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歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅 (3)  浦和宿~大宮宿 後編

中山道 武蔵国

平成28年6月18日、3年半をかけて東海道五十三次を旅し、京の三条大橋に立ちました。 そして夫婦は旧中山道69次の旅、再び京を目指して歩いています。 10月2日(火) 江戸から4番目、浦和宿より旅立ち、 >11時、まだ早いですが今日も足休めを兼ねて早めのランチへ・・後編です。 街道はさいたま新都心の東地区(おもに商業区)を通ってゆきます。 さいたま新都心は、旧国鉄大宮操車場の跡地を主に再開発し、平成17年5月に街開きしました。 中央官庁の出先機関が設置され、首都圏の核となる都市として整備が進められています。 さいたま新都心駅の西口には、全国的にも有名な「さいたまスーパーアリーナ」があり、「けやきひろば」では各種催しが行われています。 駅の東口も開発が進み、大型の商業施設があり、さらに現在も新たに大規模の開発が進められてます。 市資料写真(西方面)

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ランチを済ませて出た店の前から、ケヤキ並木が始まります。 (木陰が今日は有難い) 並木通りの右手には、金属塀に囲まれた広大な工事場が広がり、大規模の再開発が進行中です。

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余談、 ケヤキは埼玉県の“県の木”で、さいたま市の“市の木”にも指定されています。 埼玉南西部の所沢市から、さいたま市北浦和へ延びる国道463号線(通称・浦所バイパス)の 約18kmに、ケヤキが2,400本ほど植えられた「日本一長いけやき並木」は見事な景観です。 ケヤキ並木が終わった先右手に「火の玉不動とお女郎地蔵」が収められた小さな祠があります。

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祠の中に伝説が記されてます。 「【お女郎地蔵伝説】  江戸時代、大宮宿に柳屋という旅籠があり、千鳥と都鳥という姉妹が旅人の相手をしていました。 美しい姉妹は街道筋の評判でしたが、宿の材木屋の若旦那と千鳥が恋仲となり、末は夫婦にと堅い約束を 交わした。 そこに割って入ったのが悪名高い神道徳次郎という大盗賊。 何が何でも千鳥を身請けすると迫り、ついに宿に火をつけると凄む始末。 これを知った千鳥は思い余ってここの場所にあった高台橋から身を投げてしまいました。 それを哀れに思った近くの人がこの女郎地蔵を建立した。 この「お女郎地蔵伝説」に登場する大盗賊・神道徳次郎は、寛政元年(1789年)、高台橋の傍らにあった 処刑場で処刑されたとか。 【火の玉不動伝説】  その頃、高台橋の付近で火の玉が見られ、人々は高台橋から身投げした遊女千鳥の霊魂だとか、 傍らの不動明王の石像の悪戯だとも噂しあいました。 ある夜、一人の男が松の陰に潜んでいると、谷間から火の玉が出てきました。 男がその火の玉に切りつけると「ギャー」と言う声がして、そこには物凄い形相の男が現れ、 「俺は不動明王だ。お前に剣を切り落とされた」 と言って消えてしまいました。 この話を聞いた村人が翌日現場を見にいくと、怖い顔をした不動明王の石像は剣を持っていなかった。 以来、この不動明王の石像のことを「火の玉不動」と呼んでいる。 そしてこの付近には見沼代用水の一つ、鴻沼(高沼)用水の水路に架けられた高台橋があったそうです。 (ここでは流れを見ることはできません。) この橋そばに高台橋刑場があったんですね。

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少し先は大型商業施設のコクーンシティ(COCOON CITY)で 左手にJRさいたま新都心駅があり高架で直結しています。 手前下を首都高速道路埼玉新都心線が通っています。

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高架を抜けると・・

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さらに右手はコクーンシティ(COCOON CITY)がはるか遠くまで広がり、左手は高層ビルの西口です。

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余談 コクーンシティ (COCOON CITY) は、片倉工業大宮製作所の跡地で、大宮カタクラパークと呼ばれ、イトーヨーカ堂大宮店と専門店、飲食店、ホームセンター、ゴルフ練習場、住宅展示場等が開業していましたが、 さいたま新都心の再開発計画による土地区画整理事業により、近代的な大型商業施設(ショッピングモール)に 生まれ変わってます。 コクーンシティ(COCOON CITY)のコクーン(COCOON))とは英語で「繭(まゆ)」という意味の単語ですが、 これは、片倉工業が製糸業として創業したことにちなんでいます その片倉工業がかつて操業していた群馬県の富岡工場が、近年、世界文化遺産に登録されたことで話題となった「旧官営富岡製糸場」です。 駅を過ぎると右側に「氷川神社一の鳥居」が見えてきます。 鳥居から神社に通じるケヤキ並木の長い参道が、真っ直ぐに伸びています。 参道口には「武蔵国一宮氷川大明神」の社標と、安政3年(1856年)に建立された常夜灯などが建ってます。 かつて、中山道大宮氷川神社の参道を通っていたが、参道にを牛馬が通るのは畏れ多いと、 寛永5年(162/8年)に参道沿いの民家を含め移転し道路を付け替えしてたのが、後に現在の旧中山道になったそうです。 大宮の地名は、氷川の大宮、すなわち氷川神社にちなみます。

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江戸から7番目の一里塚もこの付近にあったと言われてるそうですが、真贋は不明とか。 参拝はもう少し先から向かうことにして、先へ進みます。 英泉描く大宮宿

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富士山が見えたんですね。 宿内人口1,508人、家数319軒、本陣1軒、脇本陣は9軒、問屋場4軒、旅籠25軒と、 大変賑わっていた宿場だったそうですが、いまは近代的商業都市に生まれ変わっており、 残念ながら江戸時代の史跡がほとんど残されておらず、案内表示も少ない(ほとんど無かった?) ために江戸時代の面影を見つけるのは難しかったですね。 この交差点は吉敷町交差点。 かっての大宮宿の南(江戸口)の入口であったそうです。

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この場所には東西に流れる排水路があり、石橋が架かっていて、この橋の名を「安藤橋」といった。 「大宮宿の85軒を焼いた安永4年(1775年)の大火の時、勘定奉行であり道中奉行であった安藤弾正が 独断で被災者に幕府の御用米と御用金を施し、大いに救ったと伝えられている。 安藤弾正責任を問われて切腹した。 その死を悼む人々は、その徳を永く後世に伝えるため、墓碑を建てて祀り、橋の名にしたという。 今は墓碑はなく、小さな石碑がありました。(案内板もなく見過ごしてしまいますね)

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信号で左手に道を渡りすぐに、立派な屋敷門がありました 明治になってから加賀前田藩上屋敷の門を移築したものだそうです。

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(あっ、向うの道の小路奥に「塩地蔵」や「涙橋」があったんだた) 塩地蔵言い伝え ある時、二人の娘を連れた浪人がこの地で病に倒れました。 病状は日一日と重くなっていったのですが、ある晩、夢枕に現れた地蔵が塩断ちするよう告げ、 早速娘二人が塩断ちしたところ父の病がたちまち全快。そこで、沢山の塩を地蔵様に奉納し、それからは幸せに暮らしたのだそうです。 (お借りした写真)

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涙橋言言い伝え 高台橋近くにあった処刑場へ送られる罪人と最後の涙の別れとなった橋だった。 通りの、向うのビルは仲町川鍋ビル、高札場が有ったと言われてますね。 その右隣付近に栗原家脇本陣があったようですが、確認できませんでした。

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先を見上げると「高島屋」の看板。 おっ、ここが紀州鷹場本陣跡(北沢家が鷹場鳥見役を務めたといわれる) 高島屋の屋上に北沢稲荷が祀られているとか・・未確認。

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平日ですが駅東の道々は人があふれかえっています。 結構外国の方も多いですね。細い小路に商店のびっちり並んだ商店街もあって大賑わい。 大宮へは30数年前、,パスポートの手続きに来たことがあったのを思い出しました。 当時はまだ住まいの市での手続きができなかったんです。 そのときは西口の方へ来たので、この東口の街並みは初めてでした。 新都心といいこの東口商店街の賑いといい、商都大宮ですね。 (正面、JR大宮駅東口

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きょろきょろお店をのぞいたりしてたら、白倉本陣跡は見過ごしてしまったようだ。 (旅の往復で立ち寄ることが多そうなので、じっくり散策はまたの機会だね)

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白倉本陣の後に本陣を務めた山崎本陣跡は、このビル付近にあったようです。

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駅入り口の賑わいを後に少し進むと、駅北側で西と東を大栄陸橋で結ぶ二号線。 大栄橋交差点を渡り左へ少し入ると、御影堂とお呼ばれる「栗原家持仏堂」がありました。

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栗原家は甲斐武田の家臣だったそうで、一族は大宮宿に3軒の脇本陣を務めた家柄だったそうです。 (余談ですが、近年あの隣国から言いがかりをつけられ、最近国有化された諸島の地権者でもあったとか)。 すこし進んで左手に街道を離れて入ると、曹洞宗の東光寺があります。 永享年間(1429〜1440)頃の開山と言われ、寛文年間(1661〜1672)頃、中仙道開通のためこのちへ移転。 今は時代の流れか、「いたれり つくせり ねむれり 永代供養 おおみや涅槃堂」の案内板もある、 モダン(古いか??)風、現代寺でした。

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最近改修建築した様子の山門。 普通、仁王像の安置される所には、右は近代アート風の地蔵さん、左扉の中には観音像が置かれ、 椅子も置かれてお参り可能になってます。 その仏像は・・・・

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氷川神社参道、第二鳥居に出ました。

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参道は、両側に美しいケヤキ並木が並んでいます。 昭和初期までは杉並木で覆われていていましたが、戦中戦後の資材不足や諸々に事柄から、 杉からケヤキの変わったようです。 県の木が「ケヤキ」で一宮に似合いかな。 古い時代には、松並木が描かれている絵図があり、松並木の時代もあったようです。 現在では、ケヤキが約65%、スダジイが約10%、そのほかクスノキ、エノキ、サクラなど 37種類の樹木650本ほどがあり、そのうち20本が市の天然記念物として文化財指定 されているそうです。

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神社は「およそ二千有余年、第五代孝昭天皇の御代三年四月未の日の御創立と伝えられます 御祭神 須佐之男命(すさのおのみこと) 稲田姫命(いなだひめのみこと) 大己貴命(おおなむちのみこと) 第十二代景行天皇の御代、日本武尊が御参拝し、東夷鎮定の祈願をなされた。 およそ千二百年前の聖武天皇の御代には、武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の御代に制定された 延喜式神名帳には名神大社として、月次新嘗案上の官幣に預かり、又臨時祭にも奉幣に預かる等、 歴朝の崇敬を殊の外厚く受けてまいりました。 また武家時代になっては、鎌倉・足利・北条・徳川氏等相次いで当社を尊仰し、 治承四年源頼朝公が土肥次郎実平に命じて社殿を再建。 文禄五年八月には、徳川氏が伊奈備前守忠次を奉行として社頭残らずを造営せしめ、 寛文七年三月には阿部豊後守を奉行として社殿の建立をしております。」 (社記より) 三の鳥居をくぐりより神社境内となり、

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上池を朱の橋で渡り楼門よりは神域に入ります。

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平日ではありますが参拝の方も多く、外国の方も結構見受けました。 ちょうど七五三参りの季節。 幾組もの家族連れの微笑ましい姿が見られましたね。

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我が家の子供たちや孫たちの「七五三祝い」を思い出し、お喋りしながら街道へ戻ります。 そして目の前はど~んと道を寸断している、東武野田線とJR宇都宮線の第2中山道ガード。 車と人は地下へ・・とまではいいのですが、歩行者のことは全く配慮してないような 超急勾配の地下道構造です。 あまりの急勾配、自転車もよほどの力持ちでなっれば無理だろうな。 あんな構造、今作ったら問題になるわね!てカミさんぷりぷり・・

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その先道角に、安政7年(1860年)に建てられたという「大山道道標」がありました。 「道標」には「大山 御嶽山 よの 引又 かわ越道」と刻まれています。 奥多摩の(御岳山)や、神奈川相模の大山への道は、よの(与野)、引又(現志木)、そして川越にも 通ていたというここかな。

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ここで街道とは関係はありませんが、楽しみにていた寄り道へ。 左へ道を取り、鉄道ガードをくぐると右手は・・楽しみ「鉄道博物館} この鉄道博物館は、第一日目、神田駅を通りり本郷方面へゆく途中、万世橋付近にあり、 2006年5月に閉館した交通博物館の後継施設としてオープンしたものです。 (元鉄道博物館跡付近)

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JR東、HP http://railway-museum.jp/about/index.html こども連れファミリーで大賑わい。 懐かしい機関車や列車、楽しいひと時をすごしました。

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見学を終えて午後3時を過ぎましたが、張切りカミさんが、もったいないからもうすこし歩きましょう! はいはい、てPM3:30、再び中山道の旅を続けます。

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しばらく足を進めると左手に「東大成の庚申塔」がありました。 建立元禄十年(1679年)、「耳の神さん、目の神さん」と呼ばれ、地元の人が外事にお守りしてるとか。

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JR上越新幹線と、埼玉ニューシャトルの高架線のガード下を通り過ぎて、すぐのところで、 現在の中山道(国道17号線)と斜めに交差します。 国道17号線を斜めに突っ切って、街道はまっすぐ進みます。

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この付近に、江戸から8番目の一里塚があったと推定されますが、確認できないそうです。 日が傾いてきました。 もうすぐJR宮原駅入口です。 左手に今日最後の「橋供養塔」がありました。  宝暦九年(1759)八月建立。 かつて、 この地点では排水路(現存、幅は 約0.8m)があり石橋がかかっていたとか。 (写真、塔の前の側溝みたいのかも?)  

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浦和宿から約11km、JR宮原駅入口で中山道3回目の旅は足止めです。 江戸から4っの目宿場大宮を過ぎて、ここまで約8里(32km)

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大きく日が傾いたPM4:16 JRを乗り継ぎ家路へ

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秋も駆け足で来てますね。 これから旅にはいい季節になってきました。 いつの日にか旅の空の下へ・・・