルトだったわね」と

いい思い出になったようです。

皆さん、ありがとうございました。
街道へ戻り先へ進みます。

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右手に灯篭が立ち。祠に道祖神が祀られてます。

そういえば御嵩宿を出てから、木曽路ではあれほど出会った、道祖神馬頭観音

撤去されたのか、全く見かけませんでしたね。

よく、地域開発の際にお寺や神社など一か所に集められてるのを目にしますが、

どこかに移動されてるのかな?

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更に約200mほど行くと、交差してくる道の角に大きな石碑があり、

街道書によれば、かなり特殊な字体は「南無阿弥陀仏」と刻まれ、
槍ヶ岳を開山した江戸後期の僧・播 隆上人の名号碑と記されてます。 

伏見宿の京方口はどこなのかわから無いうちに、宿場は終わってるようです。

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広重画 中山道伏見宿

どの辺を描いたのでしょうか??

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街道は緩い下り道となり、ほどなく右手に御嵩町の大きな案内板と、そばに

正岡子規の句碑がありました。

明治24年松山への道中、中山道を歩き、伏見宿に泊っているそうです。

「すげ笠の 生國名のれ ほととぎす 」

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 句碑から150m強歩いたところが、斜交いに交わる上恵土交差点にで、

大正4年(1915年)建立の「右太田渡ヲ経テ岐阜市ニ至ル約九里」

「左多治見及犬山ニ至ル約4里」と刻まれた犬山道道標があります。

太田の木曾川は大正4年ころは、まだ渡し船だった。

あの広重画の伏見宿は、犬山道へ入ったところの一本杉付近、との説があるそうです。

(広重は中山道を旅してない・・の説の元にもなってるようですね)

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交差点を渡り、右手の太田への道へと旅は続きます。


 

写真保存を兼ねたブログ 5月徒然 風薫る 都立小金井公園 江戸東京たてもの園(1)

5月19日(日)、カミさんが50年来の仲良し組と1泊2日の短い旅へ

行ったので、久しぶりに一人での外出。

春先に教えて頂いていた都立小金井公園内に併設されている

江戸東京たてもの園」へ行ってみました。

小金井公園は都西部の小金井市小平市西東京市武蔵野市にまたがり、
北側は有名な小金井CC,南側は名勝の指定を受けてる玉川上水沿いに位置し、

面積約80ヘクタール、上野公園の1.5倍といわれる広大な公園です。
この公園の前身は、昭和15年紀元2600年記念事業で計画された小金井大緑地。

戦後、東宮仮御所にも使用された地の半分強を、29年に都市公園として

開園してます。

武蔵野の面影を残した、緑豊かな西一角に併設されてるのが

1993年(平成5年)開園した歴史系野外博物館、「江戸東京たてもの園」です。
敷地面積は約7ヘクタール、園内には江戸時代から昭和初期までの歴史的建造物を

移築し、27棟の復元建造物が建ち並んでいます。

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案内文によれば、

江戸東京たてもの園ビジターセンター」となっている「旧光華殿」から入園。

旧光華殿(きゅうこうかでん)は、1940年(昭和15年)皇紀2600年

記念式典の会場として、現在の皇居外苑に建設された仮設された式殿です。

式典終了後は、仮設の建物である光華殿は解体され、翌昭和16年7月に現在地に

移築し、一時期には学習院中等科小金井校がこの地に置かれ、

西隣りに東宮御仮寓所が設けられ、跡地には記念碑があります。

同園への入場口として使われると同時に、特設展示室や売店、Caféなどの施設が

あります。

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ビジターセンターを北側に抜けると園内へと入ります。

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エントランス広場には、皇居内旧本丸跡にあった江戸時代の「時の鐘」に替わり、

空砲により正午を通報した「午砲」が据え付けられてます。

夕刻に所用があるため、次回カミさんと来た時に各館の室内見学をすることとし、

今回は外観をじっくりと楽しむ回り方に決め足を進めます。

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 広場から正面に目につく建物は、

【都有形文化財】旧自証院霊屋(きゅうじしょういんおんたまや)

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3代将軍徳川家光の側室お振の方の霊廟。

慶安5年(1652年)、尾張徳川家に嫁いだ家光の長女千代姫が生母お振の方の

霊屋を自証院境内に建立した。
 建物は禅宗様と和様の折衷様式で、柱・組物・桟唐戸さんからとや須弥壇

などには禅宗様が、蔀戸や高欄の擬宝珠、板張りの床などには和様の意匠が

用いられている。
 明治になると荒廃してしたが、昭和32年西武鉄道によって霊屋は買収され、

赤坂プリンスホテル内に移築され、平成7年、江戸東京たてもの園に移築・復原された。

(解説文)

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隣りには将軍徳川家の菩提寺である寛永寺に、八代将軍徳川吉宗の没後、

1751年(寛延4)献上された寛永寺灯篭

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寛永寺灯篭の向いには、1902年(明治35年)港区赤坂七丁目に建築さてていた、

  高橋是清邸(たかはしこれきよてい)。 

共立学校(現・開成中学校・高等学校)の初代校長、特許局の初代局長、貴族院議員

日銀総裁、大蔵大臣、農商務相、第20代 内閣総理大臣など歴任。

「だるま宰相」とも愛称され、明治から昭和のはじめにかけて日本の政治を担った

高橋是清の住まいの主屋部分です。
解説文によると、

総栂(つが)普請で、洋間の床は寄木張り。

2階は是清の書斎や寝室として使われ、1936年(昭和11年)の

2・26事件の現場になりました。

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回り込むとせせらぎの音も心地よい庭園です。

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和風邸宅に窓ガラスを使った初期の段階の家屋。

暗殺の舞台となった2階部分。

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ふんだんに使われてる窓ガラスが初期のころの手造りの口吹きガラスで、

表面が微妙に波打っているように見え、“ゆらめき”映り込みが風景が一味違った

風情を醸し出してます。

以前に訪れたことのある、旧日光田母沢御用邸で体験したのを思い出しましたね。

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大正期の実業家西川伊左衛門が隠居所、宗徧流の茶人、山岸宗住(会水)が建てた

大正期の茶室を見送ると、伊達家の門(だてけのもん)が目に入ってきます。

奥州伊達家の一族、旧宇和島藩伊達家が、大正時代に東京港区白金二丁目に建てた

屋敷の表門です。

起り屋根(むくりやね)〉の片番所を付けるなど、大名屋敷の門を再現したような

形をしています。

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番所

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総欅(けやき)造りで、門柱の上に架けられた冠木(かぶき)には、

宇和島藩伊達家の木彫りの家紋が施されています。

両端に伊達家の先祖に当たる伊達朝宗が、源頼朝より下賜されたと

言われる家紋「三つ引き両紋」

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そして中心の家紋は伊達家の象徴家紋「竹に雀」を模した家紋です。

解説によれば、宇和島伊達家の竹に雀紋は、とくに「宇和島笹」と称されている。 

竹笹で象られた丸形のなかには口を開けた「あ 阿」形と口を閉じた「うん 吽」形で

向かい合う二羽の雀が配される。

「あうん 阿吽」は相対する二つのもの、あるいはそれらを包摂する万物の根源の

象徴であるとされている。

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「竹に雀」紋は、デザインは少し違いますが、明治維新後に奥州伊達亘理藩が

一団となって移住開拓した北海道伊達紋別(現伊達市)の地。

我が懐かしき母校「北海道伊達小学校」の校章紋でした。

ここで目にするとは・・・

センターゾーンから昔の下町の風情を楽しめる東ゾーンへと足を進めます。