歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第21回)  塩尻宿~贄川宿 後編

*ぐ~んと冷え込み各地で降雪予報の19日(日)。
再び街道旅へと向かいました、

坂道をくだり、左手で国道19号との出会いです。
両側に山並みが迫り、信濃路からいよいよ木曽路へと近づいて来たようです*

 

の後編です。

 

本山宿を抜けて坂道を下ると、左手からの国道19号に合流し,

しばらくの間、国道とJR中央西線の間を歩きます

ほんらいは左手の山の高巻き道や、釜の沢越えと言われる捲き道迂回旧道があった

ようですが、今は通行不能となってるそうです。

(青く塗られた小屋前が出口かな?)

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中山道は先の右手、砂利道に入り、工場側へ第2中仙道踏切を渡ってゆきまし。

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踏切を渡ったところの工場横に、「日出塩の青木跡」の道案内板が立ち、貴人の塚

と言われる上に大桧があって,

「洗馬の肘松,日出塩の青木,お江戸の屏風の絵でござる」

         と唄われた銘木があったと記載されている。

  案内に沿って工場の裏へ回ると・・・若木と碑がありました。

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「あら、白いものが、雪じゃない!!」びっくりしたようなカミさんの声。

見回すとちらちらふわふわ、白いものが!なんと雪が降って来たんです。

降ると言うより、風に乗って舞ってるような・・

空には青空もあり、雲の流れで日差しが射したり曇ったりです。

少し先で,国道から分かれた日出塩(ひでしお)集落に通じる車道に合流,

再び右手に分かれ細い道を行くが,すぐに先ほど分かれた道に戻ると,

道の左手に江戸から61里,京へ71里、標柱のみの「日出塩一里塚跡」が

現れます。

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ここからは、本山宿と先の贄川宿の間に置かれた「立場茶屋」があった旧日出塩

集落になります。

熊の毛皮や熊の肝などを商っていたそうです。
左手に、洞宗秀永山長泉院。

門前に庚申塔など石仏・石碑,六地蔵などが並んでます。

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日が差してますが雪が舞ってます。

前方の木曽谷方向は山間が少し霞んでます。

f:id:hansui:20171123111211j:plain日出塩は地元の「節分草を育てる会」が、節分草を大切に守り育てているそうです。

日出塩駅の北側に「桜の丘公園」があり、公園内にも節分草を育成しているエリア

があるのだそうです。

咲く季節の通る機会があったら、公園へ寄ってみたいですね。

左手へ入るとJR日出塩駅、時刻はPM1:20でした。

今日の街道旅の「二番目」の目的足止め地にしていたのが、ここ日出塩駅前、

塩尻駅から約12kmでした。

第一の目的足止め地にしてるのは、ここから5km先の贄川駅前。

青空があるとはいえ、木曽谷方向の左側は雪降りか、霞んでいます。

雪も降ったり止んだりの気象・・さて進むべきか、足止めか・・・

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JR贄川駅からの塩尻駅へ戻る列車の時刻は、PM4:06、あと2時間40分

「雪は舞ってるけれど、ほとんど風はない」

「この分なら、先へ進めそう」とカミさんと意見も一致、小雪舞う街道旅を続けます。

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集落外れ下り道に道祖神・筆塚・秋葉大権現などの石塔群。

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坂を下り国道19号のガード下を抜けると、左手に線路ガードを潜る道があり、

日出塩の鎮守、熊野神社があるようです。

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街道はそのまま進んで国道に合せず、斜め右手の細道へ入り、国道19号の高架を

潜り国道右側の歩道帯に合します。

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いよいよ木曽路、木曽谷間の街道旅となって来たことが強く感じられます。

左手山裾にはJR中央線、一段下がって国道19号。

歩道右手は急斜面の落ち込みで、下には奈良井川、と山裾。

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600mほど進むと右手に江戸初期中山道の解説板が立ってます。

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先に見える建物の手前から、左手の山(峠)へ通じる県道254があり、
これが慶長6年(1601年)大久保長安によって整備された、下諏訪から

岡谷を経て三沢(小野)峠を越して小野へ出て、牛首峠を越してここに出た
「初期中山道(古中山道)」です。

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大きく左へカーブする右手はトンネル工事現場になってます。

いずれは谷沿いの国道はトンネルで短縮されるのでしょう。

大きな「木曽」の文字が入った看板が立ってます。

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急カーブを曲がると奈良井川に注ぐ旧境川(桜沢川)に架かる桜沢橋のたもとに

「是より南・木曽路」標識が見えます。

この境川の進行方向が木曽路、そしてこれまで歩いてきた部分の信濃路に分かれ、
古くは木曽と信濃、江戸時代には尾張藩と松本藩の境界になっていた場所です。

また現在では塩尻市と楢川村との境界になっています。

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橋を渡った右手の崖上の広場に東屋、地域案内板、そして昭和初期に建てられた

大きな石碑が立ってます。

石碑には「是より南・木曽路」とあり、石碑の裏側には
木曽路はここ桜沢より、神坂に至る南20余里なり」という内容が書かれています。

いよいよ信濃路から木曽路へと入ります。

この辺は標高812m。

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(15年か、わしの生まれた年だ!)

ここで危く街道を見失うところでした。

この辺から、奈良井川の浸食による断崖の淵を避けるため、高巻きの道が

設けられてるそうですが、街道書では

「江戸方面からは、木曽路碑向かいの坂道を上がる」としか記載されて

いません。

高巻とは沢や淵などの難所を避けるため、沢の上流側や山の上斜面に迂回する

道です。

国道の向かい側面には前方へ上って行く道が見当たりません。

それらしき道標も見当たらないんです。

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右手の奈良井川側は、かなり深い崖となっていて、

「ここから左手の山へ高巻になってるはず」と、

もう一度確かめると、向かいのコンクリート壁に沿って、フェンスも無しの

落ち葉の積もった狭い登り道らしいのが、戻る感じで左へと山の中へと続いてます。

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(写真、中付近に桜沢橋が見えてました)

少し上ると国道脇の石碑も見えてます。

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ジグザグにしばらく高度を上げると、国道の崖上を国道と並行する崖の

岨道(そばみち)です。

畑の有るところから、崖上道を南へと進むようになります。

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左手の斜面には厄除馬頭観世音文字塔と馬頭観音像が祀られ、この山道が街道である

ことを示していて、一安心ですね。

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右手を覗きこむと国道のさらに下方に奈良井川の清流を望む。

往時この辺りは断崖で街道は崖上を迂回する高巻き道となっていた。

村の人たちが自力で岩を削って道を作り、通行料を取っていたとか。

(なるほど、有料道路なんだ!)

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先に進むと左手の祠の中に、三面六臂馬頭観音像が安置されています。

傍らには道祖神、明和9年(1772年)建立の南無阿弥陀仏名号碑があります。

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「あら、なにかしら?」と、ちょっと奥の山側に登ったカミさんが「トンネルよ!」

旅の事前調べていた、昔の中央線のレンガ造り廃線トンネルでした。

内部は完全に埋まっている。
 塩尻ー奈良井間の鉄道の開業は,明治42年(1909年)。

昭和40年代から列車の増大に対応するため電化・複線化が進められた際に,

ルート変更が行われ,廃棄されたトンネルでした。

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軌道跡なんでしょうね、先へと延びていました。

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街道はトンネルしたから急降下で国道と合さります。

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小やみだった雪が、また舞ってきました。

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木曽路にはいって最初の集落が桜沢集落で、街道に沿って家並みが続きます。
この集落は江戸時代に本山宿と贄川宿の間の宿として、また木曽路の入口として

栄えていました。 

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桜沢立場で立派な門構えの風格のある屋敷が,藤屋百瀬家が勤めた茶屋本陣。

明治天皇櫻澤御膳水休碑、明治天皇櫻澤御小休所碑、明治天皇櫻澤御駐簾跡碑がある。

上段間と次の間を残しているそうですが、公開はされてません。

(あの「是より南 木曽路石碑」を立てた家ですね)

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街道書を見ていたカミさんが、

「洗馬宿の本陣の家も百瀬家だけど、ここの百瀬家と一族なのかしら?」て。

(帰宅してから調べたけれど、まだ不明)

国道下、奈良井川との間に何軒かの家があり、一部旧道があるそうです。

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左手傾斜地に、小さな祠があり小さな神社が鎮座しています。

何を祀ったのかな??

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国道を進むと右手の眼下に奈良井川の片平ダムの景が広がります、奈良井川木曽駒ケ岳北の茶臼山に源を発し、流末は梓川に落合います。

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先で奈良井川を片平橋で渡ると左手の林越に古い橋が見えてます。
本来の中山道は,現片平橋よりやや上流側を渡り、杉林の中を通過していたと云う。

旧片平橋は、昭和10年竣工の「日本近代化土木遺産Aランク」に選定されていて、

開腹部をアーケード・RC造りアーチ橋として美しい姿を残していると云う。

残念ながら現在は通行不可になっており、遠くから眺めるだけです。

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先50mほど進むと右手に階段があり、その上に白山神社の鳥居がありますが、

立ちよりはしませんでした。

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道筋が変わってしまったんだね、原の奥にポツンと庚申塔

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300mほどゆくと道は国道19号から右手の坂道へ分かれ、旧片平村へと入ります。分岐点には中北道標「←片平地区を経てJR贄川駅2.2km/

是より南木曽路碑1.3km JR日出塩駅3.0km→」がありました。

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ほんの100m程の集落ですが、旧家と思われる家々です。

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国道に出会い右手の坂道左が、永平寺の末寺で,境内が国道に削られこじんまりした

無住職の寺、「飛梅山鴬着寺」、「鶯が着く(来る)お寺かしら?」てカミさん。

街道書には(おうちゃく)寺とありました。

なんの変哲もないお寺ですが、あとで偶然みた贄川宿に伝わる民話に、こんな逸話が。

「参勤交代の加賀藩主前田候が中山道を通り、片平のある寺に立ち寄り休憩された。
 この時、和尚様が寺の名前が定まっていないことを幸いに、寺の名を請うた。
 折は春で、庭に鶯が飛んできて「ホーホケキョ」とさえずった。
 そこで前田候は鶯が着く寺と言う意味の「飛梅山 鶯着寺としたらよかろう」と

 申された。
 以後前田藩から毎年下げ渡し金が届いた」
(楢川村むらおこし農家組合)とありました。

カミさんの推測は正しかった!

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(でも前田候は、なぜ遠回のこの道を通ったりしたのでしょうね?)

鴬着寺の先の横断歩道で、国道19号を左手にわたります。

渡ると歩道橋脇に男女双体道祖神や供養塔などが並んでます。

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 再び歩道橋で国道の右側へ戻り、足を進めます。

木曽路の前方は右側は明るさがありますが、左側の山々は白く、遠くは

白く雲の中、雪が降ってるかな。

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国道沿いを300mほど行くと、右手擁壁上に国道に削られて小さく

西塚を残している、江戸日本橋より六十二里目の若神子の一里塚跡。

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その先すぐに国道から街道は右手に別れ、旧若神子集落へと入ってゆきます。

中北道標には「JR贄川駅・1.7km」とあります。

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 山は雪山になってます。チラチラ雪が舞い降りてます。

左手のコンクリート製品は何??

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 集落内には何か所かの水場があり、今も現役で使用されている様子。

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このオブジェは??

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集落の終りの左手曲り角に石塔群が残ってます。

f:id:hansui:20171123212015j:plain天文3年(1534年)建立の道祖神、明和2年(1765年)建立の廿三夜待供養の

そして馬頭観音などが祀られてます。

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みぎての上の方に参道を辿ると、若神子村の鎮守、諏訪神社が祀られてます。

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集落から一旦下り街道は国道へは出ず、再び標識に従って右手の上り道へ

入ってゆきます。

雪の舞が多くなってきました。

先の山では結構降ってるような感じです。

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青空も見えてますが雪は降り続いてます。

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谷間に下ると石造群

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道の整備などで移動され、ここに集められたかな?

無造作に沢山置かれたと言う感じだ。

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谷間から登ると、左手下に線路と国道が平行し続いてる展望が開けた道になり、

雪降りに煙る山々を見ながら進みます。

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その先で林の中への道を行く「JR贄川駅0.6キロ」と書かれた標柱が立ち、

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その先で道は国道へ下る道と、右へ山側の草道に出会いますが、

街道書には「山道は古中山道である」と記され、中山道は左、国道へ下るとあります。。

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前方左手にJR贄川の駅舎が見えてきました。

道路の温度計は2℃、雪の舞から雪降り街道となってきました。

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右から古中山道も下ってきて、本来の中山道はここで国道、JR鉄路を縦断して

川沿いに進み、先の贄川宿番所前へと続いていたそうです。

鉄道敷設、国道新設などにより街道は消滅し、今は国道を歩き贄川宿へ向かいます。

 

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駅手前、数軒の民家が建ち並ぶ道路沿、ここにも水場がさずけられてました。

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木曽路の山々は雪雲に蔽われ、見通せなくなくなってきました。

あの付近はかなりの降雪になってるんでしょうね。

左手が贄川駅です。

ここもJR贄川駅舎は、贄川の宿場から離れたところに設けられ、

駅周りには「そば処」が1軒あるだけです。

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時刻はPM3:20、5km強の道のりを、約2時間かけて歩いて来たんです。

(スタスタ歩いたつもりでも、人々の倍は掛かってますね)

 

 

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贄川宿はここから300m程先が入口の関所跡がありますが、21回の旅は

ここで足止めします。

電車時刻まで、駅隣りの蕎麦所で、あたたかいコーヒでくつろぎ、電車で塩尻駅へ。

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松本行きの車内では、登山スタイルの10名ほどの外国の方が居ました。

御嶽へ登ったかな?それとも、これから北アルプス方面へ向かうのでしょうか。

塩尻駅前から中央高速を走り、渋滞があって5時間ほどかけて帰宅。

「大雪になる前に、あと一回旅へでたいわね」のカミさんでした。

第21回旅、終わりです。

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第21回)  塩尻宿~贄川宿 中編

ぐ~んと冷え込み各地で降雪予報の19日(日)。

再び街道旅へと向かいました、の中編です。

 

*洗馬宿を後にし、JR中央線のガードを潜って中山道(県道304)次の本山宿へと向かいます。   

f:id:hansui:20171121164201j:plainガードを潜り尾沢川を渡ると、左手へ入る荒れた道があり、鳥居が見えてます。

道を入ってみると、川沿いに道は奥の山中へと続いてゆきます。

街道書では、

草道の参道を辿ると、国道19号を越えて尾沢川沿いに滝神社があり、

由来となった滝が落ちている、と記載がありました。

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尾沢川と言えば、宿にあった洗馬宿案内版に、「洗馬宿設立時、この尾沢川から

用水を引き入れ宿内に水を供給した」とありました。

上流の方から取水したと思われますが、滝神社と関係があるのかな。

街道に戻ると今度は登り坂となり、

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左の道路わきに新設された感じで「一里塚」の石碑と案内板が建ってます。

案内板には「牧野の一里塚跡、江戸より60里,京へ72里」とある。

塚の上?には旧牧野村公民館が建ってましたね。

 

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その少し上の斜面に馬頭観音や石塔が見えました。

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坂道を上ると平坦地となり、街道は穏やかなかっては立場茶屋が置かれたと言う、

牧野の集落を行きます。

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けっこうな頻度で中央線の特急電車が行き来してますね。

(各駅停は朝、夕中心に1時間に1本ですが)

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一里塚跡からおよそ1km,牧野信号で国道19号に併せ、しばらく

国道を歩きます。

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およそ約700mほど行き国道19号から離れ、ため池の有る右手へ道(県304)

に入ってゆきます。

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ため池の先、すぐの右手に「中山道本山宿 しののめのみち」と書かれた標柱が

あります。

「しののめみち」は塩尻観光案内誌には

「松本平の明け方の方向にある東山沿いの道。どこからでも美しい北アルプスを眺望できます。この道は塩尻市の本山宿にはじまり、延長50km。道沿いには多くの仏閣、神社をはじめ、温泉、史跡、宿場、高原などがあり、四季の彩りや鮮やかな自然と共に、訪れた人を魅了します」と記載されてます。

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そのすぐ先左脇に秋葉神社馬頭観音,お地蔵さんなど11体の

「石仏群」が並んでいます。(案内板によると、ここへ移設したそうです)

 

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軒下の飾り、いいですね~思わずパチリ、

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 畑の先に右へ入る細い道角に、池生神社社叢入口標識があり、

ここが本山宿の下木戸跡(江戸口)です

ため池近くにあった秋葉神社、石仏石塔群はかってはここにあったんですね。 

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手前に案内板、収穫の終わったそば畑奥に、本山そばの里(食事処)があります。

本山地域はそばの産地として知られ、宝永3年(1706)の雲鈴の隋筆[風俗文選]

に今風の細長い蕎麦になった「そば切り発祥の地」が本山であることが記載されているそうです。

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中山道を往来する旅人の舌を満たした蕎麦切りの技術は、ここ本山宿から全国へ

と広がりました。

時代の流れでその姿を消してい きましたが、その技術は家々に継承され、

平成3年、歴史ある蕎麦切りの里の復活を願う有志により、

地元産の蕎麦粉 100%を用いた蕎麦打ち体験もできる「本山そばの里」が

復活したそうです。

お昼も近いので、ここでお蕎麦を頂きました。

蕎麦掻もメニューにあったので、一人前だけとって食してみました。

(宿内のそば処はここだけだったような?) 

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付け合わせで出た、パセリの佃煮風が美味しかったて、カミさん。

(余談、蕎麦切りの発祥の地については山梨県だという説や、木曽の須原宿という

 説などもあるようですが、どれが正しいのか分からないようです)

さあ、宿内へ足を進めましょう。


本山宿は、江戸から数えて32番目の宿場。

天保14年(1843)に編纂された「中山道宿村大概帳」によると宿場は

松本平の出口、中山道木曽路の入り口として栄え、宿往還の長さ5町20間。
 人口:592人,家数:117軒,本陣1軒(小林家・下問屋と兼任)、

脇本陣1軒(花村家・上問屋と兼任)、問屋2軒、旅籠34軒が設置され京都からみると、松本藩最初の中山道の宿場町であったことから、口留番所が

置かれ人物改めや荷改めが厳重に行われ重要視されました

 

宿は南から上町・下町に区分され、中央には本陣・脇本陣問屋場がありました。
何度か大火に見舞われたが、現在残る建物は幕末から明治時代の建築で、
道に面して屋敷割りは、洗馬宿の3間間口に比べて4~5間の家が多く、
 各家には屋号が付けられ、当時をしのぶことができます。
比較的広い街道の両側に、倉や、「俵屋」など平入り出桁造り、千本格子窓の旅籠。

古民家にはそれぞれに屋号が付けられ、風情ある町並みが続きます。

(置き屋根造りの倉)

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古民家の左手、二本の木が立つ奥が、諏訪神社跡(合祀され本山神社となった)

 

 

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明治時代の大火でほとんどの建物が失われてますが、出梁造の町屋が点在し、

元旅籠の

秋山家(若松屋)(明治前期、木造2階建、切妻、鉄板葺、平入、出桁造)左奥、

田中家(池田屋)(明治前期、木造2階建、切妻、鉄板葺、平入、出桁造)中、

小林家(川口屋)(明治前期、木造2階建、切妻、鉄板葺、平入、出桁造)右手前

が国登録有形文化財に登録され、当時の雰囲気は感じることができます。

建物の並び方が斜交(はすかい)屋敷といい、家が道と斜めにのこぎり状に並んで

いるのがよくわかりますね。。

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向かいが、代々小林家が世襲した本陣跡。

文久元年(1861)の皇女和宮や明治13年(1880)の明治天皇御巡幸の際に

宿泊として利用され、特に皇女和宮が本山宿を宿泊した際には、松本藩が警備し

4日間で総勢8万人が宿場を通過しています。

(奥の雀おどり屋根飾りの建物は、子孫の方のお住いとか)

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左手は小林家が兼任していた下問屋跡

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本陣跡の宿場案内版

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案内板の隣には江戸時代からの水場が今もこんこんと流れ出ていました。

f:id:hansui:20171122162952j:plain 本山仲町バス停の左に、現在は公民館となっている「花村屋脇本陣跡」「上問屋場跡」

葉を落としたモミジがポツンと立ってます。

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街道は緩い下り坂となり、その先で大きく左手へ曲がってゆきます。

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右手に「口留め番所跡」
 本山は松本領としては木曽路入口の重要な場所であったので,番所を設け厳しく監視をしていた。年貢米が他領に流出しないよう,また関所同様,女人の通行手形改めもしたと云う。

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左曲がりの緩い坂道の左手土手上は廃寺となた 長久寺・常光寺の跡地で小公園に

なってます。

長久寺は慶応4年(1868年)、松本藩主がここで東山道軍(官軍)総督岩倉具定

に勤皇を誓うが、決定が遅いと藩主は謹慎、藩には軍資金、兵糧の献金と出兵が

命じられたと言われる歴史のお寺でした。

土手に沿って登って行くと、荒瀬不動尊があり石造群があります。

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f:id:hansui:20171122173313j:plain さらに奥の山へ、国道19号を跨線橋で渡った先に、本山宿江戸口近くにあった

諏訪神社と、八幡神社が昭和26年合祀された「本山神社」
社地には檜,松などの老木が多く,拝殿の後ろの神殿は本峰造り一間社流造りだ

そうですが、板格子囲いの建物に鎮座しています。

 

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本山神社から来た道を街道へ戻ると、石垣と街道の間に石垣に沿って入れる道があり、

すぐの石垣下に高札場跡、秋葉大権現、秋葉常夜燈があり、

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その先に大きな本山宿の看板が立ってます。

(この先は水路の橋で渡れないわよ!)

高札場跡が、本山宿の京方(西口)でした。
 

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坂道をくだり、左手で国道19号との出会いです。

両側に山並みが迫り、信濃路からいよいよ木曽路へと近づいて来たようです。

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 広重が本山宿として描いた場所の特定には諸説あります。

最も有力な説は本山宿の西(京口)の外れを、宿方向に向かって描いたというもの

です。

「街道は上りから下りにちょうど切り替わっています、本山宿の宿並は東(江戸口)から上り坂の中に構成されています。

これが宿の外れで下りに変わります、ここが正に広重が本山として描いた場所といわれる根拠です。

強烈な野分の後でしょうか、松の大木が横倒しになり、丸太で支えられています。

その奥にはすでに切り倒された切株があります、斧ではなく、木挽き(こびき)に

よって倒された痕跡を残しています」

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続きます。

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第21回)  塩尻宿~贄川宿 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 11月3日に歩き残してた「碓氷峠越え」を果たし、街道は江戸から
28番目・和田宿へ一本線に継ながりましたが、先にはこれまた難所の

和田峠越えがあり、雪の季節となって一再び中断。

峠越しは雪融けを待ってとし、元気なうち歩ける内にと足を先へと向けて、

11月12日、下諏訪宿から木曽路への入口塩尻宿へ到着。

 

ぐ~んと冷え込み各地で降雪予報の19日(日)。

再び街道旅へと向かいます。

今朝も早めに家を出て、中央高速をひた走り。

休憩したPAからは朝日を受けた南アルプス甲斐駒ヶ岳北岳が雪山となって

輝き、遠くには金峰山の五丈岩まで見渡せました。

(右、甲斐駒ヶ岳、左上、五丈岩)

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みどり湖PAで朝食は、カミさんがラーメンがいい、というので

いつも持参のカップ天蕎麦は止めて、食事処でラーメン朝食。

あれ、この辺は昨夜は雪が降ったんだ!

(食事処で聞いたら、初雪だったそうです)

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 塩尻駅前に車を停めて、トイレを済ませて前回足止めした、塩尻・下大門交差点

へ向かいます。

塩尻はブドウ栽培が盛んだったんですね。

駅前の観光協会の建物にもデザインされてます。

案内所で「木曽路イラストマップ」配布しているそうですが、まだ開いてませんね。

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駅より2kmほど東へ歩き、前回足止めの三叉路となっている下大門交差点へ。

中山道、伊奈街道(国道153)長野道が交わる追分の交差点では、

18、19日の2日間開催される、県北長野市から県南飯田市間、217.5m

全22区を走る、超長距離・長野縦断駅伝のコースで、関係者の方々が大勢準備を

してました。

間もなく選手が通過、私たちが通ってきた塩尻宿を走り抜け、東の追分から

伊奈街道(国道153)へと向かうそうです。

1952年(昭和27年)「若者たちの体力と精神力を養うのに役立つスポーツを」と、

長野県を南北に一本の襷を繋ぐ駅伝が誕生し、今回が66回と伝統の大会でした。 

選手の通過応援をしたい気持ちがありましたが、もうしばらく時間がかかるとの

ことで、居合わせた係りの方にシャターを押していただき、

AM8:30、第21回旧中山道夫婦歩き旅へ旅立ち。

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正面に日を受けて輝く雪山を見ながらしばらく西へ進みます。

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前方に巨大な木々が見え、そこは「大門神社」で、大木は樹齢300年の3本の

見事な大欅でした。

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大門神社縁起によれば、

「昭和37年中央線の再度の開発のため、二番町の若宮八幡神社と柴宮八幡神社

移転合祀し大門神社となった、大門地区の氏神
また,昭和35年,境内から高さ64cmの弥生時代の銅鐸が出土した。

長野県は,銅鐸文化の圏外と思われていたので注目され,考古学者の間では知られた

神社でもある」と。

f:id:hansui:20171120103507j:plain すぐ先右手に小さな祠があり、案内板は「耳塚」で、
耳の形に似た素焼の皿やお椀に穴を空けて奉納されている。

耳の聞こえが良くなるとの評判が立ち伊奈地方からなど多方面から

参拝者がいると云う。
 天文17年(1548年)5月,武田信玄小笠原長時との桔梗ヶ原合戦の際,

討ち死にした将兵の耳を葬った所とも云われている。

(カミさんが、どうして耳だけなのかしら??)

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右手民家の電信柱下に小さな男女双体道祖神

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新しそうですが、立派な長屋門ですね。

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左手に海鼠塀の倉と、大きな屋号(曲尺の中に文字、カネホンかな)。

たしか普通は「カネホン(屋号)〇〇商店」のような表示だと思うが、

あれで「カネホン商店」だ、何を扱っていたんだろう?

木塀囲いになってるので、今は廃業したかな?

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(他の資料に元は、「酒店」とありました)

私の父親の家の屋号がこの「カネ」で、本家がカネに桝形で「カネマス〇〇」

分家はカネに勝で「カネカツ〇〇」とカネに八で「カネハチ〇〇」と称してました。間もなくJR中央東線のガードが見えてきましたが、手前を右に少し入ると、

有明山御神燈と道祖神

有明山御神燈は、坂上田村丸が、安曇郡有明山の賊退治の平定後に祀った社が、

先の塩尻宿京方に鎮座する阿禮神社の奥宮との事。

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ガード上はJR中央線、操車線で、国鉄塩尻駅は,明治35年篠ノ井線開通時には,

ガード先の”昭和電工”の北隣りにあった。
明治39年中央東線,明治42年中央西線が開通。昭和57年(1982年)

塩嶺トンネル開通により中央東線が辰野を経由しなくなったのを機に,新駅が

西500mの位置に移された。旧駅は「塩尻大門」として主に貨物列車の退避場所・

操車場として残されている。
ガード先100m程の住宅地を行くと、右手は”昭和電工工場”の長が~い

コンクリート塀が続きます。

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ガードをくぐって約1kmほどの平出遺跡十字路のすぐ先に「平出一里塚」。

松は,武田軍軍師山本勘助が,赤子を拾った伝説にちなみ「勘助子育ての松」と

呼ばれ、宝暦6年頃には茶店も2軒あった様です。

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街道からは左側だけしか見ませんが、右側は民家の裏にありました。

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先ほどから左手と前方に広がる広大な畑が桔梗ケ原で、東西3km,南北5kmの

台地で、天文17年(1548)5月武田信玄小笠原長時の桔梗が原の合戦の戦場で

あった。

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一里塚の200mほど先左手一帯に「平出遺跡」の案内板が見えてきます。

このあたりは「うばふところ」と呼ばれる丘陵地帯で、「桔梗ケ原」に復元された

竪穴住居が何棟も見えている。
縄文時代から弥生時代平安時代にかけては大集落跡(175戸)であった。
遺跡は江戸時代から土器や石器が拾える場所として知られ,本確的な発掘調査は,

昭和25年から始まり,中でも古墳~平安時代の豊富な出土品は,当時の生活様相を

復元可能にするものとして貴重なものであると評価され、昭和27年国史跡に

指定された。

日本三大遺跡に数えられる大きな遺跡。

土器・石器など約2万点の出土品は隣接の平出博物館に展示されています。

また日本一大きな、奈良時代中期の瓦塔も展示されているそうです。

f:id:hansui:20171120150522j:plain 青森の三内丸山遺跡静岡県の登呂遺跡など有名な遺跡が有り、立ち寄ったことが

ありますが、こ平出遺蹟は殆ど知らなかったですね。

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この場所から北アルプスの山並みが見えるそうですが、雲がかかり姿を見せて

くれませんでした。

平出遺跡を後に、どこまでもつづくぶとう棚が広がる街道をさらに進んでいきます。
江戸時代にはこの辺りは畑以外何もない原野が広がっていたといいます。

このことからこの辺りを「桔梗ヶ原」と呼ばれていました。

甲斐の武田信玄が松本を根拠とした小笠原氏と合戦し、これを破った戦が行われた

古戦場です。
振り返へると、霧ヶ峰、美ヶ原の雪の山並みが大きく見えてました。 

f:id:hansui:20171120152220j:plain 付近のブドウ棚にはもう収穫はしないのでしょうか、たくさんのブドウが残され

てます。

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おっ、スイスへ行ったときに見た、木立式のブドウ畑。

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中山道は,中央西線の踏切を渡り,”中信農業試験場”,”野菜花き試験場”の前を

通過する。イチョウの木には銀杏が鈴なり!

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ブドウ畑やワイナリーが点在の道を行くと、間もなく国道19号への突き当たりが、

その名も。中山道一里塚交差点。

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国道を横断して右手下に旧中山道跡が残り、200m程先で国道19号に合流する

ようです。

f:id:hansui:20171120155120j:plain およそ1km先,コスモ石油手前から左の細い草道に入り、しばらく行くと国道に出,

<平出歴史公園>交差点で国道を斜めに横断し、右手の緩い坂道を下って

県道304号線を「洗馬」集落へと入って行きます。

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おっ、雀おどりの屋根飾り!

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坂道となり右手下に田畑が広がり、川も流れているようです。

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左手側に山が迫り、山裾の段丘上の国道から分かれておよそ500m,

右手に「細川幽斎肘懸松碑」と呼ばれる

一本の赤松が道にせり出して立ってます。

説明版では、「洗馬の肘松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる。」と歌われた

赤松の銘木だったそうな。
細川幽斎が「肘懸けてしばし憩える松影にたもと涼しく通う河風」と詠んだ

と伝えられ、また、江戸二代将軍秀忠上洛の時、肘を懸けて休んだとの説もある。

昔の写真も添えられており、大きさから現在の松は何代目?

坂道は「肱松の坂」と呼ばれるそうです。

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「あら、道標が、ここを下るのよ」

道脇草むらの中にちっちゃな道標が有りました。

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細い坂道を下ると、左手からの道と合流の桝形で、高さ4mの

旧分去れ(かわされ)の常夜燈が建ってます。

安政4年(1857年)の建立で、ここが北国西往還(善光寺西街道)追分。

(現県道294号)

右:桔梗ケ原を経て塩尻宿へ向かう中山道
左:松本,麻績を経る善光寺道  

ここからが洗馬宿の江戸方(東口)かな。

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50m程先で下って来た県道303との合いには、新「分去れ道標」や石塔群が

県道が出来たとき桝形の「旧分去れ」から移設されて建ってます。

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街道案内によれば、

江戸から59里33町(約235km)、31番目の洗馬宿 (せばしゅく)。
慶長19年(1614年)の中山道塩尻峠経路に付け替えられたのに伴い、

近くの村が集合して塩尻宿・本山宿とともに新しくできた宿場です。

左手の鳴雷山、霧訪山などの山裾段丘上に開かれ、さらに下がった右手平地には

奈良井川が流れています。

北国往還善光寺道との追分にあたり,善光寺詣り,御岳講の人々などの旅人の往来で

賑わった宿場。

当初は松本藩の管轄下にあったが,享保10年(1725年)幕府直轄領となる。

何度かの大火に見舞われたが、昭和7年(1932)の大火で、宿場のほとんどが

廃墟と化し,往時をしのぶことはできない。

天保14年(1843年)中山道宿村大概帳によれば、

往還の長さ5町50間。

家数:163軒,本陣:1,脇本陣:1,旅籠:29軒、宿内人口:661人,

 

案内木柱に従って、右の細い横道に入り階段を下った所に、「洗馬(せば)」の地名の

由来になったと言われる「邂逅(あうた)の清水」

欅の古木の根元から清水が湧き出していて、塩尻市ふるさと名水20選の

ひとつである。

伝わる故事によると、

 木曽義仲の重臣今井四郎兼平が,義仲の旗揚げを知ると直ちに馳せ参じて

この清水で邂逅した。義仲の馬は強行軍に大変疲れており,そこで兼平は馬の脚を

この泉の水で洗ってやると,たちまち元気を取り戻したという、

そこから「洗馬」と呼ばれるようになった。
(一説には、洗馬の地名の由来とも云われるが,平安時代に既に洗馬牧の名が

 あったといわれる)
下方の田畑の中を”奈良井川”が蛇行しながら流れています。

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*広重は洗馬として、宿の西を流れる奈良井川の夜景を、邂逅の清水辺りから
 描いたと言われます。
 川面には満月の明かりを頼りに進む、柴舟と筏を描き、 絵の中央には洗馬の

 宿並みが描かれています。
 この絵は、広重の最高傑作といわれています*

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(宿場が奈良井の流れる平地ではなく、山側の高台地上に開設されたのは、

 水害を避けたのでしょうか)

街道に戻り先に進みます。
昔の建物は大火で焼失してしまっているので,宿場の面影はなく,

道幅も大火の経験からか宿場町としては広く、人通りはほとんどありません。

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洗馬駅への入口で、奥突き当りから右手が駅舎の有る敷地は、本陣、脇本陣

名所案内にもうたわれた名庭園があったところだそうです。

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駅入口から50mほどのところに「宗賀農林漁業体験実習館」という比較的新し

そうな建物がありその壁に「洗馬宿」の街並みについて説明版が掲げてありました。

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 洗馬駅入り口を過ぎて,左手に
「百瀬本陣跡」

f:id:hansui:20171120204141j:plain問屋を兼ねていた「志村脇本陣跡」

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*「本陣」,「脇本陣」の庭園は,「善光寺名所図会」に「中山道に稀な・・・」と

紹介された名園であったが,明治42年(1909)中央線の開通によって

洗馬駅の敷地となり失われたそうです*

「荷物貫目改所跡」

「公用荷物の重さを計り運賃を決める役所」だったそうで、

中山道では、板橋、追分、洗馬の三宿に設置された。

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向かい側に朱塗り山門の、真宗大谷派正・徳山萬福寺

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さらに進むと、民家と洗馬公園の間から登る参道が裏手の山への「洗馬神明宮」の参道で、大祭に演じられる太神楽が塩尻市無形文化財だそうです。

JR中央線の線路をこえての林の中に見えてました。

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進むと、洗馬公園のフェンスの中の「芭蕉句碑」に
   つゆはれの わたくし雨や 雲ちぎれ   芭蕉

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そして「高札場跡」が続く。

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その先、洗馬宿の西のはずれの桝形(西の口・京方)は急坂となっていて、

そのさきでJR中央線のガードを潜ってゆきます。

その桝形坂手前の左に 新福寺跡と言成地蔵尊(いいなりじぞうそん)を安置する

地蔵堂の案内板が建ってます

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桝形を左に曲がったガード手前に案内標柱が立ち、上り200mほど山の方へ

行くと、新福寺地蔵堂(言成地蔵)が祀られてるようです。

なぜか立ち寄りはしませんでしたね、なんでかな??

街道書には

「元は西の桝形あたりに安置されていたが(案内板が建っていたところでしょうか)

あまりに落馬する人が多いので,ある時一人の武士が怒って地蔵様を斬って

しまった。

これでは縁起が悪いと村人たちが新福寺に移し、言成地蔵として地蔵堂に安置した。

その後、明治3年(1870)の廃仏毀釈により新福寺は廃寺となり、

地蔵堂は言成地蔵として境内の南方の一角に須弥壇とともに遷された。
境内には旅の途中で死んだ人など墓31基その他があり,今も参拝者が絶えないと

云う」とあります。

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 街道はこの先でJR中央線のガード下を通って右にカーブし、次の本山宿へと

足を進めます・・・後編へ。

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第20回)  下諏訪宿~塩尻宿 後編

 *ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*
 
11月3日に歩き残してた「碓氷峠越え」を果たし、街道は江戸から
28番目・和田宿へ一本線に継ながりました。

 

第20回、下諏訪宿から塩尻宿へ、後編です。。

最後の急登を曲がると、でた~・・切通しの先は塩尻峠の十字路になった広場。

松林の右手を少し上ったところが頂上で、標高1055m。

白い展望台が設置されてます。

AM11:45

峠には松本藩領と諏訪藩領との郡境の宮として「富士浅間神社」が祀られ、
明治天皇塩尻峠御野点所」などの石碑群が在ります。

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ちょうど昼頃なのでここで昼食にするか、峠を下って、側を通る高速道の

みどり湖PAまで足を伸ばすかを話し合うと、

カミさんは「トイレのあるPAにしましょう」ということで峠を下ることに。

決まるとカミさんは、さっささっさと急坂を下っていってしまいました。

お~い、展望台は・・まあ、いいか、

右手奥には展望台が在りますが、寄らずに峠を下ってしまいました。

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栄泉画の塩尻峠「諏訪ノ湖水眺望」は冬景色。

 氷結した諏訪湖渡りが描かれてますね。

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塩尻峠は5差路になって、北に向かう尾根道に向けて、大きく

「塩嶺高ボッチハイキングコース」の案内がある。

坂を一気に下ると家屋が見えてくるのが、寛永8年(1796年)建築の

「上条茶屋本陣跡」。

本棟造り、門、玄関、上段の間、次の間などが残されているようです。

皇女・和宮も休息したようです。

江戸時代に本陣を勤めた上条家は、子孫の方が今もここに住まわれています。

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向かいに「明治天皇塩尻御膳水」と書かれた碑があり、後ろに井戸が残されて

いました。

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 あの山は?

カミさんの声に左手を見ると、ゴツゴツとした雪山が望遠できます。

デジカメをアップで覗くと「木曽の御嶽山」でした。

もう10年も前になってしまいましたが、カミさんと初めての山小屋泊りで

登ったことがありました。

山上湖が綺麗だったわね~・・てカミさん。

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(10年前、思い出の御嶽山頂湖、三の池)

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下り道は木柱道標に夜通道(よとうみち)とありました。

塩尻側に住む美しい娘が岡谷の男に惚れて、毎夜この道を通って逢いに行った

という伝説があるんだとか。
追いはぎも出たと言うこの峠道を、若い女性が一人で通るなど信じられませんが
ちゃんと護衛がついていたかな??

夜通道の杉林の中に親子地蔵尊

天明の大飢饉時、行倒れになった旅の親子を供養のため、享保元年(1716年)

に建てられたそうです。

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 さらに道を下ると左手にこんもりとした小山があり、

江戸から57里目「東山の一里塚南塚跡」

街道書によると「元和2年(1616年)塩尻峠が開通し中仙道が牛首峠経由から

塩尻峠経由に変更された際に築造された」と在ります。

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ゆるやかに降り切ったところで、左から登ってくる道と交差した。
右手に分かれて山へ登る方向の道は「高ボッチスカイライン」と呼ばれ、

10kmほど北のレンゲツツジで知られた「高ボッチ高原」への道。

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高原は高ボッチ山( 1665m )からその奥の鉢伏山( 1929m )に連なる山頂周辺に

広がる高原で、毎年六月中旬頃に、「レンゲツツジ」が一斉に花を咲かせることで

知られ、数年前には何度か高原車中泊で訪れたことがあった懐かしい高原です。
(思い出のレンゲツツジ

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高ボッチ高原では牧場内の草原コースで草競馬も開催されるんです。

山道のマンホールの蓋にデザインされてます。

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さて、中山道に戻りましょう。

坂道をさらにくだると右手杉林の中に旧東山村の鎮守、東明神社と道脇には

馬頭観音道祖神などが並んでいます。

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地域は東山、集落が近づいてきました。

遠くの山並みは何処でしょうか?

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今日出合った何組目かのご夫婦が峠越えへ向かって行きます。

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おっ、「雀おどり」だよ! 独特の屋根飾り

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峠道は国道20号の峠道に接し、すぐ右手の脇道へ進みその先で国道と合流します。

少し先で再び右手の上り道へと向かいます。

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紅葉の緩い上り道を進むと、

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唐松林が黄金色に輝く、のどかな里山が広がります。

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右手、唐松林の斜面に大きな石碑があり、「牛馬守護神」とありました。

街道には道祖神庚申塔馬頭観音などいろんな石仏石塔がありましたが、

「牛馬守護神」は初めてと思います。

街道書にも解説は記載されておらず、帰宅して調べてみたところ、

民俗信仰の荒神様という信仰があり、そのなかに、大事な大切にしていた

牛馬の安全祈願と、子ども達の健やかな成長を祈ってお参りした

荒神があるそうで、その神を祀ったのでしょうか。

話は違いますが、よく神社などの神馬厩に猿の彫刻がほどかれてます。

日光東照宮の三猿が有名ですが、 

その解説の中に

「厩神を祀る多くの地方では猿が馬の守り神とされており、厩の柱の上に

厩神の祠を設け、猿の頭蓋骨、または猿の手足を神体として納めていた。

また猿の絵を描いた絵馬やお札を魔除けとして貼ったり、季節ごとに馬の安全を

願う祭礼として、厩の周りで猿を舞わせる風習もあった。

大道芸の猿まわしはその名残りである」と書かれた書もありました。

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牛馬守護神の少し先で左カーブし、右手の宗教団体系の施設石垣沿いに真っすぐ

下ってくると国道20号と交差します。

そこには信号も横断歩道も無く、左手に横断地下道が作られてますが・・

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車の行き来を見極めて、それ!渡れ・・

渡った右手は新しそうな施設はワイナリーが在りました。

駐車場から雲間に雪山が・・乗鞍?穂高

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街道は右手土手に、伐採されてしまった防風林の切り株が続く坂道を下ります。

土手の上は少し前までは松本営林署塩尻種苗事業所の苗畑だったそうですが、

現在は国道沿いに在ったワイナリーのブドウ畑が広がってます。

土手下に植えられてるのはカリンのようです。

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土手道が途切れたところで、下を長野自動車道が通る跨架橋に出、

左右に登り下りのみどり湖PAがあり、橋周辺にはPAからの高速バス利用者用の

駐車場が用意されていて数台の車が駐車してます。

バス利用者用の階段を下り、パーキングで昼食と足休め。

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リックには途中で買ってたサンドイッチなども入ってましたが、

信州と言えば蕎麦がいいで、 美味しかったです。

 さしずめPAは「車茶屋」とでもいえるかな。

f:id:hansui:20171114195407j:plainゆっくり足休めもしてPM1:30、再び街道歩きへ復帰します。f:id:hansui:20171114195848j:plainハウスの並ぶ畑脇に嘉永6年(1853年)建立の馬頭観音

いままで数えきれないほどの馬頭観音を目にしてきましたが、

街道旅を始める前によんだ資料によれば、

馬頭観音六観音のひとつで、宝冠に馬頭をいただき、忿怒(ふんぬ)の相をした

観音菩薩(ぼさつ)。

魔を馬のような勢いで打ち伏せ、慈悲の最も強いことを表すという。

江戸時代には馬の供養と結び付いて信仰されるようになった。

石仏として像立され始めるのは、近世中期ころ、死馬の墓標として造立され

るようになります。
初期は像塔が多いが、次第に文字塔に移り変わってきた」そうです。

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 地区は柿沢地区。

手入れされた生垣の落ち着いた家並の柿沢集落坂道が続きます。

小春日和の信濃路の里

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馬頭観音のウンチクを話しながら歩いていて、、街道書に記載されてた

武田、小笠原の塩尻峠合戦の戦死した小笠原勢の亡骸を埋葬した「首塚胴塚」への

案内板を見過ごしていたことを、しばらく先で気が付いた!!f:id:hansui:20171114200607j:plain

右手に双体道祖神

f:id:hansui:20171114200743j:plainあれ、「柿沢公民館」の案内板の文字、書体が癖文字だ、

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家並みは、峠を控えての立場だった柿沢集落です。
大きな蔵が目立ち、中には屋号が記されている蔵もあります。

「雀おどり」と言われる棟飾りを上げた、本棟造りのおおきなお屋敷が続きます。

街道書によれば、
本棟造(ほんむねづくり)は、長野県の中信地方から南信地方にかけて分布する

民家の形式で、切妻造り妻入り、ゆるい勾配の屋根、雀おどしと呼ばれる棟飾り、

正方形の間取りなどが特徴で、豪農などの印でもあったようです。

見た目にもどっしりとした、家全体に風格がありますね。
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左手に高札場跡

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旧家風情の大きなお屋敷塀脇に「道祖神

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お屋敷の左手、倉の下にある石仏は「七観世音」とは珍しい!

七観音とは
聖観音 千手観音 十一面観音 馬頭観音 如意輪観音 不空羂索観音 准胝観音     だそうです。一度に七観音様をお参り、ご利益をいただける?

 観音様の呼び名で親しまれている観音菩薩は、仏教発祥の地インドで誕生した

仏尊です。仏教の伝来と共に中国経由で日本へ渡って来ました。
 観音菩薩には、様々な姿に変身して私達衆生を救うという性質もあります。

あらゆる輪廻からの救済と、あらゆる現世利益的な功徳に対応出来るとされている

のが七観音なのだそうです。と街道書にはありました。

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道路を跨いだ大きな鉄骨製鳥居のようだが、中山道をまたいでいる。
これは首塚の交差点を反対側に入った、丸山にある八幡神社の鳥居だそうです。

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穂高連山かな、乗鞍岳?・・

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街道は火の見櫓の二股を左の道へ進みます。

ほどなく川沿いになり、ここで左側から来た国道153号に合い、
中山道は、そのまま国道153号に吸収されて右手へ橋を渡って進みます。

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国道を少し行くと右手に道祖神が二体。

二体とも双体道祖神のようですが、左のは抱擁道祖神で、「お女郎道祖神」と

呼ばれてるとか。

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道祖神の脇道を入ってもう一本北側の道へ抜け出て、柳の見事な大木、

そして大きな山門を構えた「永福寺」へ立ち寄ります。

寺伝では、1521年に近くの長畝に臨済宗の長福寺として開基されたといいます。

そこが、古い塩尻宿の北の入り口だったと言われている。
 その後、中山道塩尻宿の成長にともなって1634年、宗旨を真言宗に変え、

上町の南(長福寺跡)に移設された。
  やがて塩尻宿が建設され宿場町として成長すると、さらに1704年に現在地に

移設され寺名を永福寺にあらためた、とあるそうです。

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 石柱に木曽義仲ゆかり寺と彫られています。

永正年間(1504~21)木曽義仲の末孫である義方上人が,義仲の 菩提を弔うため,義仲信仰の馬頭観音を本尊とする観音堂を建立する。
   義仲は、挙兵して平家を京洛から駆逐したことで征夷大将軍の位をおくられ、
朝日将軍と尊称されたことにちなみ、この観音堂は朝日または旭観音堂と
呼ばれるようになった。
  その観音堂はその後、焼失してしまい、1855年に二代目立川和四郎の手で再建
されのが現存のお堂です。
入母屋造りの茅葺屋根が美しく、塩尻市有形文化財となってます。
  観音堂の前には馬の銅像が立っていまが、木曾義仲の愛馬「鬼葦毛」かな。
 

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仁王門(山門)は、和四郎の弟子立、棟梁立川(立木)音四朗種清の手により、

三間一戸、入母屋、桟瓦葺き、総欅、楼門形式で,明治27年(1894年)の建立.。

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屋根に雀踊りを載せた本棟造りの庫裏

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 あら、この木、何か変よ!のカミさんの指さす木を見ると、

えっ、イチョウの木に桜の木が!!

イチョウと桜の古木が一本にくっついてしまったんですね。

(そういえば間の宿茂田井で梅ノ木にモミジが生えていたね・・)

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 街道に戻るとくっきりと乗鞍岳・・8月にご来光バスで登ったね、

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永福寺山門前の道を、そのまま200mほど行くと国道153号との仲町T字路で、

その手前に江戸から58番目の「柿沢の一里塚跡」の石碑が置かれてます。

(平成26年に建てられたものだそうです。宿内は遺構現物はほとんどありませんが、

  跡碑などは良く整備されてます)

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その先で国道に合流地点が塩尻宿の江戸口になるようで、新設された風情の

「是より西 中山道塩尻宿」の道標が建てられてます。f:id:hansui:20171115154627j:plain

塩尻宿は、

江戸から58里3丁,30番目の宿。
当初の中山道は下諏訪から三沢,小野,牛首峠を経て贄川(にえかわ)宿桜沢へ通じ,塩尻を通過していなかったが,元和2年(1616)現在の道となり

中山道・伊奈街道(三州街道)・五千石街道・松本道(→千国街道)と

交通の要衝であり,名の示すとおり牛馬で運ばれてきた日本海からの北塩と

太平洋からの南塩が出会った南北「塩の道」の最終地点として、

中山道成立以前からの宿場として賑わった。

中山道では旅籠数二番目の多さ,飯盛り女を多く抱え,歓楽を売り物に旅人以外に

近在からも宿泊客を集め賑わった宿場である。

 文政11年(1828)と明治15年(1882)の二度の大火で江戸時代の建物は殆ど焼失。

 宿往還の長さ8町28間余,道幅2~3間。

慶安4年(1651)の塩尻宿書上帳では家数119軒・人数828人、

旅篭は45軒、

幕末の天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」では家数166軒・

人数794人,本陣:1,脇本陣:1,旅籠:75軒 であった。 

(人口が減ってるのはなぜでしょうね)

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道の向かいには大きな馬頭観音f:id:hansui:20171115154908j:plain

その先左手の倉手前、木柵で囲まれたところは宿の京方に鎮座する

阿礼神社の「御旅所」だそうです。

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50mほど先に左手へと道があり、角に「三州街道」の道標碑が建てられてます。

南に進む道が、諏訪湖近辺から天竜川に沿いつつ、伊奈飯田を経て三河へ至る

南(表)「塩の道」であったそうです。
名古屋市を起点とする国道153号には、「三州街道」の愛称があるのだとか。

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「塩の道」と言へば、何回か歩いたわね、てカミさんが思い出してました。

数年以上前になりますが、毎年5月の連休に、信州信濃の小谷、白馬、大町で

開催される「塩の道祭・(街道ウォーキング)」へ参加し、野山の道を歩きました。

いまこうして旧街道を歩いてるのも、その時の楽しさが素地になってるのかも

しれません。

(思い出の塩の道まつり

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二度の大火で宿場のほとんどが焼失し,江戸面影は極めて少ないですが、

石柱や案内板が設置されており、旧中山道塩尻宿の影を想うことができますね。

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20mほど先右手に

塩、米、材木、女人等を取り締まった「松本藩塩尻口留番所跡」。

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少し先に「十王堂跡」がある。

脇に5~6基の石塔群,庚申塔や何とも可愛らしい双体道祖神もある。

(十王とは、地獄において亡者の審判を行う閻魔大王をはじめとする十人の王の

  総称です)

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松本を経由して糸魚川に至る、北(裏)「塩の道」五千石街道碑

 諏訪藩の飛び地となった、5千石の領地巡見のために作られた街道。

ここから松本市内牛つなぎ石先までおよそ16kmの道である。

(街道書より) 

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 五千石街道碑から数分先,右手に「小野家住宅」

塩尻宿に唯一残る江戸時代の建物で、国重要文化財
宿場町の有力商人で大地主でもあった「いてふや」の屋号で呼ばれていた旅籠で,

文政11年(1828)の火災後の建築とされる。

間口8間で奥行き40間の広壮な屋敷で、主屋2階の客室5部屋はいずれも

絵画・装飾が施され,とくに「桜の間」は,天井・板壁・天袋小襖に桜の極彩色の

絵が描かれているという。

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東棟と西棟があります。

つい最近、修復されたのかな、綺麗な建物でした(惜しいかな未公開)

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向かい住宅脇に、飛脚問屋跡碑が建ってます、

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その先すぐの並び空き地に、上問屋跡碑

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右手郵便局隣が高札場跡、下問屋跡の碑

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郵便局から10m位先の道の左手は、「本陣跡」
当初小口家が勤めていたが,平林家に替わり,明和8年(1762)以後は川上家が

務めた。

屋敷は間口24間,建坪367坪,門構え,玄関付き。造り酒屋を兼ね,

裏の宿場用水の南に酒造場と酒蔵があった。
 中山道の本陣では最大であったが,明治15年(1882)の大火で焼失。

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 さらに向こう隣りは脇本陣

脇本陣は,
本陣の西隣りにあり,本陣・川上家の分家、川上喜十郎が勤めていた。

建坪270坪,門構え,玄関付き,同じく明治の大火で焼失したが,

奥の庭園は昔の姿を残していると云う。

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すぐ隣りに「塩尻陣屋跡」

塩尻宿は慶長10年(1605年)以降は天領となり、享保10年(1725年)には

幕府直轄領となって陣屋が置かれていた。

 

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現在陣屋跡は、「さかばやし」がつりさげられている明治16年創業の造り酒屋
「笑亀酒造」
創業明治16年とあるから、大火の後に創業したのだろう。

海鼠壁の穀藏は国登録有形文化財とか。

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 100mほど進むと歩道橋の有る信号機のない四差路で、中山道は国道152号と

分かれ右に折れていく。

左手歩道橋階段下に「駕籠立場跡の碑」と右手階段脇角に「塩尻宿鉤の手跡」の

石碑がある。宿場特有のいわゆる”桝形”である。

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中山道を鉤の手に曲がるとすぐに阿礼神社。

社殿は将軍綱吉時代の寛保三年(1743)に再建したものだが、古くは坂上田村麻呂

木曽義仲も参拝したという長い歴史を持つ神社である。

例大祭は、塩尻祭りと呼ばれ、近隣から山車が7台が集結し、神社神輿は

宿内へ入ってすぐ左手にあった、御旅所まで巡行されるようです。

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実に愛嬌のある狛犬ですね。

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神社と隣りの小学校前の道が桝形に左手に曲がり、小学校門前に

「是より東 中山道 塩尻宿」の道標が有り、宿の京方(西口)でした。

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地域は堀の内、お屋敷の塀に囲まれて男女双体道祖神

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その先に旧堀の内村の名主を務めた、堀内家住宅(国重要文化財)でしたが、

保存修理中でテントで覆われてました。

ちなみに、国重文ですが、

発注者名は 堀内家の家人名(個人での保存修理なのでしょうか?)

工事請負は「田中社寺株式会社」とあり、 

国宝・重要文化財保存修理工事の専門会社でした。

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200mほど先の大小屋交差点で国道153号と交差する。

交差角に「蟲玉大神」「秋葉大神」「庚申」「道祖神」「南無妙法蓮華経」の5つの石碑が並ぶ。

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国道を渡りさらに左手の細い道へが中山道です。

角に二体の馬頭観音道祖神

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住宅の並ぶ小路を行くと川沿いになり再び国道に合流、橋を渡って南へ進みます。

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川は高ボッチ山に源を発し、流末は奈良井川に落ち合う田川。

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橋の上から西北の雪山は北アルプスの嶺

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橋を渡り150mほど南へ足を進めると

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下大門三叉路の交差点。

左手へ曲がるのが旧中山道

国道152は右手へとカーブしてゆき松本方面(松本街道)へ向かう追分です。

今日の旅はこの下大門三叉路が足止地点。

このまま三叉路の真ん中の道へ入り塩尻市街地へと進み、塩尻駅へ向かいます。

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現代の塩尻市中心街は、塩尻宿から約2kmほどはなれた塩尻駅周辺になってます。

鉄道駅と宿場町が離れてることが結構多いですね。

カミさんが「鉄道敷設計画時に、塩尻宿周の方々の反対があったのかしらね」

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PM3:30 塩尻駅前へ。

遠回りになるけど北アルプスを眺めながら帰ろう、と長野道を走り松本、安曇野

周辺で夕日を受けた北アルプスの雪山の嶺々を眺め、上信越、関越と走り

PM8:00、旅を終えました。

またいつの日か中山道木曽路へ・・・

塩尻宿の民家に咲いていた秋ばら)

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第20回、おわり

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第20回)    諏訪宿~塩尻宿  (前編)

 *ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

11月3日に歩き残してた「碓氷峠越え」を果たし、街道は江戸から

28番目・和田宿へ一本線に継ながりました、が・・

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次の江戸から29番目、下諏訪宿の間には標高1600mの和田峠

待ち受けています。

碓氷峠を越えた勢い(?)で、11月11、12日での峠越を予定してましたが、

峠道の状態はかなり悪路の情報もあり、やっとつないだ街道でしたが、

急きょ予定変更で峠越えは先に延ばし、12日(日)に、下諏訪宿から先へ足を

進めることにしました。

 

第20回、下諏訪宿から塩尻宿へ。

 

早朝、マイカーで出立。

久しぶりに圏央道、中央道と走り、塩尻駅前の駐車場へ車を停めて、

電車で下諏訪へ。

諏訪湖PA 正面が下諏訪、後ろの山並みが和田峠の山並み

    山頂の木々が白っぽく見えるのは霧氷かな)

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下諏訪駅から歩いて諏訪大社秋宮へ向かい、参拝後すぐ脇を通る旧中山道

諏訪宿中心部より、第20回の旅立ち。

御柱の立つ下諏訪駅

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日本最古の神社のひとつとして数えられる諏訪大社

下諏訪に鎮座する、諏訪大社下社・秋宮。

(今年の夏に寄ったことがありました)

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AM8:30。

右手から下ってくる旧中山道はこの角で右折し塩尻へ向かいます。

左手へ向かう道は甲州街道となり、ここは追分。

(旧中山道はここで右折し、車の停まってる後ろの道へ入ってゆきます)

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中山道甲州街道 追分道標

碑の左下地面に植えられたプレートには、

甲州道中・江戸53里11町、旧中山道・江戸55里7町、京都77里3町とある。 

今日の旅は下諏訪~塩尻、2里30町(約12km)

(その先、少し足を伸ばすので約14km)

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下諏訪宿中心部の散策は、和田峠越で到着時の楽しみとして、

塩尻宿へと旅の足を進めます。

元禄元年(1689年)創業、旧脇本陣にて現業を引き継ぐ「御宿まるや」

代々丸屋四朗を名乗ったそうです。

当時の図面や古文書をもとに、材料までこだわって忠実に旧脇本陣兼旅籠を

復元した美しい木造建築の今も人気の宿です。

(宿泊してみたいですね)

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向かい左手は安政10年(1690年)創業、木曽路名所図絵」にも描かれた

旅館「桔梗屋」があります。

あの東海道五十三次弥次喜多道中で有名な、十返舎一九安藤広重

和宮の母君など歴史に残る人物や、川合玉堂竹久夢二斎藤茂吉など多くの

文人、墨客にも愛された宿として今も盛業の人気宿。

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下諏訪宿中山道69次の中では唯一の温泉の出る宿場で、古い歴史を持つ

現業の温泉宿が何軒かあり、和田峠越えて到着できた時は是非宿泊し、

往時の旅気分を味わいたいと思ってます。

細かい格子窓の2階家は下諏訪町立歴史民俗資料館。 

明治初期に建てられた宿場の商家を利用したもので,狭い間口,長い奥行,

細格子が特徴的です。
下諏訪宿場町や、旅人の様子を描いた絵画や当時の風俗・生活を伝える資料がある

そうですが、まだ開館前。f:id:hansui:20171113133447j:plain

 

その先左軒下に右・甲州道、左・中山道の道標が在ります。

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看板もレトロ

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 国道と合流手前に復元された高札場跡

以前は先ほどのスタート地点、中山道甲州街道の合流点付近にあったそうですが、

場所が狭くなったために、宝永年間(1704~1710)に願いを出して、

現在の場所に移したそうです。

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高札場跡で大社通り(国道142号から国道20号になる)となりさらに下ります。

正面の山並み、塩尻峠を越えて木曽路へと向かいます。

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右手に弘化4年(1847年)に建立され、医師のみに建てることが許されたと

言う門構え「薬医門」がありました。

門の脇に木戸を付け、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるように

していたともいわれています。

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しばらく大社道を下ると二股で国道を分岐、左手路へ入ります。

一段高くなった場所に「魁塚(さきがけつか)(相良塚)」

慶応4年、官軍(東山道軍)の江戸総攻撃先鋒隊を務めた、相良総三ら

赤報隊幹部8名が、新政府から「贋官軍」との烙印を押され岩倉具視より

追討令が下され、斬首・梟(さらし)首された場所という。

明治3年同志によって墓が造られ、地元の人々が刑場を魁塚として祀り続けて

いるそうです。

「相良総三」は,幕末の慶応3年(1867),西郷吉之助と結び江戸薩摩藩邸に

浪士600人ほどを集め、薩摩藩の意を受け江戸市中を撹乱し,幕府に対する

挑発行為を行い、追われると薩摩藩邸に逃げ込んだといわれる。

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進んで、諏訪大社春宮に通じる大門通りを渡った右角に大きな「春宮の常夜燈」が

建ってます。

右へ坂道を700mほど行くと諏訪大社下社・春宮です。

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 さすが御柱で有名な諏訪大社のおひざ元。

四本の御柱の囲まれて道祖神

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しばらく進むと道はT字路へ突き当り、さて、どっちかな?

街道書では、民家の間の小路道へ入るとあるが・・・有りました「中山道」標識!

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一人がやっと通れる道は、すぐに砥川の堤防上に出て中山道は川でt中断。
右手少し上流の国道20号の橋を渡り、その先で左折して中山道の道筋に復帰が、

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またまた細い小路の中山道

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小道は広い通りと交差し、渡って左電柱脇に石柱が有り、回り込んでみると道標。

街道からは裏側しか見えないので、車のためかな??

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マンホール蓋

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小さな川を渡ると地番が変わり、下諏訪町から岡谷市長地柴宮(おさちしばみや)

地区

 

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だらだらしたゆるい上り坂を、およそ600mほど進むと、左手に案内標識があり

横道を入った所が「旧渡辺家住宅」

 渡辺家は、高島藩(=諏訪藩)に仕えた散居武士(城下ではなく在郷の村々に

住んだ武士・郷士)で、家屋は茅葺,寄棟造りで18世紀中ごろの建築といわれ、

天保12年(1841)~にかけて改築され現状の間取りとなったという。

復元された藁ぶき屋根の武家屋敷は在りますが、現存する屋敷として貴重な建物と

言えるそうです。

(長野県県宝指定)

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(側の邸宅表札が渡辺家とありましたが・・)

 この一家から、渡辺国武・渡辺千秋・渡辺千冬の三人の大臣が出ている由。

少し先に平福寺。

真言宗智山派の寺で、戦国時代は諏訪大社下社春宮の別当寺であった。

日を限って願掛けすれば聞き届けてくれるという「日限地蔵尊(おひぎりさま)」

が有名で、毎月23日は縁日で賑わうと云う。

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 先の交差点を渡った左手に、寛政3年(1791)建立の「伊那道道標」

 「右 中山道 左 いなみち」とある。

百万遍供養塔を兼ねてるそうです。
当初の中山道は,元和2年(1616)塩尻峠が開通するまでは,ここで左折し

三沢峠(小野峠ともいう。塩尻峠より南方にある)を越えて木曽路へと向かっていた。

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しばらく生垣の大きな家屋敷の道が続きます。

わぁ~綺麗ね~、てカミさんが歓声!

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 街道はず~っとゆるい上り道が続いてます。

さきで国道20号と斜交し、

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その先右手の駐車場フェンス際に、笹竹に埋もれた格好の石碑が、
 江戸から56番目の一里塚「東堀一里塚跡碑」

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まだ小さな木ですが冬桜が咲いていた。

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振り返ると遠くに見えるは「八ヶ岳」かな?

だいぶ標高が高くなってきた様子。

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十字路角に道祖神と常夜燈

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十字路を渡ったかどの草むらに、ひっそりと馬頭観音

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「横河川」を”おおはし”で渡り今井地区に入ります。

左手下の方にキラキラ光ってるのは諏訪湖のようです。

ゆるゆる上ってきてるのがわかります。

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橋を渡った左手にたくさんの石塔群。

周りは銀杏の匂いが立ち込めていましたね

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おっ、お月さん!

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両側に家々の建ち並ぶゆるゆる坂をさらに歩きます。

狭い道ですがバス通りです。

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御柱に守られて「双体道祖神

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地域に溶け込んでいい風情の3階建住宅。

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すこし先に左手に有るのが、高島藩の口留番所跡(今井番所)。

口留番所は,旅人の通行や荷物の取り調べを行った所で、ここを通過するには

高島藩の通行手形が必要だったといわれる。

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そのさき右手黒板塀の続く屋敷が「今井茶屋本陣跡」

主屋ほか11件が国有形文化財に指定されている。

文久元年11月5日に皇女和宮が,明治13年2月4日に明治天皇がここで休息を

取っている

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この辺り旧今井村は,塩尻峠の東の登り口にあたり,ここは「今井立場」で当初は
街道沿いに四軒屋があったので,四つ屋と呼ばれたという。

(周辺のお屋敷には何軒かの「今井」の表札を見かけましたね)

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 ここら辺りから,徐々に塩尻峠への急な登りが始まります。

さらに旧道をゆくと、右手に「左 しほじり峠 中山道 右 しもすは」の道標が

置かれている。

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右手に不動尊道祖神・道標など比較的新しい石碑のいくつかを見ながら歩む。

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やがて、岡谷ICジャンクションの上を通り、アクセス道路が複雑に入り組む

かなり急な上り坂になる。

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振り返れば、眼下の諏訪湖越しに「富士のお山」

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そして左手に「八ヶ岳

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紅葉街道は急勾配の急坂となり、高度を上げてゆきます。

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道路の右手に100段近くもある急な石段を登った先に、

「石舟馬頭観音」が鎮座する。
ここには、足腰の病に霊験あらたかだそうで、多くのわらじが供えられており、

塩尻峠を前に、多くの旅人がお参りし足腰の無事を祈ったのだそうです

いまこそ階段に手すりが有るが、昔の旅人は足腰が強かったんですね。  

(手すりが無かったら登れなかった!)

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・・と思ったら脇道があり街道へ降りられます。

祠の脇の鳴沢を清水が流れ落ちている。

欽明水と云われ,街道を行きかう多くの旅人の喉を潤したという。

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岩船観音の先からいよいよ塩尻峠の本格的な急登が始まりました。

 一歩一歩また一歩。

左手に、木曽路名所図解に

「大石、塩尻峠東坂東側にあり、高さ二丈(約6m)横幅二間余(約3.6m)」

と記されている由の、昔から有名であったのだそうな「大岩」呼ばれる岩がある。

この岩は上には木が生えている?

諏訪七不思議の一つだそうです。

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急坂も木々の紅葉黄葉にいやされながら、はぁはぁ、ふうふう休み休みで

上って行きます。急坂は約1km続きます。

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馬もこの急坂を荷を積んで登り下りしたんだね、ひっそりと小さな馬頭観音

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唐松が黄葉し大きくゆっくりと揺れる様は素晴らしいですね。

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坂は斜度を増し、十歩登って一休みの繰り返し。

街道書では後、二曲がりの急騰で峠頂上かな?と淡い期待を・・

急登になって約1時間、頭上に明るさが増し峠は近い。

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最後の急騰を曲がると、でた~・・切通しの先は塩尻峠、頂上は標高1055m、

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 後編へ続きます、

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第19回)  碓氷峠越え 編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。

 

2016年9月17日、お江戸日本橋を旅立ちし、

12月17日に、旧中山道の一番目の難所、碓氷峠を控えた

上州(群馬)最後の宿場坂本宿到着で足止。

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雪の季節に入りのため、年が明けて、雪解けを待って再び旅へと思えども、

春以降に三回の入退院で足踏み。

足腰の衰えは顕著で、ある程度の体力は戻った感あるも、秋の入口になっても

難所、碓氷峠越えにはなかなか挑めない。

そんな弱腰を見かねたか、

「一筆書きの街道旅は途切れるけど峠は後回し、

   どんどん歩けるところを先へと行きましょう!」

と、カミさんの一言で、9月10日、峠登りを飛ばして信州信濃(長野県)

 碓氷峠頂上から軽井沢へ向かって旅を再開。

 

 

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旅を重ねて10月26日(木)には、日本橋から29番目の、和田宿を経て
中山道の最難所と言われる和田峠の口下の、唐沢集落入口へ到着し足止め。
今年の気候は、雪の季節がいつ来てもおかしくないような不安定。
26日に眺めた浅間山は綿帽子をかぶり、和田峠の一部道は降雪で通行止めに
なっていました。

 

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帰宅の車中で、

「早めに、歩き残した碓氷峠を登ってしまいましょう」とノリノリのカミさんの

意見で、天気予報と行ける日を調べ、

11月3日(祝)に歩き残してた「碓氷峠越え」旅立ち決定。

行き帰りの車の便とバス時刻をを検討して、マイカーを軽井沢の駅前に置き、

JR関東の路線バスで群馬県・横川駅へ下り、碓氷峠登り口の坂本宿を経て

峠へ取りつきます。

 

11月3日(金)、夜明け前にマイカーを走らせ、関越道、上信道を走り

順調にAM6:00軽井沢駅到着。

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いつものカップ天蕎麦で朝食、支度をして6:59発のJR関東バスに乗り、

18号バイパス峠を下り7:33横川駅前着。

横川駅前からは昨年秋に歩いたことがった、鉄道の廃線跡を利用した

アプトの道・遊歩道と行き、昨年足止めした碓氷峠入口へと向かいます。

 AM7:40

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 こんちわ~いい秋晴れですな~

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途中にある日帰り温泉、峠の湯前庭でトイレ休憩をしアプト道から離れ、

坂本宿を通る国道18号旧道(旧中山道)の坂本宿京方を過ぎ、

坂本浄水場の巨大な貯水タンクの脇を通る、細い道に入るのが旧中山道

安政遠足コース」の案内道標が有ります。

安中藩が実施していた「安政遠足」のコースは旧中山道とほぼ同じ道筋で

行われていました。

*「安政遠足・あんせいとおあし」

1855年安政2年)、安中藩主板倉勝明が藩士の鍛錬のため、藩士に安中城門から

碓氷峠熊野権現神社まで、7里余りの中山道を走らせた徒歩競走。

日本のマラソンの発祥といわれ、現代は「安政遠足 侍マラソン」と銘打ち

毎年5月の第2日曜日に開催され、毎回たくさんの仮装したランナーが走ります。*


ここからが旧中山道街道歩き旅で途切れていた、軽井沢宿へ向かう碓氷峠頂上

までの旧中山道が始まります。

 

AM9:00 旧中山道継ぎ旅へ、いざ出立。

(路面に置いての撮影)

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坂本宿~軽井沢宿は、2里34町 11.6Km

(今日は横川駅から軽井沢駅までなので、実歩き距離は15kmほどになるかな)

  道を進み突き当たりを左に曲がり、崖下を数10メートル歩き、

中山道」の表示がある所で 階段を上ると、さきほど分かれた国道18号旧道を

走っていた路線バス「中山道バス停留所」へ出ます。

(現在は路線バスは通常は有りません)

道を横断し、真っすぐスギ林の中へ入って行くのが街道です。

いよいよ中山道の難所『碓氷峠越え』のはじまりです。 

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中部北陸自然遊歩道も同じルートです。

f:id:hansui:20171104120358j:plainいよいよ中山道最大の難所である碓氷峠へ向かって、

最初に刎石山(はねいしやま)への杉木立の薄暗い急坂山道を登っていきます。

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登り始めてすぐ右手斜面上に「堂峰番所跡」の説明板が現れます。

説明板によれば、

堂峰番所は横川にある碓氷関所の出先機関で、裏番所とも呼ばれ、

碓氷関所を通らずに山中を抜ける、関所破りをする旅人を取り締まるために

設けられました。

「元和2年(1616年)に開設され、明治2年(1869年)まで使用されました。

堂峰の見晴らしのよい場所の石垣の上に番所を構え、中山道を挟んで西側に

定附同心の住宅が2軒置かれていて、門のの土台石が今も残されています」

(説明板の右側の石のようです)

昔は周辺の山はスギ林ではなかったんでしょうね。

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どうしてこんな山中に有るのでしょうか?「念仏百万遍供養塔」を過ぎ、

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見透しの無いV字型の薄暗い坂道急登が続きます。

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 我慢の登りを続けるうちに山の中腹に回り込み、広葉樹林になると木漏れ日の

山道になって、明るさが戻ってきます。

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岩屑だらけの山道を、足元を注意しながら歩きます。

だれかが置いたんだね、石灯籠型のケルン、右崖注意ですね。

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さらに急登は続きます。朽ち果てた道案内かな?

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急登の突き当りを左へ曲がったところが「壁曲」といい、

(数人のグループが急登を登ってきます)

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左が絶壁の「柱状節理」の説明板が立つ岩場に着きます。

柱状節理とは火成岩(溶岩)が冷却・固結する時に収縮して四角または六角の規則的な柱状に割れた岩盤のことで、それがこの絶壁に露出しています。

山道の角の有る岩屑はこの破片なんです。

f:id:hansui:20171104135014j:plain柱状節理のすぐ先には、馬頭観音や大日尊、南無阿弥陀仏碑などの石塔が

並んでいます。

前に坂本宿を通った時、上木戸「芭蕉句碑」がありましたが、

はかつてはこの場所にあったものなのだそうです。

f:id:hansui:20171104135756j:plainこの辺りのすごい傾斜地を通る坂は「刎石(はねいし)坂」と呼ばれ、坂本宿から

見えた刎石山の頂上に向かう坂です。

角の有る岩屑だらけの山道を、昔の人は草鞋履きで行き来したんですね。

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 その先左手に「上り地蔵 下り地蔵」の案内板だけが立っていて、

肝心の地蔵はどこかな?? 確認できません。

平らな石に線刻の地蔵像が刻まれたもので、1体が上り方向を向いていて、

もう1体が下り方向を向いているので「上り地蔵 下り地蔵」と呼ばれているとか。

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刎石坂を登りきって右へ曲がると、「覗き」と呼ばれる

展望台のような場所に出ます

ここは碓氷峠を歩いた皆さんが、必ず話題にする坂本宿がよく見える場所です。

坂本宿の街並みが一直線に整然と並んでいるのがよく分かります。

この景色は江戸時代も同じだったようで、小林一茶もこの絶景を見て次のような

一句をしたためています。

「坂本や 袂の下の 夕ひばり」 小林一茶

坂本宿の標高は約450メートル。刎石山の山頂の標高が810メートル。

この「覗き」は刎石山の山頂のすぐ近くですので、ここまで約350メートルの標高差を

一気に登ってきたわけです。

きつかったはずですね。

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同年代の感じの御夫婦が、眺めています。

このあとすぐに追い越してゆかれましたね。

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ここから先は緩やかな勾配に変わり、木漏れ日の中の快適な道が続きます。

周りの木々のい色合が変化し、モミジ、カエデの紅葉と、陽の光を受けて

黄金色に輝くカラマツなど、 赤や黄色が織りなす紅葉を楽しみながら歩きます。

まもなく馬頭観音があります。

馬頭観音の石碑があると言うことは、この狭くて急勾配が続く碓氷峠越えの道を

荷を背負った馬も越えていたということです。

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尾根道へ出てきたようで、先で再び杉木立の中へ入ります。

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その先左手に「風穴」という変わった穴があります。

溶岩の裂け目に手をかざすと、ほんのり暖かい湿った風が微かに感じられます。

苔には水滴の水玉が着いてます。風の入り口は?まさか噴気孔??

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しばらく木立の中を上ると、右側に「弘法の井戸」が見えてきました。

その昔、刎石山の山頂付近の茶屋が水不足で困っていた時、通りがかった

弘法大師空海が「ここに井戸を掘ればよい」と教えたのだそうです。

今でも水が出ているのだそうで水場だそうですが、屋根がつぶれてしまってます。

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 井戸からすぐ上のところで、道が平らになっています。

ここが弘法の井戸の水を使い、小池小左衛門の茶屋本陣をはじめ4軒の

茶屋があり、力餅やわらび餅等を売っていた「刎石茶屋跡」です。

峠行き来の大名や旅人が一休みした茶屋だったでしょうが、

現在は僅かに石垣や平場が残されているのみで杉木が林立し、

面影はうかがえません。 

弘法大師が教えた水を使ってた、ということは遠い昔から茶屋は有ったのだ!!

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茶屋跡の少し先へ行くと「碓氷坂関所跡」の説明板が建てられています。

説明板によると、

平安時代の昌泰2年(西暦899年)に碓氷坂の関所を設けた場所」と記されており、

1200年以上も昔からこの坂が、大和朝廷が置かれた近畿地方と関東地方を結ぶ

交通の要衝であったと言われます。

古い文献には、天慶3年(940年)に関所は廃せられたとあるそうです。

跡にはなぜか新しそうな東屋が建てられていて、道標には6.4kとありました。

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尾根道に出たようで、これまでの登り坂とは一変し、アップダウンの少ない

なだらかな道になりました。

このあたりから植生も変わり、ブナと思われる木々や落葉広葉樹の林となり、

彩られた街道を進んでいきます。

(峠越え紅葉はデジブックアルバムへ)

f:id:hansui:20171104150106j:plainしばらく緩やかな道を進むと急に道が狭くなり、両側が切り落とした深い谷に

なっている、「堀り切り跡」と呼ばれている尾根道になり、案内板が立ってます。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻め時、北陸・信州軍の進軍を防ぐため、

松井田城主大道寺政繁が、元々狭かった尾根道をさらに削って狭くし、

北陸・信州軍の進軍をここで食い止めようとしたものだそうです。

以外に短い区間だけれど一人ずつしか通れないですね。f:id:hansui:20171104151636j:plain掘りきりを過ぎ紅葉の明るい尾根道を進みます。f:id:hansui:20171104151842j:plainしばらく明るい尾根の掘割状の道を行き南に回り込んだ途端に、

道の左側が絶壁となり、ここもちょっと危険な場所です。 

f:id:hansui:20171104152030j:plain

昔、この付近は道に逃げ場がなく、山賊が頻繁に出たところと言われてるようです。

この険しい場所を抜けると、絶壁の途中の岩の上に寛政3年(1791年)に建立された

「南向馬頭観音」が立ってます。

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その先で尾根の北側に出たところに、文化15年(1808年)に建てられた

「北向馬頭観音」が在ります。

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山の稜線(尾根線)を通ってはいるのが、「南向馬頭観音」は進行方向左側が、

「北向馬頭観音」は進行方向右側が険しい崖斜面になっていて、

人馬ともに危険な場所であり、安全を見守るために祀られたものでしょうか。

しばらく笹路を歩み、

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10分ほど歩くと「一里塚跡」の説明板があります。

江戸・日本橋から数えて36里目の一里塚なのですが、どれが一里塚なのかは

よく分かりません。

案内板に「座頭ころがしの坂を下ったところに、慶長以前の旧道(東山道)がある。

ここから昔は登っていった。

その途中に小山を切り開き『一里塚』がつくられている」と説明されています。

この付近から東山道中山道は少し違うルートを辿っていたようです。

(一説にはこ看板の裏側の左尾根上に旧道(東山道)らしき跡があり、

 一里塚らしい小山も見られるとか。)

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 一里塚跡から少し行くと「座頭ころがし」の急な坂に差し掛かります。

急傾斜の坂道となり、路面には岩や小石がゴロゴロしています。

街道書では、赤土となり、おまけに常に湿っているので滑りやすい難所で、

目が不自由となれば、この滑りやすい坂道はかなり難儀しただろう、とのことから

「座頭ころがし」と呼ばれた、とありました。f:id:hansui:20171104160846j:plain

今日何人目になるかな? 登り下り多く山道を楽しむ方々に会いましたね。

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急坂を登りきると、この先はしばらくゆるやかな坂道が続きます。 

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尾根道になりカラマツが現れ、黄葉が綺麗になってきました。

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f:id:hansui:20171104161924j:plain明治8年(1875年)の明治天皇北陸巡幸の際に設けられた迂回路が左から上がってきて、ここで合流します。

御巡幸道はここから国道18号線の碓氷橋へ出るルートになっており、この場所は

中山道と追分の形になっていました。

現在、明治天皇御巡幸道は途中の崖崩れ等によって通行不能になってるそうです。

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謎の標識

f:id:hansui:20171104162248j:plainすぐ先のちょっと広くなった「栗が原」と呼ばれる場所には、

巡行に先立ち、明治8年(1875年)群馬県で最初の「見回り方屯所」が設置され、

この「見回り方屯所」が交番の始まりであるといわれているそうです。

時刻ははやお昼で、相変わらずの亀足歩き。

明るい開けたところなので、倒木に腰かけていつもの機能食品で昼食兼一休み。 

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栗が原のすぐ先は進行方向の左側が谷で、急勾配の斜面になっていて、

ちょっと危険な道が続きます。

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紅葉を楽しむ、外人グループ(コンニチワ、の挨拶でしたね)

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路面幅の底深い掘割状の、狭いV字形の道が続きます。

安政遠足への練習かな?、何人目かのトレイルランナーが駆け下りてゆきました。

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なだらかな鞍部のような明るい所へ出ました。素晴らしい赤黄葉です。

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しばらく歩くと所々で倒木に遮られる、杉林の中を通る狭い道に変わります。

このあたりは「入道くぼ」と呼ばれています。

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ここは「入道くぼ」と説明板に在りますが、意味はを読んでもよく分かりません。

手前の深い切通し風の道のことかな?

説明板の後ろ上に「入道くぼ線刻馬頭観音」があります。

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 「入道くぼ」はこの先の山中茶屋入口に当たり、道は唐松並木となって

車が通れるほどの広い道になり、右手斜面も石状のもので補強されてます。

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左側にはかなりしっかりしたコンクリート製の擁壁が造られています。

人が住んでいた形跡のようですが、何の目的で造られたものなの?? f:id:hansui:20171104170946j:plain

またランナーが走り抜けてゆきました。

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コンクリートの擁壁を通り過ぎると「山中茶屋跡」の説明板があります。

資料によれば、

山中茶屋は碓氷峠ルートのちょうど中心あたりにあった茶屋で、

寛文2年(1662年)の記録によると、この場所には13軒の立場茶屋があり、

茶屋本陣や寺もあり、その茶屋本陣には「上段の間」が2ヶ所もあったという。

こんな山の上の場所ですが、それなりの数の人がここで暮らし、明治期には

小学校もあったそうです。

明治11年(1878年)の明治天皇御巡幸の際には、児童が25人いたので25円の下附が

あったそうです。

倒木も多く今は廃墟と化してますが、集落跡には石垣や墓、コンクリート製の

下水溝等が残骸のように残された廃墟となってます。

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右手の小屋が小学校跡のようです。

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茶屋跡を過ぎ尾根道を行くと、

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いったん下った先にある登り坂が「山中坂」。

案内板によれば

「空腹では登るのは困難という急坂で、旅人達は先ほどの山中茶屋でちゃんと飯を

喰ってから登ったことから「飯喰い坂」と呼ばれ、中茶屋の集落はこの坂が

あったから繁盛していた」

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実感としては飯を食うほどでは??の、少し急になった坂を上ると、

廃屋・廃棄されたようなバスが見えてきます。

霞んだ看板文字からこの周辺は分譲地(別荘?)だった様子です。

バスはその会社の物だったようで送迎ようだったのかな?。

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ここで急に上の方から、何かが勢いよく駆け下る音が聞こえてきました。

かなりのスピードで下って来たマウンテンバイクでした。

カーブの急坂で前を行くカミさんを直前に気づき、一瞬曲がらずにまっすぐバスの

置かれてる方向へ乗り込むようにして止り、慌てて後続するもう一台に

曲がらないよう指示しました。

あのまま曲がってきたら、かなり危険だった感じで、

二人は何度も詫びを言ってましたが、カミさんも足が竦んだと言ってましたね。

最近はこのような登山やハイキング道で、MTBの走り抜けに多く出会いますが、

衝突危険に直面したのは初めてです。

 

そんなショッキングもありましたが、大事が無くって良かったねで少し急坂を

上ると「一つ家跡」説明板が立ってます。

「ここに老婆が居て旅人を苦しめた」とだけ書かれてますが?

江戸時代にこの辺りに、老婆が商う一軒の茶屋が有ったのでしょうかね。

どんな意地悪をしたのでしょう。f:id:hansui:20171104172300j:plain一つ家跡からしばらく尾根下のスギ林道を行くと、明かるい広場に出ます。

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 「陣馬が原」と呼ばれる古戦場跡に到着します。

古くは、太平記に新田方と足利方の合戦がこの場所で行われたと記されおり、

また戦国時代になると、武田方と上杉方の合戦が行われた場所と言われます。

古戦場か、狭いけどな~。

また、このあたりは子持山山頂の標高(1,107m)の頂上付近になるようです。

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陣馬が原で道は「追分」になっていて、道は二手に分かれます。

右は皇女和宮降嫁時に拓かれた和宮道で、比較的広く安全な道になってる

そうです。

中山道は左の道に入って行きます。

安政遠足は和宮道を通って熊野神社を目指すのだそうで、

ここから先の区間だけが、旧中山道とは違ったコースになっているのだそうです。

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尾根沿いの細い道を唐松黄葉を楽しみながらしばらく進みます。

ちゃんと「中山道」の案内表示も出ています。

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紅葉、黄葉に彩られた明るき道、天気晴朗のうえ風も無し。

旅を忘れてハイキング。

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まもなくチョロチョロと流れる小川が道を横切っているところに出ますが、

ここが「化粧水跡」といわれる場所です。

峠を登る人々が一息入れ、水に映った己の姿を整えたと言われる水場ですが、

倒木や雑草の繁りに埋もれ面影も無し。

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倒木の多い荒れた道のその先谷沿いの崖に、人馬の労をねぎらう休憩所だった

「人馬施行所跡」案内板が立っています。

案内板によると「人馬施行所」は、

文政11年(1828年)、江戸呉服橋の与兵衛という商人が、安中藩から

間口17間,奥行き20間の土地を借りて、この笹沢の清流が流れるほとりに

人馬が休める休憩所を造ったところなのだそうです。

“施行”という文字からすると、主として旅費の乏しい旅人のための茶屋だったようで

いまでいう「ボランティア運営」のようですね。

おもてなしとは違う、持てる者は救いを施せの優しさかな。

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人馬施行所跡の左側の下に川があり、細いですが結構な渓流です。

ここは橋がなく、飛び石伝いで渡りますが、雨の時にここを渡れるのか、ですね。

足場も悪く飛び越えるには難しそう。

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沢を渡ると、細い急勾配の道となりジグザグに登っていきます。

ここが「長坂」と呼ばれる急斜面の坂です。

和宮道」はこの急坂を避けるために設けられたといわれます。

坂本からの登り口も急坂でしたが、この坂もかなりのキツさです。

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きつい登りが続きますが、木々の美しい眺めにいやされながら、

一歩一歩足を進めます。

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熊笹が生い茂る区間を過ぎても、旧中山道は急な登り坂が続き、汗ばんできます。

日が西へだいぶ傾いて来たようです。

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急登は30分ほど続きやっと平坦なところへ抜けました。

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一休みして 呼吸を整え、その先はこの長坂の急斜面の坂を避けて、大きく

迂回してきた和宮道との合流点(追分)に到着します。

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左から来た和宮道と合流した場所に、明治維新で廃棄された神宮寺の

「仁王門跡碑」や小さな祠などの「石塔群」が散在しています。

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仁王門は元々は熊野神社の神宮寺の入口にあったもので、明治元年(1868年)に

神仏判然令により神宮寺は廃寺となり、その時に仁王門も廃棄されてしまいました。

仁王様自体は今も熊野神社の神楽殿に保存されているそうです。

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和宮道との合流点の付近には「思婦石」が建っています。

別名を「日本武尊をしのぶ歌碑」とも言われており、群馬郡室田の国学者・関橋守

作で安政4年(1857年)に建立された「日本武尊」の故事を詠った歌碑です。

 「ありし代に かえりみしてふ碓氷山 今も恋しき 吾妻路の空」

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熊野神社まではもう一息です。

あれ、「熊出没注意!」の立て看板だ、そういえば、注意看板は下には

なかったのでは?

(クマよけは、わたしはベル型でカミさんは風鈴型をつけてましたよ)。

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道標に中山道霧積温泉の文字が有りました。

西條八十詩集』の麦わら帽子の詩、

「母さん、僕のあの帽子どうしたでしょうね」

ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ

霧積温泉は、森村誠一の長編推理小説人間の証明」に出てくる舞台ですね。

 

最後の坂道を上ります。 

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PM2:40過ぎですが、途中、私たちを追い越して登っていったご夫婦が、

今度は坂道を下って行きました。
歩きなれてるようで、かなりの速さです。

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PM2:45、中山道碓氷峠の頂上に到着しました。

登山口から登り始めて約5時間45分。

亀足歩きでも一歩一歩上った、中山道最大の難所と呼ばれるに相応しい碓氷峠

一度はあきらめかけた峠越えです、いや~嬉しかったですね。

群馬県側速玉男命を祀る新宮「熊野神社」へお礼参り。

すでに碓氷峠頂上から西への街道は進んでますが、これで正式に関東平野

別れを告げ、碓氷峠を越えて長野県への継ぎたしができたことになります。

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中山道の旅も一本につなげることが出来ました。

まだまだこれから軽井沢駅までの6kmほどの歩きが続きます。

名物「力餅」で疲労回復元気を貰い、「碓氷峠遊覧歩道」で下ります。

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木立越に浅間山

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PM5:00、軽井沢駅駐車場

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満月のようなまんまる月に見送られ家路へ。

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 継ぎたし旅は終わりました。

 

峠紅葉、デジブックアルバム

www.digibook.net

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第18回)  長久保宿~和田宿 後編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。

 

10月26日(木)晴天の予報に早朝家を立ち、長久保宿から歩き始めました。

後編です。

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*振り返り振り返り浅間山を見ながら緩やかな坂を上り、Y字路を左に進むと 

「是より和田宿」と刻字した大きな石碑が建っている。

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和田宿は江戸から28番目の、国指定史跡・宿場町です。

現在の長野県小県郡長和町和田の中心部一帯に位置し、

日本橋から、49里25町 195.2km

 

【和田宿・概要】資料より

*和田宿(長野県長和町)は江戸時代初期の慶長7年(1602年)に

中山道(享保元年:1716年以前は中仙道)が設定された事に伴い

慶長8年(1603年)頃に開設された、江戸板橋宿から28番目の宿場町で、

和田峠麓に位置する下諏訪宿(長野県下諏訪町)までの道筋は

慶長19年(1614年)頃に完成されたと推定されています。

宿場町として成立する以前は、和田城の城下町として中町・下町が既に町割りされ

ていましたが、改めて上町が町割りされ、さらに周辺の雨原、細尾、鍛冶足、

久保などに集落から人家を集積し、江戸時代中期の正徳3年(1713)には船場

新田を宿場町に組み入れています。

江戸時代後期の天保14年(1843年)「中山道宿村大概帳」には、

和田宿の長さは7町58間(約870m)、人口522人、家屋数126軒、

本陣1軒、問屋2軒、旅籠28軒(大規模12軒、中規模4軒、小規模12軒)で

構成されていました。

和田宿と下諏訪宿との距離は、中山道の中の宿場町間としては最長距離で、

難所として知られた和田峠を控えていた事から、伝馬役、歩行役の負担が大きく、

江戸時代後期の天保3年(1832年)には、馬は延7744匹、

人足は延17759人に上りました。

現在も和田宿周辺には中山道の道筋や町並み、

伝統的建造物(脇本陣、下の問屋、なが井、よろずや)、

交通施設(東餅屋茶屋跡、和田宿本陣、唐沢一里塚・永代人馬施行所)などが

残されている事から国指定史跡に指定されています* 

 

 

難所であった和田峠(1600m)の入口にあり,標高820メートル余りの

静かな山里で、参勤交代で通行する大名は34家で、

下諏訪宿まで5里18町(約23km)と距離があったため,荷駄を運ぶための

伝馬役が、最盛期には70軒ほどあった。

和田宿は東口から原、新田、橋場、下町、中町、上町に区分けされていました。

 

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すすんですぐ右手に道祖神があり、その先は学校下のバス停と奥にモダンな小学校。

この付近は新田地区。

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和田小学校を過ぎて中学校手前に和田神社の鳥居が立ってます。

社殿は500mほど奥に鎮座しているそうでが立ち寄りはしませんでした。

(帰宅してから判ったことですが、和田中学はこの春に閉校になったようです。

 どうりでバス乗っていた中学生らしい生徒は、長久保まで乗っていたはずです)

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街道らしい右に左の曲がる道筋を行きます。

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和田の原バス停を過ぎて、右に曲がりきったところに和田城主大井信定が

城の鬼門除けに建立したといわれる、八幡神社があります。

神社の手前には道標と国史跡の指定碑がありました。

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八幡神社 、祭神は仁徳天皇

旧和田城の鬼門の方角に建立され、後に和田宿の守護神となった。

社殿は拝殿と、本殿を収めた覆屋とを併合した一間社流造。

棟札には享保6年(1721年)建立とある.

拝殿と覆屋を合併した建築は大変珍しそうで、

資料には、入母屋造平入、正面千鳥破風、桁行3間、梁間1軒。
本殿は、白木造の一間社流造の間口1.7m、奥行き1.8mの大きさで、

蟇又に巴紋が入っており、妻の大瓶束が軍配団扇形となっている、とある。

(格子越に覆屋が見えるだけ)

(一間社流造・桁行(正面)の柱間が1間(柱が2本)であれば一間社流造)

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街道書を見て、「かやぶき屋根とあるけど、この神社も修復したようね」

とカミさんが言う通り最近葺き直しをしたようで、先の若宮八幡神社の覆屋も

茅葺ではなかったですね。(トタン屋根に見えたが?)

時代の流れ、維持管理を思うとやむを得ないと思います。

でも、茅葺やねの社殿、見たかったな~・・が本音。

 

 御神木、欅(ケヤキ)樹齢推定350年

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神社を後に新田地域を歩みます。

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和田宿は文久元年(1861年)の大火で殆ど焼失したが、半年後の和宮降嫁に備え、

幕府の威信をかけて短期に復旧したといわれる。

大政奉還された僅か7年前なんですね。

あれ、倒れてるが石仏の様だが? ただの石かな?

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民家の脇に湧水の水場と、笹の中に祝言道祖神(平成3年に建てた)が覗いてます。

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すぐ先が菩薩寺への参道です。

菩薩寺の開山は大変古く、平安時代・安和2年(969年)といわれ、

本尊は愛染明王

本堂は武田信玄との兵火により焼失し、江戸時代に再建され、

平成14年完全修復工事がされたいる。

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境内前の石橋下は散策道となっていたので、その道を通って街道へ戻ることに。

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しばらく曲がりくねった裏道を下って行くと川沿い道に出ます。

川に沿って少し下ると街道を及川橋で渡ると和田宿中心、下町・仲町へと入ります。

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和田宿は先述の通り、文久元年(1861年)の大火で本陣、脇本陣、旅籠など

109戸が全焼しています。

しかし数か月後に控えた皇女和宮の宿泊地であったため、幕府の援助を得て

全国から大工を集め、昼夜兼行の突貫工事で、

なんと!なんと!!たった4カ月で全宿場町を復興したそうです。

ちなみに、延べ8万人の皇女和宮一行は、和田宿を4日間かけて通過した!!!、

橋を渡った川沿いすぐの所が「かわち屋・現、歴史の道資料館(大火後再建)」です。

ここは旅籠で、切妻平入、出桁造り出格子の堅牢な造りの二階建で、上客向けの

旅籠だったそうで、江戸末期の建築様式が残されており、

修復が行われ「歴史の道資料館」として公開されてます。

(拝観はそのほか、和田宿本陣、大黒屋、黒曜石石器資料館など

  5か所の共通券で300円です)

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上客用の別門

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入口土間、庭、二階格子から見下ろす街道

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裏手に黒曜石石器資料館がありちょと立ち寄り。

和田峠周辺は黒曜石の産地で,旧石器時代の人々はこれを加工して道具として

使用していた。この資料館には男女倉遺跡から出土した石器を中心に展示されている。

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両館を係りの方の案内説明を受けながら、ゆっくり拝見、後にします。

「たかき」の屋号で旅籠を営んでいた。

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下の問屋跡・山木屋

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山木屋の隣は旧旅籠、後穀物商・大黒屋。

先ほどの資料館で説明を受けましたが、建物が街道より少し高くなってたり、

奥に離れてるのは、明治以降、道路改修工事によって道路を低くしたり、

拡張したためだそうです。

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 重厚な門構え、土蔵建築の江戸情緒たっぷり、「穀屋」

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明和2年(1765年)以降名主を務めた役宅跡 羽田家

文久の大火後に建てられた、平入出桁の門付旅籠型の代表的遺構。

かあちゃんの家」として、地元料理の店として営業されてましたが、

2015年より蕎麦懐石の店「蕎麦や徳田」として営業中。

(朝はカップ蕎麦、お昼新蕎麦を頂きました)

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羽田家は現長和町一帯の一族名士でしょうか。

さきの若宮八幡神社に、羽田家先祖の墓がありましたね。

(町長も羽田姓だった)

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カミさんは十割蕎麦の田舎蕎麦、私は長和産 信濃霧山十割ダッタンそば(手前)。

(ダッタンそばとは、もともと中国北部に住む民族、韃靼人(タタール人)たちが

栽培していた苦蕎麦なんだそうで、血液をサラサラにするといわれるルチンを

大量に含んでいるようです。ステント留置の今のわしにはぴったりの蕎麦ですね) 

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「蕎麦や徳田」の脇道を進むと曹洞宗・ 信定寺の参門に突き当たります。

信定寺は天文22年(1553年)に、和田城主大井信定の菩提を弔う為に

建立された。

丁度この信定寺の裏山が和田城跡で、江戸時代には京都二条殿の庇護を受け、

日光東照宮参拝の例幣使一行や、諸大名も和田宿に立ち寄った際には

信定寺に参拝したといわれてます。

(若宮八幡神社境内の大井定信の墓は、当寺の6世来安察伝和尚が建立)

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本堂の本尊として安置されている「釈迦如来」は鎌倉時代末ころの作で、

光背台座は江戸時代といわれる。

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街道に戻り、道の向かい角に立派な門構は代々長井家が勤めた、和田宿本陣跡。

和田本陣冠木門   

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和田本陣屋敷門

(図をもとに再現された由)

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解説板によると、

 

当時の本陣は大名が泊まる「座敷棟」と、本陣の所有者が寝泊まりしていた

生活棟のいわゆる「居室棟」に分かれていたが、現存しているのは居室棟の方で、

皇女和宮が宿泊したという「上段の間」などがあった座敷棟や座敷門は

移転(売却)され失われてしまった。

その後、昭和59年までは和田村役場として使われいた事もあった。
役場移転で解体の危機にあったが、昭和61年に「居室棟」と一部残されていた

座敷部分を解体修理復元され、本陣跡として一般公開されている。

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昌葺きに石置きの屋根。

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係りの方に案内していただきながら見学させていただきました。

 

旅籠屋を営み「年寄りを勤めた石合家。

典型的な旅籠屋の外観を残されている。

先日通った、長久保宿本陣と同名の家であるので、同族であろうか

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上の問屋を勤めた、米屋鐵五郎、現「和田宿休憩所」

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その隣は、和田宿で唯一営業していた「本亭旅館」、跡になるかな。

昔は名主だった長井氏の屋敷を改築した建物といわれ、中山道を旅する人に

大変人気のあった宿だったが、2012年に営業を停止。

これにより和田宿での宿泊は不可となってしまった。

(少し荒廃した感じでしたね)

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向かいは今朝バスに乗った、上和田バス停でその左手が、

和田宿には翠川氏と羽田氏の2軒の脇本陣があったようで、

その脇本陣の1軒、翠川(みどりかわ)家脇本陣跡。

大火後再建され、現在残っているのは公開はしていないが、御殿部分で、

上段の間、二の間、脇上段など当時の部屋がそのまま残こされている由。

(朝写した写真)

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宿場の中心、下町・中町から上町に足を進めると火返しの卯建が備え付けられた、

江戸期に質屋と両替商を営んでいた「よろず屋」が建っていますます。

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和田宿もそろそろ京方の口が近づいて来たようです。

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不動明王が安置されたお堂を併設の上町公民館を過ぎると・・

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上町中バス停前に高札場跡があります。

跡地に立っている案内板によると,

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今は平らなところに立ってます。

 

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高札場跡の先で街道は曲がり、桝形でこのあたりで和田宿は通過したようです。

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和田宿を抜けると街道は傾斜を増し、和田峠へと向かいます。

広重画・和田宿は和田峠ですね。

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田上町バス停の向に馬頭観音

 

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和田宿の外れ上町標識、そして振り向けば浅間山

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さらに進むと道祖神に真っ赤に実った、ヒメリンゴ浅間山

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みちはくねくねとアップダウンを繰り返しながらも少しずつ上って行きます。

民家の土壁蔵脇に双体道祖神

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鍛冶足バス停を過ぎ、和田鍛治足交差点で国道142号線を横断、斜め左の道筋に

入ります。

交差点に日本橋から五十里目・鍛治足の一里塚跡があります。

(単純計算で日本橋から200km!ですが、実質的には200kはもう少し先か??)

傍に道標「左松澤歩道 右諏訪街道」があります。

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一里塚跡を過ぎしばらくはゆるい坂道を上って行き、茅葺屋根の大出バス停を見て

すぐの二股を道標に従って左手へと入ります。

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大出川沿いの大出集落の細い道を上って行くと、先で国道142号に合流します。

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国道142に合流し、この先は唐沢集落まで民家が無いようです。

中山道は、昔は国道に合流するこの辺りからは、国道の左手を流れる川沿いの

道だったそうですが、現在は川に削られてほとんど残っていないそうです。

 写真、左上の右側坂道が歩いて来た道

国道山側に二基の石碑が建ってるが何の石碑か・・

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国道山側に導管が有って、左下の大出川に発電所があるようです。

振り返ると浅間山

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以前は酷かったのでしょうね・・ご利益があった様で付近は綺麗です。

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まさに国道(酷道)、ぽつんぽつんとドライブインが有るがだけの、

歩道のない道は、後ろから煽られないよう右側を車と対面で歩きます。

前方からの大型車には通過するまで足を踏ん張って立ち止まります。

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食事処「杉の屋」の街道沿いの杉木立の足元に、男女双体道祖神中山道石柱

があります。

街道書には

「ここに二軒の茶屋があり、うち一軒は「塩つけ宿」と呼ばれる中牛馬稼ぎの

 宿泊所であった。信州の特産品を上州(群馬)まで運び、帰路は貴重な塩を

 持ち帰った」とあります。

また別の資料には、「昔,幕府の用材の木曽檜を牛に載せて江戸に運び,

 この牛を泊める宿」があったとありました。

牛宿があったようですが、見渡してもわかりませんでしたね。

峠への道もこの辺で標高は910mくらいだそうです。

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しばらく先へすすむとやっと左側に歩道らしきものが見てきました。

やれやれ一安心です。

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「あら、かぼちゃよ!」の声にt近づくと、道路脇にごろごろ小さめの南瓜が

実ってます。

どうも側の農作物処分のところから発芽して育ってしまったようですね。

「このあいだ、庭に埋めた残廃からも芽が出て抜いたばかりだね」

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しばらく先で扉峠への道が分岐し、左側のライブイン和田峠の敷地に

茅葺屋根の扉峠バス停が現れます。

(扉峠への道は、朝の道路情報では降雪で通行止めとなっていました)

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中山道は国道142号線から、右手の側道に入って進み(写真左)、

和田川を渡って、再び国道142号線に合流(写真右)します。

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道路右手に大きな石灯籠のあり、向かい側の道路左手に

緩い上り坂の道が国道から分岐してるが見られます。

この道は古道で古中山道と呼ばれ、先には日本橋から51番目の唐沢の一里塚跡が
両塚とも残されてます。
天保2年(1831年)以前に街道の付け替えがあり山中に取り残されたと
言われてます。

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すぐ先で旧中山道は国道142号から右手に分かれて、坂を下って行き

峠手前、最後の唐沢集落を通って和田峠へと通じます。

今日の歩き旅はこの分岐点、唐沢下バス停にて足止めとしました。

(資料等から計算すると、この付近が日本橋かえら200kmになるようですが)

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ここから和田峠越えの入口、男女倉口まで約1.5kmです。

今日の峠情報では降雪との表示もありました。

先には中山道最難関の和田峠越えが待ってますが、峠越えは年を越して

来春の雪解けを待ってとなるかな~・・・

PM2:19のバスにて車を停めた道の駅・和田宿ステーションへ戻り、

帰路へ。

「まだ歩き残してる碓氷峠越をしなくしなくてはね」て

カミさんがノリノリです。

和田宿マンホール蓋も和田峠

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第18回、おわり。