歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅  第26回     和田峠越え 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

なんやかんやあったが何とか乗り越えて、

2017年10月26日に和田宿を過ぎ足を進め、和田峠口下の唐沢下バス停に
て足止めをし、中山道最難関の和田峠越えは、来春の雪解けを待っとして
中断してました。

そして和田峠は飛ばして、碓氷峠に挑戦。

なんとかつなげて中山道の旅も木曽路へと入り、5月5日には江戸から

38番目上松宿を通り、倉本集落へと達してます。

 

GWも過ぎ、医大での定期検査が終わり、「そろそろ残してる和田峠越えはいかが」

とカミさんの誘い。
6月に入ると一日掛かりの心臓、腎臓検査が2回あるため、

「今月中に越えてしまおうか」と 、いよいよ長丁場の和田峠越えへ挑戦することに。

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 (2017年10月26日、足止め)

 

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 和田峠は長野県のほぼ中央部に位置しする筑摩山地の峠で、今は日本の

代表的な山岳道路「ビーナスライン」が車山、霧ヶ峰、八島湿原、美ヶ原といった

観光地を結んでいますが、かって江戸時代には和田宿と下諏訪宿を結ぶ中山道

鞍部を越えて通じていた、中山道最大の難所と言われた峠です。

 日本橋を起点とする、,五街道の全ての峠の中で最高の、標高は約1600m。

登りは和田宿から標高差730m、下りは下諏訪へ約800m、

和田宿~下諏訪宿間は約22.8kmの私達にとっては、挑戦ともいえる長丁場です。前回峠下近くまで足を進めていたのですが、それでも今回歩くのは峠道約18km。

中山道では碓氷峠、笠取峠、和田峠塩尻峠、鳥居峠、馬籠峠、十三峠など
多くの峠を越えますが、和田峠は旅人にとっては最難所と言われてました。

現代の旅人にとっても、かっては有ったバス便もなくなり、この間を結ぶ交通手段

がなく、一旦歩きだしたら目指す下諏訪宿へたどり着くしかありません。

しかも和田宿手前の長久保宿を出てしまうと、下諏訪までの間には宿も無し。

(かっては和田宿に一軒ありましたが、最近廃業となってます)

いままではマイカー往復、日帰り歩きで旅を重ねてきましたが、

今回は、中山道旅の初めての前泊、家からの行き帰りは鉄道を利用して

1泊2日の旅程で挑戦です。

旅で挑戦と言うのも可笑しげですが、ここを越えなきゃ京へ繋がらない!

 計画は、行は上越新幹線利用、 バスで長久保宿へ入り宿泊。

よく日、バスにて前回足止めの地へ向かい峠越えをし、下諏訪からは

中央線特急列車で帰路へと、乗車券や宿の手配をばたばたと済ませ、

5月25日(金)、午前中のカミさんの仕事帰りを待って、北陸新幹線

長野県上田市へPM3:40着。

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上田駅からJR関東の路線バスに乗り、今夜の宿の有る長久保(宿)に

向かい、中山道沿いの角にある浜田屋旅館へPM5:35草鞋を脱ぎました。

浜田屋旅館は、江戸末期から長久保宿で旅籠を営んできた老舗の宿です。

建物は建て替えしリニューアルもされてますが、宿場の宿の風情を残してます。

正面が今宵の宿浜田屋旅館。

浜田屋の前、左手からきて曲がって右手へ通じてるのが中山道の道筋です。f:id:hansui:20180527135653j:plain

真新しい青畳の3階の和室へ通され、襖絵や床の間の掛け軸やニリンソウ

フタリシズカの生け花など、心休まるいい風情の部屋でしたね。

襖絵は屏風絵を切り貼りしたものだそうです。

お風呂もお湯はあふれんばかり、さっと汗を流し楽しみの乾杯へ。

食事も豪華と言うわけではありませんが、一品一品すべて作り立てのようで、

美味しい!揚げたての山菜や野菜の天ぷらが、これまた美味しい!

(うっかりで、天ぷらのフォット忘れ、残念)

ビールで旅ができることに乾杯!地酒もいただいて、カミさんも、

いい宿だわて喜んでいたので、この宿をえらんで、ああ、よかった!!

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5月26日(土)、昼用のお握りを受け取り、「お世話になりました」

「お気をつけて、いい旅になりますように」の見送りを受けて出発です。

長久保バス営業所7時38分発の、男女倉行長和町コミュニティーバスにて

和田峠方面へ向かいます。

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バスは懐かしい道筋を走り和田宿を過ぎて、AM8:09、国道142号の

前回足止めをした唐沢下バス停にて下車。

軽く準備体操をして、旅立ちツーショットを撮り、

AM8:15、いよいよ中山道最難関と言われた和田峠越えへ挑戦です。

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空は薄曇り日差しも弱く、風は強くもなく弱くもなく、和田の最高気温は28℃の

予報でしたが、高度の有る和田峠越えには最良の天気です。

ただ気懸りは午後には梅雨前線の南下で、山沿いは所によっては雷雨のところも

ありとの朝の予報で、状況をみて判断しようと下諏訪側のバス便やタクシー会社を

下しれべはしています。

国道を右に折れて旧唐沢村集落へ向かいます。

唐沢集落は立場跡で、かっては5軒の茶屋がありました。

 左手に羽田の表札を下げた大きな屋敷があり、その真向かいに「本陣」の札を掛けた

家のところが羽田家が務めた茶屋本陣の跡の様です。
(茶屋本陣とは大名や公家が休息したところ)

和田宿の脇本陣家にも羽田家がありましたが、和田宿を通った時の参考資料には、

羽田家のルーツは飛鳥時代にまで遡れる、古い歴史を持つ羽田一族の様です。
かって首相を務めた方もいましたね。

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途中で落とし物に気づいて、探しながら後戻り。

左手に巨大な葉、巨大な花、ホオオノキが咲いてます。

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15分ほど時間をロスして集落を抜け、国道に合し100mほど進むと、

左手に「中山道唐沢一里塚」の標柱が現れ、階段を上り山中へ入ると左右に塚が

残されてます。

日本橋から51番目(約200km)の一里塚です。
江戸初期に造られ、天保2年(1831年)以前の街道の付け替えにより、

廃道となった古中山道に残された、日本橋より51番目の一里塚。

現在の唐沢集落を通る道筋から外れ山中に取り残されために、国道改修の際ににも

取り壊されることなく、ほぼ原形をとどめて現存している。

 唐沢一里塚のある古中山道は、現在の国道を挟んで唐沢集落の逆側を通って

いたんですね。

私達は唐沢集落の立場茶屋跡を訪れるため、江戸時期の中山道を辿りましたので、

一里塚へは途中の立ち寄りです。

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ここで単独行の男性二人が、追い越してゆきました。

長久保、和田の間にある民宿へ泊り、和田宿まで送迎で来て旅立って来たそうです。

国道に戻り緩い坂を上って行くと、歴史の道「笠取峠16.3km東餅屋4.3km」道標

を見て、二ノ橋で依田川を渡ると右手に観音沢分教場跡碑が建ってます。

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さらにすすんで観音橋手前に、コミュニティーバスの折り返し地点・男女倉バス停。

左手に「新和田トンネル・信州長和町標高1100m」標識が現れます。

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すぐ先で国道142号は二手に分かれ、左手に進む国道は男女倉沢に沿って進み
新和田峠有料道路」を通り諏訪に抜け、右手への道は信号による片側交互通行と

なっている和田峠トンネルを抜け下諏訪に抜ける国道で、中山道は右手の国道へ

進みます。
(右手の道へは車で前に二度ほど通ったことがありました)

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国道を少し進むと「国史跡・歴史の道 中山道」碑や中山道解説板などがあり、

和田峠観音坂口」で、いよいよ長丁場・本格的な峠越えの道へ入って行きます。

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う~ん、この重たそうな体で長丁場耐えられるかな??!

AM9:20、峠越えへ踏み出します。

カエルの鳴き声のようなハルゼミの大合唱、これじゃ熊鈴も響かない!

熊注意の立て看板が結構多いんですが・・・

所々に中山道を示す「青い道しるべ」が立っている。

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登り始めて幅広の草の道を100mも進むと、すぐに雑木林の中に休み茶屋跡で

今は避難小屋が建ち、横手に三十三体観音が祀られてます。

 かつては山の中腹に熊野権現社前に祀られていたそうで、中山道の衰退とともに

荒廃し放置されていたものを、昭和48年(1973年)の調査によりこの地に

移したもの。

千手観音 13体,如意・輪観音4体,馬頭観音10体,など29体を安置している。

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おや、宿でも活けてあった「二人静」だね。

うん?三人、いや五人静まであるぞ(そんなのあるかな?)

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左手に和田川の渓流。和田川へ注ぐ沢水の流れる丸太の小橋を二つほど渡り、

観音坂と呼ばれる新緑の清々しい歩きやすい草道が、延々と1kmほど続きます。

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少し高度を上げると、右手の傾斜に赤い花がポツンポツンと咲いてます。

あら、クリンソウ!の声に近寄ってみると咲いてます咲いてます!

流れる小川に沿って、草道に沿って、クリンソウが咲いています。

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傾斜はきつくはないけれど、ず~と登りばかりの山道を花々に癒されながら

えっちらおっちら上がって行きます。

深山幽谷いい感じ!でもハルゼミの大合唱はますます大きく響き渡ります。

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山道はいつしか唐松林に変わり、和かな鮮やかな唐松の新緑の下を歩き、

男女倉口から40分ほどで、前方が開け一旦国道に出て広場になってます。

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国道の山側、右手に茅葺屋根の人馬施行所跡(国史跡)が復元されてます。

この人馬施行所を作った人物は、江戸の豪商・かせや与兵衛で、

調べた方の参考資料をお借りして、

「文政7年(1824)、江戸呉服町加勢屋の与兵衛は東海道の箱根と山中の二カ所に

人馬施行をおこ なった。4年後の文政11年(1828)には、与兵衛は80歳となり

隠居となっていたが、碓氷峠和田峠にも人馬施行を行いたいとの与兵衛の意志を

孫達が 叶えた。河内国の八尾村出身の与兵衛は関東と関西の間を往復するに際し、

峠で生死を彷徨う体験があったのでは」とありました。

中山道では幕府に金千両(現代換算で約1億円か)を預けその利子百両で、

碓氷峠とここ和田峠に施行所を建て、11~3月の冬季間に峠越えの旅人には

粥と焚火を、通年で牛馬には桶一杯の煮麦を与えたそうです。

 その後山抜けにより流出したが、嘉永5年(1852)に再建され、明治3年まで

続けられたといわれます。

そんな縁を語りながら、ひと時足休め。(AM10:05)

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「永代人馬施行所」の横奥に馬頭観世音。

左手には名水かな?水飲み場も有りました。

広場の一角には「ゴミ無し童地蔵」が建ってます。

長久保宿(長和町)を出て国道に合流したところにも建ってましたね。

ここはまだ長和町に範囲なんですね。

皆さん、ポイ捨てはダメですよ!!

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この地点で標高1254m、峠入口からもう標高差150m程登ってきましたね。

国道は急坂のカーブ道、バイクや車が呻りを上げて通過します。

すぐ右手に石段の上に石灯籠が建ち、明治22年(1889)護送中に逃走を図った

強盗犯と格闘し殉職した警察官を祀る「殉職警官の碑」がありました。

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おや、このヤマボウシは随分シャープな咲き方ね、

カミさんが指さすヤマボウシ

そうだね、スリムで薄緑で咲いている。

ヒマラヤヤマボウシ、ていうことあるかな??

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すぐ先で、国道が大きく右に曲がる第37カーブ標識辺りで、再び山道に入ります。

ミラーに撮影者をちょっと映り込ませて・・

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山道は和田川の渓流を左手に、長く長くその名も長坂で続き、丸太の小橋が

何か所かにかかってます。

右手に石灯籠が建ってますが、元は嘉永4年(1851年)建立の常夜燈が建って

いたそうでが、常夜燈は山抜けで流失してしまったそうです。

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左手に沢をみながら木橋を渡り、木漏れ日の山道を進むと、先ほどの巡査殉職の地に、

石碑が建ってます。

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さらに少し上ると、イチリンソウ(右)に出会いだします。

こっちは何の花?

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さらに小橋を渡り、朽ち果てた様相の避難小屋を見送ると、苔に覆われた石畳?

ごろ石を並べただけ?荒れた石畳道になってきました。

いつごろ敷かれた石なのかしら、箱根の石畳はかなり丸みが有ったわね?

てカミさんが呟いてます。

大きさも箱根より大きいね。

ここで標高は約1360mくらいだそうです。

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歩きずらい石畳、木橋を渡りしばらく足を運びます。

この花はなに?のカミさんの声の方を見ると、青い花の群生です。

あとで調べてみるとラショウモンカズラの様でした。

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避難小屋から200m程で、江戸から52番目の広原の一里塚(東餅屋一里塚)が

塚木は有りませんが、山中にポッコリと丸い塚を残しています。

AM11:10、標高は1400mくらいらしい。

(レンズに花粉のようなものが付着していたようです)

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一里塚のすぐ先は、明るい広場のようなところにズミの花(とおもいますが)が

満開で、道沿いには朽ちかけた炊事場などがあり、かってはキャンプ場だった

様子です。周辺の若緑が本当に綺麗です。

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先から道は整備した石畳風の石を敷いた道になり、二人の旅人が和田村へ向かって

降りて行きました。

下って来た旅人に出会うのは4人目ですが、みなさん下諏訪からではなく、

途中までの送迎を利用された方々でしたね。

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石道になってすぐ国道に合流し、近年に 廃業した「東餅屋ドライブイン」が

廃墟になって建ってます。

「昔、寄ったことがあるんだよ」とカミさんに教えますがあまり覚えていないみたい。

最初は十数年前にマイカーで長野・乗鞍、上高地へドラブしたときに、

諏訪方面から国道142号を登ってきて、自販機に立ち寄っていたんです。

二度目は車中泊を始めたころに、長久保宿近くの道の駅で車中泊し、車山、霧ヶ峰

八島湿原などのトレッキングをしたときに、この上のビーナスラインへの合流道と

して、通っていましたね。

 

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右手に建っている案内板によれば、

ここが旧東餅屋村で往時は茶屋が5軒あり、幕府の援助を得て設置され名物の

餅を商い、寛永頃より1軒につき1人扶持(1日米五合) を幕府から給されて

いたという。

 長丁場の和田峠越えで難渋する旅人の救助に当たったりの、人馬の休息所とも

なっていたそうです。

幕末には大名の休息のための茶屋本陣も置かれ、土屋氏が務めていた由。

明治維新後は交通機関が発達して中山道を歩いて旅する人が減り、5軒の茶屋は

すべて廃業してしまた。とあります。

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その後茶屋跡にはドライブイン東餅屋が復活して、名物だった力餅も売られていた

そうなのですが、近年残念ながら営業を止め今は自販機も停止しているので、

今旅人は喉を潤すこともかないません。

峠越えの途中に、旅人のための避難所や茶屋が設けられていたのが、

これらの茶屋の跡は「東餅屋「西餅屋」「接待」などという地名になって

残っているんだそうです。

別資料によれば、

「この東餅屋は武田耕雲斉率いる千余の水戸天狗党を迎え撃つ松本藩350余名が宿泊したところ。天狗党が望月宿に入ったとの報に接し、長久保宿まで進軍していた松本藩士は一旦、和田宿に戻る。和田宿に宿泊し、和田宿を焼き払い和田峠で迎撃をとの計画に和田宿は宿泊を遠慮願った。松本藩と共に水戸天狗党を迎え討つ諏訪高島藩もこの松本藩の策反対した、と。諏訪高島藩は和田宿を焼かれることにより宿泊地失った水戸天狗党が、和田峠越えを避け、大門街道から大門峠を進むことを恐れた、とか。その道筋をとれば、直接に諏訪高島城下町に進撃し城下を攻撃する恐れがあったから。

そうなれば、天狗党の通過を黙認、見過ごす、という基本方針が崩れるからである。
で、和田宿での宿泊を諦めた松本藩士は、結局、東餅屋に宿泊。東餅屋の茶屋3軒を焼き払って引き上げた。11月19日といった冬季故の作戦ではあろうが、対する水戸天狗党は和田宿に宿泊。本陣、脇本陣はじめ50戸に分宿し、和田宿の人は宿を焼き払おうとした松本藩士より、水戸天狗党に好意をもった、とか。大砲15門、砲弾、火薬などの人馬継立に協力し、天狗党もその謝礼を払った、とのことである」と記述されてます。

 

また和田峠では、旧石器時代の石器の材料とされた黒曜石が多く産出し,
キャンプ場から一里塚にかけての一帯にもの露頭が10カ所ほど確認され,
後期旧石器時代の遺跡が集中して発見されている遺跡もあるようです。
(和田宿に立ち寄った、黒曜石の資料館がありました)

東餅屋辺りは標高は約1,470メートル、山登りでいえば九合目になるかな。

標高1,600メートルの和田峠まではさらに、標高差130メートルの登りだ!

今はAM11:27、峠でお昼にするよ、さあがんばんべ~・・!

ヘアピンカーブで九十九折に上る国道を、串刺しするように中山道は登って行きます。

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この付近にて国道142号線の旧道は、 和田峠トンネルへ向う分かれてゆきます。

今は石碑が建っているだけの和田嶺神社碑をのところを曲がります。

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なんども横断したり石段を上ったりしてきましたが、案内表示がしっかりと

建ってるので、周囲を見渡して確認すれば迷うことはないですね。

このあたりから白樺湖と美ヶ原を結ぶ元は有料だった旧長野県営観光道路

ビーナスライン」が蛇行してがら中山道を寸断して通っています。

少し進むと上はビーナスラインが通っている「コールゲート」と呼ばれる造りの

少々大きな排水溝といった感じの小さなトンネルを抜けてゆきます。

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トンネル内を流れていた沢を渡り、しばらく山道を歩きます。 

この沢はまだ和田川への流れかな。

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この後、持参街道書ではビーナスラインを3か所横断すると記載されてますが、

人がほとんど通らない中山道は、横切るところに横断歩道などは有りません。

風光明媚な観光道路のビーナスラインは、カーブ道であまり見通しの良くない上、

スピードアップのクルマの交通量も多くあり、横断には注意が必要です。

車の爆音で判断しながら、それっと横断、次の山道へと入って行きます。

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4度目のビーナスライン横断をすると、草の茂る美しい峠へのアプローチと

なりました。

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前方が明るくなり、空が近くに寄って来た感じのカラマツ林、ズミも花咲く草道を

僅かな距離ですが、休み休み15分ほどかけて一歩一歩上ります。 

ここまでの道は、旧街道らしい道幅が続いてきましたね。

う~ん、難所かな・・・

正午、12時8分、ついに標高1,600メートル、中山道最高地点であると同時に

五街道最高地点でもある和田峠の古峠に到着しました。

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唐沢下でバスを降りてから、うん、亀足旅人には予定通りの約4時間。

頂上には「案内標識」「賽の河原地蔵」「御嶽遥拝所跡」碑、「御嶽山坐王権現像」、「本尊大日大聖不動明王像」、「馬頭観音」などが祀られた鞍部になりますね。

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この付近は、冬場には積雪が3メートル近くになり、木曽名所図会には

「西坂ケワシ東坂ヤスラカナリ三月ノ末マデ雪アリテ寒シ」と著されてるそうです。

峠に建つ案内表示によると、

「明治9年紅葉橋新道が開通し、峠の役目を終え、今は古峠の名を残してます」

と記載され、別資料によれば、

紅葉橋新道も、国道142号線和田峠トンネルの真上を経由するルートとして

現存しているようです。

(江戸時代の旧中山道とは最大300メートルほど離れて通じている様子)

さらに明治29年(1896年)には、峠の頂上の勾配を緩くするために、切通しを深く

掘り下げる峠の大改修が行われ、標高が1,531メートルにて開通してます。

江戸時代の旧中山道の峠は「古峠」、明治9年の峠は「旧峠」、明治29年の峠は

「新峠」と呼ばれているそうですが、峠の案内図を見てもきちんとした表記は

無かったですね。

和田峠の標高は、1600m、1531mなど表記がありますが、ここ古峠は

1600mと言うことになるのかな?)

「古峠」を通る江戸時代の中山道は、現在は国の史跡としての指定を受け、

一部は散策路として整備されています。

地図によると,ここは峠の南東の駒ヶ岳(標高1657m)と,反対側にある浅間嶽と

いう標高約1,645mのコルに挟まれた鞍部に当たるようです。

この和田峠も中央分水界にあり、峠の北側は千曲川を経て信濃川水系で、

日本海に注ぎ、峠の南側は諏訪湖を経る天竜川水系で水は太平洋に注ぎます。

薄曇りで日差しも弱く、吹く風が爽やかな峠の草原で、宿で用意していただいた

お握り弁当を広げ、至福のランチタイム。

到達した満足感が一層味を引き立て、うまいうまいで平らげて

果物はバナナでした。

霞んではいますが諏訪側には山裾に集落も眺められ、御嶽遙拝所の大きな

石塔越しに霞んでいるが遠くの山は、もしや木曽の御嶽山では??

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数人の方が諏訪側から和田側から上ってきて、みなさんお昼を摂られてました。

記念写真を撮って和田峠を後に、12時45分下諏訪に向かって下ります。

今の様子なら天気の崩れはまだなさそうです。

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旅は後編へ続きます。

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅  第25回     福島宿~上松宿~倉本駅 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

平成30年4月29日(昭和の日)12時10分

来たぞ~来れたわ~の感激「中山道中間地点」。
江戸からも京都からも六十七里三十八町(268km)。

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そして木曽福島宿へ到着して第24回を終えました。

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GW後半、

 「5日のお天気の崩れはなさそうよ、もったいないから歩き旅はいかが」

とハッパ?が掛かり、急遽旅立ち決定。

5日(子供の日)、あい変わらずの早朝マイカーで出立。

いつものようにみどり湖PAで塩ラーメンで朝食。

塩尻より国道19号を走り木曽福島入り。

駐車予定の福島駅への途中に迂回して、前回の旅で立ち寄りしなかった

家並みを見に。

明治末期頃から木曽谷の狭い土地を有効に使った、床を川に張り出して造られた

崖屋造りと云われる家です。

町の通り側では1階・2階建ての家が川側へ回ると3階・4階建てとなっている。

積み木を重ねたような多層にせり出しているところが迫力満点で、

独特の風景を醸し出している。

わ~すごいわね~・・・でも怖い・・てカミさん。

(せっかく行ったのに写した写真はピンボケ・・アップは拝借写真)

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寄り道しながら、AM7:35木曽福島駅駐車場着。

駐車の手続きやトイレを済ませ、少し風は冷たいが快晴の空の下での

AM8:00、25回目の夫婦歩き旅の旅立ち。

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旅の予定は中山道・江戸から37番・福島宿~38番・上松宿、2里14町9.4Km

そして39番・須原宿・3里9町12.8Kmへの中間、街道沿いの倉本駅前までの

約16kmです。

中山道木曽川左岸の段丘上を通っていたようですね。

駅前広場の右手、宿や食事処、観光センターなどの立つところは、建物の裏手は

きり落ちた崖でそこにコンクリートや鉄骨の土台を築いて建てられてます。

一部が表は2、3階建てですが、木曽川沿いは4.5階建てになっている建物も

みうけられます。

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写真、正面奥の方へ中山道は通じていて、すぐ下ったところに建つのは御嶽神社

中山道は左手の坂道へ登って行き、途中から細い側道をすすみ木曽町役場方行へ

向かいます。

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左の舗装道路を行っても役場へ出ますが、案内は右の側道になってます。

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 役場に突き当り、旧道は木曽町役場に沿って右に、そして左へと曲がっていく。

中山道は役場の敷地内を通っていたのかな?

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段丘上の草道を下り、合流の街道らしい細い道を左手に向かうと段丘の中腹の

塩淵集落です。

木々に阻まれ右手は見えませんが、かっては急斜面で下は木曽川の淵が

あったようですね。

塩淵地名の由来板が建ってます。

f:id:hansui:20180507062049j:plain左側のところに、江戸から70番目の塩渕一里塚跡を示す石碑と白い木柱、

中山道と記された標識が立ち、壁に木曽路十一宿の案内板がありました。

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庭に大きな藤棚、白藤があさのひかりに綺麗です。

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山の傾斜地中腹に石仏石塔群。

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この先、道は下りとなり塩淵交差点で、福島駅から直接下ってくる沿道に合流し、

すぐ先で県道461(旧国道)に合し、先に中部北陸自然歩道道標が建ち、

左手へ分岐しのての脇道坂へと道筋を変えていきます。

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徐々に高度があがり、旧国道、さらに右手はとうとうと流れる木曽川

堰堤ダムが眼下に見えてます。

資料によると、なんとずっと下流の「関西電力寝覚発電所」で使う水を取水するためのダムだそうです。

道の山斜面には、所々で群落を作って雑草のようにニリンソウが咲いてます。

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右下に並行する県道461号線、木曽川。左手山側の上の方には国道19号、

JR中央線が通っているんですね。

300m程坂を上りきると比較的広い道路に出て「中平立場跡」の案内板が

建っています。

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広めの車道を4.5分ほど行くと、左右への分岐になり、

左手の国道19号の陸橋下を抜けて行く道への、道標がありました。

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陸橋下を抜けを抜けた正面に、どっしりとした石積み造りの中央線の廃線トンネルが

現れます。

煤焼けの黒ずんだ石積みは蒸気機関車時代から、そして電化されていた時代の

架線柱も残っていますね。

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旧線は中平集落の山手側を通っていたようです。

(ちなみに新線は木曽福島を出てすぐに、長いトンネルでこの山腹を抜けてます)

本来の旧中山道は左手に山側へと続いていたそうですが、今は消滅のため

右手に陸橋下を回り込んで先の階段を上り、一旦国道19号へ合流します。

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国道19号を少しくだると右手(写真では左手)に冠門のようなものが建ってます。

先ほど消滅していた旧中参道はここへ通じて、国道を横断して右側の山の方面へ

続いていたのでしょうか??

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19号に合流して100mほど下ると、県道461が左手から登ってきます。

(振り返って、左、県道 右、国道)

木曽福島の街並みへは県道を行くの標識が立ってます。

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さらに300mほど下るって左手を見ると、山側を下ってくる道がありました。

道の入口に「中山道を歩く方はこの先通行できません。

   国道19号線沿いをお進みください」 との標識がありました。

あのトンネルがあった付近からの、消滅した旧中山道の京方面の道が、

ここに出てきていたんですね。(写真、振り返って)

f:id:hansui:20180507182134j:plainすぐ先が木曽川を渡って木曽の御嶽山へ向かう分岐、本橋交差点になります。

右手に橋を渡ってゆくと、あの木曽の御嶽山への道筋です。

三度ほど、この橋を御嶽山登りで渡ったことがありました。

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本橋交差点で左手へ渡ると、すぐ先で左折して中央線のガードを潜り

「神戸(ごうど)」というのどかな里山集落へ入って行くと・・・

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花園の里路へとなって、ゆっくり楽しみながら歩きます。

カミさんが、わ~綺麗!と声を上げたのは、ツツジ?アザレア?

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花園里の集落を抜けて杉林に入り右側の階段を上ったところが、村人や旅人が

はるかに御嶽山をお参りした「御嶽山遥拝所」

遥拝所は御嶽山の東西南北4ケ所に設けられていて、ここ神戸(ごうど)は南の

遥拝所で、鳥居は寛永9年(1631年)以前からあったといわれ、現在の石製の

鳥居は文政4年(1821年)に建てられたもののようです。

木曽路御嶽山を仰ぎ見ることができる場所は、ここと鳥居峠だけだそうですが、

鳥居峠では眺望できたが、ここでは木々が生い茂り今は見えなくなってしまった。

 

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少し先になると崖の中腹の道となり、崖下に中央線、その右手が国道19号、

さらに右手下には木曽川と展望が開けてきます。

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下には国道と木曽川の間に「道の駅・木曽福島」が見えてます。

足休めとトイレ休憩で寄りたいのですが直接下る道筋が判らず、街道書に記載されてる

少し先の国道合流地点まで行き、戻って立ち寄りすることに。

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少し進むと右手がますます開けて「あら、あの雪山は!!」とのカミさんの声に

すこし振り返ると、みえた~!!ど~んと「木曽の御嶽山」の雪山の姿!!

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しばし足をとめて眺めましたね・・

先の広くなった草原に「あらあら、蕨がいっぱいよ」カミさんの声。

ははは・・街道は山菜の宝庫でもありましたね。

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すこし下って央本線のガード下を潜り、国道19号線に合流。

車の途切れを見極めて、それ!と小走り横断して「道の駅」方向へと戻ります。

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 木曽川の対岸に新しそうな神社風の大きな建物が見えてます。

御嶽神社?いや、違うね~・・

御嶽信仰のを御嶽教として結成された、教団としての本宮のようです。

奈良県に里宮本宮もあるそうですが、詳しいことは割合。

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AM10:15、

道の駅は、さすがGW中、大変な賑わいです。
トイレを済ませ、建物脇の御嶽展望所のベンチでしばし足休め。

 私達にとっては、十数年前になりましたが、夫婦で初めて山小屋泊りを体験した

懐かしい山もありました。そのご紅葉時期や、山頂まで直登コースでなど

三度ほど登ったことがありました。

雪を残した泰然とした山容を眺めながら、しばし思い出山談義。

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(思い出写真・宿泊の五の池小屋へ下る)

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御嶽山は最近では、あの痛ましい大噴火ががありました。

被災された方々へ心で祈り、しばしの休憩を終えて旅へ戻ります。

さきほど中央線のガードのところで、再びそれ!と左手に渡ると、

名古屋・133kmの表示があり、その先で左手への分岐が見えてきます。

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分岐の道標とおり、坂道を上ると板敷野集落(旧沓掛集落)で数軒の家があり、

すぐに分岐で道標が有り右手へ進み、さらに分岐で右手は国道へ下って

しまいますが、街道は家屋の建っている左手へと進んでゆきます。

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 カーブを描いてゆるく登て行くと、すぐに中央線の線路沿いになって、

舗装道はすぐに線路とはなれて右手へ坂を下ってますが、

  「お~い、そっちじゃないよ~」

くだりかけたカミさんを呼び留め、進む街道は線路沿いの狭い草道。

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草道を下ると、車の停まってる先に木立を乗せた小高い塚のようなものが見え、

小さな祠が木曽義仲が祀った「沓掛馬頭観音堂」でした。

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案内板によれば、旧中山道は観音堂の前(左手)の線路側を通り南の旧観音坂を

下っており、現在のお堂はなんと江戸から71番目「沓掛の一里塚跡」の

南の塚跡の上に、鉄道工事の際に移設されたよすです。

木曽義仲の伝説)

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古道の観音坂は消滅で、新観音坂とでもいうのかな?舗装道路に戻って

道を下ると、木曽川の崖上を並行する旧国道に合流です。

 

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合流地点にも、取り壊された西側の「沓掛一里塚跡」の石碑と案内板がありました。

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道は木曽川側の切り立った崖上で、木々の隙間から木曽川の青い流れが垣間

見えてます。

旧国道は今は車の通行も少なく、川音、木々を揺らす穏やかな風音が
心地よく耳に届きます。
(持参案内図によれば、現国道19号は少し福島寄りで木曽川
  「かけはし大橋」渡り、木曽川右岸を通ってます)

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10分ほど行くと前方に赤いアーチ橋が見えてきました。

木曽八景のひとつ木曽の桟(きそのかけはし)があったところです。

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このっ付近は、木曽川の流れが削った深い断崖絶壁に、川に沿って木や藤蔓などで

作られた木の桟道が架けられ約100m程に渡って続き、中山道一の難所と

言われていたそうです。

(付近の住民の手でかけられ、渡り賃を徴収したともいわれてるようです)

断崖上にテラスのように架けられた桟(かけはし)は、旅人の松明(たいまつ)で

燃え落ちてしまったが、後に尾張藩が石垣積みにして築造し、現在は旧国道の下の

石積みにその一部を残して、街道の面影をとどめています。

先ほどの沓掛馬頭観音堂の謂れ、

木曽義仲が木曽の桟で対岸までの距離を目算して、人の言葉が理解できたという

 愛馬に「七三間とべ」と命令したが実際には74間あり、馬が谷底に落ちてしまい、

 その供養として金の観音堂を作り、堂を建てさせた」

 はこの付近の木曽川の物語なんでしょうね。 f:id:hansui:20180508160648j:plain

 

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赤い橋を渡った対岸には、桟温泉旅館が建っており、明治天皇聖蹟馬頭観音

松尾芭蕉が訪た「かけはしや 命をからむ 蔦かつら」の句碑や、正岡子規

種田山頭火の句碑も建っているそうです。

(対岸には渡っていません)

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桟を過ぎると左右が開け、ひたすら旧国道を歩いてゆきます。

木曽川花崗岩の岩々を賽の河原と擬して、賽の河原地蔵が祀られていました

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山並みもひくくなり、空が大きく広がってきました。

右手には木曽川が流れ、心地よい風を受けながら街道旅は上松へ続きます。

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街道旅は後編へ。

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅  第25回     福島宿~上松宿~倉本駅 後編

5月5日、AM11:20

 山並みもひくくなり、空が大きく広がってきました。
右手には木曽川が流れ、心地よい風を受けながら街道旅は上松へ続きます。

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後編を始めます。

この先で歩道帯が急に狭くなてしまいます。

今は木曽川沿いに、♭狭いながら~も~嬉しい歩道~♬、で、

一人通れるくらいにの幅を、ガードレールで確保してありますが、

国道19号が対岸に通じる前は両側に歩道が無く交通量も多く、よく旅人の記録に

「しばらく歩道がなくなり、危険を感じながら・・」と記されたり、

街道書によっては「危険を避けて、対岸の国道を行くことを薦める」と記してあり

ました。

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少し先左手に、見落としそうな小さな名札を付けた、新茶屋橋があります。

かっては厳しい崖を避けての高巻き道があって、蕨餅が名物の弥生茶屋があった、

と街道書に記されてます。

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しばらく右側を流れる木曽川を下に眺めながら、心地よい川風を受けて歩むと。

左手山沿いを上がる道があり、中山道の標識が立ってます。

ここも昔の高巻き道かな??、4、5分で旧国道へ下りました。

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道は少し上った様で木曽川が、かなり下に見えるようになり、右岸、左岸を結ぶ

国道19号の橋が架かっています。

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歩行者道の看板が建つ側道を行き、国道19号の橋桁下をトンネルで抜けて

、左手に階段を上がって国道19号へ出ます。

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国道は歩道がなく、幸い大型車の通行は少ないですが、JR線のガードを

用心して抜けて笹川交差点に出て、

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笹沢交差点で右に分岐するのが旧道(中山道)へ入り、大きく左へ回り込むと、

上松の街並みが見えてきます。

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中央線を右下に見て10分ほど歩いて十王橋交差点を渡り桝形に左折すると、

十王橋の橋詰に「上松宿入り口」の標柱が迎えてくれ、高札場跡がありました。

日本橋から38番目、かっては木材の集散地として賑わった上松宿の江戸口に

出ました。

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上松(うえまつ)宿は、江戸から72里3町24間(約283.1km)

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、

家数は362軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒で、人口2,482人。

 江戸口は十王沢(昔は小野川)に架かる橋詰に、地蔵尊を祀った十王堂が

建っていたが、慶応3年(1867年)の大洪水で流失してしまったいう。

しかし、75年後の春の彼岸に地蔵尊が発見され、ほかの場所にあった馬頭観音

など石仏石塔群とともに、この高札場跡に祀られた。

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説明板は高札場を現わしたのかな?

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十王橋を渡ってすぐに左手へ桝形の曲がり(家と家の間の道)左手へ進むと上町です。

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 上松宿はたびたび火災にあっているが、特に昭和25年(1950)の大火では

上町以外の上松宿がほとんど焼失してしまったという。

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火災からまぬがれた上町には出梁造りの古民家が並び、曲がり道が街道宿場らしい

風情を残しています。 

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町並みに入って100mほどの、左の路地を入ると八幡神社があります。

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楽殿、拝殿と一体になった覆屋の中の本殿は、正徳4年(1714年)建立と

言われ、江戸時代中期の代表的な社殿建築で、上松宿の文化財に指定されている。

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街道に戻りまた100mほど行くと、左手に路地を入ると「玉林院」の裏門が

ありました。

なぜか表山門からはおとずれなかったのですが、街道書によれば、

「玉林院」は木曽義元の次男「玉林和尚」が天正10年(1582)に創建。

裏山に天神山木曽氏館跡があり、十九代木曽義昌の弟、義豊が居館を構えていた。

明治26年の12月に火災に遭い本堂と庫裡は失われましたが、

土蔵と明和3年(1766年)に再建された山門は、火難を免れて今も当時の姿を

保っている。本堂は昭和33年に再建されたものですが、山門や黒松の老木と

整えられた庭に、往時を偲ばせるものがあります」、と記されてます。

 

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上松のシンボル赤沢自然休養林の「森林鉄道」と「オオヤマレンゲ」があしらわれ,「ひのきの里・あげまつ」とあります。  

「上松は、江戸時代初期より尾張藩の保護を受けた、古くからの木曽ヒノキの集散地。
その歴史は今もなお、木材工業の町としてその名を馳せています。
戦後の数回にわたる大火により、古い町並みは上町にわずかに残るだけですが、
木曽駒ケ岳を望むこの町には「赤沢自然休養林」「木曽の桟」「寝覚めの床」などの
木曽路を代表する名勝を有し、人から人へ受け継がれ守られてきた自然美を
四季折々楽しむことが出来ます。」
木曽路パンフより)

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どっしりとした建物は置き屋根になっていて、倉を利用した住宅のようですね。

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日の丸が掲げられた交番、「子供の日」祝日だったね。

今日、国旗を掲げた住宅は見かけなかったような・・・

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男女双体道祖神と右隣りは、水の女神「水速女命(みずはやめのみこと)」だそうな。

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この辺りは本町で、 問屋、総庄屋を兼ねた原家が勤めた脇本陣跡。

門扉脇に「といや」の木札が架けて在りました。

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文久元年(1861年)皇女和宮一行も宿泊した、藤田九郎左衛門が勤めた

本陣跡はなにも印無し(街道書に記載あり)

ただ裏の土蔵には、焼け残った資料が保存されている由。

現在は歯科医院が建ってます。

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本陣跡の先で、街道はクランク状に曲がって行くようですが、右曲がりの角に

江戸日本橋から72番目の本町の一里塚跡(移設)の碑がありました。

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一里塚あとで右に曲がり緩い坂をちょいと下ると、右手にカフェ&ダイニングがあり、時刻も昼過ぎで立ち寄り、ランチメニュー・パスタセットで昼食。

(12:20)

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あら!面白いわね~、てカミさんが喜んだ、砂糖&ミルク入れ容器

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ごちそうさま、と店を後に20mくらい下って、桝形跡をで左手へ仲町で、

旧国道に合流します。

先きほどの一里塚は、元はこの付近にあったようです。

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おっ、鉢植えだけど黒百合では??

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100m程あるくと広小路交差点で、右へ行く突き当りがJR上松駅

左角にはよく旅人が宿泊する「旅館田政」(江戸時代から続く旅籠)を見送って、

下町交差点もわたり、

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 100m程先の歩道橋手前、旧国道と左手に分かれる、中山道寺坂と呼ばれる

坂道となり、曲がりながら細道を入って行くと、

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左手曲がり角に駒ヶ岳大明宮や、駒嶽開山神明霊神などの石塔群が建ってます。

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その先車道になり、十字路の左土手の上は上松小学校で、

角の土手に「斎藤茂吉の句碑」がありました。

「駒ケ嶽見てそめけるを背後にし小さき汽車は峡に入りゆく   茂吉」

と刻まれてるそうな。

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 小学校校門に入る上り道の右側に、藤村文学碑が建ってるはず、

あれ、あの像は二宮金次郎では?

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すっかり風化してしまってますが、手に持った本、金次郎さんですよね。

(藤村文学碑は写し損ねてました)

 

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小学校のグラウンド下の街道側土手に、「尾張藩直轄材木役所跡碑」があります。

案内板には、「尾張は、木曽総山検見を行い、に山村代官から管理権を取り上げて

藩直轄とし、この向かいに材木役所を置いた」とあります。

(何らかの不正事があったのかな?)

土手上の小学校の広いグラウンドが、上松材木役所陣屋の敷地であったのでしょうか。

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陣屋跡碑の少し先の土手にも石段があり、諏訪神社の鳥居が建っている。

上松宿の鎮守の神様として古くからこの地にあった由。

諏訪からではなく、京都から勧請しため、御柱は立っていない。

石段を上ってみると、グランドのフェンスに阻まれ、なんと本殿は広いグランドの

向こう側に鎮座しています。

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グラウンドではサッカーの試合中だ!

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緩い下る坂を上松小学校のグランドが終わる処まで来ると、十字路の左角に建つ

庚申塔を見送り、

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住宅街の中を通ってくだって行くと、中沢橋。

上松宿から頻繁に出ている、「目覚の床→」への距離道標がも建ってます。

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坂下で木曽駒ヶ岳の雪山並みを見ながら、街道らしい静かな佇まいの

「見帰(みかえり)」集落を抜け、県道266を歩きます。

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上松第一トンネルを抜け出て来た国道19号の上を渡って下ると、
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左側に、常夜燈など多数の石仏石塔が祀られていました。

花は、忘れな草ですね。

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街道は立場茶屋の有った、寝覚集落へと入ってきました。

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見えてくる古民家が手前が、江戸時代の「寝覚立場」の茶屋本陣で、築300年の

建物、上段の間や囲炉裏があるという、「たせや」。

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赤いポストの向こう側が創業寛永元年(1624年)で、寿命そば(蕎麦切り)の

老舗「越前屋」。

「越前屋」は国内で3番目に古いといわれる蕎麦屋だそうで、参勤交代の諸大名が

必ず休憩した所として、立派な造りの建物です。

十辺舎一九「続膝栗毛」や藤村の「夜明け前」にも出てくるそうな。
 現在はそれぞれ民宿・旅館を営んでいる。

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(越前屋の蕎麦は、今は寝覚め床近くの 国道沿いで営業を続けている )

「たせや」と「越前屋」の間の急坂を、木曽川の方へ300m程下り、

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国道19号を横断した先が、寝覚の床の入口で臨川寺の庭園でもあり、見晴台から

眼下に寝覚の床の全景が見えます。

木曽川の奇石と水面の美しい名勝で、1923年(大正12年)3月7日に国の名勝に

指定された。

中山道を訪れた歌人等によって歌にも詠まれ、長野県歌「信濃の国」の4番にも

「旅のやどりの寝覚の床」とうたわれている。

臨川寺はあの昔話し「浦島太郎」伝説があり、寺の縁起によれば、
「龍宮城から戻った浦島太郎は全国をめぐり歩いて、

ここ木曽川のほとりの地にたどり着き、釣りをしたりして楽しく暮らしていた。

天慶元年(938年)に里人に竜宮城の話をしたときに、玉手箱の蓋を開けて

しまい、齢300歳の老人になってしまったという浦島太郎伝説が残っている。

言い伝えでは、浦島太郎が今までの出来事は夢で、夢から覚めたようだと思い、

この里を寝覚、この岩場が床のようであったことから、「寝覚の床」と呼ぶように

なった。その後、いつのまにか太郎の姿はなくなり、立ち去った跡には弁才天

像が一体残され、寝覚めの人々は祠を建てこの弁才天を祀った」と伝えている。

 

寝覚め床は御嶽山登山の折に寄ったことがありましたので、今回は立寄りは

しませんでした。

(昔の思い出フォット)

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 越前屋を後に100mも行くとY字路で、分岐点に津嶋神社があり、

脇に大カツラが聳えています。

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幹の周囲が4.1m、若葉が何とも美しいんですね。

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付近からは左手に迫るように中央アルプスが聳えてます。

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 旧中山道はこの先の郵便局前を左に曲がり、左手に石塔を見て坂を行くと、

台地にでてバックに中央アルプスを据えた、花々咲く集落の墓地がありました。

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黄色い花は(写真右)はセンダイハギですね。

カミさんが気に入った様で、庭に植えような~。

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立派な上松中学校と、これまた立派な県営集合住宅が。

上松駅前から随分歩きてきたと思ってましたが、地図で確認したらまだ2km位

なんですね、地番も上松でした。

そのまま真っ直ぐ行くと、先は森に突き当り??

旅人が一人、コンニチワ、の声を残して足早に追い越してゆきました。

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中学の敷地端から左手に、街道は復元された石畳坂を下ります。

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緩く曲がりると木曽川にそそぐ、中央アルプスより流れ出る清流の滑川。

橋の上からは、山間にアルプスの嶺も望まれます。

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木々の芽生え新緑の美しさが、何とも言えない安らぎを感じますね。 

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滑川橋を過ぎて少し先の道標は、左手・木曽古道となってます。

 

木曽福島から足を進めているとき、道標に良く「木曽古道→」と記されてます。
調べたところ、「 駒ケ岳山麓木曽川にそって、留野(現在の南木曽) から

木曽福島に通ずる中山道整備以前からの道があり、江戸 時代以降の中山道

区別し「古道」と称するそうです。
 木曽古道集落として、倉本・東野・吉野・徳原 ・川上・原野があり、

 原野と木曽福島の間、上松から倉本までの間の山道は、地元にて中央アルプス

 への登山道やハイキング道として整備もされている」とありました。

中山道の古い道の意味ではなかったんですね。

此処の道標には「3.2km先の吉野地区~東野地区~倉本地区へ」と記載されていて、古道が通っていた地区への案内なんですね。

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深紅のツツジ、紅サラサドウダンなどの咲く荻原集落を抜け

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線路沿いの道となって

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御嶽山講中碑を見送り、 中央線をガードで抜けて右手へと道は曲がって行きますが、

f:id:hansui:20180512203608j:plain畑で農作業をしていたご婦人から

「右へ行ってはダメだよ! 左に下って家の前を通って行くんだよ」と

指さして教えてくれました。

ありがとうございます。

なんと、中山道は庭先を通って草道を進み国道へ合流していたんです。

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f:id:hansui:20180512204137j:plain国道と合流して100m程行くと、左手の中央線の鉄橋奥に木曽八景の一つ、

小野の滝が飛沫を上げて落下してました。

「あら、いい滝だわね」てカミさん。

以前に滝巡りと称して、長野、群馬をドライブしたこともありました。

「日本一の落差、富山、立山麓の称名の滝、隣なりの雪解け時のみ現れる、

落差500mのハンノキ滝、凄かったわね~」てしばし滝談義。

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中山道、広重描く「上松宿」は、この「小野の滝」を題材としてますね。 

渓流滝は山間の街道沿いで見ますが、本格的な落差の滝を見るのは久しぶりです。

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国道沿いの細い歩道を10分(600m)ほど行くと、中山道は左手に山側の

上り坂道へと分岐します。

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そこに江戸から73番目の荻原一里塚跡で、石碑や案内板が立っている。

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石碑の横にお互いの幹が接して成長した、榎と紅葉の合体木が枝を伸ばしている。

モミジの合体と言えば、間の宿・茂田井で梅の樹に寄生したモミジを、見たことが

ありましたが、合体ではなく梅の枝分かれ二股にモミジが生えてしまってましたね。

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坂道を上りくねくね曲がった道を行くと立場のあった旧萩原村の集落で、

常夜燈も建つ、静かな家並みが続きます。

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集落の南の入口に「二十三夜塔」などがあり、「高札場」が在ったという。 

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 200mほど行った先左手に入ると、
「風越山(かぜこしやま)の湧き水(和水なごみ)」があり
 標高1698.5mの風越山の自然水で,柔らかな口当たりとても美味しい。

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すぐ先1分ほど萩原信号交差点で国道19号に出会い、

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 萩原沢の橋を渡って100mほど進んだ左手に<串ケ下>バス停があり、

此処にも中山道と木曽古道の道標が建ってます。

左手の山の中へ向かう、草道の踏み跡がありました。

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道標から約300mほど歩くと、右側に阿寺渓谷(16㎞)、柿其渓谷(24㎞)

などが記された案内標識が建っている左側に、斜め左側に入る道があり、

左に入ってすぐにJR線路を串ケ下橋梁を潜り抜け右折し緩い坂道をゆくと、

次第に高度が上がって行きます。

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 道の両側草むらにはここでも蕨がいっぱいです。

旅の途中でなければ、しばし山菜取りをしたいところですが・・

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木立の間から木曽川沿いの河川敷に大きなサッカーグランドがみえ、なにか大会が

開催されてる様でした。

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左側にある擁壁の上に、道路整備などで移設したのか、石仏石塔群が集められてます。

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木立の覆いかぶさる山道を、まがりくねって少し進むと、4.5軒の宮戸集落です。

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さきに進むと民家の前側壁に、

木曽古道「〇〇方面は庭を真っすぐ通りください」とあり、中山道も合しての

道筋のようで、古い土蔵の脇を通って草道へと入って行きます。

うん?家からカラオケが聞こえてる!集会所になってるのかな?

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脚に優しい草道を歩き、右下の中央線の土手下へ「くるみ坂」を急降下し、

道標の建つところで、正面の石段を上らずに右手の立町橋梁を潜って

国道へとさらに降りてゆきます。

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坂を下った左手に鳥居が建ってます。

神明神社の鳥居で、上松の立町地区と倉本地区の鎮守の神社として、

300年以上の長い歴史を有する神社ですが、急な石段の参道は途中で

JR中央西線で分断されていて、国道筋から直接参詣することができない。

(さきほどのくるみ坂を下った正面の石段が、神社へと続いてるそうです)

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すぐに左の線路下の道に入り2,3分で再び国道へ,立町横断歩道橋で国道の

西側に渡ると、立場の有った立町集落へと入ります。

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「坂口屋」とか「つたや」といった屋号を掲げる家、水神碑と水場など

かっては旅人で賑わっていたと、ちょぴり思わせます。

 

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空沢橋の先右手に入ると、木曽川に架かる木造の吊り橋の「諸原橋」が

ありますが、今は老朽化が進み渡ることはできません。

(撮影はピンボケで失敗、アップは拝借フォットです)

f:id:hansui:20180513111915j:plain集落を抜けて再び国道19号へ。

中山道は、中央線線路側を越えで左手へ倉本集落へと続いていたようですが、

国道、鉄路で分断されて消滅です。

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国道をおよそ600m,

PM3:30、今日の中山道歩き旅の足止め地点「倉本駅下」到着です。

木曽福島より、4里、約16km、お江戸日本橋より290km

中山道は、写真右端の中央線ガードを潜って続いてゆきます。

 

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国道のバス待合所で持参のオヤツタイム。

PM3:52、コミニティーバスに乗り、木曽福島駅へ。

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高速道事故渋滞に合いましたが、PM10:30帰宅、

中山道夫婦歩き旅、第25回目の

           「おわり」

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第24回)       藪原宿~木曽福島 後編

4月29日(昭和の日)

 藪原宿から木曽福島宿へと足を進め、正午12時10分、

ついに中山道69次、中間点へ着くことが出来ました。

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旅の後編です。

 

時刻も昼時、先を左手に折れて国道19号へ出ると「道の駅日義木曽駒高原」です。

さすがGW、木曽路へこんなに人々が繰り出してたのか!と驚いたほど、

道の駅は車がびっちり、大変な賑わいです。

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混雑はしてましたが、やっぱりお蕎麦がいい、食事処へ。

道の駅にも「中山道中間」の案内板が建ってます。

ぐ~んと身近に、中央アルプス木曽駒ヶ岳が迫ってきます。

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木曽駒ヶ岳ももう十数年前ですが、伊奈側からロープウェイ、千畳敷経由で

登りましたね。

頂上でガスがすごかったわね~、なんてお蕎麦を食べながらしばし、思い出話。

(思い出ショット・左は宝剣岳

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PM1:00、ゆっくり足休めをして街道旅の再開です。

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少し進むと道はYの字になり、右の細い道への道標が建てます。

この辺は小沢の集落と案内図に記されてました。

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細い道を200mほど行くと右手に小沢センターがあり、

中山道→この下の橋を渡り木曽福島へ」の案内板が左手草道を指してます。

あれ、えっ、これが街道!と言いたくなる道を下ります。

カミさんは、わ~て言いながら楽しそうに下って行きました。

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下ると木曽川の支流、正沢川となり川沿いを少し進んで、鋼桁に網鉄板を敷いた

鉄橋を渡ります。

中山道の案内もしっかりとついてます。

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この先は やや上りながら右手へ道なりに畑の中の道を進むと、

コミュニティーバスの通る新開集落の道へでます。

渡った川が日義と木曽福島境川で、マンホール蓋も福島関所のデザインに。

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木曽義仲元服を迎えるまでの幼少年期を、かくまわれて過ごした云われ、

巴御前の誕生地でもある、義仲の養父「「中原兼遠」館跡への案内板を見送り、

(往復1.5km以上あるので寄りません)

100mほど先の天神橋を渡って進むと、左手に木々に覆われた小高い土手が現れ

ます。

土手下に、嘉永5年(1852年)建立と言われる巨大な廿三夜塔や庚申塔が建ち、

並んで「薬師堂」があります。

薬師堂は創建年代は不明で、再建されたと案内板に記されてます。

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すぐ隣りに急で幅狭な石段,斜面上に手習天神が祀られてます。
古くは山下天神と呼び,木曽義仲を養育した中原兼遠が義仲の学問の神として

北野天満宮勧進したものと伝えられている。

境内の「一位(イチイ)」の古木は,樹齢1000年とも伝えられ、

名木として中山道を往来する旅人は、必ずここに杖を留め参詣したと云う。

イチイ、子供のころは「温故の木」て言ってましたね。

樹齢1000年の大木も、あの赤い実をつけるのかな??

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道端の福寿草やスミレなどを愛でながら数分進歩き、上田集落を過ぎると

道は二股になり、道の左側には「中山道ウォーキングの方へ この先、道がなくなっていて危険です。・・迂回をお願いします」と記された看板が建ってますが、

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持参街道書では「Y字右の細い道へ入り、国道のガードを潜って左手の階段で

国道19号に出、すこし国道を戻り上田口信号で右側に国道を横断する」とあり、

街道書の通り足を進めます。

100mほど進み、国道下をくぐり抜けると先は田畑となって、

残念ながら旧中山道は消滅で先は不明のようです。

ガードを潜った左手の階段を上り、国道19号へ出ます。

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少し国道を戻り、上田口交差点で右側へ渡り進みます。

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交差点から約400m歩くと右側に、日本橋から69番目の「出尻一里塚跡」の

石碑と解説板が建っていました。

先ほど不明の旧中山道は、この付近へ続いていたのではと言われてるそうです。

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一里塚跡手前から右に急下りの草道があり、出尻上道標も建ってるので

下って行きます。

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下ったところの道標は出尻下道標。

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100mほど進むとY字道になり、左の道を上がって再び国道へと合流します。

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国道19に合流し、古中山道の道筋は矢崎旧道といわれ、約130m進む左側の

ブリヂストンの看板の所で左折、鉄橋を眺めながら右折し、登り坂に入って

先に見える矢崎橋交差点へ下って来たようです。
(左の白いガードレール)

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あら、白藤よ、てカミさんが右手を指差し。

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国道を進み矢崎橋信号を過ぎると,荒町信号の手前右手に「そば処くるまや」があり、
国道の山側金網フェンスの中に「芭蕉塚」が、

あら、見渡らないわよ?とカミさん。

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と、先を見ると信号手前左側に最近移設されたようで、経塚と共にありました。

左)「芭蕉句碑」には,
       思い立つ 木曽や四月の さくら狩り  とあるそうです。

右)「経塚」は,初代木曽代官山村良忠が家臣を伴って全国の霊場を回った記念に,

その百回忌の元禄14年(1701)に建立したと記されてます。

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 この先で,右下の道をたどり、

f:id:hansui:20180503092058j:plain「木曽大橋」の下を通って再び国道に合流。

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関町の先で、国道は左へカーブし「福島トンネル」に入って行き、

中山道は右手の木曽川沿い旧国道に進みます。

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見た目感じませんが、結構な傾斜があるんですね。

流れも速き木曽川

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旧国道に入り10分ほど歩くと、街道を跨いで巨大な冠木門がが建ち、

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左手の石垣に付けられた道を上がると、復元された「福島関所」跡があります。

(関所は、山裾の木曽川の断崖上という、関所を置くには絶好の地にありました

  断崖は道路設置の為に削られ高い石垣上となってます)

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 番所(関所)跡、建物は資料館、

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関所の奥横に島崎藤村の姉である園の嫁ぎ先で、代々関所番を務めた

山村代官の家臣・「高瀬家「」の資料館があります。

(前に寄ったので、今回は入館はしませんでした)

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PM2:30、

江戸より69里24町(274Km)、
37番目の宿場町・福島宿到着です。

木曽福島には十数年前に、木曽の御嶽山登山の折少しだけ寄り道をしています。
その際にこの関所跡、資料館や、これから向かう「興禅寺」にも立ち寄りして

ましたね。

広重画、福島宿は関所が描かれてます。

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木曽福島は、戦国時代は領主木曽氏の城下町として、その後豊臣秀吉が直轄領となり、江戸時代には尾張藩領となり、木曽代官山村氏の陣屋町として栄え、四大関所の

一つ福島関所が設けられていました。

関所があり、代官所があるこの地は、木曽路の中心であったそうです。

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、
家数は158軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠14軒で、宿内人口は972人。

昭和2年(1927年)の大火で大半を焼失したため、往時の面影は少ないが,

「上之段」と呼ばれている地区に、わずかに江戸時代末期の建造物が残り、

街道情緒を感じさせてくれます。

石垣脇の階段を下り旧国道(中山道)に戻ります。

左手に、木曽川沿いの道を行けば宿場街並みへ続きますが、ちょっと回り道をして

木曽義仲墓所の有る、木曽川右岸段丘上の興禅寺へ立ち寄るため、

木曽川を関所橋で渡って向かいます。

木曽川の左手家並みが宿場の街並み。

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橋を渡って100mほど登り、T字路を右手に行くと「興禅寺」です。

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興禅寺 臨済宗妙心寺派(禅寺)。
永享6年(1434年)この地を支配した木曽氏十二代信道が。

先祖木曽義仲公菩提の為,荒廃していた旧寺を改建したお寺で、 木曽義仲並びに

木曽家代々,福島関所代官山村家代々の菩提所です。

いらい三度の火災にあい、本堂などすべて焼失たが、諸堂宇が再建されています。

石段を上がると治承4年(1180年)源行家以仁王の勅使として平家追討の

令旨を,この門を通り観音堂において義仲に伝えたといわれている勅使門。

室町時代の様式で国宝であったが焼失、昭和29年に原形通りに復元された門です。

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勅使門を入ってすぐ左手に入ると平成11年作庭の「昇龍庭」。

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奥の宝物殿窓口で宝物殿や庭園などの拝観料を納め、館内拝見。

 右より、山岡鉄舟勝海舟高橋泥舟、「幕末三舟」の筆による掛軸。

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書画、工芸品、古文書などを、ゆっくりと拝観。f:id:hansui:20180503170021j:plain

館を後にし、庫裡西側の斜面を利用した江戸中期金森宗和の作庭、

池泉水の「万松庭」は脇からの覗き見して、

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禅宗庭園として昭和37年に現代作庭家の第一人者重森三玲氏の作で、

紀州沖の島産の青石(緑泥片岩)を用いた枯山水の庭「看雲庭」。

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本堂前を通り、山側登って行くと西北隅斜面に「木曽義仲公の墓」がある。

寿永3年(1184年)粟津ケ原で源義経らの軍勢に敗れ,その時わずか

13騎の護衛の中に居た巴に、

「義仲死に臨み女を従うは後世の恥なり,汝はこれより木曽に去るべし」と

遺髪を巴御前にたくした。その遺髪がここに収められているという。

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 義仲の墓を後に路を下ると,左手の木曽では珍しい洋風の建物が建っている。

「元宮内庁御料局木曽庁舎」で、明治維新尾張藩有林から皇室財産の御料林と

なった木曽谷の森林を経営管理する為,明治36年(1903)に建てられた。

 昭和2年(1927)5月木曽福島町の大火により焼失するも、

同年12月旧庁舎の姿をほぼそのままに再建され,現在は,森林・林業の技術開発

・普及指導を行う「森林技術第一センター」の庁舎として使用されている。

f:id:hansui:20180503184911j:plain木曽谷の人々にとって昔から今に至るまで,木曽谷の森林と切っても切れない

深い縁があることを感じますね。

興禅寺を後に100mほど行くと、左手に臨済宗妙心寺派・龍元山長福寺は、

代官山村家の菩提寺です。

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長福寺前から少し進み、木曽福島会館のところを道なりに左折し、

坂道を下った木曽川に架かる「中央橋」の手前で右折して山村代官屋敷敷へ

向かいます。

山村代官屋敷敷地の大半は,現在福島小学校になっていて、

右手のグランド下に「山村代官屋敷東門跡」の石垣と、石に刻まれた紀行文の

一説についての由来案内板が建ってます。

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先が代官屋敷交差点で交差点の右手に、福島関所を預かり、木曽11宿を含む

木曽一帯を治めていた山村家の下屋敷跡があり、立派な屋敷門が復元されてます。

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「山村代官屋敷」
 山村氏は戦国時代から木曽谷を治めていた木曽氏の旧臣で,慶長5年の関ヶ原の戦いで,徳川秀忠の先陣を承って,犬山城主石川光吉と戦いこれを破るなど活躍した。その功により木曽代官を命ぜられ,福島関所を預かった。
 後に木曽が尾張領となった以降は,尾張藩の武士として引き続き木曽を支配しながら石高7500石を給付され,福島関所の関守として幕府から旗本の一種,交替寄合の待遇を許されて,明治2年(1869)に至る274年間木曽谷を支配した。
 木曽の山林と四大関所の一つ福島関所の関守を兼ねていたその権力は絶大であり,その屋敷は豪壮を極め,文政年間(1818~30)の屋敷図によれば,福島小学校を含む敷地に庭園が20もあり,そのうち築山泉水の庭が5つ,その一つが現存する下屋敷と庭園である。
現在の建物は,享保8年(1723)2月4日の火災で全焼して再建された建物であり,12代木曽良棋の下屋敷の一部で代官屋敷唯一の遺構であり,良棋は号を城陽と称したので「城陽亭」と呼ばれている。
亭内には,書斎の間「看雨山房」を中心に数室からなり歴代代官の書跡や愛用品などが展示されている。庭園は駒ケ岳と周囲の山を借景とし,静寂そのもので町中にあるの感がない。
 山村氏は明治維新の際には,新政府に与した尾張藩の家臣で,かつ幕府旗本であるとの微妙な立場に立たされたことが「夜明け前に」に記されている。

 

木曽福島駅の列車時刻もあって屋敷内へは立ち寄らず後にし、坂道を少しくだり

木曽川を大手橋で渡ります。

中山道から代官屋敷へ渡る橋で「御屋敷橋」と云われていたが,明治になって

大手橋と名づけられた。

明治以降2度の洪水で流失し、昭和11年(1936)工学博士中島武氏の設計に

よって架けられた、世界最初の珍しい、鉄筋コンクリートアーチ橋。f:id:hansui:20180504051425j:plain

渡るとすぐが支所前交差点で横切ってるのが中山道になり、そのまま進んだ

突きあたりの「木曽町木曽福島支所」が、白木家が勤め問屋場を兼ねた

本陣跡ですが、今は一片の標石と説明板が立つのみです。

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 支所前交差点へ戻り、左手へ木曽川左岸の街道(旧国道)を進みます。

f:id:hansui:20180504051605j:plain 数分歩くと左手に杉玉をかかげた明治時代創業の「七笑酒造」、

対面に旅館「つたや」。

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その先右手に創業350年と言われる、木曽路の宿・いわや

(あれ、写真はピンボケ!)

関所から本陣を経て続いて来た街道は、そこで左折(桝形)し横宿と呼ばれる街並み

となります。

この辺りに敷地100坪,問屋を兼ねた亀子孫大夫家が務めた「脇本陣」が

在ったらしいが不明。

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「七笑酒造」の醸造

f:id:hansui:20180504055121j:plainちょっと先右手に 「喜又橋」 清水の湧き出た小川に架けられた橋を再現したもの。
喜又とは,この地を治めた十一代目当主の名で,島崎藤村の実兄とともにこの町の山林確保に私財を投げ打って町の人々の為に尽くした。人々はその天晴な人柄を想い,喜又橋と命名されたと云う。

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この先は木曽川の段丘で左右に細い小路が複雑に入り組んでます。

左手に下って行くと、本陣跡の支所前へ出るようです。

f:id:hansui:20180504060733j:plain 街道にもどり進むと、この辺りから街道は,直角に何度か曲がる「枡形」を

形成しており,右に折れて急傾斜の上の段坂を上る途中の右手に「高札場跡」。

f:id:hansui:20180504112707j:plain 坂を上り切ったところは、木曽義仲から19代目の木曽義昌の居城「上之段城」が

在った所とされる「上の段(うえのだん)」と呼ばれる地域で,宿より一段高い

段丘上で「水場」が曲がり角にあります。

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昭和2年の大火から免れた水場・石置き板屋根・出梁造り・袖うだつ・千本格子・

なまこ壁の土蔵などなどが福島宿でただ一か所、往時の面影を残している

街並みです。

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右手にまつり会館があったので、ちょっと覗いてみました。

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松島亭・肥田亭などの町屋造り通りを来る、トレッキングスタイルの外国の方々、

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上段の町筋には 多くの小路地が残されています。なまこ壁や板張りの家屋が

印象的な「寺門小路」を入るっと、突きあたりに武田信玄ゆかりの大通寺がが

ありました。

山門は楼門形式の建物で、江戸時代中期の安永7年(1778年)と言われてる

そうです。

境内に武田信玄の娘で、木曽義昌正室である真理姫の供養塔があるそうです。。

(供養塔は誰が、何時頃建立されたのは不詳とか)

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 ナマコ壁の小路を出ると、

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角にはこの高台なのに水場(上の段用水)があり、勢いよく水が出ている。

この水場は宿場時代の昔から昭和の始めの頃まで、町内の簡易水道として利用されて

いたもので、この先の段丘を下ったところを流れる、八沢川上流約2kmから

取水されているそうです。

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上段の街並みの桝形を曲がり坂道を下ると、途中に見られた古井戸。

江戸時代中頃に造られ、昭和の中頃まで町民の飲み水として使われていた由。

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 古井戸からひと下りで中矢沢橋で木曽川の支流、八沢川を渡り右手へと、f:id:hansui:20180504140652j:plain街道らしく曲がりくねって木曽福島駅方向へ向かいます。

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この付近が木曽福島宿の京方でしょうか。

左手の坂道へ行き木曽福島駅へ向かいます。

 

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300mくらい坂道を上るとJR木曽福島駅

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PM4:25、中山道夫婦歩き旅、第24回目は足止め。

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4時32分の松本行電車で、出立地藪原駅へむかい、藪原駅前を5時、

イカーにて帰路へ。

中央道の渋滞もあって5時間ほどかかり、帰宅は午後の10時になりましたが、

いい旅を終えて、心地よい疲れですね。

(お店前のプランターに咲いていた、八重咲イチリンソウ)

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またいつの日か旅路へ・・

中山道夫婦歩き旅、第24回目紀行は終。




 

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第24回)       藪原宿~木曽福島 前編

 

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

4月19日、奈良井宿から鳥居峠を越えて、藪原宿へ到着し足止め。

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世の中GW。

後半は天気が崩れそうてんで、昭和の日・29日に再び街道旅へ。

藪原宿から宮ノ越宿へ、そして宮ノ越宿木曽福島宿へと足を進めます。

29日早朝、今回もマイカーを走らせ。みどり湖PAで塩ラーメンの朝食。

北アルプス穂高連山がくっきりと見えてます。

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AM7:40藪駅前着。

快晴の空、朝の風が爽やかで、絶好の旅日和。

AM8:00

中山道69次夫婦歩き旅」、第24回目の旅立ち。

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JR藪原駅はちょっと変わった構図ですね。

藪原の集落は線路の北側ですが、駅舎は南側にあり集落から直接改札を入ることは

出来ないんです。

駅舎の建つ側は、数軒の旅館や民家のみ裏手は段丘上に国道が通っています。

 

藪原駅から南西へ向かい国道19号へ足を進めると、藪原宿集落からの道が

JR中央線のガードを潜ってきてた道とその先で合流し、

木曽村 藪原信号で,国道19号へと合流します。
 

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中山道は線路の向こう側を木曽川沿いに行き、その先で線路を横切って

山側へ続いていたそうですが、いまは分断され消滅してる由。

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先で藪原集落からの道に合い、さらに木曽村 藪原信号で国道19号と合流、

右側につけられた歩道を歩みます。

さすがにGWとあって、トラックは少ないですが自家用車の交通は

半端ではありませんね。

鉄道は木曽川を対岸へ鉄橋で渡り、国道は木曽川左岸沿いに南下してゆきます。

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競歩のような、すごいスピードで追い越しっていた方は

腰にウエストバック、右手にペットボトルの軽装。
旅というより、タイムを追いかけてるランナーでしょうか。

右下を木曽川が流れ、川の向こう側に中央本線が走り両側から山が迫る。

まさに木曽路は山の中。

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 木曽川沿いの、国道右手歩道を歩きます。

冷気を感じるくらいの川風は歩き旅には持って来い、いい旅日和です。

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やがて前方に橋が見えてきてみます。

江戸方面からは、橋を渡らずに川沿いに左へむかう旧国道(中山道)を行く、

と街道書にありますが、信号も無しのうえ、ガードレールに阻まれて左側へ

渡ることが出来ません。

(旅人によっては、ガードレールの切れ間から、それ!と横断し左側の切れ間へ

駆け込むともありましたが、切れ間、見逃した?いや、無かった様な)

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ここは結構、高スピードで行き交う車両が多いため、横断を断念。
このまま右側を進み、一旦獅子岩橋で木曽川を渡ります。

「コンニチワ」と声を残して女性ランナーが走り抜けて行きました。

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渡った先の国道壁面に、「鳥居峠を行き交う旅人、馬子の大壁画」。

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壁画を過ぎた先で、木曽川を再び鷲鳥橋で渡ると、木曽川左岸を通ってきた

旧国道(中山道)が左手から合流してきます。

(左、山裾のガードレール道が旧道)

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橋を渡ったところで、旧道との合流地点でガードレールの切れ間があり左右の

見透しもいいので、やっぱり少しでも街道に忠実に歩きたい、と

それ!と左へ横断し、半分ほど旧道を戻ってみました。

写真、旧道中間くらいから、右は江戸方面で左は京方面。

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山の斜面のピンクの花はツツジの様子、

おっ、アカヤシオ!! かな??

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中山道は国道を横断して右手へと進んだようですが、今は消滅。

再び国道沿いを歩きます。

菅の信号で歩道帯のある右側へ渡って、先へと進みます。

ここの信号は「自転車横断帯」はありますが、徒歩横断歩道帯」は設けられていない

へんな交差点ですね~・・右手に集落もあるのにね。

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中山道は信号の少し先で、右手から来て国道を横断し左手の山の道へ繋がって、

この先にある吉田洞門の上を越える、高巻きの山道となっていたようです。

高巻山道を越える幕末の皇女和宮の、何日も続く行列の様子を、

右手木曽川、川向こうの村人が語り伝えていたそうです。

菅の交差点から5、6分歩くと木曽川が山裾に迫り、崖に落石や雪崩を防止する

ために造られた吉田洞門があり、洞門右手木曽川沿いに歩道が設けられています。

遠くの雪山は!中央アルプスだね。

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歩道は木曽川ぎりぎりの崖の上。

花桃が咲き、木曽川右岸の長閑な集落を眺めながら足を進めます。

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街道書の道筋通り、洞門を過ぎて先の吉田交差点で左手の山裾側へ渡ります。

渡るところで地元の方から教えていただき、信号を渡って少し国道を戻った

山斜面の住宅脇のニリンソウ大群落へ。

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やまの斜面に一面に広がるニリンソウ大群落。

まだ朝の山陰だったようで、花は閉じましたが午後からは見事でしょうね。

ありがとうございました。

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信号へ戻り先へ行くと、左山側に庚申塔や供養塔など十数基が石段上に祀られてます。 f:id:hansui:20180430181059j:plain

少し先の山裾にも石段の上に石仏石塔群が見えました。

中に墓石らしきものもあったので、墓地にもなってるかな?

 

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山裾側は日差しが差し込みはじめ、今春爛漫

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もう少し歩くと 木曽川に架かる吉田橋を渡ります。

橋を渡った右手に下吉田一里塚があったようですが、いまは消滅。

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街道は渡ってすぐ、左手の整備された川沿い道へと進みます。

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花桃咲く川沿いを5分程歩くと国道へ出、国道は木曽川を再び橋で渡り

山吹トンネルをへと入ってゆきます。

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持参の街道書では国道を右手に横断、橋を渡らずに木曽川沿い右手に設けられていた

旧国道が中山道街道になるようです。

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左手は木曽川右手は鉄路もトンネルに入り、狭い山の谷間道を真っ盛りの

山吹の花が彩り、時折鶯の鳴き声が川音に合いし、これぞ木曽路の風情たっぷり。

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中山道は少し進んだところから、高巻に山道へと登って行き、 先の巴淵の集落へ

と続いていたそうですが、ここも山道は消滅してしまい歩く事が出来ない。

木曽街道のパンフレットでは

「木曽街道の中で、一番谷が狭い所で、山の姿川の流れが美しい。

この旧道沿いを山吹横手と呼び、山吹の花が一面にさく。

ここに咲く山吹は実を結ぶと伝えられ、この枝で作った箸をを使うと

子宝に恵まれる」と記されています。

谷間の道も大きく開けると山吹トンネルを抜けてきた国道に当たり、

中央アルプス側を越えて伊奈方面へ向かう権兵衛峠への分岐、神谷交差点。

交差点を左手に渡り、振り返りショット。AM9:50

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緩い上り坂を行きます。

消滅してる旧中山道は、右手の山の中通っていたそうで、木曽川を回り込むことから

「山吹山回廊道」と呼ばれていたとか。

この付近からは木曽義仲の生い立ちの地など、縁の里が続くんですね。

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しばらくの登り坂を行き、山吹橋を渡った先で巴渕交差点を右折し木曽川沿いの

右手の道へと入ります。

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巴淵の交差点、その角には「宮ノ越宿」と書かれた大きな看板があり、
中山道薮原宿5.3㎞ 巴淵300m・中山道宮ノ越宿1.8㎞ と道標が建ってます。

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道端にはニリンソウが咲き続き、句碑を見送って、鉄橋を潜ると右手に曲がり、 

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巴橋を渡って先へ続いてゆきます。

橋の手前右手が巴淵で、巴淵と刻まれた石碑が建っている。

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木曾義仲に恋慕した女丈夫の巴御前は、この淵に住む竜神の化身との伝説や、

この淵で水練したとの由来の解説板が建てられてます。

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巴橋を渡ると道は左手木曽川沿いへ曲がります。

曲がり角の右側に、木曽義仲が南宮神社を拝する時に使った手洗水がありました。

南宮神社は木曽川左岸の山裾に鎮座し、木曽義仲の戦勝祈願所であった由。

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山裾の木曽川右岸沿いの街道らしい細い道の徳音寺集落となり、春の花咲く道を

約300mほど歩くと、右側民家の土手に道祖神が祀られていました。

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 尚、この辺りは木曾義仲が育った土地で、川向こうの線路のさらに向こうには

元服後義仲が住んだ館跡や、治承4年(1180年)に平家打倒の旗揚げを行った

旗挙八幡宮があると街道書に記されてます。

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足を進め、皇女和宮の元婚約者であった有栖川熾仁親王夫妻が、中山道旅行の途次に

休息した手塚家の前に跡碑が建っていました。

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道は左折,右折を繰返しながら進み県道259号に出て,旧中山道は向小路集落で

左にカーブを切って,木曽川を「葵橋」で渡り宮の越宿へと入って行きますが、
そちらの途をとらずに持参の街道書に記載されてる道筋を取り、

直進して「義仲館」と「徳音寺」方向へとへ向かいます。

その先で緩く右へ曲り進んでY字路を左へと歩みます。

一時誤って山吹山方向への道へ入ってしましましたが、地元の方に教えていただき

街道復帰、やれやれ・・

復帰道で藪原方面へ向かう二人連れの多旅人と挨拶。

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田畑の広がる里道をのんびりと進みます。

左手遠くには雪の頂が姿を見せてます。

木曽駒かな?

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里風景を楽しみながら10分ほどで広場に出、右手に徳音寺入口。

左手が義仲館の場所に到着。

徳音寺は、仁安3年(1168)、木曽義仲が母親の追善供養の為に創建。

臨済宗妙心寺派

伝承によると、義仲が粟津の戦いで敗れ自刃すると、遺骸は密かに当寺に運ばれ

葬られたとされ、義仲の戒名に因み寺号を「徳音寺」に改め、菩提寺になったと

伝えられてる古刹です。

元は徳音寺集落にあったが水害で現在地に移転。

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山門は江戸時代中期の享保8年(1723)に、尾張藩犬山城主から寄進された

もので、山門上部の梵鐘は「徳音寺の晩鐘」として木曽八景の1つと言われます。

木曽における江戸時代中期の楼門建築をを代表するものとして、旧日義村文化財に指定されている

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境内には木曽義仲巴御前今井兼平樋口兼光などの供養塔がありました。 

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ちなみに義仲の墓は,大津「義仲寺」にも木曽福島「興禅寺」にもあり、

いずれも立ち寄ったことがあります。

 

参道を下るとすぐ左手が、正面に長刀を持って立つ巴御前と、腰をおろした

義仲の像が立つ。義仲館。
木曽義仲の生涯を武者人形や日本画で,関係文献やゆかりの品を展示している。

ふるさと創世一億円で建てられたそうです。

(しばし足休めはしましたが、館内には入りませんでした)

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義仲記

木曽義仲は久寿元年(1154)源義賢の二男として武蔵国大蔵館で

生まれ,幼名を駒王丸と呼ばれた。久寿2年(1155)伯父義朝の長子義平に

父義賢が攻め滅ぼされた時は2歳であった。駒王丸は畠山重能斎藤実盛の温情に

より信濃国木曽に逃れ,木曽中三権守 中原兼遠にかくまわれ養育を受けた。

仁安元年(1166)元服し木曽次郎義仲と名乗った。
 治承4年(1180)後白河法皇第二皇子以仁王の平家討伐の令旨を奉じ旗揚げをし,寿永2年(1183)北陸に進撃した。この時,倶利伽羅峠で牛の角に松明をつけて平家の大軍に追い込み撃滅させたことは有名である。この年入京した義仲は征夷大将軍に任ぜられたが,元歴元年(1184)後白河法皇の策略によって鎌倉軍に敗れ

近江の粟津ケ原で討死した。31歳の短い生涯であった」
 

館を後に木曽川を渡ると県道267(中山道)へ突き当り、

右折して江戸から67里32町14間,36番目の宿場、宮ノ越宿へ入ります。

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宮ノ越宿画、画は広重ですね。橋を渡ってる様子ですね)

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急峻な木曽谷の中にあって,比較的緩斜面が多い地で、

宮ノ越宿は 1843年(天宝14年)

人口585人 家数:137軒 本陣:1 脇本陣:1  旅籠:21

中山道69次のちょうど中間に位置し,脇街道の伊那へ抜ける権兵衛街道の追分と

もなっている。

木曽義仲が挙兵した地として知られており、挙兵の地「旗挙八幡宮」が鎮座します。

明治16年(1883)の大火や道路の拡張で往時の面影はほとんど失われている。

宿場へ入り200mほど進むと左手に、宮ノ越宿村上本陣跡があります。

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天保14年(1843)の本陣絵図では,往還に沿って間口9間奥行き18間,

16坪の中庭と裏に庭園と土蔵1棟があり,敷地面積194坪という堂々たる

規模であった。

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宿場は幕末の元治2年(1865年)に大火の災禍に見舞われ、

その後に再建された客殿が明治16年の大火では母屋は焼失したが、

母屋とは別棟の客殿は火災を免れ、村上家の生活の場として使われ続けたため、

一部が改造されたものの、今にその姿を伝えることができてるそうです。

客殿。

 

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その先に都築家がつとめ,問屋・名主を兼帯していた「脇本陣跡,問屋場跡」は

空き地に立て札のみが建ってます。

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さらに数分先に、宮の越宿の旅籠であった出し梁造りの旧家「田中家」

明治16年の大火後に、隣村から運んだ建物部材を用いて再建された建物で、

間口3間、奥行き8間の間口が狭く、奥行きの深い典型的な町屋建築で、

2階に3尺張り出した出梁造りの建物である。

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 田中家の少し先の宿場の外れに「明治天皇御膳水」で 幕末に掘られた井戸が

復元されている。

近郷随一の名水と云われ明治天皇巡幸の際,この水でお茶を差し上げたと云う。

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街道は緩い上り坂となり、左手の下町会館の敷地内に元禄時代に建立された、

観世音菩薩、廿三塔、道祖神などの石仏石塔群がまとめて祀られている。

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坂を登りきると橋があり右手に道標が建ち、宮ノ越宿を後にします。

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次の福島宿へは約7.0km 

宮ノ越宿を後に、JR線路と並行の土手下の道を10分ほど歩くと、

左手道脇に江戸から68番目「宮ノ越一里塚跡」がありました。

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土手の草むらにはニリンソウ福寿草、スミレなどが咲き、嬉しい草花散策です。

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一里塚より15分ほど線路下の県道を行き、JR中央線第五仲仙道踏切を渡り

原野・間の宿集落へと入って行きます。

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原野駅バス停の丁字路で、右折するとJR原野駅と原野八幡宮や明星岩へ登る

道の入口になってます。
寄ってはいませんが、原野八幡宮。慶長3年に木曽家の旧臣が建立したという、

ここの地域の鎮守だそうです。  

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原野駅前バス停を過ぎて無佐沢橋の手前に庚申塔など石仏石塔群。

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橋を渡り約30m歩くと、左側に原野の石仏群として史跡になっている

石仏石塔群が祀られていますが、残念ながら工事車両などは停めてあり、

よく見ることが出来ませんでした。

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過ぎて左側が開け中央アルプスの山並みが綺麗に姿を見せてます。

右端のの三角雪山が木曽駒ヶ岳の様です。

山の向こう側に千畳敷がありますね。

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右側に明星岩公園を過ぎてすぐの左手に、

来たぞ~来れたわ~の感激「中山道中間地点」。

江戸からも京都からも六十七里三十八町(268km)と書いてあるが、

ちょと差があるかな?

平成30年4月29日(昭和の日)12時10分

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平成28年 (2016年)9月17日(土) 、

お江戸日本橋を旅立ってから1年7ヶ月。

旅断念かの事態もあったが、なんとか乗り越えてここまで来ることが出来た。

 

24回目の旅は後半へ続きます。

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第23回)       奈良井宿~藪原宿 後編

PM1:00 鳥居峠、御嶽遥拝所へ着きました。

木曽の御嶽山が初夏のような空にポッカリと、今は静かに顔を覗かせてます。

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旅の前編はこちら。

hansui.hatenadiary.jp

 後編に入ります。

崇拝所そばから右手に下る草道がありましたが、鳥居脇を通って街道へ戻ります。

緩い坂道を下ると右手に遥拝所から下ってくる丸太階段状の道を合わせ、

すぐ先に「御嶽手洗水鉢」があり石碑の後ろの草道を登ったところに、

平家追討の旗を揚げた木曽義仲が、この水で硯を摺り戦勝祈願の願書をしたため、

御嶽山に奉納したという「義仲硯水」跡があるようです。

(街道書にありましたが寄ってません)

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何故か英泉描く「藪原宿」は「義仲硯水」の場所のようです。

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登って来た外国のカップル。

男性は丸太階段を上って、御嶽神社へ直登、女性は街道の山道へ。

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 その先は三つ又になっていて右手に行くと、森林観測所跡に向かう道。

左手にくだる道が中山道でした。

中の道を緩く上ると、多数の石塔が立っている丸山公園。

その中に「芭蕉句碑」もあります。

 木曽の栃 うき世の人の 土産かな

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句碑、石碑は風化して読めませんが、新しそうな解説板があります。

芭蕉の句は二句あるんですね。

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ちらほら見られる白樺(シラカンバ)

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赤松樹林(おっ、松茸だね)

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すぐの右手道標が現れ、道標の左手を登ると展望所があります。

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展望所へは登らなくとも眼下に藪原宿、遠く山の後ろには雪を頂く中央アルプスの嶺。

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コンニチワ!登って来たお二人(外国人)は展望台へ向かいました。

(大きなバックパックですね)

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近くにあった石仏、馬頭観音と書かれた木札が横に置いてありました。

そういえば今までの峠道としては、馬頭観音は少ないような。

荷駄の流通は少なかったのでしょうかね。

(それとも撤去されたかな)

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まだ芽吹きをしていない唐松林が赤松と混在し、その先から、明るい日差し差し込む

九十九折の急坂をどんどん高度を下げてゆきます。

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樹間の白い花咲く樹は、花の下に葉が見えないのでタムシバのようです。

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ぐんぐん下る途中に、漢字をびっちり刻まれた石碑と後ろには馬頭観音

街道書では文政年間(1804~18)建立の供養塔と記されてるが、

「馬頭観世音由来の碑「」ともいわれるようです。

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ひたすら降りていくと、九十九入りの急下りも水音が聞こえだし、

最後の坂を右に降りると、石畳道が旧中山道のようです。

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石畳道はすぐに旧国道が横切り中断するが、その先で再び石畳道が

真っすぐに下って行きます。左右の道は旧国道。

左側に側溝化されたような小川が流れています。

木曽川源流の一筋でしょうか。

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振り返って

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道脇に小さな可愛い花が咲いてます。

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ニリンソウかな?サンリンソウかな?

開き始めが可愛い!!てカミさんが喜んでます。

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石畳も終わり、しばらく林の中の歩きやすい道を進むと、

街道の脇の赤い鳥居、社は原町稲荷神社です。

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すぐ先で旧国道に合流し分岐に「信濃路自然歩道」絵地図と左中山道、右旧国道の

自然石道標が置かれてます。

杖置き場も有って、峠道はここでお終いですね。

PM1:45

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カラマツの芽吹きを感じる明るい林を抜けてゆくと、里の集落へ下りてきました。

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道端の野の花を愛でながら、舗装道をゆっくり行くと十字路があり、

各方面への案内標識が二基建てられ、街道はまっすぐ横切って下って行きます。

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右に曲がると、消防署の向かいに綺麗なトイレがあり、有りがたいですね。

さっそく利用させていただきました。

十字路を渡り緩い坂を下って行きます。

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おや、蕗(ふき)畑かな?大きく育ったフキノトウも・・

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コンニチワーですれ違い。

午後の2時過ぎですが、これから鳥居峠へ向かう外国の男女が上って行きます。

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初夏の風が汗ばむ肌に気持ちがいいですね・・

 

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緩やかな下り坂の道を下っていきます。自然石道標が埋め込まれ、

中山道、右国道と刻まれてます。

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道標の先の坂道左に「天降社・水神」の祠があり、

階段脇に木祖村唯一の大モミジがあります。

秋の紅葉が素晴らしい。と書かれていましたね。f:id:hansui:20180425145114j:plain

さらに下ると左脇に水神様が祀られた「原町清水の水場」がありました。
峠を越える旅人の喉を潤してきた清水で、今でも飲み水として使用されている

様です。

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旧街道らしき曲がりくねった集落の坂道をまだまだ下ります。

おや、軒下にカタクリの花だ!!

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そしてさらに坂道を下り、街道からほんの少し右奥に入ったところに置かれている

のが「御鷹匠役所跡」です。

右の坂道を上がると「尾州鷹匠役所跡」があり、標柱と解説板が建てられている。

別名お鷹城と呼ばれ、鷹狩りに使う鷹の雛を確保するために設けられた施設です。

尾張藩享保15年(1730)ここに御鷹匠役所を設置し、訓練された鷹は将軍家に

献上したり、諸大名への贈り物にしていました。明治4年に役所は廃止されました」

(個人の住宅地となってますので上までは入りませんでした)

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少し下ると真ん中下の白い標柱は、飛騨街道奈川道の入り口標識で、

右手に曲がり線路沿を北へ向かいます。

飛騨街道は境峠、野麦峠を経て高山に至る険阻な道だったそうです。

中山道は坂を下ったところで、中央線鉄路で分断されてしまってます。

一旦、右手に線路沿いを戻る形で、少しだけ痕跡のある「飛騨街道」を通って

跨架橋で向う側へ渡り、すこし南へ下って中山道へ復帰します。

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(飛騨街道)

中仙道へ復帰するため跨架橋で渡ります。

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中央線松本行の電車が通過します。

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この付近が分断された中山道へ復帰でしょうか。

緩やかな曲がりで藪原宿へ入ってゆきます。

(標識なしだが、江戸方口になるのかな?)

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藪原宿(木祖村)は江戸日本橋から35番目の宿場で、天保14年(1843年)

には、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒、人口は1493人とあります。

薮原宿は鳥居峠の麓の宿として、また高山へ向かう飛騨街道奈川道の追分の

宿として、さらにはお六櫛の生産地としても栄えた宿場町であったようです。 

しかし、明治期の大火で町並みの大半を焼失し、近年は建物の改修が進んだこと

などから往時の面影は一部に残っているだけの様子です。

 

江戸寄りのはずれにまず本陣が構えていたのですが、現在全く痕跡を留めていません。

本陣は木曽家の家臣だった古畑氏が務めていました。

皇女和宮鳥居峠を越える前に宿泊しているそうです。

間口14間半、奥行き21軒半の広い屋敷は20余室の部屋を持ち、

番所や馬屋等も付属し木曽11宿中最大規模の本陣だったと言われていまが、

今はただ1本の木柱に「藪原宿本陣跡」と書かれているだけです。

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その先左手に旅人の話によく登場する、蕎麦の「おぎのや」があります。

(定休日?暖簾が掛かっていませんでしたね)

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隣には創業1613年(江戸初期)の元旅籠の「こめや」が古い佇まいを見せています。 

現在の建物はガラス戸が嵌められているが、明治の大火後に須原宿から移築したもの。

雰囲気的に、いまは営業していないの??てカミさん。

(街道記では現在も営業とよく出ているが、木祖村商工会の宿案内にはないですね)

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向かいは、なんと創業慶安3年(1650)の銘酒「木曽路」の蔵元である

湯川酒造がありました。360年以上とはすごいですね!!

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湯川酒造のところにこんな標識がありました。

「中部北陸自然歩道」は跨架橋を渡らず線路沿いを籠原神社、極楽寺のところへ

出て、線路をガード下で潜り、ここで中山道と繋がってるんですね。

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ガードを潜った藪原宿を見下ろす高台に、今朝立ち寄った極楽寺、藪原神社が

建ってます。

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藪原神社は天武天皇9年に熊野から勧請したのが始まりといいます。
そのため、熊野社、熊野大権現、熊野大神宮とも呼ばれていたといいます。

参道入口の石段をのぼったところに朱色の一の鳥居が置かれています。

(朝寄ったときの写真)

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左側に藪原宿が元禄8年(1695)の大火で全焼し、その大火の教訓から広小路を造り

防火壁を設けた跡があり、標柱と解説パネルが建てられていました。

江戸初期に、土地区画整理事業で公共用地を生み出し、防火対策をしたんですね。
現代も隣に「木祖村消防団機動隊」の備えあり!

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火災後の街並みとはいえ、宿場の面影も感じられる街並みを行きます。

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左手に「源流の里・二叉水道組合」の水場があります。

木曽川源流という意味でしょうかね。

車を停めた道の駅も「木曽川源流の里」と名乗ってましたね。

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足をすすめると左手にお六櫛問屋の山六篠原商店があります。

お六櫛は、かつては全国各地へ年間100万枚も出荷していたそうです。

そうそう、東海道の旅の鈴鹿峠を越えた土山宿に、お六櫛を扱う店があったね。

この店で仕入れをしていたのかな。

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しばらく歩くと、都会では見られなくなった朱色の郵便ポストがあり、

そこが「薮原宿高札場跡」で標柱が建てられている

このあたりが宿場の終わり、京方になるのでしょう。

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 高札場の案内図には「ここが鍵の手(桝形)になっている」とあり、

Y字路を右の下り坂に入り左手に曲がって街道は続いてます。

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 下った曲がり角段上に、石仏m石塔群が祀られてます。

f:id:hansui:20180425205732j:plain雀踊りの簗飾りを乗せた民家などが立っている、街道らしい細幅の道を抜けると、

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右手に墓地となり一角の祠に、延命地蔵尊が安置されてます。

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 墓地が途切れる辺りに流れる川を渡り道なりに行くと、

道筋は右手へカーブしを描き、藪原駅下の道となって、その先を下ると、

 

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D51機関車が置かれた小さな公園で、日本橋から66番目の藪原一里塚跡があり、
跡地に石碑と解説パネルが建っていました。

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道は県道のT字路に突き当り、中山道は県道を横切って木曽川沿いに進み

JR中央線を横切って国道19号に合流するのだが、今は線路で分断されその先へ

進むことはできない。

ここは県道を左に曲り、中央線のガード下を通って右に曲がり国道19号へと

一旦合流しますが、

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今日の街道旅はここまでです。

ガードを潜り左手藪原駅方面へ向かいPM3:00、フィニッシュへ。

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あら、福寿草みたいよ!

カミさんの声に近寄ってみると、お疲れ様とでもいうように

藪原駅から車を停めた道の駅への近道土手に、福寿草が迎えてくれた。 

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えっ、まだ営業しなない!!

なんと道の駅、「木曽川源流の里 きそむら」の店舗の春の営業は、

4月20日(明日)から!!

季節営業の道の駅もあるんですね。

帰り道は何年かぶりに、木曽谷から伊奈へ抜ける権兵衛峠を走ります。

峠を伊奈へ抜けると、雪の南アルプスの峰々が青空の中に輝いてました。

中央高速に入り、諏訪湖SAで、くっきりと姿を見せる八ヶ岳を眺めながら、

ソフトクリームタイム。

一段と美味かった!美味しかったわね~・・でいい旅の締めくくり。

PM7時30、帰宅 

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終わりではなく街道歩き旅は続いてゆきます、続けます。

歩ける内に、元気なうちに、

さあ、次の旅日は・・いつの日か・・・

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第23回)       奈良井宿~藪原宿 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

2017年11月25日、

雪の降る前にと、江戸から34番目、奈良井宿へ到着し、

その先は峠越えになるので冬ごもり。

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年が明け春になって長い間の冬眠から覚め、峠、山登りに備えて

スクワット100回で足腰強化。

その合間には検査で腎臓に危険信号がともり、う~ん、前途多難・・・

気力を絞って4月12日に旅の再開へと車を走らせるも、

木曽路へ入ったすぐに携帯が鳴り、お義母さんが高熱で緊急入院の知らせ。

高齢もあり万が一の心配もあって、急遽Uターンし旅は中止に。

 

その後容体も安定し一昨日退院となったので、一安心で仕切り直し。

19日(木)早朝再び車を走らせ、「旧中山道夫婦歩き旅」の再開です。

 

圏央道、中央道、長野道と高速道を走り、みどり湖PAで朝食を摂り、

AM8:10、木曽路・藪原の道の駅「木曽川源流の里きそむら」着。

ここに車を置かせていただき、AM9:20の電車で奈良井宿まで戻り、

鳥居峠を越えて再び藪原宿へと旅をしてきます。

(あれ、「道の駅木曽川源流の里きそむら」の写真を写してない!)

 

電車「はAM9:20、時間まで間があるので近くの極楽寺と、

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桜咲く藪原神社へ立ち寄り、旅の安全を祈願。

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9時20分、松本行の電車に乗り込みます。

藪原駅では、トレッキング姿の外国の方のグループが下車しました。 

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車内の乗客も、半分くらいは欧米系の方々が乗っており、

数名は奈良井宿で下車します。

下車したカップルの男女。

低予算で国外を個人旅行する旅行者(バックパッカー)でしょうかね・・

凄い大荷物!前、後に大きなバックパック(リュックサック)が・・

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昨年、11月25日以来の奈良井駅

初夏の様な日差しの中の旅再開。

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まずは前回の到着時に、道が悪いと聞いて寄らなかったところへと足を向けます。

奈良井駅の少し先、右手に戻るように山側の坂道を登ると,

左手に八幡宮へ上がる石段があり「旧中山道杉並木」「二百地蔵」の案内板が

建ってます。

石段を少し上ると、右手が老杉が17本ほど残る江戸時代初期の杉並木。

現在は途中で消滅しているが、前回の贄川からの旅で歩いた

奈良井川の左岸を通って、橋戸一里塚~平沢に通じていたと言われます。

寄って良かったな、の旧街道の面影を残した杉並木です。

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杉並木の先左手に「二百地蔵」。

地蔵堂の前に,聖観音をはじめ千手観音・如意輪観音などの観音像が

194体祀られている。

明治期の国道開削,鉄道敷設の折に奈良井宿周辺から集められたという。

f:id:hansui:20180421062719j:plain二百地蔵の横、桜咲く石段の上は、建立年代は江戸時代と推定されている

八幡神社」。
奈良井宿丑寅の方向にあたり、鬼門除けの守護神として崇敬されたといわれる。

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江戸時代宿場町の風情たっぷりの奈良井の街並みを通り、宿外れの鳥居峠口へ。

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平日のせいか街並みを散策していたのは、ほとんどが外国の旅行者ばかり。

 街並みが終わった宿の南端(京方)に、奈良井宿の鎮守・鎮(しずめ)神社が

祀られてます。

元和4年(1618)疫病がま蔓延した時,それを鎮めるため下総国香取神宮から

勧請して祀ったとされ、本殿は、江戸時代初期を示す一間社流造り・こけら葺きで

全体に漆が塗られているそうです。

ただし、拝殿一体の覆屋がかけられているので、祭りの時以外は見ることができない。

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旅の安全を願ってお参りし、左手の楢川歴史民俗資料館を過ぎると、

いよいよ木曽路難関と言われる鳥居峠への上り口の石段です。

石段前で中山道第23回目、旅立ちツーショット。

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AM10:30、がんばんべ~・・・

石段を上るとすぐに「右上 鳥居峠 左下 奈良井宿」の道標石塔や,

鳥居峠まで2.3km」の案内表示板が建ってます。

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少し草道を上るとあっけなく車道に出て、右に進むみ「ならい荘」入口を過ぎると

右手に、信濃路自然遊歩道中山道マップの看板と、昭和47年に復元された

石畳の登り街道が現れ、歩きずらい石畳を踏みしめながら山道へ。

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ボタンネコノメソウを見つけたりで、草におおわれた石畳を上って行き、

渓流を二回木橋で渡り、木立の中の歩きやすい登り道になってきます。

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さらに高度を上げると「木曽駒展望台入口」の案内板。

路傍に積まれた石に囲まれて、小さな道祖神がひっそりと佇んでいる。

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展望所では期待していなかったが、樹の間から雪をかぶった

中央アルプスが姿を見せました。

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中央アルプス木曽駒ヶ岳も登ったことがあったね~

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展望所から下り街道へ戻ると、藪原方向からの5人連れの外国人ファミリィー。

道祖神を見つけて、歓声を上げてましたね。

言葉からイタリアの家族かな?

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明るい日差しを受けながら、緩い草道のアップダウンを繰り返し、

いつの間にか高度を上げて行ってます。

山は春待ち、まだ新芽も芽生えが見られません。

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2つの木橋を渡り進むと、鳥居峠1.65kmと刻まれた

信濃路自然遊歩道」の道標、「本沢自然探勝園(葬沢)」と書かれた標柱が建ち、

そばに落書きだらけの「中の茶屋跡」の小屋が建ってます。

茶屋跡のある辺りは, 天正10年(1582年)木曽義昌武田勝頼の古戦場で、

武田方の戦死者500余名で、この谷が埋もれたといわれ,

これを葬った場として「葬沢(ほうむりさわ)」と呼ばれるようになったと云う。

付近の沢は埋葬地(墓地)なんだね・・・こんな所になんで「茶屋」??

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 茶屋跡から ジグザク登り道になり、二体の道祖神を見送り、

ふうふう登りきって、さらに木橋や石橋を渡って緩くアップダウンを繰り返して

ゆくと、

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日本橋から65番目、鳥居峠の一里塚跡石碑とともに、鳥居峠の説明板が

建っている。

鳥居峠は標高1,197メートルで、和田峠よりも低く、ほぼ碓氷峠と同じ高さ

である。そして、鳥居峠犀川千曲川信濃川となって日本海に注ぐ奈良井川

太平洋につながる木曽川分水嶺をなしている。因みに、この峠は古くは奈良井峠

あるいは藪原峠と呼ばれていたようだが、戦国時代に木曽義元が松本の小笠原氏と

戦った時に、戦勝を祈願してこの峠の頂上から御嶽を遥拝したところ、見事に勝利

を得たため、峠に鳥居を建てたことから「鳥居峠」と呼ぶようになったという。」

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一里塚は面影もなく、地図や文献などなどにより、「このあたり」としたとか。

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実際の鳥居峠はここではなく、もう少し登ったところにあるようです。

 一里塚跡を過ぎ橋を渡り、鳥居峠0.98kmという実に細かい距離道標を

見送って山道を行きます。

山道を女性ガイドさんに引率された、10人ほどの外国の方が下ってきます。

こんにちわ・・コンニチワ

藪原駅9時20分で下車しましたか?」

「ええ、下車してここまで来たんですよ」

「やあ、私たちは藪原でその電車に乗って奈良井駅で降りて、

  藪原へ向かってるんですよ」

ガイドさんが皆さんに通訳してます。

「オオ、ガンバッテ!」

お互い手を振りながら別れました。

出合うは外国の方ばかり!

「まるで、海外の山道を歩いてるようね」てカミさん。

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草道になったり石畳になったり、さらにジグザグに急登すると道標の建つ林道へ

飛び出します。

林道は旧国道であったようです。

自然石の道標(右)と二基の馬頭観音(左)がありました。f:id:hansui:20180422204046j:plain

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林道を左へ曲がり100m程が、かつては「中利茶屋」があった

「峰の茶屋跡」でした。

現在は昭和44年復元された、トイレ付の立派な休憩小屋が建ち、

脇に清水が流れる水飲み場もありました。

ここでも聞こえる言葉は外国語。

単独の日本男性のほかは、外国のトレカーばかりだね。

小屋の北側からは奈良井宿や、遠く平沢の集落が見渡せました。

(写真は何故か?ピンボケだった)

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丁度お昼の時間。

綺麗に掃除もされている小屋に入り、いつもの栄養補助食品でお昼に。

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この付近が美濃と信濃の国境であった標高1197mの「鳥居峠」の近く。

また、木曽川奈良井川の源水峰で、木曽川は太平洋へ

奈良井川犀川千曲川信濃川と名を変えて日本海へと分水嶺をなしている。

(実際の峠はもう少し先)

 

休憩を終えて、切通しになった旧国道脇の登り草道へと足を進めます。

この辺が峠の頂ではなかったのかな?

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 登ってすぐに左上に、御嶽信仰の御岳講明覚霊神碑が建っている。
傍らの説明板には、「御岳を信仰する講社が建てた霊神碑と伝えられている。

当時の御岳信仰の盛大さが伺えます」とあります。

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すぎて緩く曲がると下は峰の切り通しで、奈良井方向は見えなくなり、

藪原方向が開けてきます。

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その先が旧国道切通で少し狭くなったが開けた台地で、

鳥居峠頂上(1,197m)ではなかったのかな?

往時は3軒の茶屋があったといわれてますが、御嶽山を背景に描いた

栄泉画・奈良井宿はここにあった茶屋がモデルでしょうか。

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そこから少し下ったところに、明治11年の北陸東海御巡幸の際に

一時休まれたという、明治天皇駐蹕所碑が建っている。

f:id:hansui:20180423092800j:plain 旧中山道は、この先から藪の中に分け入る細い道だそうですが、

その先はほとんど通行不能状態のため、先の短な丸太階段を下ると、

旧国道、林道、明治道明治などがの交差する開けた場所になり、

峠道案内図が建ってます。

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おっ、遠くの山越に姿を見せるあの白い山は!!

やあ、感激!木曽の御嶽山(3063m)でした。

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御嶽山は夫婦の思い出の山です。

初めての山小屋泊りで、あの白い頂の左から右方向へと峰々を縦走したことが

ありました。つい最近ではあの痛ましい噴火遭難がありましたね。

しばし足を止め御嶽山を二人で見つめて、山行き談義。

 

自然石や木標の道案内があり、左手の遊歩道へと向かいます。

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おっ、出た~・・熊鐘。

さっきも数回聞こえていたね、外国のハイカーも鳴らしてたんだ。

大きく数回鳴らして、熊さんに警告」!

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我々も鈴を鳴らしながら歩いてます。

カミさん曰く、

「鈴音が聞こえたら餌?が来た!で、

  熊さんも学習能力向上で、かえって合図しちゃってる??」

ははは・・言えてるかも。

なだらかな山道を行くと付近はトチノキの巨木群。

木祖村天然記念物だそうで、碑が建ってます。

そして子宝伝説「子産の栃」

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栃餅というのを知ったのは、風林火山だったかな。

武田信玄の病体力回復に献上された、とあったような。

トチノキ古木と言えば、贄川宿近くの樹齢千年という巨木がありましたね。

贄川トチノキ

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トチノキ群を過ぎて少し先に二つ目の「クマよけ鐘」

御嶽にとどけ!とばかりに鳴らします。

栗に似たトチ実は、熊さんの大好物かな??そんなら熊が多いはず!

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この先に自然石の道標があり、「右中山道 左明治道路」 とあり、

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左手に道標や不動明王の石像があり、右手に石碑、石段で鳥居がある。

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 峠の名の由来となった鳥居をくぐり、大きな供養塔を過ぎると

その先に御嶽神社です。

境内には、たくさんの霊神碑と石像が安置されていて、御嶽山眺望所がある。

鳥居峠一塚のところに建ってあった案内板に書かれていた

「木曽義元が松本の小笠原氏と戦った時に、戦勝を祈願してこの峠の頂上から御嶽を遥拝したところ、見事に勝利を得たため、峠に鳥居を建てたことから「鳥居峠」と呼ぶようになったという。」の鳥居ですね。

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木曽の御嶽山が初夏のような空にポッカリと、今は静かに顔を覗かせてます。

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PM1:00、後半へ続きます。