歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 街道散歩(第九歩)の1

2021年が明け夏が過ぎ、秋がきてよやくコロナも落ち着きをとり戻しつつあり、

来春に向けて中山道の最後の詰めが可能になりそう。

街道も秋から冬へ向かうが、訛った体ならしで「歩いてみるか日光街道」。

2021年11月8日、1年ぶりの街道旅へは、

野木宿を過ぎて友沼地区に入りJR野木駅にて足止め。

11月18日、日光道中は野木駅から旅の再開。

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駅より1km弱北へ歩き、AM10:30 街道(国道4号)をスタート。

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無風、快晴 東へ10分ほど行くと、道左角に微かに南無妙・・と読める「題目碑」は

慶応2年(1866年)建立と街道書に有った。

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道を隔てた北側には、デジカメ拡大で写してみると「馬頭観音」があた。

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題目碑の脇を入って左手、塚の上に祀られたは、塞ノ神、火防の神の愛宕神社

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東隣の小道を入ると、左手に観音堂境内でお堂が建ち、境内の国道に面したところに

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文政2年(1819年)の爾廿三夜塔、嘉永元年(1848年)の十九夜塔、

友沼村女人三十五人と刻まれた観音塔は女人講が建てたものか。

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街道(国道4号)を50m程、右手に冬桜咲く立派な長屋門を構えた屋敷がある。



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4,5分程先街道に北側角に、デジカメ拡大で確認できた

友沼村の馬持ちが建立したという馬頭観音があった。

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更に300m程先、国道北側にガラス張りの仁王門を構える真言宗法音寺。

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仁王像の彩色は緑色で、境内内側には持国天や廣目天像が祀られている。

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仁王門を入ると山門が有り奥正面に本堂、右手長屋門は庫裏へと続いている。

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山門左手前に、奥の細道松尾芭蕉が間々田に宿泊したという、

安永9年(1780年)建立の、「道ばたのムクゲは馬に喰われけり」の

句碑があった。

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法音寺一帯はかっての法音寺城跡だたとの記述もあった。

法音寺前の交差点、向かい角には友沼八幡神社(正八幡宮)があり、

日光参拝の将軍が古河を出て、最初に休憩する場所で御休所跡と街道書にある。
筑波山が正面に見える景勝地であったという。

本殿横に樹齢550年とい大欅があった。

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の途

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次、こ

f:id:hansui:20211129155815j:plain周辺はかっては筑波山が見える景勝地で、数軒の茶屋があり立場であったというが、

面影は全く見られない国道沿いの住宅地。たったったと街道旅人が追い越していった。

f:id:hansui:20211129160529j:plain東京から68.7k、野木町から小山市間々田乙女地区に入る。

f:id:hansui:20211129160743j:plain乙女地区へ入って5.、6分、大きな榎の根元に鳥居、石灯籠、

祠が祀られたところは、江戸から18番目になる「乙女の一里塚跡。

f:id:hansui:20211129161405j:plain先左手には、若宮八幡宮

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参道を入ると、境内覆屋の中にに銅製の大日如来坐像が鎮座する。

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露座の石仏で「濡れ仏」と呼ばれ親しまれていた。

「覆屋建立記念碑」によると、
「宝永6年(1709年)、江戸湯島の渡邊九兵衛が父母の供養のため鋳造し
その生国に安置したと伝えられている

神社のものでは無く、神社の東側にある満福寺の寺宝」とあったが、

満福寺とは、若宮八幡神社別当寺で廃寺でにでもなってるのかな?

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街道へ戻ってすぐ右手にパスタレストランがあり、早めのランチ

(サラダ、スープ、ドリンクセットで美味しかった、御馳走様)

f:id:hansui:20211129170043j:plain2分程先左手に明治22年建立の如意観音像の十九夜塔

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車往来の激しい国道を行き。東京から70km距離表を過ぎて、しばらく行くと

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右手に門前に新たに建立された様子の仁王像を据えた佛光寺

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境内に文久元年(1861年)の十九夜供養塔、

十一面観音像を安置した観音堂(観音像は厨子の中)がある。

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佛光寺の向かい、国道北側に村社八幡宮の大きな社標と、

1703(元禄16)年に建立された、市内で5番目に古い神明鳥居型式石造鳥居鳥居。

伸びる参道は「乙女八幡宮」参道。

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八幡宮は、創建は鎌倉時代と伝わる神社。

近くを流れる思川は、徳川家康関ケ原の合戦の為船で江戸へ向かったといい。

思川には江戸時代には乙女河岸が設けられ、日光東照宮の資材などが陸揚げされ、

商人たちからの信仰も厚かったという。

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20m程東へ進むと、間々田駅入り口交差点だが、

まだ間々田宿中心部はもう少し先。

時刻はPM1:20,時間は早い。

先へ進み、間々田j宿中心部を抜けて、約7km先の小山宿を目指します。

f:id:hansui:20211129182447j:plain続きます・・


に大境内に大日如来坐像(3枚目写真)がある
戸外に安置されていたため濡れ仏と呼ばれていたが今は屋根が出来ている

宝永6年(1709年)、江戸湯島の渡邊九兵衛が父母の供養のため鋳造し
その生国に安置したと伝えられている

神社のものでは無く、神社の東側にある満福寺の所有となっている日如来坐像(3枚目写真)がある

戸外に安置されていたため濡れ仏と呼ばれていたが今は屋根が出来ている

宝永6年(1709年)、江戸湯島の渡邊九兵衛が父母の供養のため鋳造し
その生国に安置したと伝えられている

神社のものでは無く、神社の東側にある満福寺の所有となっている

東京
こで将軍が休憩したところである

将軍家御休所跡と書かれた説明板があった

古河を出た一行が最初に休憩する場所で
筑波山が正面に見える景勝地であった様

黄昏の富士の山

12月、師走入りの夜明けは、豪雨で明けた。

そらは陽が昇るとともに急速に青空が広がりだし、日中は18℃と10月中旬並み。

空の青さに魅かれ、富士山の見える農道へ夕刻の散歩へ。

黄昏の空は、大きな雲がながれ、赤焼け空には成らなかったが、

富士はくっきりと浮かび上がってきた。

バシャバシャ写して楽しんだ、写真を順に並べただけですが、ZISOアルバムに。

PM4:30

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PM4:40

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PM4:45

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日没

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PM4:50

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夕焼け富士

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pm4:55

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PM4:59

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明日は再び師走の寒空に戻る様子。残りの日々、穏やかに願って・・・  完



 

 

新座市 金鳳山平林寺 秋のアルバム

各地から紅葉便りが聞かれますが、埼玉県新座市臨済宗、金鳳山平林寺も、

見頃を迎え、次の週末は大変な人出が予想されそう、とあった。

それではと週末前の11月26日(金)、電車、バスを乗り継いで4年ぶりに

訪れてきた。

平林寺・総門(県指定充当文化財

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臨済宗、金鳳山平林寺

平林寺は、永和元年(1375年)、現在のさいたま市岩槻区に創建され、

その後寛文3年(1663年)年、川越藩主であり、徳川幕府に老中として仕えた

松平信綱の遺命によって野火止へ移転された650余年の歴史を有する、

関東の名刹寺院。

13万坪以上にも及ぶ平林寺境内林は、昭和43年(1968)、国の天然記念物に指定され、

武蔵野の雑木林の趣を残す貴重な文化財として、継続的な整備と管理が行われている。

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山内は、四季折々の雑木林の風情と、開創650余年の古刹の禅風を湛え、

特に紅葉の秋は関東の紅葉名所として知られ、大勢の方々が散策に訪れています。

錦秋の境内

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仁王門の山門(県指定有形文化財

築350年の風格を湛える平林寺の山門は、

江戸時代前期、岩槻から移転された際に移築。

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山門を振り返り、

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茅葺屋根の端正かつ威厳ある佇まいは「仏殿」県指定有形文化財

本尊には釈迦如来坐像、脇侍には迦葉尊者と阿難尊者を祀る。

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これより奥、寺院中心の本堂や禅修行道場へは2018年より、

散策路変更にて立入ることは出来ません。

パンフを見ると散策路は、従来より約半分の地域になってるようです。

奥の建屋は鐘楼堂

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戴渓堂(たいけいどう)
日本に書法・篆刻を伝えた独立性易(どくりゅうしょうえき)禅師を祀る。

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仏殿(右)中門(左)

中門より先へは入れません。

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総門をそのまま小さくしたような造りの中門、県指定有形文化財

総門、山門、仏殿、中門の4棟は総門から一直線上に配されていて、通年閉門。
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放生池越に半僧坊感応殿

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うっそうたる境内林

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平林寺は大河内松平家菩提寺で、幕府初期尾老中を務めた松平信綱夫婦の墓所など

約3,000坪の墓域に、一族歴代の墓石170基余が建ち並んでいます。f:id:hansui:20211127071642j:plain

松平信綱は、第3代将軍家光や第4代将軍家綱の幕府老中も務め、

島原・天草の一揆鎮圧、明暦の大火処理、また川越藩主として玉川上水

野火止用水の開削事業も行い、「知恵伊豆(ちえいず)」と称えられた。

松平信綱夫婦の墓所

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半僧半俗の姿をした摩訶不思議な神通力を持つ守護神を祀る「半僧坊感応院」

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半僧坊感応院専用門

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久しぶりの豊かな木々の紅葉に囲まれた平林寺、いい散策の一日でした。

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令和3年11月26日、埼玉県新座市野火止、臨済宗、金鳳山平林寺。  終 

 



























 

歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 街道散歩(第八歩)

東海道五十三次を3年半かけて完歩し、続いての中山道69次は

2019年11月24日 近江の国武佐宿到着にて旅は足止めし、
翌春の京都到着を桜の季節にとして冬ごもり。

そしていよいよ大詰め目前でのコロナ大騒動。

2020年春を迎えましたが、なんと日本中どころか世界中の大騒動に。

春が過ぎまもなく梅雨の季節。

ようやく全国的に鎮静化しつつあるものの、まだまだ完全開放とはなりません。

特に首都圏内はかなり自由になったとはいえ、

まだ全面的とは言えず、他県では「ご来県は遠慮ください」の地方もあり、

自由往来はもうしばらくは控えた方がよさそう。

それなら、中山道を歩き終えたら次は・・と予定していた「日光街道」へ

ひとまず一歩を踏み出すことに。動ける歩けるうちにで、

2016年6月16日、日本橋3度目の日光街道旅立ち。

 

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と旅立ったが、その後は残念ながらコロナは再炎上状態が続き、

マスク無しでは外歩きもままならず、なにせ今年の猛暑がすごくマスク装着の

街道歩きはお手上げで、再び小休止し秋風吹く秋までお預け。

秋風が吹き、コロナも少しは状況もよし、とは言え、まだまだ遠出までは・・

 その後台風や悪天候で、今年の秋は不安定な日々続き。

GOtoも始まり、まちかねた方が多く利用してる様子にわれわれも、

と思ったが、まずは手始めに街道の歩き旅だ。

コロナもまだまだ不安定ではあるが、三密は避けられると、

お天気の様子を伺い、思い切って10月14日、歩き旅の再開へ。

と、てくてく歩いて 2020年11月15日(日)、

利根川を越え常陸の国(茨城県)入りし、江戸より9番目の古河宿で足止め。

冬到来ではあったが、天気予報と睨めっこして好天日を選んで、年内にあと2度は

足を進めるつもりだったが、なんとコロナが再蔓延で厳しい状況。

ついに永~い一休みになってしまった。

 

2021年が明け夏が過ぎ、秋がきてよやくコロナも落ち着きをとり戻しつつあり、

来春に向けて中山道の最後の詰めが可能になりそう。

街道も秋から冬へ向かうが、訛った体ならしで「歩いてみるか日光街道」。

2021年11月8日、1年ぶりの街道旅へ。

朝の冷え込みは厳しくなったが、日中は日差しも強く、快適な歩き日和りになりそう。朝の家事をすませ、初めて自転車で駅へ向かい電車を乗り継いで、

前回足止めの茨城県古河へむかうも、うん??アッ乗換駅を乗り越した!!

なんてドジを踏みながら、ようやく古河駅へ降り立ち、

AM9:30、1年振りに旅の再開。

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駅前で再開ショットを1枚、街道へむかいます。

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途中、左手道へ入り、本町2丁目交差点へ出るところを直進して街道へ出てしまい。

街道へ出てから、高札場跡、本陣跡を探していったり来たり。

う~ん、やっぱり街道旅の感が鈍って来たな・・・

(カミさん、鈍ったんじゃなくて呆け・・それも有り)

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少し江戸方面へ戻った本町2丁目交差点角に、高札場(跡)の案内板、

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向い側へ道を渡って、右手へ行くと

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遺構は何もないが、「古河城下・本陣」跡の石碑が建っていた。

吉沢家が務め建坪が117坪だったという。

周辺が古河宿の中心で、付近に脇本陣問屋場が有ったようだが、

示すものは見当たらなかった。(見落とし?)

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本陣跡を横に見て日光方面に歩き始めると、

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道路より一段高い鞘堂に、文化11年(1814)に建立されたという「金比羅宮」

当時の社殿は焼失したが、幸福神として信仰されたよし。

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すぐ先の本町交差点で、街道は左折してゆくが、交差点北角に祠(常夜燈?)を

乗せた、

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文久元年(1861年)建立の「左 日光街道 →江戸道」と刻まれている、

日光街道古河宿道標」が建っている。

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本町から左折すると角は、大安3年開基の神宮寺。

1455年古河公方の始まりとなった足利成氏とともに鎌倉からこの城に移って来た、

由緒ある寺である。

その後元和6年(1620)にこの地に移されて神宮寺と改号し、元禄4年(1691)に

類焼し再建され、大正7年(1918)に大修理して現在に至っている。

この寺に安置されている室町時代の作である「十一面観世音菩薩」は茨城県

有形文化財に指定されている。

神宮寺駐車場には少し前まで「大田屋旅館」が建っていて、旧脇本陣だったが、

2005年に解体されてしまったという。

(ただし、高札場の説明文中では、二丁目に脇本陣が二軒並んでいたとあるが、

ここを入れると脇本陣は三軒になってしまう。

(また、天保十四年の記録では脇本陣は一軒だけの記録もあるようで、ちょいと不明)

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おっ、TVバラエティーで話題になった「ないものはないの金物屋

「なんでもあります」「無いものは、当然ないですよ」・・どっちにも取れるね。

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次の十字路を右手に行くと「よこまち柳どおり」で、

江戸時代は 「横山町通り」 と呼ばれ、古河宿の北玄関口として旅籠や茶店が並び、

ここには昔遊郭があったといい大変賑わっていたそうです。

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よこまち柳通りを入ってすぐ左手に「古河提灯傘竿もみ祭り発祥の地」の

大きな石標があった。

長い竹竿の先に提灯をつけ、大勢で激しく揉み合いながら提灯の火を消し合うという

奇祭のだそうです。

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向いに創業100年という川魚、鰻料理店、武蔵屋。

明治44年(1911)の創業で、建物は明治中期に建てられたもの。

登録有形文化財に指定されている。

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よまち柳通りには、古い商家が何軒か続き、往時の雰囲気を色濃く残している。

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武蔵屋の先を左手へ入ると、古河藩初代藩主土井利勝が古河城の鬼門除けとした、

真言宗豊山派龍見山舎那院徳星寺がある。

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徳星寺は、源頼政の家臣猪早太の曾孫である徳星丸が願主となって、古河城にある

龍崎に建立された。その後、古河城に移ってきた足利成氏ら歴代古河公方の祈願所と

なり、更に古河城鬼門除けなど、幾多の変遷を経て現在地に移設された。

入口には万治4年(1661)の千手観音堂、本堂前には八角形の大師堂がある。

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街道に戻って50~60m程進んだ左手の路地を入ると、

突当りに曹洞宗の麒翁山長時院正麟寺がある。
古河城主小笠原家により開基され、小笠原秀政が古河城主だった天正18年(1590)から慶長6年(1601)の創建と云われている。

本尊は釈迦如来像で、古河藩家老で、蘭学者でもあった鷹見泉石の墓所がある

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正麟寺の北側の道路を隔ててその先に赤い山門があり、

日蓮宗の長久山妙光院本成寺がある。
本成寺は、正和3年(1314)日印上人が鎌倉に開基したのち、天文年間(1532-55)に

下総国猿島郡伏木村に移転し、さらに慶長7年(1602)、古河城下北端の現在地に

移転したと云われる。

境内には瘡守稲荷神社・鬼子母神堂などがあった。

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街道に戻ると県道261号線に合流する逆Y字路中央に、古河宿と記された

行灯のモニュメントが建っていて、ここが古河宿の北、日光口であった。

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暫く街道を進むと左手に塩滑地蔵菩薩の標柱が建っており、その奥に地蔵堂がある。
この地蔵菩薩は、身体の具合が悪い所に塩を塗ればご利益があるという。

街道書では、かつては、御堂に安置されている地蔵尊に直接塩を塗りつけて

いたため、著しく磨耗して痩せ細っているというが、堂内が暗く良く見えなかった。

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200mほど進んだところに標識の裏側が見え、ひょいと振り返ると、

標識に「古河市」記されていたが、街道書でいう国境のようだ。

先は下総国茨城県)から下野国(栃木県)へと足を進めることになる。

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塩滑地蔵菩薩の先で下野国(栃木県)に入ると、国道4号に合流の野木交差点。

その手前左手に野木神社の社標と一の鳥居が建っている。

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ここから500m程の欅などの大木の参道を進むと、

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野木神社が鎮座している。

野木神社は、仁徳天皇の時代(313-99)の建立で、

社殿の説明板によると、

平安時代征夷大将軍坂上田村麻呂が、延暦21年(802)が参詣し、

蝦夷の反乱の戦勝を祈願、無事平定し、そのお礼に社殿を新築した。

鎌倉時代には、源頼朝社領を寄進しました。

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見事な大木は樹齢650年以上といわれる「大ケヤキ

 

 

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坂上田村麻呂が植えたという境内の大イチョウ(樹齢1,200年)
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この銀杏大木には野生のフクロウが住み着いてるそうで、

毎年5月頃に、子育て中のフクロウの親と雛の姿を観察することが出来るという。

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参道をショートカトして街道(国道4号)へ戻ると、おっ、日本橋から64km!

国道は車の往来が激しいが、歩道帯確保されてるのが有りがたい。

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その先道角の馬頭観音は、昭和6年(1931年)の建立と街道書。

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その向かい角塀に「木戸跡」の標識看板で、

江戸から10番目、野木宿の入り口(江戸口)だった。f:id:hansui:20211110131555j:plain

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民家の塀脇に、日光道中野木宿の解説があった。
野木村の成立は、野木神社の周りに住居したのが始まりで、

文禄年中(1592-95)に街道筋へ出て、馬継が開始され、新野木村が成立した。

天保14年(1843)の宿の規模は、

本陣1軒、脇本陣1軒、問屋場4か所、旅籠25軒、人口527人であった。

と記されている。

この看板の後ろ一帯が、野木宿熊倉本陣跡だった。

問屋を兼ねて熊倉家が務め、建坪は157坪あったという。

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大きな実はカリンのようだが、小枝に突き刺したのかな??

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道を挟んだ向かいに脇本陣があったと街道書にあるが、

どうしても見つけられないままに、足を進ることに。

本陣跡を過ぎると、左手に真言宗豊山派の萬徳山満願寺がある。

江戸時代までは野木神社の別当寺だった。満願寺の創建年代は元和2年(1616)と

云われ、山門脇に元治元年(1864)の十九夜塔がある。

栃木県には、女性の守り神の十九夜塔が多く、街道筋にいくつも

見かける。「十九夜さま」と呼ばれて信仰が厚かったようだ。

境内には御影堂、観音堂も建っていた。

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満願寺の先の信号十字路左角の民家の生垣の前に、
江戸日本橋から数えて17里目の、野木の一里塚跡がある。

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野木一里塚の直ぐ先左手に、浄土宗の清光山浄明寺がある。
浄明寺の創建年代等は不詳であるが、山門前に嘉永5年(1852)の十九夜塔・

宝暦10年(1760)の庚申塔などがあり、境内には江戸後期から明治初期にかけて

活躍した川島弥九朗の句碑がある。

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返り咲きのタカサゴユリ

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八重咲梅か?? 桃か??

落下しなかった実が焦げたような色合いで沢山残ってるし、

この木、この花なんの樹なのか??。

(いまだに不明)

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浄明寺から300m程先の左路地角に、風化の進んだ道標が建っている。
道標には、「是より大平山道」 と刻まれていると街道書にあり、

大平山神社への参詣道を示している。

道標の傍らには 「野木宿道標」と記された解説が建っている。

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道標の先で街道が緩やかに右カーブする左手に観音堂がある。
観音堂の創建年代等は不詳で、堂内内には3基の厨子があった。

境内には、文化12年(1815)の普門品供養塔・宝篋印塔・馬頭観音

嘉永3年(1850)の十九夜塔などの石造物が建っている。

普門品 とは お経のことで、 念仏供養塔。宝篋印塔は、墓塔・供養塔などに使われる

仏塔の一種。

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先左手に猿田彦大明神

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日本橋から国道で66km。1kmごとに建ってるね。

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街道を進むと、左手の売地の看板の建っている空き地に馬頭観音が建っている。

街道書では大正8年(1919)の建立だそうな。

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20分ほど淡々と行くと、左手に立派な長屋門の旧家があった。

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野木の街中を進む右手遠くの山は、平野のまっただ中に浮かぶ筑波山

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長屋門から20分ほど進むと、野木駅入り口交差点。

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時間は午後2時を回ったばかりだが、再開街道旅は此処までとして、野木駅へ。

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野木町の花は「ひまわり」で、木は「槐(えんじゅ)」なんですね。

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古河駅から約6,7km約4時間半。

あちこち寄り道で1年振りの街道歩きだたが、もう少し足腰慣れさせなけらね~

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電車を乗り継ぎ、月と金星の大接近夜空を見上げながらPM5:10帰宅フィナーレ。

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歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 街道散歩(第七歩)後編

利根川を渡り、中田宿へと入ります。

江戸時代までは下総の国(千葉)であったが、明治8年に下総の内の利根川

北側地域が茨城県編入されたので、日光街道茨城県の西のはずれを、掠るように

北進する真直な一本道となっている。

この茨城県の宿場は、中田宿と次の古河宿の2つで、街道は現在県道228号。

中田宿北の入口と推定される利根川堤交差点に火の見櫓が立っていて宿の案内板も

建っていた。

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続き、

天保14年(1843年)日光道中宿村大概帳によると、 

第8宿 中田宿 江戸より8番目

栗橋宿より18町 約1.6km 江戸より約59.8km 14里34町

本陣1、脇本陣1、旅籠6軒 家数69軒、宿内人口403人

 古河資料によると、

「中田宿は、房川の渡しを控え元和10年(1624年)に創設された宿場町で、

栗橋宿とは合宿で、隣の古河宿や杉戸宿への継ぎ立て問屋業務は、半月交代で務めた。

江戸時代の中田宿は利根川に面して、現在は河川敷となってしまっている場所に

あった。再三の移転を経て、現在のような中田町の町並となったのは、

大正時代から昭和時代にかけての利根川の改修工事によってである。 

本陣・問屋や旅籠・茶店などの商家が、水辺から北へ、船戸、山の内、仲宿(中町)、上宿(上町)と、途中で西へ曲の手に折れながら現在の堤防下まで、延長530mほど続いて軒を並べていたが、ほとんどは農家との兼業であった」

現在は、移転を繰り返し近年の再構築された街だそうで、往時の面影は全くない。

 歩道帯の無い通りを行くと、大きな神社の看板が右手に、

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 奥に神社がと思ったが、通りの左手に「鶴峰八幡宮」があった。

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源頼朝によって、養和元年(1181)、相模国鶴岡八幡宮より分霊を勧請し創建
この時、鶴岡八幡宮の守護神ともされる丸山稲荷も勧請する。

その後、奥州藤原氏討伐の際も頼朝はこちらで戦勝を祈願したとされる。
天福2年(1234)、下総国香取神宮より分霊を勧請し合殿となる
永禄11年(1568)、所領五千石・社地五百石を寄与される

元々は現在の利根川河川敷付近にあった上伊坂村に鎮座して、
江戸初期に日光街道の中田宿が開宿された時、宿場の東にあった古墳上に遷座

大正元年(1912)、利根川改修工事の為に現在地に遷座

御祭神は誉田別命神功皇后経津主命

境内には「日光街道・旅の神」と「「水神社」「八坂神社」「浅間神社」「道祖神社」「琴平神社」が祀られており、 江戸期には日光街道鎮守ともされた神社でした。

日光街道を歩く旅人は、旅の安全を祈る5柱を祀る末社殿の前で足踏みをして安全を

祈願したとされ、現在も旅の安全や足腰の健康を祈願する方がいる。

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「鶴峰八幡宮」の隣には浄土真宗大谷派「光了寺」がある。

 昔は武蔵国高柳村(埼玉県栗橋町)にあって、高柳寺といい、弘仁年間(810~823)に弘法大師が創立したと伝えられている

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ここは静御前を葬ったという栗橋の「高柳寺(光了寺)」が、利根川改修工事などに

より移転したもので、山門脇には石柱が立っている。

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光了寺には、静御前が京都で雨乞いの舞を舞ったときに使用した
舞衣、守本尊、義経から拝領した懐剣、鎧が保管されています静御前後鳥羽上皇から賜ったという「蛙蜊龍(あまりりゅう)の舞衣」、義経肩身の懐剣・鐙(あぶみ)等が保存されている、という。

(予約をすれば拝観ができる、との記述があった)

境内には芭蕉の句碑が置かれている。

- いかめしき音や霰の檜木笠 -

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秋の街道だな~・・・

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この付近には日本橋から15遍目、中田の一里塚があったようだが、

示すものは全くなし。

「光了寺」からすぐ先、2分ほどの左手に広い駐車場奥に山門が見える。

本尊が阿弥陀如来という円光寺で、街道書では見事な庭園ありと記されてる。

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さらに3分ほど行くと右手には浄土宗本願寺があり、

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境内に文化年間(1804~8年)に発掘された板碑がある。

我が家の宗派なのでお参りをする。

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さらに3分ほど先の左手に真宗顕正寺の大きな石柱寺標が立ち、奥に伽藍が見えた。

会津若松公の庇護をうけた、と街道書にある。

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時刻も昼を回り、街道から右手に折れて平行して通る国道4号へと出で、

右手に、わが街発祥のうどんチェーン店の店舗があり、ほかに店もないので

昼食へ。

40分ほど足休めもして再び街道の県道228号原中田線へ。

500m程行くと、JR宇都宮線東北線)の踏切。

f:id:hansui:20201117151734j:plain踏切を渡るとほぼ直線の街道が延々と続き、両側に松の木が植えられ、広い道ではあるが街道らしい風情を演出している。

あっ、うどん店があった。

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500mほど行くと「中田の松原」と書かれた説明版が立っていた。

日光街道の踏切辺りから原町入り口にかけて古河藩二代藩主永井信濃守が植栽した

松並木があった。

街道は幅5間(9m)と地は広く両側を一段と高くして松が植えられた。

と説明板にあはあった。

東海道にもこれほどきれいな松並木はない。」と言われたほどであったという。

ご多分に漏れず、戦時中の油採種のため伐採され、植え替えられた松並木ではあるが、

なにか、江戸時代の街道を歩いてる感が湧いてきますね。

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付近の地名は茶屋新田で、街道書では右手奥に香取神社があり、付近は「立場茶屋」があった、と記されているが、示すものは無く不確定。(写真左・ここかな?)

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200m程先左手に少し入った畑地一角に石仏石塔群が並んでいた。

文政(1800年代)の文字も刻まれていてるが、説明板らしきものなく、

詳細は不明。なぜここに祀られてるの!て話しかけてた。

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木に登ったカボチャ

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こんもりとした林の中に、断固反対!

ズームで見ると茶園の看板が見えた。周辺は区画整理計画があるのかな。

我が家周りも現在開発調整指定が解除され、大規模再開発事業が始まっている。

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まだまだ続くまっすぐな街道。

利根川河川の花火かな?、と、たんたんと石仏石塔群から30分ほど進み

国道354の原交差点を越えると地域は原町へ入り、右手屋根付き小屋下に十九夜塔

があった。

街道書では、原町女人講中31人建立し、台石に「関宿境道」と刻まれ道標を兼ねた、

とあった。

(関宿とは下総の関宿藩ということ?)

(マンホール蓋デザインは、国道354号線の三国橋周辺の川岸で行われる花火大会の

 風景のデザインだった)

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 道路を挟んだ古河第二高等学校の校庭に「原町の一里塚」の西塚が復元されている、

と街道書にある。

江戸・日本橋から十六番目(十六里目)の一里塚だったが、陽が当たり影が出来て

よく判別できない。

ネット越しに覗くと、盛り土の上に塚木の榎が繁り、白い棒杭が立っている様に

見えたた。

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高校を過ぎると道には歩道がなくなり、道幅も狭く車の往来もはげしい。

道端を注意しながらキョロキョロ進みます。

街道書では50m程先の民家の門脇に道標があり、「左にっこう 右みちのく」と

刻まれてる、とありカミさんと注意しながら歩いたが、見つけられなかった。

原町自治会館の先には、「祭禮道道標」がある。

祭禮道は古賀の産土神・雀神社祭禮の際に旅人の迂回路になったのだそうだ。

またここが「原町口木戸跡」と言われ、古河城下の江戸口(南口)で、

土塁が築かれ番所があった、と街道書にある。

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街道沿いには小型の常夜灯風道案内が現れてきて、道も少し広くなった。

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道の左右に大きな樹が見えてきて、左手は真宗大谷派浄善寺で、本尊は阿弥陀如来

大木は銀杏の樹だった。

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50m程先で、左手からの公方通りと合っした台町三叉路が、古河宿の江戸口。

街道は枡形になるかな右手に折れて古河宿に入って行く。

角口には大きな常夜灯型モニュメントが建っていた。

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古河宿 江戸から9番目

中田宿から1里20町 5.6Km、江戸日本橋から16里4町 約65.6km、

江戸時代の全期を通じて、古河藩管理の古河三宿(中田・古河・野木)の一宿。

天保14年(1843年)『日光道中宿村大概帳』

本陣・脇本陣は各1軒、旅籠が31軒で、宿内の家数は1,105軒、人口は3,865人。

古河城は岩槻城宇都宮城と並び、将軍の宿城とされており、日光街道における

主要な宿場の一つであった。

 

左手に稲荷神社があり、参道口には安政2年(1855年)建立の如意輪観音像、

十九夜塔などがある。

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隣に長谷観世音寺標が建っている。

古河城の鬼門除けとして明応2年(1493年)、古河公方足利成氏が鎌倉の長谷寺より勧請したもので、累代古河城主が祈願をこめたところとされています。
背丈2メートルあまりの十一面観世音菩薩立像が安置されています。
日本三大長谷のひとつだそうです。

(次回に立ち寄ることとし、足を進めます)

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50m程先に古河城御茶屋口門跡の石碑が建っている。

古河城お茶屋口は、古河藩主 土井利勝が三代将軍家光の参詣の際もてなすための

茶屋を置いたことにはじまるといわれています。

将軍の日光参詣の宿泊・休憩は、岩槻・古河・宇都宮の三城を原則としていました。

参勤交代や日光参詣で通行する格式の高い大名もここで迎え、相手も挨拶をしていくきまりでした。
相手がそれ以下の場合は肴町の御馳走番所で挨拶を受けたのです。

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御茶屋口門から少し戻った右手奥に鳥居がチラと見えていた、八幡神社に寄る。
初代古河公方足利成氏鶴岡八幡宮を勧請、寛永19年(1642)に藩主土井利勝が古河城の鬼門よけとしてこの地に移したものという。

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時刻はPM2:50 帰宅の最寄駅からのバス時刻を考慮し、

古河宿は次回にゆっくり散策することにして、今日はここで足止め。

小路を北側へ向かえば、古河駅前通りへ出て、帰路へ。

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 PM6:20帰宅、第七歩の終了。

秋晴れが続きそう・・次回は・・

歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 街道散歩(第七歩)前編

朝の冷え込みは厳しくなったが、日中は日差しも強く、快適な歩き日和りになりそう。

バス、電車を乗り継いで JR宇都宮線栗橋駅へ。

 2020年11月15日(日)無風、快晴 AM9:30 さあ、行こう。

f:id:hansui:20201116134333j:plain栗橋は、昭和32年に、栗橋町に静村・豊田村が合併し、平成22年3月23日に、

久喜市栗橋町鷲宮町・菖蒲町が合併し、栗橋町は「久喜市」となる。

前回、街道から栗橋駅へ向かった時は気付かなかったが、栗橋駅からすぐに右手へ

入る小路があり、「静御前の墓」と刻まれた石柱の建つ一角があった。

帰宅後調べた静御前についての資料。

久喜市広報歴史だより、静御前の伝承」
栗橋駅周辺の伊坂地区には、源義経の恋人であった静御前の悲恋にまつわる伝承が語り継がれています。

静御前は、舞を職業とする白拍子の磯禅師)の娘で、当代随一の白拍子と評されていました。室町時代初頭に書かれた『義経記』には、後白河法皇が雨乞いの儀式で100人の白拍子を順番に舞わせたところ、100人目の静御前が舞うとたちまち黒雲が現れ、3日間雨が降り続いたことから、法皇より「日本一」と称されたと記されています。

この静御前にまつわる伊坂地区の伝承では、兄源頼朝に攻められ、奥州に逃れた義経の跡を追う途中、義経の討死を知り、悲しみのあまり病となり、文治5年(1189)9月15日に伊坂で亡くなったとされています。静御前の遺骸は、伊坂の高柳寺に埋葬されたと伝えられます。なお、高柳寺は、後に中田(現在の茨城県古河市)へ移転し、光了寺と名を改めています。光了寺には、雨乞いの儀式で与えられたとされる「蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣」が静御前の遺品として伝えられています。

また、栗橋北の経蔵院の本尊「地蔵菩薩像」(市指定文化財)には、静御前の持仏

との伝承が残されています。

現在、栗橋駅東口から徒歩1分の場所にある「静御前の墓」(市指定史跡)は、享和3年(1803)に勘定奉行関東郡代(ぐんだい)であった中川飛騨守(なかがわひだのかみ)忠英が、静御前の伝承を聞き、墓に墓標がないことを哀れみ建立したものです。

この「静御前の墓」には、当初は墓標の代わりとしてスギの木を植えたとの伝承があります。文化・文政期(1804・1829)に編さんされた『新編武蔵風土記稿』には、「静御前の墓」と共にスギの大木が挿絵に描かれています。このスギは、弘化3年(1846)の利根川の氾濫により枯れてしまっています。

大正12年(1923)には地元の有志によって静女古蹟保存会が結成されています。現在では静御前遺跡保存会によって、静御前の命日と伝えられる9月15日には毎年墓前祭が営まれています。静御前の伝承は今もなお地元の人々によって語り継がれ、守られています。

 静御前については別の説もあるそうで、一角に建てられていた説明文の中に、

静御前はこの地で死んだとするが、捕らえられて鎌倉に送られ、源頼朝の前で舞いを命じられ、京に帰されたという話が一般的か? その後は母の故郷の大和高田の磯野の里に帰り余生を過ごしたとも」と記されていた。

f:id:hansui:20201116135848j:plain 真ん中の石碑には「静女之墳」とあり、中川飛騨守が建てたという古い墓石は、

左手のガラスを嵌めた石室に保存されている。

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周りには幾つかの石碑が置かれていて、

左上「坐泉の歌碑」

(江戸時代の歌人、坐泉はこの地にきて静御前を偲んで読んだ句

          村人が、文化3年(1806)に建立したといわれる)

  舞ふ蝶の 果てや夢見る 塚のかげ 

写左下 左「義経招魂碑」右「静女所生御曹司供養塔」

写真右 静御前百五十年祭記念碑。

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一角には、明治20年(1887年)に「静女家碑」(せいじょちょうひ)が建設

され、街道書によれば石碑には、墓域の整備が行われたことが記されていいる

そうです。

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 後にしてそのまま北へ小路を行くと、ここにも石柱があった。

この道が昔からの道のようでした。

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義経と言えば故郷北海道にも、逃れて蝦夷地へたどり着き、アイヌの酋長の娘と

 結ばれ、大酋長になったとの伝説があって、子供のころおばあちゃんから

 聞いたことがある」なんてお喋りしてるうちに、日光道中に戻り、

AM10:00、改めて栗橋宿(埼玉県久喜市)の日光道中街道散歩を始めます。

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第7宿 栗橋宿 

幸手宿より2里3町約8.3km  江戸より14里18町 約58km)

本陣1、脇本陣1、旅籠25軒、宿内家数404軒、宿内人口1741人

天保14年(1843年)日光道中宿村大概帳による)

 栗橋宿は利根川の舟運で栄えた。この地は関東平野の北辺に位置し、関所が置かれ

「入り鉄砲と出女」が厳しく警備された。利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとって

 おり、両宿を合わせて一宿とする記述も有る。

 

街道を北へ進むと、江戸時代末期に建築された商家・橋原屋の二階建て瓦屋根の建物が建っている。店先に掲げられている屋号を記した木札には、明治時代には燃料店を営み、戦後は味噌塩など食料品も扱う、とあった。

往時の栗橋宿の面影を伝える家屋ですね。 

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少し先の右手で、カミさんが「ここの奥に石碑と案内板のようなのが建ってるわよ」

整地されたような、利根川への国道4号の堰堤が迫る空き地の奥に立っていたのは、

栗橋関所跡石碑で、そばに説明板が建っていた。

あれ、なにか場所が違うようだが??

街道書ではすぐ近くに栗橋宿本陣跡があるはずだが・・どう見渡しても見つからない。

後で神社で聞いた話では、

記念碑「栗橋関所址」は、今まで立っていた場所が進捗中の利根川堤防強化事業の

範囲内であることから、旧栗橋町商工会館跡地に仮移転をした、ということでした。 

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久喜市広報資料によると、

日光道中唯一の関所が設置されました。今日この関所は、一般的に「栗橋関所」と呼ばれていますが、江戸時代は栗橋と対岸中田(なかだ)(茨城県古河市)とを結ぶ渡船場の名称をとり、「房川渡中田御関所」と呼ばれていました。

栗橋関所が設置されたのは、江戸時代初頭で、寛永元年(1624)には、関所の警衛にあたる番士が幕府から任命され、関所の近所に定住したと伝えられています。この番士の屋敷跡は、昨年発掘調査が行われ、江戸時代末期から明治時代にかけての屋敷の礎石や茶碗等が出土しています。

栗橋関所では、常時4家の番士が交代で関所に勤務し、これらの任務にあたりました。この当時の業務や日々の出来事は、関所番士の一家である足立家に伝わった日記に詳細に記録されており、これらは現在「栗橋関所日記及び関係資料」として県の有形文化財に指定されています。

栗橋関所は、明治2年(1869)に廃止されましたが、大正13年(1924)に利根川橋の開通を記念して、近隣の人々によって、「栗橋関所址」碑が建てられ、現在は「栗橋関跡」として県の旧跡に指定されています。

 

 付近に栗橋宿の本陣を務めた池田家本陣跡と説明板と、街道書に記されてるが、

これも後で神社で聞いた話ではみんな無くなってしまった、と言っていたが

仮移転はしてないのかな?

他でもお聞きしたがわからなかった・・・

(後て調べてみたが不確定ながら、移転して建ってた関所跡碑の隣側がではないかと

 推測) 

  

 すぐ先は三又道で、現在の街道道筋は右斜めに利根川土手へ上がってゆくが、

付近一帯は利根川堤防強化改修の大規模工事中で、大型の工事重機やフェンスで囲われた一帯となっている。

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三又路突き当りに鳥居が見え、ご祭神・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の八坂神社が

あり、一帯は大規模な工事地帯になっていた。

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久喜市広報によると、

現在は大規模な利根川堤防強化工事が2019年春より始まってた。

 久喜市栗橋地区には、日本最大の流域面積を誇る利根川が流れています。
 この利根川上流部及び江戸川右岸堤防がひとたび決壊すれば、その氾濫は埼玉県内だけでなく東京都まで達し、首都圏が壊滅的な被害を受ける恐れがあります。
 このような被害が発生する恐れのある区間において、堤防の浸透に対する安全性を確保するため、国において堤防拡幅による堤防強化対策を実施しております。

現在、八坂神社周辺地区の堤防強化対策工事を実施しており、平成35年度末(2023年度末)の完成を予定している。
 今後は、盛土工事に併せて、堤防の上に八坂神社を移転させる工事と神社境内の埋蔵文化財発掘調査なども同時に実施していく予定となっております。

張ってあったパネル写真。

写真中心の森が現境内。

左手裏手側の一段高く盛り土された台地には、すでに社殿が見えていて、

2021年春までに移転するという。

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 八坂神社は現在の場所への遷座は、慶長年間(1596-1615)に利根川の大洪水に見舞われた為であると伝えられている由緒ある神社 天王様と呼ばれ親しまれてきた、

栗橋宿の総鎮守で狛犬が鯉になっている。

利根川の洪水の際に鯉が「御神体」を運んできたことに由来するという。

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本殿はすでに高台へ移転したようで、仮本殿の前に狛鯉があった。

八坂神社は約400年振りに遷座する、歴史的時期に来合せたということだね。

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江戸中期設置と見られる立派な狛犬も守ってる。

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幣神の社や石碑も近々高台へ移転の様子。

御神木のケヤキ(と解説板にはあったが??の感じ、葉がちがうような)は、

どうするのだろ。

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神輿蔵が開かれ、移転の準備が始められていた。

久喜市広報

 この神輿は、八坂神社の夏祭り(神幸祭)の神輿で、「天王宮神輿文久三亥(1863)十月吉祥日」の棟札が、昭和45年(1970)の解体修理の時に発見されました。台輪の大きさは、四尺六寸五分(141cm)、高さは六尺五寸(197cm)あり、超重量級と言われ関東では大きな神輿の一つです。

神輿は、永年にわたり渡御が続けられ多くの人たちに親しまれてきました。特に、明治19年(1886)、利根川鉄橋が完成し、明治天皇行幸したおりには、河中で渡御し、勇壮な神輿振りが天覧に供されたと言い伝えられています。

 

作業をされていた若い関係者の方が、見ていってくださいと蔵内へ案内してくれ、

ゆっくりといろいろな神輿にまつわる話を聞きながら、拝見させていただいた。

超重量級と言われる神輿だそうで、昨今の例に漏れづ、当地も担ぎ手が少なくなり、

神輿好きの方々が浅草や各地から来て担ぎ上げるそうです。

あまりにもの重さに、来なくなった担ぎ手も多いんだとか。

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たしかに重量感のある威厳をもった神輿でしたね。

今年は例によって祭りが中止になったそうです。

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神社を出て、街道書にある経蔵院と関所番士屋敷跡を捜し少し歩き回ったが

全く判らず、通りかかった方に場所を聞いたら、経蔵院へは近くを通るからと

案内していただいた。ありがとうございます。

途中に木道標が一か所あったが結構小路を行くので、こっれではたどり着けないな・・

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ようやくたどり着いた経蔵院。

病に倒れた静御前が当寺で養生に努めたが、儚く生涯を閉じた、と街道書にある。

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隣に立つ説明板

栗橋町指定文化財 本尊地蔵菩薩
    昭和三十三年三月二十九日指定
 この寺は、貞観年代の慈覚大師の創建と言われ、最勝玉院とも呼ばれる台密修練の道場であった。
 保元のころ、願行坊宥俊阿闍梨(がんこうぼうにうしゅんあじゃり)が下河辺の荘司であった行平という人の寄付によって再び隆盛した。鎌倉時代、伊予守源義経の愛妾静御前は、奥州にいる義経を慕って侍女琴柱と僕僮を伴い旅に出たが、途中義経の悲報を聞いて、落胆のあまり病気になった。この寺で養生につとめたが、露のようにはかない生涯をとじた。琴柱は髪をおとし、西向尼(さいこうに)と名のって静を弔うために、京都嵯峨野から静御前の御持仏である地蔵菩薩を持ち帰った。その後、西向尼が没してから本尊としてこの寺に祭った。
 この仏像は漆乾製(和紙と漆)の立像で日本で三体だけという数少ない貴重な文化財である。
     栗橋町教育委員会

 

本堂前に年代物の石仏、墓石などが並び、隣には香取神社が祀られていた。

境内内のマンホール蓋には舞姿の静御前がデザインされていた。

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寺入口にはこれも江戸時代の天保と彫られた石仏石塔が建っていた。

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すぐそばに「関所番士屋敷跡」があったそうだが今は工事中で確認できない。

お寺を案内してくれた方に聞き漏らしてしまった。

久喜市資料では、

利根川上流河川事務所の東側近くに関所番士屋敷跡があった。ここは、利根川強化堤防により、埋め立てられる予定という、という記述があったので、香取神社後ろ側付近に跡地はあったようだ。

久喜市栗橋町の資料によると
 関所番士屋敷は、寛永元年(一六二四)に栗橋関所番士の住まいとして、江戸幕府が設けたものである。
 関所番士の定員は四人で、これを二組に分け、毎日明け六つ(午前六時)から暮れ六つ(午後六時)まで、二人一組五日間交代で勤務していた。
 維新期最終の番士は、加藤、足立、島田、富田の四家であった。手当は二十俵二人扶持は、一日五合の割合で、二人扶持は約十俵に当たる。扶持は、幸手宿本陣中村家から送米されていた。
  加藤家、島田家も現存しているが、富田家は、明治二年の関所廃止とともに東京へ移転している。
 各屋敷地とも高く盛土し、いずれも約千四百平方メートルである。
 なお、番士の墓は、常薫寺、深広寺にある。
 

街道に戻ります。

そういえば脇本陣や旅籠跡類も、それらしきものもは見つけられなかった。

八坂神社入り口へ戻り、利根川渡の左折して利根川土手道を登ります。

関所跡碑はかって土手道の途中にあったようです。 

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 土手上へでて川側へ交差点で渡り、右手に進んで利根川南詰めから川を渡ります。

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橋桁下に釣り人、なにが釣れるのかな?

危険注意看板はマムシ!!

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利根川を渡る橋は上り、下り二本の橋が架かていて、右手からの国道4号と合わさる。

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坂東太郎とも呼ばれた利根川は、群馬県利根郡みなかみ町にある三国山脈の一つ、

大水上山(標高1,840m)にその源を発し、本庄市付近で烏川に合流、

群馬県・埼玉県境を流れる。

江戸川を分流させた後はおおむね茨城県と千葉県の県境を流れ、茨城県神栖市

千葉県銚子市の境において太平洋(鹿島灘)へと注ぐ。

江戸時代以前は大落(おおおとし)古利根川が本流の下流路で東京湾に注いだが、

度重なる河川改修によって現在の流路となっている

(鉄橋を渡る貨物列車、流れの真ん中に立つ流木かな?)

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半分くらいで埼玉、茨城の県境で下総の国(現在は常陸の国)へ入ります。

埼玉の県鳥はシラコバト、茨城はキジのようだ。

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15分ほど利根川橋を渡れば中田宿。

利根川北詰めで左手へ土手道を下って、右手へ北上して行く日光道中

江戸時代には橋は無く、南詰め付近から渡し船で割ったいたそうで「房川の渡し」

と言われていた。

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下って右手へ中田宿へ入ってゆきます。

曲がり向こう角に 「房川(ぼうせん)の渡し」と当初中田宿の江戸口にあり、

対岸の栗橋宿側に移転した、関所跡の説明板があったが、霞んでまったく判読不能

街道書には、

「舟渡しであった、将軍日光社参の際は五十一艘の舟を並べた船橋が架橋がされた。

房川(ぼうせん)の名の由来は、元栗橋に宝泉寺という法華寺があったことにより、

「坊前の渡し」と呼ばれ、のちに転訛し房川(ぼうせん)となった」と記されていた。

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橋の渡り詰めを左に入ると日光道中

少し先の交差点を渡ったか櫓の下に中田宿解説板が立っている。

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(なんとも解説文だらけのブログだね)

 後半へ続く、

歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 街道散歩(第六歩)後編

時刻は正午、お腹も空いたと食事処の多い国道4号へ向かい、

またも入ったのが麺の店,、で 後半へ。

の続き。

今日の麺は「鳥湯麵」さっぱりとしながら、鶏がらベースのスープが

これまた当たり!

お腹を満たし街道へ復帰。

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 街道書を見るとこの先200mくらいの内国府間(うちごうま)交差点で、

国道4号と県道65号(街道)が合流なので、このまま国道を先へ進み街道へ合流。

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国道(街道)の右手を進むと、道の左手側に内国府間八幡神社の社標石柱が

建っていた。

小路参道を入た奥、右手が境内で社殿がある様子。

街道書では、

明和元年(1492年)創建で内国府間村の鎮守で、内陣には騎乗の八幡大明神と

香取大明神座像を安置している。明治40年に天神社と明治42年神明社を合祀して

いる。

他資料に平成19年、不審火により全焼、再建されたとあった。

像も焼失なのかな?4号は交通も激しく横断できないため、見送りで先へ進みます。

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内国府間交差点から10分ほど行くと権現堂桜堤交差点で、

右が県営権現堂公園4号公園があり、中川沿いの堤が散策コースになっている。

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堤防上は約1kmにわたって、約1000本のソメイヨシノの桜並木が続き

菜の花と合間って関東でも有名な権現堂桜堤としての名所となっている。

桜の時期は人人人の大賑わいといわれてるが、桜が終わった後の紫陽花も良く知られており、4年ほど前に紫陽花で訪れたことがあり、デジブックアルバムにしていた。

(写真は表紙だけ)

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  桜の時期は来たことが無く、免許返納前に来たいと予定してたが、コロナでね・・・
幸手市権現堂説明文から要約すると、

現在堤東側を流れてるのは中川。、昔の権現堂川は暴れ川で、権現堂堤は江戸を洪水から

守るために、寛永十八年(1641)に築堤された。

昭和になって利根川水系の大規模改修工事によって、権現堂川は締め切られ権現堂堤は

役目を終えた。大正9年(1920)に地域住民が立ち上がり、由緒ある権現堂堤を保存するため桜を植樹し始めた。

残念ながら太平洋戦争中や戦後に薪として伐採されてしまったが、現在、私たちが見ているのは、昭和24年(1949) から再び植樹された二代目の桜です。 

 「桜の季節が終わってからも四季折々に咲く花を」という思いから、ボランティアの

方たちを中心に、あじさいの花が植えられ、今では100種16,000株に増え、

6月の権現堂桜堤を色づかせます。

最近は春は水仙、秋は彼岸花が川側の堰堤に植えられている。

NPO法人幸手権現堂桜堤保存会の会員が一生懸命植え大切に育てました。

9月~10月にかけ、権現堂桜堤が真っ赤に染まり、素敵な花ロードになる。

 

 駐車場のトイレによって、堤上を歩いてそのまま街道へ出ることにし、ぶらぶら散策。

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権現堂堤が街道と交差するところに「明治天皇権現堂堤御野立所」と刻まれた碑が

立っている。

権現堂堤は明治9年(1876)に、明治天皇が巡幸のさいに立ち寄ったことから、

御幸堤や行幸堤(みゆき)とも呼ばれ、川は中川、橋は「行幸橋」、明治10年建立で

題字は岩倉具視だそうです。

行幸橋」を渡ります。

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中川は埼玉県羽生に源を発し、埼玉県、東京都を流れ利根川水系一級河川

末流は古利根川に合流し、越谷市付近で新方川と元荒川を合わせ、葛飾区内で

新中川を分ける。海から約8 kmのところで綾瀬川を合わせ、以後は荒川と接しながら

並流し。葛西海浜公園葛西臨海公園)の西なぎさの突端で東京湾に達している。

国土交通省河川事務所資料より)

左手上流側

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右手下流側 写真右側、権現堂堤、左奥に締め切られた旧権現川が権現湖としてある。

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橋を渡りきると左手へ下り国道の堤下側道を行くのが旧街道。

橋が架かるまでは対岸の橋の袂付近から通ってきてたのかな。

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少し先の左手空き地にポツンと置かれてるのは?

よく見てみると、下は兎(卯)と龍(辰)で笠の上は子丑寅と、十支で合わせて

十ニ支が彫られた灯篭だった。 なんでかな~??といっていたら、

カミさんが、こっち側に石屋さんみたいのがあるよ、て。

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しばらく行くと上部に地蔵像が彫られた「筑波道追分道標」が置かれている。

安政4年(1775年)の建立で、道標には「左・日光道」「右・つくば道」

「東・かわつま前ばやし」と刻まれている。

「かわつま」は現在の茨城県五霞(ごか)村字川妻、「前ばやし」は茨城県総和町前林の事である。

幸手市教育委員会の説明版より)

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左手に田園広がる旧街道らしい道幅の道を行くと、

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おや、ポツンと建ってるレトロな商店は、現役の吉羽屋酒店だった。

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100mくらい先左手に、創建は不詳だが内国府間村の鎮守である「雷電社湯殿社」

があった。 平成13年に不審火で全焼し再建したそうだ。

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境内には馬頭観音青面金剛庚申塔如意輪観音崎像十九夜塔等が置かれている。

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一旦国道沿いへ上がるがすぐに土手下側道へと街道は続く。

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ここから先は、頭上から騒音が降りかかる国道4号線の土手下側道を進み、

幸手市久喜市の境である小さな円形のトンネルをくぐることになる。

抜けると外国府間集落から、この地を開拓した人名に因んだ小右衛門集落に入る。

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トンネルを抜けて小右衛門町(旧村)で、江戸時代は幕府領栗橋宿の助郷だったとか。

旧家らしい蔵を残した屋敷塀と国道土手に挟まれた道が続き。

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しばらく行くと左手に真光寺があり、街道書では、境内には青面金剛庚申塔

文政8年(1825年)建立の如意観音像、十九夜供養塔等が建っている、とあるが

わからなかった。

(後で調べると墓地の隅にあったようだ)

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その先隣に、一里塚の説明版が立っている。

江戸・日本橋から13番目(十三里目)の「小右衛門の一里塚」の西塚がある。

現在塚上には権現堂川から移設した弁財天堂があり、お堂は最近建て替えてたとある。 

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一里塚跡から200mほどの国道4号脇に標識が建ち、国道4号から左手の南栗橋駅への道のトンネルとなり、抜けると左への道で駅方面へ行ける。

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抜けて国道側道を5分ほど行くと、大きな門構や白い蔵が見えてくる。

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街道書には「旧家」とだけ記されてるが、がっちりとした屋敷門や二連の多大きな蔵を残してる屋敷であった。

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東北新幹線の高架をくぐり、約700mほど行くと、側道(街道)は国道と合流し

200mほどの小演芸場の手前から、再び左手へ国道を分けて下ってゆく。

(演芸場には再開との幟や看板、花輪などが飾られ、浅草〇〇・・とあった)。

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下った左手は川通神社で鳥居には「香取宮八幡宮」と刻まれている。

境内に文化十一年(1814)の建立の常夜灯があるそうだが、どこにあったのか?

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騒音の国道4号から離れ、静かな街道にほっとする。

この赤と薄黄の実はなにかな? 秋ナスの花がいっぱい咲いてる、まだ実のるのかな?

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十字路脇の電柱下に「→北広島地蔵 ←会津見送り地蔵」と記された木道標が建っていた。街道書では北広島地蔵は金剛院(廃寺)地蔵堂厨子に中に安置されていた、

とだけある。

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300mほど先で道は二股になりここにも木道標が建てられ、右手の民家の敷地内の

ようなところ赤い鳥居があり、「会津見送り稲荷」があった。

街道書によると、この稲荷神社は狐に乗る茶吉尼天を埼信とした稲荷社だで、

「江戸時代、会津藩主の参勤交代による江戸参向に先立ち、藩士が江戸へ書面を届けるためにこの街道を先遣隊として進んでいました。ところが、栗橋宿下河原まで来ると地水のために通行できず、街道がどこかさえも分からなくなってしまいました。大変困っているところへ突然、白髪の老人が現われ、道案内をしてくれたといいます。そのお陰で、藩士は無事に江戸へ着き、大事な役目をはたせたといいます」とある。

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5分ほど道なりに行くと、国道125号をトンネルで、抜けた道用水路脇に

会津見送り稲荷 焙烙地蔵」を指している木道標があった。

さらに50m程先の道角にも木道標があり(写真上)、

ここが栗橋宿の江戸口との説があるのようだ。

第7宿:栗橋宿には日光街道で7番目の宿場町。

江戸から14里14町(56.5km)・幸手宿から2里22町(10.3km)、

本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒、人口約1700人。 

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10m程先、右手にお堂があり焙烙焙烙地蔵が安置され、焙烙が沢山奉納され、

今年春に建てられたという説明板によると、

「関所破りが火炙りの刑に処せられた刑場跡、云々」とある。

宿外れの利根川の関所破りで捕まった人々が、火あぶりの刑に処され、村人が

その供養のために祀ったという。

線香の灰が「えぼ」に効くことから「えぼ地蔵」とも呼ばれるそうな。

焙烙地蔵は、中山道江戸府内にも「八百屋お七」にまつわる地蔵がありました。

あの地蔵は焙烙を被っていたね。

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100m程先右手が顕正寺

栗橋宿を開き、本陣職を務めた池田鴨之助の墓があるとのこと。

説明文では、開基は常陸の国(現・茨城県小美玉市)幡谷城の城主・幡谷次郎信勝で、

 信勝は亡妻を弔うため天台宗の僧となり光念寺を建立した。

下がって天正十八年(1590)戦国大名佐竹氏の急襲を受け幡谷城は落城、

光念寺も兵火により焼失してしまった。 

難を逃れ下総国中田(現・古河市中田)で幡谷山破邪院顕正寺を建てたが、

十六代善了のとき、栗橋町の開発者である池田鴨之介の招請により、

慶長十四年(1614)この地に移し法義を継承した、とある。

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 解説板(栗橋町教育委員会)によると、

 池田鴨之介(鴨之助)は、新編武蔵風土記稿によれば、並木五郎兵衛と共に、

幕府に願い出て、慶長年間(1596~1614)に、下総国栗橋村(元栗橋)より、村民を引き連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾しました。

 池田家は、代々栗橋宿の本陣役を務めました。

 子孫、鴨平は明治二十二年に私立淑徳女学館を設立し早くから女子教育に力を入れ、その子義郎は、旧栗橋町の第三代町長として町政のためにつくしました、とある。

     

向かいには浄土宗無量山帰命院浄信寺。

街道書には、

本尊は阿弥陀如来

墓地に梅澤太郎右衛門の墓がありる。徳川二代将軍秀忠が日光社参の際に、

暴風雨の中、太郎右衛門は増水した利根川に飛び込み舟橋を守りました、

この功により貞宗の名刀と軍扇を賜り名字帯刀が許され、名主に任じられた、

とあった。

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少し先で木道標の立つ角を左手へ入ると深廣寺

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境内には高さ3.5mの「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれてた、六角名号塔というのが

21基並んでいる。

説明板によると、

 この塔は、当山二代住職単信上人が伊豆大島より大石を船で持ち帰り、

承応三年~明暦二年(1654~1657)の間に千人供養塔を二十基建立、

その後明和三年(1766)に九代住職法信上人が三千人供養塔を一基建立した、

とあった。 

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境内一角には、石仏石塔古墓などが整然と集められ安置されていた。 

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軌道書では 築地塀と家門とだけ記されてるが・・・築地塀は京都などに多い塀だった。

隣には時代を感じる奥行きのある民家もあった。

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PM3:15、今日は先の栗橋駅入り口交差点で足止めとし、左折して栗橋駅へ。

(一説では、ここが宿江戸口ともいわれるそうだ)

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途中に真言宗、福寿院があった。

境内には入らなかったが、街道書では正保4年(1647年)創建で、

本尊は不動明王。墓地前に江戸末期に造立されたという福寿塩地蔵尊が安置され、

イボとり地蔵とも呼ばれる子育て地蔵といい、脇に栗橋七福神・福禄寿があった。

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JR宇都宮線で帰宅。

おや、マンホール蓋デザインに「鯉」が・・

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