歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅  第26回     和田峠越え 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

なんやかんやあったが何とか乗り越えて、

2017年10月26日に和田宿を過ぎ足を進め、和田峠口下の唐沢下バス停に
て足止めをし、中山道最難関の和田峠越えは、来春の雪解けを待っとして
中断してました。

そして和田峠は飛ばして、碓氷峠に挑戦。

なんとかつなげて中山道の旅も木曽路へと入り、5月5日には江戸から

38番目上松宿を通り、倉本集落へと達してます。

 

GWも過ぎ、医大での定期検査が終わり、「そろそろ残してる和田峠越えはいかが」

とカミさんの誘い。
6月に入ると一日掛かりの心臓、腎臓検査が2回あるため、

「今月中に越えてしまおうか」と 、いよいよ長丁場の和田峠越えへ挑戦することに。

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 (2017年10月26日、足止め)

 

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 和田峠は長野県のほぼ中央部に位置しする筑摩山地の峠で、今は日本の

代表的な山岳道路「ビーナスライン」が車山、霧ヶ峰、八島湿原、美ヶ原といった

観光地を結んでいますが、かって江戸時代には和田宿と下諏訪宿を結ぶ中山道

鞍部を越えて通じていた、中山道最大の難所と言われた峠です。

 日本橋を起点とする、,五街道の全ての峠の中で最高の、標高は約1600m。

登りは和田宿から標高差730m、下りは下諏訪へ約800m、

和田宿~下諏訪宿間は約22.8kmの私達にとっては、挑戦ともいえる長丁場です。前回峠下近くまで足を進めていたのですが、それでも今回歩くのは峠道約18km。

中山道では碓氷峠、笠取峠、和田峠塩尻峠、鳥居峠、馬籠峠、十三峠など
多くの峠を越えますが、和田峠は旅人にとっては最難所と言われてました。

現代の旅人にとっても、かっては有ったバス便もなくなり、この間を結ぶ交通手段

がなく、一旦歩きだしたら目指す下諏訪宿へたどり着くしかありません。

しかも和田宿手前の長久保宿を出てしまうと、下諏訪までの間には宿も無し。

(かっては和田宿に一軒ありましたが、最近廃業となってます)

いままではマイカー往復、日帰り歩きで旅を重ねてきましたが、

今回は、中山道旅の初めての前泊、家からの行き帰りは鉄道を利用して

1泊2日の旅程で挑戦です。

旅で挑戦と言うのも可笑しげですが、ここを越えなきゃ京へ繋がらない!

 計画は、行は上越新幹線利用、 バスで長久保宿へ入り宿泊。

よく日、バスにて前回足止めの地へ向かい峠越えをし、下諏訪からは

中央線特急列車で帰路へと、乗車券や宿の手配をばたばたと済ませ、

5月25日(金)、午前中のカミさんの仕事帰りを待って、北陸新幹線

長野県上田市へPM3:40着。

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上田駅からJR関東の路線バスに乗り、今夜の宿の有る長久保(宿)に

向かい、中山道沿いの角にある浜田屋旅館へPM5:35草鞋を脱ぎました。

浜田屋旅館は、江戸末期から和田宿で旅籠を営んできた老舗の宿です。

建物は建て替えしリニューアルもされてますが、宿場の宿の風情を残してます。

正面が今宵の宿浜田屋旅館。

浜田屋の前、左手からきて曲がって右手へ通じてるのが中山道の道筋です。f:id:hansui:20180527135653j:plain

真新しい青畳の3階の和室へ通され、襖絵や床の間の掛け軸やニリンソウ

フタリシズカの生け花など、心休まるいい風情の部屋でしたね。

襖絵は屏風絵を切り貼りしたものだそうです。

お風呂もお湯はあふれんばかり、さっと汗を流し楽しみの乾杯へ。

食事も豪華と言うわけではありませんが、一品一品すべて作り立てのようで、

美味しい!揚げたての山菜や野菜の天ぷらが、これまた美味しい!

(うっかりで、天ぷらのフォット忘れ、残念)

ビールで旅ができることに乾杯!地酒もいただいて、カミさんも、

いい宿だわて喜んでいたので、この宿をえらんで、ああ、よかった!!

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5月26日(土)、昼用のお握りを受け取り、「お世話になりました」

「お気をつけて、いい旅になりますように」の見送りを受けて出発です。

長久保バス営業所7時38分発の、男女倉行長和町コミュニティーバスにて

和田峠方面へ向かいます。

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バスは懐かしい道筋を走り和田宿を過ぎて、AM8:09、国道142号の

前回足止めをした唐沢下バス停にて下車。

軽く準備体操をして、旅立ちツーショットを撮り、

AM8:15、いよいよ中山道最難関と言われた和田峠越えへ挑戦です。

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空は薄曇り日差しも弱く、風は強くもなく弱くもなく、和田の最高気温は28℃の

予報でしたが、高度の有る和田峠越えには最良の天気です。

ただ気懸りは午後には梅雨前線の南下で、山沿いは所によっては雷雨のところも

ありとの朝の予報で、状況をみて判断しようと下諏訪側のバス便やタクシー会社を

下しれべはしています。

国道を右に折れて旧唐沢村集落へ向かいます。

唐沢集落は立場跡で、かっては5軒の茶屋がありました。

 左手に羽田の表札を下げた大きな屋敷があり、その真向かいに「本陣」の札を掛けた

家のところが羽田家が務めた茶屋本陣の跡の様です。
(茶屋本陣とは大名や公家が休息したところ)

和田宿の脇本陣家にも羽田家がありましたが、和田宿を通った時の参考資料には、

羽田家のルーツは飛鳥時代にまで遡れる、古い歴史を持つ羽田一族の様です。
かって首相を務めた方もいましたね。

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途中で落とし物に気づいて、探しながら後戻り。

左手に巨大な葉、巨大な花、ホオオノキが咲いてます。

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15分ほど時間をロスして集落を抜け、国道に合し100mほど進むと、

左手に「中山道唐沢一里塚」の標柱が現れ、階段を上り山中へ入ると左右に塚が

残されてます。

日本橋から51番目(約200km)の一里塚です。
江戸初期に造られ、天保2年(1831年)以前の街道の付け替えにより、

廃道となった古中山道に残された、日本橋より51番目の一里塚。

現在の唐沢集落を通る道筋から外れ山中に取り残されために、国道改修の際ににも

取り壊されることなく、ほぼ原形をとどめて現存している。

 唐沢一里塚のある古中山道は、現在の国道を挟んで唐沢集落の逆側を通って

いたんですね。

私達は唐沢集落の立場茶屋跡を訪れるため、江戸時期の中山道を辿りましたので、

一里塚へは途中の立ち寄りです。

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ここで単独行の男性二人が、追い越してゆきました。

長久保、和田の間にある民宿へ泊り、和田宿まで送迎で来て旅立って来たそうです。

国道に戻り緩い坂を上って行くと、歴史の道「笠取峠16.3km東餅屋4.3km」道標

を見て、二ノ橋で依田川を渡ると右手に観音沢分教場跡碑が建ってます。

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さらにすすんで観音橋手前に、コミュニティーバスの折り返し地点・男女倉バス停。

左手に「新和田トンネル・信州長和町標高1100m」標識が現れます。

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すぐ先で国道142号は二手に分かれ、左手に進む国道は男女倉沢に沿って進み
新和田峠有料道路」を通り諏訪に抜け、右手への道は信号による片側交互通行と

なっている和田峠トンネルを抜け下諏訪に抜ける国道で、中山道は右手の国道へ

進みます。
(右手の道へは車で前に二度ほど通ったことがありました)

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国道を少し進むと「国史跡・歴史の道 中山道」碑や中山道解説板などがあり、

和田峠観音坂口」で、いよいよ長丁場・本格的な峠越えの道へ入って行きます。

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う~ん、この重たそうな体で長丁場耐えられるかな??!

AM9:20、峠越えへ踏み出します。

カエルの鳴き声のようなハルゼミの大合唱、これじゃ熊鈴も響かない!

熊注意の立て看板が結構多いんですが・・・

所々に中山道を示す「青い道しるべ」が立っている。

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登り始めて幅広の草の道を100mも進むと、すぐに雑木林の中に休み茶屋跡で

今は避難小屋が建ち、横手に三十三体観音が祀られてます。

 かつては山の中腹に熊野権現社前に祀られていたそうで、中山道の衰退とともに

荒廃し放置されていたものを、昭和48年(1973年)の調査によりこの地に

移したもの。

千手観音 13体,如意・輪観音4体,馬頭観音10体,など29体を安置している。

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おや、宿でも活けてあった「二人静」だね。

うん?三人、いや五人静まであるぞ(そんなのあるかな?)

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左手に和田川の渓流。和田川へ注ぐ沢水の流れる丸太の小橋を二つほど渡り、

観音坂と呼ばれる新緑の清々しい歩きやすい草道が、延々と1kmほど続きます。

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少し高度を上げると、右手の傾斜に赤い花がポツンポツンと咲いてます。

あら、クリンソウ!の声に近寄ってみると咲いてます咲いてます!

流れる小川に沿って、草道に沿って、クリンソウが咲いています。

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傾斜はきつくはないけれど、ず~と登りばかりの山道を花々に癒されながら

えっちらおっちら上がって行きます。

深山幽谷いい感じ!でもハルゼミの大合唱はますます大きく響き渡ります。

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山道はいつしか唐松林に変わり、和かな鮮やかな唐松の新緑の下を歩き、

男女倉口から40分ほどで、前方が開け一旦国道に出て広場になってます。

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国道の山側、右手に茅葺屋根の人馬施行所跡(国史跡)が復元されてます。

この人馬施行所を作った人物は、江戸の豪商・かせや与兵衛で、

調べた方の参考資料をお借りして、

「文政7年(1824)、江戸呉服町加勢屋の与兵衛は東海道の箱根と山中の二カ所に

人馬施行をおこ なった。4年後の文政11年(1828)には、与兵衛は80歳となり

隠居となっていたが、碓氷峠和田峠にも人馬施行を行いたいとの与兵衛の意志を

孫達が 叶えた。河内国の八尾村出身の与兵衛は関東と関西の間を往復するに際し、

峠で生死を彷徨う体験があったのでは」とありました。

中山道では幕府に金千両(現代換算で約1億円か)を預けその利子百両で、

碓氷峠とここ和田峠に施行所を建て、11~3月の冬季間に峠越えの旅人には

粥と焚火を、通年で牛馬には桶一杯の煮麦を与えたそうです。

 その後山抜けにより流出したが、嘉永5年(1852)に再建され、明治3年まで

続けられたといわれます。

そんな縁を語りながら、ひと時足休め。(AM10:05)

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「永代人馬施行所」の横奥に馬頭観世音。

左手には名水かな?水飲み場も有りました。

広場の一角には「ゴミ無し童地蔵」が建ってます。

長久保宿長和町)を出て国道に合流したところにも建ってましたね。

ここはまだ長和町に範囲なんですね。

皆さん、ポイ捨てはダメですよ!!

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この地点で標高1254m、峠入口からもう標高差150m程登ってきましたね。

国道は急坂のカーブ道、バイクや車が呻りを上げて通過します。

すぐ右手に石段の上に石灯籠が建ち、明治22年(1889)護送中に逃走を図った

強盗犯と格闘し殉職した警察官を祀る「殉職警官の碑」がありました。

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おや、このヤマボウシは随分シャープな咲き方ね、

カミさんが指さすヤマボウシ

そうだね、スリムで薄緑で咲いている。

ヒマラヤヤマボウシ、ていうことあるかな??

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すぐ先で、国道が大きく右に曲がる第37カーブ標識辺りで、再び山道に入ります。

ミラーに撮影者をちょっと映り込ませて・・

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山道は和田川の渓流を左手に、長く長くその名も長坂で続き、丸太の小橋が

何か所かにかかってます。

右手に石灯籠が建ってますが、元は嘉永4年(1851年)建立の常夜燈が建って

いたそうでが、常夜燈は山抜けで流失してしまったそうです。

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左手に沢をみながら木橋を渡り、木漏れ日の山道を進むと、先ほどの巡査殉職の地に、

石碑が建ってます。

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さらに少し上ると、イチリンソウ(右)に出会いだします。

こっちは何の花?

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さらに小橋を渡り、朽ち果てた様相の避難小屋を見送ると、苔に覆われた石畳?

ごろ石を並べただけ?荒れた石畳道になってきました。

いつごろ敷かれた石なのかしら、箱根の石畳はかなり丸みが有ったわね?

てカミさんが呟いてます。

大きさも箱根より大きいね。

ここで標高は約1360mくらいだそうです。

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歩きずらい石畳、木橋を渡りしばらく足を運びます。

この花はなに?のカミさんの声の方を見ると、青い花の群生です。

あとで調べてみるとラショウモンカズラの様でした。

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避難小屋から200m程で、江戸から52番目の広原の一里塚(東餅屋一里塚)が

塚木は有りませんが、山中にポッコリと丸い塚を残しています。

AM11:10、標高は1400mくらいらしい。

(レンズに花粉のようなものが付着していたようです)

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一里塚のすぐ先は、明るい広場のようなところにズミの花(とおもいますが)が

満開で、道沿いには朽ちかけた炊事場などがあり、かってはキャンプ場だった

様子です。周辺の若緑が本当に綺麗です。

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先から道は整備した石畳風の石を敷いた道になり、二人の旅人が和田村へ向かって

降りて行きました。

下って来た旅人に出会うのは4人目ですが、みなさん下諏訪からではなく、

途中までの送迎を利用された方々でしたね。

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石道になってすぐ国道に合流し、近年に 廃業した「東餅屋ドライブイン」が

廃墟になって建ってます。

「昔、寄ったことがあるんだよ」とカミさんに教えますがあまり覚えていないみたい。

最初は十数年前にマイカーで長野・乗鞍、上高地へドラブしたときに、

諏訪方面から国道142号を登ってきて、自販機に立ち寄っていたんです。

二度目は車中泊を始めたころに、長久保宿近くの道の駅で車中泊し、車山、霧ヶ峰

八島湿原などのトレッキングをしたときに、この上のビーナスラインへの合流道と

して、通っていましたね。

 

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右手に建っている案内板によれば、

ここが旧東餅屋村で往時は茶屋が5軒あり、幕府の援助を得て設置され名物の

餅を商い、寛永頃より1軒につき1人扶持(1日米五合) を幕府から給されて

いたという。

 長丁場の和田峠越えで難渋する旅人の救助に当たったりの、人馬の休息所とも

なっていたそうです。

幕末には大名の休息のための茶屋本陣も置かれ、土屋氏が務めていた由。

明治維新後は交通機関が発達して中山道を歩いて旅する人が減り、5軒の茶屋は

すべて廃業してしまた。とあります。

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その後茶屋跡にはドライブイン東餅屋が復活して、名物だった力餅も売られていた

そうなのですが、近年残念ながら営業を止め今は自販機も停止しているので、

今旅人は喉を潤すこともかないません。

峠越えの途中に、旅人のための避難所や茶屋が設けられていたのが、

これらの茶屋の跡は「東餅屋「西餅屋」「接待」などという地名になって

残っているんだそうです。

別資料によれば、

「この東餅屋は武田耕雲斉率いる千余の水戸天狗党を迎え撃つ松本藩350余名が宿泊したところ。天狗党が望月宿に入ったとの報に接し、長久保宿まで進軍していた松本藩士は一旦、和田宿に戻る。和田宿に宿泊し、和田宿を焼き払い和田峠で迎撃をとの計画に和田宿は宿泊を遠慮願った。松本藩と共に水戸天狗党を迎え討つ諏訪高島藩もこの松本藩の策反対した、と。諏訪高島藩は和田宿を焼かれることにより宿泊地失った水戸天狗党が、和田峠越えを避け、大門街道から大門峠を進むことを恐れた、とか。その道筋をとれば、直接に諏訪高島城下町に進撃し城下を攻撃する恐れがあったから。

そうなれば、天狗党の通過を黙認、見過ごす、という基本方針が崩れるからである。
で、和田宿での宿泊を諦めた松本藩士は、結局、東餅屋に宿泊。東餅屋の茶屋3軒を焼き払って引き上げた。11月19日といった冬季故の作戦ではあろうが、対する水戸天狗党は和田宿に宿泊。本陣、脇本陣はじめ50戸に分宿し、和田宿の人は宿を焼き払おうとした松本藩士より、水戸天狗党に好意をもった、とか。大砲15門、砲弾、火薬などの人馬継立に協力し、天狗党もその謝礼を払った、とのことである」と記述されてます。

 

また和田峠では、旧石器時代の石器の材料とされた黒曜石が多く産出し,
キャンプ場から一里塚にかけての一帯にもの露頭が10カ所ほど確認され,
後期旧石器時代の遺跡が集中して発見されている遺跡もあるようです。
(和田宿に立ち寄った、黒曜石の資料館がありました)

東餅屋辺りは標高は約1,470メートル、山登りでいえば九合目になるかな。

標高1,600メートルの和田峠まではさらに、標高差130メートルの登りだ!

今はAM11:27、峠でお昼にするよ、さあがんばんべ~・・!

ヘアピンカーブで九十九折に上る国道を、串刺しするように中山道は登って行きます。

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この付近にて国道142号線の旧道は、 和田峠トンネルへ向う分かれてゆきます。

今は石碑が建っているだけの和田嶺神社碑をのところを曲がります。

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なんども横断したり石段を上ったりしてきましたが、案内表示がしっかりと

建ってるので、周囲を見渡して確認すれば迷うことはないですね。

このあたりから白樺湖と美ヶ原を結ぶ元は有料だった旧長野県営観光道路

ビーナスライン」が蛇行してがら中山道を寸断して通っています。

少し進むと上はビーナスラインが通っている「コールゲート」と呼ばれる造りの

少々大きな排水溝といった感じの小さなトンネルを抜けてゆきます。

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トンネル内を流れていた沢を渡り、しばらく山道を歩きます。 

この沢はまだ和田川への流れかな。

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この後、持参街道書ではビーナスラインを3か所横断すると記載されてますが、

人がほとんど通らない中山道は、横切るところに横断歩道などは有りません。

風光明媚な観光道路のビーナスラインは、カーブ道であまり見通しの良くない上、

スピードアップのクルマの交通量も多くあり、横断には注意が必要です。

車の爆音で判断しながら、それっと横断、次の山道へと入って行きます。

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4度目のビーナスライン横断をすると、草の茂る美しい峠へのアプローチと

なりました。

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前方が明るくなり、空が近くに寄って来た感じのカラマツ林、ズミも花咲く草道を

僅かな距離ですが、休み休み15分ほどかけて一歩一歩上ります。 

ここまでの道は、旧街道らしい道幅が続いてきましたね。

う~ん、難所かな・・・

正午、12時8分、ついに標高1,600メートル、中山道最高地点であると同時に

五街道最高地点でもある和田峠の古峠に到着しました。

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唐沢下でバスを降りてから、うん、亀足旅人には予定通りの約4時間。

頂上には「案内標識」「賽の河原地蔵」「御嶽遥拝所跡」碑、「御嶽山坐王権現像」、「本尊大日大聖不動明王像」、「馬頭観音」などが祀られた鞍部になりますね。

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この付近は、冬場には積雪が3メートル近くになり、木曽名所図会には

「西坂ケワシ東坂ヤスラカナリ三月ノ末マデ雪アリテ寒シ」と著されてるそうです。

峠に建つ案内表示によると、

「明治9年紅葉橋新道が開通し、峠の役目を終え、今は古峠の名を残してます」

と記載され、別資料によれば、

紅葉橋新道も、国道142号線和田峠トンネルの真上を経由するルートとして

現存しているようです。

(江戸時代の旧中山道とは最大300メートルほど離れて通じている様子)

さらに明治29年(1896年)には、峠の頂上の勾配を緩くするために、切通しを深く

掘り下げる峠の大改修が行われ、標高が1,531メートルにて開通してます。

江戸時代の旧中山道の峠は「古峠」、明治9年の峠は「旧峠」、明治29年の峠は

「新峠」と呼ばれているそうですが、峠の案内図を見てもきちんとした表記は

無かったですね。

和田峠の標高は、1600m、1531mなど表記がありますが、ここ古峠は

1600mと言うことになるのかな?)

「古峠」を通る江戸時代の中山道は、現在は国の史跡としての指定を受け、

一部は散策路として整備されています。

地図によると,ここは峠の南東の駒ヶ岳(標高1657m)と,反対側にある浅間嶽と

いう標高約1,645mのコルに挟まれた鞍部に当たるようです。

この和田峠も中央分水界にあり、峠の北側は千曲川を経て信濃川水系で、

日本海に注ぎ、峠の南側は諏訪湖を経る天竜川水系で水は太平洋に注ぎます。

薄曇りで日差しも弱く、吹く風が爽やかな峠の草原で、宿で用意していただいた

お握り弁当を広げ、至福のランチタイム。

到達した満足感が一層味を引き立て、うまいうまいで平らげて

果物はバナナでした。

霞んではいますが諏訪側には山裾に集落も眺められ、御嶽遙拝所の大きな

石塔越しに霞んでいるが遠くの山は、もしや木曽の御嶽山では??

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数人の方が諏訪側から和田側から上ってきて、みなさんお昼を摂られてました。

記念写真を撮って和田峠を後に、12時45分下諏訪に向かって下ります。

今の様子なら天気の崩れはまだなさそうです。

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旅は後編へ続きます。